2008年12月29日月曜日

『型破りの女たち』 シリーズ; その1

  
澤田美喜(1901-1980)

1901年9月19日、エリザベス・サンダース・ホームの「ママちゃま」こと岩崎(澤田) 美喜が生まれた。

外交官澤田廉三と結婚、パリなどで生活。終戦後の昭和23年2月1日、神奈川県大磯町にエリザベス・サンダース・ホームを設立する。これは占領軍の兵士と日本女性の間に生まれてから捨てられた子供たちを育てるための施設で、この施設から2000人ほどの子供たちが巣立った。

こういった子供たちの存在を政治家や官僚たちは米軍による日本占領の恥部と考え、アメリカ政府も日本政府この問題には敢えてふれたがらなかった。しかし澤田夫妻は立ち上がった。

澤田廉三氏は、戦後の日本の国連加盟に尽力した人である。子供たちは親に捨てられたということと、肌の色が違うということで世間から二重の不当な差別を受けていた。そのため彼らは、例えば、ホームのある大磯の海岸で海水浴を楽しむことさえもできず、廉三の故郷の鳥取県岩美町の海岸でやっと受け入れてもらえた。ここはホームの第二のふるさとで あり、澤田夫妻の墓もここにある。

「彼女はライオンのように困難に立ち向かい、ヒツジのように子供たちに接した」とは、ねむの木学園で子供達を救った宮城まり子さんの評である。

http://www.ffortune.net/social/people/nihon-today/sawada-miki.htm

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日米混血孤児たちの母: 『エリザベス・サンダース・ホーム』の澤田美喜

太平洋戦争で、無謀にも米国を相手に戦った日本は、予想通り敗戦し、1945年8月15日に無条件降伏をした。終戦後まもなく、ダグラス・マッカーサー元帥に率いられた米国の駐留軍が日本を占領しにやってきた。この占領軍は、旧日本軍事政権の追放、戦争に加担した旧財閥の解体、新しい(民主的な)憲法の草稿などにより、男女同権や天皇の象徴化を確立し、封建的であった日本社会の民主化に大いに貢献した。

 しかし、いくつかの弊害も残した。その1つが日本国内、特に東京・横浜周辺(立川、横須賀など)や沖縄全体に巨大な米軍基地を、半永久的に建設したことである。そして、その結果として、米軍将校や兵士たちと基地周辺に住む日本女性との間に、いわゆる混血児たちが生まれた。日米混血児の誕生そのものは、もちろん弊害ではないが、問題は、父親であるべき米軍将兵たちが、任務を終えて米国に帰国する際、自分の子供たる混血児を、日本に置き去りにしていったため、その大部分が「父なし子」にされたことである。いわば、プッチーニの歌劇『蝶々夫人』の戦後版である。

 さらに悪いことには、当時の日本社会には、人種偏見、差別意識がきわめて根強く、混血児を一人前の人間として扱う姿勢がほとんどなかったことである。「父なし」混血児を抱えこんだ貧しい日本人の母親たちの大部分には、自分独りで、その子供を、周囲の人種差別に抗して、育てていくだけの強い精神力も経済力もなかった。こうして、大部分の混血児たちは、自分の母親にも見捨てられ、「孤児」として路傍に捨てられ、あるいは路傍で乞食をする運命を辿った。これらの哀れな混血孤児たちをできるだけ多く救済せんと、大磯にある別荘を解放して、『エリザベス・サンダース・ホーム』という施設を設立し、これら孤児の養育、教育、職業訓練などのために後半生を捧げたユニークな女性が、澤田美喜女史である。

岩崎家の娘

 彼女の生い立ちも極めてユニークである。両親は、三菱財閥の3代目社長、岩崎久弥とその妻静子であった。つまり、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎(1834~1885)の直系の孫娘にあたる。岩崎美喜は、1901年9月19日に、第4子(長女)として、東京で生まれる。3人の息子のあとに生まれた最初の娘なので、特に祖母の喜瀬(1845ー1923)は、丸顔でみるからに丈夫そうな美喜の誕生を殊の外喜んだといわれている。「美喜」という名前は、久弥の叔父である岩崎弥之助(当時の岩崎家の長老)が、久弥の祖母である美和の「美」と母である喜瀬の「喜」とを合わせ、命名したものである。美喜は幼い頃から「男勝り」で、「女梅ヶ谷」という仇名をつけられた。梅ヶ谷は当時の有名な横綱で、美喜の命名式のときに、赤ん坊の彼女をダッコしてくれた関取である。美喜は、3人の兄と一緒に弓道や柔道を習った。ある日、3歳年上の従兄が美喜に柔道で挑戦してきた。ところが、何度挑戦しても、彼は「柔ちゃん」美喜の返り打ちにあって、とうとう一度も勝つことができなかったといわれている。子供の頃、美喜はいつも3人の兄からもらうお古の着物に甘んじていた。しかし、それも気にならなかった。兄貴たちから、「西郷どん」という仇名をもらって、美喜はご満悦だった。岩崎家の屋敷は、湯島天神の近くにあった。そこから坂を下って不忍池を横切り、上野の山(上野公園)に上ると、愛犬「ツン」を連れた明治維新の悲劇の英雄、西郷隆盛の銅像がある。ちなみに岩崎家は、元々四国高知の土佐藩の出身である。明治維新の際、鹿児島の薩摩藩出身の「西郷どん」と共に活躍した悲劇の英雄、坂本竜馬も、土佐藩の出身である。

 美喜は学齢期に達すると、自宅からそう遠くない、当時お茶の水にあった私立の東京女子高等師範学校 (現在大塚にある国立のお茶の水女子大学の前身)付属の幼稚園に通い始めた。いつも女中に引率されて、2人乗りの人力車で通学した。美喜は自分の屋敷内でテニスや自転車を楽しむことができた。しかし、屋敷は高い塀に囲まれ、隣や近所に住んでいる同年配の子供たちと親しい会話を交すことができなかった。そこである日、美喜はどこからか長い梯子を見つけ出し、高い塀を乗り越えようとしたが、とうとう見つかって、引き戻され、お仕置きを受けた。その出来事を、あとで級友に話したところ、それから1ヵ月たって、それに同情した級友の兄が、ある少女雑誌に投稿した『岩崎家の娘は、小さな安アパートの生活を夢みている』というタイトルの記事が掲載された。驚いたのは、岩崎家の両親であった。

まず美喜は3日間、屋敷の奥の間に缶詰状態にされ、その間、この強情な娘を今後どう処置すべきかについて真剣に議論するため、岩崎家全体の御膳会議が延々もたれた。「通学を禁止して、高知県の田舎にある実家へ送り返すべきだ」という極論まで飛び出したが、結局結論が出ずじまいで、通学が許され、平常な生活に戻った。

聖書との出会い

 あるとき、家族中に百日咳が蔓延したことがあった。兄妹の中で最後にこの伝染病に患ったのは美喜だった。早速、美喜は療養のため、大磯にある別邸に看護婦と共に送られた。ある晩、美喜が床でウトウトしていると、病人がもう眠ってしまったと勘違いした看護婦が、1冊の本をハッキリした声で朗読し始めた。美喜には、まだ全体の意味は良くつかめなかったが、「汝の隣人を愛せよ」という言葉に、強い印象を受けた。次の晩、美喜は早くから狸寝入りして、看護婦がまた朗読し始めるのを今か今かとじっと目をつぶって待っていたが、あいにくその晩は疲れていたためか、その看護婦は朗読をしないまま、すぐ床に入ってしまった。そして3日目の晩がやってきた。美喜がまた狸寝入りを始めると、まもなく看護婦が2人の息子を持つある父親の話を朗読し始めた。息子の1人は勤勉で頼りになる人物だったが、もう1人は、ろくでなしの息子で、家出したあげく持ち金を全部使い果たしてしまう。最後にその放蕩息子が家に舞戻ってくると、その父親は、その息子に駆け寄って、無事に帰宅したのを心から歓迎し、息子の過去の親不孝を全て許してやる。

 美喜は、大磯で療養中、母から送られた2冊の本を読んでいた。その1冊は石童丸という若い侍の話である。彼の父親 (加藤なにがし) は、ある日、生と死の大問題を解くため、妻子を捨てて、坊主になり、祈祷と冥想の世界に引き篭もってしまう。ところが、その妻が重病にかかり、息子 (石童丸) はその父親を探しに旅立つ。種々の困難を克服して、息子は出家した父親を、とうとう山奥の洞穴で見つける。「私の母が死にかかっています!」と告げる。しかし、父親はそれに動じることなく、「我に妻なし、息子なし」と答えて、念仏を唱え続ける。石童丸が家に戻ると、母親は既に息を引き取ったあとだった。もう1冊の本は、日本の「仇討ち」話である。ある侍が、騙しうちにあって殺される。残された妻は、「夫の仇討ち」をひたすら願いながら、独り息子を育て上げる。母から、ありとあらゆる武道を学び、厳しい修行を受けた後、息子は立派な成人になる。そして。父を殺した敵(下手人)を探し始める。最後に2人は海岸の絶壁で、果たし合いを演じる。長い戦いは、息子が相手をついに倒し、敵が海中に落下する瞬間に終る。

 美喜は子供ながらに、この2つの日本の話、つまり「現世を否定する」仏教徒や厳しい「仇討の掟」に従う侍の人生と、放蕩息子を許す優しい父親の生き方を比べてみた。美喜は、看護婦に「なんという本を読んでいるのですか?」と尋ねた。虚をつかれた看護婦は、美喜を何とか避けようと試みた。だが、美喜のしつこさに、とうとう根負けして、その本が、実はキリスト教の新訳聖書であることを告白した。岩崎家の人々が真言宗の仏教徒であることを知っていた看護婦は、もし美喜が祖母に、「放蕩息子」の話をすれば、自分が直ぐ解雇されることを恐れていたのだ。こうして、美喜は、この世には真言宗以外の宗教があること、そして武士道以外の生き方があることを初めて学ぶ機会を得た。

 全快した美喜は、東京の自宅に戻リ、お茶の水の学校に通学し始める。同級生の中に、クリスチャンが1人いることを、間もなく彼女は発見する。美喜は、大事にしていた手提げバッグと交換に聖書を1冊、その友達から手に入れた。しかし、祖母がそれを目敏く見つけて、とうとう没収してしまった。美喜は諦めなかった。また別の宝物と交換して、聖書をもう1冊手に入れた。だがそれも束の間、直ぐ祖母にみつけられてしまった。今度は聖書を焼かれてしまった。美喜の兄弟の中にひとり「野球気違い」がいた。野球にホケている内に、学校の成績が下落してしまった。その罰に、彼が大事にしていたボールやグラブやバットも全部取り上げられ、美喜の聖書2冊と一緒に、火の中に投げ込まれた。2人の幼い子供は、カマドの前で、悔し涙をボロボロ流しながら、燃えていく本や野球の道具をじっと見つめていた。

 昔気質の祖母(喜瀬)は、美喜がキリスト教に関心を抱くことに、ひどくショックを感じ、美喜にこう詰問した。
「おまえがクリスチャンになったら、誰がご先祖さんのお墓をお守りするの?」
美喜には、適切な答えが浮かばなかった。美喜は祖母が好きだったので、キリスト教のことをスッカリ忘れようとした。しかしながら、彼女の頭にもたげてくるキリスト教という新しい思想への好奇心を完全に抑えることはできなかった。

 美喜の誕生日が近ずくと、父親が美喜に、「誕生日祝いに、何が欲しいかね」と訊いてみた。美喜は即座に、「教会の礼拝に一度行ってみたい」と答えた。父親は高校時代を米国のフィラデルフィアで過ごし、かつペンシルバニア大学の卒業生である。そして当時、アメリカのクエーカー教徒の家に間借りしていたことがある。だから、美喜の頼みをきいてやり、自分の母親(喜瀬)を説得して、赤坂の米国大使館の近所にある東京都募金会「霊南坂教会 」の礼拝に、美喜が参加できるように手配した。2人の女中が美喜の付き添いになって、教会に出かけた。木崎ひろみち牧師は、その朝の礼拝の朗読に、「汝の隣人を愛せよ」という聖書の一節を選んだ。礼拝の終りの祝祷が始まる前に女中たちは、そそくさと美喜を家へ連れ戻した。

 美喜は父親に、祖母が心配しないようにキリスト教に関する話題に一切ふれないようにすることを約束した。もっとも、少し賢くなった美喜は、こっそり聖書をまた手に入れた上、今度は見つからないように、安全な場所に用心深く隠した。聖書の入手先が、どうやら美喜の通学先(お茶の水の学校)であることを察した祖母は、とうとう美喜の通学を禁止して、家庭教師を雇って自宅教育を始めることにした。

こういういきさつで、英語の家庭教師として雇われたのが、津田梅子女史(1864~1929)であった。女史は、1871年に、日本女性として初めて米国に留学し、名門女子大の1つ「ブリン・モーア校」を卒業した。11年間の渡米生活を終え帰国後、1900年には、津田英語塾(現在の津田女子大学の前身)を創立し、日本女性のための西欧由来の近代教育に貢献した。英語をマスターすることは、美喜が念願していた海外へ行くチャンスをつかむには、必須条件であった。
母親は美喜の夢をかなえてやるために、色々な形で励まし、美喜を外務省に勤める外交官の嫁にする準備を秘かに進めた。

三菱財閥を創始した祖父「弥太郎」

 岩崎弥太郎が侍の長子として生まれたのは、1834年、もう幕末にかなり近い頃であった。当時の日本の支配者である徳川幕府は、まだ鎖国を続けており、外国との貿易は、長崎の出島でオランダ商人との取り引きに限っていた。しかしながら、
1853年になって、米国が総督ペリーの率いる黒船艦隊を日本の沖合いに停泊させ武力で威嚇しながら、日本の開国を要求し始めた。翌年、幕府は渋々米国と和平通商条約に調印した。ところが、幕府の政策に不満を抱き、天皇制を復活し、外国人たちを排斥しようと主張する、いわゆる「尊王攘夷」のグループが、外様大名である長州(山口県)、薩摩(鹿児島県)、土佐(高知県)を中心にして、幕府を打倒する運動を始めた。結局、徳川幕府を守る佐幕派と天皇制の復活をめざす尊王派との間に内戦が勃発し、1868年に佐幕派が敗北して、江戸時代はついに終り、明治天皇を冠する明治政府が誕生する。この戦争(明治維新)の前後に、弥太郎は土佐藩の庇護の下、商船を駆使するビジネスを開始する。そして、1870頃に「三菱商会」(戦前の三菱財閥の前身)を創立する。1875年には、三菱商船学校(現在の東京商船大学の前身)を開校する。1880年には、保険会社「三菱海上火災」を創立する。船舶輸送や造船業におけるこのような三菱財閥による独占に抵抗して、ライバルである渋沢栄一らが、明治政府関係者と結託して、弥太郎の進出を杭止めようと、猛烈な反撃に出てきた、しかし結局、1884年に弥太郎がライバルの会社の株を秘かに買い占め、買収の結果、日本郵船船舶を創設する。何ぴとにも止められそうにもない弥太郎の驀進は、しかしながら、1885年2月の彼の急死によって、一応終止符を打たれた。

 若年50歳の弥太郎の死後、弟の岩崎弥之助(1851~1908)が三菱財閥の2代目の社長に就任し、その伝統を継いだ。1890年に弥之助は、皇居の濠端にある沼地を買収し、現在の日本の金融センターである「丸ノ内」の基礎を築く。1893年に、弥之助は社長の座を弥太郎の長男、岩崎久弥(1865~1955)に譲り、三菱財閥の経営からは、一応手を引くが、1896年には、日銀の総裁に就任して、金融界で再び活躍し始める。3代目の久弥(美喜の父親)は、米国で高校・大学教育を受けたというユニークな経験を生かして、国際的なビジョンで、三菱の経営をさらに進めた。久弥は、常に慈善事業に深い関心を示し、2つの日本庭園、駒込にある六義園と深川にある清澄公園、を東京都に寄付する。さらに六義園の近くに、東洋の文化財を保存する「東洋文庫」という図書館も設立する。この久弥の長年にわたる慈善精神が、後年の美喜自身のソーシアル・ワークに深く結び付いていると思われる。久弥は1916年に、社長の座を従弟(弥之助の息子)である岩崎小弥太(1879~1945)に譲る。4代目の小弥太も同様、欧米帰りで、英国のケンブリッジ大学卒である。彼の下30年近くの間に、「三菱」は、ライバル「三井」と共に、石炭や鉄鉱を基礎にする重工業に進出し、巨大な財閥に成長していく。しかし、日本の明治維新以後に開始した「富国強兵」政策は、とうとう、海外の石炭、鉄鉱、石油資源などを確保するために、中国大陸や東南アジアを、一方的に武力で侵略するという大きな過ちを犯すことになる。最後に、無謀にも大国のアメリカを相手に戦争を始めた日本は、結局敗戦し、太平洋戦争に深く加担した三菱・三井・住友などの大財閥は全部、終戦後まもなく、米国占領軍のGHQによって、徹底的に解体される。こうして、4代、75年間続いた三菱財閥は、1945年をもって解散の運命をたどる。

美喜の結婚

 さて、岩崎久弥が三菱の社長を引退してから数年後、1922年の夏に意外な事件が、その「お転婆娘」美喜の周辺に起こった。成人した美喜の従姉妹たちは全員、既に結婚していた。長女の美喜には、2人の妹(次女のすみ子と末っ子の綾子)がいた。そして、3人共、当時の娘たちの「結婚適齢期」を迎えていた。ところが、岩崎家には、年令の順に嫁ぐという古い伝統があったので、妹2人は、姉の美喜を出し抜いて、先に結婚するわけにはいかなかった。こうして、美喜に見合いのプレッシャーが次第に強くかかってきた。それまで数年間、美喜は親類の男たちとの見合いの話があるたびに、色々手を変え品を変え、それを撃退してきた。そこで、両親は親類との結婚プランをすっかり諦めて、ある若い外交官との見合いを秘かに仕組んだ。美喜の叔母にあたる加藤夫人や幣原夫人は、有名な外交官の妻であった。

そこで、この叔母たちの協力を得て、岩崎家は一計を案じた。ある日曜日の朝、母の静子が美喜にこう言った。
「岡部さんから、今朝電話があって、今日午後、お茶の会にきてもらって、美喜にお客さんの接待をお願いしますって。どう、やってくれる? もしかしたら、海外からの客や外務省の人達もくるかもしれないので、きちっとした服装でお願いしますよ」
それを聞いた美喜は、従姉妹の岡部さんが、美喜のために、ある外交官をまた紹介するつもりなんだな、と察知した。赤坂にある岡部家に美喜が着くと、外国人の客も外務省からの客も誰一人いなかった。大部屋には、叔母たちと従姉妹たち一同が集まっていた。美喜が部屋に入るや、ほとんど大部分が部屋からゾロゾロ出ていって、部屋に残ったのは、美喜と叔母の加藤夫人だけになった。叔母はこう切り出した。
「美喜さん、あなたをちょっと騙したようで悪いんだけど、今日はあなたのお婿さんに相応しい人を紹介したいの。親戚の人ではありません。あなたはお嫌いでしょうから。だから、ご安心下さい。彼は外国勤めの人なんですよ。あなたは海外生活に憧れていたでしょう?」
美喜は、マンマと罠にかかったと思った。だが、その若い男性に会うことには同意することに決めた。美喜が見合いを渋々ながら承諾したのを知って、一同部屋へゾロゾロ戻ってきて、見合い相手の到着を、今か今かと待ちわびた。約束の時間は、午後3時だった。しかし、定刻をとうに過ぎても、彼は姿を現さなかった。家族はヤキモキしながら、座ったまま、さらに客の到着をずっと待ち続けた。最後に1時間ほど遅れて、岡部家の玄関先で、来客を知らせる呼び鈴が鳴った。一同固唾を飲みながら、来客の現われるのを待った。問題の見合い相手は、澤田廉三だった。彼は遅刻の言い訳をしながら、こう謝った。
 
「実は、今日パリから帰宅しました。フランスでは、午後4時半頃にお茶を飲むのが習慣になっておりまして、誠にうっかりして、日本の習慣である(早めの)午後3時のお茶会に、遅れまして大変失礼しました」
廉三は、フランス服に、グレーの手袋、細めのステッキというイキな出で立ちで、ご婦人連の前に現れた。お茶を楽しみながら、廉三は、フランスでの体験、彼が観たオペラや観劇、そしてパリでの観光について、喋りまくった。その場に居合わせた者は皆、彼の話に熱心に聞き入っていたが、最大の関心事は、やはり美喜の示す反応であった。彼女が、今度はどんな手で見合いをオジャンにするかと、皆がヒヤヒヤしていた。ところが、何も厄介なハプニングは、とうとう最後まで起こらずじまいだった。廉三が帰宅の途についたとき、一同からホット溜息が洩れた。美喜がベランダにふっと立つと、それを待ちうけていたかのように、ふいに物置の後ろから2匹の飼犬と2羽の孔雀が庭へ飛び出した。それをみながら、美喜は祖父弥太郎の母、よしむら、に関する滑稽な逸話を思い出して、思わずふきだした(注を参照)。

 ところが、お茶会が終わっても、美喜には何の伝言や連絡も届かなかった。そして、その後2、3日、不気味な沈黙が美喜の周辺に漂よい続けた。3日目になって、美喜は父親から、彼の書斎に来るように言われた。父親はこう切り出した。
「美喜、今回の縁談はきわめて良い話だ。そこで、わしは決心したよ」
「誰の縁談のことですか?」
「まあ、黙って聞きなさい。結婚後、おまえは海外で暮らせる。そして、おまえはクリスチャンにもなれる。おまえは知らんだろうが、澤田家は、実にクリスチャン出身なんだよ」
「この縁組には、岩崎家一同が大賛成なんだ。それにね、女というものは、周囲の人々に祝福されて結婚すべきものなんだよ。そして、相手方がまだ結婚を望んでいる内にするもんだ。わかるかね?」
父親の説得が功を奏して、美喜はついに婚約する決心をした。

 美喜と廉三の結婚式は、1922年7月1日に、お茶の水にある明治学院大学のチャペルで、メソジスト教会の小林彦五郎牧師から神聖な祝福を受けながら、めでたく挙行された。廉三の生まれ故郷は、日本海に面した鳥取県の岩美にあった。新婚夫婦は、澤田家の祖先の墓参りにやってきたとき、美喜は岩美海岸の真っ白な砂浜や緑の松原や青い海に浮かぶ無数大小の島々がかもしだす美しいパノラマに、すっかり魅了され、後にそこに土地を買い、夏の別荘を建てることになる。廉三は
日本の外交に新風を吹き込もうという夢を抱く若い理想主義者たちのグループ (緑風会) に属していた。そのグループのリーダーは、第一次世界大戦直後のベルサイユ講和会議で活躍した経験のある若い外交官、重光 葵(まもる)であった(彼は、第二次世界大戦後、戦犯としてしばらく服役した後、吉田茂内閣の外相を1954~1956年に勤めることになる)。この会議で、今後の国際平和維持のために、「国際連盟」の設立などを提唱した米国大統領ウッドロー・ウイルソンが与えた緑風会の若い外交官たちへの影響力は多大だった(太平洋戦争終了後、廉三が「国際連合」で日本を代表して活躍し始める下地は、ここにあった)。

 廉三は、東京の外務省で短期の仕事を終えたのち、アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスの大使館勤務を命ぜられた。美喜にとって初めての海外旅行へのチャンスが訪れたわけだ。しかしながら、事態はかなり微妙だった。というのは、美喜が既に妊娠3ヵ月であったからだ。母の静子は、祖母の喜瀬が余計な心配をさせまいと、美喜の妊娠について、喜瀬には知らせずにおいた。1922年12月、美喜と廉三は、両家族に見送られて、横浜港から出帆した。美喜は甲板から、桟橋で手を振り続ける喜瀬の姿が、次第に米粒ほど小さくなっていくのを、いつまでも見つめていた(美喜にとっては、結局それが祖母との最後の別れとなった。翌年、喜瀬が78歳でこの世を去った)。美喜は航海中、喜瀬から餞別にもらった (梅干しを包み込んだ) 家伝の腹巻きをしていたお蔭で、ほとんど船酔いをしなかったと伝えられている。太平洋の荒波を渡って9日目に、カナダの西海岸バンクーバーに船がようやく到着した。真冬のカナダの深い積雪と、大空に向けて高くそびえるカナダ杉の森林は、美喜の脳裡に、雄大な北アメリカ大陸の強烈な第一印象を刻み込んだ。

 澤田夫妻は、さらに汽車でアメリカ大陸を横断し、シアトル、シカゴ経由でニューヨークに到着した。ここでは岩崎家の友人たちから大歓迎を受けたが、不愉快な経験もした。それは、(米国の白人たちによる)東洋人移民たちに対する人種差別であった。日本住民の多くがニューヨーク市内のアパートから締め出され、ある特定の区域にしか住めなかった。当時のアメリカ国内には、中国人や日本人移民に対する偏見感情が蔓延し、それは結局1924年に、「排日移民法」の制定というきわめて露骨な形で具体化し、日本からの移民を完全に禁止し始めた。

 ニューヨークから、また船旅を続けて、夫妻は美しいブエノス・アイレスの町に到着した。夫妻は、ここで2年間滞在することになる。公使が日本へ帰国中は、廉三が公使代理を務める栄誉を受けた。当時のアルゼンチン大統領は、マルセロ・デ・アルヴェアは、裕福な地主出身の魅力的な自由主義の政治家であった。彼の妻はウイーン出身のオペラ歌手であった。そのために彼女は当初、アルゼンチンの女性社交界から歓迎されなかったので、職業としてのオペラ歌手をとうとう断念せざるを得なかった。その結果、アルヴェア政府は、ごく安定した平穏な6年間を楽しむことができた。澤田夫妻は大統領官邸の近くに住まいを見つけた。そして、劇場が好きな美喜は、この大統領夫人と大変親しくなった。

 1923年7月8日、澤田家に長男の信一が誕生した。病院に入院中、美喜は母からの忠告を思い出した。「地元の住民たちの言葉を、できるだけマスターしなさい」。そこで、彼女は、病院内で交わされる会話を耳学問でピックアップしながら、
スペイン語を憶え始めた。しかしながら、これら医学関係の術語は、社交界では余り役に立たなかった。そこで、美喜は退院後すぐ、スペイン語の会話のレッスンを受けるようになった。しかし、廉三は「スペイン語など勉強すると、肝心なフランス語が駄目になるから、お断りだ」といって、レッスンには参加しようとしなかった。外交官の間では戦前、フランス語が公用語になっていたからだ。こうして、日常、家事や買物などの会話には、美喜がいつも通訳を務めた。あるとき、美喜は女中を解雇せねばならなかった。美喜は辞書を片手に、その仕事を見事にやってのけた。その間、廉三といえば、トイレの中でただ小さくなっていただけだった。

