<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916</id><updated>2011-12-13T22:51:36.025+09:00</updated><title type='text'>私の本棚 (Knowledge is a Power)</title><subtitle type='html'>このブログは、いわゆる「洋書コーナー」で、主に最近出版された英文伝記の中から、まだ邦訳が出版されていないものを選んで、日本読者や出版社が興味をもつかもしれない啓蒙的な作品を、ごく手短かに紹介する。

In this blog, mainly the outline of recent English biographical books, whose Japanese translation has not been published, shall be introduced in advance to Japanese readers or publishers who might be interested in. なお、本ブログ内容を無断で転載することを禁じる。</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>40</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-5217092326035453111</id><published>2010-11-13T14:06:00.001+09:00</published><updated>2010-11-13T14:07:42.584+09:00</updated><title type='text'>乙武先生の小説「だいじょうぶ３組」（講談社）</title><content type='html'>「各自の個性（長所）を伸ばすユニークな教育」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私（６８歳）の誕生日に、東京の実家に住む妹からもらった手紙に、この先生の&lt;br /&gt;「杉４」（杉並区立第４小学校）での３年間の教員生活に関する短い手記の新聞&lt;br /&gt;切り抜きが同封されていた。実は「杉４」は私の最初の母校である。もっとも最&lt;br /&gt;初の１０カ月しか在学していなかったが（一年生の２月初めに、大田区に家を引っ&lt;br /&gt;越したからだ）。その記事の中に、この小説のことがちょっとふれてあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、興味本位に買って読んでみた。私はずっと海外で３０数年生活している&lt;br /&gt;ので、乙武先生が、かの有名な「５体不満足」の著者であることを知らなかった。&lt;br /&gt;小学校で「車椅子に乗る手足のない教師」を勤めることは、大変な勇気と努力が&lt;br /&gt;必要だろうが、彼はその仕事を３年間立派に果たして、生徒たちにとても惜しま&lt;br /&gt;れながら、最近退職した。この本は、その体験を題材にして、描かれた小説であ&lt;br /&gt;る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は「杉４」で、絵の大好きな生徒の一人だった。外に全く取り得はなかったが、&lt;br /&gt;秋の文化祭で、一風変った「電車」（高円寺を通過する中央線）の絵を描いて、&lt;br /&gt;金賞に選ばれた懐かしい思い出がある。この小説には、そんな生徒も登場する。。。&lt;br /&gt;一人一人の生徒の個性を大事にして、それをできるだけ伸ばそうと懸命に努力す&lt;br /&gt;る５体不満足の「赤尾先生」の姿が、実に印象深く描かれている。子供も大人も&lt;br /&gt;読み始めるといつの間にか、引き込まれてしまう小説である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は「杉４」から最寄りの小学校「東調布第３」に転校したが、そこで、とても&lt;br /&gt;ユニークな担任に（卒業まで３年間）恵まれた。鹿児島出身の浅黒い「中山」と&lt;br /&gt;いう先生だった。図書係をしていたこの先生から、製本のしかたや伝記をむさぼ&lt;br /&gt;り読む癖を伝授された。それ以来ずっと「本の虫」になってしまった。。。私が&lt;br /&gt;結局（画家にならず）癌研究者になってしまった由縁はそんなところにあった。&lt;br /&gt;もっとも、２、３年前に研究所を退官して以来、童心に帰って、広い庭の塀に向&lt;br /&gt;かって、毎日色んな壁画を描いて、余生を楽しんでいる。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後に一言。乙武先生を小学校の教師として採用した杉並区の教育関係者たちの&lt;br /&gt;優れた「英断」にエールを送りたい！　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-5217092326035453111?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/5217092326035453111/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=5217092326035453111' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/5217092326035453111'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/5217092326035453111'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2010/11/blog-post.html' title='乙武先生の小説「だいじょうぶ３組」（講談社）'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-1473810039847736157</id><published>2010-09-12T08:38:00.005+09:00</published><updated>2010-09-13T08:20:42.881+09:00</updated><title type='text'>「三杯のお茶：　失敗も成功のもと」 グレッグ・モーテンソン、デビット・レリン共著 （ペンギンブックス、２００６年）</title><content type='html'>１９９３年に米国の登山家グレッグ・モーテンソンはカラコルム山脈にある最高&lt;br /&gt;峰「Ｋ２」の登頂に失敗し、下山の途中、道を間違えて、パキスタンの貧しい山&lt;br /&gt;村に迷い込んだ。住民たちの厚意に感動して、グレッグは村に再び戻ってきて、&lt;br /&gt;学校を建てることを村人に約束した。本書は、その約束がもたらした意外な結果&lt;br /&gt;を物語る。以来１０年以上の間に、グレッグは５５もの学校、それも女の子たち&lt;br /&gt;のための学校を、（女性の教育を禁止していた）タリバンの本拠地である山奥&lt;br /&gt;（パキスタンーアフガニスタン国境の散村）に建てることに成功する。この実話&lt;br /&gt;はたちまち、不動の冒険心と善意の威力を象徴するベストセラーになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９５３年にニュージーランドの登山家／養蜂家エドモント・ヒラリー（１９１９ー&lt;br /&gt;２００８）がネパール出身のシェルパ「テンジン」と共に、世界最高峰「エベレスト」&lt;br /&gt;の登頂に初めて成功した後、地元ネパールの貧しい山村に、数十年もかけて、&lt;br /&gt;多くの学校や病院／診療所を建てることに献身した（成功が、予期せぬ新たな&lt;br /&gt;成功をもたらした）。ヒラリー卿も、グレッグ発案の「ＣＡＩ」（中央アジア研究所) &lt;br /&gt;プロジェクトに助成金を贈り、山奥の女学校建設（慈善）事業を後押しした。&lt;br /&gt;本書は「失敗も成功をもたらす」一例を、我々に力強く教えようとしている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお、本書の中学生向け版は、「ここに学校をつくろう」という表題で、邦訳 &lt;br /&gt;（２４５ページ）がＰＨＰ研究所から２００９年に出版されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;第一章　登頂ならず&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ペルシャの諺：　真っ暗にならないと、夜空の星くずは見えてこない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パキスタンと中国との国境にある（わずか巾１６０キロメーターの）カラコルム&lt;br /&gt;山脈には、世界有数の高山 (海抜６千メートル以上)が６０ほどひしめき合ってい&lt;br /&gt;る。その中で最も高いのが「Ｋ２」と呼ばれる (エベレストにつぐ) 　海抜８６１１&lt;br /&gt;メートルのピークである。「カラコルム連峰にある世界第二の高山」という意味で&lt;br /&gt;名付けられた、槍の穂先のような険しい山である。厳しい環境の下、雪山豹や&lt;br /&gt;野生の山羊以外の生物はほとんど、この無毛の万年氷河を行き来しない。&lt;br /&gt;そこで、２０世紀に入る前は、このピークの存在は、外界の人々にとっては、&lt;br /&gt;単なる「噂」に過ぎなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パキスタン側からインダス川を遡っていくと、まず「Ｋ２」の前面に立ちはだかる&lt;br /&gt;難所が「バルトロ氷河」である。６２キロメーターにわたる氷と岩からできた天&lt;br /&gt;然の大聖堂である。１９０９年に西洋人の登山家として初めて、この大氷河に到&lt;br /&gt;達したのは、イタリアの山岳地帯アブルッツィ出身の名登山家ルイギ・アメディ&lt;br /&gt;オ男爵が率いる「Ｋ２」探検隊であった。しかしながら、この大氷河などにはば&lt;br /&gt;まれ、イタリア隊は登頂を断念せざるをえなかった。その折、開拓されたのがい&lt;br /&gt;わゆる「アブルッツィ尾根」と呼ばれる標準ルートである。それから半世紀ほど&lt;br /&gt;経った１９５３年に、英国隊のニュージーランド登山家エドモント・ヒラリーと&lt;br /&gt;地元ネパール出身のシェルパ「テンジン」が、エベレストの初登頂に成功した翌&lt;br /&gt;年、イタリア隊（隊長アルディト・デシオ）がけん土重来をかけて、「Ｋ２」に&lt;br /&gt;挑戦して、見事に頂上を征服した。日本遠征隊が初めて「Ｋ２」登頂に成功した&lt;br /&gt;のは、それから２３年後の１９７７年だった。隊長の吉沢一郎（１９０３ー１９&lt;br /&gt;９８）と地元パキスタン出身の登山家アシュラフ・アマンが一緒に頂上に達した。&lt;br /&gt;これが、イタリア隊に次いで世界で２番目の「Ｋ２」登頂成功例となった。エベ&lt;br /&gt;レスト登頂に比べて、テクニカルにずっと難しく（２０１０年現在で、エベレス&lt;br /&gt;ト登頂者は２７００名以上に達するが、「Ｋ２」登頂者はわずか３００名に過ぎ&lt;br /&gt;ない！）、「魔の山」という異名を持つ「Ｋ２」に挑戦した登山家は、４人に１&lt;br /&gt;人の割合で命を失っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;従って、１９９３年９月２日に「Ｋ２」に挑戦したグレッグ・モーテンソン一行が&lt;br /&gt;悪天候のため、登頂に失敗したものの、全員無事に生還できたのは、極めて幸&lt;br /&gt;いな出来事だったのである。しかし、グレッグが下山の途中で、（迎えのジープ&lt;br /&gt;が待つ）アスコルという村に向かう本隊の一行からはぐれ、道に迷った末、（目&lt;br /&gt;的地から南東に８０キロほどずれた）コルフェと呼ばれる貧しい散村に、地元の&lt;br /&gt;ポーターと２人きりで、命からがらたどり着いたことから、この意外なドラマが&lt;br /&gt;展開する。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実は、グレッグには１２歳年下の可愛い妹クリスタがいた。妹の遺品であるネッ&lt;br /&gt;クレスを、「Ｋ２」の頂上に登頂記念として、埋めることが、彼の夢の一つだっ&lt;br /&gt;た。しかし、頂上まであとわずか６００メートルという地点で、深い霧によって&lt;br /&gt;行く手を完全に遮られ、無念の涙にくれながら、ネックレスをポケットに入れた&lt;br /&gt;まま、グレッグは下山中に注意散慢になり、仲間から、とうとうはぐれてしまっ&lt;br /&gt;たのだ。グレッグは少年時代をアフリカ大陸のケニアとタンガニカの国境近くに&lt;br /&gt;あるキリマンジャロ（標高５９００メートル、アフリカ大陸の最高峰）の山麓で&lt;br /&gt;過ごした。ミネソタ州生まれの両親が、ここで長らく、ルーテル教会の伝道師と&lt;br /&gt;教師をやっていたからだ。ところが、クリスタが３歳の頃、急性の髄（脳）膜炎&lt;br /&gt;にかかってしまった。&lt;br /&gt;不幸にして、病気から完全には回復できず、後遺症で知脳の発達がかなり遅れ&lt;br /&gt;気味になった。そこで、母親にできるだけ自由な時間を与えるために、グレッグは&lt;br /&gt;自ら進んで、クリスタの世話役を勝手出た。クリスタは毎朝、着替えという簡単&lt;br /&gt;な動作にも一時間タップリ要したし、たびたび重症の癲癇にさいなまれた。それ&lt;br /&gt;を助けるのが、クレッグの役目だった。更に、彼女のために、手仕事を探してやっ&lt;br /&gt;たり、市内バスの路線地図を探してきて、彼女が自由自在に市内を回れるように&lt;br /&gt;してやった。彼女がデートをし始めた時分には、避妊の方法までていねいに手解きして、&lt;br /&gt;母親を赤面させたこともあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以後、彼が米国陸軍の衛生兵やドイツ駐留の小隊長をやっていようが、サウス&lt;br /&gt;ダコダで看護士の資格を取る勉強中にも、インディアナの大学院で、クリスタの&lt;br /&gt;癲癇の治療法を見つけるために、癲癇に関する神経生理学の研究中にも、あるいは&lt;br /&gt;カルフォルニア州バークレーで、車住いの登山浮浪者暮らしをしている時でも、&lt;br /&gt;グレッグはクリスタに毎年一ヶ月間、一緒に暮らすように説得したものだ。&lt;br /&gt;クリスタを「インディ５００」（カーレース）、ケンタッキー競馬、ディズニーランドなどに&lt;br /&gt;連れていったり、当時の彼の「大聖堂」であったヨセミテの岩場に案内して、&lt;br /&gt;この妹の目を楽しませた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それから２０年後、クリスタがちょうど２３歳の誕生日を迎えた日に、両親の故&lt;br /&gt;郷ミネソタから、母親と共に、アイオワ州ダイヤースビルのトウモロコシ畑まで、&lt;br /&gt;思い出の旅行に出かける直前に、彼女は致命的なてんかん発作でとうとう死んで&lt;br /&gt;しまった。その旅先は、クリスタが大好きで、何度も何度も繰り返して観ていた&lt;br /&gt;懐かしの草野球映画「夢がいっぱいの畑」(１９８９年制作、ケビン・コスナー主演）&lt;br /&gt;のロケがおこわれた場所だった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-1473810039847736157?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/1473810039847736157/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=1473810039847736157' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1473810039847736157'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1473810039847736157'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2010/09/blog-post.html' title='「三杯のお茶：　失敗も成功のもと」 &lt;br&gt;グレッグ・モーテンソン、デビット・レリン共著 &lt;br&gt;（ペンギンブックス、２００６年）'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-5826084655286075053</id><published>2010-03-24T09:54:00.010+09:00</published><updated>2010-03-29T15:57:01.068+09:00</updated><title type='text'>「OBAMA: from Promise to Power」(David Mendell) の邦訳</title><content type='html'>デビッド・メンデル著の英文伝記「Obama: from Promise to Power」は、&lt;br /&gt;２００８年の大統領選挙前に出版された。この選挙で、民主党候補のバラク・オバマ&lt;br /&gt;上院議員は、共和党候補のジョン・マケインを圧倒的な差で破って、非白人&lt;br /&gt;（アフリカ系黒人）として初めて、第４４代米国大統領に当選した。それから&lt;br /&gt;約５００日目の２０１０年３月２１日に、彼の公約の１つ、歴史的懸案であった&lt;br /&gt;「医療制度改革案」を米国議会（下院）で小差で議決にようやく成功した。その瞬間、&lt;br /&gt;彼は例の&lt;b&gt;「Yes, We Can 」&lt;/b&gt;を告げるお得意のガッツポーズを見せて、ニッコリ笑った。&lt;br /&gt;戦前、大恐慌の直後、民主党の大統領フランクリン・ルーズベルト（ＦＤＲ）が&lt;br /&gt;「ニューディール政策」の一環として、医療制度の改革に成功して以来の快挙である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、この本を、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;皆んなの夢を実現した「オバマ」：「ホワイトハウス」への軌跡&lt;/b&gt;  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;という表題で、邦訳出版しようではないかというアイディアが浮かび上がった。&lt;br /&gt;この本は、ベストセラーとなったオバマ氏の自叙伝「マイ・ドリーム」(少年時代&lt;br /&gt;の回想) 以後、大統領選への出馬決意までの彼の半生、特にハーバード大学 &lt;br /&gt;(ロー・スクール) 時代や (「黒人奴隷解放」をやった大先輩、リンカーン大統領の&lt;br /&gt;地盤である) シカゴでの政治家 (イリノイ州上院議員) としての活躍振り、上司であり&lt;br /&gt;奥さんとなったミシェルとの出会いなど、円熟した「大人のオバマ像」(活動歴) が&lt;br /&gt;客観的かつ生き生きと描かれた作品である。なるほど、「オバマの演説集」や&lt;br /&gt;「少年時代の夢」については、既に出版されているが、それを裏付ける活動の&lt;br /&gt;実際については、まだ日本語では出版されていない。オバマから (日本の政治家や&lt;br /&gt;若者たちが) 学ぶべき最も貴重で、かつ今までの出版物に欠けていた部分 &lt;br /&gt;(「世界の指導者」になるべき素質を、社会に出て自ら育て上げるプロセス) を、&lt;br /&gt;この邦訳で紹介しようというのが、我々の主旨である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;オバマ自身の言葉によれば、彼の大志の出どころは、（他界した）父親の期待に&lt;br /&gt;答えるばかりではなく、父親の犯した失敗を繰り返すまいとする努力にあると。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;貧困や差別に苦しむ多くの人々の生活をより良くするために、自分の素質をフルに&lt;br /&gt;生かして 社会奉仕をすることが、彼の生涯の夢である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この評伝は、 彼を巡る様々な環境下 (ハワイ、インドネシア、ロサンゼルス、ニューヨーク、&lt;br /&gt;ボストン、シカゴ、ワシントン) で、オバマが有色人種として初の大統領になるべき優れた&lt;br /&gt;素質を、いかに築き上げてきたか、その異例な知的成長の軌跡を、我々読者に雄弁に語りかけてくれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;目次&lt;br /&gt;1。 政界のスター誕生&lt;br /&gt;2。 母親の夢&lt;br /&gt;3。 ハワイ生まれの素朴な少年「バリー」&lt;br /&gt;4。 コロンビア大学時代&lt;br /&gt;5。 シカゴで社会奉仕&lt;br /&gt;6。 ハーバード大学の優等生「バラク」&lt;br /&gt;7。 ミシェルとの結婚&lt;br /&gt;8。 州議会にデビュー&lt;br /&gt;9。 大失敗&lt;br /&gt;10。 作戦の立て直し&lt;br /&gt;11。 戦闘準備&lt;br /&gt;12。 イラク戦争 (侵略) に反対&lt;br /&gt;13。 上院挑戦への第一歩&lt;br /&gt;14。 政治的信条と女性ファン&lt;br /&gt;15。 民主党内のライバル&lt;br /&gt;16。 テレビ広告 (ＩＴ) の威力&lt;br /&gt;17。 最初のハードルを突破&lt;br /&gt;18。 中道左派路線&lt;br /&gt;19。 共和党候補ライアンとの対決&lt;br /&gt;20。 民主党大会での大飛躍&lt;br /&gt;21。 上院議員に初当選&lt;br /&gt;22。 大統領選への出馬準備&lt;br /&gt;23。 南ア訪問&lt;br /&gt;24。 ケニア訪問&lt;br /&gt;25。 父親の故郷&lt;br /&gt;26。 ホワイトハウスへの道&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;邦訳の出版予定のタイミングを、来たるべき２０１２年１１月の大統領選挙 (オバマの&lt;br /&gt;再選をめざす選挙) に合わせれば、邦訳にも時間がタップリ、売れ行きも上々、&lt;br /&gt;というわけである。念願の「Health Care Bill 」(医療制度改革案)の議会&lt;br /&gt; (下院) 通過後、久しぶりに甦ったオバマ大統領の明るい笑顔が表紙となる。&lt;br /&gt;訳者による解説 (エピローグ) として、２００８年の大統領選挙の推移、その直後の&lt;br /&gt;世界的経済不況、オバマ政権の経済復興政策、イラク・アフガン (反テロ) 政策、&lt;br /&gt;２００９年のノーベル平和賞受賞の経過などを付け加えたいと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお、訳者の一人 (私) は、既に数冊の英文伝記 (主に、ノーベル受賞者の伝記) を&lt;br /&gt;邦訳出版しているエキスパートである。        丸田　浩（６７、豪州メルボルン永住）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;第一章　政界のスター誕生&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２００４年７月２７日午後に起こった出来事は、バラク・オバマを良く知ってい&lt;br /&gt;る者たちの耳にも、ほとんど信じ難い現象だった。しかしながら、彼の自信たっ&lt;br /&gt;ぷりな演技ぶりには、それ以上に常ならぬものがあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;所は米国の東海岸にあるボストン市の中心、真夏の暑い太陽がさんさんと降り注&lt;br /&gt;ぐ中、海軍センターの巨大なアレーナ（講演会場）で、その年の民主党の全米大&lt;br /&gt;会が開催された。来たるべき１１月に予定されている大統領選に向けて、最終的&lt;br /&gt;に民主党候補の指名をするためだ。共和党の候補は現職の大統領ジョージ・ブッ&lt;br /&gt;シュ（息子）に決まっていた。そこで、ブッシュ大統領の再選を阻むことのでき&lt;br /&gt;そうな民主党候補が選ばれるはずだった。ボストンが会場に選ばれたのは、単な&lt;br /&gt;る偶然ではなかった。最も有望な候補者であるアイルランド系のジョン・ケリー&lt;br /&gt;（マサチューセッツ州選出）上院議員の地元が、ボストンだったからだ。当時ケ&lt;br /&gt;リーに肉薄する有望な対抗馬は、ジョン・エドワーズ（ノースカロライナ州選出）&lt;br /&gt;上院議員だった。従って、この全米大会では、ケリーとエドワーズとの決戦が予&lt;br /&gt;想されていた。各州のデリゲート（選出代表）が一体どちらの議員に投票するか&lt;br /&gt;が、最大の焦点だった。それ以外に、主に２つのイベントが注目されていた。大&lt;br /&gt;統領候補を指名後、そのパートナーとなる副大統領候補を決定することだ。もう&lt;br /&gt;１つは、４年後（次期）の大統領選に出馬しうる有望な政治家が２、３名、この&lt;br /&gt;大会の基調演説を担当することになっていた。それが一体誰になるかが、民主党&lt;br /&gt;の近い将来を占う大きな鍵になる。例えば、ビル・クリントン（当時、アーカン&lt;br /&gt;ソー州知事）は、１９８８年の民主党の全米大会で、大統領候補としてマイケル・&lt;br /&gt;デュカキス（マサチューセッツ州選出）上院議員を強く推薦する基調演説に成功&lt;br /&gt;後、１９９２年の大統領選でジョージ・ブッシュ（父親）大統領の再選をみごと&lt;br /&gt;に阻んで（前回の「デュカキスの敵」を破って）、自ら大統領に当選した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ケリーを推薦する基調演説者として、元大統領夫人ヒラリー・クリントン&lt;br /&gt;（ニューヨーク州選出）上院議員の外に、若い痩せぎすの青年が壇上にさっそうと&lt;br /&gt;初登場した。彼の名は「バラク・オバマ」、民主党出身の（イリノイ州選出）上&lt;br /&gt;院議員候補に過ぎなかった。彼は白人ではなかった。しかし、黒人でもなかった。&lt;br /&gt;彼は、ケニア出身の黒人を父親として、北欧系白人を母親とする、いわゆる「ハー&lt;br /&gt;フ」（あるいは「間の子」）だった。従って、彼の肌色は、真っ黒でも真っ白で&lt;br /&gt;もなかった。肌色ばかりではなかった。彼の考え方も、リベラル（進歩的）では&lt;br /&gt;あるが、「ハーフ」（いわゆる「中道路線」あるいは、党派の利害を越えた「バ&lt;br /&gt;イパーチザン」主義者）だった。つまり、白人側の立場を尊重すると共に、黒人&lt;br /&gt;やその他の有色人種の立場も尊重した。オバマは基調演説で、立場の違いを越え&lt;br /&gt;て、全米の有権者が一体／一丸となって、ケリー候補を支持しようではないか、&lt;br /&gt;と大会に馳せ参じたデリゲートたちに強く訴えた。その演説は、ベテランである&lt;br /&gt;ヒラリー・クリントンの基調演説を遥かにしのいだ、と言われている。いいかえ&lt;br /&gt;れば、４年後の大統領候補選では、老練のヒラリーと新進のバラクが互角にしの&lt;br /&gt;ぎを削るかもしれない可能性を強く示唆した。結局、ケリー候補がエドワーズ候&lt;br /&gt;補を破って、２００４年の大統領候補に指名され、次点のエドワーズと和解した&lt;br /&gt;上、彼を副大統領候補として選んで、共闘路線を打ち出した。結果としては、不&lt;br /&gt;幸にして、現職のブッシュ大統領が小差で再選され、米国の有権者は再び、もう&lt;br /&gt;４年間の（「反テロ」を最大優先する）暗黒時代を迎えざるを得なかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、リベラルな（民主党支持の）有権者にとって一つの救いがあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２００８年の大統領選には、極めて保守的なブッシュ大統領は３選をめざして、&lt;br /&gt;出馬できないことが予めわかっていたからだ。米国史上で、大統領の４選に成功&lt;br /&gt;した政治家はたった一人だった。１９３２年から１９４５年（第２次世界大戦が&lt;br /&gt;終了する直前に急死）にわたって、大恐慌から「ニューディール政策」などの大&lt;br /&gt;改革で米国を救い、（日本による真珠湾奇襲をけっきに）戦争に参戦することに&lt;br /&gt;よって、日独伊のファッシズム政権を打倒して、民主主義を世界に取り戻した、&lt;br /&gt;民主党出身の「車椅子」政治家、ＦＤＲ（フランクリン・ルーズベルト) だった。&lt;br /&gt;しかしながら、戦後、米国の憲法が改正され、大統領は最大限、２期（８年間）&lt;br /&gt;と決められた。従って、ブッシュ大統領は２００９年の１月末に引退せざるを得&lt;br /&gt;ない。彼が２００３年に（ウソの理由で）一方的に始めたイラクの「泥沼戦争」&lt;br /&gt;に飽き飽きした有権者は、２００８年１１月の大統領選挙では、このイラク戦争&lt;br /&gt;を従順に支持してきた共和党の候補には、（誰が出馬するにしても）恐らくかな&lt;br /&gt;り「辛い点数」を付けるだろう。従って、民主党候補の方がずっと有利であるこ&lt;br /&gt;とが容易に予想される。当然、４年後の最大焦点は、一体誰が民主党候補として、&lt;br /&gt;大統領選に出馬、指名されるかであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、スイ星のごとく、２００４年の民主党大会の晴れ舞台に忽然として登場し&lt;br /&gt;てきた「オバマ」と名乗る雄弁な人物は、一体何者だろうか？　その謎を解くの&lt;br /&gt;が、この邦訳（評伝）の最も重要な役割である。勿論、オバマは２００４年１１&lt;br /&gt;月に首尾よく上院議員に初当選を果したので、地元のイリノイ州（特に、州都シ&lt;br /&gt;カゴ市内）の有権者には顔なじみだろうが、全米的には、ほとんど無名の存在だっ&lt;br /&gt;た。言わんや、海のずっとかなたにある島国「日本」では、２００８年の大統領&lt;br /&gt;選の予備選挙が全米各地で展開され、オバマ候補がヒラリー候補に対して、優勢&lt;br /&gt;を維持していても、オバマの名など知るインテリは出版界にあっても、ほんの小&lt;br /&gt;数に過ぎなかった。