2013年2月9日土曜日

「私の見た日本人」(パール・バック著、小林政子訳)

この「幻の随想」の発掘や邦訳をめぐるエピソード

この本の英文原書「The People of Japan」は、1966年に米国の大手出版社
「Simon & Schuster」から出版された。著者のパール・バック女史(1892-1973) は、
往年の名作「大地」などを始めとする80余りの文学作品を世に出し、1938
年にはノーベル文学賞をもらっている。女史は米国生まれであるが、その前半生
(約40年)を中国大陸で過ごした。両親が米国から中国に派遺されたキリスト
教宣教師だったからである。女史は当時の西洋人としては非常にユニークな生い
立ちを駆使して、主に文学を通じて、マルコ・ポーロ以来の「東洋と西洋の架け
橋」という極めて重要な役目を果たした。中国大陸に近い日本列島は、(太平洋
戦争前には)中国大陸の内戦中、女史の家族の疎開地にもなった。さらに、戦後
まもなくは、(日本の路頭に捨てられた多数の)日米混血孤児たちの救済/養子
斡旋のために、たびたび来日した。また1960年には、女史の子供向け短篇小
説「Big Wave」(大津波)の日米合作映画ロケのために、3か月ほど日本各地に
滞在した。従って、女史は稀れな「知日家」(日本を知り抜いた西洋人)だった。
1966年秋に再び来日したのち、この随想「The People of Japan」を出版した
が、その後(何故か)長らく邦訳が一度も出版されず「幻の随想」とまで呼ばれ
るようになった。さて、この「幻の随想」の発掘経過には、次のような面白いエ
ピソードがあった。

女史と水木洋子との出会い

水木洋子という有名なシナリオ作家が生前、長らく千葉県市川市に住んでいた。
1910年に東京・京橋で生まれ、神田で育っている。戦後1947年に市川市
に移り住み、2003年に92歳の生涯を終えるまで半世紀以上、ここが創作の
場となった。彼女は、「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」「浮雲」「キクとイ
サム」など数々の名作シナリオを書き、戦後の日本映画の黄金時代を担った。さ
て、彼女とパール・バックとの主な接点は、1959年に封切の映画「キクとイ
サム」にある。実は主人公のキクとイサムは、日米混血孤児の姉弟だった。父親
は米軍黒人兵、母親は日本人女性。父親は米国本国に帰国する際、2人の子供を
置き去りにし、女性は病死し、姉弟は東北の貧しい農村に住む祖母に引き取られ
て、日本人として育てられる。この映画は日米混血孤児問題を扱った最初の作品
であり、水木洋子が情熱をかけて脚本を書き、今井 正監督の下、大成功を修め
た。恐らく、パール・バックは、1960年の来日の折、この映画を実際に観た、
あるいはこの作品について、澤田美喜から詳しく聞いているに違いない。という
のは、澤田さん(三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の孫娘) は、これらの混血孤児たち
を救済するために、(戦後まもなく) 鎌倉にある自分の別荘を開放して「エリザベ
ス・サンダース・ホーム」を設立し、孤児たちの養育のために一生を捧げた、こ
の道の草分けだったからだ。

さて、1966年の来日直前にパール・バック女史が水木さん宛に送った一通の
手紙が、水木さんの死後(2010年頃)になって、偶然に発見された。水木さ
んの生誕100年を祝う事業の一つとして、地元市川の市民有志による「水木洋
子市民サポーターの会」が、彼女の伝記を出版するために、彼女の遺品を整理し
ている中に、この手紙の存在が明るみになったというわけである。手紙の内容を
要約すれば、女史の来日中、ヒルトンホテルで、日米混血孤児に関する問題につ
いて、水木さんと話し合いをもちたい、という内容だった。水木さんがそれに同
意する返事を送っている形跡はあるが、具体的にどんな話し合いがもたれたのか
については、全く不明だった。そこで、このサポーターの会員の一人(大隅裕子
さん)が、舞字社の社長(吉川政雄さん)を介して、私に連絡をとったというわ
けである。

実は、八王子市にあるこの出版社に、10年以上前に、我々が企画したパール・
バック伝(英文伝記の邦訳)の出版を快く引き受けてもらって以来、親しく(日
豪間を、主にメールで)文通し続ける間柄になっていた。我々の出版した女史の
伝記の下巻末に、女史の作品を全部、年代順に網羅した部分がある。それによる
と、1966年に「The People of Japan」という英文随想が出版されているが、
この中に水木さんとの会合について、何かふれられているかどうか、直接原書に
あたって調べてもらえないかという依頼だった。この随想は、なぜか日本で邦訳
がまだ出版されていないからだという。そこで早速、原書を取り寄せて、読んで
みたが、水木さんに関する記事は全くなかった。普通ならば、ここで話は終わり
になるわけだが、実際に読んでみると、半世紀近い昔に書れた言わば「幻の随想」
が、意外に興味深い、新鮮な内容のものだった。時代を超えて、なお学ぶべきものが
多くあった。その上、戦後まもない日本を活写した(特に我々の世代に)懐かしい写真が
沢山収録されていた。 そこで、発掘された「幻の随想」を出版しようではないか、と
いうアイディアが頭に浮かんだ。 数年前に女史の小説「原爆を作った人々」
(Command the Morning、 1957年) の邦訳を半世紀振りに、訳者の小林政子さんと
出版した経験があるので、小林さんにこの新しい企画を持ち掛けた。 そして、
国書刊行会という出版社の編集者 (中川原 徹さん) の情熱によって、「私の見た日本人」と
いう邦訳がついに誕生する運びになったというわけである。 来たる3月21日に
出版予定である。乞う、ご期待! 
 
 http://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336056269/

この訳書に関して、週刊朝日(5月21日発売)の82ページに、小説家・写真家である片岡義男氏による書評「均衡を失う日本を考えるための定点」が掲載されています。


 宮崎正弘氏による書評 (抜粋) :

親中派として中国に同情的な作品を残した著者 (パール・バック女史) だけに、
日本にどれほどの知識と蓄積があるか、本書で明らかになるが、歴史、文化、宗
教(つまり神道と仏教)への偏見があり、議論に深みがあるとはいえない。
しかし、60年代の日本の生き様と状況を、これほど生き生きと証言している書
物は珍しく、とくに添付された写真は古典的でさえある。
 
「宮崎」評に対する私のコメント:

キリスト教の宣教師の娘として、(儒教の国) 中国大陸に前半生を過ごしたパール・
バック女史に、日本の「神道や仏教」に関して、(宮崎氏のような国粋主義的な)
深い理解 (洞察) を期待するのは到底無理だろう。敗戦後、西洋的な(独文学/英
文学を専攻した) 両親に育てられ、義務教育では漢文を通じて、儒教を教え込ま
れた私自身にも、神道や仏教に関する知識が、(西洋人である) 女史以上にあると
は言えない。もっとも私は、女史と同様、結局キリスト教にも失望し、「無神教」
(神や仏は人類がでっち上げたもので、人類出現以前から、この宇宙に存在してい
た物ではない!) を確信するようになったが。 「宗教とは、(非科学的な) 偏見
の現われに過ぎない」というのが、科学者としての私の個人的見解である。宗教
はしばしば「戦争の種 (口実)」になっても、戦争の解決には役立たないという
ことを、長い我々人類の「史実」が証明している。