 アルゼンチンにおける彼らの2年間は、あっという間に過ぎてしまった。美喜は積極的に地元の社交界に参加し、馬術、ゴルフ、テニスなどを楽しんだり、タンゴを教わったりした。美喜が再び妊娠した頃、廉三が北京勤務を命ぜられた。やがて夫妻は船に乗り、ヨーロッパ経由で、まず日本に帰国し、美喜は1924年8月25日に次男の久雄を産んだ。廉三はそのまま北京に単身赴任し、美喜は後で中国に渡った。しかし、1920年代の中国は、内戦で騒然としていた。清王朝が1912年の辛亥革命で滅亡したのち、いわゆる「三民主義」(民族主義・民権主義・民生主義)を唱える孫文(1866~1925)が率いる中華民国が成立したが、国民党による新しい政府は、残念ながら中国大陸全体を平和に統一することができなかった。国民党と共産党とさらに地方を牛耳る軍閥との間で繰り返し戦闘が各地で勃発し続けた。それに乗じて、日本政府が中国大陸に手を伸ばし、まず満州に傀儡政権を成立させた。澤田夫妻の三男である「あきら」が北京で生まれたのは、1925年9月、内戦の最中であった。孫文が同年に死亡してまもなく、共産党と真っ向から敵対する蒋介石が国民党政府の権力を握ると、内戦はさらに激しくなった。1927年の春に「南京事件」という戦闘が勃発して、当時、南京に住んでいたパール・バック女史(戦後、美喜の親友の一人になる米国人宣教師の娘)が、とうとう戦渦を逃れて家族とともに日本海を渡り、九州の雲仙山麓に半年ほど疎開生活せざるをえなくなったのは、このころであった(詳しくは、第4章を参照)。廉三が再び外務省勤務のため、日本に帰国したころ(1928年4月)、澤田夫妻に末っ子、長女の「えみこ」が誕生した。


黒い肌に白い心

 1931年に満州事変がついに勃発、廉三の先輩である重光 葵(1887~1957)が中国駐在大使として、大陸に赴任したころ、片や後輩の廉三は英国のロンドン駐在を命ぜられた。美喜にとっては、再び憧れの海外生活を楽しめるチャンスが到来したわけである。しかし、今回の場合は、英国滞在中に、彼女の後半生を大きく左右するような、ユニークな体験が美喜を待ち構えていた。

 神戸からの船旅中に親しくなったある英国婦人の紹介で、美喜はロンドンに到着してから3日後に、彼女の4人の子供たちに英語やしつけを教える家庭教師を迎えた。彼女の名は、ドロシー・ラルフ嬢。以後10年近く、忌まわしい太平洋戦争が始まるまで、ドロシーは澤田家の親しい友人として、どこへでも一緒にお供するようになった。美喜はロンドン社交界で、様々な文化活動、特に絵画と演劇に多くの時間を過ごした。まずセント・ジョン美術アカデミーに入学し、油絵を習い始めた。
さらに有名な女優エレン・テリーの姪にあたるマニュエル・テリーが指導する演劇クラスで授業を受けるようになった。大劇作家シェークスピアの作品に関する一連の講義を聞いたのち、彼女は彼の名作の一つである演劇『マクベス』に出演して、ヒロインであるマクベス夫人(悲劇のヒーローである黒人将軍マクベスの妻)役を演じ、衣装や舞台装置なども自らデザインした。また、サーヴォイ・オペラ劇場の慈善ショウーと一つである、詩人の駒井権之助が企画した『天の岩戸』にも出演した。日本古代の天皇家の祖先といわれている伝説的な天照大御神という女神の物語である。

 英国という国柄、英国の人々、そして彼らの生き方は、美喜に多大な影響を与えた。毎日曜日、ドロシーは澤田家の4人の子供たちを、英国国教会の礼拝に連れていった。ところが、メソジスト派のクリスチャンである美喜は、別の教会へ、そして、廉三はゴルフにでかけた。ある日のことだった。美喜は、ガソリン代がかさむのに苦慮して、何か節約できる名案はないかと、おかかえの車の運転手に相談した。
「奥さん、この世に神様はたった一人しかいません。そして、その名が誰であろうと、同じ聖書を使って説教をします。だから、お子さんたちと一緒に教会に行ったらどうでしょう?」
なるほど一理ある、と思った美喜は、彼の素朴な忠告に従った。後年親しくなったカンタベリーの大司教に、美喜は冗談混じりにこう打ち明けたことがある。
「私がメソジスト派から国教派に改宗した最大の理由は、お恥しい話ですが、実はガソリン代の節約のためだったのですよ」
ある日曜の朝、礼拝のあと、教会の牧師が美喜にある女性の信者を紹介してくれた。
その女性は、美喜にドライブを誘ってきた。
「ご主人が例によってゴルフ気違いだから、あなたは、哀れなゴルフ未亡人ですね。私と一緒にドライブしながら、英国の自然の美しさを満喫しませんか?」

その婦人は、粗末な服装をしていたが、その自家用車は、なんと大型の黒塗りのダイムラー。そして、正装の運転手以外に給仕まで随えていた。車は、ロンドン郊外のカエデの並木道を3時間ほど走り続け、木々が生い茂った中世時代の城や白鳥たちがスイスイ泳ぐ湖の脇を通り過ぎて、よっと目的地に着いた。石造りの門の向うに、大きな建物と多くの小さな小屋が見えた。婦人は美喜に、「これは孤児院です」と告げた。美喜には信じられなかった。「孤児院」という言葉が連想させる、あの暗い希望のないイメージは、目の前の建物にはなかった。美喜には、それは「希望の家」であり、「喜びの庭園」のごとく見えた。子供たちは皆陽気で幸福そうだった。そして、清潔できちっとした服装をしていた。美喜は、しばし自分の目を疑った。チャールズ・ディッケンズの小説によく登場する典型的なあの汚く惨めな孤児たち、オリバーやデビッド・カッパーフィールドは、どこにも見当たらなかった。キャンパスのど真ん中に礼拝堂があった。そこから歌声が流れてくるのを、美喜は聞いた。それは、バーナルド博士のホーム(子供福祉センター網)の一つであった。

 創始者ジョン・バーナルド(1845~1905)は、ダブリン生まれ。父親はスペイン系の毛皮商人、母は英国女性であった。1862年にプロテンスタント(新教)の復興運動が盛んになり、彼は17歳で、カトリックから新教に改宗して牧師になった。4年後に、ジョンはロンドンに移り、ロンドン病院で伝道医師の訓練を受け、中国大陸に渡るつもりでいた。ところが、彼がまだ医学部の学生のころ、授業料免除の貧民学校で、ボランチアとして教鞭をとるという体験を得た。その学校はロンドンのホームレス少年たちの教育のために設立されたものであった。前年に市内中を襲ったコレラ伝染のため、ロンドンの街に多数の孤児たちが溢れ出た。若いバーナルドは、身寄りのない浮浪児たちが屋上や路地で寝起きをしているのをみて、ただ亜然とした。彼は辻伝道を通じて、この悲惨な状況を市民たちに訴えたところ、たちまち彼のもとに、寄付金や援助の手が差し伸べられた。2、3年後には、ステパニー・コーズウエイに浮浪少年たちのための最初の施設を設立し、まもなくバーキングサイドに浮浪少女のための施設も付設した。彼の社会福祉活動は、やがてシャフテスバリー伯爵や多くの著名人たちの注目を集める結果となり、彼らの援助により、最終的にはロンドン市内に112ヶ所ものホームを確立した。1899年には、これらのホームは「貧民や宿なし児童の矯正協会」の傘下に入れられた。

 教育者としてまた児童心理学者として、バーナルド博士は児童社会学の分野で多大の貢献をなした。2歳以下の幼児は施設ではうまく育たないことに気づき、これらの幼児たちを注意深く選択した里親のもとにやった。博士は、さらに障害を持つ子供と正常な子供を区別せず一緒に養育、教育することを実践した。なぜならば、そうすることによって、障害の有無にかかわらず両者とも、将来立派な社会人として成長していくという最大の恩恵を受けることになるからであるという強い信念を、彼が抱いていたからである。また彼は、両親により子供が虐待されるケースを議会の上院で訴え、未成年者の基本的人権を守る法の制定のためにも、中心的な役割を果たした。そのおかげで、最初の児童保護法案が英国議会を通過した。

 バーナルド博士は死後、バーキングサイドにあるホームの教会に埋葬された。福音的使命を抱き、ダイナミックなパーソナリテイをもち、行政的手腕を備えた、この人物は、英国の6万人ものホームレス児童の救済と教育を果たした。彼らのほとんど大部分は、善良かつ自身にプライドを持つ市民に成長した。「スラム街の子供でも、小さいうちにその惨めな環境から救ってやり、かつ十分に長期にわたって教育や訓練を施せば、親からの遺伝素質は最小限度に留まり、環境がほとんど全てを決定する」という博士の自論の正しさを、彼らひとりひとりが身をもって実証している。

 美喜が、小学生、中学生、高校生、職業教育などのクラスの授業を参観したのち、ホームの校長は彼女にこう語った。
「人々から一旦見放された子供を、社会全体が欲するような人間に育て上げるということは、実にすばらしい(そして大変に骨の折れる)仕事です。魔法使いだけができるトリックでしょう」
深く感銘した美喜は、週に一度そのホームでボランチアを務める決心をした。そして、その仕事にとても満足感を味わった。彼女はその経験談をこう記している。
「私は今までずっと、他人から与えられる幸福感によって生きてきた。しかし、たった今、私は、他人から常にもらうよりも、自分が何かを他人に与えることによって得る幸福感のほうが、ずっとすばらしいことに気づいた」

 ロンドンでの滞在は3年足らずで終り、澤田家は、廉三の勤務先がパリに移るに伴い、ドーバー海峡を渡って、フランスに引っ越した。美喜は、日本使節代表代理としての夫の職務に必要な全ての社交活動をこなした。そして、女性用の香水で富を築いたコチー家やダイナマイトと戦争で富を築いたノーベル家との懇意を楽しんだ。彼らの豪邸はすばらしかったし、彼らの暮らしぶりは華麗であったが、美喜は時々、彼らは本当に幸せなのだろうか、という疑問を感じた。
「彼らの豊かな知性、文化活動、社会における著名度を、私は称讃しますが、しかし、両家とも、あまりにも巨大な財産を肩に担っているために、心の平和を欠いているように、私には思えます。というのは、彼らは始終、いかにしてその富を維持あるいは増やそうかと思案してばかりいるようにみえるからです」

 美喜はパリで再び絵の勉強を始めた。今度は、美術界に一大革命をもたらした印象派の画家マリー・ローレンチン(1885~1956)の指導を受けた。マリーは、若い美しい女性たちをピンクと白の組み合わせで描くことによって、彼女独特の装飾的な女性らしい画風を創り出した。シャン・デマーにある彼女のアパートを訪れると、彼女の変人ぶりの一端を見ることができる。彼女の書斎にある本は、自分の好きな色のパステル・カバーで分類されている。例えば、歴史書は淡いブルー、人類学ものはピンク、伝記書はグレー、総説ものはレモンの黄色、旅行書はラベンダー。マリーは風変わりな教師だったが、美喜は油絵に上達し、サロン・デュ・ツアレリーやサロン・ダトンなどの展覧会に自分の作品を出品した。

ジョセフィン・ベーカー

 パリで見つけた友人たちの中で、美喜に最も多大な影響を与えた人物は、アメリカ生まれの黒人芸人ジョセフィン・ベーカー(1906~1975)であった。 ジョセフィンは、セントルイスで、スペイン人の父親と黒人の母親の間に生まれた。
13歳で初舞台に立った。1922年にブロードウエイのショー『シャフル・アロング』にデビュー、1924年には『チョコレート・ダンディー』でスターになった。1925年にはパリに移り、シャンゼリゼー劇場のステージで、『レビュー・ニグロ』(レビューとは、時事風刺のコメディー)に出演、一大センセーションを巻き起こし、パリ中の観衆から喝采を浴びた。雑誌「ニューヨーカー」のパリ特派員ジャネット・フラナーは、初日の夜の公演をこう批評している。
「ベーカー嬢は、いきなり舞台にほとんどヌード(股間にピンク色のフラミンゴの羽根を付けただけ)で登場した。彼女は黒人の大男の肩の上で逆立ちになり、股を広げて、いわゆる「バナナ・スプリット」を演じた。彼は舞台の中央にきて静止し、
長い指で彼女の腰をバスケット型に包み、彼女の体を左右にスイングしながら、彼の堪えがたき重荷のごとく、舞台の床の上に投げ捨てた。その瞬間、彼女は音もなくすっくと床に直立した。彼女は一躍、忘れがたき黒檀作りの女性シンボルとなった。満場の観衆が熱狂的な拍手喝采を送った。こうして、全ヨーロッパの快楽主義の首都であるパリで、黒人の美しさが、特に白人男性観衆の間で、実証された」

 ジョセフィンの魅力は、そのキャラメル色の肉体、美しい歌声、すばらしい舞台演技だけに留まらなかった。彼女は劇場の誰とも親しくなり、さらに全ての労働者の家族に奉仕し、病人たちや悩める人々を花束、ケーキ、お菓子などのプレゼントで見舞った。彼女はしばしば夜遅く、オープンカーでスラム街を訪れ、子供たちにキャンディーを配って回った。美喜は、ジョセフィンと同行して、パリの貧しい人々がジョセフィン嬢に対して感じている深い愛情をみてとった。ある日のこと、2人は、ある貧困に苦しんでいる家庭を訪れた。4人の子供がその祖父と祖母によって養われていた。ジョセフィンは、5カラットのダイヤモンドの指輪を自分の指からはずし、その祖母に与えながら、こう言った。
「お婆さん、これで、あなたの子供たちのために食べ物を買ってやりなさい。そして、皆が学校をに通学できるようにしてやって下さい」
ジョセフィンはさらに、数名の日本の貧乏学生たちのためにマルセイユから日本までの船の切符を買ってあげたり、日本から留学中のある芸術志願の女子学生の世話をしたりした。

 パリの楽しい15ヵ月は瞬く間に過ぎていった。そして、1934年に廉三がニューヨークの領事に命ぜられたため、夫妻は船でアメリカに向かった。ちまみに当時(1933~1936)日本で外務次官を務めていたのは、中国駐在大使を終えて帰国した重光 葵であった。今日でも戦前でも同様であるが、外務大臣や次官、あるいは各国の駐在大使たちの実務は、政府の閣僚や仲間の外交官たちとの快適な付き合いが主で、一般の人々との泥臭い接触、例えば旅券やビザの発行などの雑用は、ほとんど全て領事に任せられている。従って、領事である廉三は、ニューヨークの日本人社会 (村) のいわば「村長役」を務めることになった。そのおかげで、ニューヨークに移ってから初めて、美喜は、日本では今まであまり付き合ったことのない普通一般の日本人たちと、しばしば交渉をもつようになった。

 やがて、美喜の親友ジョセフィンが、ニューヨークのジークフェルト・フォリー(喜劇団)と公演契約を結び、美喜と再会するチャンスができた。ジョセフィンはエア・フランスに乗り込み、その処女飛行を他の多くの著名人たちと共に楽しんだ。しかしながら、ジョセフィンを飛行場に出迎えにきたのは、美喜とジークフェルトの秘書だけだった。そして、その白人秘書はそそくさと挨拶をしたのち、すぐ姿を消してしまった。そこで、美喜が自分の車で、彼女をホテルまで案内しようとした。しかし、車の運転手は、その計画にいい顔をしなかった。美喜は躊躇する彼を無視しながら、有名なホテルの1つへドライブするよう命じた (実際には、11軒ものホテルを延々探し回る結果になった)。ところが、どこのホテルへ行っても、ジョセフィンの宿泊をキッパリ断わってきた。
「うちのホテルは、目下全室とも満員でございます」
「大変恐縮ですが、全ての部屋が予約済みになっております」
「開室はございません」
辺りは既に真っ暗になっていた。「ヨーロッパの花」ジョセフィンは、しょんぼりして、目にいっぱい涙を浮かべて、車の後席にうずくまってしまった。

 美喜は運転手に、夕食のため澤田家のアパートにドライブしてくれ、と頼んだ。 そして、アパートの管理人に来客のあることを告げた。ところが管理人の男は、ひどく困ったような顔をしてこう言った。
「領事の公邸は治外法権なので、私どもはあなた様に、どうしろなどと指図する権利など全くございません。しかしながら、黒人が一人、同じ建物に泊まっていることが、他の白人住民たちに知れわたると、この建物はあっという間に空き家同然になってしまいます」

美喜は、絵をかくために自分が借りているアトリエのことを思い出して、ジョセフィンをそのアトリエまで連れていった。そこのマネジャーは、色々うるさい条件をつけた上で、とうとうジョセフィンの宿泊を渋々承諾した。
「オーケー、お客さんの宿泊を認めましょう。しかし、表向きには、お客さんは奥さんの絵のモデルということにして下さい。そして念を押しますが、必ず裏木戸から出入りして下さい。それから、エレベーターは (住民用ではなく) 荷物運搬用のを使って下さい。それからもう1つ、住民に姿を見られぬように、朝はできるだけ早く、夜はできるだけ遅く出入りすることをお勧めします」
美喜は、ジョセフィンを隙間かぜが吹く屋根裏部屋(アトリエ)へ案内した。そして、苦悶した。

「ヨーロッパで大成功したアメリカ生まれの女性スターを、故国のアメリカ人は、どうして歓迎しないのだろうか?」
 ジークフェルト・フォリーの出演者たちがリハーサルを始めると、ジョセフィンは毎日猛げいこを開始し、足から血がにじみ出るまでダンスを続けた。他の白人出演者たちは、彼女を冷たく扱ったが、ジョセフィンは彼らの冷遇や横柄さを無視し、
さらに短気な美喜に沈黙を守るようになだめすかした。ある日、ジョセフィンは、出演者の女性の一人が、仲間にヒソヒソ話をしているのを耳にした。
「全員マスクをしてダンスすべきね。そうすれば、我々が黒人ダンサーと踊っているのが、ボーイフレンドにはわからないから」
穏和なジョセフィンも、これにはカッとなって、その女性に向かってこう怒鳴った。
「あんたがマスクをしたいのは、自分の下手なダンスを隠すためでしょう」
リハーサルに出席していた美喜も、ジョセフィンの助っ人に駆けつけようとしたが、ジョセフィンは、黙っているようにと美喜を制した。穏やかならぬ休戦状態を保ちながら、リハーサルは続行された。ところが、ジョセフィンとの最終場面がきたとたん、その女性グループは、舞台に登場するのを拒否した。スター(ジョセフィン)は独り、舞台の中央に進み出て、こう叫んだ。
「あなた方の皮膚は白いが、心は真っ黒です。私の肌は黒いが、心は純白です!」
彼女は舞台を降りた。そして、廊下を意気ようようと闊歩するジョセフィンの姿を眺めながら、美喜はこのスターの劇的な退場を、まさに歌舞伎役者による花道の演技に価すると思った。

 ジョセフィンは結局、 ジークフェルトとの契約を破棄して、フランスに帰国してしまった。そして、フランス人に帰化して、パリに家族と共に永住を決めた。ジョセフィンは、その後30年近く、米国の土を踏まなかった。第二次世界大戦中には、フランスの赤十字にボランチアとして奉仕し、1940年にフランスがとうとうナチス・ドイツによって占領されると、ジョセフィンは、フランスのレジスタンス運動に参加し、(新しい)自分の祖国の解放のため積極的に活動し始めた。彼女は自分のスターとしての地位をうまく利用して、フランスのためにスパイ活動の一端を担った。あるとき、フランスからポルトガルに軍事的機密を運ぶ必要があり、彼女は公演に使う楽譜の上にあぶり出しのインクで書かれた情報を運び出したというスリリングなエピソードも残っている。戦後まもなく1946年には、連合軍ヨーロッパ総司令官のアイゼンハワー元帥(1953年には、米国大統領に就任)から彼女に「レジスタン・メダル」が与えられた。さらに1961年には、彼女の戦争中の功績と戦後の慈善事業を讃えて、ドゴール大統領からジョセフィンに、フランス最高の勲章「レジオン・ドヌール賞」を授与された。1963年に黒人の基本的人権を訴えるため、キング牧師が組織した「ワシントン大行進」に参加するため、彼女もついに米国の土を再び踏むことになる。美喜は、同じ年に出版した自伝のタイトルとして、ジョセフィンのあの名セリフ『黒い肌、白い心』を選ぶことにした。

暗黒時代

 1936年に欧米から5年ぶりに(実質的には、1922年以来14年ぶりに)澤田家は日本に帰国してみて、いわゆる「カルチャー・ショック」を受けた。まず欧米の学校教育を受けてきた子供たちは、日本の学校制度に慣れる必要があった。澤田夫妻の友人や親戚たちは年をとり、かつすっかり物の考え方が変わってしまっていた。夫妻が海外に初めてでかけた1920年代前半には、いわゆる「大正デモクラシー」のおかげで、民主主義的思想がポピュラーであり、議会政治が時代の潮流をなし、そして人々は海外の文化に対して開放的であった。ところが、夫妻が海外にいっている間に、民主的理想主義は一連の政治的スキャンダルや経済的不況のおかげで、すっかり影をひそめてしまった。世界的大恐慌のために、1929年から1931年の間に、日本の輸出は50%に減少してしまった。失業者の数は300万人に達し、農村地帯では1931年の農作物の不作のために、大打撃を受けた。中国における国民党政府の勢力拡大は、日本企業の中国大陸における投資を 危うくした。混迷する議会政治に愛想をつかした日本の大衆は、ヨーロッパ大陸、特にドイツやイタリアに台頭しつつあるファッシズムに注目し始めた。

 そして満州地方に勢力を拡大しつつあった日本の関東軍が、とうとう1931年に、清朝の最後の皇帝を傀儡政権の長とする満州国を無理矢理に擁立した。当時の日本の軍隊は、天皇の直接統率下にあり、議会によるコントロールを受けていなかった。従って、ひ弱になった政党政権に代わって軍事政権が容易に誕生する温床を備えていた。1936年の若手将校による軍事クーデター(2・26事件)に始まる一連の軍隊によるトップ政治家の暗殺は、ついに軍事政権の擁立を導びいた。
1937年の秋、関東軍は中国の首都南京を占領し、いわゆる「南京の大虐殺」が行われた。1941年12月8日、日本海軍は、ハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地を奇襲し、ここに日米は戦争状態に突入した。戦争中、美喜は暮らした。廉三は1939年にパリ駐在大使に任命されたが、ヨーロッパは既に戦争状態(第二次世界大戦)に突入し、家族の安全が保証されないため、彼は単身赴任した。その後、海外でいくつかの任務をこなしたのち、1943年にビルマ駐在大使を命ぜられた。それは廉三にとっては最も苦痛な任務だった。先輩の重光 葵からそのポストを命ぜられたとき、廉三は当初それを断わった。ところが、先輩が再三拝み頼んできたので、とうとう断わりきれなかった。重光 葵曰く。
「ぜひ、日本軍とビルマ住民との間の架け橋になってくれ!」

廉三はそんなことは不可能だと思っていたが、結局その任務を渋々引き受けた。この年、日本軍占領下のフィリピンが独立を宣言、さらに自由インド仮政府も(シンガポールで)独立を宣言した。当時の日本軍事政権の首相東条英機 (1884~1948)は、1943年11月に、東京で「大東共栄圏会議」を開催し、中国(南京政府)、満州国、タイ、自由インド、ビルマ、フィリピンにおける日本の傀儡政権の首脳を招いた。美喜は、インド代表のチャンドラ・ボース(1897~1945)の接待を頼まれたそうだ。彼はインド独立運動の急進左派の指導者で、インド国民会議派の前議長であった。しかし、マハトム・ガンジー(1869~1948)などの率いる非暴力闘争、英国軍支持派とたもとを分かち、日本軍の支持の下に、インドの英国からの独立を勝ちえようとしていた。彼はインドの庶民たちから親しまれ、彼の話は人々の心を深く感動させた。彼が日本の潜水艦で来日したとき、彼は天皇からの勲章を受けとろうとしなかった。
「戦争が終わるまで、どうぞ待って下さい。終戦後、インドが独立したときに、同胞全体と一緒にそれを分かち合いたいものです」
不幸にして、彼には祖国の独立を自分の目でみるチャンスはとうとう到来しなかった。終戦直後(8月18日)台北飛行場で、飛行機事故のため死亡したからだ。

 1944年の春、美喜の母が心臓麻痺でとうとう他界した。それからまもなく、美喜の3人の息子が海軍に入隊した。長男は将校、次男は士官候補生、三男は18歳で特攻隊員になった。東京上空には米軍のB29爆撃機が頻繁に飛びかい始め、空襲警報が鳴る度に、美喜と父親は防空壕の中に避難しながら、眠れぬ長い夜中を過ごすようになった。空襲も孫たちの徴兵を知らずに死んだ母はかえって幸せだったと、2人は話合った。その後、大磯にある岩崎家の別邸が日本軍に接収されるにおよび、美喜と娘のえみこは、澤田家の実家である鳥取に疎開を命ぜられた。しかし、一家の長である父の久弥は、頑として東京を離れようとはしなかった。彼曰く。
「岩崎家の人間が一人残ず東京を離れるまで、わしはここに残る。一家の面倒を看るのが、一家の長としてのわしの務めじゃ」

 1945年1月12日、美喜の三男ステファン・アキラ・澤田(19歳)は、インドシナ沖で日本の巡洋艦「樫」と共に海底に沈んだ。生還者は一人もなかった。息子戦死の悲報を聞いたとき、美喜は、世界中の何千もの母親が同様、このような悲しみを耐え忍んでいることを思んぱかった。毎日のように、多くの若者たちが海軍や陸軍に徴兵されていくのを眺めながら、美喜は、この戦争で日本が勝利するチャンスは皆無だと思った。「車椅子」で米国の大統領を4期務めたフランクリン・ルーズベルトは、不幸にして同年4月に脳溢血で急死。副大統領であったハリー・トルーマンが、まさに「棚ボタ」的に、新しい大統領に昇進した。そして、野心家トルーマンの命令により、8月6日に広島、3日後に長崎に「最後のとどめ」を刺すかのごとく、2発の原子爆弾が投下された。両市とも一瞬のうちに、廃墟と化した。さらに追い打ちをかけるように、米ソ間のヤルタ・ポツダム会談の密約に基づき、すかさずスターリン支配下のソ連も日本に対して宣戦を布告。(関東軍が一番恐れていた)ソ連軍がシベリアの国境を越えて、満州に怒涛のごとく進駐し始めた。ついに観念した日本軍事政府は、8月15日にポツダム宣言を呑んで無条件降伏を受諾した。まもなく連合軍極東最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥 (1880~1964)が、アメリカ軍を中心とする占領軍を指揮するために意気ようようと、日本に無血上陸する。まず東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズリー号上で、日米首脳の間で終戦協定が調印された。このとき、皮肉にも日本の無条件降伏書にサインした首脳の一人が、1943年から外相を務めていた重光 葵であった。そして、翌年5月に開始された東京国際軍事裁判の判決に従い、戦犯の一人として、巣鴨の刑務所に留置される運命をたどる(7年の刑期を言い渡されたが、実際には4年半後の1950年11月に仮釈放され、1954年12月には吉田茂内閣の外相に返り咲く)。

戦後の民主主義ラッシュ

 米軍による日本本土の占領は、1952年にサンフランシスコで日米間に講和条約が正式に結ばれるまで約7年間続く。この間にマッカーサーは、矢つぎ早やに日本の社会構造を改革する政策を施行した。まず旧日本軍隊を粉々に解体した。東京裁判あるいは海外 (南京、満州、マニラなど) での公判の後、東条英機を始めとする軍隊の首謀者および太平洋戦争拡大へ重大な責任を果した政治家(A級戦犯) を十数名、処刑した。ただし、昭和天皇は処刑を免れるどころか、(政治的権力はもはやないが)日本の「象徴」として、マッカーサーの占領政策 (日本に「反共の砦」をつくる政策) に、積極的に協力した。その是非論はともかく、命拾いした戦後の(天皇を含めた)日本政府の首脳陣(リーダー)は、事実上アメリカの傀儡政権を形成した。その根本的な原因は、終戦時に、日本大衆自身の手で、日本の旧軍事政権を打倒することができなかったからである。占領軍に多大な借りがあるから、米軍(米国政府)のいいなり放題になってしまったのだ。その後遺症は、半世紀以上経った21世紀の自民党政府の対米政策・沖縄政策に、いまだにありありと残っている。