ごく小数の例外は、福井県内にある小浜（おばま）市内の住&lt;br /&gt;民（特に、商店街）が、「オバマを勝手に応援する会」を急きょ結成し、郷土名&lt;br /&gt;産の「オバマ」団子や「オバマ」Ｔシャツなどを売り出して、同姓（同音）のよ&lt;br /&gt;しみで「オバマ候補」を巧みに宣伝に利用するたくましい商魂と、２００７年に&lt;br /&gt;オバマの自叙伝「マイ・ドリーム」（少年時代の回想）の邦訳を、「先見の明」&lt;br /&gt;をもって出版した「ダイヤモンド社」に過ぎない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;高校生時代、「バスケ」（バスケット・ボール）の選手だったと言われている長&lt;br /&gt;身のやせ細った４２歳の青年（オバマ）は、この党大会会場で、丸で試合の勝敗&lt;br /&gt;を決定するフリースローを目標のゴール（リング）めがけて、確実にシュートす&lt;br /&gt;るかのような姿勢で、上体を伸ばし、頭をしっかり立てて、一歩前進するたびに、&lt;br /&gt;そのブルースーツの上半身を左右に振動させていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私（著者）は、「シカゴ・トリビューン」の新聞記者として、オバマ候補のイリ&lt;br /&gt;ノイ州選出の連邦議会上院議員（各州から２名のみ選出され任期は６年であるが、&lt;br /&gt;日本の参議院と同様、３年毎に議席の半数が交代で選挙の対象となる）を目指す&lt;br /&gt;選挙運動をカバーするため、９カ月ほど前から取材活動を続けていた。オバマは&lt;br /&gt;その当時、州議会の上院議員（総数６０名）の一人に過ぎなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はオバマと共に、会場の警備チェックポイントを通過した直後、オバマが側近&lt;br /&gt;から一時的に離れた瞬間を利用して、彼にすっと接近して、こう話し掛けた。&lt;br /&gt;「この桧舞台で、多くの有力者から好感を持たれているようですね」&lt;br /&gt;彼は前方を真っ直ぐ見据えながら、一歩も足を止めずにこう答えた。&lt;br /&gt;  「僕は、ルブロン級だよ、君」&lt;br /&gt;ルブロンとは、全米「バスケ」界（ＮＢＡ）の寵児、（当時１９歳の）天才的な&lt;br /&gt;オハイオ州出身の高卒（黒人）選手で、名門クリーブランドの「キャバリエ」チー&lt;br /&gt;ムのルブロン・ジェームズを指す。&lt;br /&gt;「僕は、彼に匹敵するようなゲームができるんだ。実際、ある試合に勝たんだよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は、彼のせりふに余り確信が持てなかった。思案している内に、前進して来る&lt;br /&gt;オバマの側近たちの群に巻き込れてしまったため、その親友の一人に話かけるこ&lt;br /&gt;とになった。マーチー・ネスビットは党大会の途中でシカゴから飛んできて、オ&lt;br /&gt;バマに合流した人物だ。私はネスビットに、その晩に予定されている（メディア&lt;br /&gt;から注目を浴び、政界からの期待も大いにかかっている）オバマの基調演説につ&lt;br /&gt;いて、どう思うかと尋ねてみた。&lt;br /&gt;「やっこさん今週の始め、テッド・コッペルと同席しながら、うまくやっていた。&lt;br /&gt;違うかね？　オバマを眺めていると、オハイオの僕の母校（高校）のバスケのチー&lt;br /&gt;ムのある選手を思い出すよ。奴はほとんどどんな試合状況下でも、いざという瞬&lt;br /&gt;間が来ると必ず、決定的なシュートを決めることができる選手だよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その晩、オバマは全米の観衆に向って、自己紹介（デビュー）を見事にやっての&lt;br /&gt;けた。彼は歴史に残るべき基調演説を演出し、（全米向けのテレビ中継を観なが&lt;br /&gt;ら）保守的な敵方の解説者でさえ「深く感銘した」ともらしたほどだ。オバマの&lt;br /&gt;豊かなバリトンの声が会場一杯に、はっきりとこだました。幼少時代を通じて、&lt;br /&gt;彼の頭に深く刻み込まれた愛する母親からの言葉、全ての人類に共通な人間愛の&lt;br /&gt;哲学、がこだまとして戻ってきた。&lt;br /&gt;「アメリカという国は、良心的な人々の集まりである。互いに敵対せず、仲良く&lt;br /&gt;助け合う市民たちの集まりである。自由と（全ゆる人々に）機会均等という共通&lt;br /&gt;の目的によって結ばれた多数の個人の集合体である」&lt;br /&gt;「リベラル（進歩的）なアメリカや保守的なアメリカなど存在すべきでない。&lt;br /&gt;「アメリカ合衆国」というたった一つのアメリカのみが存在すべきだ。黒人のア&lt;br /&gt;メリカ、白人のアメリカ、ラテン（メキシコ系）のアメリカ、東洋人のアメリカ&lt;br /&gt;など、存在すべきではない。我々はたった１つの一丸にまとまったアメリカ合衆&lt;br /&gt;国であるべきだ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アレーナの隅々まで、色々な州から馳せ参じた、様々な暮ら方をする、異なる人&lt;br /&gt;種的背景を持つ民主党支持者の多数が、目元に涙をうるませていた。私の真後ろ&lt;br /&gt;（上席）に座っていた女性が喜びの余り感極まって、こう叫んだ。&lt;br /&gt;「まあ、歴史的な演説ね！」&lt;br /&gt;私も沸き立った観衆を見回しながら、思わずこう叫んでしまった。&lt;br /&gt;「すごいぞ、今夜のバラクはやっぱり、レブロン級だ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実は、２００４年を通じて、オバマの地元であるイリノイ州のみならず全米的に、政&lt;br /&gt;治的かつ文化的ムードが鋭く分極化していた。２００１年９月１１日（ニューヨー&lt;br /&gt;クのツインタワーやワシントンのペンタゴン爆破事件）を口実に、イラクやアフ&lt;br /&gt;ガニスタンで勝手に（反テロ）戦争を始めたジョージ・ブッシュ大統領に挑戦&lt;br /&gt;（抗議）する民主党出身の大統領候補者たちの群れが、互いにしのぎを削っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;連邦議会の両院で、小数派の苦湯を飲まされてきた民主党は、１１月の大統領選&lt;br /&gt;でブッシュを破りうる強い候補を切望していた。これらの候補者の中から、最終&lt;br /&gt;的には、ケリーが党の指名を勝ち取ったが、絶望気味の民主党陣営は、ケリーに&lt;br /&gt;熱狂するところまではいかなかった。彼らはケリーが提供しうる以上の何かに渇&lt;br /&gt;望していた。ある種の政治的な救世主、つまり民主党史上最も暗黒な時代から、&lt;br /&gt;彼らを脱出させてくれるような、言わば「モーゼ」のような予言者的存在の到来&lt;br /&gt;を待ちわびていた。なるほど、ケリーは大統領に当選しうる資質を持ってはいた&lt;br /&gt;が、残念ながら彼の控え気味で、かつトボトボした大衆へのアプローチは、かの&lt;br /&gt;（１９６８年の選挙直前に、不幸にして暗殺に倒れた）ボブ・ケネディーのごと&lt;br /&gt;く熱狂的な大衆の魂をさらに魅了する救世主的な存在からは、ほど遠かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２００４年当時、アメリカ全体では、イラク戦争についての意見が賛否５分５分&lt;br /&gt;に分かれていたが、民主党支持層では、そうではなかった。当初はイラク戦争を&lt;br /&gt;支持した多くの民主党の穏健派の目には、いわゆる「９／１１」のテロ行為に対&lt;br /&gt;して反射的に全米中に波紋していった愛国心の熱病は、既に冷めつつあるように&lt;br /&gt;見えた。&lt;br /&gt;片や民主党の左派グループにとっては、イラク戦争は、当初から大失敗以外の何&lt;br /&gt;物でもなかった。シカゴ、サンフランシスコ、ボストンなど大都会の中心では、&lt;br /&gt;「反戦」を訴える何千人もの抗議集会がたびたび組織されていた。シカゴでは、&lt;br /&gt;反戦運動は大部分、整然とした非暴力集会だった。これらの反戦集会には、ラジ&lt;br /&gt;カルな若者たちばかりではなく、（５大湖の１つ）ミシガン湖岸沿いに住むいわ&lt;br /&gt;ゆる「リベラルなインテリ上流階級」からも参加者が多かった。２００２年１０&lt;br /&gt;月（「多発テロ」発生から約１年後、イラク戦争開始の数カ月前）、シカゴ市内&lt;br /&gt;の連邦プラザで、反戦を訴える集会が、ポール・サイモン元上院議員のスタッフ&lt;br /&gt;やリベラルな大衆運動エキスパートなどによって、組織された。この集会のメイ&lt;br /&gt;ン・ イベント（圧巻）は、まだ州議会（上院）議員の一人に過ぎなかったオバマ&lt;br /&gt;による反戦スピーチだった。差し迫る（ブッシュ政権が開始を企てている）イラ&lt;br /&gt;ク戦争を「無益な戦争」である、とオバマは聴衆に強く訴えた。現職議員で、公&lt;br /&gt;然とイラク戦争に反対の意志表明をしたのは、恐らく米国内ではオバマが最初だ&lt;br /&gt;ろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２００３年の春、「ワシントン・ポスト」紙（首都ワシントンの主要新聞）が米&lt;br /&gt;国内を日増しに２分する頑固な政治上、文化上の分裂（両極化）状態についての&lt;br /&gt;レポートを掲載した。その記事は、政治学者たちが、「レッド」州（共和党の地&lt;br /&gt;盤）ー「ブルー」州（民主党の地盤）現象と通称する政治的な分裂の硬直状態を&lt;br /&gt;扱ったものである。「レッド」州とは、保守的な白人のキリスト教徒が多数を占&lt;br /&gt;める、主に南部と中西部にある諸州とアラスカ州を指している。他方、「ブルー」&lt;br /&gt;州は、ゲイ（同姓愛）グループ、少数派（有色人種）、大学卒のインテリが多数&lt;br /&gt;を占める、主に大西洋岸（ワシントン市以北）と太平洋岸沿いの諸州とハワイ州&lt;br /&gt;である。この「レッド対ブルー」（あるいは「農村部」対「都市部」）の対決は、&lt;br /&gt;首都ワシントンの議場で、両院とも過半数を占める共和党と、少数派（野党）に&lt;br /&gt;甘んじている民主党との間で、党派ばかりに固執する醜い争いとなって、反映さ&lt;br /&gt;れていた。相手の立場を考慮し、相手の意見に耳を傾けて、両党が同意しうる妥&lt;br /&gt;協案を生み出そうとする努力がほとんどなされず、虚しく堂々巡りが続いていた。&lt;br /&gt;２００３年の秋にあった中間選挙の直後、ピュー研究センターが発表した世論調&lt;br /&gt;査の結果によれば、共和党候補のジョージ・ブッシュ（息子）が民主党候補のア&lt;br /&gt;ル・ゴアを小差で破って、初当選した２０００年秋の大統領選挙丸後３年間、ア&lt;br /&gt;メリカ全体が政治や文化ばかりではなく、宗教上でも真っ２つに分裂しているこ&lt;br /&gt;とが、改めて確認された。南部の住民たちが最も宗教的に献身的で、社会慣習が&lt;br /&gt;因習的であり、国防問題に関して、いわゆる「鷹派」の急先鋒であるのに対して、&lt;br /&gt;太平洋／大西洋岸の住民たちは、宗教に無関心で、生活スタイルが進歩的であり、&lt;br /&gt;平和愛好家（主義者）が多い。シカゴ周辺は海岸には面していないが、湖岸に面&lt;br /&gt;しており、その住民たちは（心のより広い）後者のジャンルに属している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのような、言わば「白か黒か」を迫る硬直した状態からできるだけ早く脱却し、&lt;br /&gt;アメリカ全体の「団結」を図ろうではないと、ボストンで開催された民主党の全&lt;br /&gt;米大会の基調演説で強く訴えたのが、計らずも肌の色が白でも黒でもない（キャ&lt;br /&gt;ラメル色の）オバマ青年であったのは、極めて象徴的であった。オバマの母親は、&lt;br /&gt;中産階級のカンサス州生まれのインテリ白人であり、素朴な「流浪の民」（開拓&lt;br /&gt;者）精神を、息子（バラク）の心に植え付けた。父親は、ケニア出身の貧しい黒&lt;br /&gt;人で、西洋の大学教育を受けるために、米国の名門ハーバード大学に留学してき&lt;br /&gt;た、優秀な移民を代表する。オバマ自身は、主として白人の中で育ったが、少年&lt;br /&gt;時代にはポリネシアン（ハワイ人）や東洋人（インドネシア人）と共に、学業生&lt;br /&gt;活を共にした。彼は献身的なキリスト教徒で、シカゴ市内のサウスサイドに住む&lt;br /&gt;（中産階級の）黒人出身のインテリ女性（ミシェル）と結婚した。余談になるが、&lt;br /&gt;彼女もその兄もバスケの選手だったのは、単なる偶然ではなかったかもしれない&lt;br /&gt;（詳しくは、第７章を参照されたし）。オバマは、シカゴ市内の貧しい黒人ゲッ&lt;br /&gt;トー（貧民窟）で、いわゆる「地区オルガナイザー」としてボランチア活動をし&lt;br /&gt;た。彼はコロンビア大学やハーバード大学などの名門（アイビーリーグ）大学で&lt;br /&gt;教育を受け（法学を修得）、優秀な成績で卒業した。その後、彼はアメリカ中部&lt;br /&gt;（イリノイ州）で州議会の上院議員を歴任した。従って、オバマは、（人種、階&lt;br /&gt;級、文化の違いを超越して）アメリカという共和国全体を一体化（団結）させう&lt;br /&gt;る、正に代表的な存在として、この桧舞台に登場したことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;続く&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-5826084655286075053?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/5826084655286075053/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=5826084655286075053' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/5826084655286075053'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/5826084655286075053'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2010/03/obama-from-promise-to-power-david.html' title='「OBAMA: from Promise to Power」&lt;br&gt;(David Mendell) の邦訳'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-1458993413508707463</id><published>2010-03-09T06:18:00.006+09:00</published><updated>2010-03-09T16:39:11.554+09:00</updated><title type='text'>Malcolm Fraser: Enduring Liberal (MUP, 2010)</title><content type='html'>My favorite political party in Australia is "Greens" led by Dr. Bob Brown, &lt;br /&gt;and I usually support  "ALP" (Australian Labor Party) government, and never &lt;br /&gt;"Liberal Party" which was founded by the PM Robert Menzies, but is bloody &lt;br /&gt;conservative. However, I do respect Malcolm Fraser, the former PM (Prime &lt;br /&gt;Minister, 1975-1983) from Liberal Party, who is the most progressive "liberal"&lt;br /&gt; in the true sense. He was born in 1930, during the Great Depression, in &lt;br /&gt;a farmland,  located in the west of Melbourne. After graduated from Melbourne &lt;br /&gt;Grammer in 1949, he went to England where Atlee's Labor Party governed, &lt;br /&gt;to study at Oxford University. There he learned Keynes' s economics and Lloyd &lt;br /&gt;George's liberalism. After graduated from Oxford in 1952, he returned to &lt;br /&gt;Melbourne. In a few years he decided to enter the federal politics, and &lt;br /&gt;in 1955, he was elected an MP (Member of Parliament) of Liberal Party. He &lt;br /&gt;was called a "Hillary in Australia", as he was a tall and energetic young &lt;br /&gt;lad as Edmond Hillary in NZ, who reached the summit of Mt. Everest in 1953. &lt;br /&gt;Actually Fraser and Hillary resemble quite well. Both dedicated the rest &lt;br /&gt;of their life to help poor or under-privileged people in Asia and Africa &lt;br /&gt;by their own aid foundations. &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Fraser became the leader of Liberal Party in 1975, and his party defeated &lt;br /&gt; the Gough Whitlam's ALP government at 1975 election. Fraser governed Australia &lt;br /&gt;for 8 years as PM, and did a lot of reforms, including the abolition of &lt;br /&gt;"White Australia" policy by promoting the "multi-culturalism" and legislation  &lt;br /&gt;of Aboriginal Rights. Finally at 1983 election, his party was lost to Bob &lt;br /&gt;Hawke's ALP, and he retired from federal politics. However, he continued &lt;br /&gt;his liberal endeavor by creating "Care Australia", the largest &lt;br /&gt;aid organization in Australia to help children in war-torn areas such as &lt;br /&gt;Somalia, Iraq and Afghanistan, with many other CARE people including his &lt;br /&gt;own daughter Phoebe. &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Also since John Howard became the PM of Liberal-National  Party coalition &lt;br /&gt;in 1996, like Bob Brown of Greens, Fraser became among the most outspoken critics &lt;br /&gt;against Howard's conservative policies including abuse of asylum seekers &lt;br /&gt;(so-called "boat people") and involvement of Iraq War (blindly following &lt;br /&gt;the Bush's US government). &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;The most entertaining section of this memoir, in particular to the so-called &lt;br /&gt;"New Australians" (immigrants) including ourselves, would be the 10 pages &lt;br /&gt;(416-425), which compares Fraser's and Howard's governments in immigration &lt;br /&gt;and refugee policy. I got a feeling this section was prepared for Howard &lt;br /&gt;to see the huge difference in their "liberal" leadership. After their retirement &lt;br /&gt;from federal politics, Howard became the president of International Cricket &lt;br /&gt;Association, while Fraser chaired both "CARE Australia" and "CARE International"&lt;br /&gt;, perhaps reflecting precisely their past leadership. &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Fraser still encourages young people to join the Liberal Party to transform &lt;br /&gt; this "conservative" party to the truly "liberal" (progressive) in the future,&lt;br /&gt; representing again the voice of minority (under-privileged people), as &lt;br /&gt;Lloyd George (1863-1945), the founder and PM (1916-1922) of Liberal Party &lt;br /&gt;in England, originally intended.&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-1458993413508707463?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/1458993413508707463/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=1458993413508707463' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1458993413508707463'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1458993413508707463'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2010/03/malcolm-fraser-political-memoir-mup_09.html' title='Malcolm Fraser: Enduring Liberal (MUP, 2010)'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-5562740050716851827</id><published>2010-03-06T05:18:00.015+09:00</published><updated>2010-03-07T07:47:29.183+09:00</updated><title type='text'>Malcolm Fraser:  Political Memoir (2010) 「保守政党」出身の「進歩的」な政治家（豪州の元首相）</title><content type='html'>マルコム・フレーザー（現在、７９歳）は、豪州の自由党出身の元首相である。&lt;br /&gt;１９７５年から１９８３年まで首相として、豪州の政治改革に貢献した。最も特&lt;br /&gt;筆すべき功績は、従来の「白豪主義」（白人中心文化）を捨てて、豪州を「多民&lt;br /&gt;族文化国家」に切り換えたことである。ちなみに、豪州の２大政党は、保守的な&lt;br /&gt;「自由党」と進歩的な「労働党」である。歴史的には、労働党と対等に対決する&lt;br /&gt;ため、保守的な自由党は、更に保守的な（農村を地盤にする）国民党と連立して&lt;br /&gt;政権を樹立してきた。従って、本来「保守的な」自由・国民党の連立政権のフレー&lt;br /&gt;ザー首相が、このような政治改革に乗り出したことは、極めて画期的な出来事で&lt;br /&gt;あると言わざるを得ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、フレーザー氏は、（１９８３年の総選挙で、労働党に破れ）首相を辞任し&lt;br /&gt;て以後も引き続き、色々な形で、今日まで長年、豪州内外でさらなる政治改革に&lt;br /&gt;活躍してきた。その１つは豪州の先住民族「アボリジナル」との歴史的な和解。&lt;br /&gt;もう１つは豪州最大の難民救済活動団体「ケア　豪州」を創立して、世界中の難&lt;br /&gt;民の救済のために、今なお精力的に献身している。この回想録は、フレーザー氏&lt;br /&gt;が、単なる（自己満足的な）「自伝」ではなく、第三者的な立場で自分の政治的&lt;br /&gt;生涯を、振り返ってみるため、原書ではジャーナリスト「マーガレット・シモンズ」を&lt;br /&gt;語り手にして、両者の２年間にわたる対談を主に土台にして書かれた、客観性を&lt;br /&gt;加味したユニークな伝記（約７００ページ）である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「基本的人権の擁護」が、彼の政治活動の根幹を成しているように、私には感じられる。 &lt;br /&gt;「性や人種や宗教の違いに基づいて、人を差別待遇してはならぬ」というのが、彼の生涯を&lt;br /&gt;通じる強い信念であった。 メルボルンのずっと西方にある小さな農村で育った彼は、&lt;br /&gt;メルボルンで高校生活を過ごしたのち、家庭から独立するために、戦後まもない１９４９年に&lt;br /&gt;（クレメント・アトリーが率いる労働党政権下の）英国へ留学し、オックスフォード大学で&lt;br /&gt;新しい物の考え方、特にケインズの経済論や自由主義をみっちり学んだ。 だから、この本の中で、&lt;br /&gt;真の「自由主義」（リベラリズム）とは一体何かについても、、情熱的に我々に語りかけている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９５２年にオックスフォードを卒業して豪州に帰国してまもなく、彼は自由党の候補者として、&lt;br /&gt;１９５４年の総選挙に初めて出馬する決意をした。その一連の選挙演説の１つで、彼はこう語っている。&lt;br /&gt;「自由主義とは、単に共産主義や社会主義に対抗する政治思想ではなく、新しい物の考え方の１つである。&lt;br /&gt;偏見や因習にとらわれず、自由に物を考え、それを実践に移そうとする姿勢である」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;翌年の総選挙前に、労働党が分裂した。漁夫の利を得た彼は２５歳の若さで、見事に現職の労働党下院議員&lt;br /&gt;を破って、初当選し政界入りを果たした。 折しもニュージーランドの長身で若い登山家「エドモンド・ヒラリー」が&lt;br /&gt;最高峰「エベレスト」の初登頂に見事成功した直後であり、矢張り長身の若いフレーザーは、「豪州のヒラリー」&lt;br /&gt;として、たちまち政界の桧舞台に立った （２０年後に、彼は自由党のリーダーとして、自ら労働党政権を破って、&lt;br /&gt;首相に就任する！）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;更に特筆すべきことは、フレーザーはヒラリー卿のように、東南アジアやアフリカ&lt;br /&gt;の恵まれない人々の救済のために、常に骨身を惜しまぬ努力を生涯続けたことで&lt;br /&gt;ある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フレーザーは、政界から引退後、日増しに保守化する自分の党（自由党）の政策に&lt;br /&gt;次第に批判的となった。特に、ジョン・ハワード政権が米国のブッシュ政権の尻&lt;br /&gt;馬に乗って、イラク戦争に加担したことに反対の意を表したことは特筆すべきだ&lt;br /&gt;ろう。 実は、フレーザーはベトナム戦争の末期に、国防相を担当していて、当時&lt;br /&gt;のワンマンな首相（ジョン・ゴードン）と意見が噛み合わず、苦湯を飲まされた&lt;br /&gt;（敢えて国防相を辞任した）経験があるからだ。 フレーザーの辞任は皮肉にも、&lt;br /&gt;結局ゴードン首相の失脚をもたらし、進歩的な労働党のゴッフ・ウイットラム政権の&lt;br /&gt;誕生を生み出すことになる。１９７３年の石油ショック後まもなく、短命に終わった&lt;br /&gt;ウイットラム政権に代って、８年間の安定な政権を担当したのが、経済や外交問題に&lt;br /&gt;強いフレーザー首相である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今世紀にようやく確立した日本の保守的な２大政党（自民党や民主党）の政治家たちが、&lt;br /&gt;この回想的伝記から学ぶべきことは、非常に多いと私は信じる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお、原書の出版社は、地元の「メルボルン大学プレス」である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-5562740050716851827?