 マッカーサーの占領政策の第二弾は、戦争中の日本軍需産業の担い手であった旧財閥の解体であった。前述したが、美喜の叔父(岩崎小弥太)が采配を握る三菱財閥が真っ先にその槍玉にあげられた。皮肉にも、この財閥解体は事実上マッカーサーの統制下にある幣原内閣 (幣原喜寿郎男爵は岩崎家の親戚) の手によって行なわれた。他の財閥、三井、安田、住友も同じような運命をたどった。第三弾は、土地改革だった。封建的大地主の手から、私有地が民間に解放された。次に、明治憲法に代わるべき新しい日本憲法の草稿がマッカーサー配下のGHQの手によって行なわれた。新しい民主憲法が俗に「マッカーサー憲法」と呼ばれのは、その由縁である。この憲法によって、まず天皇から軍事的および政治的権力が一切剥奪され、(第1条から8条に基づいて)日本の「象徴」といういわば儀礼的な役割が天皇家に与えられた。もちろん第9条により、日本は(国際紛争を解決する手段として)「戦争」(つまり軍事力の行使)を永久に放棄することが義務ずけられた。さらに、第14条により、男女同権がハッキリ認められ、成人した全ての日本女性たちの手に参政権が初めて与えられた。戦前、強く抑圧されていたされていた思想の自由、結婚の自由、職業選択の自由も日本国民全体に保証された。しかし皮肉にも、あっという間に押し寄せてきた予期せぬ「民主主義の大波」に、多くの保守的な日本の大衆は、戸惑いを感じた。御上(つまりGHQ)から天降りしてきた民主主義 (自由・平等の精神) が実際に、日本の市民ひとりひとりの頭の中で、自分のものとして成熟を遂げるためには、その後半世紀以上の歳月を要することになる。古い諺 (ギリシャ時代の『イソップ童話』) を借用すれば、「喉の渇いていないロバを湖畔に連れてくることはできても、無理矢理に水を飲ますことはできない」からだ。敗戦直後に日本人の大部分が最も飢えていたものは、(直接には栄養にならない) 民主主義という思想よりは、むしろ (当時乏しかった) 食料や衣料の方であったようだ。マッカーサーの有名な言葉の1つに、「日本人は12歳の子供のようだ」という表現がある。米軍のGIがチューインガムやチョコレートを振り撒けば、犬のように尻尾をふりふりあとについてくる当時の日本社会の風潮を、うまく皮肉っている。

混血児たちの母 

 敗戦から約9ヵ月目の1946年6月8日の朝、美喜はその日のラジオのニュースに耳を傾けていた。アナウンサーがこう報道した。
「今朝、ある日本女性とアメリカ人の夫婦に赤ちゃんが生れました。とうとう日米間に最初の握手が交わされたわけです。この赤ちゃんの誕生は、太平洋の両岸を結ぶ愛のシンボルといえるでしょう」 
ところがまもなく、そのアナウンサーは解雇された。この赤ん坊が象徴すべき日米間の和解感情は、当時の日本人全体の世論には、まだマッチしていなかったからである。そのニュースを聞いたとたん、美喜の心の底に、それまで深く埋蔵されていたある感情がふいに沸き上がったきたという。
「それはちょうど、15年昔、英国のバーナルド博士のホームの裏にある森を歩いていたときに、木立ちの間からもれてきたあの輝きのようなものでした。その美しい反射光線は、私の心にある灯を点火しました。私の一生の仕事は、まさにそこにあるんだ、という強い印象を受けました」
2、3週間後に各新聞に醜いニュースが続々掲載された。くげ沼の近郊の川に髪のちじれた黒人の赤ん坊の死体が浮かんでいた、という報告がまず最初だ。次に道端に青い目を半分開けた白人の赤ん坊の死体も発見された。横浜のある水路からも赤ん坊の死体が見つかった等々。美喜はそれらの記事に唖然となった。
「誰がそんなむごいことをするのでしょう? 赤ん坊を生きたまま、あるいは絞め殺して、道端や川に塵のように捨てるとは。こんな体験をしながら、私は、これらの混血児たちのために、働くことが神から与えられた私の使命だと感じるようになりました」

 4ヵ月後、岐阜県内を走る汽車の座席に座っていると、頭上の網棚から紫色の風呂敷に包んだ何か細長い物が、美喜の膝の上に突然落ちてきた。荷物を元に戻そうと、立ち上がったとき、2人の警官がふいに車内に入ってきて、彼女を制止した。彼らは闇米など、闇に売買されている物品の検査をしていたところだった。美喜に風呂敷を開けるように命じた。風呂敷をほどくと、何枚かの新聞紙に包まれて黒人の赤ん坊の死体が現れた。ぎょっとした美喜は警官や周りの乗客たちに説明を試みた。
「これは私の持物ではありません! 網棚から落ちてきたんです。それで、棚に荷物を戻そうとしていたところなんです」
警官の一人が美喜の読んでいた本を取り上げ、こういった。
「英語の本ですね。外国語がしゃべれるのなら、外人のボーイフレンドがいるにちがいない」
(美喜は敗戦後しばらく、生計を立てるために、英語やフランス語の教師をしていた)
「この荷物は私のではありません! 誰が私の前にこの座席に座っていたか、憶えていませんか? 誰がこの荷物を棚にあげたのですか?」
返事はなかった。乗客たちは、おそるおそる顔をそむけた。そこで警官はいった。
「あなたが荷物をもっていた。だから、次の駅で、我々に同行して下さい」
美喜にとっては、もう我慢ができなかった。
「車内で医者を即刻探して下さい! 医者がみれば、私がこの2、3日前に出産したかどうか一目了然です。今ここで脱衣しますから」
美喜がさっさと、脱衣のしぐさを始めると、警官は途方にくれて、ぼんやり突っ立ったままだった。すると、隅に座っていた白髪混じりのある老人が、口を開いた。
「ある若い女性が、しばらく前、その荷物をもって車内に入ってきたのを憶えています。その女性は、確か名古屋でおりましたよ」
その証言のおかげで、やっと美喜は無罪放免になった。警官は、その忌まわしい荷物をもって、次の駅で下車した。しかしながら、その出来事は美喜の頭から容易に離れようとしなかった。最後に、彼女は、それが何を意味しようとしていたかを悟った。美喜は、神の厳かな声が聞えたような気がした。
「たとえ一瞬でも、汝がその子の母となれば、日本中にいる彼のごとき境遇の多数の子供たちのために、汝が母親代りになるべし」

 美喜は東京に戻ってから10日間ほど、神に祈りを捧げ続け、自問自答した。バーナルド博士のホームを訪れて以来、美喜は子供たちの福祉のために、いつか何かをしようと長い間考えていた。ひょっとすると今、待ちに待ったその瞬間がとうとう到来したのではないかと彼女は思った。しかし、やるからには、中途半端なことはできない。孤児たちの世話が必要な限り最後までやり通すだけの勇気と決断が自分にあるかどうかを確認したかったのだ。美喜自身の3人の子供たちはすでに成人して、もう手がかからなかった。そして、廉三とは、別居を続けていた。長い戦争は、夫妻の結婚生活に大きな犠牲を払わせ、美喜は廉三との間に心なしか距離を感じるようになっていた。美喜は母として、そして妻としての役目をすでに果したと感じたので、廉三に会って、自分を今後自由にしてくれるように頼んだ。幸い、彼女の将来計画に関する相談は、想像したほど苦痛なものではなかった。廉三は、美喜に好きなようにしなさい、といった。恐らく彼は、石頭の妻が一旦何かを決心したら、それを止めるのはあまり賢明ではない、とすでに悟っていたのだろう。その上、彼は戦時中のビルマでの苦しい体験や自分の息子の戦死からまだ回復していなかった。美喜は次に父親に相談した。可哀想な赤ん坊たちの話を美喜から聞きながら、彼の目には涙が溢れていた。美喜は父親から賛同が得られることを確信していた。しかし、美喜はそれ以上のものを実は欲していた。美喜は大磯にある別荘地を孤児たちのホームに使いたかった。鉄道も幹線道路も丘の向う側にあり、理想的だった。広い敷地内には、保育園の建物、遊び場、庭園、学校、さらに職業訓練所などまで建てられる余裕があった。しかし、父親は美喜の話をさえぎった。
「美喜、ちょっと待ちなさい!」
「何なの、お父さん?」
「通常なら、もちろん、喜んでお前に大磯の土地をあげたい。しかし、あの土地は、もうわしのものではないんだよ。実は、税金の一部として、政府に取り上げられてしまったのだよ」
美喜は、この打撃にひるまず、戦闘を開始した。混血孤児たちのためのホームを大磯に建てると決心した美喜は、この別荘地を取り戻そうと図った。まず、占領軍当局から、この土地を孤児院用に使えるよう、許可をとった。その仕事は、有力な数名のアメリカ人の友人たちの協力で見事に成功した。しかし、まだ父親の税金の問題が未解決のままだった。その土地の時価は、当初250万円だった。それだけの額を募金で集められれば、ここを孤児院にすることができるわけだ。ところが、箱根不動産会社が、この土地を500万円で買い取りたいといい出した。娯楽センターを始める計画があった。その会社は、地元の人々をこう説得した。
「この土地が孤児院になったら、慈善事業だから無税になってしまうが、娯楽センターにすれば、地元に税金を払うことになるから、地元の財政が潤いますよ」
結局、不動産会社は買収に失敗したが、おかげで時価が350万円に跳ね上がってしまった。一難去ってまた一難である。

美喜は土地を買い上げるのに必要な資金の半分を、日本人の友人やアメリカの教会関係の知人を訪ね歩いて、寄付金を依頼することによって集めた(彼女にとって、自ら「物乞い」をするのは、初めての体験であった)。残りは借金をした。次は、ビルディングの建設に必要な資金も集めなければならなかった。アメリカの占領軍関係の人々や米国内にある教会に寄付を依頼するため、数千にもおよぶ手紙を毎晩遅くまで書き続けた。美喜はある手紙に、日本に存在する混血児の実情を、こう訴えた。
「ご存じのように、歴史は繰り返します。敗戦国では必ず、父なし児が孤児として路傍に迷うケースをしばしば目にします。実際、私自身も数度、ごみ捨て場や水路から混血児の捨て子が死体となって発見されるのを目撃しました。戦争孤児の場合は里親によって(特に自分の子を戦争で失った親たちによって) 養子として、比較的容易に引き受けられるチャンスがあります。しかし、これらの父親不明の混血児の場合は、その母親は自分自身の生活のために働かざるをえず、保育費用を払う余裕など全くない状態ですから、まず無視されます。もしお金があれば、彼らの命も救えるのです」
「東京にある2ヶ所の保育園で、103人の赤ん坊が餓死するという恐ろしい事件が最近発生しました。都内の至る所で、混血児の捨て子がみられます。駅のプラットホーム、共同便所、人気のない路地の突き当たりなどに、夜中の寒さや肺炎で死にかかっています。青い目で金髪あるいは黒い肌でちじれ毛だからという理由だけで、どうしてこれらの無邪気な子供たちが皆、捨て子にされるのでしょう? これらの孤児たちがいつか将来、世界をリードする最も優れたクリスチャンに成長するかもしれないのです。我々は今、彼らのホームを完成するために800万円という大金が緊急に必要です。どうか、我々の保護下にある孤児たちを、有能な世界市民に育て上げるために、どうか皆様の寄付をお願いします」

エリザベス・サンダース・ホーム  

 ある夜遅く、美喜の急ごしらえの保育園のベビー・ベッドの中に3人の赤ん坊を寝かしつけた。その赤ん坊たちは、1948年1月31日に、正式に美喜の手に託された。いわばその日が、「エリザベス・サンダース・ホーム」の創立日にあたる。
ホームの名称は、三井家で働いていた英国人の家庭教師サンダース女史にちなんで
名付けられた。女史は戦争中、日本に留まっていたが、終戦後まもなく他界した。自分の看病をしてくれた友人のルイス・ブッシュに女史は、死ぬ直前にある遺言を残した。
「ここに、私が一生かけて貯めたお金があります。これを全部あなたに預けますから、もし本当にお金に困っている人に出会ったら、これをどうぞ役立てて下さい」
ブッシュ氏が美喜に遭遇したとき、彼は美喜のプロジェクトが、献身的なサンダース女史の願いにまさに適っていると確信した。こうして、そのお金が美喜の手に渡され、この女史を記念するホームが誕生したのである。

 このホームに最初に引き取られた孤児は、サミーという名の子だった。ある寒い冬の朝、皇居前広場にある銅像の足元で発見された。紺色の毛布に包まれたまま置き捨てられていた。脇に2本のまだ温かい哺乳びんが添えてあった。ある巡査がサミーを見つけて、最寄りの駐在所でしばらく預っていた。もう1人の幼児は、女の子で、渋谷の駅前で発見された。美喜は、聖ロカ病院の神父ピーター武田と湯元婦長と共に、その2人の孤児を引き取るために捨て子預かり所にでかけた。帰り際に医者が美喜に、そっとささやいた。
「この男の赤ん坊は、恐らく一生歩けなくなるかもしれませんよ。足に全然力がない。小児麻痺にかかっている恐れがあります」

 サミーは薄茶の髪、青い目、白っぽい肌をしていた。愛敬のよい赤ん坊で誰にもニコニコ笑顔をみせた。健康な子ですくすく育ったが、足が駄目のままだった。美喜は特別の運動をさせ、かつ他の赤ん坊にはやらないような特別の栄養食をサミーに与えた。看護婦たちは、サミーの足をタラの肝油でマーサージしてやり、毎日日光浴をさせてやった。しかし、サミーは1歳の誕生日はおろか、2歳の誕生日を迎えても、だだベッドに横たわったままだった。ところが、3歳の誕生日が近づいたある日曜日、美喜が教会から戻ってくると、寮から子供たちの騒がしい声が聞こえてきた。また喧嘩だろうと現場に駆けつけると、あるベッドの周りを子供たちと看護婦たちがぐるりと取り囲んでいた。ベッドの中を覗いた美喜はビックリ仰天、聖書と讃美歌を思わず手から落してしまった。なんとあのサミーがベッドのてすりにしがみつきながら、立ち上がろうとしていたからだ。彼は相撲取りのごとく真っ赤な顔をして、頑張っていた。それをみていた美喜の目に涙が自然に溢れてきた。美喜はそっとささやいた。
「サミー、もうちょっとよ」

彼は努力のかいなく、その日は立ち上がれなかった。翌日もさらに頑張ったがやっぱり駄目だった。しかし、3日目にサミーはとうとう立ち上がることができた。まもなくサミーは、ベッドのてすりにもたれながら、横這いができるようになり、そしてある日、ベッドを歩いて一周することができるようになった。3歳の誕生日がくる前に、サミーは支えなしに独りで、よちよち歩きができるようになった。4歳の誕生日前には、遊び場でサミーは走り回り始めた。いったん歩いたり走ったりできるようになると、サミーはあっという間に、やりたいことは何でもできるようになり、夜になってサミーを静かに寝かしつけるまで、美喜は丸一日、彼とのお付き合いで忙しくなった。そして、サミーが初めて幼稚園に通う日がやってきた。出かけていくサミーの元気な足音を聞きながら、美喜は感無量になった。

 このホームの存在が知れわたると、多くの混血孤児が、その母親や祖母たちによって、ホームにもたらされた。そして、美喜に直接世話を頼みにくる者もいたが、多くの場合、黙って(こっそり)ホームの敷地内に置き去りにしていった(合計31人もの孤児が置き去りされているのを、美喜や看護婦は発見した)。日本中が食料不足に苦しんでいた敗戦直後には、このホームの経営は極めて困難だった。政府からくる育児補助金はほんの最小限で、それだけではとても足りなかった。美喜は、看護婦の給料や維持費や補助食などの支払いのために、募金をせざるをえなかった。大部分の孤児は、栄養不足で、その多くが疥癬や寄生虫病などを含む色々な病気に感染していた。しかし、医療品の供給は不足がちで、ペニシリンなどの特効薬は、もちろん手の届かぬ存在だった。

 にもかかわらず、ホームで育てられた孤児たちの大部分は、すくすく成長し、ホームでの乳児の死亡は全然なかった。しかしながら、1人の赤ん坊の病状が悪化し、武田神父は美喜に、子供を聖ロカ病院に入院させるように勧めた。美喜は、その赤ん坊の母親に連絡をとり、その子の病状を伝えた。その母親は急いで病院に駆けつけてきた。母親が重病の我が子を見守っているとき、突然、母親の兄が病室に入ってきて、彼女の髪を掴むなり、敵国の兵士と子供を産んだのは許せない、と言いながら、妹を殴り始めた。やがて、誰かが、こう叫んだ。
「赤ちゃんが死にかかっています!」
3人は急いでベッド脇に駆けつけた。その兄は、涙で目をうるませながら、瀕死の赤ん坊をじっと見つめていた。最後に赤ん坊が息を引き取ると、ごめんよ、といいながら兄は妹の肩を抱きかかえ、一緒に病院を悲しそうに立ち去った。

 ある幼い男の子が重症の肺炎にかかった。そして、その場の状況から、その子の命を救う術は誰にもなさそうに思えた。症状はどんどん悪化していった。美喜は、その子の死はもう時間の問題だと感念していた。ところが、ある朝、「CARE」
パッケージが、前駐日アメリカ大使の妻、ジョセフ・グリュー夫人から届いた。開けると、中に救援食料と2本のペニシリンのアンプルが入っていた。この貴重な特効薬のおかげで、その子の命が救われた。美喜がその夫人に礼状を送ると、夫人から、まるで奇跡に近い話にビックリした、という返事が返ってきた。夫人の話によれば、彼女の方はごく普通のパッケージ (小包) を郵送するよう注文したに過ぎなかったが、その小包は偶然にも「CARE」(アメリカの国際的救援物資供給団体) の本部で包装されたのだそうだ。当時、ペニシリンを得るには、医師の処方箋が必要だった。その出来事は奇跡か、あるいは間違いの仕業かいまだにミステリーだが、とにかくその少年の命を救った。

 そのような奇跡に近いエピソードに暇はない。ある晩、美喜は夕食のあと、手元にミルクが1本もないことに気がついた。夜中に赤ん坊に飲ませるべき牛乳もなければ、翌朝により年長の子供達に与えるべき朝食用の牛乳もなかった。気転のきく美喜だが、さすがその夜は、100人もの孤児たちにやるミルクのあてに困ってしまった。 真夜中のこと、美喜はまだ起きて仕事をしながら、保育園のほうから聞こえてくる腹をすかした赤ん坊たちの泣き声に耳を傾けていた。すると、車が近ずき、家の前で停車する音が聞こえた。誰かを確かめるために外に出てみると、車はもう立ち去ったあとであった。床に大きな箱が置いてあった。開けてみると、中に粉ミルクのケースが4つも入っていた。カードには、「秘かに尊敬している者から」とだけ記してあった。

 ある年末、美喜は色々貯まっている請求書の支払いを済ませるために、四苦八苦していた。金の工面をするために、自宅の部屋にあった「菊の紋章」入りの銀の花瓶まで銀座の質屋に預けたが、大した金にはならず、まだ半分ほど不足していた。帰宅の途中、電車を乗り換えたところで、ふいに人に呼び止められた。
「澤田夫人、あなたですね?」
「そうですよ」
「実は、あなたの行方を私はずっとさがしていたんです。中国大陸で知り合ったものです。憶えていませんか?」
「ええ、思い出しましたよ。でも、あれはずいぶん昔のことですね」
「あなたをさがしていた理由は、あなたに借金を返すためだったんです。25年ほど前、北京の日本クラブで、私はあなたからいくらかの金をお借りしたんです。でも、それを返す機会がなかったんです。ここにあるのは、私が長い間借りていたお金です。ああ、私の電車がやってきます。では、お大事に!」
こう言って、その男は立ち去っていった。封筒の中を確かめると、ちょうど必要な額がそこにあった。おかげで、美喜はその年の借金を全部支払うことができた。

 しかし、百日咳がホームに蔓延したとき、奇跡は起こらなかった。42名の子供が感染した。そして、そのうちの22名が肺炎を併発した。その病気の流行は2ヵ月間ほど続き、美喜や看護婦たちは、子供たちの命を救うために、四六時中働いた。
しかしながら、懸命の看護にもかかわらず、7人の子供が死亡した。ホームの門を7つの小さな棺桶がくぐりぬけてからまもなく、大磯中に批判の声が挙がった。翌朝、ホームの門の上に、チョークで落書きがしてあるのを、美喜は発見した。怠慢が原因で120名の子供を死なせたある保育園の名前がそこに書かれてあった。美喜の心は深く傷ついた。
「どうして彼らは、百日咳から回復した34名の子供や、肺炎から救われた15名の子供のことを、評価してくれないのだろうか?」

 その騒動が治まってからしばらくして、ある産婆が美喜のところに、青い目、白い肌の赤ん坊を届けにきた。
「あなたが、混血児のためのホームを経営していることを聞きました」
「そうです。他の誰も混血児を世話しようとしないので、私が代わりにやっているのです」
「それでは、この子を世話してくれませんか? 母親は、この子をいらないというのです」
「ええ、私が引き受けましょう」
「大助かりです。実は、この子は、私が分娩した混血児の23番目にあたるんです」
「それで、残りの22人の赤ちゃんは?」
「赤ん坊が生まれてくると、すぐ鼻に濡れた鼻紙を被せるんです。他にしようがなかったんです。でもこれからは、こちらに連れてこられるので、ほっとしています」
この23番目の赤ん坊は、栄養不足で、体中傷だらけで、死にかかっていた。さらによく調べてみると、背骨も曲がっていた。美喜の懸命な看護にもかかわらず、その子は、2、3日後に死んでしまった。美喜は、その小さな亡骸を、他の22人の霊とともに、ホームの礼拝堂の下に埋葬した。

日米両政府から無視された混血孤児たち

 薄茶色の髪で青い目、あるいは黒い肌でちじれ毛の赤ん坊は、日本の社会では非常に目立つ存在である。しかし、「日本の民主化」にばかり忙殺される連合軍司令官マッカーサー、あるいは彼のGHQは、増大しつつある混血児たちの存在に対して、ちっとも関心を払おうとしなかった。

 1948年6月、UPIの特派員ダレル・ベリガンは、サタデー・イブニング・ポスト紙に、『占領下日本の混血児たち (占領ベービー)』という論説を発表し、アメリカ大衆の注目を集めた。ベリガンは、まずこう論じた。
「この混血児問題は、今に始まったことではない。というのは、白人がアジアに住み始めた300年前以来、白人(主に、英国人、フランス人、オランダ人など)とアジア人との間に多くの混血児が、延々生まれてきているからだ」

 日本に関しては、占領ベービーが実際に何人存在しているのか、正確な数字を挙げるは不可能だ。1千人から4千人と推定されているが、公式な数字は全くない。
占領軍当局が、この問題について言明した例はないし、日本政府当局にしても、その存在を認めようとする動きが全く見られない。占領ベービーは、日本の恥の「生きた象徴」、つまり敗戦に続き占領下にあるという屈辱のシンボルでしかなかった。
日本人側にとって、その苦々しさを占領軍当局に対して、直接ぶつけるのは危険が大き過ぎたが、かといって、占領軍のめかけやその混血児を保護しようとする動きにも欠けていた。結局、逆にこれらの無垢な混血児をそしるという安易な手段で、フラストレーションを解消していた。
ベリガンは、次のような質問を投げかけている。
「このような混血孤児たちは、日本人の孤児たちと同じ施設で世話すべきか、それとも別のホームで育てるべきだろうか?」
(神経生理学が専門の) 厚生課長、陸軍大佐クロフォード・サムスは、この問題について、頑固な意見の持ち主だった。ベリガンは、サムス課長の意見をこう紹介している。
「最悪のケースは、混血児にGIベービーという汚名あるいは焼印を押すことである。我々ができうる最善策は、(アメリカ本国で) 彼らを差別待遇せぬことである。だから、我々の任務が完了して日本を去るとき、混血児たちを日本に留めるべきである。我々の妻たちは、混血児たちに特別待遇、例えば衣料やキャンディーなどを与えるべきだと主張しているが、私はそれに反対だ。我々の最大の任務は、平等に子供たち全体の福祉を向上させることにある。そもそも日本民族とは、一つの純粋な人種ではなく、中国人、朝鮮人、マレーシア人など色々な人種の混ざり (雑種) である。日本には、西洋人との混血が、長年育ってきている。だから、混血児は、日本社会では、全く問題ではないのだ」
この記事で、彼の意見に真っ向から反対する美喜や (横浜にカソリックのホームを経営している) 尼僧の意見も紹介されている。美喜は、次のように主張している。
「サムス大佐の平等主義は、現実を無視(あるいは回避)した純然たる悪平等主義です。怠慢や責任回避からくる偽善に過ぎません」

 サムス大佐は、日本に何名のGIベービーが実際に存在するか、詳しい統計調査をしたい、というアメリカ本国の厚生省からの申し出を却下することによって、故意にその数値をあやふやなままにしたばかりではなく、当時247名の混血孤児を収容していた「エリザベス・サンダース・ホーム」を閉鎖すべきであるという勧告をし始めた。怒った美喜は、大佐に面会を要求し、両者の間に険悪なやいとりが彼のオフィスで交わされた。
「大佐、GHQの占領政策の中に、混血児たちを一か所にまとめてはならぬ、日本全国に分散すべし、と定めた法的文書がありますか? あるなら、見せて下さい。これらの孤児たちをそれぞれ収容するために、一体いくつのホームが必要なのですか?これらの孤児たちは、南は九州から北は北海道から、はるばる私のホームに送られてきているのですよ。すでに2度も、つまり実の父親である米軍将兵からも、母親である日本人からも見捨てられたこれらの孤児たちを、私がどうして見捨てることができると思いますか?」
大佐は、故意に問題をそらすために、福井地震の救援のため占領軍がいかに親切にペニシリンや他の医療品を供給したかを喚起した。しかし、美喜はひるまなかった。
「大佐、日本における占領軍の任務が完了して、あなたがたがアメリカ本国に引き揚げるとき、アメリカ軍将兵を父とする混血児たちを全部まとめてアメリカに連れて帰ると確約するならば、ホームを閉鎖せよ、という命令に私も従います」
すると、サムス大佐が机上にあった重そうな灰皿を掴んだので、癇癪を起こした彼がそれを美喜に向かって投げつけるのではないか、と彼女は心配した。幸い、その瞬間、火災警報が鳴り、建物から退去せざるをえなくなったので、両者に冷却期間を与える結果になった。しかし、この対決後も、美喜の決意は変らなかった。

 このようなエピソードを含むベリガンの記事は、もちろんある人物の心の平和をかき乱した。GHQに平手打ちを食らわせることになったからだ。その結果、彼の日本滞在は短期に終り、タイに左遷された。まもなく彼は、そこでこの世を去った。
他方、エリザベス・サンダース・ホームは、美喜の自称「ドン・キホーテ」的闘争精神のおかげで、結局閉鎖を免れた。しかし、GHQのご都合主義的な政策の犠牲になった。日米混血孤児の存在自身が否定され、 彼らの父親である米軍将兵たちへの勧告、つまり、帰国時に自分の子 (混血児) を本国に連れて帰れ、という(美喜が大佐に提案したような) 勧告はとうとう出されずじまいに終わった。

 1951年9月に、サンフランシスコで日米講和条約が締結され、1952年4月に連合軍による日本占領は終了し、日本は再び独立国となった。そして、日本の国連への正式加盟はソ連の反対で拒否されたものの、オブザーバーとして、参加することは許された。そのおかげで、(戦後しばらく、国際社会から遠のいていた)廉三に、日本の国連代表団のリーダー(大使)として再び国際舞台で活躍する機会が与えられた。

 この機会を捉えて、美喜はアメリカで混血孤児たちのための募金運動を計画した。
当時、美喜の父親は87歳に達し、健康がすぐれなかったが、千葉の農園に暮らしていた。美喜がそのプランを父親に打ち明けると、彼はこう忠告した。
「美喜、渡米中にアメリカの占領軍の悪口をいわないように。全てを水に流しなさい。混血孤児たちを助けるというお前の本来の使命に徹しなさい。江戸の敵を長崎で討つ、という古い諺を肝に銘じなさい。東京で起こった忌まわしいできごとの復讐をワシントンでやらないこと。しっかりガンバッテ来なさい」
美喜は父の示す子供たちへの愛情と模範的な寛容の精神に心を深く打たれた。

 しかしながら、美喜が渡米のためにアメリカ大使館にビザを申請すると、すぐ拒否された(敵の方では、やはり彼女の復讐を恐れていたらしい)。そこで、美喜は一計を案じることにした。
「私の夫は目下、日本の国連大使として、アメリカに勤務中ですが、もし妻の私の渡米ビザが拒否されるのならば、夫には国連大使としての資格なし、ということになりますね。それでは、夫に早速電報を打って、国連大使を辞任して、即刻帰国するよう要請しましょう。マスコミにもこの問題をとり上げてもらいましょうか?」
渡航ビザはまもなく下り、美喜は1952年9月に渡米した。

 美喜がサンフランシスコに到着すると、報道陣の群れが彼女を取り囲み、GIベービーについて質問攻めをかけた。マスコミは彼女の旅行中、美喜のあとを追い、多くはセンセーショナルな、しかし必ずしも正確でない記事を書き、アメリカあるいは日本の大衆の間に少なからず誤解をかもち出した。

ジョセフィン・ベーカーの来日公演

 美喜の旧友である混血の名ダンサー・歌手ジョセフィンが戦前、ニューヨーク公演のために渡米した際、自分の故国でありながら、白人たちからひどい人種差別待遇を受けたことを、読者はまだ記憶していると思う。彼女は生涯4度の結婚をしたが、その間、合計12人の混血孤児を、自分の家庭に引き取って世話をした。彼女が、色とりどりの肌をしたこれらの養子養女たちを、誇らしげに「虹鱒(七色)の子供たち」と呼んだという話は有名である。

 さて、ジョセフィンは、(ニューヨークで受けた)美喜への恩返しに、エリザベス・サンダース・ホームのための募金コンサートを、わざわざ日本国内で企画し、1954年の春、特別公演のため来日した。彼女は美喜に手紙でこう書いている。
「日本滞在中は、ステージ、テレビ、ラジオなどあらゆる機会を利用して、日本の観衆に向かって演技をしますので、存分に私を使って下さい。公演で集められたお金は全部ホームに寄付しますから。私には衣装係を含めて3人の付添いが同行しますが、彼らの給料は私の財布から払いますので、ご心配なく。私は普通の日本の家に泊まり、日本食を食べますので、ホテルなど特別に予約する必要はありません。節約した分だけ多くのお金がホームの赤ちゃんに直接役立つように」
ジョセフィンは、3週間(21日間)という短い日本滞在期間に、なんと合計22回の公演に出演するという、常人には信られぬほどのハード・スケジュールを見事にこなした。彼女のエギゾチックな黒人ダンスに日本の多くの観衆が魅了されたのはいうまでもない。この忙しい公演の合間をぬって、大磯にある美喜のホームにいる「虹鱒の子供たち」を訪れ、励ましを与えることも、もちろん彼女は忘れなかった。

 ジョセフィンのステージ生活は、1968年に引退するまでその後も長く続くが、その期間に、人種間のハーモニーを図るために数々の慈善公演・事業に献身し、1961年には、その功績を讃えて、ドゴール仏大統領が「レジオン・ドヌール賞」を彼女に与える。1975年に彼女は、とうとう脳溢血で倒れ、フランス国民に惜しれながら、69歳でこの世を去っていった。そして、黒人として初めて、フランスの国葬にふされた。

アメラシアン混血児の米国移民

 日本に駐在するアメリカ人の家族にも、日米混血孤児たちの話を聞いて深い同情を示し、自分の故国に引き取り、世話をしたいと申し出るものも多くあった。美喜は、自国の社会ばかりではなく、米国の白人社会でも人種差別がかなり強いことをよく知っていたが、それでも孤児たちには米国で育ったほうが日本で育つよりも、ずっと明るい未来が開かれていると信じていた。
 しかしながら、実の父親が自分の混血児を引き取らない限り、法的にはこれらの孤児たちは、全て日本人国籍に入れられてしまう。従って、混血児を養子として米国に連れ帰るためには、子供の米国への移民手続きを経なければならなかった。ところが不幸にして、戦前(1924年の「排日移民法」の制定)以来敗戦直後もなお、日本人の米国への移民は厳しく制限されていた。混血児たちの移民には明らかに、アメリカの移民法の改正が緊急に必要だった。

 そこで、美喜は1952年秋の渡米中に、アメリカの下院議員ウイリアム・ドーソンに手紙を書き、移民法の改正を強く訴えた。彼は1942年にシカゴから、黒人として初めて下院議員に当選した民主党の政治家である。移民法の改正への闘いは、実質的な実りをみるまでにその後数年を要した。そして1957年になって、日本を含めてアジア地域全体に溢れる米亜(アメラシアン)混血孤児たちが、米国の里親の元に自由に移民できるようになった。この移民の改正には、ドーソン氏自身の議会での粘り強い努力もさることながら、もう1人の著名なアメリカ市民による草の根運動に負うところが少なくない。その人物は、のちに美喜の親友となったパール・バック女史であった。女史は、いわゆる(米軍占領下の)戦争孤児、つまりアメリカ軍将兵とアジア諸国の女性との間に生まれた米亜(アメラシアン)混血孤児たちの救済を目的に、まず1949年に自分の私財を投じて「ウエルカム・ハウス」と呼ばれる養子斡旋所を、フィラデルフィアの北にある自宅の敷地内に設立した。白人でありながら、中国大陸のその前半生(約40年間)を過ごすというユニークな体験を持つ女史は、1934年に米国に帰国後も、「東西(東洋と西洋)文化の架け橋」として活躍し、(人種差別・女性差別を含めて)あらゆる差別の撤廃をめざして、その後半生を捧げた高まいな(ノーベル賞)作家兼ソーシアル・ワーカーである(詳しくは、第4章を参照)。

パール・バック女史の来日

 1957年の移民法の改正に伴い、美喜のホームにいた日米混血孤児の1人、ちえ子(8歳)がパール・バック家の第7人目の養女として、渡米を許された。以来パールと美喜との間に、日米混血孤児たちの米国への養子移民のための親密な協力が始まった。そして、最終的には1千人以上の混血孤児が、アメリカの家庭へ引き取られていった。

 1960年の春に、パールは、1947年出版した子供向けの短篇小説『ビッグ・ウエーブ』(大津波)の映画化のため、久しぶりに来日した。この小説は、パールが戦前に(中国大陸の内戦を避けて)一時疎開していた長崎の近くにある雲仙山麓の農村と漁村を舞台にした地元の少年2人の友情物語である。戦争(津波) がもたらした幾多の不幸を克服して立ち上がる世界中の子供たちを励ますストーリー。東京に滞在中、パールはロケの打ち合せの合間に、もちろん大磯にある美喜のホームを訪れ、当時そこに収容されていた148名の混血孤児たちを見舞い、温かく励ました。不幸にして、来日してまもなく、パールは本国から悲報を受け取った。数年病気を患っていた夫のリチャードがとうとう死亡したのだ。葬式を済ませるため、パールは急きょアメリカに帰国せざるをえなかった。そして、その年の秋に、今度は映画ロケの本番に参加するため、再び来日し2、3ヵ月間、主なロケ先である雲仙山麓の温泉町小浜 (おばま) や漁村「木津」で、さらに火山の噴火シーンを撮影するために伊豆七島の大島でも過ごすことになる。映画の制作は日米合作で、日本側は東宝が専ら出演俳優の大半や撮影班を提供した。キャストは、名優早川雪州を始め、伊丹十三、(ロカビリー歌手)ミッキー・カーチス、子役のジュディー・オング、太田博之、設楽こうじなど豪華版だった。津波の特写は、『ゴジラ』の生みの親、円谷監督が担当した。

この映画は翌年、米国内で封切られたが、不幸にして、なぜか日本にはとうとう1度も配給されず、いわば「幻の映画」となってしまった (米国ワシントン市にある議会図書館に16ミリ・フィルムが保存されており、1、2週間ほど前に予約すれば、観賞も可能)。 2005年10月29日、映画化から45年振りに、ロケ地の雲仙市にあるメモリアルホールで上映がついに実現された。 この初上映は、合併による雲仙市誕生を記念して雲仙観光協会が企画。同協会の田浦元理事は「昔、エキストラで出演した市民も何人か存命で、一度でいいから、ぜひ自分の目で見たいという地元の住民からの要望が強かった」と話す。

この映画の脚本もてがけたパールは、もともと自作の小説にはなかった混血児の問題を、映画『大津波』の後半に盛り込んで、社会的なアッピールを試みたといわれている。さらにパールは1964年に、国際的な孤児救済団体「パール・バック財団」を結成し、大規模な米軍基地を持つ沖縄、韓国、フィリピン、ベトナムなどのアジア諸地域に、いくつかの支部を設立して混血孤児たちの福祉向上に献身した。なお1993年(パールの死後20年目)に、「ウエルカム・ハウス」と「パール・バック財団」が合併されて、「パール・バック国際財団」として再出発、今日に至る。

続く

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臍(へそ)の緒

2008年12月28日日曜日

近刊「知的障害の娘の母: パール・バック」(文芸社)

知的障害の娘と歩む波乱と挑戦に溢れる人生

不朽の名作「大地」(1931年出版)で有名なノーベル賞作家パール・バック
女史(1892ー1973)に、一生涯知的障害に苦しむたった独りの実娘キャ
ロル(1920ー1992)がいたことが、世に初めて知られるようになったの
は、女史が1950年に、「母よ嘆くなかれ」という娘に関する前半生(生い立
ち)をつづるノンフィクションを敢えて出版して以来のことである。その時、娘
キャロルは既に30歳に達していたが、彼女の精神年令や知能指数が10歳以上
を越えることは一生ないことが明らかになっていた。女史はそういう不孝な娘や
息子を抱えている無数の親と、その耐えがたい悲しみや苦しみを分かち合うため
に、その告白書を勇気をもって出版し、世界中をあっと驚かせた。同じような娘
を持つケネディー(JFK)大統領の母ローズやドゴール大統領夫人などが、こ
のキャロルに関する本を読んで、とても感動して大いに涙を流した。

女史はその前半生(40年近く)をアメリカ人のキリスト教伝道師の娘として、
中国大陸で過ごし、キャロルが誕生したのも、中国の過疎地の病院においてだっ
た。不幸にして、(後に明らかになったことだが) 女史は子宮癌を患い、恐らくそ
の病因であるウイルス (HSV)の感染によって、子宮中の娘の頭脳の発達に障
害、PKU(フェニルケトン尿症、フェニルアラニン中毒) が生じた。そういう障
害名すら知られていなかった当時、その障害の治療は不可能だった (今日では、
PKUの診断は容易になり、生後3ヵ月までに治療を開始し、血中フェニルアラ
ニン濃度を正常近くに維持しさえすれば、大事には至ることはない!)。

この娘の不幸に、もう1つの不幸が重なった。女史の夫ロッシングは農業経済学者
で、中国の農業改革に献身する伝道師だったが、知的障害を持つ娘の養育に無関
心だった。そこで、当時、主婦で収入源をもたぬ女史は、娘を一生、米国の特殊
施設 (学校)で世話してもらうために必要な多額の費用を自分で稼ぐために、ある
小説を書き始めた。それが中国の貧農の生活を描いたユニークな名作「大地」だっ
た。幸いにして、その小説がピューリッツァー賞に輝き、世界中のベストセラー
になり、さらに映画化され、1938年には米国女性としては初めてのノーベル
文学賞に輝いた。こうして、娘の不幸が「幸い」に転じた稀れな例となった。

女史のこのような悲しみと苦悩を越えた勇気と波乱に溢れる生涯を、精神障害を
扱う専門医/精神病理学者という立場から、著者(三重大学名誉教授、松坂清俊)
が詳しく分析したのが、このユニークな近刊「知的障害の娘の母: パール・バッ
ク」である。この著者が長崎県島原半島出身であるのは、全くの偶然ではなかろ
う。というのは、パール・バック女史の家族が1927年に(中国での内戦を避
けるため)当地に半年ほど疎開していたことが知られているからだ。この疎開時
代の体験に基づいて、女史は戦後まもなく、子供向けの短篇小説「大津波」を出
版し、1960年には、その映画化のために日米のロケ隊とともに、懐かしい島
原半島に数カ月滞在している。

女史のユニークな人生に深い関心のある方には、数年前に出版された「パール・
バック伝: この大地から差別をなくすために」(上下巻)も併せて、読まれる
ことを強くお勧めしたい。

2008年12月17日水曜日

"A Beautiful Mind" (by Sylvia Nasar)

妻アルシアの深い「ヒューマニズム」に感動!

この実話は、ジョン・ナッシュという稀れにみる天才的な数学者が30歳を境に
して30年間以上、遺伝性の重症な「精神分裂症」に苦しみながら、ついに奇跡
的にその難病から回復してまもなく、彼が20代に発見した「ゲーム理論」の経済学
への多大な貢献が評価されて、ついにノーベル経済学賞までもらうという、ハッ
ピーエンド映画(アカデミー賞受賞)の原作である。もっとも、私は映画を観ず
じまいに終わった。

(高等数学も経済学もわからないごく粗朴な生物学者である)私が最も感銘した
のは、彼の偉大さではなく、彼の妻となったアルシアというインテリ女性の彼に
対する並々ならぬ献身である。中米のエル・サルバドル生まれの良家の娘だった
彼女は、物理学者をめざして米国のMITで就学中、彼女の数学教師であるナッ
シュ教授に惚れ込んでしまい、結婚にゴールインする。ところが不幸にして、ま
もなく彼に凶暴性を帯びる「精神分裂症」の発作が現れ、精神病院に2、3度隔
離する必要性さえ出てきた。折しも、彼女は彼の息子(ジョニー)を妊娠中だっ
た。

2、3年後、彼女はナッシュとはもはや正常な結婚生活が無理なことを悟って、
一旦彼と離婚手続きをする。しかしながら、病める夫を世話する者が誰もいない
ことを知って、彼女は以後30年以上、彼を自宅に同居させ、生活の面倒をひた
すらみ続ける。そのおかげで、彼は重症な「精神分裂症」から奇跡的に自然治癒
することができる。

離婚した夫に対して、いわゆる「愛」を感じなかっただろうが、彼女の心には
(夫を何とか助けてやろうという)深い「ヒューマニズム」が溢れていた。その
「美しい心」に私は痛く感動した! 邦訳 (約600ページ)も出版されている
ので、ぜひ一読を勧めたい。

映画は恐らく、ナッシュ夫妻が結婚50年目に(2001年)に再婚を誓って、ハッ
ピーエンドで終わっているだろうが、この夫妻には、頭脳は優れているが、不幸にして、
父親同様(あるいはそれ以上に)重症の「精神分裂症」に病む息子ジョニー
(数学者、チェスのチャンピオン)がいる。 だから、実話は決して「ハッピー」に
は終わっていない! 今後ずっと一生、その息子を世話するのが、この難病から奇
跡的に回復してノーベル賞をもらったナッシュの新しい仕事になりつつある。

最近の統計によれば、この難病患者の4分の1は自殺に至る。4分の1は長い年月を
かけて自然に治癒する。残りの半分は一生治癒せず、精神病棟で暮らすことになる。
そして、その病因は遺伝学的にまだ解明されていないし、特効薬もまだ開発され
ていない。

実は、この本の原作者シルビア・ナサーはコロンビア大学の商業ジャーナリズム専
攻の教授だが、最近ノーベル化学賞(受賞)で、世間の話題になっている「GF
P」(グリーン蛍光蛋白) の発見者や開発者に関する伝記物語「Aglow in the Dark」
の序文で、彼女は「ジョン・ナッシュ」について、チラリと触れている。彼女が
この「GFP」研究分野に関心をもち始めた動機は、恐らく、この蛍光蛋白が
「精神分裂症」やアルツハイマー病などの脳に関する難病の解明や治療薬の開発
に、将来役立つ可能性があることを知ったからだろう。現実には、その道程は今
後かなり長そうだが、10年あるいは20年先に、これらの難病に対する治療薬
が開発されることを、我々 (製薬化学者) も切に期待したい。

2008年12月13日土曜日

ピューリッツァー賞に輝く労作「Team of Rivals」
(by Dorris Goodwin)

「奴隷解放」をめぐって米国が真っ2つ(南北)に分かれて、血みどろな内戦を
くり広げている時期に、共和党のリンカーン大統領は、敢えて自分のライバル
(政敵)を4人も「挙国一致内閣」の重責に採用して、その大危機をみごとに乗
り越えた: スタントン(国防長官)、シーワード(国務長官)、チェイス(財
務長官)、ベイツ(法務長官)。リンカーンは、明らかに自分と意見を異にする優秀な
人材を説得かつ抜擢して、その稀れにみる英知、偉大な包容力と手腕を発揮して、
(黒人)奴隷制の廃止を成功させ、南部をついに降服させ、南北戦争をも終結させた。

この140年前の歴史的な英断のおかげで今年、米国に黒人系初の大統領オバマ
が誕生した。奇しくも、オバマの地盤 (シカゴのスプリングフィールド) は、リ
ンカーンの地盤でもあった。オバマは先達の英知にならって、彼自身の内閣にも、
「昔の政敵」を何人か採用して、現在の世界的な危機(経済危機、環境危機)を
乗り越えようとしている: ジョン・バイデン (副大統領)、ヒラリー・クリントン
(国務長官)、ロバート・ゲイツ (国防長官)など。

言うなればドリス・グッドウインの千ページ近くに及ぶ労作「政敵を重用するチームづくり」
は、オバマ内閣づくりの「聖書」になりつつある。偉大な大統領リンカーンの伝記は
数限り無いが、彼の内閣について、これほど詳しく触れた本は、これまでになかっ
た。もし、民主党が日本でも政権を取るような機会が近い将来やってきたら、こ
のリンカーンの英知を採用して、挙国一致内閣を組織して、国民の生活を真に向
上させる政治を本気にやってもらいたいと、私は切に念願している。

小沢代表のいわゆる「大連立政権」(単なる「ごちゃ混ぜ」) 構想ではない!
真に 「適材適所」の人事が必須だ!

2008年12月3日水曜日

遠藤 章著「新薬スタチンの発見」(岩波科学ライブラリー)

日本では一体なぜ、世界的な評価に価する独創的な医学研究、特に世界的に服用
される医薬品の開発者が育ちにくいのだろうか? 今秋(「ノーベル賞への近道」
といわれる)「ラスカー医学賞」をもらった遠藤章氏はそのごく少ない例外で、
製薬会社「三共」勤務時代に、世界に先駆けて、抗生物質の一種で、コレステロー
ル低下薬「スタチン」を開発した研究者であるが、面白いことには医学部や薬学
部出身者ではなく、農学部出身者(東北大)である。しかしながら、彼のスタチ
ン開発の道はすこぶる厳しいもので、挫折をいくつか乗り越えた彼の「不屈の精
神」なくしては、ここまで成功はしなかっただろう。薬学者(制癌剤の開発研究
者)の1人として、私にも色々学ぶことが多かった。これから医薬の開発を志す
若い人々に、ぜひ勧めたい読み物である。「日本発」の世界に冠たる医薬品の開
発研究の発展のために! 参考までに、目次(抜粋)を下記に紹介しよう!

1 新薬の種を求めて
コレステロールと冠動脈疾患、どうすればコレステロール値がよく下がるか? 
ペニシリンの発見、青カビから“新薬の種”を発見

2 動物実験で二度の危機
ラットのコレステロールが下がらない、ニワトリやイヌには劇的な効果!
肝毒性の疑いで再度の危機

3 重症患者には安全でよく効いたのに
再復活へ、臨床試験は順調であった、突如中止に、失敗の原因

4 強力なライバルの出現
幻のプロポーズ、世界最大手「メルク」のねらい、新たな発見、メルクの独占を
許さず、商業化スタチン第1号の誕生

5 大規模臨床試験から見えてきたこと
コレステロール値を下げて疾患が減ったのか? 大規模臨床試験、多彩な生理・
薬理作用

2008年11月28日金曜日

Atomic Tragedy: Henry Stimson
and the Decision to Use the Bomb Against Japan

太平洋戦争末期に米国の国防 (陸) 相を担当していた高齢(78歳)のヘンリー・
スティムソン ( 1867ー1950 ) は実は、ハーバード大学出身の親日的な
法律学者だったが、戦争終結直前に広島と長崎への原爆投下命令書に不本意なが
ら署名をせざるを得なくなかった。その悲劇に至る過程や政治的(特にFDRの
急死とトルーマン大統領就任に伴う反ソ反共強硬路線)や軍事的な背景を、著者
シーン・マロイが、画期的な「原爆投下決断の内幕」(The Decision to Use the
Atomic Bomb)のレベルを更に越えて、新しく公開された「極秘情報」に基づき、
この本で戦争史実を鋭く分析している。

スティムソンは、原爆投下予定候補地リストから、日本の古都で伝統文化の中心
地である「京都」を除外することには辛うじて成功したが、他の人口密集都市で
あり、米軍の空爆をまだ余り受けていない、「軍港」の所在地である広島と長崎
に住む非戦闘員 (老若男女) の生命を原爆による大量殺りくから救うことは、過
労と力不足でできなかった。

戦後まもなく、彼は原爆の悲劇に責任を深く感じると共に、トルーマン大統領や
その閣僚と肌が合わず、国防 (陸) 相を潔よく辞任した。もし、(1945年4
月に急死した)史上最大の大統領FDRが太平洋戦争の末期(7ー8月)まで存
命だったら、(大量殺りく兵器の使用に強く反対していた)スティムソンの助言
を尊重して、原爆投下を避けることができたかもしれない。。。

1つ特筆すべきことは、スティムソンは常に「天使のような人物」ではなかったと
いう事実だ。日本による(ハワイ島の)真珠湾奇襲の10日前、彼はFDRと密
談を交し、「いかにして奴ら(日本)を誘き出して、(米国大陸には打撃になら
ない形で)最初に奴らに発砲させるためには、何をしたらいいだろうか」という
作戦を入念に練ったということが、彼の日記にはっきり記してある。日本がその
「ワナ」にまんまとはまったというわけだ。米国政府は「奇襲」を事前にキャッ
チしていた。そして、奇襲直後に、万をじしていたかのように、日本に宣戦を布
告した。敵は始めから「うわ手」だった。。。


参考書

邦訳「原爆投下決断の内幕」(上下2巻、1995年)
(The Decision to Use the Atomic Bomb)

小人「トルーマン」の野心(外交手段)、戦争終結とは全く無縁!

なぜ、日本が降服寸前に、広島と長崎に米国(トルーマン政権)が原爆を敢えて投
下する決定をしたのか、その真の理由や動機を理解 (しっかり把握) するために、
この英文原書の邦訳「原爆投下決断の内幕」(上下2巻)はもっと日本人読者の
間、特に(米国政府にあくまで追従しながら、戦後の) 日本の政治を牛耳っている
保守的な指導者たちに、読まれるべき労作である。

終戦前に、既に米ソ間で「冷戦」が始まっていた。ルーズベルト大統領の急死に
ともない、棚ぼた式に大統領になった (新米の) トルーマンは、ソ連の老練な指
導者スターリンに、外交の場で始終なめられていた。ソ連は東ヨーロッパ諸国全
体を自国の領土や衛星国にしようと虎視眈々と狙っていた。それを威嚇、阻止す
るためには、トルーマンの手元には唯1つしか手段がなかった。ソ連にはまだ開
発されていない「原爆」だった。それを今や「虫の息」の日本に落として、その
未曾有な破壊力をソ連に見せ付ければ、さすがのスターリンも尻込みするだろう
と、トルーマンは考えた。しかし、米国の原爆開発チームは7月中旬に最初の原
爆実験に成功したばかりだった。実戦用の(広島・長崎に投下すべき)原爆はま
だなかった。もし、原爆投下前に、日本が降服してしまったら、スターリンを原
爆で威嚇するチャンスを失う(降服した国に、いくら何でも原爆は落せない!)。


そこで、トルーマンは故意に降服を遅らせ(原爆製造のための「時間稼ぎ」をす)
るために、巧妙な手を打った。ポツダム宣言で、日本に「無条件」降服(つまり、
「天皇制の廃止」)を迫った。日本政府が受諾できないのを見抜いた上で。。。
馬鹿な日本政府はそのワナにまんまとひっかかって、降服を渋った。2、3週間
後(8月上旬)に2発の原爆がみごと使用準備オーケーの状態になった。後は、
歴史の良く知るところである。こういう史実を知った上で、なお「米国追従」外
交を続ける日本の政治指導者連中を批判すべきである。

この英文原書(The Decision to Use the Atomic Bomb)は日本国内でまだ市販
(通販)されているが、その邦訳(上下2巻)は(奇妙にも)絶版どころか「古
本|さえも出回っていない。誰がこの邦訳の流通を阻止しているのだろうか?
米国政府からの指図で、日本政府が出版社や通販書店に圧力をかけているのだろ
うか?