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/5562740050716851827/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=5562740050716851827' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/5562740050716851827'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/5562740050716851827'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2010/03/malcom-fraser-political-memoir-2010.html' title='Malcolm Fraser:  Political Memoir (2010)&lt;br&gt; 「保守政党」出身の「進歩的」な政治家（豪州の元首相）'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-1492982434590520351</id><published>2009-08-21T05:05:00.010+09:00</published><updated>2009-09-04T07:35:06.459+09:00</updated><title type='text'>Perseverance: True Voices of Cancer Survivors by Carolyn Rubenstein（2009）</title><content type='html'>カロリン・ルーベンシュタイン著「癌を克服させた辛抱強さ」&lt;br /&gt;癌を闘い抜き、みごとに克服した２０名の若者の体験談&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;癌とは一般的には、老人病の１つだと解されている。しかしながら、元気な若者&lt;br /&gt;でも、小さな幼児でもかかる特殊な癌、例えば白血病や脳腫瘍であるグリオーマ、&lt;br /&gt;ＮＦ（神経線維腫症）、ＴＳＣ (結節性硬化症 ) などがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;治りそうもない癌を克服して、ツア・ド・フランスを７連覇した有名なサイクリスト、&lt;br /&gt;ランス・アームストロングのごとく、多くの若者たちが癌の恐怖を乗り越え、&lt;br /&gt;辛抱強く病気を克服し、彼らの人生の夢をみごと実現してきた。ハーバード&lt;br /&gt;大学の院生（専門は臨床心理学）である著者が、白血病、脳腫瘍、ホジキンス&lt;br /&gt;リンパ腫などの小児癌を克服した２０名の若い癌生存者の感動的な体験談を、&lt;br /&gt;１冊の本にまとめて出版し、英米で飛ぶように売れている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;制癌剤というものは、他の薬でもそうだが、患者が前向きの姿勢で、その病気と&lt;br /&gt;立ち向かう場合にのみ、治療効果を発揮しうるものである。面白いことには、我々&lt;br /&gt;の脳内には、２、３種類の内在性の抗腫瘍作用をもった物質（ホルモン）が存在&lt;br /&gt;し、患者が病気を克服しようと努力する時のみ、活性化して、薬剤と相乗効果を&lt;br /&gt;発揮しうる。著者はわずか１４歳で、ＮＰＯ「ＣＣＣ」（癌の子供たちを支える会) &lt;br /&gt;を立ち上げて以来、１０年近い密な活動や体験から、そのような精神力の果たす重要&lt;br /&gt;かつ不思議な働きを実感していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本を読んで、読者一人一人が、年の相違にかかわらず、癌を自力で克服すべく、&lt;br /&gt;ここに登場する人物たち自身の涙ぐましい体験から勇気と活力を汲み取れることを、&lt;br /&gt;私は大いに期待している。一例として第９章を挙げれば、ザック・ヨークは、脳腫瘍の手術を&lt;br /&gt;１７回も繰り返し受けたのち、その後遺症をものともせず、自分の松葉杖を登山向けに&lt;br /&gt;改良した後、（アラスカのマッキンレー山につぐ）米国本土内最高峰のホイットニー山（海抜４３５０&lt;br /&gt;メートル、カルフォルニア州）の登頂にみごと成功した。私自身も登山家だから、その快挙の困難さが&lt;br /&gt;良くわかる。彼はさらに将来、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ（海抜５９００メートル）&lt;br /&gt;にも挑戦する計画を抱いている。そのような山岳ドラマが映画化されヒットすれば、&lt;br /&gt;その売り上げの一部を脳腫瘍などの難病に効く新薬の開発研究への補助金や癌に苦しんだ&lt;br /&gt;子供たちを助ける奨学金にあてることができるからだ。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は小児癌にかかった経験はないが、敗戦後まもなく、小学４年の春、小児結核で、&lt;br /&gt;数か月自宅療養を強いられた。当時、肺結核は癌と同様、死をもたらす恐ろしい&lt;br /&gt;病気だった。幸い、駐留軍からもらった「パス」という特効薬のおかげで、死に&lt;br /&gt;至らず、復学した。しかし、小学校を卒業するまで、丸２年間半、いわゆる「激&lt;br /&gt;しい運動」をすることを禁止され、体育の授業時間はいつも校庭の隅に座って見&lt;br /&gt;学を強いられた。だから、クラスメートと一緒に放課後、野球やサッカーを楽し&lt;br /&gt;んだ経験がない。孤独の中から、運動不足を補うために、アルピニストだった父&lt;br /&gt;親の勧めで、登山を始めた。登山やマラソンは緩慢な運動で、肺活量を必要とす&lt;br /&gt;る激しい運動ではない。そして、雪を頂く北アルプスの山々に魅せられ始めた。&lt;br /&gt;以後、半世紀以上、私は病気らしい病気にかかったことがない。そして、（一度&lt;br /&gt;死線を越えた人間に共通な）「冒険好き」になり、海外生活をもう３５年以上も&lt;br /&gt;続けているが、淋しいと思ったことがない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう２５年以上昔の話だが、私が南ドイツの国境の山々に近いミュンヘンのマックス・&lt;br /&gt;プランク研究所で、癌研究をしていた頃、私の院生の一人が白血病と闘っていた。彼は&lt;br /&gt;数年後に完治し、博士号を取得し、現在スウエーデンのある大学で教授として、医学関&lt;br /&gt;係の研究を続けている。ちょうど同じ頃、トムという私の親友で、米国のジョンス&lt;br /&gt;ホプキンス大学医学部教授をしていたボストン・マラソンの常連が突然、癌になった。&lt;br /&gt;彼も自分の研究を続けながら癌の治療にも励み、数年後に完治すると、家族（妻、娘、&lt;br /&gt;息子）と一緒に、念願のヒマラヤ登山をやってのけた。この本は、そういう昔の知人たちを、&lt;br /&gt;私の脳裏に懐かしく思い浮かべさせる。。。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;トムについては、もう１つ大事なことを付け加えておきたい。彼は１９７０年代初&lt;br /&gt;頭、ハーバード大学医学部を卒業して、ワシントン市郊外にあるＮＩＨという医&lt;br /&gt;学総合研究所内にあるエド・コーン博士の研究室で、ある土壌アメーバから、珍&lt;br /&gt;しい単頭のミオシンを発見した。ミオシン線維はＡＴＰａｓｅの一種で、一般に、&lt;br /&gt;アクチン線維によって活性化されて、ＡＴＰを分解しながら、その化学エネルギー&lt;br /&gt;を運動エネルギーに変換して、筋肉収縮や細胞分裂に必要な動力を提供する。と&lt;br /&gt;ころが、このアメーバの単頭ミオシンは線維を形成しないどころか、アクチン線&lt;br /&gt;維に接触しても活性化されない、非常に奇妙な分子だった。やがて、トムはこの&lt;br /&gt;ミオシンの活性化に必要な別の蛋白を見つけて「コファクター」と名付けた。し&lt;br /&gt;かしながら、この「コファクター」が一体何者なのか知らぬまま、母校ハーバー&lt;br /&gt;ドに戻って助教授に就任した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９７４年に彼と入れ違いに、私がコーン博士の研究室にポスドクとして加わり、&lt;br /&gt;この「コファクター」の正体を生化学的に暴く仕事を任された。&lt;br /&gt;２、３年の研究の末、その正体をやっと突き止めた。単頭ミオシンの重鎖を燐酸&lt;br /&gt;化する珍しい酵素（キナーゼの一種）だった。それから、１７年後に同様なキナー&lt;br /&gt;ゼが哺乳類にもあることが判明し「ＰＡＫ」と名付けられた。そして、今日、こ&lt;br /&gt;の「ＰＡＫ」がヒトの癌の７割以上の増殖や転移などに必須であることが確認さ&lt;br /&gt;れている。従って、プロポリスなど種々の「ＰＡＫ」遮断剤が、これらの癌の特&lt;br /&gt;効薬になることは極めて明白である。もし、３５年ほど昔、トムが奇妙な「コファ&lt;br /&gt;クター」の存在に気づかなかったら、今日のめざましい癌治療薬への開発研究は、&lt;br /&gt;相当遅れていただろう。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アメリカ人には珍しく、トムの座右の銘の１つに「土曜日に仕事をせよ！」という&lt;br /&gt;言葉がある。幸運が訪れるからだそうだ。あの「コファクター」を見つけたのも、&lt;br /&gt;ある土曜日の午後だった。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;Review&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;“Incredibly life affirming and inspirational.  I loved it!”&lt;br /&gt;--Peter Walsh, New York Times bestselling author of It’s All Too Much! and Enough Already&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;“Perseverance will move you to tears, teach you to appreciate, and inspire you to persevere.”&lt;br /&gt; --Tal Ben-Shahar, New York Times bestselling author of Happier and The Pursuit of Perfect&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;“Perseverance puts a very human face on courage and strength. Carolyn and the young people she has worked with are an inspiration to us all.”                                 &lt;br /&gt;--Gay Hendricks, New York Times bestselling author of The Big Leap and Conscious Living&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;"With tremendous respect and grace, Carolyn Rubenstein tells the stories of twenty survivors of childhood cancer -- in their own words. Through these real-life tales of survival, Perseverance offers not only great hope to those battling illness or caring for a loved one but also profound insight for all of us seeking to lead a meaningful life."&lt;br /&gt;--Daniel H. Pink, New York Times bestselling author of A Whole New Mind&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-1492982434590520351?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/1492982434590520351/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=1492982434590520351' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1492982434590520351'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1492982434590520351'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2009/08/perseverance-true-voices-of-cancer.html' title='Perseverance: True Voices of Cancer Survivors &lt;br&gt;by Carolyn Rubenstein（2009）'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-7901007313955160058</id><published>2009-08-16T09:48:00.011+09:00</published><updated>2009-09-29T08:55:28.350+09:00</updated><title type='text'>癌や難病を、天然の「抗ＰＡＫ」パワーで治そう！</title><content type='html'>著者：　丸田　　浩（薬学博士、元ルードビッヒ癌研究所制癌剤開発部長）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;目次&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;はじめに&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１。 ＰＡＫとは何か？　癌との接点？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２。　ＰＡＫをいかに遮断するか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３。　ＰＡＫと稀少難病&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４。　天然の市販「ＰＡＫ遮断品」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４ー１）四川省特産「花椒エキス」&lt;br /&gt;４ー２）プロポリス　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;４ー３）カプサイシンとその誘導体　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;４ー４）クルクミン　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;４ー５）ブドウ療法：　癌と糖尿病　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;４ー６）苦瓜と岩弁慶エキス　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;４ー７）納豆由来のビタミン 「K2 」 (メナキノン-7)  &lt;br /&gt;４ー８）韓国の発酵味噌「ドエンジャン」&lt;br /&gt;４ー９）重楼 (パリス・ポリフィラ) 根茎&lt;br /&gt;４ー１０）霊芝エキス&lt;br /&gt;４ー１１）謎の伝承制癌剤「ウクライン」&lt;br /&gt;４ー１２）制癌作用のある駆虫剤「イベルメクチン」&lt;br /&gt;４ー１３）ＤＰＭ (ジピリダモール)：　廉価で安全な合成ＰＡＫ遮断剤&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;５。　ＰＡＫ遮断剤の新規なスクリーニング法&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;６。　ＰＡＫ依存性の腫瘍を伴わぬ難病&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;はじめに&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私の専門分野は、「分子腫瘍学」という呼ばれる分野に属し、悪性あるいは良性&lt;br /&gt;の腫瘍の発生原因やその進行メカニズムを分子レベルで解明し、さらにその治療&lt;br /&gt;薬を発見、開発するための研究を主に担当する社会的使命を担っている。しかし&lt;br /&gt;ながら、その研究の過程で、腫瘍以外のいくつかの難病（例えば、エイズ、アル&lt;br /&gt;ツハイマー病、老化、リューマチや喘息などの炎症、癲癇、メタボや肥満症など&lt;br /&gt;) も、分子レベルでは、癌と同じような (共通な) 原因やメカニズムで起こって&lt;br /&gt;いることが、最近になって次第に判明してきた。それでは、我々の健康を脅かし、&lt;br /&gt;癌やその他の難病をもたらす悪玉は一体何なのだろうか？　それは驚くなかれ、&lt;br /&gt;我々の身体の中で不断は静かに機能している「ＰＡＫ」と呼ばれる一種の酵素 (蛋&lt;br /&gt;白キナーゼ) なのである。その酵素が色々な外因 (例えば、ある特定の遺伝子の&lt;br /&gt;変異や発癌性ウイルスあるいはピロリ菌などによる感染など) で突然異状に活性&lt;br /&gt;化されると、癌やその他の難病を引き起こし、我々の寿命を色々な形で縮めよう&lt;br /&gt;とするのである。しかしながら、幸いにも我々を取り巻く自然界（例えば、畑や野山）には、&lt;br /&gt;その「悪玉」の機能を強力に遮断するパワーを持つ無数の天然食品（野菜や果物）、&lt;br /&gt;生薬や抗生物質の源が無限に存在する。それらの天然物のいくつかをここで紹介して、&lt;br /&gt;癌や他の難病の予防あるいは治療にできるだけ寄与してみよう、というのが&lt;br /&gt;このユニークな本を出版した主な目的である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１。 ＰＡＫとは何か？　癌との接点？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;我々の身体を構成している無数の細胞が、外界の色々な刺激に対応しながら正常に&lt;br /&gt;増殖し、いわゆる「ホメオスタシス」（バランスのとれた健康なハーモニー）を&lt;br /&gt;保つために、無数の「シグナル伝達因子」と呼ばれる蛋白質群が絶えず働いてい&lt;br /&gt;る。その中には、細胞の増殖を速めるものもあれば、逆に増殖を適度に抑えるも&lt;br /&gt;のもある。この「シグナル伝達因子」群の中で、重要な機能を果たしている酵素&lt;br /&gt;群の１つに「蛋白キナーゼ」と呼ばれるものがものがある。種々の「蛋白キナー&lt;br /&gt;ゼ」が持つ共通の機能は、ＡＴＰ (アデノシン５三燐酸）の一番末端にある燐酸&lt;br /&gt;基を、その下流にある特定の他の蛋白（基質）のセリン、スレオニン、あるいは&lt;br /&gt;チロシン残基に結合（転移）させることによって、その蛋白の機能を制御 (活性&lt;br /&gt;化あるいは不活化) する反応を触媒することである。この燐酸基は負の電荷を帯&lt;br /&gt;びているので、燐酸化されたアミノ酸は、あたかも(負の電荷を持つ) グルタミン&lt;br /&gt;酸あるいはアスパラギン酸に変異 (置換) されたかのように、振る舞うようにな&lt;br /&gt;るからである。さて、燐酸化を受けるこれらの蛋白も「シグナル伝達因子」であ&lt;br /&gt;る場合が多い。従って、燐酸化は、細胞の増殖をコントロールする重要な「シグ&lt;br /&gt;ナル」（スイッチ）の役割を果たしているわけである。ＰＡＫとは、細胞の増殖、生死、&lt;br /&gt;運動などをコントロールする要の蛋白キナーゼの１つである。 さて、蛋白キナーゼ群が&lt;br /&gt;癌の研究分野で特に注目され始めたのは、１９８０年前後である。理由は次の通り&lt;br /&gt;である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９７６年に癌化のメカニズムを、分子レベルで明解に説明しうる画期的な発見&lt;br /&gt;が、米国の発癌ウイルスを研究するチームによってなされた。サンフランシスコ&lt;br /&gt;にあるカルフォルニア大学（ＵＣＳＦ）のマイク・ビショップとハロルド・ヴァー&lt;br /&gt;マスが、発癌性のラウス肉腫ウイルスのゲノム中にある発癌遺伝子「ＶＳＲＣ」&lt;br /&gt;が、正常細胞中にある遺伝子「ＣＳＲＣ」の変異体であることを見つけた (1)。&lt;br /&gt;この発見の意味はそこぶる重大である。つまり、正常な細胞中のある特定の遺伝&lt;br /&gt;子が外界の何か (例えば、紫外線や発癌剤など) によって変異 (異常活性化) を&lt;br /&gt;受けると、癌化する(癌細胞に豹変する) という新しい概念を生み出したからだ。&lt;br /&gt;しかしながら、その後２、３年、ＳＲＣという遺伝子が作る蛋白の正体がさっぱ&lt;br /&gt;りわからなかった。ところが１９７８年になって、当時コロラド大学医学部（デ&lt;br /&gt;ンバー）の教授だったレイモンド・エリクソンが、ＳＲＣ蛋白はどうやら、蛋白&lt;br /&gt;キナーゼの一種であることを突き止めた。試験管内で自分自身を燐酸化しうるか&lt;br /&gt;らである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９８０年前後に、サンディエゴにあるソーク研究所の英国人トニー・ハンター&lt;br /&gt;が更に驚くべき現象を発見した。ＳＲＣが、例えば蛋白「ヴィンキュリン」のな&lt;br /&gt;んとチロシン残基を特異的に燐酸化する極めて珍しいキナーゼであることがわかっ&lt;br /&gt;た (2)。それまでに、無数の蛋白キナーゼが発見されていたが、いずれもセリン&lt;br /&gt;かスレオニン残基を燐酸化するものばかりで、チロシン残基を燐酸化するものは&lt;br /&gt;全く発見されていなかった。そこで、「蛋白のチロシン残基を燐酸化する酵素&lt;br /&gt;（チロシン・キナーゼ）が癌化の主原因ではないか」という考え方が分子腫瘍学&lt;br /&gt;の主流になり始め、猫も杓子もチロシン・キナーゼを追いかけ回るのが学界のい&lt;br /&gt;わゆる流行になリ始めた。実際、その後発見された発癌遺伝子産物の多くがＳＲ&lt;br /&gt;Ｃに類似したチロシンキナーゼ（ＳＲＣファミリー・キナーゼ）だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、これらのチロシンキナーゼを特異的に阻害する薬物を発見、さらに開発&lt;br /&gt;して、癌の治療薬として利用しようという努力が、１９８０年代中ごろから日本&lt;br /&gt;や欧米のいくつかの研究室で開始された。その草分け的な存在は、我々の友人で、&lt;br /&gt;イスラエルのヘブライ大学の有機化学者アレックス・レヴィツキーだった。後述&lt;br /&gt;するが、彼の研究室で合成された、例えば、ＡＧ１４７８、ＡＧ８２５、ＡＧ８&lt;br /&gt;７９は、それぞれＥＧＦレセプター（ＥｒｂＢ１）、ＥｒｂＢ２、ＥＴＫという&lt;br /&gt;チロシンキナーゼに対する特異的な阻害剤である。しかしながら、チロシンキナー&lt;br /&gt;ゼ阻害剤で、制癌剤として最も商業的に成功したのは、スイスの製薬会社「 ノヴァー&lt;br /&gt;チス」が１９９６年ごろに開発した「グリベック」（ＳＴＩー５７１）だった。&lt;br /&gt;その薬剤は主に、ＡＢＬ、ＫＩＴ、ＰＤＧＦＲというチロシンキナーゼを阻害す&lt;br /&gt;る薬剤で、オレゴン保健科学大学（ＯＨＳＵ）の臨床医ブライヤン・ドルッカー&lt;br /&gt;との共同研究によって、２００１年に米国のＦＤＡから (ＡＢＬの異常活性化が&lt;br /&gt;要因である) ＣＭＬと (ＫＩＴの異常活性化が要因である) ＧＩＳＴという稀少&lt;br /&gt;癌の治療薬として市販が許可され、「奇跡の薬」として世界中でもてはやされた&lt;br /&gt; (3)。従来の制癌剤であるＤＮＡ毒やＭＴ (微小管) 毒に比べて、ずっと副作用&lt;br /&gt;の弱い、いわゆるシグナル (遮断) 療法剤（ＳＴ）の草分けである。しかしなが&lt;br /&gt;ら、この薬剤が有効な癌、ＣＭＬ（慢性骨髄腫) とＧＩＳＴ (消化管間質腫瘍)、&lt;br /&gt;はヒトの癌全体のわずか０。１％にも達しない。その他大部分の癌にはほとんど&lt;br /&gt;無効である。従って、今後は、グリベックが無効なこれら大部分の癌に効く薬剤&lt;br /&gt;を開発することが緊急課題として残されているわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、話題をこの本の主題である「ＰＡＫ」というキナーゼへ戻そう。ＰＡＫ&lt;br /&gt;はチロシンキナーゼではない。いくつかの蛋白 (例えば、ミオシンの重鎖やキナー&lt;br /&gt;ゼ「ＲＡＦ」など) のセリンあるいはスレオニン残基を燐酸化するキナーゼであ&lt;br /&gt;る。ＰＡＫファミリーキナーゼは、今日大所帯になったが、最初のＰＡＫは１９７７&lt;br /&gt;年に我々が米国のＮＩＨに勤務中、ある土壌アメーバから発見した単頭ミオシン&lt;br /&gt;の重鎖を燐酸化するキナーゼだった (4)。このミオシンＡＴＰａｓｅは筋肉の双&lt;br /&gt;頭ミオシンＡＴＰａｓｅとちがって、重鎖が燐酸化されて初めて、アクチン線維&lt;br /&gt;と反応して、ＡＴＰを分解し、その化学エネルギーを運動エネルギーへ変換し、&lt;br /&gt;細胞の貪食運動や移動、分裂などに関与する。しかしながら、その後１７年もの&lt;br /&gt;長い歳月が経って、１９９４年に哺乳類に同様なＰＡＫがシンガポール大学のエ&lt;br /&gt;ドワード・マンサーのグループによって発見されるまで (5)、アメーバのＰＡＫ&lt;br /&gt;は、癌学者からの注目をほとんど浴びなかった。それでは、哺乳類のＰＡＫはな&lt;br /&gt;ぜ、我々分子腫瘍学者の注目の的になり始めたのだろうか？  理由は以下の通り&lt;br /&gt;である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９８０年前後に発癌蛋白「ＳＲＣ」がチロシンキナーゼだと判明したころ、癌&lt;br /&gt;学界ではもう１つの発癌蛋白が発見されつつあった。「ＲＡＳ」と呼ばれるＧＴ&lt;br /&gt;Ｐａｓｅ（Ｇ蛋白) である。ヒトの癌の３０％以上に、このＲＡＳの変異 (異常&lt;br /&gt;活性化) が発見された。特に、すいぞう癌の場合は９０％以上、大腸癌の場合は&lt;br /&gt;５０％以上だった (6)。そこで、これらのいわゆる「ＲＡＳ癌」をまず退治せん&lt;br /&gt;として、ＲＡＳによる癌化のメカニズムの解明研究が欧米で盛んに開始された。&lt;br /&gt;そして、哺乳類細胞中にもＰＡＫが発見された際、このキナーゼが (哺乳類でも&lt;br /&gt;アメーバでも) もう１つのＧ蛋白群によって、活性化を受けることが判明した。&lt;br /&gt;それは、ＲＡＣとＣＤＣ４２と呼ばれる蛋白だった (5)。やがて、発癌性ＲＡＳ&lt;br /&gt;がＲＡＣとＣＤＣ４２とを介して、ＰＡＫを異常活性化することがわかった (7、&lt;br /&gt;図１)。さらに、「ＲＡＳ癌」の増殖にはＰＡＫが必須であることが、ペンシルバ&lt;br /&gt;ニア大学医学部のジェフ・フィールドや我々の研究室によって、明らかにされた&lt;br /&gt; (7)。こうして、理論的には、ＰＡＫ阻害剤によって、ヒトの癌の少なくとも３&lt;br /&gt;分の１にあたる「ＲＡＳ癌」の治療が、将来可能になったわけである。問題は、&lt;br /&gt;誰が「猫に鈴を付けるか」、つまり、その「魔法の弾丸」であるＰＡＫ阻害剤を&lt;br /&gt;いかに発見、さらに開発するかだった。マンサーもフィールドも、薬の開発には&lt;br /&gt;全く関心がなかった。薬の開発は本来、製薬会社の仕事であり、大学の研究課題&lt;br /&gt;ではないというのが、彼らのいわゆる「象牙の塔」的な哲学だった。そこで、今&lt;br /&gt;世紀初めころから、（薬学出身の）我々自身の小グループが自ら、この大問題に&lt;br /&gt;向かって、果敢に取り組まざるを得なくなった (皮肉にも、製薬会社の大部分は&lt;br /&gt;当時、ＰＡＫの存在すら知らなかった！)。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以後１０年近くの研究結果から、次のような驚くべき事実が判明した。まず、ヒ&lt;br /&gt;トの癌の７割以上の増殖にＰＡＫが必須である。乳癌、前立腺癌、すいぞう癌、&lt;br /&gt;大腸癌、肺癌、肝癌、胃癌、子宮癌、卵巣癌、メラノーマ、脳腫瘍（グリオーマ）、&lt;br /&gt;ＭＭ（多発性骨髄腫)、ＮＦ（神経線維腫症）、ＴＳＣ (結節性硬化症 ) などが&lt;br /&gt;ＰＡＫ依存性の腫瘍である。さらに、癌細胞の分裂ばかりではなく、癌の転移や&lt;br /&gt;固形癌の増殖に必須な血管新生にも、ＰＡＫが必須である (8)。後者の属性は極&lt;br /&gt;めて、重要である。というのは、従来の制癌剤であるＤＮＡ毒やＭＴ (微小管) &lt;br /&gt;毒には、白血病など分裂速度の早い癌細胞の増殖を抑えることはできたが、癌の&lt;br /&gt;転移や血管新生を抑える作用が全くなかった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-7901007313955160058?