2008年11月21日金曜日

"Barack Obama: Son of Promise, Child of Hope"
(Simon & Schuster)

アメリカでは最近、黒人系の若いエネルギッシュな青年バラク・オバマが新し
い大統領に当選して、長い「イラク戦争」や迫リつつある「経済危機」からよう
やく脱出できる希望に溢れている。カリスマ的なオバマは、特に若い世代の間に
絶大の人気がある。最近、オバマ大統領に関する伝記が3冊もノンフィクション
部門 (ペーパーバック)のベストセラーのトップを占めている。さて、子供向けの
本でも、小学生向け48ページの絵本「バラク・オバマ小伝」(サイモン&シュス
ター出版、2008年)がトップに踊り出た。絵本の4分の3がさし絵で占めら
れ、とても楽しく読める。

豪州メルボルンに長らく住む友人(奥さんが日本人、ご主人が豪州人)の子供た
ち(6歳の弟マックスと12歳の姉マーサ)に読んでもらおうと、クリスマスプ
レゼントを兼ねて、買い求めた。 マーサには多分、200ページ余りの小伝
「YES WE CAN」(もちろん、可能です!) の方がずっと内容があって、よかろう。
米国では目下、この2冊が子供向けの伝記本の1、2位を占めている。

この国の子供たちが皆んな、遠い将来、オバマのような立派な大統領になれる
チャンスを夢見ているようだ (さて、日本では「総理大臣」の伝記が子供向けの
伝記のトップになるなど、とても想像がつかない! なぜなのだろうか?)。

実はオバマ大統領は、ケニア人の父親と米国の白人女性(母親)との間に生まれた
混血児(ハーフ)なのである。インドネシアやハワイの学校で少年時代を過ごすという、
珍しい経験をしている。だから、白人ばかりではなく、黒人を初め有色人種の立場、
海外に住む人々の立場も良く理解できる。従って、米国の国民ばかりではなく、
日本を含めて世界中の人々から、大変期待されている。 特に、父親の故国「ケニア」
の貧しい人々からは、神様のように尊敬されている。

この本はどうやら、彼のベストセラー自伝「マイ・ドリーム」に基づいて、童話
作家ニッキー・グリムスによリ子供向けに要約され、画家ブライヤン・コリアに
よる色とりどりの楽しい挿絵をふんだんに入れたものである。

Garen Thomas 著の小伝「YES WE CAN」は、主にオバマの自伝「Dreams from My Father」
とDavid Mandell 著の評伝「Obama: From Promise to Power 」という大人向けの本を
うまくまとめて、小中学生向きにアレンジした傑作である。私のような還暦を過ぎた大人が読んでも大変面白い。
一日かけずに一気に読める。

最後に、一言欲を言わせてもらえば、転載の写真(全部白黒!)の一部をカラー写
真にしてくれると子供も大人もずっと楽しめると私は思う(せめて、有色人種の我々
日本人読者向けの「邦訳」ではそうして欲しい!)。

YES WE CAN
オバマ小伝「もちろん、可能です!」(ギャレン・トマス著)

13章: 出会い

シカゴで4年間過ごした後、1988年にバラックは、ボストンにあるハーバー
ド大学法学部の大学院に進学した。彼は既に27歳で、他の大部分の院生より数
年年上だった。しかしながら、彼がクラスメートの中でずば抜けていたのは、年
のせいだけではなかった。もちろん、彼は年上相応に円熟していたが、彼は極め
て規律正しく、かつ勉学に専念していたからだ。最初の一年、彼は図書館で毎日
何時間も自習をした。彼は再び大学構内での人種差別制度に反対する運動にも参
加した。大学の有名な法学雑誌、「ハーバード人権と自由に関するレビュー」に
いくつかの論説を発表した。この雑誌に論文を発表するのは、すばらしい業績な
のである。

彼は黒人法学部学生協会の年会の晩餐の席でも講演をやった。その席で、彼のよ
うに機会に恵まれた者たちは、恩返しに、それほど恵まれなかった多くの人々の
助けになってやる必要があることを強調した。彼は教授会にもっと有色人種出身
の教師が採用されるべきであると主張する人々の意見に参同した。

最初の一年間の後、夏休みをシカゴに戻って過ごし、シドリー・オースチンとい
う法律事務所に見習いとして働いた。ミシェル・ロビンソンはそこの弁護士だっ
た。そして、バラクの指導を仰せつかった。彼はミシェルに会うやすっかり彼女が気
に入ってしまった。ミシェルの方は、バラクが事務所に姿を現す前から他の職員
が彼を高く評価していることに懸念を感じていた。彼女は、バラクは生意気か、
あるいは実直に働くよりはむしろ同僚におべっかを使って昇進しようとする人間
ではないかと、予想していた。それに、自分の部下とデートをするのは職場の規
律を乱すものだと思っていた。さらに、彼女はこの法律事務所で働くいわゆる
「黒一点」(たった一人の黒人)だった。周囲から「黒人はやっぱり黒人と一緒
になってしまうな」と思われるのを、彼女は嫌った。バラクにも似かよった経験
が昔あった。(インドネシアの学校から転校してきたばかりのころ)ハワイのプ
ナハウ・アカデミー(小学校)で、全校にたった一人の黒人の女の子と遊んで、
仲間からからかわれたことがあった。しかし、今はどんな人種の相手とも、自分
が気に入った相手とデートするようになっていた。そして、バラクはミシェルを
デートの相手に選んだ。

ミシェルの家庭はシカゴのサウスサイドにある黒人が大多数を占める地域出身だっ
た。子供のころ、ミシェルと兄のクレイグは、両方とも優等生で(プリンストン
大学卒)、優秀なバスケットボール選手でもあった(クレイグは、後に大学バス
ケットボールのスターになり、現在オレゴン州立大学バスケットボール部のヘッ
ドコーチ)。彼らの家庭生活は比較的安定だったが、父親のフレイザーは身体に
障害があって、不自由な生活を送っていた。ミシェルは一所懸命勉強して、一家
のために苦労してくれた父親が誇れるような人間になろうと努めた。兄と同様、
プリンストン大学を卒業してから、ハーバード大学法学部の大学院に進学した
(年下だが、バラクの「先輩」に当たる)。

ミシェルは用心深く、バラクとのデートに彼女のガールフレンドも連れて来た。
しかし、バラクはミシェルにしか興味を示さなかった。やがて、ミシェルは彼と
バスキン・ロビンスというアイスクリーム・ショップでデートすることに同意した。
チョコレートアイスクリームを食べながら、2人は次第に親密になっていった。
ある日、バラクはサウスサイドにある教会の地下で自分が主催している成人学校
にミシェルを連れて来て、そこで、主に母子家庭の母親たちを対象に、白人と有
色人種(特に黒人)との間にあるギャップをいかになくしたらよいか、その方法
について話をした。その話を聞いて、ミシェルは彼にすっかり惚れてしまった。
以来2人は、婚約状態になった。

バラクとミシェルは、彼がハーバード大学に戻ってからも、デートを続けた。バ
ラクは大学院で、残る2年間を通じて、彼の巧みな雄弁と説得力で、自分とは意
見が違う仲間ともじっくり話し合って、(全員が同意できるような)妥協案を案
出する才能をしばしば発揮した。こうして、彼はハーバード法学レビューの編集
員に抜擢された。それだけではない! 1990年には、進歩派の仲間たちが彼
を、その雑誌の編集長選の有力な立候補者に担ぎ上げることにも成功した。当時、
大学構内では、第一次湾岸(イラク)戦争などをきっかけに、リベラル(進歩)
派と保守派との間で、かなり激しい意見の対立が起こっていた。進歩派とは、男
女同権(平等)を実現したり、社会から人種差別を撤廃したり、失業者や貧乏人
たちを救済したり、自然や環境を保護したり、戦争をやめさせたりするために、
政府がもっと積極的に協力すべきであるというような進歩的な意見を持つ人々を
さす。他方、保守派とは、因習的な従来の制度に満足し、社会の変化(改善や改
革)に抵抗、あるいはそれを妨害するなど、いわゆる旧態依然とした物の考え方
をする人々をさす。バラクは明らかに進歩的な考え方の持ち主だった。しかしな
がら、彼は心の広い人物だった。彼は常に、各々の問題について、両者の意見を
じっくり聞いた上で、自分自信の結論を出す習慣にしている。だから、保守的な
意見の持ち主も、バラクのこの柔軟な性格が好きだった。そこで、法学レビュー
の編集長選挙中、これらの保守派は、自分たちの候補者が勝ち目がないと悟ると、
デビッド・ゴールドとの決戦投票でバラクを支持した。というのは、バラクが保
守派の意見に同意しないにしも、彼らの意見を少なくとも考慮してくれることを
知っていたからだ。

こうして、レビューの編集長に当選したバラクは、就任早々困難な問題に一つ直
面した。75人という大所帯の編集部内で、わずか数名にしか、(編集部をやり
くりする)特別の役職を与えることができないからだった。彼は黒人、女性、あ
るいは他のマイノリチー(小数派)がそれまで長い間、このような役職を与えら
れなかったという歴史を鑑みて、できれば彼らに、優先的に役職をあげたかった。
しかしながら、白人だからという理由で、適材(優秀な人材)を役職から除外す
ることもできなかった。白人に対する差別扱いになるからだ。彼は色々熟慮した
末、最終的には、多彩なグループにそれぞれ、役職を分配することにした。しか
しながら。その決断は、多くの黒人から批判(苦情)をこうむることになった。
彼らは「過去の穴埋め」を期待していたからだ。彼らの失望にもかかわらず、バ
ラク指導下のレビューはスムーズに作動し、人々は彼を公平かつ老練な編集長と
して讃えた。

ここまで読んで、不意に私の脳裏にひらめいたある夢想があった。日本の
皇太子夫妻はほぼオバマ夫妻の年頃であると。もし、この皇太子夫妻が皇居
(正確には、東宮御所)を後にして、敢えて「民間人」となって、バラクやミシェル
のように、その優れた才覚を発揮したら、日本はどんなに良くなるだろうかと。
もちろん、夫妻とも皇室では「進歩派」であると私は解釈しての話だが。。。
少なくとも、この子供向けの本(英文原書でも邦訳でも)を、ぜひ夫妻に一度だけ
読んでもらいたいと思った。 YES WE CAN!


続く

2008年11月19日水曜日

「乳がんと牛乳」(こみち書房)
気になる内容、どう読むべきか?

素人の手によるいわゆる「研究」には穴だらけが多い。実験的「確証」もないまま、
純然たる「仮説」を事実かのように主張する「悪書」(誤解をもたらす本)を売
りさばく著者がいたら、その道の専門家は、それを批判し読者に警告を与える社
会的な義務がある。しかも、裏で操作して、そのような批判を「ネットから勝手
に削除させる」出版社が出没し始めたら、尚更のことである。なぜなら、その出
版社は、その本の内容に「問題」があることを、既に自覚しながら、なお本を売り
続けているからだ。

さて、英国の有名な地球化学者(癌研究者ではない!)ジェーン・プラントが自
分の乳癌体験を綴った数年前のベストセラー英文著書「YOUR LIFE IN YOUR HANDS」
が、最近ようやく邦訳されて「乳がんと牛乳」というタイトルで出版された。彼
女の度重なる乳癌再発の原因が、なんと「牛乳」だったという意外な (しかも、
特に世界的「金融危機」に瀕して、酪農業者にとっては極めてショッキングな)
話である。

彼女の乳癌に関する研究 (?) 内容は、医学雑誌には一度も発表されたことがな
いし、彼女の癌に関する主張には、異論が多々ある。例えば、ネズミに牛乳を飲
ませて、乳癌の発生に成功したなどという報告は一例もない。従って、読者各々
が読後に、内容の「善し悪し」を自ら判断する必要がある。彼女自身が主張する
ように、自分の体 (病気) については、医者のいうことをそのまま鵜呑みにせず、
自身の判断に基づいて、ケアすべきだからだ。世の中には、(製薬会社と癒着する
) でたらめな薮 (やぶ) 医者が意外に多いのだ。

牛乳は元来、子牛の成長のための母乳である。だから、成長ホルモンや栄養が当
然タップリだ。赤ん坊の細胞はそれを吸ってすくすく成長する。しかしながら、
成人した我々の体では、正常な細胞は大部分成長が止まっている。例外は癌患者
の「癌細胞」である。癌細胞は栄養に飢えているから、牛乳の栄養を吸って増殖
を続ける。牛乳ばかりではない。カロリーの高い栄養食は全て、癌の栄養になる。
だから、癌患者は療養中、節食 (腹七分目) が必要なのだ。乳製品だけに限らな
い。

この本の訳者は、栄養医学者だが、癌には疎いようだ。「牛乳バッシング」的な
タイトル (結論) は、著者 (地質学者) および訳者の早計の至り (あるいは牛乳
のみに拘泥し過ぎる) としか言えない。

「肥満体 (あるいはメタボ) の患者の癌は治療しにくい」という癌の常識を、癌
患者は肝に命じるべきだ。過剰な脂肪が癌に栄養を供給し続けているからだ。そ
ういう(より巾広い) 視野から、この本を改めて読み直してみると、意外に有益
(得るところが多い) かもしれない 。

小説は多分例外だろうが、一般的に本というものは、特にノンフィクション物は、
読者の洞察力をそのまま反映する「鏡」のようなものである。もちろん、1を読
んで10を知ることができれば理想的である。1を読んで1しかつかめない(鵜
呑みする)ようでは、読者として失格である。得るものがほんのわずかだからだ。
10とはいわなくても、3から5ほど学ぶことができれば、かなり優秀だろう
(頭を駆使して「行間を読む」努力をしよう!)。

そうすれば、癌ばかりではなく、老化も防ぐことができる。なぜだろう? 脳と
は(使えばの話だが)体の中で(筋肉以上に)最も糖分を消費するところなので
ある。糖分を効率良く消費すると、余分な糖分で肥満、糖尿病、認知症(アルツ)
などの老化現象に陥ることを防止することができるからだ。

2008年11月17日月曜日

「金儲け」のみが目当ての悪書:
「東大合格生のノートはかならず美しい」 (文藝春秋)

結論:
私の結論をまず言わせてもらえば、(目下、巷でバカみたいに売れている)この
本は「お金を払ってまで、読むほどの価値はない!」

総論:
私がここで、若い高校生たちに特にお勧めしたいことは、他人の真似をせず、自
分に最も適した記憶のしかた、メモの取りかたを含めた「頭の整理方法」を自ら
編み出す努力をしてもらいたい、ということである。東大に入学するだけが人生
ではない! 我々の人生はもっとずっと「多彩」であるべきだ。そういう多彩さ
に「美しさ」を見つけてほしい。

(「金儲け目当て」の本や業者の宣伝に盲従して)軍隊の兵士のように皆んな同
じ色の制服を着て、号令一下、同じ「コクヨ」のノートを使って、青春の貴重な
時間を過ごすのは、戦争中の「学徒出陣」を連想させ、はなはだ「醜い」と(欧
米で自由を長らく謳歌してきた)私には思えてならない! 

ノートとは「覚え書き」である。忘れないで覚えておきたいことをちょっと書き
残すメモ帳である。従って、その内容や書き方は人それぞれである。少なくとも
自分で読めれば十分で、「美しい」必要は全くない。東大生のノートが「美しい」
という(著者の)評価は、どんな基準に基づいているのか定かでないが、自分の
ノートをみて、美しいと思ったことは一度もない。だから、この本の表題は「根
本的に間違っている!」 もちろん、私は他人のノートなど覗いたことはない。
(自分に)役に立つはずがないからだ。

各論: 
高校でも大学でもそうだが、教師は大部分、指定された教科書に基づいて、授業
をする。従って、教科書を予習しておけば、教師の喋っていることは大部分、教
科書に書いてあることがすぐ分かる。従って、授業中、特にメモすることはない
のだ。例外は英語とドイツ語(第2外国語)の授業にサイドリーダー(副読本)
を使って、邦訳をやらされる場合である。私は自分で単語帳を作って、自宅で予
習のときに、新しく出会った単語を辞書で調べて、その意味を書き留めておく。
この2冊の単語帳が私の唯一のノートだった。お世辞にも美しい筆跡ではないが、
自分で読める字だから、すこぶる重宝した。そのおかげで、欧米で30余年も生
活しているが、言葉にはほとんど不自由しない。

国際学会で、講演者のしゃべっている内容を一々克明にメモしている学者連中を
良く見かける。私は学会でメモをとることは非常に稀れだ。メモしたいことがあ
れば、講演要旨の余白にちょっと、2、3単語を書き残せば十分である。私の
「モットー」は、人間というものは、大事なことはメモしなくても覚えていると
いうことだ。例えば、3食をうっかり忘れることは、他によっぽど興奮すること
がない限り、一生に何度も起こるものではない。そして、もし仮に、忘れたとし
たら、多分そんなに大事なことではないのだ。だから、私はもはや、ノートなど
一冊も持っていない。

私見:
事実は恐らく「東大生のノートにはきちんと整理されたものが多い」。ノートと
はその持主の頭の状態を良く反映するからだ。それを「かならず美しい」と主張
するのは、非科学的であるばかりでなく、歪曲もはなはだしい。売らんがための
ガメツイ(ウソの)広告に過ぎない! もう1つ警告しておくが、頭の整理され
てない人間がノートの(美しい)書き方だけを真似しても、東大入試には合格で
きないだろう。 頭に益々混乱が生じて、どの大学入試にも失敗するかもしれない。。。

そんなに東大に合格したかったら、すばらしい解決法が1つある。日本全国にあ
る大学を全部「東大」と改名し、全国一律の入試をして(合格者の最低点の順番
に)東大1、 東大2、 東大3、。。。東大365などと番号をつける。
成績がトップの3500名(定員)をまず東大1に割り当て、次の成績の者は東
大2の定員(例えば、3000名)以内で入学を許可される。
そうすると、日本全国の大学生が全員、あこがれの「東大生」になれる。。。 
どうだろうか? 美しい「コクヨ」のノートなど全く不要だ!

あるいは(理系の「ノーベル受賞者」が抜群に多い)京大にも敬意を表して、理
系(京大)と文系(東大)は別個の入試をし、京大1、2、3。。。
東大1、2、3。。。 というように全国の大学を2分するのもよいかもしれない。
多分、芸術家(音楽家、画家など)志望の学生には、芸大1、2、3 も必要だろう。。。

2008年11月10日月曜日

『トゥレット症候群』との闘い

自分の意志とは関係なく, 突然繰り返して起こる運動チックと音声チックの
両方が多様に現れ、それが一年以上続くと『トゥレット症候群』(TS)と呼ば
れる。

発症頻度は少なくとも5千名に1名とされ、男女比は3対1と男性に多い。
脳内の神経伝達物質(ドーパミン、セレトニン等)の異常とみられるが、詳しい
原因はまだ不明。「TS」は遺伝的要因が強く、神経伝達物質阻害剤の投与で症
状がある程度抑えられる。

運動チックとは、まばたき、口を尖らす、顔しかめ、首振り、肩のぴくつき、
他人や物へのタッチ、匂い嗅ぎ、キック、ジャンプなどである。

音声チックとは、咳き払い、ノド鳴らし、鼻鳴らし、 甲高い声、
意味不明な言葉や自分または、他人の言葉尻りの繰り 返し、
時には卑猥な言葉や非常識な言葉を発してしまう場合もある。

平均6-8才に出現し,強くなったり, 弱くなったりして持続する。

「TS」は、母親の愛情不足とか、躾が悪いからだ、と従来言われてきたが、そ
れは間違いである。しかしながら、そういう周囲の誤解で、悩み傷ついている家
族が数多くいる。

この本 (Against Medical Advice) は、「TS」をわずらう息子コリー とその両
親の何十年にもわたる苦しい闘いと葛藤を綴った実話である。病気の原因がわか
らないので、医師からも適切な治療やアドバイスが得られない。周囲からは、誤
解によるいじめや非難を受ける。最後に両親の愛情に守られ、コリーはこの「T
S」から解放される。目下、NYタイムズ「ベストセラー」のトップに迫りつつ
ある感動の読み物。。。

2008年10月28日火曜日

ウオレン・バフェット伝 ("The Snowball" by Alice Schroeder)

米国のカリスマ投資家ウオレン・バフェットに関する評伝「雪ダルマ」が目下、
NYタイムズのノンフィクション部門のベストセラー・リストのトップを占めてい
る。80年前の「世界大恐慌」の訪れを思わせる世界的「金融危機」に瀕している今
日の資本家やビジネスマンにとっては、あたかも「救世主」のような存在らしい。

正直言って、株や投資に全く縁のない純然たる学者の私には、彼の名前は初耳だっ
た。大恐慌の真っただ中、1930年に生まれた彼は、既に喜寿(77歳)を越
え、仕事を息子に譲りつつある。当然「先見の明」があって大成功した(今日、
IT王として知られる「ビル・ゲイツ」をもしのいで、世界で最も富裕な実業家
である)彼が、今日の「金融危機」は本の序の口で、これからドンドン悪化し続
けるだろう、と語っているから、覚悟を十分にしたほうが良かろう。。。

彼が破竹の勢いであるオバマ大統領候補 (民主党) を積極的にバックアップして
いるというから、大変面白い。「鬼に金棒」と言えるだろう。「鬼」と言っても、
(あの「ジョージ・ブッシュ」と違って) オバマは極めて善良な鬼だが。。。ひょっ
としたら、彼は来たるべき「オバマ政権」の財務長官に最適任かもしれない。。。

英文原書は大作で、千ページに近いので、とても直ぐ読み終えるというわけには
いかない。「斜め読み」で、全体の感触を何とかつかみつつあるところである。
大きな雪ダルマを作るには、「湿った雪」と「長い傾斜(スロープ)」が必要だと、彼は言う。
ドライなビジネスでは、成功しない。温かい人情が必要だ。そして「せいては事
をし損じる」。長い時間をかけてゆっくり坂を上り下りしなければならない。。。

こうして、雪深きオマハという片田舎に「正直者」の彼が始めた「Berkshire
Hathaway」社という雪ダルマの「芯」が誕生し、最後に巨万を築き上げたのだ。。。
だから、彼は世界中のビジネスマンから尊敬を集めているといわれている。

2008年10月13日月曜日

Aglow in the Dark (Green Fluorescent Protein)

「GFP物語: ノーベル賞にきらめく蛍光クラゲ」

目次
序文 (シルビア・ナサー)
はしがき
1。 生命体の発する光
2。 海に住むホタル
3。 被曝地「長崎」から
4。 蛍光オワンクラゲの謎
5。 虹のかなたに
6。 輝くバクテリア
7。 線虫の出番
8。 蛍光トレーサー
9。 バラ色のスタート
10。 珊瑚礁の真っ赤なアネモネ
11。 脳や鼻の中を照らし出す
12。 アイディアのひらめき

1960年代初頭に発光クラゲから発見された蛍光タンパク質「GFP」が今日、
生物学や医学の研究分野で、放射性アイソトープの代わりに「トレーサー」とし
て、極めて広範囲に利用されるようになり、その発見者 (下村 脩) や開発者 (マーチ
ン・チャルフィー及びロージャー銭)に本年のノーベル化学賞が与えられるとい
うニュースが最近報道された。GFP融合遺伝子を発現する透明な線虫を使って、
制癌剤の自動スクリーニング法を開発しつつある私自身もその吉報に、受賞者と
共に喜びを分かち合いたい。実は昨年に米国のエール大学の神経生理学者ビンセ
ント・ピエリボンとジャーナリストのデビッド・グルーバー が共著で、GFP
の発見の歴史やその応用について、一般大衆向けの本(300ページ弱)をハー
バード大学出版から出している。英文原書のタイトルは「Aglow in the Dark」
(暗闇の灯)。邦訳はまだ出ていない。

キューリー夫妻が発見したラジウムが暗闇で美しい蛍光を発することは有名な話だ
が(実は、時計の文字盤に使う夜光塗料には微量のラジウムが含まれている)、
色々な生き物にも蛍光を発する物質が存在している。一般的に最も良く知ら
れているのは、ホタルの光をもたらす「ルシフェリン」という物質である。それ
自体は蛍光を発しないが、ATPと「ルシフェラーゼ」という酵素の存在下で、
酸化されると蛍光を発するようになる。この現象を発見したのは、1950年代
初頭、米国のジョンス・ホプキンス大学の院生だったバーナード・ストレーラー
(1925ー2001)である。その後、彼は老化現象の専門家になる。 

さて、海洋生物の中にも、ホタルイカのようにルシフェリン系の蛍光を発するものがある。
1960年代初頭、米国のプリンストン大学にポスドクとして研究留学中だった下村 
脩は、米国大陸を車で横断して、ワシントン州の西部海岸で、暗闇で緑色の蛍光
を発するオワンクラゲの大群に出会った。それにすっかり魅せられた彼は、その
後20年近い歳月をかけて、その蛍光の謎を解く研究に没頭する。意外にも、この
蛍光には2種類の蛋白質が関与していることがわかった。「エクオリン」という蛋白は、
カルシウムに結合すると、青い光を発する。その青い光を吸収して、緑色の蛍光
を発するのが、「GFP」という蛋白質である。

1992年にウッズホール海洋研究所のダグラス・プラッシャーがGFP遺伝子
のクローニングに成功すると、瞬く間にいわゆる「GFP革命」が勃発する。1
994年にコロンビア大学のマーチン・チャルフィー教授が、大腸菌や線虫でGF
P融合遺伝子の発現に成功、青い光を照射すると、これらの生物が緑色の蛍光に輝
くことを確認する。まもなくカルフォルニア大学(サンディエゴ)のロージャー銭
が、GFP遺伝子に変異をかけ、数倍強い蛍光を発する改良型の開発に成功する。

1。 生命体の発する光

基本的には、摂氏525度以上に加熱すれば、固体なら何でも幽かな鈍い赤色の光を
放つ。温度がさらに高まると、色はさくらんぼの赤から、黄色に変わり、最終的
には太陽のごとく白色になる(太陽の表面の温度は、摂氏5500ー6000度
といわれている)。

ホタルの光など生命体の発する光の顕著な特徴は、(熱を大量に発生する) 電灯
や太陽光と違って、熱の発生を全く伴わないことである。それゆえに、無熱光とか
「バイオ・ルミネッセンス (冷光)」とか呼ばれる。化学エネルギーが100%、光エ
ネルギーに変換される極めて効率の良いシステムである。トマス・エジソンが発
明(あるいは初めて実用化)したといわれている「白熱電球」はしばらく点灯し
ていると、素手ではとても触れないほど熱くなる。電気エネルギーの9割が(赤
外線を含む)熱エネルギーに変換し、わずか1割が光(可視光線)エネルギーに
変換されるからである。もし、ホタルがこんな(光効率の悪い)システムを使っ
ていたら、熱で焼き切れてすぐ死んでしまうだろう。ちなみに、蛍光ランプ(基
本的には水銀灯)も熱光ではあるが、25%が可視光線、30%が赤外線、残り
(45%)が熱エネルギーに変換するので、白熱電灯よりは、可視光効率がずっ
と高い。

発光生物に関する研究にもっと科学的なアプローチがなされたのは、17世紀に入っ
てからの話である。ロンドン王立協会の創立者ロバート・ボイル(1627ー1
691)は、自然科学に基づいて結論を引き出そうとする新しい研究者/哲学者学
派の一人だった。1667年の後半、オックスフォードに滞在中、蛍光キノコの入っ
た鐘形ガラス器から(原始的な真空ポンプを使って)空気を抜くと、蛍光が消え
ることを発見した。空気を戻すと再び発光し始めた。こうして、彼は冷光に関する
最初の化学的性質について発見した。つまり、冷光には空気が必要である。16
72年12月に、その実験結果を王立協会の機関誌に発表した。しかしながら、当
時には、空気の組成が全くわかっていなかった。それから約一世紀後に、空気の約
5分の1を占める「酸素」という(我々の生命や燃焼に必要な)気体が発見されて、
「冷光には酸素が必要である」ことが明らかになる。

ボイルによる酸素の必要性に関する発見後2世紀の長きにわたって、生命体の冷
光に関する研究にはほとんど進歩がなかった。

さて、冷光に関する研究に転機が訪れたのは1887年のことである。その年、
フランスのリヨン大学海洋研究所(メル河畔タマリス)のラファエル・デュボア
所長(生理学教授)が画期的な発見をした。2つの化学物質が冷光に必要である
という結論に達した。彼はその1つを「ルシフェリン」(発光素)、もう1つを
「ルシフェラーゼ」(発光触媒あるいは酵素)と名付けた。語源はラテン語の
「ルシファー」(金星、暁の明星、灯をもたらす者)から来ている。

彼は西インド諸島に生息する発光虫(コメツキ虫の一種)に興味をもった。この島の
原住民たちはこの発光虫を色々な形で灯の代わりに利用していた。例えば、夜中、
森の道を歩く際、両足の爪先にこの虫をくくりつけて、懐中電灯の代用にしたり、
部屋の照明に利用していたりしていた(日本の「蛍雪時代」、ホタルの光、窓の雪を
連想させる!)。これらの習慣は、(今から2千年ほど昔のローマ帝国時代、ポンペイ
に住んでいた生物学者)プリニウスによる冷光に関する記述以前にさかのぼることができる。

デュボアは生まれたばかりの幼虫にも、小さいながらもちゃんと発光器官が備わっ
ており、虫が死んだあとでも発光がなお持続していることに注目し、その不思議
なメカニズムを詳しく研究して、その結果を275ページにもわたる大作にまと
めている。

デュボアはまず発光虫の死骸をすりつぶした後、冷水で抽出すると、しばらく蛍
光が持続したのち、消えることを観察した。次にすりつぶしたものを、熱湯で抽
出してみた。蛍光は全く出なかった(たとえ、あとで冷却しても)。ところが驚
いたことには、熱湯エキスを、蛍光が既に消えた冷水エキスに加えると、蛍光が
再び現れ、やがて消えた。従って、熱湯エキスの効果は一過性だ(いったん消費
されると効果がなくなる)。その現象はこの発光虫に限らず、例えば、食用の
発光貝でも同じだった。

これらの簡単な実験から彼は、2つの重要な結論を引き出した。まず第一に、
この発光現象には、2つの異なる化学物質が必要であること。次に、(熱湯エキス
に含まれる)「発光素」(=ルシフェリン)は熱に安定であるが、(冷水エキスのみに
含れる)発火物質、つまり「触媒」(=ルシフェラーゼ)は熱に不安定であること。

しかしながら、ルシフェリンやルシフェラーゼが一体どんな物質であるかが分子
レベルで解明されるまでには、その後半世紀以上の歳月がかかった。この難問に
果敢に挑戦し、初めてその謎解きに成功したのは、1950年代初頭当時、米国
のジョンス・ホプキンス大学生物学科のウイリアム・マッケルロイ(1917ー
1999)の研究室で働く若き院生だったバーナード・ストレーラー(1925ー
2001)だった。彼はまず1949年に、テネシー州オークリッジ国立研究所
でホタルの光をもたらす「ルシフェリン」という物質を精製した。それ自体は蛍
光を発しないが、ATPと「ルシフェラーゼ」という酵素の存在下で、酸化され
ると、効率良く蛍光を発するようになることをジョンス・ホプキンス大学で、同
僚のジョン・トッターと共同で1953年に発見した。「ルシフェラーゼ」自体
の精製および結晶化は、1956年に同教室の院生アルダ・グリーンによって成
功した。「ルシフェリン」の化学構造は、同大学化学科のホワイトとマックカプ
ラにより1961年に決定された。その後、バーナードは研究分野を変え、老化
現象の専門家になる。 ちなみに、マッケルロイはプリンストン大学時代に、エ
ドマント・ハーベイ教授の弟子(院生)だった。

中略

第二次世界大戦後、ソ連の海軍は極秘に海洋生物の冷光について研究し、海軍の
作戦に対して冷光がおよぼす影響について吟味している。その調査を指揮した有
名なソ連海軍の将校、ニコライ・タラソフは1956年に、夜中の冷光が船の運
航の妨げになることを報告している。

中略

潜水艦の乗員たちは、しばしば冷光の軌跡を利用して、標的に向かう魚雷の進路
を追跡することができる。しかしながら、冷光は逆に、自分たち味方の戦艦の居
場所を敵側に教える結果にもなる。(タラソフの調査によれば)1918年11月
9日の夜中、地中海のジブラルタル海峡近くで、英国の「Q船」(潜水艦退治を目
的とする商船に見せかけた戦艦) が、海面下に蛍光を発する巨大な長細い物体を
発見した。Q船はその物体めがけて、3発のミサイルと一連の爆雷を発射した。
謎の物体はドイツのUーボート (潜水艦) だった。
「潜水艦を取り巻く強い蛍光生物で、潜水艦の運航が丸見えだった。発見してか
ら30分以内に、その潜水艦「Uー34」が撃沈された。第一次大戦最後の生き
残りUーボートだった。その翌翌日、ドイツがついに降服して、終戦を迎えた」

第二次世界大戦に活躍し始めた空母 (航空母艦) に頼るパイロットたちは、夜間
の帰艦の際、母艦の位置を正確にキャッチするために、母艦が航路に残していく
海洋生物の群による蛍光の帯を、しばしば利用する。その特筆すべき有名な代表
例が実話「消えた月」に登場する (のちに、映画「アポロ13号」にも再現され
る)。宇宙飛行士ジェイムス・ロベルは、月着陸計画に失敗した月ロケット「ア
ポロ13号」の乗組員の一人だが、1954年2月に、海軍のパイロットとして、
日本列島の沖合いで夜間飛行訓練に携わっていた時のことである。その日は荒れ
た天候だったが、米軍空母「シャングリラ」から飛び立った後、飛行機の探知器
が故障していたため、間違った方向に飛び立ったばかりではなく、こともあろう
に、操縦席にある計測器もショートを起こして、ランプが全部消えて、真っ暗闇
に閉ざされてしまった。

パニックに瀕んして、心臓の鼓動がにわかに高まり、喉がカラカラになった。自
分の周囲を見渡したが何も見えなかった。彼はとっさに酸素吸入マスクを頭から
取り外して、ペンライトを口にくわえ、計測器を照らしてみた。この小さなフラッ
シュライトから出る弱々しい細い光線が操縦席の計器のほんの一部、例えば指針
とかダイヤルを照らし出した。彼はできるだけの情報を得たのち、操縦席にもた
れ、次にどうすべきかを思案した。

まず口にくわえていたペンライトのスウッチを切り、真っ暗闇の視界をもう一度
見回してみた。すると、どうだろう、眼下に午前2時の方向に、かすかな緑色の
蛍光が真っ暗な海面に帯状に波立っているのが見えた。その無気味な放射線(蛍
光)は極めて微弱で、もし操縦席に灯があったら、彼はたぶん見過ごしていたろう。
それをみて、彼は心を取り戻した。その不思議な蛍光が一体何であるか、おおよそ
の見当がついていたからだ。空母の後部にあるスクリューの動きによって刺激さ
れたプランクトンの群れが蛍光を発しているのだ! さ程信頼性の高いものとは
言えないが万事が尽きたとき、一旦見失った空母を見つけ出す手助けになること
がある(もちろん、戦争中なら、味方ではなく敵の空母や戦艦である可能性もあ
るのだが)。他によりどころのない彼は、その一条の蛍光に運命を委ねて、母艦への
帰艦を敢行した。


2。 海に住むホタル

ラファエル・デュボアの「ルシフェリン/ルシフェラーゼ」という概念は、半世紀後の
めざましい冷光研究の基礎を築き上げ、米国のマッケルロイ研究室による実物の
精製や発光のメカニズムの解明に結びついたが、冷光の研究を世界的に有名に
ならしめたのは、エドマント・ハーベイだった。

中略

ハーベイは、1887年11月25日に、米国フィラデルフィアの郊外にあるジャー
マンタウンに生まれた。奇しくも同じ年に、デュボアの「ルシフェリン/ルシフェ
ラーゼ」概念も生まれた。その意味で、ハーベイは「冷光の申し子」とも言える。

中略

1909年9月に、ハーベイはニューヨークに移り、コロンビア大学のトマス・
モーガン教授(1866ー1945)の研究室で博士研究を始めた。モーガンは
発生学者だったが、当時既に、ショウジョウバエを実験材料に遺伝学の研究を始
めていた。ハーベイがこの「ショウジョウバエ研究室」に加わった時分、モーガ
ンは奇妙なオスのショウジョウバエの変異株(ミュータント)を見つけた。ショ
ウジョウバエは通常、「赤い目」をしているが、このオスはなぜか「白い目」を
していた。

好奇心に誘われて、モーガンはこの白目のオスと赤目のメスを掛け合わせて、そ
の子孫の目の色を観察した。第一代目の子孫は全部、赤目だった。これらの兄妹
同士を交配すると、2代目に少数の白目が現れた。奇妙なことには、白目のハエ
は皆オスだった。メンデルの遺伝の法則に従って、モーガンはこの交配実験から、
次のような結論を引き出した。まず、赤目は優性、白目は劣性であること。次に、
白目の遺伝形質は性染色体「X」上にあるにちがいないこと (今日の言葉で言え
ば、白目になるのは、X染色体に赤い色素をつくる遺伝子が欠損しているからだ。
メスは一対(2つ) のX染色体をもつが、オスはX染色体とY染色体を1つづつ持
つ。従って、メスの場合は、たとえX染色体の1つに欠損があっても、(正常なもう
1つのX染色体のおかげで)赤目のままだが、オスの場合は1つしかないX染色体
に欠損があれば、全て白目になるわけだ)。

モーガンはこれらショウジョウバエの遺伝学研究により、近代遺伝学を確立し、
1933年にノーベル生理/医学賞をもらう。モーガンの「遺伝子は染色体の上
にある」という概念は、生物学を一変させ、彼のショウジョウバエ研究室はその
後、数多くの有名な遺伝学者を生み出した。1946年にノーベル賞をもらった
ヘルマン・ミュラー(1890ー1967)もその弟子の一人で、X線照射によっ
て、ショウジョウバエに種々の変異を起こし得ることを発見した。

ハーベイはミュラーとほとんど同時期に、モーガンの研究室で研究を始めたが、
彼の関心は遺伝学ではなく、細胞膜の生化学、特に膜透過性に関する研究だった。
2年後に研究を完成し、博士号を取得すると、幸運が彼を待ち受けていた。プリ
ンストン大学生物学科が拡張を機会に、ハーベイに講師の職を提供した。当時わ
ずか23歳の彼は、しばしば学部学生と間違えられたそうである。

彼は当初、のどかな環境に囲まれたこの牧歌的な大学町にあまり刺激を感じなかっ
た。というのは、当時のプリンストン大学では、(彼には全く関心のない)政治
学や哲学など文化系の学問が中心だったからだ。しかしながら、結局、彼はこの
地に教職と研究を死ぬまで半世紀近く完うすることになる。

中略

19世紀の自然主義者、例えばチャールズ・ダーウインのように、ハーベイには
「新発見のための航海」をやってみたい冒険心に溢れていた。そこで、ダーウイ
ンによる有名な「ビーグル号航海」に匹敵するような一連の探険を、ハーベイは
試みた。彼の初期の訪問先は、米国領のサモア、ハワイ、キューバ、日本列島、
朝鮮半島、満州、フィリピン諸島、シンガポール、バリ島などであった。191
3年に、彼はその後のキャリア(研究歴)を一変させることになる航海に出かけ
た。ペンシルバニア大学の元教授であるアルフレッド・メイヤーとともに、豪州
のグレート・バリア・リーフ(大珊瑚礁)、シドニー、ブリスベン、タウンズビ
ル、ケアンズ、タヒチ、ラトンガ、ウエリントン(ニュージーランド北島)など
の南太平洋岸を訪れた。この航海の一体どこで、彼が冷光に魅せられたのか、はっ
きりしないが、1913年に冷光に関する最初の論文を発表した。題して「ホタ
ルの蛍光物質の化学的性質」。 しかしながら、彼が冷光に一生病み付きになっ
たのは、1916年に日本ヘ、彼がハネムーン旅行にやってきた最中だったのは
疑いない。真夜中、三崎の臨海実験所の近くの海で彼が泳いでいたときのことだ。
日本の海岸の浅瀬に良く見かける「海ホタル」の妖しい蛍光の魔力にとりつかれ
てしまった。

中略

幸いにも、新婚の彼の奥さんエセル・ブラウンが、彼の海洋生物への異常な関心
に対して理解があった。結婚する3年ほど前に、実は彼女もコロンビア大学で生
物学の博士号を取ったばかりだった。彼女の博士研究は水中の昆虫に関するもの
だった。その後、エセルはウニの発生学に専念するようになる。

日本を去る直前に、ハーベイは大量の海ホタルを収集、乾燥後プリンストンに郵
送するための手配をした。冷光の生化学研究の材料として、海ホタルが理想的だ
と考えたからである。というのは、この生き物は乾燥保存しておけば、何年後に
なっても、水を加えて湿らせさえすれば、すぐ蛍光を発するからだ。

中略

1940年代の初頭、日本軍はニューギニアや他の太平洋の戦場で、海ホタルを
戦争道具の1つとして開発するプランを立てた。南太平洋諸島のジャングルを月
が出ない夜間に行軍する際、日本軍の兵士たちは、敵に自分たちの居場所を教え
かねない乾電池の懐中電灯は使いにくかった。そこで、代わりに乾燥した海ホタ
ルが入った小さなバイアルを大量、連隊に配分するという計画を始めた。

中略

太平洋戦争中に、何百キロという海ホタルが日本軍の将兵、学生、ボランタリー
によって収集された。その一部は、(ハーベイが1910年代に収集した)三崎
臨海実験所(東京大学)からそう遠くない館山臨海実験所(お茶の水女子大学)
でも集められた。日本軍は(敵国の学者である)ハーベイが開発した収集法をそっくり
拝借した。大きな魚の頭を紐にぶら下げ、海岸の砂の多い浅瀬の底に置いておく。
2時間以内に、頭の周りが肉をしゃぶりにきた海ホタルの大群でいっぱいになる。
魚の食い残しをたぐり寄せれば、海ホタルは簡単に集められるという寸法だ。
海ホタルは日干しにした後、連隊に郵送される(後述するように、この「戦利品」の
残りが戦後、名古屋大学の平田教授の手に移リ、その研究生となった下村 脩氏
の実験材料になるというわけだ)。

中略


3。 被曝地「長崎」から

1961年の夏休みの頃だった。カナダへの国境に近いモンタナ州北部、グレー
シャー国立公園の南端にあるロッキー山脈のマリアス峠(海抜約1600メート
ル)を乗り越え、大陸横断ハイウエー(ルート2)を新品のブルーに輝くステー
ションワゴンで、突っ走る若い日本人の青年がいた。彼はゆったりと運転席にも
たれながら、移り行く山の景観やミドルフォーク渓谷を楽しんでいた。彼の名は
下村 脩。フルブライト留学生(ポスドク)で生化学が専門だった。彼は車の運
転にそこぶる上機嫌だった。実は2、3日前から東海岸にあるプリンストン大学
を出発して、はるばる西海岸のワシントン州パジェット・ サウンドまで、約5千
キロの大陸横断旅行中だった。運転の相棒は、割腹のよいプリンストン大学の生
物学教授フランク・ジョンソンだった。フランクはなんと日本語を「ノースカロ
ライナ訛り」たっぷりで、流暢に喋る稀れな特技を備えていた。脩の奥さん「明
美」も同乗していた。明美は2、3日前に日本から到着したばかりで、休む暇も
なくこの大陸横断旅行に引っ張り出されてしまった(もっとも英語もまともに話
せない状態で、プリンストンのナソー街にある夫のアパートに独り置いてきぼり
にされたら、それこそどうしようもなくなるだろうが)。

脩は細君が来るまで丸一年間、ろくに家具のないガランとしたアパートに独り住まい
をしていた。彼の部屋のわずかな装飾の1つといえば、ドア(戸口)にセロテープで
貼り付けたルシフェリンの化学構造の手書きコピーだった。彼の住いは粗末だったが、
彼の服装からは、そんな想像が難しかった。毎日12時間も車の中で過ごすにも
かかわらず、彼はきちんとYシャツにボタンをして、ネクタイもし、さらに薄い (愛用
の) カーディガンまで着用していたからだ。旅行の目的は単純だった。こぶし大
のあるクラゲの発する蛍光の謎を解くことだった。2、3か月後に同じ道筋を通っ
てプリンストンに戻ってきてから、脩は生命体のもつ蛍光に関する最大のパズル
の一つを解明したばかりではなく、最終的には生物学の分野全体を輝かせること
になる奇妙な蛍光蛋白を発見する運命になる。

世界大恐慌がやがて訪れる直前の1928年8月に生まれた脩は、その少年時代
を日本の歴史上最も困難な時期に過ごした。太平洋戦争中、陸軍大佐の息子とし
て育ったため、父親の転勤に伴って、佐世保(軍港)から戦地の満州、そして大
阪から最後に1944年7月に諌早へと、転々とした放浪生活を繰り返した。彼
の家族が諌早という長崎の郊外にある静かな農村に落ち着いたのは、脩が15歳
の頃だった。当時、タイに駐屯していた父親が、日本が敗け戦を味わい始めたの
を悟って、留守家族に米軍による空爆の的になりつつある大阪から疎開するよう
に命じたからだ。脩は母親や祖父祖母と共に、たら山の山麓、諌早という田舎に
ある農家に移り住んだ。長崎市の中心から10キロ離れた散村だった。

1944年9月1日の始業式に、諌早中学に進学した脩や同級生は、校長からな
んと「授業はなし」と言い渡された。太平洋戦争中の日本の制度として、生徒全
員が軍事工場で勤労奉仕するために動員されていたからだ。全校300名の生徒
のうち半分は、大村にある海軍の戦闘機(ゼロ戦)の工場へ、残りの半分は長崎
造船所に行かされた。脩は3メートル四方(8畳敷)の寮部屋に他の6人の学友
と共に寝泊りした。食事といえば、粗末で栄養価の乏しいものだった。常食は
(平時には家畜の餌だった)おわん一杯の米と麦とおからの混ぜご飯だった。た
まに、味噌汁とたくわん、あるいは魚か野菜が一皿が出ることもあった。今でも、
当時の空腹状態を脩は思い出すそうだ。

中略

1945年8月9日の朝、諌早は例年通り、早朝から蒸し暑かった。16歳の脩
は半ズボン、白シャツ、運動靴という服装で出勤した。午前10時57分、敵機
の来襲を告げる空襲警報が鳴った。

「我々は工場から飛び出し、防空壕に隠れる代わりに、近くにある丘の上に避難
した。規則違反ではあるが、経験上、そこが安全であることを皆んなが心得てい
たからだ」

額に手をかざしながら、薄ら青い空を見上げてみると、米軍戦闘機の大編隊はな
く、たった一機だけが頭上に、12キロ先の長崎方面に向かって南方に飛んで行
くのを見定めて、ほっと胸をなでおろした。上空を通過したその米軍の爆撃機か
ら、白い落下傘が3つだけ降りてきた。しかし、不思議なことに落下傘部隊が降
りて来る気配はなかった。その落下傘めがけて地上から撃っているのか、2、3
発の銃声がパラパラと聞こえた。まもなく、もう一機の爆撃機が上空を通過し、
同じ方向に飛び去っていった。どうやら、敵機が攻撃をしてこないようなので、
脩は安心しながら、丘を駆け下り、持ち場に戻った。脩は次の瞬間に起こった一
連の恐ろしい出来事を回想する。

「仕事を再開しようとしたとたん、建物の内部に突然、眩しいせん光がほとばしっ
た。あまりにも眩しいので、私は一時盲(失明)状態になった。一分後に炸裂す
る大音響が轟きわたって、その強烈な爆風で両耳がひどく痛くなった。空一面が
見る見るうちに不思議な雲におおわれたのに、私は気づいた。全てが謎に包まれ
ていた」

その日の午後遅く、近くの長崎市で巨大な爆発が発生したことを脩は知らされた。
彼は早めに仕事を切り上げ、祖父祖母が住む家に向かって、帰路を急ぎ始めた。
その朝、快晴であったのに、午後は不思議に空がどんより曇っていた。帰路に周
囲の農村一帯に黒い雨が降り、気味の悪い真っ黒な灰を残していった。その雨水
で彼の白いシャツも黒く染まり、家に着いたころには、まるで頭から炭を被った
ように真っ黒になっていた。

中略

長崎に投下されたプルトニウム原子爆弾(原爆、通称「ピカドン」)の熱波(放
射)は強烈で、人影があちらこちらの建物や街路にネガチブ写真(陰画)のよう
に焼き付けられていた。手押し車を引く男が「炭化」直前に、そのシルエットを
鋪道にくっきりと残していた。被曝した女性たちの肌には、ブラウスや着物の模
様がそのまま「刺青」のように残っていた(白地の部分は熱波を反射するが、濃
い色模様は熱波を吸収するからだ)。脩が目撃した空からの落下傘には、実は各
種の測定器が装備されており、爆発の威力やその他のデータを直接、その爆撃機
に送信するようになっていた。そのデータによると、長崎に投下された原爆の威
力は、TNT爆弾22キロ屯に相当し、その3日前に広島に投下された原爆(ウ
ラニウム爆弾)の2倍に匹敵する爆破力であった。脩の仕事を一時的に中断させ
たあの眩しいせん光は、(米軍側からの1973年の報告によれば)瞬時に4万
人の住民を即死させ、4万人の負傷者をもたらした。2発目の原爆は、その6日
後の8月15日に、日本の軍事政権の無条件降服をもたらし、太平洋戦争がつい
に終了した(実際には、8月7日のソ連による宣戦布告、満州進駐のほうが日本
の軍部、特に関東軍には決定的な打撃になったようである)。

敗戦と共に、脩が工場で働く義務はもうなくなったが、同時に日本中が大混乱に落
ち入っていた。脩は2、3日毎に母校に戻って教師からの指示を仰ごうとしたが、
何の指図も得られなかった。学校は長崎からの避難民の手当てをするための急ご
しらえの病院に早変わりしていた。

「学校は火傷や重傷に苦しむ何百人もの人々でひしめいていた。患者の名前が校
門の前に張った大きな白い紙にリストアップされていた。日毎にその名前が次々
と消えていった。死亡したか、親戚に引き取れたからだろう」

2週間後のある晴れた暑い日に、脩が学校に戻ってみると、リストの半数以上の
名前が消えていた。2、3人の人々が黙々と、校門の外に停めたリヤカーに死骸
を積み込んでいた。棺おけが間に合わないので、死体にはゴザが被せてあるだけ
だった。ゴザの下から死人の両足がむき出しになっているのを見て、脩はストレ
スをひどく感じた。

「私がさらに校内に足を踏み入れると、左側にある校庭をフラフラ、のろのろと
夢遊病者のように歩き回る人々に出くわした。彼らに近付いてみると、火傷の部
分に真っ黒いコールタールのようなものが貼り付いているのに気づいた。背中が
ほとんど全部真っ黒になった「夢遊病者」の一人に近づいて、良く調べ直すと、
その黒い物は、なんと「ウジ虫」の大群だった! 臭った皮膚にたかった蝿が産
卵し、それがふかしたものだった。背筋にぞっと寒気を感じざるを得なかった」

その男だけではなかった。どの「夢遊病者」にも「ウジ虫」が化膿した火傷に巣
食ったいた。

「これらの夢遊病者たちには、もう精神が宿っていないようだった。魂の脱け殻
に近かった。真っ昼間に見る亡霊だった! 私は衝撃を受けて、心臓が止りそう
になった。頭の中が真っ白になって、感覚をすっかり失ってしまった。うるさい
蝉の鳴き声が突然止んだ。その死の光景が私の記憶に深く、永遠に刻み込まれた。
あんな恐ろしい思いをしたことは、その後一度もなかった」

米国マサチューセッツ州ウッズホールにある下村 脩氏の質実剛健(簡素)な書斎で、
2004年まで2年間にわたって、何度かインタービューを重ねたが、彼は窓か
ら外を遠く眺めながら、もう60年近く昔に起こったこれらの出来事をはっきりと
思い出し、我々に説明してくれた。しかし、彼が敗戦直後に目撃した激動時代につ
いては、ほとんど触れてくれなかった。それについて、水を向けると、彼は一言、
こう答えるだけだった。

「我々は生き残るために、出来るだけのことをした。選択の余地はほとんどなかっ
たからだ」

戦後、日本の教育を支える下部組織がすっかりダメ(不機能状態)になっていた。
例えば、脩の学業記録は爆撃で焼失していたし、彼の教師の大半が戦死していた。
前述したが、彼の旧制中学時代の教育は、実に戦争の犠牲(勤労動員)になって、
ほとんど皆無だった。従って、脩による大学への入学申請は、全て拒否された。

旧制長崎医科大学の学生850名の内600名は戦死(爆死)し、残りの大部分
は被曝症に苦しんでいた。教授20名のうち12名が爆死、4名が被曝症にかかっ
ていた。諫早市の旧海軍基地に移転した旧制長崎医科大学附属薬学専門部(長崎
大学薬学部の前身)に、脩が入学を申請したところ、幸い入学が許可され、19
48年に仮校舎へ入学を果たした。といっても、大部分の教授が原爆の犠牲になっ
たので、大学の授業を担当するのは、未経験の非常勤講師ばかりだった。そこで、
脩の知識はほとんど大部分、独学によるものだった。とにかく、1951年にめ
でたく卒業証書をもらい、武田薬品という日本最大の製薬会社に就職を応募した。
しかし、面接試験で、会社には「不向き」という理由で、脩は採用されなかった。

幸いにも、母校薬学部で脩に分析化学を教えていた講師、安永俊五(1911ー1959)
氏が不憫に思い、脩を教務助手として拾ってくれた。安永は当時、京都大学で博士
研究をしながら、長崎で非常勤講師をアルバイトでやっていた。脩は教鞭のかたわら、
安永先生の博士研究の手助けを色々な形でやった。1950年代の初め、安永先
生は、クロマトグラフィーというテクニックを使って、低分子量の有機化合物の
混合物から、各々の化合物を分離する方法を考案しつつあった。それによって、
細胞から糖やアミノ酸などの低分子量の有機物を単離したり、治療薬の開発のた
め有機化学反応の産物を精製したりすることが可能になる。脩は安永先生と共著
で、日本薬学会の雑誌である「薬学雑誌」に8報もの論文を発表した。4年後に、
安永先生は脩の研究ぶりに惚れ込んで、脩自身の博士研究の手助けをするために、
1955年に名古屋大学に脩と一緒に出かけた。当初の目的は、有名な生化学者、
江上不二夫教授に、弟子の脩を紹介することだった。ひょっとすれば、就職先も
確保できるかもしれないと考えていた。

さて、名古屋に到着してみると、あいにく江上教授が学会で留守をしていた。戦
後既に10年も経っていたが、電話がどこにでも自由に通じるという状態ではな
かった。失望しながらも、理学部化学科の研究室をぶらぶら訪ね歩いているうち
に、40歳で教授になりたての平田義正氏(1915ー2000)にばったり出
会った。平田教授は江上先生の弟子でもあり、6年前に博士号を名古屋大学から
取ったばかりだった。(米国留学帰りで)身なりがくだけていたので、しばしば
院生と間違えられることがあった。彼も研究室で天然化合物を分離、精製するこ
とに喜びを感じていた (ちなみに、天然物化学の世界的権威であるコロンビア大
学名誉教授の中西香爾も、平田氏の弟子である)。

そこで、安永が平田教授に、江上教授に会うために、はるばる長崎から夜行列車
で名古屋までやってきた事情を説明した。すると、平田教授はこう答えて、さっ
さと自分の研究室に戻っていった。

「もちろん、僕の研究室にいつ来てもかまわないよ」

安永も脩もきょとんとして、お互いに顔を見合わせた。実は、平田教授は片方の
耳が難聴だった。彼は2人が自分に会うために名古屋へ来たと早合点したのだ。
平田教授に近しい同僚たちは、誤解を避けたいときには、いつも彼の良い方の耳
に向かって大声で話す習慣にしていた。

理学部の出口で立ち止まり、安永は明らかに戸惑いながら、脩にこう訊いた。
「君、どうするつもりかね?」
「僕はかまいませんよ。誰とでもつき合えますから」
脩は、名古屋駅に向かって歩き始めながら、そう答えた。1か月後に、長崎大学
に在籍しながら、平田教授の研究室に研究生として、仕事を始めた。初日に平田
教授は大きなデシケーターを脩の目の前にもってきて、中から乾燥したウミホタ
ルの欠片を取り出して、手の平で粉砕してから、水を添加した。その瞬間、それ
が青い蛍光を発し始めた。平田教授は脩に言った。
「これは誰も知らない謎だ」
発光の化学反応について、未知だということだ。教授はなぜこの研究テーマを脩
に与えるかを説明した。院生にウミホタルの研究テーマを与えれば、失敗するチャ
ンスが極めて高いからだ。というのは、プリンストン大学で40年も研究し続け
ているハーベイ教授でさえ、その謎が未だに解けないからだ。脩は唯一の研究生
だから、たとえ失敗に終わっても元々だと考えたわけである。