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/7901007313955160058/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=7901007313955160058' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/7901007313955160058'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/7901007313955160058'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2009/08/blog-post.html' title='癌や難病を、天然の「抗ＰＡＫ」パワーで治そう！'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-7599427239666905675</id><published>2009-01-08T15:22:00.087+09:00</published><updated>2009-02-17T11:07:24.477+09:00</updated><title type='text'>「化学療法の父:  パウル・エールリッヒ伝」（エルンスト・ボイムラー著、１９８４年）</title><content type='html'>&lt;b&gt;序&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（一世紀昔）１９１０年１２月、フランクフルト（マイン川河畔）。それはクリスマスの&lt;br /&gt;２、３日前のことだった。フランクフルト市のザクセンハウゼン地区にある「ザントホフ&lt;br /&gt;街」に、労働者の一群が梯子を担いでやって来て、通りの名札を取り換えて行った。&lt;br /&gt;新しい通りの名前は「パウル・エールリッヒ街」となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フランクフルト市が「ザントホフ街」を改名したのは、その市で最も有名な市民、&lt;br /&gt;パウル・エールリッヒの業績を永久に讃えるためだった。エールリッヒ博士は、&lt;br /&gt;「化学療法」の祖（父）であり、当時（今日の「エイズ」のごとく）世界中で最も恐&lt;br /&gt;れられていた伝染病「梅毒」をやがて撲滅させる特効薬（魔法の弾丸）である&lt;br /&gt;「サルバルサン」（化合物６０６）の発見者だった。オーストリアの作家ステファン&lt;br /&gt;・ツバイク（１８８１ー１９４２）は、その自伝「過去の世界」（１９４２年）で、その&lt;br /&gt;時代を振り返って、こう描写している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４０年昔（世紀の変わり目）、性病は今日の百倍も蔓延していたことを忘れてはならない。&lt;br /&gt;そして、最も大事なことは、今日の百倍も恐ろしい被害を及ぼしたことである。というのは、&lt;br /&gt;当時の医者たちは、（エールリッヒ自身を含めて）梅毒の治療法について、全く知識が&lt;br /&gt;なかったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;免疫学の領域の進歩とジフテリア抗血清の開発に貢献して、１９０８年にノーベル医学賞を&lt;br /&gt;与えられ、その直ぐ翌年に梅毒の特効薬を初めて開発したエールリッヒ博士が、&lt;br /&gt;当時の新聞で、「科学のプリンス」と称讃されたのは、当然のことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、２８年後の１９３８年８月になって、別の労働者の一群が同じ通りに&lt;br /&gt;現れ、黙々と「ルードビッヒ・レーン街」という名札に交換して行った。新聞に&lt;br /&gt;は一切何の報道もなかった。時の独裁者ヒットラーは、エールリッヒ博士の名を&lt;br /&gt;できるだけ速やかに葬り去りたかったからだ。 というのは、１９１５年に他界した&lt;br /&gt;エールリッヒ博士は「ユダヤ人出身」だったからだ。 ナチス・ドイツはユダヤ人&lt;br /&gt;ゆえに彼が残した多大の業績を全く無視したのだ。 エールリッヒ博士の未亡人&lt;br /&gt;（ヘドウック）もユダヤ人ゆえに、迫害や生命の危険を感じて、娘たちと共に&lt;br /&gt;米国へ亡命せざるを得なくなった（夫人は戦後も、自分の故国の土を再び踏む&lt;br /&gt;チャンスもなく、１９４８年にニューヨークで他界した）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;皮肉にも （千年も栄えるはずだった） ヒットラーの「第３帝国」は１９４５年５月に&lt;br /&gt;もろくも崩壊した。戦後まもなく、同じ通りに再び別の労働者の一群がやって来て、&lt;br /&gt;「パウル・エールリッヒ街」という名札に取り換えて行った。さらに今回はその通りに&lt;br /&gt;面する、彼が生前長らく所長をしていた「実験療法研究所」を 「パウル・エールリッヒ&lt;br /&gt;研究所」と命名し、１９５２年には 「パウル・エールリッヒ・メダル」という &lt;br /&gt;（化学療法に貢献した科学者に与える）新たな勲賞を設けるに至った （このメダルが&lt;br /&gt;１９８０年に、抗生物質の開発と多剤耐性に関する研究に貢献した梅沢浜夫と&lt;br /&gt;秋葉朝一郎へ日本人として初めて授与された）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒ博士の名誉回復はなされたが、エールリッヒ家の住まいだったフラン&lt;br /&gt;クフルト市のウエストエンド街６２番地は、（家族が米国に亡命後）廃虚同然に&lt;br /&gt;なり、この偉大な科学者の名は、（伝記の出版や１９４０年のＭＧＭ映画「エー&lt;br /&gt;ルリッヒ博士の魔法の弾丸」などが大評判になった) 英国や米国よりも、地元の&lt;br /&gt;ドイツで、人々の記憶から薄れつつある。 さらに、エールリッヒ博士が１８５４年に&lt;br /&gt;生まれた故郷、ストレーレン (元はドイツ領、現在ポーランド領)という小さな町では、&lt;br /&gt;もはや誰も彼の名を知らない。 この町はブレスラウ地方にあるが、地元の&lt;br /&gt;ブレスラウ大学に学ぶ若いポーランド人医学生たちにさえ、（自分たちの古い&lt;br /&gt;先輩であるはずの） エールリッヒ博士の名は余り意味をもたなくなっている。&lt;br /&gt;さらに、彼の（コッホ研究所時代の）親しい同僚で「血清療法」を開発したエミール・&lt;br /&gt;フォン・ベーリング （１９０１年ノーベル医学賞受賞者、１８５４ー１９１７）と、エールリッヒ&lt;br /&gt;博士を混同している者も少なからずいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、彼の名が若い世代の脳裏から完全に消え失せる前に、彼のユニークな生涯&lt;br /&gt;と研究業績を詳細に綴った「エールリッヒ伝」を出版すべき時期が訪れたと、著者は&lt;br /&gt;感じたわけである。 ちなみに、彼は生前、北里柴三郎、志賀 潔、秦佐八郎など&lt;br /&gt;数多くの優秀な日本人弟子 (細菌学者) を育てており、日本人読者にはなじみが&lt;br /&gt;深い人物である （ポール・ド・クライフの不朽の名作「微生物の狩人」のアンカーとして&lt;br /&gt;登場する）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;著者がエールリッヒの業績や生涯について知り始めたのは、１９６３年頃のこと&lt;br /&gt;だった。製薬会社「ヘキスト」創立百年を記念して、「化学の世紀」という本を執筆&lt;br /&gt;した時のことだ。 ヘキストの製薬部門についての章を執筆中、「サルバルサン」&lt;br /&gt;とその発明者に遭遇することになる。さらに１９６４年に、次の本「魔法の弾丸&lt;br /&gt;を求めて」（近代医薬の歴史）のため資料を収集中、そして、１９６８年に国際的な&lt;br /&gt;癌研究に関する総説「劇薬」を執筆中にも、彼の研究に深く触れることになる。&lt;br /&gt;さらに最近になって（１９７６年に）、梅毒に関する医学史と文化史「キューピッドの&lt;br /&gt;毒矢」という本の中で、もちろん、彼が特別の役割を果たすことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、著者は科学者や社会問題の評論家などを中心とする「パウル・エールリッヒ&lt;br /&gt;同好会」を設立して、エールリッヒ家の住まいを廃虚から救い出す活動を始めた。&lt;br /&gt;当初の目標は、その家を買い取るに十分な資金を集めて、エールリッヒ博物館／&lt;br /&gt;図書館にしようとしたが資金不足で それは実現できなかったが、その窮状を&lt;br /&gt;世間が知るところとなって、ある住宅協会がその家を買い上げてくれ、協会の&lt;br /&gt;事務所として使用するようになって、少なくとも「歴史的住まいの保存」には&lt;br /&gt;辛うじて成功した。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;のちに、「パウル・エールリッヒ研究所」（現在、Georg-Speyer-Haus 癌研究所）&lt;br /&gt;内の元エールリッヒ所長室が「エールリッヒ博物館」として保存され、訳者が&lt;br /&gt;１９９０年代中頃に招待講演のため、この地を初めて訪れたとき、例の黄色の&lt;br /&gt;「サルバルサン」結晶標本がそこに安置されいるのを目撃した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、エールリッヒと彼の親友であった（時には彼の「敵」にもなった）エミール・&lt;br /&gt;フォン・ベーリングの生誕１２５周年を一緒に祝って、ヘキスト城でエールリッヒ&lt;br /&gt;展示会などが１９７９年に開催された。この伝記は（５年遅れになったが）&lt;br /&gt;その記念祭の一環として出版するものである。なお、２００４年にはエールリッヒ&lt;br /&gt;生誕１５０周年を記念して、国際化学療法学会がニュールンベルグで盛大に&lt;br /&gt;開催された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;１。　生い立ち&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私が敬意を評したい偉人とは、人道的な立場に立って、偉大な活動をなし遂げた&lt;br /&gt;人物のみである。                                ヴォルテール&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウル・エールリッヒが生まれた時代は、医学や自然科学が飛躍的な発展を遂げ&lt;br /&gt;ようとした時期だった。半世紀以内に、細菌学、微生物（ウイルス）学、免疫学&lt;br /&gt;が全て、新しい足場を確立した。ドイツの誇る「三大偉人」、ロベルト・コッホ、&lt;br /&gt;エミール・フォン・ベーリング、パウル・エールリッヒが、フランスのルイ・パスツール&lt;br /&gt;と共に、科学の世界を一新し、医学をいまだかつて想像しえぬほどの高いレベルに&lt;br /&gt;磨き上げた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コッホの父親は、普通の坑夫から始めて、クラウスタール炭坑の上級管理者に&lt;br /&gt;昇進した。ベーリングの父親は西プロシャ地方の校長だった。同様に、エールリッヒ&lt;br /&gt;家も勤勉な、かつ人々の尊敬を集めていた市民（酒屋）の出身だった。&lt;br /&gt;パウルの父方の祖父ヘイマン（１７８４ー１８７３）は、ドイツの偉大な博物学者&lt;br /&gt;アレキサンダー・フォン・フンボルト（１７６９ー１８５９）をひどく称讃し、科学上の&lt;br /&gt;様々な疑問を解くために、自分の書斎に大きな書庫をもち、のちに自分の孫である&lt;br /&gt;パウルを、その素晴らしい書籍の宝庫で堪能させたが、生活費は居酒屋や&lt;br /&gt;トウモロコシ雑貨商などで稼いだ。同様に、母方の祖父アブラハム・ワイガート&lt;br /&gt;（１７８５ー１８６８）も、シレジア北部のローゼンベルグで仕立て屋や酒屋な&lt;br /&gt;どで生計を立てていた。その娘ローザ・ワイガート（１８２６ー１９０２）とパウルの&lt;br /&gt;父親にあたるイスマール（１８１８ー１８９８）との結婚は、いわば「酒屋同士の縁」&lt;br /&gt;だった。というのは、イスマールもシュトレーレンで小さな酒屋（醸造所）を経営&lt;br /&gt;していた。妻ローザは働き者で非常に実用を重んじた女性で、１８５４年に生まれた&lt;br /&gt;息子パウルをとても大事に育てた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒ家の宗教上の習慣については、はっきりわからないが、エールリッヒ&lt;br /&gt;博士の秘書であるマーサ・マークアルトによれば、パウルはユダヤ教の教えを信&lt;br /&gt;じていたようである。もっとも、ユダヤ教の戒律や習慣に厳密な形で従っていた&lt;br /&gt;わけではないが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウルの天才を示唆するような少年時代のエピソードを２、３披露するとしよう。&lt;br /&gt;９歳の頃、近所の薬局で自前の処方箋に従って、風邪薬（飲み薬）を調剤したこ&lt;br /&gt;とがあるそうだ。リングガッセにいたころ、パウル少年は自宅の台所を実験室代&lt;br /&gt;りにして、料理用鍋、ミルクジョッキ、びん詰め、一式の化合物を使って、思い&lt;br /&gt;存分実験遊びを楽しんだといわれている。パウルは仕事に熱中し始めると、しば&lt;br /&gt;しば他の仔細なことを忘れてしまう傾向がある。彼が立派な科学者になってから&lt;br /&gt;も、こんなことを冗談混じりに白状したことがある。&lt;br /&gt;「（ガリレオが主張したように）地球が本当に太陽の回りを回転するのか、それ&lt;br /&gt;とも太陽が地球の周囲を回るのか、一体どちらが正しいのか、今でも確信が持て&lt;br /&gt;ないね。我々庶民の日常生活には、どちらに転んでも全く支障ないからね」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼自身は、学校で優秀な生徒であったとは思っていない。短い自伝の中で「私は&lt;br /&gt;学校で、非常に無関心な生徒だった」と述べている。&lt;br /&gt;「有名なノーベル賞化学者オストワルドが、学校とは規則が厳しく重苦しい所だ、&lt;br /&gt;と言っているが、私も同感だ。私は、非常に幼いころから、自由を謳歌する精神&lt;br /&gt;が旺盛になっていた。その精神は私の生涯を通じて一貫していた」　　　&lt;br /&gt;とはいえ、彼は優秀な生徒だった。もっとも国語（ドイツ語）の作文が大の苦手&lt;br /&gt;だったようだが。彼はまず、シュトレーレンの小さな小学校に通学した。その後、&lt;br /&gt;ブレスラウにあるマリア・マグダレーナ初等中学校（８年制）に通い始めた。この&lt;br /&gt;学校は有名なマリア・マグダレーナ教会の灰色の厳かな建物のすぐ隣にあった。&lt;br /&gt;パウルの（５年後半と６年前半の）担任教師だったルードルフ・ターディは、彼&lt;br /&gt;のことをはっきり憶えていた。&lt;br /&gt;「パウルは、勤勉さ、熱心さ、知識の深さで、他の大部分の同級生を圧倒してい&lt;br /&gt;た。特に私が彼について感心したのは、その謙虚さだった。それはクラスで一番だっ&lt;br /&gt;た。もし、私がギリシャ語の授業だけで、ドイツ語を教えていなかったら、きっと彼&lt;br /&gt;に満点をあげただろう。残念ながら、彼のドイツ語は平均以下だった。彼の作文&lt;br /&gt;は読むに堪えなかった」&lt;br /&gt;パウルは成人してから、最も明確な科学的論文を書くようになったが、学校時代、&lt;br /&gt;ドイツ語の作文でひどく苦労をした。そのために、大学入試に危うく失敗すると&lt;br /&gt;ころだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、彼の従兄カール・ワイガートが化学染料、特に有機（アニリン）色素を&lt;br /&gt;いったん紹介するや、パウルの学問熱に顕著な転機が訪れた。著名な科学者&lt;br /&gt;であるカールは、パウルの後生に非常に多大な影響を与えることになる。カール&lt;br /&gt;は（シュトレーレンからわずか５キロほどの）シレジア地方の小さな町で、１９４５年&lt;br /&gt;３月１０日に生まれた。だから、カールはパウルの９歳年上にあたる。パウル同様、&lt;br /&gt;カールはブレスラウのマリア・マグダレーナ初等中学校で学び、さらにブレスラウ、&lt;br /&gt;ウイーン、ベルリン大学で医学を修得した。独仏戦争（１８７０ー１８７１）中、&lt;br /&gt;軍医を務めたのち、ブレスラウに戻り、万聖病院の内科診療所の有名な内科医&lt;br /&gt;レーバート教授の助手になる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、カールの興味を最も強く引き付けたのは、細菌学だった。特に、&lt;br /&gt;細胞に秘める謎を解くのが、彼の最大関心事だった。そこで、カールは色々な色&lt;br /&gt;素を使い始めた。というのは、その２、３年前に、エルランゲンの解剖学者ジョ&lt;br /&gt;セフ・フォン・ゲルラックが、色素を使うと、顕微鏡下で組織の詳細を観察する&lt;br /&gt;際、解象力が数段増すことを示していたからである。「組織染色学」（芸術的な&lt;br /&gt;科学）という言葉を初めて導入したのは、フォン・ゲラックその人だった。植物&lt;br /&gt;由来の色素を使って、細胞の核を深青や赤に、筋肉組織をピンクや黄色に、血球&lt;br /&gt;をオレンジ色に染め分けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;カールは、植物色素の代りに、新しい合成アニリン色素、例えばメチレン・バイ&lt;br /&gt;オレットを当初試してみた。 のちに、（化学者ハインリッヒ・カロが発明した）&lt;br /&gt;エオジン、メチレンブルー、フクシンなどを使い始めた。 「ミクロトーム」という&lt;br /&gt;機械を初めて使い始めたのもカールだった。この機械で薄く切り出された組織&lt;br /&gt;切片を、スライドガラス上に固定後、上記の色素で染色するわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある日、パウル少年が従兄カールの家を訪ねると、従兄が染色した組織切片をちょ&lt;br /&gt;うど顕微鏡で観察している最中だった。 その組織標本をのぞいて見たパウルは、&lt;br /&gt;細胞の種類や部分によって、（ある特定の色素に）強く染まっている箇所と&lt;br /&gt;ほとんど染まっていない部分があることに気づいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウルはこの発見から、次のような結論を導きだした。ある特定の色素は、ある&lt;br /&gt;特定の細胞や細胞顆粒に強い「親和性」（結合力）を持っているに違いない。も&lt;br /&gt;し、そうだとすると、色々の色素を使って、それぞれに選択的な親和性を示す色々&lt;br /&gt;な細胞（あるいは細胞顆粒）を染め分け、分類することができるはずである、と&lt;br /&gt;パウルは考えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;色々な細胞に対する色素の持つ「親和性」の違いという概念は、そののち彼の&lt;br /&gt;研究の根幹をなし、梅毒菌「スピロヘータ」に選択的な親和性を持つアニリン色素&lt;br /&gt;「６０６」 （特効薬サルバルサン）の発見を導くことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウルの研究者としてのキャリアにとって重要な次のステップは、有名な解剖学者&lt;br /&gt;ハインリッヒ・ワルデヤーとの出会いであった。１８７２年の夏、パウルはブレスラウ&lt;br /&gt;大学に入学して、ワルデヤーの指導下に入った。ワルデヤーは当時、生理&lt;br /&gt;学者ルードルフ・ハイデンハインの助手だった。 ところが９月にワルデヤーが&lt;br /&gt;ストラスブルグ大学の教授に就任したので、パウルは師のあとを追って、ストラス&lt;br /&gt;ブルグに移った。しかしながら、ワルデヤーの解剖学研究所は、ある教会を改造&lt;br /&gt;したもので、講堂、講義室、解剖室などがあるだけの極めて貧弱な施設だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ワルデヤーの回想録（１９２１年）には、実験（主に、組織染色の顕微鏡観察）&lt;br /&gt;に毎日明け暮れる学生パウルの様子が記述されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やがて彼の実験台一面が、まるで虹鱒のごとく、七色の色素に染まり始めた。ある&lt;br /&gt;日のこと、彼の実験台に近づいて、一体何をやっているのか、彼に尋ねてみた。&lt;br /&gt;彼曰く 「ただ今実験中です！」。 「よかろう、続けたまえ！」と、私は彼の「実験」&lt;br /&gt;なるものを励ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウルが調製した組織染色のスライド（プレパラート）を顕微鏡で観察してみる&lt;br /&gt;や、ワルデヤーは、パウルには細かい指図は不要であることに、すぐ気づいた。&lt;br /&gt;「パウルは、稀れにみる才覚を持つ学生だった。彼は私の指導をほとんど乞わず、&lt;br /&gt;始めからほとんど独立独歩に実験を進めていた。こういう学生には、最初の一歩&lt;br /&gt;を教えさえすれば、あとは自分でどんどん前進し、新しい道を独自に切り開いて&lt;br /&gt;いくものだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;明けても暮れても染色に没頭するパウルは、やがて同期生仲間から面白い半分に、&lt;br /&gt;色んなあだ名を頂戴することになる。 しかしながら、彼は周囲の評判に全く無頓&lt;br /&gt;着だった。自分がめざすものをはっきりと自覚していたからだ。 のちに彼はこう&lt;br /&gt;表現している。&lt;br /&gt;「科学の世界で大成功するためには、釣り場を余り変えてならない。私は母ゆず&lt;br /&gt;りで、実利的な考えの持主だ。私は常に、自分に役立つ可能性のあるものしか読&lt;br /&gt;まない。学生時代に、既に私は現在でも取り組みつつある化学療法への道を歩む決意&lt;br /&gt;をしていた。だから、次の学期に何を学ぶべきかをハッキリ心得ていた。私は自分の&lt;br /&gt;アイディアに徹するつもりだったので、大学の講義に出席するのをもうやめた。&lt;br /&gt;私は当時進行していることには興味がなかった。成功の鍵は、将来何が必要かを&lt;br /&gt;見通すことである （時代に先駆けなければならない!）」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１８７４年３月に、ストラスブルグ大学医学部の進学テスト（臨床コースを始める&lt;br /&gt;前の試験）を優秀な成績でパスしたパウルは、アドルフ・フォン・バイヤー&lt;br /&gt;（１８３５ー１９１７）の研究に注目し始めた。バイヤーは、ベンゼンの化学構造&lt;br /&gt;（６員環）を決めたアウグスト・フォン・ケクレの弟子で、インディゴの合成で世&lt;br /&gt;界的に名をとどろかせた有機化学者で、１９０５年にノーベル化学賞をもらって&lt;br /&gt;いる。 さて、バイヤーは１８７１年から１８７５年まで、ストラスブルグ大学で教授を&lt;br /&gt;しており、パウルの化学の審査にもたずさわった。バイヤーは同僚のワルデヤー&lt;br /&gt;にこんなことを言ったことがある。&lt;br /&gt;「パウル・エールリッヒが授業に出てきたのをみかけたことはない。しかしながら、&lt;br /&gt;彼にすばらしい組織染色標本を調製する才能があることを聞いている。従って、&lt;br /&gt;きっと彼は化学に秀でているに違いない」&lt;br /&gt;エールリッヒは、のちにそれに同意している。&lt;br /&gt;「確かに、私は化学を最も得意とする。頭の中にすぐ化学構造が浮かび上がって&lt;br /&gt;くる」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次に、エールリッヒは鉛中毒について注目した。特にキエフ大学の講師である&lt;br /&gt;エミール・ヒューベルの単行本「慢性鉛中毒症状と病理」に登場する次のような&lt;br /&gt;仮説に魅せられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;薬や毒と呼ばれる色々な物質と特定の組織との間には、疑いもなく選択的な親和&lt;br /&gt;性が存在する。この親和性の違いによって、特定の組織に対する薬効や毒性が&lt;br /&gt;自ずと決まってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒは、この本を読み終わって、彼の有名な「座右の銘」を確立した。&lt;br /&gt;「結合せぬ物に反応（薬効や毒性）なし」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒは学生時代に、「近代細菌学の開祖」として尊敬を集めていた&lt;br /&gt;ロベルト・コッホ（１８４３ー１９１０）に初めて出会う機会を得る。 当時、コッホ&lt;br /&gt;はまだ片田舎ウオルシュタインの開業医に過ぎなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コッホは独仏戦争（１８７０ー１８７１）に （近眼にもかかわらず）軍医として&lt;br /&gt;従軍したのち、１８７２年にウオルシュタインで開業医を始めた。診療のかたわ&lt;br /&gt;ら、コッホは自宅（白山への道、１２番地、１９３０年代以後は「コッホ博物館」&lt;br /&gt;として保存）で細菌学の研究を始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大学や研究所と無縁なコッホは、結核やコレラなどの病理研究の前に、まず&lt;br /&gt;地元の農民たちの訴えに応えて、炭疽という家畜の伝染病に注目した。地元&lt;br /&gt;ポーゼン地方では毎年、数百頭の家畜がこの感染によって死んでいたからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コッホが発した最初の疑問は、炭疽とは生きた病原体によって引き起こされる&lt;br /&gt;ものかどうかであった。アロイス・ポレンダーとカシミア・ダベインは犠牲になった&lt;br /&gt;家畜の血液 （炭のように黒い）に、しばしば謎のかん状菌を観察していた。 &lt;br /&gt;しかしながら、それが病因であるという証拠はまだなかった。そこで、コッホは&lt;br /&gt;私財を投じて高価な顕微鏡を購入した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１８７６年にコッホは、このかん状菌を純粋培養し、それが炭疽の病原体（炭疽菌）&lt;br /&gt;であることを証明した。 しかしながら、その発見を論文として発表する前に、２、３の&lt;br /&gt;有名な病理学者にその確認（追試）を依頼した。その一人がブレスラウ大学の眼科&lt;br /&gt;教授であったヘルマン・コーンだった。１８７６年４月末、コッホはブレスラウの植物&lt;br /&gt;生理学研究所を訪れ、専門家の前で追試実験を披露した。エールリッヒがコッホ&lt;br /&gt;に初めて遭遇したのは、その際だった。 というのは、コーン教授の同僚であり&lt;br /&gt;友人でもあるジュリウス・コーンハイム教授がコッホの追試実験にひどく感動し&lt;br /&gt;て、病理学研究所の助手や学生たちに、それを触れ回ったからだ。奇遇にも、&lt;br /&gt;その主任助手がエールリッヒの従兄カールだった。 エールリッヒがこの絶好の&lt;br /&gt;機会を逃すはずはなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒが弱冠３２歳の医者コッホに会えて、深く感動したのは言うまでも&lt;br /&gt;ない。 いつか将来、もし機会があれば、この大家の下で存分に研究したいものだ&lt;br /&gt;という熱い夢を、エールリッヒは秘かに抱き始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コッホは１８８０年にベルリンに移り、１８８２年に結核の病原菌をついに発見し、&lt;br /&gt;世界的に有名になる。翌年にはエジプトでコレラ菌も発見し、細菌学の世界的&lt;br /&gt;権威になる。１８８５年にベルリン大学の教授に抜擢される。さらに１８９０年には、&lt;br /&gt;結核菌ワクチン（結核菌由来の「ＰＰＤ」を含む蛋白性エキス）を利用して、&lt;br /&gt;「ツベルクリン反応」と呼ばれる結核の早期診断法を発明した。翌年、ベルリンに&lt;br /&gt;プロシャ伝染病研究所 （のちに、「ロベルト・コッホ研究所」ヘ改称）が創立され、&lt;br /&gt;その研究所の所長に就任する。１９０５年には、彼の結核に関する研究に対して、&lt;br /&gt;ノーベル医学賞が授与される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なお、彼が提唱した感染症の病原体を証明するための基本指針「コッホの３原則」は、&lt;br /&gt;今日でも病原体発見の基準（金字塔）として、尊重されている。１。病巣に、病原体と&lt;br /&gt;思われる細菌、ウイルス、原虫などが存在することを確認する。　２。その病原体を&lt;br /&gt;純粋に培養する。 ３。単離した病原体によって、感染症を発生させる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以後、コッホの下に、破傷風やジフテリア毒素に対する抗血清を共同で開発する&lt;br /&gt;北里柴三郎（１８５３ー１９３１）やエミール・フォン・ベーリングなどの若い著名な&lt;br /&gt;「微生物の狩人」たちが、続々と馳せ参じる。 のちに、エールリッヒ自身も結核菌の&lt;br /&gt;染色に成功したのち （温かいエジプトの地で、しばらく肺結核の療養を済ませた後） &lt;br /&gt;ベルリンのコッホ研究所で、微生物の狩人仲間と共に、（ノーベル賞に輝く）「近代&lt;br /&gt;免疫学」を確立する運命をたどることになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１８７８年にエールリッヒは学位論文を、ブレスラウ大学ではなく、ライピツィッヒ&lt;br /&gt;大学に提出した。というのは、彼の指導教官であるコーンハイムや従兄のカー&lt;br /&gt;ルが、その年にブレスラウからライピツィッヒへ転勤になったからだ。論文の&lt;br /&gt;題名は、組織染色の理論と実践への貢献。１部、染色の化学的概念、２部、&lt;br /&gt;アニリン色素の化学、衣料染色、組織染色。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この学位論文で、エールリッヒはまず、衣料染色と組織染色の根本的な違いを&lt;br /&gt;はっきりさせた。当時の衣料染色の対象になる線維の種類は、羊毛、木綿、絹など&lt;br /&gt;極く少数に限られていた。ところが組織染色の場合、対象はほとんど無尽蔵だった。&lt;br /&gt;骨、筋肉、分泌腺、脳、血液などの異なる細胞をまず染め分け、さらに同じ細胞&lt;br /&gt;内の核、細胞質、特定の細胞顆粒などを染め分けなければならない。従って、各々&lt;br /&gt;の細胞や細胞内コンパートメントを特異的に染める色素をいくつか、同時にうまく&lt;br /&gt;組み合せなければならない。組織染色には単純な衣料染色にくらべて、ずっと&lt;br /&gt;高度に洗練された技術が必要である。 いいかえれば、「化学の粋」を集めて、&lt;br /&gt;いわゆる芸術の領域にまで達することが要求される。 エールリッヒが、従兄の&lt;br /&gt;カールをいみじくも 「組織染色の芸術家」 と呼んだ由縁はそこにあった。 のちに&lt;br /&gt;エールリッヒ自身は、従兄を凌いで「色素の達人」になり、アニリン色素にヒ素を&lt;br /&gt;結合させた最初の化学療法剤「サルバルサン」を開発することになる。その基礎は&lt;br /&gt;既に彼の学位論文にあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、医学士の学位を取得し、既に組織染色の権威になっていたエールリッヒは、&lt;br /&gt;医学と化学が新しい大連繋を形成し始めた当時、就職先を見つけるのにそう時間&lt;br /&gt;はかからなかった。 １８７８年に、ベルリン最大の有名な病院、通称「シャリー」&lt;br /&gt;（現在、ベルリン大学付属病院）の内科医フリードリッヒ・フォン・フレリックス教授が、&lt;br /&gt;エールリッヒを助手に採用した。 こうして、彼は（コッホがいる）憧れの首都ベルリン&lt;br /&gt;に移るチャンスを得た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;２。シャリー時代&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「シャリー」はベルリン市の東側 (旧東ベルリン) にあり、現在、欧州最大の総&lt;br /&gt;合病院である。「シャリー」は３００年の歴史を誇り、１７０９年にフレデリック大王の&lt;br /&gt;父親フリードリッヒ・ウイルヘルム一世（１６８８ー１７４０）によって、まず&lt;br /&gt;「伝染病研究病院」（プロシャ伝研）として創設された。その後、(東プロシャに) &lt;br /&gt;蔓延していた伝染病の流行がようやく治まった１７２７年頃に、啓蒙的な&lt;br /&gt;国王の指示により、貧しい人々のための「慈善」病院として生まれ変わり、&lt;br /&gt;「慈善」を意味するフランス語「シャリー」(Charite) が新しい病院名になった。&lt;br /&gt;その後、軍医（特に外科医）を訓練する研究所としても使用されるようになった。&lt;br /&gt;エールリッヒが勤務し始めた当時、「シャリー」の所長は、厳しいが親切な外科&lt;br /&gt;出身の将軍メールハウゼンだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒのボス、フレリックス教授は「実験臨床医学の父」と呼ばれ、患者&lt;br /&gt;の世話と研究を両方とも重視していた。そこで、自分の助手たち、特に&lt;br /&gt;エールリッヒにも患者の診察と研究の進歩に等しくエネルギーを精一杯注ぎ&lt;br /&gt;込むことを期待していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、１８８２年３月４日、寒いどんより曇った日に、コッホはベルリン生理学会の&lt;br /&gt;図書室で、「結核について」という表題の歴史的講演をやった。その講演会の&lt;br /&gt;場所は、恐らくコッホと（結核は「栄養失調」から発生すると飽くまで固執する）&lt;br /&gt;医学界の大御所であるビルショウとの間にある（１８７６年の炭疽菌発見以来の）&lt;br /&gt;数年にわたる確執から、選ばれた模様である。さもなくば、ビルショウ自ら、&lt;br /&gt;コッホの講演を「シェリー」の大講堂で大々的に主催したに違いないからだ。&lt;br /&gt;聴衆の一員であったエールリッヒは、その講演の模様をこう記述している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生理学研究所の小さな部屋で、コッホは簡潔かつ明確な言葉で、結核という伝染&lt;br /&gt;病の病原菌について、誰にも納得できる形で説明した。彼の主張は無数の組織染&lt;br /&gt;色標本によって、裏付けられていた。その場にいあわせた全ての聴衆が彼の講演&lt;br /&gt;に強く感銘した。私の生涯中、最も偉大な科学上の体験として、いつまでも私の&lt;br /&gt;記憶に残っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コッホの講演内容はまもなく、週刊誌「ベルリン医学」に、「結核の病因」という&lt;br /&gt;タイトルで大々的に報道され、さらに４月に開催された内科学会での彼の同様&lt;br /&gt;な講演は、世界中にセンセーションを巻き起こした。人類にとって当時最も&lt;br /&gt;恐れられていた難病の１つがついに克服される日が、そう遠くないという印象&lt;br /&gt;（希望）を万人に与えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、コッホの結核菌染色法はまだ不完全だった。熟練した専門家に&lt;br /&gt;しか細菌がはっきり観察されなかった。そこで、その忘れえぬ夕べの直後、&lt;br /&gt;エールリッヒはコッホから結核菌の培養液をもらい、メチルバイレットで、染色が&lt;br /&gt;ずっと改良されることを見つけ出した （この改良法は、数年後にエールリッヒ自身の&lt;br /&gt;肺臓に巣くう結核菌を、簡便に早期発見するのにも役立った！）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;３。　結婚、研究、そして肺結核&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「研究の鬼」と喫煙（ハバナの葉巻を頻繁に吸う）癖で知られるエールリッヒには、&lt;br /&gt;私生活の余地（特に、若い女性とロマンスを楽しむ時間）などが全くなさそうに&lt;br /&gt;みえたが、意外にも、２８歳のエールリッヒは秘かに結婚を計画していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ベルリンに住むある親類を訪問した際、彼は１８歳のヘドウック・ピンカスに出&lt;br /&gt;会った。彼女の父親であるジョセフ・ピンカスは、商業参事官（実業家）で、&lt;br /&gt;シレジア地方のノイシュタットで大きなリンネル製造工場を経営していた。&lt;br /&gt;１８７０年代にドイツに産業革命の波が押し寄せる前から、この事業から多大の&lt;br /&gt;恩恵を受けていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヘドウック自身はノイシュタットの高等女学校で最高級の教育を受け、近代文学&lt;br /&gt;や語学に強い関心をもっていた。しかしながら、彼女は同時代の若い世代に多く&lt;br /&gt;みられる感傷的なセンチメンタリズムに酔う傾向はなかった。 つまり、彼女は&lt;br /&gt;極めて理知的な女性で、自分が一体何を欲し何をなすべきかを良く心得ていた。&lt;br /&gt;従って、この前途有望な若い科学者が近い将来、彼女を伴侶として痛く必要と&lt;br /&gt;していることに、すぐ気づいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;恐らく、２人の出会いは単なる偶然でなく、両方の両親によってそれとなくアレ&lt;br /&gt;ンジされたものだろうが。財政的な面でも、エールリッヒ夫人たるべき女性は、&lt;br /&gt;自分で全てを賄う必要があった。というのは、エールリッヒも自認しているように、&lt;br /&gt;彼はやや浪費家だったからだ。といっても、彼の浪費は書籍類や葉巻ぐらい&lt;br /&gt;のもので、研究以外のこと、例えば衣類などには、彼はすこぶる無頓着で、&lt;br /&gt;いつも大き目のスーツや靴に満足していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１８８３年の夏のベルリンはエールリッヒにとって、それまでになく美しく感じ&lt;br /&gt;られた。２人は８月１４日に、ノイシュタットのシナゴグ（ユダヤ教会）で結婚&lt;br /&gt;式を挙げて、ベルリンのルッツォ街８８番地に新築したアパートに引っ越した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１８８４年にエールリッヒは、ベルリン大学医学部から教授というタイトルをもらう&lt;br /&gt;稀れな栄誉を得た。当時、彼はまだわずか３０歳そこそこだった。彼の尊敬&lt;br /&gt;すべき上司であるフレリックス教授の下にいれば、エールリッヒがベルリン大学&lt;br /&gt;の教授へ昇進するのは、単に時間の問題だけだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、間もなく大変な悲劇が起こってしまった。１８８５年３月に、フレリックス&lt;br /&gt;教授が不意に自殺し、エールリッヒの幸運が瞬く間に消え失せてしまった。&lt;br /&gt;大幅な人事異動の結果、カール・ゲアハート教授がエールリッヒの新しいボスに&lt;br /&gt;なったからだ。この新しい上司は、不幸にして基礎研究よりも臨床（患者の診察）&lt;br /&gt;をずっと重んじる人物だった。以後数年間、この上司と（研究好きな）エールリッヒ&lt;br /&gt;との関係は、日増しに悪化の一途をたどることになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらに別の不幸がエールリッヒの上にのしかかってきた。１９８８年の初冬、咳&lt;br /&gt;がひどくなり、念のため自分のたんを組織染色してみた。するとどうだろう、&lt;br /&gt;スライドグラスの上に（あの「なじみ深い」）結核菌が発見された！　彼の肺が&lt;br /&gt;結核に蝕まれていることは一目了然だった。恐らく（病原菌がうようよしている）&lt;br /&gt;「シャリー」の研究室で感染したのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;肺結核の悪化に伴って、妻ヘドウックからの強い勧めに従い、エールリッヒは&lt;br /&gt;その年の９月から療養のため、半年余りの長期休暇をとり、久しぶりに夫婦&lt;br /&gt;そろって、まずより暖かいイタリア北部のガルダ湖（ミラノとベニスの間にあるイタリア&lt;br /&gt;最大の氷河湖）に数週間ほど滞在することになった。ヘドウックは、夫パウル&lt;br /&gt;にも一時研究のことをすっかり忘れることができる能力が備わっていることに気&lt;br /&gt;づいて、びっくりすると共に安堵した。パウル曰く。&lt;br /&gt;「私を仕事の鬼と人々は考えているようだが、それは大間違いだ！　私は大蛇の&lt;br /&gt;ごとく怠惰になることもできる。レジャーは過労を防ぐ最良の安全弁である」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;冬の訪れと共に、イタリア南部のナポリにしばらく滞在した後、１１月中旬に&lt;br /&gt;エジプトの古い都アレキサンドリアに向かう。さらに首都カイロで長期滞在する。&lt;br /&gt;さらにナイル川を蒸汽船で遡り、百ほどの門があるテーベの古代都市を観光する。&lt;br /&gt;翌年の春、ドイツへの帰国のため、地中海のマルタ島やシシリー島を経由する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸い、ベルリンに戻ってきたエールリッヒの健康はすっかり元通りに回復してい&lt;br /&gt;た。ところが、いざ職を探し始めると、誰も（どの大学も病院も）彼を歓迎しなくなっ&lt;br /&gt;ていた。半年の休暇後、かの著名な医学者は「お払い箱」同然になってしまった！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、エネルギーを持て余した（失業中の）エールリッヒは、裕福な義理の父親&lt;br /&gt;（ヘドウイックの父）からの助けを借りて、自宅を改造して急ごしえの研究施設を建て、&lt;br /&gt;長期療養前に取り組んでいたメチレンブルーによる神経細胞の選択的な染色および&lt;br /&gt;その薬理に関する研究をやり始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;４。コッホ研究所で免疫学 &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒは、１８８９年に自宅に仮設した自分の研究室を、２年後にとうとう&lt;br /&gt;閉鎖してしまった。１８９１年に大先生ロベルト・コッホを初代所長とするコッホ&lt;br /&gt;研究所が新設されたので、そこで本格的に研究を開始するためだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで、エールリッヒの医学への情熱とヒューマニズムが遺憾なく発揮される。&lt;br /&gt;同僚のベーリングと共に、最初の治療用ジフテリア抗毒素（抗血清）の開発に&lt;br /&gt;専念するエールリッヒの姿が、１９４０年のＭＧＭ映画「エールリッヒ博士の&lt;br /&gt;魔法の弾丸」の中で、次のように描かれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ジフテリアは当時、俗に「子供を殺す天使」と呼ばれていた。多数の幼い子供&lt;br /&gt;たちがこの伝染病にかかって、次々と死んでいった。そこで、ドイツ政府はコッホ&lt;br /&gt;研究所を創立し、結核ばかりではなく、ジフテリアの治療薬を緊急に開発する&lt;br /&gt;よう、要請した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コッホの弟子である北里柴三郎とベーリングは、まず破傷風の毒素に対する抗血清&lt;br /&gt;(抗毒素) を開発した後、その翌年の１８９０年に、ウサギなどの小さな動物を&lt;br /&gt;使って、ジフテリアの毒素に対する抗血清を開発した。その後まもなく、北里博士は&lt;br /&gt;日本に帰国し、１８９１年に福沢諭吉の援助で伝研を創設し、その初代所長になる。&lt;br /&gt;一方ベーリングは、その抗血清を大量生産して、蔓延中のジフテリアに対する&lt;br /&gt;血清療法を試みたが、結果がどうも芳しくない。そこで、同僚のエールリッヒに&lt;br /&gt;助けを乞う。こうして、エールリッヒが馬に希釈した毒素をまず注射し、次第に&lt;br /&gt;その毒素の量を増しながら、大量の抗血清の生産に成功する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、この抗血清による最初の臨床試験は、「シャリー」病院でジフテリアに苦しむ&lt;br /&gt;４０名の子供たちを対象に始められた。病院長の指示は、血清が実際にジフテリアに&lt;br /&gt;効くかどうかを「科学的」に証明するために、全体を２０名づつの２つのグループに分け、&lt;br /&gt;一方には抗血清を注射、他方には（治療効果のない）生理的食塩水だけを注射せよ、&lt;br /&gt;というものだった。その指示は、なるほど科学的方法としては確かに正しいが、&lt;br /&gt;偶々後者に選れた２０名の子供たちには、（もし仮に、前者に抗血清が効いた場合）&lt;br /&gt;極めて「不公平な」扱いになる！　もし、読者が後者の子供の両親だったら、一体&lt;br /&gt;どうするだろうか？　恐らく「人情」として、自分の子供に（効くかどうかはわからないが）&lt;br /&gt;抗血清の注射をしてくれるよう医師に懇願するだろう。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、エールリッヒとベーリングは、まず２０名分の抗血清の注射液をその場で&lt;br /&gt;調製して、次々に注射していった。さて、１９人目の注射が終わって、最後&lt;br /&gt;（２０人目）のベッドに近づくと、その子供がもう既に琴切れていた！　そこで、&lt;br /&gt;代りに２１番目の子供に最後の抗血清を注射した。そこまでは、病院長の&lt;br /&gt;「科学方法論」に基づく指示通りだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実際には、彼らは残りの１９人の子供にも十分な抗血清を手元にもってきていた。&lt;br /&gt;エールリッヒは病院のガラス戸越しに、ジフテリアに苦しみながら （まだ生きる&lt;br /&gt;ている） ３９名の子供達の両親たちの懇願するような眼差しを、すばやく捕える。&lt;br /&gt;彼の無言の指図で、ベーリングは、さらに残り１９名に使うべき抗血清注射液も&lt;br /&gt;調製し、２人で手分けして、あっと言う間に全員に抗血清だけを注射する。それを&lt;br /&gt;みて、あっけにとられた看護婦が病院長にそれを報告に行く。病院長がかんかんに&lt;br /&gt;怒って、病室に飛んできて、２人を激しく非難した。エールリッヒは、平然として、&lt;br /&gt;こう答えた。&lt;br /&gt;「病院長、一体どちらが正しいか、ここにいる幼い患者の両親ひとりひとりに&lt;br /&gt;ご自分で意見を訊いてみて下さい！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２人は病院の休憩室で、眠れぬ一夜を一緒に過ごした。翌朝になっても、何の&lt;br /&gt;報告も来なかった。ベーリングは、実験（臨床テスト）はやっぱり失敗だったと思い、&lt;br /&gt;責任を取って辞職する覚悟を決めた。そのとき、当時の内閣の文部科学大臣から、&lt;br /&gt;すぐ出頭するように通告が来た。気の強いエールリッヒの方が２人を代表して、&lt;br /&gt;（失敗を覚悟しながら）文部科学省へ出頭した。 フリードリッヒ・アルトホフ大臣が&lt;br /&gt;彼を出迎えた。意外にも大臣は大変機嫌がよかった。 そこで、半信半疑の&lt;br /&gt;エールリッヒがおそるおそる、こう訊いてみた。&lt;br /&gt;「大臣、病院長の指示に逆らって大変申し訳ありませんでした。（病気を治すべ&lt;br /&gt;き医師という）立場上、あれしか選択がありませんでした。ところで、結果はどう&lt;br /&gt;だったのでしょうか？」&lt;br /&gt;「君、結果をまだ病院長から聞いていないのかね？　大成功だったよ！　君にちょっと&lt;br /&gt;遇わせたい人がいるんだ。病室へ私と来たまえ」&lt;br /&gt;「エールリッヒ博士、この子は私の孫娘だ。君たちのおかげで助かったよ。&lt;br /&gt;ありがとう！」&lt;br /&gt;博士がベッド番号を確かめると、なんと２１番目だった。２０番目の子供を殺し&lt;br /&gt;た「天使」の悪戯（慈悲）だった！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大臣は博士に、ジフテリア血清療法が大成功した褒美に、新しい血清研究所を&lt;br /&gt;ベルリン郊外あるいはフランクフルトに創設したいと提案した。エールリッヒは、&lt;br /&gt;その研究所で、好きな研究なら何をやっても結構だという。。。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、厳密な科学に飽くまで固執する「象牙の塔」よりも（患者の側に立つ）&lt;br /&gt;「ヒューマニズム」の方が、最後の勝利を修めたのだ！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この大臣は極めて先見の明が高く、それ以前に、コッホ研究所の創設にも尽力&lt;br /&gt;している。 のちに、ベーリングのためにマールブルグに実験療法研究所を、&lt;br /&gt;１９１１年にはカイザー・ウイルヘルム研究所 （現在のマックス・プランク研究所の&lt;br /&gt;前身）も創設している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;５。　血清研究所と側鎖説の誕生&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１８９６年６月１日に、ベルリンの南西にあるステグリッツという郊外に、エールリッヒを&lt;br /&gt;所長とする、いわゆる「血清研究所」が発足した。その主な仕事は、ジフテリアや&lt;br /&gt;その他の伝染病に対する抗血清の開発研究と市販抗血清の抗体価を定期的に&lt;br /&gt;検査することだった。後者に関しては、市販用の抗血清を製造する製薬会社&lt;br /&gt;ヘキストが主な利用者になった。そこで、エールリッヒ所長は、１８９４年に&lt;br /&gt;個人的にヘキストと結んでいた契約をとうとう破棄して、月給２５０マルクと&lt;br /&gt;いう安月給に満足せざるを得なくなった。従って、経済的には余り恵まれぬ状態&lt;br /&gt;におかれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実は、この血清研究所の前身はベーカリー（パン焼き場）と納屋だった。それを&lt;br /&gt;色々に改造して、研究所に仕立てたという、当初はかなり貧弱な代物だった。&lt;br /&gt;研究所が発足した日、コッホ時代の同僚で、のちに（１９０６年に）梅毒の診断&lt;br /&gt;反応である有名な「ワッセルマン反応」を発明するアウグスト・フォン・ワッセルマン&lt;br /&gt;（１９６６ー１９２５）に、「小さいが自分の」研究所だと、誇らしげに紹介した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、エールリッヒが将来ノーベル賞をもらうことになる彼の主な業績の１つで&lt;br /&gt;ある抗体産生メカニズムを説明する「側鎖説」は、この小さな研究所で誕生した。&lt;br /&gt;その昔、（キリスト教の創始者）でユダヤ人のイエス・キリストがパレスチナの&lt;br /&gt;地、ベツレヘムという小さな町の納屋（馬小屋）で生まれたが、エールリッヒの&lt;br /&gt;「側鎖説」もそのようなごく質素な誕生歴をもっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この「側鎖説」というアイディアの原型（雛形）は、１８８５年にエールリッヒが&lt;br /&gt;発表した「生物の生存に必要な酸素」という論文の中に見い出すことができる。&lt;br /&gt;実際にエールリッヒが「側鎖説」を抗体産生のメカニズムとして初めて発表した&lt;br /&gt;のは、１８９７年のことだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この「側鎖説」の側鎖の背景には、明らかに彼の好きな色素、特にアニリン色素&lt;br /&gt;の化学構造から来ている。アニリンはベンゼンという（６つの炭素と６つの水素&lt;br /&gt;からなる）六員環に、アミノ基という「側鎖」が結合した化合物である。ベンゼンとの&lt;br /&gt;違いは、ベンゼン中の「水素」が（窒素１つと水素２つからなる）「アミノ基」に&lt;br /&gt;置換したものである。ベンゼン環に（酸素１つと水素１つからなる）水酸基という&lt;br /&gt;「側鎖」が結合すると、フェノールという化合物になる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ベンゼンという「側鎖」のない化合物は、化学的に反応性が乏しいが、&lt;br /&gt;アニリンはアミノ基という側鎖を持つために、他の化合物とより反応しやすくなる。&lt;br /&gt;例えば、アニリンと砒酸とを混ぜて加熱すると、「アトキシル」という新しい化合物に&lt;br /&gt;なる（後述するが、これで、カイコに寄生する病原体を退治することができる）。&lt;br /&gt;しかしながら、ベンゼンと砒酸は直接反応しにくい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ベンゼン環に２つの異なる側鎖、例えば、アミノ基と水酸基が結合すると、&lt;br /&gt;「ヒドロシーアミノーベンゼン」という化合物になる。後述するが、この化合物と&lt;br /&gt;砒酸とを混ぜて加熱すると、「サルバルサン」という別の砒素化合物（「梅毒」の&lt;br /&gt;特効薬）になる。このように、化合物の「側鎖」は一般に、他の化合物との反応&lt;br /&gt;性を高める機能がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;従って、細菌やウイルスや原虫などの病原体（微生物）も、宿主、つまり我々の&lt;br /&gt;細胞に能率よく反応（結合）するために、各種の「側鎖」を細胞表面（あるいは&lt;br /&gt;その毒素）にもっていると、エールリッヒは予測（仮定）した。他方、我々の身体の&lt;br /&gt;細胞表面には、これらの病原体の側鎖と反応（結合）しうる別の側鎖（「受容体／&lt;br /&gt;レセプター」と呼ぶ）があるにちがいない。側鎖とレセプターは、ちょうど「鍵」と「鍵穴」&lt;br /&gt;との関係にある。ある特定の鍵が、鍵穴にちょうどマッチすると、ドアが開く。&lt;br /&gt;いいかえれば、病原体の側鎖が、それにちょうどマッチしたレセプターを我々の&lt;br /&gt;細胞上に見つけると、感染が起こる。 しかしながら、我々の方にも、生き残るために、&lt;br /&gt;病原体から自分を守るべき防御体制を備えている。その一つが血清中にある&lt;br /&gt;「抗体」である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;抗体とは、病原体やその毒素の側鎖（抗原）と結合して、抗原の機能（毒性）を&lt;br /&gt;中和する働きを持つ。 従って、レセプターと同様、側鎖を鍵にたとえれば、抗体は&lt;br /&gt;「鍵穴」に相当するものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒは「側鎖説」において、この抗体がどのように産生されるかについて、&lt;br /&gt;次のような説明を試みた。&lt;br /&gt;「白血球表面に多種類のレセプターがあり、これに抗原（側鎖）が結合すると、&lt;br /&gt;免疫細胞（例えば、マクロファージやリンパ球）が刺激され、レセプターを多量に&lt;br /&gt;分泌し、これが抗体となる」&lt;br /&gt;この考え方は概念的には正しいとしても、詳細に関しては最終的には、のちに&lt;br /&gt;ランドシュタイナーらの人工抗原の研究から否定されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;というのは、実際には、病原体やその毒素の持つ側鎖と抗原とは必ずしも同一で&lt;br /&gt;はなく、それ故に、我々の宿主細胞が持つレセプターと抗体とは、しばしば別の&lt;br /&gt;物質である場合が多い。レセプターは細胞表面上に存在するが、抗体は主に細胞&lt;br /&gt;内あるいは細胞外に存在する。２０世紀初頭における免疫学の発達レベルでは、&lt;br /&gt;「側鎖説」は通用したが、それから半世紀後の「細胞免疫学」、さらに一世紀後の&lt;br /&gt;「分子免疫学」の学問的水準では、さらに一段も２段も高い、より複雑なメカニズムが&lt;br /&gt;提唱されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒが「側鎖説」で特に強調したかったことは、側鎖（抗原）とレセプター（抗体）&lt;br /&gt;との反応は、１対１の「化学反応」であるという事実であった。従って、「抗血清中の&lt;br /&gt;抗体価（抗体の数量）を、特定の病原体や毒素中の側鎖（抗原）を使って、定量する&lt;br /&gt;ことができる」という実用性が、その説の根底にあったわけだ。いいかえれば、&lt;br /&gt;「側鎖説」は、免疫現象（抗原ー抗体反応）の「化学説」といえるだろう。&lt;br /&gt;エールリッヒが、２０世紀初頭当時の免疫学の知識に、新しく「化学」の概念を&lt;br /&gt;初めて導入したことに、この説がもたらした最大のメリットがあるといえよう。&lt;br /&gt;前世紀に（ワクチン開発で）活躍した免疫学の先達、ジェンナーやパスツールには、&lt;br /&gt;この化学反応論的な概念がまだなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;６。　フランクフルトへ転勤&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現在、フランクフルトはドイツ国内で、交通の最大起点であると共に、商業の最大&lt;br /&gt;中心地である。ヨーロッパ大陸で最大の飛行場と鉄道のターミナルを要している&lt;br /&gt;ばかりではなく、ドイツ銀行など主要な銀行の本部がここにある。しかしながら、&lt;br /&gt;１９世紀後半当時は、首都ベルリンが、ドイツにおける、政治ばかりではなく&lt;br /&gt;医学を含めた科学全体、文化の最大中心であった。ベルリンや（フランクフルトの&lt;br /&gt;近くにある）ハイデルベルグには古くからの大学があったが、（文豪ゲーテを&lt;br /&gt;生んだ）フランクフルト市内には大学がまだなかった。ちなみに、ゲーテ自身は&lt;br /&gt;まずライプツイッヒ大学で法律を勉強し始めたが、不幸にして結核らしき病気に&lt;br /&gt;かかり、療養のため退学、のちにストラスブルグ大学の法学部で学業を続け、&lt;br /&gt;卒業する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、１９世紀末にフランクフルト市長をしていた極めて精力的なフランツ・&lt;br /&gt;アディックスは、出来るだけ多くの研究所をこの地に招き入れることによって、&lt;br /&gt;将来フランクフルト大学を創立するための基盤を築き上げようとした。そこで、&lt;br /&gt;首都ベルリンにいる有力な知り合いであるアルトホッフ（文部科学大臣）に&lt;br /&gt;掛け合ってみることにした。アルトホッフもその話に乗ってくる理由がいくつかあった。&lt;br /&gt;まず。エールリッヒが、あのちっぽけなベルリン郊外の血清研究所にいつまでも&lt;br /&gt;満足しているわけはなかった。次に血清療法を開発したベーリングがフランクフルトの&lt;br /&gt;近くにあるマールブルグの研究所長だった。 