脩の使命は、ウミホタルのルシフェリン、つまり蛍光を発する物質を、純粋に単
離することだった。そうすれば、その化学構造を決定することができるからだ。

中略

1955年の春、脩はウミホタルからルシフェリンを結晶化する仕事に着手した。
まずハーベイのグループによって開拓された方法に基づいて、ルシフェリンをで
きるだけ濃縮し、さらに収量と純度を高めるために、いくつかの改良を重ねた。
酸素を除くと収量がよくなることを見つけた。そこで、危険は十分承知で、ルシ
フェリン精製の全工程を水素ガス存在下で行なった。水素ガスは引火すると爆発
するので、タバコやストーブなどの火元を極力避ける必要があった。だから、寒い
冬の作業は特に厳しかった。各工程に7昼夜ぶっ通しの作業を要した。しかし、
10か月後に純度の高いサンプルが得られたにもかかわらず、結晶化には成功
しなかった。

さて、ある日のことだった。その日も結晶化に失敗して、サンプルを強酸の溶液
に漬けたまま帰宅した。翌朝、研究室に戻ってみて、びっくり仰天した。赤い微
小な結晶が、放置しておいた溶液から析出しているではないか! 結晶化したル
シフェリンの比活性は、原料の乾燥ウミホタルの37、000倍だった。純度で
言えば、ハーベイのグループが作ったサンプルの20倍に相当した。弱冠27歳
の脩にとっては、素晴らしい業績だった。

「もちろん、成功は偶然の出来事だったが、それでも自信が湧いてきた。不可能
でなければ、何でもやってやるぞ、という意気込みができた」

1956年3月頃、地元名古屋の中日新聞に写真入りで、脩と同僚後藤君によるル
シフェリン結晶化に関する記事が掲載された。その翌年に脩は、日本化学雑誌に
「海ホタルルシフェリンの結晶」に関係する論文を初めて発表した。1960年
には同じ雑誌に、そのルシフェリンの化学構造を発表する(それが、脩の留学先
のアパートの戸口に貼り付けてあった例の戦利品だ!)。過去何十年もの間海外
の研究者たちを悩ませ続けた困難を、見事に克服した脩の成功に平田教授は感嘆
すると共に、何かこの若者に褒美を与えようと考え始めた。。。

さて、お話変わって、米国のプリンストン大学では、ハーベイ教授夫妻がとうと
う引退し、その高弟であるフランク・ジョンソンがその後継ぎになって、195
7年頃から、問題の多い海ホタルの蛍光に関する研究に本腰で取り組み始めた。
その夏、わざわざ来日して、伊豆半島で海ホタルの蛍光物質の精製に精を出して
いたが、研究設備の貧弱さと夏の猛暑に悩まされ、失望しながら帰国してまもな
く、例の脩の論文について知った。そこで、フランクは脩に渡米して、彼の研究
室で一緒に仕事をしようではないか、と提案した。もちろん、脩はそれを快く承
諾した。

平田教授の計らいで、脩は1960年に名古屋大学理学部から博士号を取得後、
「フルブライト奨学生」に選ばれ、プリンストン大学のフランク・ジョンソン教
授の研究室でポスドクとして研究を始めるため、氷川丸に乗って渡米の途につい
た。平田教授は(自分の「聞き違い」が元で)、脩に良い「餞別」ができたと秘
かに喜んだ。。。

平田教授は1952年にハーバード大学のルイス・フィーザー教授の研究室に客
員教授として、ステロイドに関する共同研究のため、一年間余り滞在していた。
だから、米国の大学における研究者の給与制度に比較的明るかった。当時、博士
号をもたない研究者の初任給(月給300ドル)は、ポスドク(博士号を持つ研
究者)サラリーの半分に過ぎなかった。そこで、フランクからの招聘を聞くや、
平田教授は早速、脩に博士号を(餞別代わりに)与えることに決めたのだ。

「博士号は私の視野にはありませんでした。私は自分に与えられた仕事を遣り遂
げたに過ぎません。博士号は、いわばボーナスでした」

脩は当時を回想してそう語る。皮肉にも、彼が研究材料としてふんだんに使うことがで
きたあの大量の海ホタルのコレクションは「戦争の副産物」だった。米国の研究者
グループは、戦争中、日本海沿岸で海ホタルを大量に収集するチャンスや余裕な
どがなかった、そのために、プリンストン大学のグループはルシフェリンの単離
にとうとう失敗した。同じ戦争は、脩の中等教育と生活を犠牲にしたが、少なく
とも彼にノーベル賞に価する科学研究への踏み台を与えることになった。


4。蛍光オワンクラゲの謎

脩が1959年にプリンストンから招待状を受け取る頃には、エドマント・ハー
ベイ教授の容態が急速に悪化し始め、フランク・ジョンソン(1908ー199
0)がプリンストンの研究室を切り盛りするようになった。ハーベイ教授はその
年の7月21日に他界した。脩が渡米する14か月ほど前だった。フランクは脩
の旅費をカバーすると申し出たが、自信にあふれ誇り高き若武者はフルブライト
奨学金に応募し、それを見事にものにした。この奨学金は往復の旅費と数週間の
英語レッスンに必要な経費をまかなうものだった。1960年8月、脩は単身赴
任で、他の数十名のフルブライト奨学生や家族と共に、横浜港の桟橋から「氷川
丸」に乗り、渡米の旅に出発した。この12、000屯の豪華船(日本郵船によ
り1930年に竣工)は、太平洋戦争中は専ら病院船として活躍、幸い戦火を免
れた唯一の豪華貨客船で、「太平洋の女王」という異名をもっていた。老朽化し
たため、1960年の周航を最後に、以後山下公園内に停留している。脩はその
旅をこう述懐している。

「船旅は北回りで、アリューシャン列島やアラスカ州の南岸を経由して、13日
間で、米国西海岸にあるシアトルに到着した。それから、米国大陸をアムトラッ
ク鉄道の「プルマン寝台車」で3昼夜かけて横断して、東海岸に近いプリンスト
ン郊外に到着した。それは私にとって、初めての海外旅行であり、我が生涯で最
も贅沢な旅だった」(それから、13年後に訳者自身も同じ航路で、初めての渡
米を楽しんだが、その頃には太平洋航路には客船がもはや走らくなったので、米
国の巨大コンテナ船「オレゴン号」で、シアトルまで9日間で太平洋を渡った。
客船ではなかったが贅沢な船旅だった)。

脩が日本を発ってから3週間後、列車がニュージャージー州の「プリンストン・
ジャンクション」と呼ばれる田園都市に停車すると、フランクが脩を駅まで出迎
え、プリントン大学構内にある彼の研究室がある(英国)チューダー王朝風ゴシッ
ク建築の建物に案内してくれた。そこで、かつて平田研究室で一度体験したシー
ンが再び繰り返された。フランクは脩を暗室に招き入れ、蛍光を発するオワンク
ラゲの白い乾燥粉末が入った壷を、新しい弟子に手渡した。その粉末に水を加え
て、発光するのを見せようと試みたが、意に反して、暗室は真っ暗のままだった。
失敗にめげず、フランクは、オワンクラゲの大群がワシントン州シアトル北方の
パジェット・サウンドと呼ばれる入江にあるフライデー・ハーバー島沖に生息し
ていると説明した。そして、暗闇の中で、脩にこう尋ねた。

「このクラゲについて研究してみる気はないかね?」
「クラゲの研究も面白そうですね」
脩は辺りが文字通り「真っ暗闇」で西も東もわからぬ状態だったので、新しいボ
スの指示に従った。

オワンクラゲは成長すると、こぶし大(直径8ー10センチ)の雨傘型の生き物
で、雨傘の放射状の骨(100本ほど)の部分が緑色の蛍光を発する。面白いこ
とには、ハーベイ教授やフランクが研究してきた発光生物の中で、唯一つ例の
「デュボアのルシフェリン/ルシフェラーゼ実験」が一度も成功しないのが、こ
のクラゲだった。

このクラゲを、例えばブレンダーなどで粉砕すると、そのスープは2、3時間ほ
ど蛍光を発してから消滅する。一度蛍光が消えると、どうやっても光の再生がで
きなくなる。前者(デュボア)の場合はルシフェリン(蛍光源)を新たに追加す
れば、残存のルシフェラーゼ(酵素)の働きで、蛍光が再生される。ということ
は、このクラゲの蛍光源はルシフェリンではない、何か「新しい物質」である可
能性が示唆されている。それが彼らの「目のつけどころ」だった。「ルシフェリ
ンの2番/3番煎じ(出し殻)」には、もう彼らはさほど興味がなかった。

翌年の6月、脩とフランク、それに脩の細君(明美)とフランクの助手(ヨー・
サイガ)がフランクのステーションワゴンに相乗りして、西部へ旅立った。シカ
ゴやグレーシャー国立公園を経由して、目的地「フライデーハーバー臨海実験所」
へ。実は、自動車免許をもっていたのは、フランクだけだった。そこで、7日間の旅
を通して、毎日昼間12時間づつ、彼独りで延々車の運転を続けた。彼がよっぽ
どクラゲに魅せられていなければできない芸当だ(往路だけではない、復路も7
日間かかるのだ!)。シアトルの北方110キロにある漁港アナコーテスから、
一行はフェリーで2時間のサンジュアン島にたどり着いた。その小島は(カナダ
側の)バンクーバー島とワシントン州の北岸との間に無数に散らばる群島の一部
である。フェリーに乗っている間、脩は初めて、伝説の蛍光ワンクラゲの大群に
出会い、その官能的な美しさにすっかり魅了されてしまった。

小島に到着した一行は、臨海研究所の所長であるロバート・フェルナルドの出迎え
を受け、研究所に案内された。この臨海研究所は1904年にワシントン大学の
付属施設として創立されたもので、「研究所」とは言え、丘の斜面に沿って建て
られた、わずか2、3の木造の小屋に過ぎなかった。一行が案内されたのは、部
屋が2つしかない小さな「研究室1」だった。ここで、一行4名と他の研究者3
名と、一匹のスコットランド産のシカ猟犬(グレイハウンド犬の一種)が寝泊ま
りと研究を共にすることになった。この「ギリース」と呼ばれる犬は、ワシント
ン大学の動物学科の教授、ディキシー・レイの「研究助手犬」だった。彼女は1
0年後には、ニクソン大統領によって、原子エネルギー委員会の議長に指名され、
1976年には、ワシントン州初の女性知事に当選した。しかしながら、196
1年当時の彼女の専らの関心は、木食い虫の生物学だった。

脩とジョンソン教授はまず、車から荷物を下ろし、大型(60センチ立方)の光
学メーターを研究室に設置するや、研究に取り組み始めた。まず水泳プールの掃
除に使うような浅いすくい網で、研究所の手前にある桟橋で、研究材料であるク
ラゲをすくい始めた。捕らえたクラゲを一匹ずつバケツに入れ、ハーベイが40
年ほど昔に開発した方法に従って、分析に使う発光器官の部分、つまりクラゲの
傘の縁だけをハサミで切り離して収集した。次に、この円形の輪を木綿の切れで
絞って、いわゆる「絞り汁」を調製した。この粘性の「絞り汁」は数時間だけ蛍
光を発し続けた後、発光器官細胞が死に絶える共に発光も止める。この夏休みに
一行は、合計9千匹以上のクラゲを捕獲した。

中略

脩は新鮮なオワンクラゲの絞り汁を調製し始めた。それから、(pHの効果を調
べるために) その汁に様々な弱酸や弱塩基を加えてみた。蛍光は消えなかった。
次に緩衝液を使って、絞り汁をpH4に調整してみた。とたんに蛍光が消えてし
まった。そこで、pH7(中性)に戻すために炭酸ソーダをゆっくりと加えてみ
た。驚いたことには、蛍光が次第に戻り始めた。いいかえれば、この発光反応は
(ルシフェリン系の蛍光と違い)一過性ではなく「可逆的」である。つまり、蛍
光源そのものは極めて安定で、その精製が可能であることを示唆していた。脩は
この希望のかけらにほっと胸を撫で下した。さて、脩はこの実験のあと始末をす
るために、中和した絞り汁を実験室の流しに流し込み始めた。絞り汁が流しの底
に触れた瞬間、爆発的なブルーのせん光が辺りにほとばしった。流しの底に蛍光
源を活性化する何かがあるに違いない! 海水だ! と脩は素早く合点した。海
水の主成分を熟知していた脩は、まもなく海水のカルシウム・イオンがクラゲの
蛍光の活性化物質であることを見つけた。カルシウムは海水中の成分のうち、
(塩素、ナトリウム、硫酸、マグネシウム)につぎ)5番目に豊富なイオンである。もし、
カルシウムが活性化物質ならば、カルシウムを選択的に除けば、蛍光が消える
はずである。そこで、脩は「EDTA」というカルシウムを除外 (中和) する薬剤を
絞り汁に加えてみた。蛍光は案の定、あっという間に消えた。こうして、脩はクラゲ
の蛍光をカルシウムとEDTAで自由自在に操(あやつ)る魔術を、偶然にも発見した。

脩は1978年になって、オワンクラゲの発光には、カルシウム以外にもう1つ大事な
物が餌に必要であることを発見した。不思議なことには、フライデーハーバーの海に
生息するオワンクラゲは蛍光を発するが、普通の水族館で飼育しているオワンクラゲ
は発光しないものが多い。例えば、ごく最近まで、山形県鶴岡市の市立加茂水族館
のオワンクラゲは発光しなかった。ところが、脩の忠告に従い、餌に「セレンテラ
ジン」という物質を混ぜてやると、クラゲの傘の周りがにわかに発光し始めたと
いう話題が最近の読売新聞に出ていた。彼はまさにオワンクラゲの「魔術師」で
ある!

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20081102-OYT1T00006.htm

さて、それでは「セレンテラジン」とは一体何者か? 実は、この物質はルシフェ
リンの一種で、アポエクオリンという「ルシフェラーゼ」(発光酵素)の一種と
結合し、エクオリン複合体となり、それがカルシウムによって活性化されて、ブ
ルーの光を放つらしい。

中略

さて、脩には理解できない謎がまだ1つ残っていた。流しで目撃したせん光はブ
ルーだった。ところがクラゲ自身は緑色の蛍光をいつも発していた。なぜだろう?

それまで研究してきた生命体からの蛍光は、その生きた本体でも試験管内でも全
く同じ色をしていた。そこで、脩をこう考えてみた。このクラゲはまず発光蛋白
「エクオリン」からブルーの光を発し、その光がクラゲの組織にある別の物質に
吸収され、緑色に変換後、蛍光として再現されるに違いない。1962年に発表
したエクオリンの精製に関する6ページにわたる論文の脚注(わずか2行)に、
脩はその科学的根拠 (傍証) として、次のように記述している(下村、ジョンソ
ン、サイゴ共著)。
「日向では、微かに緑色に見える蛋白溶液(GFP)をクラゲの絞り汁から得た。
電灯下では黄色、紫外線下では非常に明るい緑色の蛍光を発した」

中略

フライデーハーバーで脩が発見した物は、オワンクラゲの発光のメカニズムばか
りではなく、第二の蛋白質「GFP」(緑の蛍光蛋白)だった。この謎めいた蛋
白は、思いがけないことには、その後30年の歳月を経て、生物学や医学の分野
で広範に使われる非常に便利な道具に生まれ変わっていった。過去40年間の研
究生活を振り返りながら、脩はこう語っている。

「GFPが発見された当時、その蛍光の明るさと美しさを何かに利用しようとい
うアイディアは浮かんであろうが、生き物の体内にある蛋白を標識するというよ
うなことは想像だにされなかった」(つい最近、日本では絹糸の原料である蚕の
まゆの主成分であるフィブロインという蛋白をGFPで標識して、ブルーの光を
当てると緑色の蛍光を発する婦人用ドレスが試作されつつある)

2008年9月6日土曜日

評伝「ボブ・ブラウン:グリーン党の生みの親」

ジェームス・ノーマン(著)
丸田 浩 (訳)

目次

訳者まえがき
第1章 源泉
第2章 ボブ少年の誕生
第3章 問題児
第4章 ロンドンからリフェイへ
第5章 ペダー湖を救え!
第6章 渓流フランクリン
第7章 初の勝利
第8章 フランクリンを越えて
第9章 州の政界へ進出
第10章 グリーン党の誕生
第11章 連邦全体への波及
第12章 国際的なグリーン運動
第13章 初の「グリーン」上院議員

第1章 源泉

豪州のタスマニア州(島)の首都ホバートで、2003年2月に、地元の環境保護映画制作者による「森林」に関する記録映画が上映され、50人ほどの観客が集まった。場所は首都の中心にあるハリントン街から横道にそれたポール・トマス経営のチベット絨毯(じゅうたん)店の2階だった。ポールはボブ・ブラウンと既に8年ごしのパートナーだった。

ボブがその集まりに顔を出したのは、夜遅くになってからだった。というのは、豪州の首都キャンベラで、一週間ほどイラク戦争に反対する活動を組織していたからだ。ボブは映画に集まった小規模の観客に向かって、親しげに短いスピーチをした。

キャンベラでの活動による疲労の色を表わしながら、観客に手短かな忠告をした。
「聞いて下さい。もし、皆さんが全てに失望したと感じた時は、私が良くやるように、森の中で、満天の星空の下、一晩を過ごしてみて下さい。そうすると、多分、奇跡が起きて、また希望が自然に湧いてきますよ」
その言葉には、彼の単純さと不屈の魂がにじみ出ていた。

過去20年以上にわたって、ボブ・ブラウンは「グリーン」の旗をひるがえして、豪州政界のスポットライトをめざして、はっきりと野党の「左翼」を担う堅固な位置を確保してきた。タムマニア出身のこの柔和な話し方をする、眼鏡をかけた同姓愛の医師は、ほとんどポップスターなみの全豪的なヒーローを思わせる存在になった。彼の政策に反対する人々からも尊敬の目を集めていた。

2000年の総選挙で、2人の政治家が連邦議会でしばしば抜きん出て、有権者から注目と尊敬を集めていた。保守派を代表する首相のジョン・ハワードと革新派を代表するボブ・ブラウンだった。2004年の総選挙では、マーク・レイサムのリードで失地を回復した労働党(ALP)が豪州の政界地図を変えつつあった。レイサムが党首になって、まず提案した公約の1つは、なんとボブ・ブラウンと一緒にタスマニアの森林を視察することだった。

ハワードは、2007年の選挙で落選するまで、11年間もの長きにわたって首相を務め続けた稀にみる狡猾な政略家だった。ブラウンの個人的なカリスマ振りは、全く別次元のものだった。彼を尊敬する者にとっては、政治家一般に共通する攻撃的で競争心むき出しの姿勢と全く対照的な存在に見えた。

ブラウンの政治的スタンスは、確かに保守的ではなかったが、彼は色々の意味で非常に因習的な要素を備えていた。彼の保守主義は、その表面的なたたずまいにあった。着こなしが古めかしく、柔和に振る舞い、常にヒゲをきれいに剃り、人前で決して、他人を罵倒することはしない。しかしながら、彼が差し出す政治的献立は、民主的な革命だった。つまり、資本主義に対抗する持久主義、利潤追及に対する思いやりの政策だった。彼の穏やかな物腰にも拘らず、ブラウンは豪州を代表する真の革命家として、記憶されるだろう。

彼はしばしば軽いユーモアを交えて話をするが、いわゆる「町の顔役」にだけべったりな連中を批判するのに、決してやぶさかでない。彼は有権者の最新の関心事、しばしば地元の問題に関して、はっきりした政策の方向付けを試み、更に時の話題を何時も彼の最大関心事であるタスマニアの森林やより広範な環境問題に結びつけて議論を展開する。

環境問題(あるいはそれを越えた、例えば人権問題)に関する彼の思い切った発言は、彼の政治的キャリアを通じて、無数の受賞という形で称讃されている。1983年には、新聞「オーストラリアン」からその年の「時の人」にえらばれ、更に1990年には「1980年代の時の人」に。1990年には、ゴールドマン環境賞を、1996年にはBBCのワイルドライフ・マガジンの「世界で最も人望の高い政治家」賞、1998年には、豪州の人間国宝に選ばれた。

2002年には、DNAマガジンから、豪州で最も著名な同姓愛者のベストテンに、2003年には、豪州経済レビュー・マガジンから、「文化的に最有力な豪州人」に選ばれた。これらの受賞は、ボブ・ブラウンが様々な社会層で極めて人気が高く、かつ広く尊敬されていることを、如実に証明している。

彼の国際主義はそれだけに留まらない。ボブはグリーン党を今世紀の「有益な地球化」の原動力としようという、国際規模の野心を抱いている。つまり、過去の労働運動が果した役割に匹敵するような力、いいかえれば「労働党」に代わるべき「グリーン党」の国際的なパワーをめざしている。

しかしながら、彼の敵にとっては、ボブは狂信家であり、異端者であり、脅威であった。グリーン党が政党として益々力を得てくると、党やその党首であるボブに対する攻撃は、悪質を極めてきた。
ボブはしばしば、殴られたり、強迫を受けたり、人前でけなされたりした。2003年11月に、クインズランド州の自由党出身の上院議員ジョージ・ブランディスは、保守的な三文新聞「ヘラルド・サン」の論説家アンドリュー・ボルトの言葉を引用して、豪州グリーン党のイデオロギーをなんと1920年代から1930年代の「ナチス」になぞらえるという暴挙におよんだ。

政治的策略や狂信性をほのめかすそのような中傷や誹謗に対して、ボブは決してひるまなかった。
「私はそんな人物ではない。私は長老派のクリスチアンだからだ」と2000年に新聞「オーストラリアン」に語っている。彼はニューサウスウエールズ州の農村にある保守的な長老派クリスチアンの家庭出身であるという意味である。

ボブは政界に誠実さと尊厳をもたらし、さらに多くの豪州国民に対してラジカル(過激)という印象を与える世界感を導入した。彼はスキャンダルやあてこすりを武器に使って、彼を失脚させようともくろむ敵側の裏をかいて、タムマニア州議会および連邦議会での最初のスピーチで、彼自身が「同姓愛」であることを明言するという先手を打ち、敵側の攻撃を見事にかわした。

ブラウンのひととなりが多くの観衆を魅了した。そして、豪州の大衆は、一体何が「ラジカル」なのかを、もう一度考え直し始めた。彼は、従来なかった考え方も受け容れられる可能性を創り出した。以前は想像しがたかったことが、実は理屈に合う考え方であることを実証した。ボブがはにかみ屋で、むしろ古風な物腰だけに、彼が歯に衣を着せない勇敢な活動家であることを見つけて、人々は大いに驚いた。

ブラウンが豪州政界で日増しに重要な役割を果たし始めたのは、グリーン党が豪州政界で、抗しがたい勢力として成長してきた事実に符合している。

恐らく、グリーン党が豪州の野党内で、本質を突く唯一の党であるという評価を得たのは、実に2001年に発生した「タンパ事件」の最中であろう。ハワード政府は、船で豪州の海岸線近くにたどり着いた難民の一団が、豪州への入国許可を得んがため、豪州国民からの同情を買おうとして、意図的にその子供たちを船から海に放り出したと主張する一連のビデオ像をテレビで放映した。その放送を観て、多くの豪州大衆は難民たちに対して、呆れかえってしまった。そして、政府側が主張する「難民に対する厳しい措置」を支持する方向に世論が大きく傾き、ハワード政権は総選挙で、曖昧な態度を示した労働党を破って、大勝利した。

ところが、選挙後メディアを中心とする詳しい調査結果により、難民が子供たちを船外に投げ出したという政府側の主張には、(総選挙直前の) 世論工作を意図する行き過ぎがあったという事実が発覚した。政府側は、この事件後、ピーター・レイス国防相を内閣から免職せざるをえなくなったが、逆に(難民の側に立って、政府を厳しく追及した)グリーン党は、全国的にリベラルな有権者からの大幅な支持を獲得した。

この事件ほど、ハワード政府を非難して、極めて歯切れのよい意見を心から述べうる豪州唯一の野党であるという高い誉れを、グリーン党が得た例は外にない。グリーン党は、政府が自身の(批判の対象になっている)難民政策を合理化し、有権者の票を買うために、そこまで悪質なウソを捻出したことに亜然とする国民感情を、如実に代弁したのだった。

以後、以前にも増してしばしば、ボブは豪州のメディアから、ハワード政府に異議を申し立て得る信頼できる「野党側の実質的なリーダー」と呼ばれるようになった。この勇名は、環境政策問題を越えて、凡ゆる政治問題におよんだ。難民収容センターから対米外交問題やイラク戦争を含むテロ対策、更にハワード政府の右に寄ったその他の政策、例えばテルスタ(電々公社)の私有化、10%消費税や私的健康保険制度などに、ボブは一貫して反対意見を述べ続けた。

21世紀の初めに、米国のブッシュ政権によってでっち上げられ、豪州のハワード政府、英国のブレア政権、日本の小泉政権などにバックアップされた「テロ対策」路線は、世界平和への新たな脅威が無気味に拡大していることを示唆している(あるいはその路線自身が脅威の元凶になりつつある)。それは、前例のないメディアによって煽られた地球全体に渡る「テロの恐怖」時代を作り出した。(2001年)9月11日に仕掛けられたニューヨークの貿易センターおよびワシントンのペンタゴン(国防総省)に 対する(ハイジャックされた旅客機による)アタックは、その巨大な破壊力で、地球全体にわたって不安と脅威の風潮をもたらした。「イラク戦争」開始のために、ブッシュ政権が導入した「先制攻撃」路線は、悪質の新外交路線で、国連や欧州諸国の大半から嫌われるとともに、危惧されるに至った。

地球全体に前代未聞の混乱、恐怖、不安が広がるつつあるこの時期に、ボブは豪州の反戦運動のトップリーダー的役割を務めた。2003年2月中旬、豪州中至る所で、イラク戦争への豪州参戦に反対して、抗議集会やデモを企画した。彼はどこの集会にでかけても、演台にあがると、常に最大の喝采を観衆から受けた。それを評して、ある評論家が「ボブ・ブラウンの人気は、マイクロフォンの性能に無関係だ」と語ったそうだ。

ボブは「イラク戦争は豪州国民とは全く無関係の戦争である。それは、ジョージ・ブッシュやそれに尻尾を振るトニー・ブレア、ジョン・ハワードや小泉純一郎などの鷹派連中の個人的な戦争に過ぎない」と力説した。「国連の大量殺りく兵器(WMD)調査団により、実際にイラク内にそんな兵器があるかどうか調べる必要性がある」とボブは訴えた。

(ハワード)首相は一度も、豪州国民からイラクとの戦争に参加してよいという白紙手形を得たことはない。彼には国民の希望(意志)に背を向ける権威はない。彼は(その強引なやりかたで)自国の自由主義と民主主義を踏み躙ってしまった。我々は、差し迫っている大虐殺に「ノー」と訴えている世界中の無数の魂を代表している。我々は、イラクをただ単に(独裁者から解放して)自治国にしたいと望んでいるのに過ぎず、英米などの先進国に石油利権を提供する植民地にしたいとは、決して望んでいない(なぜなら、豪州国民は「地球温暖化の元凶」である石油や石炭に代わるべき、持続できる「きれいなエネルギー」源、例えば太陽エネルギーや風力エネルギーの利用をめざしているからだ)。従って、我々はブッシュに、ブレアに、ホワードに、そして小泉に、戦争の代わりに欧州的アプローチ(解決法)を吟味するように提案したい。