さらに、市販の抗血清の製造をして&lt;br /&gt;いるヘキストの工場はフランクフルトの郊外にあった。 従って、エールリッヒの&lt;br /&gt;血清研究所をフランクフルトに移転させれば、ずっと機能的になることは確かだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、１８９６年８月にマールブルグで、血清研究所の移転に関する３者 &lt;br /&gt;（アルトホッフ、ベーリング、エールリッヒ）会談がもたれた。 その３カ月後に、&lt;br /&gt;ベルリン郊外の血清研究所がフランクフルト市内に、実験（血清／化学）療法研究所&lt;br /&gt;として移転することが、正式に文部科学省から公示された。予定では、早ければ&lt;br /&gt;１８９９年秋に移転ができそうだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、その頃になって、エールリッヒとベーリングとの抗血清をめぐる関係が&lt;br /&gt;日増しに悪化していった。理由はエールリッヒの果たす役割に関するベーリングの&lt;br /&gt;誤解に端を発する。 つまり、ベーリング自身は自分を血清療法の創始者と位置&lt;br /&gt;付け、エールリッヒを北里柴三郎と同様、自分の部下あるいは助手の一人としか&lt;br /&gt;認識していなかったらしい。 ところがエールリッヒはベーリングと対等な立場&lt;br /&gt;にあり、エールリッヒの系統的かつ定量的なアプローチなしには、ベーリングの&lt;br /&gt;ジフテリア療法など成功しなかったと、確信していた。だから、ベルリンやフランク&lt;br /&gt;フルトの血清研究所は、（マールブルグに製薬会社ヘキストの資金によって&lt;br /&gt;建設された）ベーリングの立派な血清研究所の単なる支部としか考えていない&lt;br /&gt;らしい （ベーリングによる）過小評価に不満が募り始めた。そこで、エールリッヒは&lt;br /&gt;「フランクフルトに建設する自分の研究所はベーリング研究所の支部ではない」&lt;br /&gt;という明確な「独立宣言」を発し、フランクフルトへ移転後、皮肉にもベーリング&lt;br /&gt;研究所とは距離的にはずっと近くなったが、２人の間の往き来は止まって&lt;br /&gt;しまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１８９９年１１月８日に、フレンクフルトの新しいエールリッヒの研究所が開所式が&lt;br /&gt;行なわれた。研究所の所在地はザクセンハウゼン区にあるザントホッフ街　&lt;br /&gt;４４番地だった。市の中心を流れるマイン川のすぐ河畔で、静かな住宅地の&lt;br /&gt;ど真ん中にあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この式典には、１００名近い科学者、著名な知識人、企業家、政治家、ジャーナリストが&lt;br /&gt;詰めかけた。これら多数の参列者の中に、エールリッヒの友人アーサー・ワインベルグも&lt;br /&gt;いた。アーサーはフランクフルトきっての富裕かつ有力な家庭の出で、弟のカールと&lt;br /&gt;共に、マインクールにある大きな化学会社「レオポルド・カセラ」の経営をしていた。&lt;br /&gt;この会社は１９０４年に製薬会社ヘキストと手を結ぶ。アーサーはエールリッヒより&lt;br /&gt;４年ほど若く、ミュンヘン大学で有名なアドルフ・フォン・バイヤーの下で学ぶ。&lt;br /&gt;彼は熟練した有機化学者で、自分の会社で多数の面白い染料の合成に携わり、&lt;br /&gt;多くの特許を獲得している。ヘキストと同様、アーサーはエールリッヒに新規な&lt;br /&gt;色素のサンプルを提供し続けたが、彼が果たした最も大事な役目は何んといっても、&lt;br /&gt;地元フランクフルトに住む貴重な後援者たちを、「ハウス・ブッヘンロード」と呼ばれる&lt;br /&gt;自分のすばらしい邸宅で開く晩餐会の席で、エールリッヒに紹介したことだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その他、参列者の中に、ヘキストの共同創立者であるアドルフ・フォン・ブルーニングと&lt;br /&gt;ウイルヘルムマイスター、エールリッヒの旧友ワッセルマン、さらにヘキストを介して&lt;br /&gt;長い付き合いのアウグスト・ラウベンハイマー教授などがいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒが仕事の話に夢中になると、我を忘れて、手当たり次第に、ドアでも&lt;br /&gt;床でも実験机の上でも、とにかく平らな表面を手近に見つけて、懐中にいつも&lt;br /&gt;携帯している例の七色の鉛筆を使って、数字、グラフ、色素の化学構造などを&lt;br /&gt;描き始める癖がある。ある日のこと、ラウベンハイマー教授の「ヘキスト」社宅で&lt;br /&gt;食事をしていた際、免疫の話が話題にあがるや、興奮の余り、こともあろうに、&lt;br /&gt;ラウベンハイマー夫人ご自慢の真っさらな白いテーブルクロスの上に、色鉛筆で&lt;br /&gt;「側鎖説」の図解をし始めたそうである。エールリッヒ夫人の場合は、実家の父&lt;br /&gt;親がシレジアで大きなリネン工場を経営しているので、自宅の食卓でそんなこと&lt;br /&gt;がたびたび起きても、そのたびにテーブルクロスを取り換えることは、さほど苦&lt;br /&gt;痛ではなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、エールリッヒ夫妻は新しい自宅として、ウエストエンド街　６２番地にある&lt;br /&gt;小じんまりとした魅力的な住宅を購入した。敷地（床）面積が２００平方メートルで、&lt;br /&gt;居間と （１５歳と１３歳になる） ２人の娘たちの寝室、ドラというメイドさんの部屋、&lt;br /&gt;エールリッヒ夫人のドレッシング・ルーム、エールリッヒ専用の書斎兼仕事場などが&lt;br /&gt;あった。 この彼専用の部屋は、書籍、書類、葉巻などで一ぱい、彼自身にしか、&lt;br /&gt;何がどこにあるかわからないようになっていた。 エールリッヒはメイドに、茶目っ気&lt;br /&gt;たっぷりの笑顔を浮かべながら、こう注意を喚起した。&lt;br /&gt;「この部屋にある物には、一切手に触れないこと！　至る所に毒薬が散らばって&lt;br /&gt;いるからだ。（解毒剤をいつも飲んでいる）私だけがそれに触れることができる&lt;br /&gt;ようになっているんだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼の言葉は、単なる「脅かし」ではなかった。 フランクフルトに移って以来、抗血清&lt;br /&gt;研究に訣別したエールリッヒは、新しい研究所で、化学療法剤の開発を本格的に&lt;br /&gt;始め、死ぬまでの間に、千種類以上の砒素化合物（毒薬！）を合成し続けたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９０２年１１月に、マーサ・マークアルト嬢（２７歳）がエールリッヒ所長の秘書&lt;br /&gt;として、研究所に勤務し始めた。研究所に来る前は、数年間、ドイツや米国の&lt;br /&gt;会社に勤務していた。彼女は母国語（ドイツ語）以外に、英語とフランス語が自&lt;br /&gt;由に話せる非常に有能な秘書だった。そして、自分の意見を率直に述べるので、&lt;br /&gt;エールリッヒには絶対に欠かせぬ人材になった。エールリッヒの有名がとどろき、&lt;br /&gt;次第に英米や日本から多くの若い科学者がエールリッヒの下で、化学療法剤の&lt;br /&gt;開発をめざしてやってくると、彼らはまずマーサに接触をとる習慣になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒの死（１９１５年）後まもなく、マーサは有名な「パウル・エールリッヒ&lt;br /&gt;小伝」（ドイツ語、１９２４年）を出版して、彼を高く称讃した（因みに、１９４０年の&lt;br /&gt;ＭＧＭ映画「エールリッヒ博士の魔法の弾丸」は、この伝記に基づいて、ジョン・&lt;br /&gt;ヒューストンが脚色したものである)。 しかしながら、この本には彼のすばらしい&lt;br /&gt;業績に加えて、その背景にある彼および周囲の人々（例えば、ベーリングや&lt;br /&gt;コッホ）の子細な弱点やユニークな個性をも併せて盛り込み、彼の人生ドラマに&lt;br /&gt;より生き生きとした人間的な色彩 (人間味) を持たせたため、一部の者&lt;br /&gt;から非難が出た。特に、フランクフルトの血清研究所／ＧＳＨ所長のポストを&lt;br /&gt;１９１８年以来、継承していたウイルヘルム・コレ教授は、コッホの弟子でもあり、&lt;br /&gt;この伝記の出版に異議を唱えた。というのは、著者マーサが科学者ではなく、&lt;br /&gt;（彼の言葉を借りれば）「純然たるタイピスト」に過ぎなかったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;延々と論議が続いたが、マーサはこの期間、意外にも闘魂と粘り強さを発揮し、&lt;br /&gt;エールリッヒ家の人々や、彼の同僚や弟子たち、フランクフルト市長、地元の&lt;br /&gt;新聞「フランクフルト新聞」、そして最後に、彼の生前の親友アーサー・フォン・&lt;br /&gt;ワインベルグからの弁護を取り付けた。 しかしながら、マーサは結局、わずかな&lt;br /&gt;退職金をもらって、ＧＳＨをあとにせざるをえなくなった。 まもなくヒットラーの&lt;br /&gt;台頭とともに、（ユダヤ人である）マーサは身の安全のため、フランスに亡命せ&lt;br /&gt;ざるをえなくなった。彼女はエールリッヒが残した重要な書簡 （カーボンコピー）&lt;br /&gt;を全て、大事に保管していた。戦後、彼女はエールリッヒの友人であるアルムロス&lt;br /&gt;・ライト卿の世話で、ロンドンで働き続けながら、フランクフルトを久しぶりに訪れ、&lt;br /&gt;（反ユダヤ主義者により）破壊されたエールリッヒの墓を修復し、１９５１年頃に&lt;br /&gt;「パウル・エールリッヒ伝」（英語改訂版）を出版した （訳者は学生時代に、&lt;br /&gt;この英文伝記を読んで、「画家」志望から「薬学者／癌学者」志望へ、一夜&lt;br /&gt;にして針路のいわば「１８０度」転換を決意した！）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;９。　化学療法の確立&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９０３年に英国の熱帯病の専門家デビッド・ブルースがアフリカ大陸のウガンダで、&lt;br /&gt;「眠リ病」の病原体であるトリパノゾーマという原虫を発見した。この原虫は家畜や&lt;br /&gt;人間を刺すツェツェバエ（吸血性の蝿）によって媒介される。フランスの&lt;br /&gt;アルフォンス・ラベラン（１８４５ー１９２２）は、１８８０年にマラリアの病原体&lt;br /&gt;（やはり、原虫の一種）をアルジェリアで発見して、１９０７年にノーベル賞を&lt;br /&gt;もらったが、彼はパスツール研究所時代（１８９７ー１９０７）に、「眠リ病」の&lt;br /&gt;実験動物系（モデル）の開発にも貢献した。 「眠リ病」に感染した家畜の&lt;br /&gt;血液をマウスに皮下注射すると、２、３日以内に「眠リ病」で死亡する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、エールリッヒは、化学療法の手始めとして、この「眠リ病」を対象にして、&lt;br /&gt;（彼の「十八番」である）アニリン色素からトリパノゾーマを選択的に殺す&lt;br /&gt;薬剤を開発しようと試み始めた。この「眠リ病」プロジェクトで大活躍したのは、&lt;br /&gt;志賀 潔（１８７１ー１９５７）だった。　志賀博士は、１８９８年に赤痢菌を発見&lt;br /&gt;してからまもなく、北里柴三郎が所長をしていた伝染病研究所（伝研）から、&lt;br /&gt;エールリッヒの実験（化学）療法研究所へ助手（ポスドク）として転勤、&lt;br /&gt;１９０１年から１９０５年までフランクフルトに留学滞在していた。１９０３年に&lt;br /&gt;試行錯誤の末、真っ赤なアニリン色素 「トリパンレッド」がトリパノゾーマを&lt;br /&gt;選択的に殺すことを発見した。少なくとも一連の実験動物では、一回の注射で&lt;br /&gt;「眠リ病」を完治することができた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これに気を良くしたエールリッヒは、次に人間の難病、「梅毒」という恐ろしい&lt;br /&gt;性病に対する特効薬の開発という難関に挑戦し始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、１９４０年制作の有名なＭＧＭ映画「エールリッヒ博士の魔法の弾丸」では、&lt;br /&gt;英国の往年の名優エドワード・ロビンソン（１８９３ー１９７３）がエールリッヒ役を&lt;br /&gt;熱演するが、最初の場面は、ベルリンにある大病院「シャリー」の診察室だ。&lt;br /&gt;若いやせ細った青年がエールリッヒ博士の診察を受けた後、医師からいつもの&lt;br /&gt;「治療用」と称する塗薬を受取りながら、弱々しく質問する。&lt;br /&gt;「先生、私はある女性と婚約しているのですが、果して結婚できるでしょうか？」&lt;br /&gt;「それは、問題外だ！」&lt;br /&gt;「先生、この病気は本当に治るのでしょうか？」&lt;br /&gt;「この薬できっと治るよ」&lt;br /&gt;その青年は、淋しそうに医師の目をのぞき込んだ。医師は一瞬、目をそらした。&lt;br /&gt;（暗黙の）メッセージは明瞭だった。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;青年がカーテンのうしろ（更衣室）で帰り支度を始めると、次の患者が診察室に&lt;br /&gt;入ってきた。&lt;br /&gt;「先生、治療用のサウナを浴びると疲れ過ぎて、仕事をする気力がなくなるんで&lt;br /&gt;すが」&lt;br /&gt;「それじゃ、サウナはもう止めたまえ」&lt;br /&gt;その患者は、深々と礼をして、足早に部屋を立ち去った。&lt;br /&gt;すると、医師の側にいた大がらの助手が叫んだ。&lt;br /&gt;「先生、サウナを止めさせるのは規則違反です！」&lt;br /&gt;「君、梅毒に効く物などないんだよ。せめて生きている内に、働らき易くしてや&lt;br /&gt;るべきだろう」&lt;br /&gt;とたんに、更衣室で、誰かが倒れる音がした。カーテンを開くと、さきほどの&lt;br /&gt;青年がナイフで自ら首の頚動脈を切って、血だらけで倒れていた。&lt;br /&gt;それを見たエールリッヒ博士は、病院の仕事をもう辞めて（治療薬開発のため）&lt;br /&gt;研究一本に専念しようと決意した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一世紀前の梅毒は、ちょうど現在の性病「エイズ」に例えられる。 しかし、エイズ&lt;br /&gt;の病原体は「ＨＩＶ」と略称されるウイルスの一種であるのに対して、梅毒の&lt;br /&gt;病原体は「スピロヘータ」と呼ばれる細菌の一種である。両方とも性交の際、&lt;br /&gt;コンドームを使用すれば、これらの性病による感染はおおかた予防できる。今日の&lt;br /&gt;エイズのように、その昔(１５世紀末コロンブスの探険隊が、アメリカ大陸から欧州へ&lt;br /&gt;持ち帰って以来)、梅毒は世界中至る所で蔓延していたが、まずエールリッヒの&lt;br /&gt;特効薬「サルバルサン」により、後には抗生物質「ペニシリン」のおかげで、&lt;br /&gt;幸い今日、梅毒は地球上からほとんど姿を消してしまった。従って、今世紀の&lt;br /&gt;読者の中で、梅毒とは一体どんな病気かを詳しく知っている者は、主に皮膚科／&lt;br /&gt;泌尿器科などの医者と梅毒患者自身を除けば、ごく小数だろう。そこで、梅毒の&lt;br /&gt;症状について、ここで簡略に紹介したい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;感染後約３週間で発症する。治療しない限り体内に残り、最終的には死亡する。&lt;br /&gt;現代においては先進国では、抗生物質の発達により、第３期、第４期に進行する&lt;br /&gt;ことはほとんどなく、死亡する例はごく稀。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１期：　感染後３週間～３ヶ月の状態。トレポネーマ（梅毒菌）が侵入した部位に&lt;br /&gt;塊（無痛性の硬結で膿が出る。「硬性下疳」と呼ばれる）を生じる。塊はすぐ消えるが、&lt;br /&gt;稀に潰瘍となる。また、股の付け根の部分（鼠径部）のリンパ節が腫れる。&lt;br /&gt;６週間を超えると「ワッセルマン反応」等の梅毒検査で陽性反応が出る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第２期：　感染後３ヶ月～３年の状態。全身のリンパ節が腫れる他に、発熱、倦&lt;br /&gt;怠感、関節痛などの症状が出る。「バラ疹」と呼ばれる特徴的な全身性発疹が&lt;br /&gt;現れることもある。赤い目立つ発疹が手足の裏から全身に広がり、顔面にも現れる。&lt;br /&gt;治療しなくても１ヶ月で消失するが、抗生物質で治療しない限り、梅毒菌は体内&lt;br /&gt;に残存し続ける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第３期：　感染後３～１０年の状態。ゴムのような腫瘍（ゴム腫）が発生する。&lt;br /&gt;この状態になってしまうと、治癒はもはや不可能である。従って、「ワッセルマン&lt;br /&gt;反応」陽性、あるいは「バラ疹」の発生状態で、ペニシリンなどの抗生物質で&lt;br /&gt;早期治療することが肝心である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第４期：　感染後１０年以降の状態。多くの臓器に腫瘍が発生したり、脳、脊髄、&lt;br /&gt;神経を侵され麻痺性痴呆、脊髄瘻を起こし（脳梅）、死亡する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;映画の場面では（上映時間の関係上）しばしば、２、３日で梅毒にかかった患者&lt;br /&gt;や実験動物が死亡するが、実際には息の非常に長い慢性疾患である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、エールリッヒ夫妻には、二人の愛らしい娘がいた。長女ステファニーと次女&lt;br /&gt;マリアンだった。ステファニーは１８８４年生まれ、マリアンは１８８６年生まれ&lt;br /&gt;だった。その晩、エールリッヒ博士が帰宅すると、２人の娘たちがその日、小学校や&lt;br /&gt;幼稚園であった色々なできごとをそれぞれ、母親のヘドウイックが晩ご飯の&lt;br /&gt;支度をしている合間に、楽しそうに話してくれた。それを聞き流しながら、博士は&lt;br /&gt;妻に、昼間病院であった不幸なできごとを話した上、もう病院を辞めたい気持ちを&lt;br /&gt;明かした。気丈な妻はこう答えた。&lt;br /&gt;「あなたがそうしたいなら、そうして下さい！　家計の方は何とか私がやりくり&lt;br /&gt;しますから」&lt;br /&gt;続けて、彼女は大きなミルク瓶（ジャー）から娘たちのために、グラスにたっぷり&lt;br /&gt;牛乳を注いでやりながら、こう言った。&lt;br /&gt;「がぶ飲みしないで、ゆっくり飲みなさいよ」&lt;br /&gt;（育ち盛りの）妹マリアンは飲み終わると、もう一杯とおかわりをせがんだ。&lt;br /&gt;すると気転が効く姉ステファニーがそれをさえぎるかのようにして、妹にこう訊いた。&lt;br /&gt;「マリアン、グラス一杯のミルクは４ペニーよ。２杯も飲んだらいくらになるか&lt;br /&gt;知ってるの？」&lt;br /&gt;妹には苦手の算数の問題だった。&lt;br /&gt;「よくわかんない、１０ペニーかな？」&lt;br /&gt;「マリアン、それじゃあ落第よ！　正解は８ペニーよ」&lt;br /&gt;娘たちのあどけない会話を聞いていたエールリッヒ博士は、妻にこう尋ねた。&lt;br /&gt;「ところで今、牛乳の２リットル瓶いくらかね？」&lt;br /&gt;「最近また値上がりして、４０ペニーになりました」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;晩ご飯が終わってから、博士は再び夜勤に出かけようとした。妻は不審に思って&lt;br /&gt;問い質した。博士は苦笑いをしながら、こう答えた。&lt;br /&gt;「やあ、ちょっと考え直して、もうしばらく病院勤めを続けるよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、１９０５年の初春になって、エールリッヒの家庭に人気がめっきり少なく&lt;br /&gt;なって、夫婦は昔の新婚時代みたいに、２人だけの生活に戻ってしまった。&lt;br /&gt;というのは、その前年に長女ステファニーが２０歳で、ブレスラウに住む&lt;br /&gt;シュヴェリン家に嫁いだのに続いて、次女マリアンも３月２１日に１９歳で、&lt;br /&gt;結婚してしまったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シュヴェリン夫妻（アーネストとステファニー）にはのちに、２人の息子ハンスと&lt;br /&gt;ギュンターが生まれる。エールリッヒの死後、ナチスによるユダヤ人迫害が&lt;br /&gt;激しくなるにおよび、未亡人（ヘドウイック）と共に、シュヴェリン家は米国へ&lt;br /&gt;亡命し、ニューヨーク郊外に住み着く。のちに、ハンスはニューヨークで医者に&lt;br /&gt;なる。夫アーネストの死後、１９５１年１２月に（マーサ・マークアルト著の英語&lt;br /&gt;版「エールリッヒ伝」が出版された直後）、ステファニーとその息子２人が&lt;br /&gt;ニューヨーク医学アカデミーに、（会員の一人だった）エールリッヒの形見&lt;br /&gt;（顕微鏡、白衣、儀式用刀剣、デスマスクなど）を記念に寄贈した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マリアンの新郎は２８歳の数学者エドムント・ランダウ（１８７７ー１９３８）だった。&lt;br /&gt;結婚当時は、まだベルリン大学で教鞭をとっていたが、４年後にエドムントは&lt;br /&gt;ゲッチンゲン大学の教授になり、素数学の分野で有名を轟かすことになる。&lt;br /&gt;しかし、１９３３年にナチスによって、ドイツ国外に追放されてしまった。&lt;br /&gt;というのは、彼の両親ともユダヤ系のドイツ人だったからだ。父親レオポルド・&lt;br /&gt;ランダウ教授は、ベルリンで産婦人科医をしていた。母親ヨハナ・ジャコービーは&lt;br /&gt;ベルリン有数の銀行家の娘だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、１９０６年頃にエールリッヒの元にある吉報が訪れた。「ゲオルグ・シュ&lt;br /&gt;パイヤー・ハウス」（ＧＳＨ）という新しい研究所が実験療法研究所のすぐ隣に、&lt;br /&gt;ある未亡人からの寄付によってエールリッヒのために建設された。その未亡人は&lt;br /&gt;フランチスカ・シュパイヤーだった。フランチスカの亡夫ゲオルグ・シュパイヤー&lt;br /&gt;は、フランクフルト有数の銀行家だった。ゲオルグは１９０２年４月２４日に、&lt;br /&gt;６７歳で癌のため死亡した。この「ＧＳＨ」計画の背景には、フランチスカの義&lt;br /&gt;理の弟（つまり、ゲオルグの弟）であるルードビッヒ・ダームシュテッター教授&lt;br /&gt;が深くからんでいた。ルードビッヒはある化学会社（ＶＣＷ）の社長をしていた。&lt;br /&gt;そして、稀れに見る幅広い関心を持つ人物だった。彼自身、いくつかの化学論文&lt;br /&gt;を発表していた。だから、エールリッヒの仕事の価値についても精通していた。&lt;br /&gt;そこで、ルードビッヒは親戚中を説得して回り、兄が残していった遺産の一部を、&lt;br /&gt;（研究費と研究スペースに困っている）エールリッヒのために、「ＧＳＨ」を地&lt;br /&gt;元のフランクフルト大学に付属する新しい研究所として創設するために寄付させ&lt;br /&gt;ることに成功したのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２年後の１９０８年の１１月に、もう１つの吉報がエールリッヒの元に舞い込んだ。&lt;br /&gt;それははるかストックホルムからだった。エールリッヒとパスツール研究所長の&lt;br /&gt;メチニコフ (ユダヤ系のロシア人) が、免疫学の進歩への貢献を高く評価され、&lt;br /&gt;ノーベル生理医学賞を授与されることになったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒが授与式に出席するため、ストックホルムに到着すると、彼の弟子&lt;br /&gt;の一人であるルントベルグ教授が出迎えにきていた。さて、その若い教授が親切&lt;br /&gt;にもエールリッヒの荷物を全部集めて、彼に代って運ぼうとした瞬間のことであ&lt;br /&gt;る。教授がエールリッヒの抱えている葉巻ボックス２箱に手をかけようとすると、&lt;br /&gt;エールリッヒはビックリして、それを強く拒んだ。老人曰く。&lt;br /&gt;「この葉巻だけはどうしても手放せません！　それ以外の物は何でもあなたにお&lt;br /&gt;任せしますが」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう１つ面白いエピソードの種（ハプニング）がノーベル受賞直前の会場で起こった。&lt;br /&gt;あるスウエーデンの新聞記者がエールリッヒに短時間のインタービューを申し込&lt;br /&gt;んできた。常にメディアには柔和でおしゃべりな彼は、その飛び入りインタービュー&lt;br /&gt;に応じることにした。ところが、不思議なことには、その記者は化学療法や血清&lt;br /&gt;学や免疫学にはほとんど関心を示さず、哲学に関する質問ばかりしてきた。彼は&lt;br /&gt;いわゆる「馬車馬」なので、専門の「医学」以外の質問に閉口したが、気を取り&lt;br /&gt;直して、哲学と医学との関係について、議論を続けた。 「医学の祖」として有名&lt;br /&gt;なヒポクラテスは哲学者でもあったからだ。 しかしながら、その記者も次第に、&lt;br /&gt;このノーベル受賞者は一体なぜ、哲学的な質問に答えるために、「側鎖説」や細&lt;br /&gt;胞受容体などを引き合いに出すのだろうかと、いぶかしく思い始めた。 そこで、&lt;br /&gt;念のため記者がこう質問してきた。&lt;br /&gt;「ところで、私はオイケン教授とお話してるつもりなのですが、ちがいますか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;謎はただちに解けた！　エールリッヒはほっとした。もはや無意味な哲学的会話を&lt;br /&gt;続ける義務がなくなったからだ。&lt;br /&gt;「いや、私はオイケンではありません！　私はまだ彼ほど進んでいません」&lt;br /&gt;実はその年、ジェナ大学の哲学教授ルードルフ・オイケン（１８４６ー１９２６）&lt;br /&gt;がノーベル文学賞をもらいに、ストックホルムにやってきて、同じホテルの直ぐ&lt;br /&gt;隣の部屋に泊まっていたのだ。２人共ドイツ人で白髪、白いあごひげを貯えてい&lt;br /&gt;た。 しかし、第一次世界大戦では、オイケンは主戦論者だったが、エールリッヒは&lt;br /&gt;反戦論者だった。 皮肉にも、容貌（見かけ）こそ似ていたが、彼らの頭の中（人生哲学）&lt;br /&gt;には、ほとんど共通点はなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ＢＢＣテレビ映画シリーズ「微生物とその狩人たち」（１９７４年）の第５部&lt;br /&gt;「魔法の弾丸を追って」で、微生物学者ルイ・パスツール（１８２２ー１８９５）&lt;br /&gt;が活躍した時代に、フランスに蔓延したカイコの病原寄生体を撲滅するため、&lt;br /&gt;有機化学者アントン・ベチャンプ（１８１６ー１９０８）が１８６３年に、その治療薬&lt;br /&gt;として合成した「アトキシル」という新規な化学物の正確な構造の是非を&lt;br /&gt;めぐって、エールリッヒと若い有機化学者たちとの間に繰り広げられた激しい議論&lt;br /&gt;のやり取りが画面一杯に再現される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ベチャンプはアニリンと砒酸とを一対一に混ぜ合わせて、加熱により「アトキシル」&lt;br /&gt;を合成した。そして、（アニリン中の）アミノ基に砒酸が直接縮合したと提唱した。&lt;br /&gt;ところが、それを疑問視したエールリッヒは、その反応を自ら追試し、&lt;br /&gt;「アトキシル」には、遊離のアミノ基がまだ残っていることを、得意のジアゾ化&lt;br /&gt;反応を使って、既に確認していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;従って、ベチャンプが提唱した化学構造は、エールリッヒの鋭い指摘通リ、&lt;br /&gt;明らかに間違っていた。つまり、単純に砒酸がベンゼン環上の側鎖であるアミノ基&lt;br /&gt;とは正反対（パラ）の位置に結合したパラ・アミノベンゼン砒酸に過ぎなかった。&lt;br /&gt;こうして、古いベチャンプ説に飽くまで拘泥したフォン・ブラウンとシュミッツは&lt;br /&gt;辞職し、エールリッヒ説をすなおに受け入れた有機化学者アルフレッド・&lt;br /&gt;バートハイムが、引続きエールリッヒの下に留まることになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒとバートハイムは、この「アトキシル」を出発物質（あるいはモデル&lt;br /&gt;物質）として、梅毒の病原体を選択的に殺す（より複雑な構造を持つ）砒酸&lt;br /&gt;アニリン化合物を特効薬として開発しようと考えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、梅毒の病原体は一体何者だろうか？　有名な野口英世（１８７６ー１９２８）は&lt;br /&gt;米国のロックフェラー研究所で、１９１１年に梅毒の病原体「スピロヘータ」の培地&lt;br /&gt;による純粋培養に成功したといわれている。もっとも、その成否については、&lt;br /&gt;いまだに議論の余地があるようだが、それ以前（１９０３年）に、パリにある&lt;br /&gt;パスツール研究所のエミール・ルーックスとエリー・メチニコフ（１８４５ー１９１６）&lt;br /&gt;のチームが、らせん状の鞭毛細菌「スピロヘータ」を含む梅毒患者の血液を&lt;br /&gt;チンパンジーに注射して、梅毒を発症させることに成功している。 さらに&lt;br /&gt;１９０６年になって、エールリッヒの弟子の一人で、イタリアのアルベルト・&lt;br /&gt;アスコリ教授がウサギの眼球に梅毒性の炎症を発生させることに成功した。この&lt;br /&gt;成功はエールリッヒにとって、ビッグニュースだった。というのは、安価なウサギを&lt;br /&gt;実験動物に使って、梅毒に効く薬をスクリーニングすることが、ついに可能&lt;br /&gt;になったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;志賀博士が伝研に戻ってからまもない１９０７年に、同じ伝研から秦　佐八郎&lt;br /&gt;（医学博士、１８７３ー１９３８）が、まずベルリンのコッホ研究所で２年間近くの&lt;br /&gt;研究を終えてから、１９０９年３月に、エールリッヒの研究所へポスドクとして&lt;br /&gt;転勤してきた。秦博士はまずウサギを（さらに「仕上げ」には、チンパンジーも）&lt;br /&gt;実験動物に使って、エールリッヒとバートハイムが機関銃のごとく、次から&lt;br /&gt;次へと合成してくる千種類近い色々なアニリン砒酸化合物の梅毒に対する薬効&lt;br /&gt;（治療効果）を各々、慎重にテストしていった。 さて、１９０９年６月下旬のある日&lt;br /&gt;のこと、第６０６番目の化合物が、梅毒菌を特異的に殺すが、実験動物（ウサギや&lt;br /&gt;チンパンジー）には副作用をほとんど及ぼさないことがついに判明した。梅毒を注射&lt;br /&gt;されたチンパンジーは、化合物「６０６」のおかげで、なんと恐ろしい死を免れ、&lt;br /&gt;すっかり元気を取り戻したではないか！　その驚くべき結果を秦博士から聞いた&lt;br /&gt;エールリッヒは、自分のオフィスの中をグルグル歩き回りながら、その興奮を鎮&lt;br /&gt;めんとするためか（好きな）葉巻をひっきりなしに吸い始めた。彼の秘書マーサ&lt;br /&gt;はたまらず、煙に巻かれて一時オフィスから避難せざるをえなくなったほどだ。&lt;br /&gt;さて、そのニュースを聞いた研究所内が、にわかに沸き上がった。「魔法の弾丸&lt;br /&gt;の到来だ！」と誰かが叫んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４０年のＭＧＭ映画「エールリッヒ博士の魔法の弾丸」では、この劇的な瞬間を&lt;br /&gt;次のように描いている。エールリッヒは研究所の職員たち全員を一同に集めて、&lt;br /&gt;こう訓示した。&lt;br /&gt;「皆さん、我々の化合物６０６は少なくとも動物実験では、梅毒の治療に大成功&lt;br /&gt;でした。次は臨床テストで、梅毒患者にどれだけ効果があるかを、慎重に検討し&lt;br /&gt;なければなりません。ヒトに関するテストは極秘に行ないます。従って、臨床結果が&lt;br /&gt;はっきりするまで、今後とも６０６に関する情報は誰にも口外しないで下さい。&lt;br /&gt;さて、今日は研究所にとって歴史的な日ですので、特別に半どんにして、午後は&lt;br /&gt;休みとしましょう。 どうぞ、ご帰宅下さい！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒは最後に自分も帰宅する前に、秦博士に梅毒菌の培養液と６０６の&lt;br /&gt;注射液のセットを所定の冷蔵庫に保存しておくように指図した。それを耳にした&lt;br /&gt;誰かが低い声でつぶやいた。「ひょっとすると、大先生、自分で人体実験をする&lt;br /&gt;つもりかもしれんぞ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、日暮れ近くに、誰かが一人研究室に戻ってきて、暗がりの中で冷蔵庫から&lt;br /&gt;培養液らしい物を取り出して、それを自分の腕に注射し、休憩室にあるソーファー&lt;br /&gt;ベッドに横たわった。２、３時間後に、ある年配らしい人物が懐中電灯を片手に、&lt;br /&gt;その冷蔵庫のドアを開けて、何かをしきりに探し始めた。ちょうどその時、近く&lt;br /&gt;にある休憩室から（何かに苦しんでいる）うめき声が聞こえてきた。その白髪の&lt;br /&gt;老人が部屋の灯りをつけると、なんと自分の片腕（愛弟子）の一人がベッドに横&lt;br /&gt;たわっているではないか！&lt;br /&gt;「君だったのか、培養液を勝手に冷蔵庫から取り出したのは？　手遅れにならな&lt;br /&gt;いように、すぐに６０６を注射せねばならない！」&lt;br /&gt;そう叫んで、エールリッヒは急いで６０６の注射液を取りに戻った。&lt;br /&gt;翌朝、その助手がすっかり元気になっているのを知って、エールリッヒはほっと&lt;br /&gt;胸を撫で下ろした。 「６０６」は人（の梅毒）にも効いたのだ！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その翌日、エールリッヒは地元フランクフルトにある製薬会社ヘキストと「６０６」&lt;br /&gt;に関する特許の申請について、極秘の相談を始めた。 大がかりな臨床テスト&lt;br /&gt;を始めるには、製薬会社による「６０６」の大量生産がぜひとも必要だったから&lt;br /&gt;だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;１０。　「６０６」の臨床試験&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒが「６０６」に関して最初の公式発表をしたのは、１９０９年１２月１日に&lt;br /&gt;ベルリンで開催された医学教育学会の席上だった。彼の講演の表題は&lt;br /&gt;「伝染病の化学療法」という明らかに教育的な観点からアレンジされた一般的な&lt;br /&gt;内容だが、その中でつい最近開発された「６０６」という物質の薬理について、&lt;br /&gt;次のように触れた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私が繰り返して度々力説してきたように、化学療法をめざす者は間断なく勉強を&lt;br /&gt;続けなければならない。具体的には、まず各々の寄生体（細菌、ウイルス、原虫）&lt;br /&gt;に特有な標的（弱点）を見つけ出し、それを極めて特異的に攻撃しうる薬剤、&lt;br /&gt;例えば砒素、ヨード、水銀などを治療剤として開発しなければならない。そのような&lt;br /&gt;系統立ったアプローチを追求すれば、そのうちに好ましい結果が生まれてくると、&lt;br /&gt;私は確信している。今日は、そのようなアプローチの成功例を１つだけ紹介しよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;北里柴三郎の優秀な門下生の一人である秦博士は最近、我々の研究所で、バート&lt;br /&gt;ハイム博士が合成した一連の有機化合物の梅毒菌に対する毒性を調べた結果、&lt;br /&gt;ある特定の化合物が梅毒菌によって発熱したマウスを完治することに成功した。&lt;br /&gt;その化合物はフェニル砒酸の誘導体である。しかも、その治療効果は、その薬剤の&lt;br /&gt;最大許容量のわずか３分の１で十分だった。同様な結果がニワトリの梅毒でも示&lt;br /&gt;された。例えば、この表でも示すように、体重１ｋｇ当たり わずか１。５ ｍｇ&lt;br /&gt;の薬剤が一回で十分である。この投与量を梅毒患者 (成人) に換算すると、&lt;br /&gt;１００　ｍｇに当たる。これは極めてすばらしい業績である。同様な結果がウサギで&lt;br /&gt;も見られた。非常に大きな硬性下疳が一回の投与で治癒された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;翌年の１９１０年の春に、彼の恩師であるフレリックスが始めたフォーラムの席上で、&lt;br /&gt;エールリッヒは、秦の動物実験データ以外に、初めてシュライバー博士とアルト教授&lt;br /&gt;による梅毒患者の「６０６」臨床テストの結果を披露した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちょうど同じ頃（５月２７日）、エールリッヒの恩師コッホが心臓麻痺のため、&lt;br /&gt;バーデンバーデンで療養中、静かに亡くなった。コッホはその２年前（１９０８年）に、&lt;br /&gt;妻と共に世界万遊旅行に出かけ、自分の愛弟子である北里柴三郎の招きで、&lt;br /&gt;日本にも訪れた。北里博士は１８９０年に（ベルリン大学にある）コッホの&lt;br /&gt;研究所で、フォン・ベーリングと共同で、血清療法を開発したり、破傷風菌の&lt;br /&gt;純粋培養に成功している。 コッホの死は、その無数の弟子にとって、大きな&lt;br /&gt;ショックであると共に、深い悲しみとなった。エールリッヒは、自分の人生に最大の&lt;br /&gt;影響を与えた、師であり友であった故コッホを偲んで、次のような弔問文を書いて&lt;br /&gt;いる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９１０年９月２０日に、ケーニスバーグで８２回ドイツ自然科学者と医学者学会が&lt;br /&gt;開催された。ここで、「サルバルサン」を創造したエールリッヒが大聴衆の熱烈な&lt;br /&gt;喝采によって出迎えられた。開会の辞で、ドイツ皮膚病及び性病学界の元老で、&lt;br /&gt;枢密官を務めるアルバート・ナイサーが、「梅毒との闘い」に関する過去の業績を&lt;br /&gt;披露しながら、エールリッヒによる最近の研究を称讃した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;週刊誌「ドイツ医学」が、この歴史的学会の模様を「間断なき拍手喝采」という&lt;br /&gt;見出しで報道している。続いて、エールリッヒが熱い拍手に迎えられながら、&lt;br /&gt;サルバルサンの治療を受けた約一万人の梅毒患者のケースについて、その&lt;br /&gt;結果を要約する講演を行ない、こう結んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ジヒドロキシージアミノベンゼン砒素化合物（６０６）は、臨床、特に梅毒の治療に&lt;br /&gt;有効な化合物の兵器庫に新たに加えるべき真に価値ある弾丸であると、私は&lt;br /&gt;確信してやまない。この薬剤は梅毒のいかなる段階にも効く特効薬であることは&lt;br /&gt;もはや疑いの余地がなく、その必要不可欠さが世界中で認識されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;１４。　「サルバルサン」裁判 &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒの還暦祝い（１９１４年３月１４日）後まもなく、「サルバルサン」&lt;br /&gt;治療の是非をめぐる最初の深刻な論争が始まった。実際には、この争いは&lt;br /&gt;１９１０年１２月１３日以来くすぶり続けていた。その日、ベルリン皮膚科学会の&lt;br /&gt;席上で、リチャード・デュリューという医師が初めて、この治療薬に反対する&lt;br /&gt;意見を述べた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ベルリン出身の４０歳の皮膚科医師であるデュリューは、かつて理髪師、学校、&lt;br /&gt;警察に関する衛生問題に関与していた。その他アルバイトで、ベルリン警察&lt;br /&gt;（売春犯罪部門）の医師として勤務していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;皮肉にも、多くの臨床医が、エールリッヒはサルバルサンのテスト（臨床試験）&lt;br /&gt;に時間をかけ過ぎると苦情をこぼしている矢先に、デュリューは逆に、この研究&lt;br /&gt;者はほんの２、３百名の梅毒患者を対象とする、わずか５カ月のテストで、この&lt;br /&gt;薬を実際の治療のために供給し始めていると非難した。当時（有効な治療法が&lt;br /&gt;全くないため）毎年３０００人近くの梅毒患者が次々と死亡していた。そこで、&lt;br /&gt;学会の議長は、デュリューがサルバルサン批判を延々始めると、あわてて講演の&lt;br /&gt;途中で「時間切れ」を宣言しようとした。 そして、大部分の良識ある医学関係の&lt;br /&gt;雑誌は、彼の「サルバルサン批判」を掲載することを拒否した。 そこで彼は、&lt;br /&gt;ドイツ全体がいわゆる「サルバルサン」マフィア （エールリッヒと製薬会社&lt;br /&gt;「ヘキスト」）に牛耳られて、彼の批判を抹殺しようとしていると誹謗し始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;デュリューによる度を越えたエールリッヒ非難にとうとう業を煮やしたフェリックス・&lt;br /&gt;ピンカス（１８６８ー１９４７）は、ベルリン裁判所を介して、デュリューとベルリン&lt;br /&gt;警察との間の契約を破棄させた。 ピンカス博士はベルリンのフローベル病院長で、&lt;br /&gt;エールリッヒの従弟にあたる。以来、デュリューはその敵（かたき）を取ることに&lt;br /&gt;執念を燃やし始めた。 サルバルサンとその発見者エールリッヒを亡ぼさんとする&lt;br /&gt;活動に専念した。 デュリューは２、３の（反ユダヤ主義の）国会議員や新聞社の間に、&lt;br /&gt;彼の活動をバックアップする仲間を見つけた。例えば、地元のタブロイド版「フランクフルト&lt;br /&gt;ファッケル」は、エールリッヒを「キリスト」にたとえ、スイスのバーゼルの新聞&lt;br /&gt;「土曜日」も、「フランクフルトの救世主は、製薬会社ヘキストを介して、サルバルサンで&lt;br /&gt;大儲けをしている。なぜなら、薬価は生産コストの７ー８倍だからだ」と誹謗した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、１９１４年３月１０日になって、サルバルサンを使用した（百万人を越える）&lt;br /&gt;梅毒患者の間から２７５人の死亡者が出たことが、デュリューらの調査によっ&lt;br /&gt;て明るみに出て、デュリューはそのデータを盾に、「サルバルサンの国内販売を&lt;br /&gt;即時禁止せよ」と厚生省に訴えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、エールリッヒは公式の反撃を開始し、まずウイーンの「自由プレス」に&lt;br /&gt;彼の専門家としての見解を発表した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「不幸にして死亡した２７５名の梅毒患者の死因がサルバルサンのみにあるという&lt;br /&gt;確固たる証明はまだないが、たとえ、それが事実であったとしても、それはその薬を&lt;br /&gt;使用したために、生き残った梅毒患者の数（百万人以上）にくらべれば、ごく少数&lt;br /&gt;（一万分の３以下）である。従って、この薬のメリットは、その副作用に比べると&lt;br /&gt;圧倒的に高い。従って、梅毒のサルバルサン治療を止めるべき理由は、今のところ、&lt;br /&gt;きわめて希薄である。 死因がサルバルサンである、という確証が仮に出れば、&lt;br /&gt;もちろん将来、より副作用の少ない新薬を開発する努力を、我々は続けるべきだろうが」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９１４年６月になって、いわゆる「サルバルサン」戦争の戦場がベルリンから&lt;br /&gt;フランクフルトへ南下してきた。というのは、フランクフルトに住むカール・&lt;br /&gt;ワスマンとその弟ハインリッヒが、自宅で印刷している瓦版「自由主義者」に、&lt;br /&gt;サルバルサンを誹謗する記事を載せて、街角で売りさばき始めたからだ。&lt;br /&gt;題して「売春とサルバルサンとの戦い」。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この戦いの起こりは、その記事によると、売春婦や売春業者たちがワスマンに、&lt;br /&gt;次のような苦情を訴えたという。 フランクフルト病院で売春婦たちに、強制的に&lt;br /&gt;（臨床テストがまだ不十分なままの）サルバルサンが投与された。ワスマンの&lt;br /&gt;考えによれば、この病院の皮膚科の長であるヘルクスハイマー教授やその部下の&lt;br /&gt;上級内科医は、単なる利潤追求者に過ぎず、その貪欲は計画的な殺人をもたらした。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その「殺人」とは、売春婦で梅毒感染が「ワッセルマン反応」陽性で明白になった&lt;br /&gt;ルーシー・ポルマンという若い女性が、病院で （従来、梅毒治療薬として使用&lt;br /&gt;されてきたが、余り実効果のない）水銀剤の代りに、サルバルサンを投与されたが、&lt;br /&gt;２、３日後に死亡してしまったという、場合によっては（もし、事実ならば）&lt;br /&gt;「過失致死」になるかもしれない事件を指す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（直接の当事者でない）エールリッヒと「ヘキスト」は、このワスマンを無視し&lt;br /&gt;ようとした。 ところが、（誹謗を受けた当事者の）ヘルクスハイマー教授は、&lt;br /&gt;我慢ならなかった。エールリッヒや「ヘキスト」からの忠告を無視して、ワスマンを&lt;br /&gt;名誉毀損罪で訴えた。奇遇にも、ワスマンによるこの事件に関する記事に登場&lt;br /&gt;する主な目撃者は、元「ベルリン警察売春犯罪部の医師」だった。。。　デュリュー&lt;br /&gt;との「共謀」の臭いもする。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９１４年６月８日に、フランクフルト裁判所で、裁判長ハインリッヒ・ヘルドマンの下で、&lt;br /&gt;公判がもたれた。傍聴席は超満員だった。裁判長がまず被告ワスマンに、こう質問した。&lt;br /&gt;「病院の医師たちが、利潤を追求する実業家たちから金銭などの賄賂を受け取った&lt;br /&gt;という事実を証明する物証はありますか？」&lt;br /&gt;それに対して、被告はこう返答した。&lt;br /&gt;「我々は、大企業がこの事件の裏にいることを知っています。 この薬はキロ当たり&lt;br /&gt;８マルクで生産できるが、それを一万マルクで市販しています」&lt;br /&gt;同時に被告ワスマンは、検察側に向かって、原告の訴えを取り下げるよう、要求&lt;br /&gt;した。それに対して、裁判長が被告に「罰金」を言い渡すと、ワスマンは怒鳴り&lt;br /&gt;散らした。&lt;br /&gt;「政府もこの事件の裏に関与しているので、私の言葉に耳を傾けようとしないん&lt;br /&gt;だ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次に、ヘルクスハイマー教授が目撃者として、喚問された。彼はこう証言した。&lt;br /&gt;「私は１９１０年５月に初めて、サルバルサンを患者に投与しました。もちろん、&lt;br /&gt;患者の希望に応じてです。サルバルサンが無数の医療センターで十分にテスト&lt;br /&gt;されてから、６月に売春婦たちにも使用し始めました。もちろん、科学的な確信に&lt;br /&gt;基づいてです。それ以外の動機は全くありません」&lt;br /&gt;最後に、教授はこう力説した。&lt;br /&gt;「我々の病院で、サルバルサンが原因で死亡したケースは皆無です！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後に判決が下された。&lt;br /&gt;「被告は、衆人の関心を引くために、事件を故意にドラマ化した疑いがある。&lt;br /&gt;しかしながら、被告が原告にいわれのない誹謗をしたことは明白である。よって、&lt;br /&gt;検察側からの懲役６カ月という求刑をさらに倍加して、懲役１２カ月を言い渡す。&lt;br /&gt;閉廷！」&lt;br /&gt;ワスマンはその場で逮捕され、刑務所に護送された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt; １５。　最後の訪問者たち  &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ほとんど毎日のように、エールリッヒのオフィスに通ずるＧＳＨの廊下を訪問者&lt;br /&gt;の列が連なった。その中には、自分らの「最後の希望」であるエールリッヒに感&lt;br /&gt;謝の意を表する多くの梅毒患者がいた。あるいは、この偉大な人物にひと目会い&lt;br /&gt;たいと願う多くの医者たちがいた。しかしながら、これらの無数の面会は、彼に&lt;br /&gt;残された貴重な限られた時間を奪うことになったが、柔和な彼は、敢えて面会を&lt;br /&gt;断わろうんとはしなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ある日のこと、「シオニスト運動」とアセトン発酵で有名な生化学者チャイム・&lt;br /&gt;ワイズマン（１８７４ー１９５２）が彼のオフィスを訪れた。ワイズマン博士は、&lt;br /&gt;１９４９年にパレスチナにユダヤ人の国「イスラエル」を建国し、その初代大統領に&lt;br /&gt;なった人物である。当時、ワイズマン教授は、エルサレムにヘブライ大学を&lt;br /&gt;創立するために奔走していた。パリのエドモンド・デュ・ロスチャイルド男爵は、&lt;br /&gt;もし、ワイズマンがエールリッヒを説得して、彼がこの大学の理事長を引き受ける&lt;br /&gt;ならば、この大学創立案を支援する用意があると表明していた。ワイズマンは&lt;br /&gt;エールリッヒと面会して、極めて感銘し、その時のことを、後に回顧録「試行錯誤」&lt;br /&gt;（１９４９）に、こう記述している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は彼に初めて面会するまで、彼はユダヤ人問題にほとんど関心をもっていない、&lt;br /&gt;と聞いていた。否、ユダヤ人問題ばかりではなく、医学研究以外の問題には一切&lt;br /&gt;関心がないようだった。そこで、私のベルリン時代の旧友（学者仲間）で、彼の&lt;br /&gt;親戚にあたるランダウ教授をベルリンに訪ね、エールリッヒとの面会をアレンジ&lt;br /&gt;してもらった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒは私が生化学者であることを心得ていたが、私が彼に面会しにきた&lt;br /&gt;本来の目的を知らなかった。そこで、彼に会うなり、私は（ヘブライ大学の問題&lt;br /&gt;を話題にする前に）彼の化学療法論の宣伝をたっぷり聞かされる羽目に陥った。&lt;br /&gt;もちろん、彼の話は極めて魅惑的だった。 しかしながら、私の本来の使命も&lt;br /&gt;果たさねばならなかった。そこで最後に、勇気を振り絞って、話題を彼の「十八番」&lt;br /&gt;から、ヘブライ大学問題へギアチェンジを図った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は次第に私の話に関心を示し始めた。ところが、２０分ほど経つと、彼は急に&lt;br /&gt;私の話をさえぎって、こう言った。&lt;br /&gt;「すまんが、話は取り敢えず、ここで打ち切ろう。患者たちの診察を全部済ませ&lt;br /&gt;てから、我々の自宅で話を続けよう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それから、懐中時計を取り出して、叫んだ。&lt;br /&gt;「大変だ！　君と一時間近くも長話をしてしまった。あそこの廊下には、伯爵、&lt;br /&gt;子爵、大臣などが私に面会するために、首を長くして待っているんだ。彼らは&lt;br /&gt;１０分でも私から時間を割いてもらえれば、満足なのを知っているかい？」&lt;br /&gt;そこで、私も冗談混じりに、こう応酬した。&lt;br /&gt;「もちろん、エールリッヒ教授、私は十分心得ていますよ。でも、彼らと私とは&lt;br /&gt;大違いです。連中はあなたから注射をしてもらうために来ています。私は逆に、&lt;br /&gt;あなたに注射をしに来たのです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その晩、我々は彼の自宅で相談の続きをやった。そこで、エールリッヒ夫人にも&lt;br /&gt;あった。典型的な思いやりの深い主婦で、ご主人のだらしなさや喫煙を諌めてい&lt;br /&gt;た。彼は文字通り、間断なく葉巻をふかし続けていた。私の考えでは、彼を殺し&lt;br /&gt;たのは、あの葉巻だ。彼の家をあとにするころには、彼は２、３日中にパリに出&lt;br /&gt;かける際にエドモンド男爵に会うことを約束してくれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はしばらくドイツ国内に滞在してから、過ぎ越しの祝いのために、勤務先の&lt;br /&gt;英国マンチェスターに戻った。すると、エールリッヒからの電報が私を待っていた。&lt;br /&gt;パリからだった。「男爵に会い、ヘブライ大学の理事長になることを承諾した」&lt;br /&gt;私にとって、それは丸で「クーデター」なみの大事件だった！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヘブライ大学の創立は１９２５年になるまで実現しなかった。もっとも、その土台は&lt;br /&gt;第一次世界大戦中に立てられたが。１９２７年の夏、エールリッヒの娘婿で&lt;br /&gt;あるエドムンド・ランダウ教授が、ヘブライ大学で講演をした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;野口英世も、１９１４年３月１４日（ちょうどエールリッヒの還暦祝いの日）に、&lt;br /&gt;彼のオフィスを訪問した。野口博士は当時、米国のロックフェラー研究所で、&lt;br /&gt;梅毒性進行麻痺で死亡した患者の脳中に、梅毒菌「スピロヘータ」を検出するのに&lt;br /&gt;成功して、この病因が梅毒であるかどうという長年の論争にケリをつけたところ&lt;br /&gt;だった。野口博士は、その日、フランクフルト大学の医学部で行なった講演で、&lt;br /&gt;こう述べた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９１５年８月１７日の晩中に、エールリッヒが心臓発作で倒れた。腎臓の機能&lt;br /&gt;が駄目になり、尿毒症を起こして、意志を失った。彼は８月２０日の午後、死亡&lt;br /&gt;した。１０月２６日付けのハーター夫人宛の手紙に、未亡人はこう書いている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それは静かな、安眠でした。夫パウルは死の直前まで、ほがらかで、おしゃべ&lt;br /&gt;りで、頭脳がはっきりしていました。もちろん、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒのなきがらは、８月２３日にフランクフルトのユダヤ人墓地に埋葬&lt;br /&gt;された。ダビデ王の星と医術の神の印が墓石に刻まれた。彼の死を悼む大勢の&lt;br /&gt;慰問客の中に、エミール・フォン・ベーリングの姿もあった。ベーリングは、のち&lt;br /&gt;に長文の美しい弔文を書いた。しかしながら、葬式の当日、ベーリングは健康状&lt;br /&gt;態がかなり悪く、わずか２言３言、つぶやくに過ぎなかった。&lt;br /&gt;「君は感受性の高い人だった。心ない我々が君の心を傷つけたのを許してくれた&lt;br /&gt;まえ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;１６。エピローグ：　エールリッヒ夫人の運命&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;夫の死後、エールリッヒ夫人は娘たちや母親と共に、ウイースバーデンのホテル&lt;br /&gt;「ローズ」に２、３週間ほど滞在した。その後、すっかり空っぽになってしまった&lt;br /&gt;ウエストエンド街の自宅に戻った。第一次世界大戦後、敗戦したドイツ国内に&lt;br /&gt;おける急激なインフレーション（マルクの暴落）のため、多額の財産を失った。&lt;br /&gt;その上、１９２１年になって、（チューリッヒからフランクフルトにやってきて、&lt;br /&gt;１９１８年以後ＧＳＨの所長になった）ウイルヘルム・コレとその理事会がエー&lt;br /&gt;ルリッヒ夫人へ払うべきサルバルサンに関する特許権使用料の支払を打ち切ろう&lt;br /&gt;とした。１５年間にわたり、年間６０万マルクにおよぶものだった。フランクフルト&lt;br /&gt;での民事裁判の結果、彼女は政府から未亡人年金を受け取る外に、年間わずか&lt;br /&gt;５１００マルクをＧＳＨから受け取るという妥協案が成立した。この裁判ざたは、&lt;br /&gt;彼女と（ＧＳＨの創設に奔走してくれた）ダームシュテッダー教授との間の&lt;br /&gt;長年にわたる親密な関係に大きな亀裂が入った。しかしながら、１９２９年７月&lt;br /&gt;１３日に、彼女は「パウル・エールリッヒ財団」を創設した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９３８年８月２３日、ナチスがパウル・エールリッヒ街を改名した時には、まだ&lt;br /&gt;ドイツ国内に留まっていた。その頃までに、彼女は自分の名前「ヘドウイック」&lt;br /&gt;の前に「サラ」というユダヤ人特有の名前を付け加えることを強制された。そこで、&lt;br /&gt;娘ステファニーの夫であるエルンスト・シュウエリンの勧めに従い、まずスイスヘ、&lt;br /&gt;さらに米国に亡命した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９３９年から１９４１年まで、彼女はジュネーブに住んでいた。米国への入国&lt;br /&gt;ビザが出るのを待っていたのである。その間もいつ何時ヒットラーがスイスを占&lt;br /&gt;領するかもしれないという危惧に悩まされていた。１９４１年の夏にビザがとう&lt;br /&gt;とう下りた。７月にポルトガルの「ニヤッサ」号という船に乗船して、１２日間&lt;br /&gt;かかって、大西洋を横断して、米国のニューヨークの波止場にたどり着いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;戦争中であったにもかかわらず、敵国の英雄エールリッヒの名は米国で広く一般&lt;br /&gt;国民の間でもよく知られていた。その一つの理由は、１９４０年に制作されたＭＧＭ&lt;br /&gt;映画「エールリッヒ博士の魔法の弾丸」の成功のお蔭である。ＭＧＭ（現在の&lt;br /&gt;「ワーナーズ・ブラザーズ」）は「ルイ・パスツール」に関する伝記映画で大成功を&lt;br /&gt;収め後まもなく、エールリッヒに関する伝記映画の制作を、監督ウイリアム・&lt;br /&gt;ディータールの下で、開始した。前述したが、主演のエドワード・ロビンソンが&lt;br /&gt;エールリッヒ役を熱演した。