さもなければ、あなたたちは自らの手で、バグダッドに住む多数の子供たちに不必要な流血を強要し、世界中の希望を台無しにする結果をもたらすだろう。我々はもちろん、あなたがたをテロリストと同一視するつもりなどないが、バグダッドに住む母親たちは、あなたがたをどんな目で見るだろうか? 一度彼らの気持を訊いてみたことがあるだろうか? あるいはサダム・フセインと同様、あなたがたには、これらの母親の恐怖を感じとる繊細な感受性が欠けているのだろうか? 私はできることなら、ハワード首相を「ブッシュべったり」主義から、我々自国の大衆の声に耳を傾ける人にしてみたい。

上記にみられるブラウン独特の意見は、豪州国民全体の心をつかみ、政治家全体に対して抱く一般大衆の冷笑を断ち切ることに成功した。そして、豪州大衆の声や気持を、史上最大の反戦運動になった大規模な全世界中の集会に伝えた。彼がスピーチをやったメルボルンとシドニーの抗議集会を合わせると、合計50万人近い参加者があった。ボブは街頭でも人々の尊敬を集める代弁者の役をみごとに果した。

豪州の政界では、ハワードの保守連立政府ばかりではなく、肝心の野党たる労働党さえも、最近の世界的潮流となりつつある「中道右派」路線への傾斜に、さらに右へならえをしていた。強いて例外を探せば、ドイツのゲアハート・シュレーダーの社会民主党とグリーンの連立政府とイタリアのシルビオ・ベルスコーニの極右(ネオ・リベラル)政権だけが、いわゆる独自路線を歩んでいた。

ボブ・ブラウンは多くの人々にとって、社会正義、実践的な環境保護主義、よりよき世界へのビジョン(展望)の緊急な必要性を密接に結びつけるシンボルとなりつつある。彼は、一地方(タスマニア島)の活動家から、全国的さらに国際的レベルで環境保護運動をリードする「自由の闘士」に成長した非常に稀れな活動家の例である。

もちろん、我々がテレビを通じておなじみの環境保護活動家、議会でただひとり、難民の基本的人権やイラク戦争反対を強く訴えるあの「ボブ・ブラウン」像は、彼の人生の一側面に過ぎない。

メディア像は、例えば、彼がもつ(意外に)豊かな家庭的な側面を無視している。ピアニストの彼は、しばしば自宅で自らピアノ演奏を楽しむ趣味を持つし、彼の伴侶ポール・トマスとのロマンスによって、いわゆる「囚人生活」からの解放を楽しんでいる。彼は菜食主義者ではなく、食卓にはいわゆる「豆腐食」より、むしろ「ステーキと三菜」という豪州/英国風の伝統的なメニューを好むようだ。

その上、メディアの報道からは、ボブは前半生で、内なる悪夢にさいなまれて、首都キャンベラで医師をしていた頃、悩みを他人に打ち明けることもできず、混迷の末、自殺を一時考えたことや、52歳になるまで、他人と親密な関係に入ることなく、独身生活を続けたボブを想像することは、極めて難しい。その同じ人物が、驚くべきドンキホーテ的な変身を遂げ、今日我々が見る政界をリードする中心的存在になったのである。

ボブの内部に起こった私的な人格上の革命は、もちろん、彼の政界でのキャリアにおけるより広範な社会的革命を育てるために十分な素地を提供した。

メディアが作り上げた一次元的なブラウン像のみでは、彼が引き出したインスピレーションの源泉や、20年間近くにわたる議会での活動や、地元や国際的な各種の組織からくる際限なき依頼に応じるために、彼がたたき出す時間とエネルギーの源泉は、とうてい浮かび上がってこない。正にその源泉は、彼を取り巻く自然環境自体の中にあるに違いないと私は推察している。それは歴史的には、フランクリン川に始まり、北タスマニア地方の中央にあるリフェイ渓谷に彼が見つけ、現在でも住み続けている潅木地の一角を取り巻く森林と切り立つ岩壁に至る「聖なる原生林」である。それにボブは常に引かれ、それを保護するために、自分の後半生を捧げているのである。

連邦議会の不毛で退屈な現場から何万キロも離れた、自然界に立ち、ほと走る渓流や厳かな静寂に直に接して初めて、一体何が真にボブを動かしているかを、我々はよりよく理解できるだろう。

続く

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2008年7月1日火曜日

Robert F. Kennedy: Man Who Dared to Dream (1970)

I enjoyed reading this children's book shortly before I left Japan for the United States in 1973. I was around 30, and the book was a very good introduction (for me) to both RFK and American dream. Since then I stayed on overseas to enjoy both work and life with a free spirit.

In 2008, after 35 years later, another man from a quite different background is trying to realize the same dream that RFK had in 1968, but could not realize, due to a unfortunate tragedy shortly after the Convention in California. Barack Obama and RFK share the most attractive character, both the honesty and the courage to change the world.

I do hope Obama will win the November election against John McCain, a very old conventional Republican man, to change both US and the rest of this world with the spirit of RFK which is described in this fantastic 1970 book. It is a great shame that no book on RFK was published in Japanese so far.

ロバート・ケネディー: 敢えて夢を追う青年

その1 負けじ魂

「ボクが泳ぐのを見てて!」
と叫びながら、4歳の少年(ボビー・ケネディー)が小舟から海ヘ飛び込んだ。深いところで、ボビーにはとうてい足が着かなかった。溺れかかったボビーは咳込みながら、水を吐き出し、懸命になって両手でバタバタとクロール(犬掻き)を始めた。

彼の12歳になる兄ジャックは、いつでも飛び込んで、弟を救い出す用意をしていたが、ボビーは何とか自力で小舟までたどり着いた。ジャックは急いで弟を引っぱり上げた。
「相変わらず無鉄砲なやつだ。もうちょっとで溺れるところだったぞ!」
とジャックは笑いながら言った。

「ボクは泳げたよ。違うかい?」
とボビーが、そばかすだらけの顔から水を拭いながら、自慢げに言った。
「毎日泳いで、ずっとうまくなるぞ!」

ボビーとジャックは、コッド岬の沖でボート漕ぎをしていた。米国マサチューセッツ州のハイアニス港にあるケネディー家の夏の別荘の近くだった。そこからさほど遠くない沖では、長男のジョー(14歳)がヨットレースに挑んでいた。ジョーのヨットが真っ先にゴールインするや、ボビーとジャックはやんやと喚声を挙げて喜んだ。

少年たちの父親、ジョセフ・ケネディーは自分の息子や娘たちにスポーツを奨励し、ヨットレース、水泳大会、テニスの試合などに参加することを激励した。彼らは試合に勝つと讃められるが、負けると叱られた。ケネディー一家にとっては、勝つことが、三度の食事に匹敵するほど、大事だった。
「二番じゃ駄目だ。一番にならなければ駄目だ!」と父親は、口ぐせのように言った。
「二番や三番は数の中に入らない。トップになるのだ。絶対にトップだ!」

そんな父親に育てられたボビーは、成長すると共に、ありとあらゆるスポーツに参加するようになった。あたかも勝つことが死活の問題であるかのように。。。 ボビーは年令のわりに小柄だった。その上、9人兄妹の7人目だったので、兄妹同士の試合で、しょっちゅう勝つというわけにはいかなかった。それでも、常に最善を尽くした。
「生き残るために、常に修練が必要だった」とボビーが語ったことがある。

ロバート・ケネディーは、1925年11月20日に、マサチューセッツ州のブルックリンで生まれた。彼が生まれてまもなく、一家はニューヨーク市内に引っ越し、さらに近郊のブロンクスビルに移った。学齢に達すると公立の小学校に通学し始めたが、はにかみやのボビーには当初、友達がなかなかできなかった。けれども、帰宅すれば、いつでも一緒に遊んでくれる者がいた。2人の兄のほか、4人の姉、妹が一人、それに末っ子の小さな弟、エドワード(皆んなからはテディーと呼ばれていた)がいた。

ボビーにはペットもいた。「ポーキー」というブタ一匹と、自分の裏庭で飼育しているウサギが数匹いた。このウサギを大きく育てて、近所の人々に売っては、小遣いを稼いだ。ケネディー家は非常に裕福だったが、家の方針として、子供たちの小遣いは、できるだけ各人自分で稼ぐようにしつけた。そうすることによって、労働とお金の尊さを学ばせるためだった。

ケネディー家には、多くの奉公人が働いていた。車の運ちゃんの息子はボビーの友達だった。二人は一緒によく遊び、しばしば奇抜な冒険を計画しては、実行した。

ある日、ボビーとその友達は古い布地からパラシュートを2組作りあげた。それから、そのパラシュートをかかえて、ケネディー家のやかたの屋根まで登って、屋根の欄干からおそるおそる下をのぞいてみた。2人のパラシュート飛行士は、ぞっとした。イガグリ頭のボビーの顔がみるみるうちに真っ青になった。
「ボ、ボクが先に飛び降りるよ」とボビーが口ごもった。
「いや、ボクの方が先だ!」と友達の方が言い張った。
「オーケー、それならどうぞお先に!」とボビーが譲歩した。

ボビーの眼前で、その少年は、頭上にパラシュートをかかえながら、地面に向かって、屋根から飛び降りた。だが、恐ろしことには、パラシュートが開かなかった。

少年はどしんと地面に叩きつけられ、苦痛で悲鳴をあげた。びっくりしたケネディー夫人が、家の中から飛び出してきて、その少年をいたわってやった。ボビーに向かって、すぐ屋根から降りてくるように命じるや、夫人は急いで居間に戻り、医者に電話をかけた。

少年を診察し終わった医者は、こう言った。
「大丈夫だ。片足が骨折しただけだ」

「なんだ、片足が折れただけか!」とボビーはうらやましそうに叫んだ。
そして、独り言を言った。
「皆んなから同情を買う(あるいは注目の的になる)のに、足の骨折など安いものだ。今度は自分が
真っ先にジャンプするぞ」


その10 大統領選に出馬

1968年にボビーの親友たちはボビーが大統領選挙に出馬することを切に望んだ。しかしながら、ボビーはそれをかなり苦慮した。というのは、現職のジョンソン大統領が出馬するに違いないと、ボビーは信じていたからだ。現職の大統領が党内から指名されるのは、いたって容易だ。

民主党内のムードはジョンソン指名に傾いていた。しかしながら、多数の米国大衆はジョンソンによるベトナム戦争の処理のしかたに反対だった。

ジョンソンの人気が傾き始めたのを察したボビーは、「北ベトナム爆撃を停止し、休戦(平和)交渉を始めるべきだ」という主旨の演説を行なった。

まもなくジョンソンのベトナム政策に反対するミネソタ州の上院議員ユージン・マッカーシーが、民主党の大統領候補をめざして、活動を開始した。ボビーは、マッカーシーがニューハンプシャー(NH)の予備選挙で示す戦い振りを、興味深く観察した。予備選挙とは、各州の党員あるいは支持者が、全米の党大会以前に、大統領候補に対する自分たちの好みを表明する人気投票である。

NH予備選挙で、マッカーシーはなんとジョンソンと互角の戦いを占めし、全米をびっくりさせた。マッカーシーの健闘振りを見て、ボビーは民主党内が今や二分し、
ジョンソンが敗北する可能性をキャッチした。

1968年3月初め、ワシントンの上院会議室で大勢の聴衆を前にして、ボビーはまず「大統領に立候補する」ことを宣言した。会場には、妻のエシールや9人の子供たちも臨席し、全米向けのテレビで、その模様が中継された。ボビーはこう続けた。
「ベトナムや米国内での流血をストップするために、アメリカには新しい政策が必要だ。黒人と白人との間にあるギャップ、貧富の差、老人と若者たちの間にある格差をなくす政策が求められている」

マッカーシーがNH予備選挙で勝つのを見定めてから、ボビーが立候補したことに批判をする連中もいた。マッカーシーが大統領に選ばれるように、ボビーは応援すべきだ、と彼らは主張した。しかしながら、(本番では)マッカーシーには勝ち目がない、とボビーには思えた。逆に、自分が代わりに立派な大統領になるチャンスが十分にあると感じていた。

そこで、ボビー自身の人気を民主党内の有力な政治家(お偉方)たちに証明するために、できるだけ多くの予備選挙に参加する決心をした。まずインディアナ州の予備選挙に出馬した。

ボビーは州内を歩き回り、有権者たちに、「ベトナム戦争は米国に破綻をもたらす危険があるので、自分が大統領に当選したら、この戦争を停止する」と訴えた。さらに、「多くの米国大衆を苦しめている貧困を解消するために、多くのことをしたい」と約束した。戦争で浪費する代わりに、その莫大なお金で貧乏人を救うことができる、とボビーは考えた。

インディアナ州のいたるところで、ボビーは彼の演説を聞こうと詰めかけた大集団に取り囲れた。聴衆の中には、選挙資格がまだない21歳未満の若者たちが沢山いた。そこで、ボビーは満面に微笑を浮かべながら、こんな冗談を言った。
「今後将来は、(君たちも参加できるように)有権者を7歳以上にするよう努力しよう」

インディアナ州予備選挙の直前に、「ジョンソン大統領が再選を断念した!」というニュースを聞いて、びっくりした。しかしながら、ジョンソンはボビーを応援するわけではなかった。彼は自分の部下、副大統領のフーバート・ハンフリーを大統領候補に指名したかったからだ。ボビーは、インディアナ州予備選挙での勝利に、さらに自信を深めた。

4月の初めのある夕方、インディアナポリスの集会への途上、ボビーはテネシー州メンフィスで起こった悲報を聞かされ、大きなショックを受けた。黒人指導者マーチン・ルーサン・キング博士が暗殺されたというニュースだった。

インディアナポリスの大集会で、ボビーは待ち受けている聴衆に向かって、まずその悲報を告げる瞬間、思わず涙ぐんだ。その上、一種の戦慄さえ感じた。聴衆の中には、多くの黒人たちがいたからだ。ボビーは、その聴衆に向かって、こう訴えた。
「皆さん、暴力に対して暴力で対抗するのは辞めましょう」
「黒人である人々にとって、この事件は苦痛であり、いっそ怒りを爆発させ、敵を取りたいと思うでしょう。全米中で殺し合いを始めるのも、選択の1つです。しかしながら、故キング博士がこれまで努力してきたように、暴力を思いやりや愛情に置き換えるよう努めることも、もう1つの選択です」

「私の家族の一員(兄ジャック)も暗殺されました」
感情の高まる余り、ボビーの声が震えた。
「兄は白人に殺されました。しかしながら、この国に住む大多数の人々は、白人でも黒人でも、一緒に仲良く暮らし、生活水準を高め、正義を貫くことを望んでいます」

演説を済ませるや、ボビーはアトランタに住むキング博士夫人(未亡人)に電話をした。そして、彼女のためにメンフィスまでの飛行機を手配したいと提案した。夫人はありがたく、ボビーの申し出を受諾した。ボビーも他の候補者たちも、直ちに選挙運動を一時中止して、キング牧師の葬式に向かった。全米で牧師の急死を悼む最中、ボビーは自問し続けた。「一体いつになったら、こんな野蛮な暗殺はなくなるのだろう? 一体いつになったら?」

この小伝の完訳は、下記のホームページにあり:
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2008年5月30日金曜日

ブッシュ批判本 『What Happend: 世論操りイラク開戦正当化』

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008052902013473.html

2008年5月29日 夕刊
 【ワシントン=立尾良二】マクレラン元米大統領報道官が来週出版する著書で、ブッシュ大統領のイラク開戦決定を批判。評判を呼んで予約が殺到しており、ペリーノ大統領報道官や元同僚らが二十七日、一斉に「なぜ職務にある時に言わなかったのか」と反発する騒ぎになっている。

 マクレラン氏は、ブッシュ大統領を「魅力的で機知に富み大統領にふさわしい人」と評した上で、イラク戦争を「無益な戦争」「戦略的に大失敗」と批判。ブッシュ政権は「真実を隠し、世論を操って開戦を正しいと思わせた」と内幕を“暴露”している。

 これに対し、ペリーノ報道官は「残念だ。われわれが知っているスコット(マクレラン氏の名前)ではない」と失望を表明。ダフィー元大統領副報道官は「大統領に便乗して有名になりながら、任期切れ間近の大統領をののしって金もうけしている」と非難した。

 マクレラン氏は、二〇〇三年七月から〇六年五月まで大統領報道官を務めた。出版する著書「何が起きたのか ブッシュ政権の内幕とワシントン政治の悪いところ」は二十七日、ネット書店(Amazon.com) のランキングで一位になった。

2008年5月28日水曜日

米国に代わるべき大国(Fareed Zakaria)

泥沼の「イラク戦争」に米国が手を染めて以来、戦後60年近く続いた米国の政治的、経済的繁栄に影が差し始めた。21世紀の世界を米国にかわってリードし始める大国は一体どこだろうか? 最近「経済的な大躍進」を続け、かつ世界の総人口の5分の1を占める中国だろうか? あるいはそれに次ぐインドだろうか? あるいは統合しつつある「欧州連合」(EU、総人口5億人で世界3位) だろうか? 60年以上君臨していた「米国ドル」は日増しに価値を失い、欧州の「ユーロ」が世界金融界の王座を今や占めつつある。

戦後60年間以上、米国という「大樹」の影に隠れて、あたかも米国の「植民地」あるいは「属国」のごとき振る舞いを続けてきた日本の政界や財界にも、来たるべき次の「大樹」をしっかり見極めるべき時期が刻々と迫ってきている。従来通りの「米国丸」追従一辺倒路線では、激しく躍動しつつある来たるべき世界の荒波を乗り切ることは今後、到底できないからだ。

著者は、米国丸の「沈没」を予測しているわけでは決してない。今後の世界に「米国独占時代」の終焉が訪れ、他の「複数の大国」が、それに代って、力を貯め込んできている事実を指摘しているに過ぎない。ちっぽけな「日本丸」のとるべき今後の針路にヒントを与えるかもしれない(「先見の明」のある)本として、特に政界や財界の指導者たちに、読書をぜひお勧めしたい。

なお「民主主義の未来」(邦訳、2004年)で好評を博した著者ザカリアは、日本の大衆にも既に馴染み深く、政治や経済に関する複雑な問題を、我々「しろうと」にもわかりやすく説明しうる文才がある。

もっとも、英文原書の実際のタイトルは、「民主主義」(Democracy)ではなく「自由主義」(Freedom)であり、「この2つを決して混同してはいけない」というのが、ザカリアの主張の1つである。従って、邦訳のタイトルは皮肉にも、その点で読者に当初から混同を招いているきらいがある。私自身は「自由主義」信奉者(リベラル)で、民主主義、特に日本の保守的ないわゆる「衆愚(民主)政治」に愛想をつかしている。数学の公理や定理の正否を、「しろうと」による多数決で決定するのは、大きな誤りだと今でも固く信じている。

2008年5月8日木曜日

お茶を三杯、ヒマラヤ登山家からの意外な返礼(Greg Mortenson)

米国の白人登山家グレッグ・モーテンソンはキリスト教宣教師の息子で、生後十数年、両親と共にアフリカ大陸最高峰キリマンジャロの山麓で少年時代を過ごした。

1993年に、エベレストに次ぐ最高峰「K2」に4人の登山仲間と一緒にに挑戦した。 しかしながら(遭難した仲間の一人を救出するため3昼夜を費やし、全員が体力を使い果たして)登頂を断念せざるをえなかった。消耗した体力回復のため数週間滞在(療養)していた、麓のパキスタンの (アフガニスタンへの国境に近い) 村で、予期せぬ運命が彼を待ち構えていた。

貧しい村人たちからもらった「三杯のお茶」に象徴される暖かいもてなしに報いるために、彼は米国に帰国する際、学校に行く機会がないこの村の学齢期の子供たちのために、将来、村に最初の学校を建てることを約束する。しかしながら、その口約束を守ることは彼にとって、容易なことではなかった。彼は財産家どころか、実は(「K2」登山で手持ちを使い果たし)ほとんど一文なしになっていたからだ。 彼はパートタイムの看護士をしながら、日々を細々と暮らしていたに過ぎなかった。

そこで、彼は試行錯誤の末、(ヒマラヤ登山家仲間)スイス人の実業家でマイクロチップス開発のパイオニアであるジーン・ヘルニ(1924ー1997)の助けを借りて、「中央アジア研究所」という財団を設立して、パキスタンとアフガニスタンの国境に接する貧しい村々に学校を建てる基金を集める活動に専念し始めた。そして、以後10年以上の間に、特に(イスラム過激派「タリバン」の影響で)学校教育から見放されている女の子たちのために、50以上の学校をこの山岳地方に建設した。

1953年に(シェルパ族のテンジンと共に)エベレスト登頂に成功後、山麓の貧しいネパールの村々に無数の新しい学校や病院を建てた故エドモント・ヒラリー卿(1919ー2008)の偉業に、いわば匹敵するものであった。「K2」登頂という個人的な夢には破れたが、それに負げず、(社会的により貴重な)新たな使命を自分の人生に見つけ出し、そのために懸命に闘い続け、ついに成功した感動的な実話ドラマである。

2006年に出版されたこの英文原書は目下、ニューヨークタイムズ紙のベストセラー・リスト (ノンフィクション部門) のトップになっている。この本の売り上げの一部は、「中央アジア財団」の活動費に当てられるそうだ。 もし、近い将来、邦訳の機会が訪れれば誠に幸いである。

http://en.wikipedia.org/wiki/Three_Cups_of_Tea

2008年5月6日火曜日

何を食べたらよいか? 自然に帰ろう!(Michael Pollan)

著者マイケル・ポーランは、カルフォルニア大学(バークレー)の教授(ジャー ナリズム専攻)。自宅に菜園をもち、自らガードニングを楽しみながら、食生活 の改善を試みている。豊かになり過ぎた欧米や日本などのいわゆる文明諸国では、 インスタント食品製造会社のテレビ広告やいわゆる栄養学専門家の書く本に踊ら されて、我々の祖母の世代が昔食べていたような自然の食物を余り口にしなくなっ てしまった。そのために、近来、肥満体とか「メタボ」の人間、糖尿病患者や癌 患者がいっぱい街に溢れ始めた。

著者は菜食主義ではないが、主に野菜や果物な どの植物由来の食物を偏食なく、腹八分目に食べることを強調している。長寿者 が多かった沖縄の例をあげながら、米軍基地の影響で、マクドナルドのようなイ ンスタント食品文化が蔓延し、近来、沖縄でも長寿者の数が年々減少し始めてい ることを指摘している。より健康で息の長い生活をエンジョイするために食生活 を「もっと自然に戻すべきだ!」という警鐘を鳴らしている。一読に値する本で ある。

ちなみに地元の米国では、この正月に出版されて以来、ノンフィクション 部門で、(ニューヨークタイムズ紙の)ベストセラーリストのトップの座を占め 続けている。

頂上からの展望 (Sir Edmund Hillary)

2008年正月明けに、ニュージーランド(NZ)の誇る登山家ヒラリー卿が米寿 (88歳)を全うして、この世を去った。彼の死を悼んで、6時間にもわたるテレ ビ特集がNZ中で放映されたと、地元(北島)オークランド近郊に住む友人(養蜂家) から聞いた。実は少年青年時代、ヒラリー卿は父や兄を助けて(家業である)養蜂業 に従事していた。 そのうちに、山歩きが好きになり、南島にあるニュージーランド最高峰のクック 山(海抜3754メートル、槍ヶ岳のように切り立った岩山)の冬山登山に 成功した。以後、登山が病み付きになった。数年後の1953年の春に、英国の エベレスト登山隊にスカウトされる。

1955年に出版された彼の英文自伝「High Adventure」 (内容は、彼の前半生:エベレスト登頂まで) で、ネパール出身のシェ ルパ、テンジン・ノーゲイと一緒に史上初めて、世界最高峰エベレストをいかに 征服したかが、彼自身の手で描かれている。「ヒラリー自伝」というタイトルで 1977年に、その邦訳が出ている。訳者は、同年「K2」征服に成功した日本 の遠征隊長 吉沢 一郎。

ヒラリー卿の偉大さはむしろ、テンジンとの友情から生まれた、エベレスト征服 以後の彼の後半生をかけた慈善事業、特に貧しいネパールのシェルパ山岳民族の 福祉向上をめざして「ヒマラヤ協会」を設立し、病院や学校や橋の建設をしたり、 エベレストや他のヒマラヤの山々に押し寄せる登山観光客による環境汚染をでき るだけ防止するための活動にあるだろう。1995年に出版された第2の英文自 伝「View from the Summit」は、「エベレスト」以後に始めた彼の新たなる挑戦 を綴っている。この活動の最中、彼の家族が悲劇に見舞われる。1975年に彼 の妻と長女が飛行機事故で、ネパールで死亡する。彼は生き残った長男ピーター (エベレスト登山家)と共に、悲劇に負げず活動を続ける。

世界七大陸最高峰の征服を成し遂げた若い日本のアルピニスト、野口 健は、 ヒラリー卿の活動に感銘/共鳴して、富士山やエベレストに堆積しつつある 「ゴミの山」の清掃活動に活躍している (ヒラリー卿の)「高弟」の一人である。 「山を愛する」とは一体何か、「地上最高の視点」から観たヒラリー卿の英知を 我々読者がこの本から学ぶことができれば、誠に幸いである。「地球温暖化 (汚染)」防止がまさに緊急課題になっている今世紀の「必読の書」といえるだろう。 残念ながら、欧米でベストセラーになったこの英文原書の邦訳は、なぜか日本では まだ出版されていない。

最後に、ヒラリー卿の魂が天上で(20年ほど前に他界した)無二の親友テンジ ンの魂に再会し、旧交を再び暖められることを、我々アルピニストは心から祈っ ている。

http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Hillary

晩年はニュージーランドで養蜂業を営む。2008年1月11日に心臓発作により逝去。1月22日にオークランドにて国葬が行われた。

息子ピーター・ヒラリー2002年に、エベレスト登頂50周年を記念してテンジン・ノルゲイの孫、タシ・テンジンとともにエベレストに登頂に成功している。

このタシとその奥さんジュディーもベテランのヒマラヤ登山家で、豪州シドニーに永住しながら、あるヒマラヤ登山旅行会社を経営している。数年前、この夫妻が有名な祖父テンジンとシェルパ仲間のエベレスト登山史を出版した。その邦訳『テンジン、エベレスト登頂とシェルパ英雄伝』を我々が昌文社から、2003年に出版する機会を得た。海外からやって来た登山家たちではなく、地元の「シェルパ山岳民族」の目から眺めたエベレスト登山観が描かれている点で、ユニークな作品である。

さて最近、北京五輪の聖火リレー妨害や開会式ボイコット運動を巡って、世界中のメディアの話題になっている中国領内にある「チベット民族の独立あるいは自決」(自らの伝統文化と原始仏教の維持をめざす自治政府の確立)問題は、ネパールのシェルパ民族と密接な関係がある。実は、シェルパ民族は、元々チベット地方に住んでいた山岳仏教徒(チベット)民族であるが、数世紀前に農奴制度や貧困餓死から逃れるために国境のチベット・ネパール高原を越えて、比較的肥沃なネパールの渓谷地方に移住して来て、貧しいながらも農業と牧畜業で生計を立てるようになった。有名なエベレスト征服者テンジンも幼年時代は、チベット地方に住んでいた。チベット民族と大和民族は言語上も, 類似した容貌からも、共通の祖先から枝分かれしたことが知られている。そういう意味で、チベットやネパール(シェルパ)民族問題は、意外に我々日本人に身短かな問題なのである。