エールリッヒ夫人役には、チャーミングなルス・&lt;br /&gt;ゴードンが抜擢された。大物脇役キャストには、多くのドイツからの移民名優が&lt;br /&gt;起用された。例えば、エミール・フォン・ベーリング役を、オットー・クルーガー&lt;br /&gt;が、ロベルト・コッホ役を年配のアルバート・バッサーマンが各々演じた。この&lt;br /&gt;映画は、話の筋をドラマチックにするために、多少史実から逸れている部分が&lt;br /&gt;ある。例えば、サルバルサン裁判の場面では、エールリッヒ自身が&lt;br /&gt;被告席に坐り、サルバルサンによる副作用（梅毒患者の死亡）の責任を問われる。&lt;br /&gt;そして、最後の土壇場で、旧友ベーリングが彼を救うため、裁判所に出頭して、&lt;br /&gt;エールリッヒの無罪を証明する。実際には、エールリッヒは被告の席に立たされた&lt;br /&gt;こともないし、彼とベーリングの仲は、もはやそれほど近しくなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実は、この映画には、米国政府からの戦争キャンペーンがそれとなく、盛り込ま&lt;br /&gt;れていた。１つは米軍の将兵たちに、従軍先で梅毒に感染せぬよう警告している&lt;br /&gt;こと。もう１つは、「梅毒」をヨーロッパに蔓延するヒットラーのナチ運動になぞらえ、&lt;br /&gt;それを退治しようとする「魔法の弾丸」をアメリカと暗になぞらえる、という賢い&lt;br /&gt;トリックを使っている。従って、映画では、エールリッヒ博士はいわば「英米側」の&lt;br /&gt;英雄になっているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、この映画が制作されたのは、太平洋戦争開始（日本軍による真珠湾攻撃）&lt;br /&gt;以前なので、エールリッヒ博士の日本人助手、秦佐八郎が「人種偏見」なしに描&lt;br /&gt;かれている。秦役を演じたのは、若い日本人２世である堀内義隆だった。&lt;br /&gt;（１９８０年に「パウル・エールリッヒ」メダルを受賞した）梅沢浜夫の自伝&lt;br /&gt;「抗生物質を求めて」（１９８７年）によれば、梅沢博士が渡米前（１９４９年頃）、&lt;br /&gt;英語会話のレッスンを、当時、日本に滞在していた堀内氏から直に受けたそうで&lt;br /&gt;ある。 彼はのちに実業家として活躍するようになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４８年１２月２０日、エールリッヒ夫人はニューヨーク市内の７６番街にある&lt;br /&gt;ゴッサム病院で、心臓麻痺のため亡くなった。彼女の簡素な墓は、ニューヨーク州&lt;br /&gt;ウエストチェスター郡にあるマウント・プレザント墓地にある。彼女の娘夫婦&lt;br /&gt;（エルンストとスタファニー）もそこに永眠している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エールリッヒの偉大な才能の１つは、自分の仮説を実験的に証明した上で、&lt;br /&gt;実用化し（実際に医療に役立て）うる能力だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;癌研究分野でも、エールリッヒに負うところが大である。彼の方法論ばかりでは&lt;br /&gt;なく、彼が開発した「エールリッヒ腹水癌」と呼ばれるマウス乳癌細胞株も、今日まで&lt;br /&gt;の癌研究に大いに貢献している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、エールリッヒにより（彼の人生の末期に）開発された分野「化学療法」に&lt;br /&gt;ついてはどうだろうか？　伝染病の問題は今日でも、彼の時代と同様、重要問題&lt;br /&gt;として残留している。というのは、マラリアやトリパノゾーマ感染など見られる&lt;br /&gt;ように、「薬剤耐性」という厄介な現象が常時繰り返し発生しているからだ。&lt;br /&gt;エールリッヒは既にそれを予見し、特にトリパノゾーマ感染で、当時から薬剤耐性&lt;br /&gt;問題について深く憂慮していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クロロキンによる有効なマラリア治療、さらにクロロキン耐性地域における、&lt;br /&gt;ピリメタミンやスルファドキシンによる併用療法にもかかわらず、多くのマラリア&lt;br /&gt;による感染ケースが発生している。ＷＨＯ (世界保健機構) からの最近の調査報&lt;br /&gt;告によれば、９０以上の諸国がマラリア感染危険地域リストにあげられている。&lt;br /&gt;中南米諸国（アルゼンチン、ブラジル、パナマ、ベネズエラ）、東南アジア諸国&lt;br /&gt;（インド、バングラディッシュ、タイ、インドネシア）、アフリカ諸国（エジプト、コンゴー、&lt;br /&gt;セネガル、タンガニカ）、トルコなどである。マラリア患者の３分の２がアフリカ諸国、&lt;br /&gt;５分の１が東南アジア、１０分の１がトルコに分布している。一番問題なのは、&lt;br /&gt;早期診断が遅れていることである。さらに、「眠り病」もいまだにアフリカから&lt;br /&gt;撲滅されていない。特に中央アフリカのコンゴー地方、およびケニヤや&lt;br /&gt;ウガンダ地方では、その危険が高い。主な治療薬は有機砒素であるが、&lt;br /&gt;最近（２０００年代）になって、東大医学部の北　潔教授らが、抗生物質&lt;br /&gt;「アスコフラノン」を「眠り病」の特効薬として開発しつつある。この新薬は、&lt;br /&gt;ニガキ科植物等に存在するインドール骨格を有するアルカロイドで従来、血糖や&lt;br /&gt;血中脂質を低下させる作用や抗癌作用などが知られていた。従って、従来のメラ&lt;br /&gt;ミン核を有する有機砒素剤（例えば、１９４９年に開発された「ヘキスト」社の&lt;br /&gt;「メラルソプロール」など）とは構造的にも機能的にも全く違うので、これら従来の&lt;br /&gt;薬剤に対して耐性になった「眠り病」の病原体である原虫にも有効である&lt;br /&gt;ばかりではなく、副作用がずっと少ないはずである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９５４年、エールリッヒの生誕１００年を祝って、ペニシリンの発見者&lt;br /&gt;アレキサンダー・フレミングは、こう語っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９０９年のエールリッヒ博士による梅毒の特効薬「サルバルサン」の発見は、&lt;br /&gt;化学療法の一里塚を築いた。この薬は患者の身体に害をもたらさない濃度で、&lt;br /&gt;病原菌を選択的に殺す作用を持つ。ちょうどこの薬が発見された時期に、私は&lt;br /&gt;ワッセルマン反応による梅毒の診断法に、自分の研究を専念していたから、この薬の&lt;br /&gt;発見に極めて興味を感じた。我々の研究所（ロンドン大学付属「聖マリー病院」）&lt;br /&gt;のアルムロス・ライト所長（１８６１ー１９４７）は、エールリッヒ博士の友人&lt;br /&gt;だったので、臨床試験を開始するために、ドイツから早速「「サルバルサン」を&lt;br /&gt;手に入れた。そして、この特効薬の梅毒に対する驚くべき威力に、我々は驚嘆し&lt;br /&gt;た。信じられぬくらい短期間に、梅毒による潰瘍が治ってしまったからだ。以来&lt;br /&gt;何十年も経っているが、我々の病院へ最初にサルバルサン治療を受けにやって来&lt;br /&gt;た梅毒患者の一人を今でもハッキリ憶えている。その患者は、鼻の隔壁や口蓋が&lt;br /&gt;梅毒のためにジワジワと蝕まれていた男性だった。サルバルサンを一回注射した&lt;br /&gt;だけで、たちまち全てが元通りに回復し始めた。彼のうれしそうな顔が目に浮か&lt;br /&gt;ぶ。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;梅毒の治療に関して、このような印象深い体験をした私は、細菌感染のために&lt;br /&gt;腐敗する戦傷の治療に有効な抗生物質を何とか見つけたいと、以来考え始めた。&lt;br /&gt;第一次世界大戦中、私は抗菌物質がいかに細菌や我々自身の細胞に作用するかを&lt;br /&gt;研究しているうちに、それまでに使用されてきた大部分の抗菌化学物質が、細菌&lt;br /&gt;ばかりではなく、我々の白血球にも強い毒性をもっているという意外な結論に達した。&lt;br /&gt;私が最初に発見した、細菌に選択毒性を発揮する物質は、ペニシリンだった。&lt;br /&gt;しかしながら、１９２９年に私が発見したペニシリンは、純粋な物質ではなく、&lt;br /&gt;青カビの培養液に過ぎなかった。その培養液は、細菌を殺したが、我々の白血球&lt;br /&gt;には毒性がなかった。そこで、将来いつか、この物質が戦傷の治療に役立つ日が&lt;br /&gt;やってくることを確信した。しかし、その夢が実現するには、その後１５年近く&lt;br /&gt;もかかった。豪州出身のハワード・フローリー（１８９８ー１９６８）を中心して、&lt;br /&gt;この青カビの大量培養により純粋なペニシリンの大量生産に成功し、世界で&lt;br /&gt;初めてペニシリン治療が開始したのは、第２次世界大戦の最中、１９４３年初め&lt;br /&gt;のことだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４３年に初めて、ニューヨークの医師ジョン・マホーニーがペニシリンの梅毒に&lt;br /&gt;対する治療効果を証明して以来、副作用がずっと少ないペニシリンが&lt;br /&gt;サルバルサンにとって代わり始めた。さらに、いわゆる「ペニシリン・ショック」&lt;br /&gt;（アレルギー）という弊害を克服するために、他のいくつかの抗生物質、例えば&lt;br /&gt;エリスロマインシン、テトラサイクリン、セファロスポーリンなどが開発され、梅毒&lt;br /&gt;の治療にも使用されるようになった。そこで、１９７４年には、サルバルサンの&lt;br /&gt;製造が６５年ぶりに停止され、いわゆる「サルバルサン時代」にとうとう幕が下&lt;br /&gt;りた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;続く&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-7599427239666905675?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/7599427239666905675/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=7599427239666905675' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/7599427239666905675'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/7599427239666905675'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2009/01/blog-post.html' title='「化学療法の父:  パウル・エールリッヒ伝」&lt;br&gt;（エルンスト・ボイムラー著、１９８４年）'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-2910250070337906367</id><published>2008-12-29T22:07:00.014+09:00</published><updated>2008-12-31T15:40:42.532+09:00</updated><title type='text'>『型破りの女たち』 シリーズ；　その１</title><content type='html'>　　                                                                &lt;br /&gt;&lt;b&gt;澤田美喜(1901-1980)&lt;/b&gt; &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1901年9月19日、エリザベス・サンダース・ホームの「ママちゃま」こと岩崎(澤田) 美喜が生まれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;外交官澤田廉三と結婚、パリなどで生活。終戦後の昭和23年2月1日、神奈川県大磯町にエリザベス・サンダース・ホームを設立する。これは占領軍の兵士と日本女性の間に生まれてから捨てられた子供たちを育てるための施設で、この施設から2000人ほどの子供たちが巣立った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういった子供たちの存在を政治家や官僚たちは米軍による日本占領の恥部と考え、アメリカ政府も日本政府この問題には敢えてふれたがらなかった。しかし澤田夫妻は立ち上がった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;澤田廉三氏は、戦後の日本の国連加盟に尽力した人である。子供たちは親に捨てられたということと、肌の色が違うということで世間から二重の不当な差別を受けていた。そのため彼らは、例えば、ホームのある大磯の海岸で海水浴を楽しむことさえもできず、廉三の故郷の鳥取県岩美町の海岸でやっと受け入れてもらえた。ここはホームの第二のふるさとで あり、澤田夫妻の墓もここにある。                  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「彼女はライオンのように困難に立ち向かい、ヒツジのように子供たちに接した」とは、ねむの木学園で子供達を救った宮城まり子さんの評である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;http://www.ffortune.net/social/people/nihon-today/sawada-miki.htm&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;_________________________________________________________________________________________　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;日米混血孤児たちの母: 『エリザベス・サンダース・ホーム』の澤田美喜&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太平洋戦争で、無謀にも米国を相手に戦った日本は、予想通り敗戦し、１９４５年８月１５日に無条件降伏をした。終戦後まもなく、ダグラス・マッカーサー元帥に率いられた米国の駐留軍が日本を占領しにやってきた。この占領軍は、旧日本軍事政権の追放、戦争に加担した旧財閥の解体、新しい（民主的な）憲法の草稿などにより、男女同権や天皇の象徴化を確立し、封建的であった日本社会の民主化に大いに貢献した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、いくつかの弊害も残した。その１つが日本国内、特に東京・横浜周辺（立川、横須賀など）や沖縄全体に巨大な米軍基地を、半永久的に建設したことである。そして、その結果として、米軍将校や兵士たちと基地周辺に住む日本女性との間に、いわゆる混血児たちが生まれた。日米混血児の誕生そのものは、もちろん弊害ではないが、問題は、父親であるべき米軍将兵たちが、任務を終えて米国に帰国する際、自分の子供たる混血児を、日本に置き去りにしていったため、その大部分が「父なし子」にされたことである。いわば、プッチーニの歌劇『蝶々夫人』の戦後版である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さらに悪いことには、当時の日本社会には、人種偏見、差別意識がきわめて根強く、混血児を一人前の人間として扱う姿勢がほとんどなかったことである。「父なし」混血児を抱えこんだ貧しい日本人の母親たちの大部分には、自分独りで、その子供を、周囲の人種差別に抗して、育てていくだけの強い精神力も経済力もなかった。こうして、大部分の混血児たちは、自分の母親にも見捨てられ、「孤児」として路傍に捨てられ、あるいは路傍で乞食をする運命を辿った。これらの哀れな混血孤児たちをできるだけ多く救済せんと、大磯にある別荘を解放して、『エリザベス・サンダース・ホーム』という施設を設立し、これら孤児の養育、教育、職業訓練などのために後半生を捧げたユニークな女性が、澤田美喜女史である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;岩崎家の娘&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼女の生い立ちも極めてユニークである。両親は、三菱財閥の３代目社長、岩崎久弥とその妻静子であった。つまり、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎（１８３４～１８８５）の直系の孫娘にあたる。岩崎美喜は、１９０１年９月１９日に、第４子（長女）として、東京で生まれる。３人の息子のあとに生まれた最初の娘なので、特に祖母の喜瀬（１８４５ー１９２３）は、丸顔でみるからに丈夫そうな美喜の誕生を殊の外喜んだといわれている。「美喜」という名前は、久弥の叔父である岩崎弥之助（当時の岩崎家の長老）が、久弥の祖母である美和の「美」と母である喜瀬の「喜」とを合わせ、命名したものである。美喜は幼い頃から「男勝り」で、「女梅ヶ谷」という仇名をつけられた。梅ヶ谷は当時の有名な横綱で、美喜の命名式のときに、赤ん坊の彼女をダッコしてくれた関取である。美喜は、３人の兄と一緒に弓道や柔道を習った。ある日、３歳年上の従兄が美喜に柔道で挑戦してきた。ところが、何度挑戦しても、彼は「柔ちゃん」美喜の返り打ちにあって、とうとう一度も勝つことができなかったといわれている。子供の頃、美喜はいつも３人の兄からもらうお古の着物に甘んじていた。しかし、それも気にならなかった。兄貴たちから、「西郷どん」という仇名をもらって、美喜はご満悦だった。岩崎家の屋敷は、湯島天神の近くにあった。そこから坂を下って不忍池を横切り、上野の山（上野公園）に上ると、愛犬「ツン」を連れた明治維新の悲劇の英雄、西郷隆盛の銅像がある。ちなみに岩崎家は、元々四国高知の土佐藩の出身である。明治維新の際、鹿児島の薩摩藩出身の「西郷どん」と共に活躍した悲劇の英雄、坂本竜馬も、土佐藩の出身である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜は学齢期に達すると、自宅からそう遠くない、当時お茶の水にあった私立の東京女子高等師範学校 （現在大塚にある国立のお茶の水女子大学の前身）付属の幼稚園に通い始めた。いつも女中に引率されて、２人乗りの人力車で通学した。美喜は自分の屋敷内でテニスや自転車を楽しむことができた。しかし、屋敷は高い塀に囲まれ、隣や近所に住んでいる同年配の子供たちと親しい会話を交すことができなかった。そこである日、美喜はどこからか長い梯子を見つけ出し、高い塀を乗り越えようとしたが、とうとう見つかって、引き戻され、お仕置きを受けた。その出来事を、あとで級友に話したところ、それから１ヵ月たって、それに同情した級友の兄が、ある少女雑誌に投稿した『岩崎家の娘は、小さな安アパートの生活を夢みている』というタイトルの記事が掲載された。驚いたのは、岩崎家の両親であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず美喜は３日間、屋敷の奥の間に缶詰状態にされ、その間、この強情な娘を今後どう処置すべきかについて真剣に議論するため、岩崎家全体の御膳会議が延々もたれた。「通学を禁止して、高知県の田舎にある実家へ送り返すべきだ」という極論まで飛び出したが、結局結論が出ずじまいで、通学が許され、平常な生活に戻った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;聖書との出会い&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　あるとき、家族中に百日咳が蔓延したことがあった。兄妹の中で最後にこの伝染病に患ったのは美喜だった。早速、美喜は療養のため、大磯にある別邸に看護婦と共に送られた。ある晩、美喜が床でウトウトしていると、病人がもう眠ってしまったと勘違いした看護婦が、１冊の本をハッキリした声で朗読し始めた。美喜には、まだ全体の意味は良くつかめなかったが、「汝の隣人を愛せよ」という言葉に、強い印象を受けた。次の晩、美喜は早くから狸寝入りして、看護婦がまた朗読し始めるのを今か今かとじっと目をつぶって待っていたが、あいにくその晩は疲れていたためか、その看護婦は朗読をしないまま、すぐ床に入ってしまった。そして３日目の晩がやってきた。美喜がまた狸寝入りを始めると、まもなく看護婦が２人の息子を持つある父親の話を朗読し始めた。息子の１人は勤勉で頼りになる人物だったが、もう１人は、ろくでなしの息子で、家出したあげく持ち金を全部使い果たしてしまう。最後にその放蕩息子が家に舞戻ってくると、その父親は、その息子に駆け寄って、無事に帰宅したのを心から歓迎し、息子の過去の親不孝を全て許してやる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜は、大磯で療養中、母から送られた２冊の本を読んでいた。その１冊は石童丸という若い侍の話である。彼の父親 (加藤なにがし) は、ある日、生と死の大問題を解くため、妻子を捨てて、坊主になり、祈祷と冥想の世界に引き篭もってしまう。ところが、その妻が重病にかかり、息子 (石童丸) はその父親を探しに旅立つ。種々の困難を克服して、息子は出家した父親を、とうとう山奥の洞穴で見つける。「私の母が死にかかっています！」と告げる。しかし、父親はそれに動じることなく、「我に妻なし、息子なし」と答えて、念仏を唱え続ける。石童丸が家に戻ると、母親は既に息を引き取ったあとだった。もう１冊の本は、日本の「仇討ち」話である。ある侍が、騙しうちにあって殺される。残された妻は、「夫の仇討ち」をひたすら願いながら、独り息子を育て上げる。母から、ありとあらゆる武道を学び、厳しい修行を受けた後、息子は立派な成人になる。そして。父を殺した敵（下手人）を探し始める。最後に２人は海岸の絶壁で、果たし合いを演じる。長い戦いは、息子が相手をついに倒し、敵が海中に落下する瞬間に終る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜は子供ながらに、この２つの日本の話、つまり「現世を否定する」仏教徒や厳しい「仇討の掟」に従う侍の人生と、放蕩息子を許す優しい父親の生き方を比べてみた。美喜は、看護婦に「なんという本を読んでいるのですか？」と尋ねた。虚をつかれた看護婦は、美喜を何とか避けようと試みた。だが、美喜のしつこさに、とうとう根負けして、その本が、実はキリスト教の新訳聖書であることを告白した。岩崎家の人々が真言宗の仏教徒であることを知っていた看護婦は、もし美喜が祖母に、「放蕩息子」の話をすれば、自分が直ぐ解雇されることを恐れていたのだ。こうして、美喜は、この世には真言宗以外の宗教があること、そして武士道以外の生き方があることを初めて学ぶ機会を得た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　全快した美喜は、東京の自宅に戻リ、お茶の水の学校に通学し始める。同級生の中に、クリスチャンが１人いることを、間もなく彼女は発見する。美喜は、大事にしていた手提げバッグと交換に聖書を１冊、その友達から手に入れた。しかし、祖母がそれを目敏く見つけて、とうとう没収してしまった。美喜は諦めなかった。また別の宝物と交換して、聖書をもう１冊手に入れた。だがそれも束の間、直ぐ祖母にみつけられてしまった。今度は聖書を焼かれてしまった。美喜の兄弟の中にひとり「野球気違い」がいた。野球にホケている内に、学校の成績が下落してしまった。その罰に、彼が大事にしていたボールやグラブやバットも全部取り上げられ、美喜の聖書２冊と一緒に、火の中に投げ込まれた。２人の幼い子供は、カマドの前で、悔し涙をボロボロ流しながら、燃えていく本や野球の道具をじっと見つめていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　昔気質の祖母（喜瀬）は、美喜がキリスト教に関心を抱くことに、ひどくショックを感じ、美喜にこう詰問した。&lt;br /&gt;「おまえがクリスチャンになったら、誰がご先祖さんのお墓をお守りするの？」&lt;br /&gt;美喜には、適切な答えが浮かばなかった。美喜は祖母が好きだったので、キリスト教のことをスッカリ忘れようとした。しかしながら、彼女の頭にもたげてくるキリスト教という新しい思想への好奇心を完全に抑えることはできなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜の誕生日が近ずくと、父親が美喜に、「誕生日祝いに、何が欲しいかね」と訊いてみた。美喜は即座に、「教会の礼拝に一度行ってみたい」と答えた。父親は高校時代を米国のフィラデルフィアで過ごし、かつペンシルバニア大学の卒業生である。そして当時、アメリカのクエーカー教徒の家に間借りしていたことがある。だから、美喜の頼みをきいてやり、自分の母親（喜瀬）を説得して、赤坂の米国大使館の近所にある東京都募金会「霊南坂教会 」の礼拝に、美喜が参加できるように手配した。２人の女中が美喜の付き添いになって、教会に出かけた。木崎ひろみち牧師は、その朝の礼拝の朗読に、「汝の隣人を愛せよ」という聖書の一節を選んだ。礼拝の終りの祝祷が始まる前に女中たちは、そそくさと美喜を家へ連れ戻した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜は父親に、祖母が心配しないようにキリスト教に関する話題に一切ふれないようにすることを約束した。もっとも、少し賢くなった美喜は、こっそり聖書をまた手に入れた上、今度は見つからないように、安全な場所に用心深く隠した。聖書の入手先が、どうやら美喜の通学先（お茶の水の学校）であることを察した祖母は、とうとう美喜の通学を禁止して、家庭教師を雇って自宅教育を始めることにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういういきさつで、英語の家庭教師として雇われたのが、津田梅子女史（１８６４～１９２９）であった。女史は、１８７１年に、日本女性として初めて米国に留学し、名門女子大の１つ「ブリン・モーア校」を卒業した。１１年間の渡米生活を終え帰国後、１９００年には、津田英語塾（現在の津田女子大学の前身）を創立し、日本女性のための西欧由来の近代教育に貢献した。英語をマスターすることは、美喜が念願していた海外へ行くチャンスをつかむには、必須条件であった。&lt;br /&gt;母親は美喜の夢をかなえてやるために、色々な形で励まし、美喜を外務省に勤める外交官の嫁にする準備を秘かに進めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;三菱財閥を創始した祖父「弥太郎」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　岩崎弥太郎が侍の長子として生まれたのは、１８３４年、もう幕末にかなり近い頃であった。当時の日本の支配者である徳川幕府は、まだ鎖国を続けており、外国との貿易は、長崎の出島でオランダ商人との取り引きに限っていた。しかしながら、&lt;br /&gt;１８５３年になって、米国が総督ペリーの率いる黒船艦隊を日本の沖合いに停泊させ武力で威嚇しながら、日本の開国を要求し始めた。翌年、幕府は渋々米国と和平通商条約に調印した。ところが、幕府の政策に不満を抱き、天皇制を復活し、外国人たちを排斥しようと主張する、いわゆる「尊王攘夷」のグループが、外様大名である長州（山口県）、薩摩（鹿児島県）、土佐（高知県）を中心にして、幕府を打倒する運動を始めた。結局、徳川幕府を守る佐幕派と天皇制の復活をめざす尊王派との間に内戦が勃発し、１８６８年に佐幕派が敗北して、江戸時代はついに終り、明治天皇を冠する明治政府が誕生する。この戦争（明治維新）の前後に、弥太郎は土佐藩の庇護の下、商船を駆使するビジネスを開始する。そして、１８７０頃に「三菱商会」（戦前の三菱財閥の前身）を創立する。１８７５年には、三菱商船学校（現在の東京商船大学の前身）を開校する。１８８０年には、保険会社「三菱海上火災」を創立する。船舶輸送や造船業におけるこのような三菱財閥による独占に抵抗して、ライバルである渋沢栄一らが、明治政府関係者と結託して、弥太郎の進出を杭止めようと、猛烈な反撃に出てきた、しかし結局、１８８４年に弥太郎がライバルの会社の株を秘かに買い占め、買収の結果、日本郵船船舶を創設する。何ぴとにも止められそうにもない弥太郎の驀進は、しかしながら、１８８５年２月の彼の急死によって、一応終止符を打たれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　若年５０歳の弥太郎の死後、弟の岩崎弥之助（１８５１～１９０８）が三菱財閥の２代目の社長に就任し、その伝統を継いだ。１８９０年に弥之助は、皇居の濠端にある沼地を買収し、現在の日本の金融センターである「丸ノ内」の基礎を築く。１８９３年に、弥之助は社長の座を弥太郎の長男、岩崎久弥（１８６５～１９５５）に譲り、三菱財閥の経営からは、一応手を引くが、１８９６年には、日銀の総裁に就任して、金融界で再び活躍し始める。３代目の久弥（美喜の父親）は、米国で高校・大学教育を受けたというユニークな経験を生かして、国際的なビジョンで、三菱の経営をさらに進めた。久弥は、常に慈善事業に深い関心を示し、２つの日本庭園、駒込にある六義園と深川にある清澄公園、を東京都に寄付する。さらに六義園の近くに、東洋の文化財を保存する「東洋文庫」という図書館も設立する。この久弥の長年にわたる慈善精神が、後年の美喜自身のソーシアル・ワークに深く結び付いていると思われる。久弥は１９１６年に、社長の座を従弟（弥之助の息子）である岩崎小弥太（１８７９～１９４５）に譲る。４代目の小弥太も同様、欧米帰りで、英国のケンブリッジ大学卒である。彼の下３０年近くの間に、「三菱」は、ライバル「三井」と共に、石炭や鉄鉱を基礎にする重工業に進出し、巨大な財閥に成長していく。しかし、日本の明治維新以後に開始した「富国強兵」政策は、とうとう、海外の石炭、鉄鉱、石油資源などを確保するために、中国大陸や東南アジアを、一方的に武力で侵略するという大きな過ちを犯すことになる。最後に、無謀にも大国のアメリカを相手に戦争を始めた日本は、結局敗戦し、太平洋戦争に深く加担した三菱・三井・住友などの大財閥は全部、終戦後まもなく、米国占領軍のＧＨＱによって、徹底的に解体される。こうして、４代、７５年間続いた三菱財閥は、１９４５年をもって解散の運命をたどる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;美喜の結婚&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、岩崎久弥が三菱の社長を引退してから数年後、１９２２年の夏に意外な事件が、その「お転婆娘」美喜の周辺に起こった。成人した美喜の従姉妹たちは全員、既に結婚していた。長女の美喜には、２人の妹（次女のすみ子と末っ子の綾子）がいた。そして、３人共、当時の娘たちの「結婚適齢期」を迎えていた。ところが、岩崎家には、年令の順に嫁ぐという古い伝統があったので、妹２人は、姉の美喜を出し抜いて、先に結婚するわけにはいかなかった。こうして、美喜に見合いのプレッシャーが次第に強くかかってきた。それまで数年間、美喜は親類の男たちとの見合いの話があるたびに、色々手を変え品を変え、それを撃退してきた。そこで、両親は親類との結婚プランをすっかり諦めて、ある若い外交官との見合いを秘かに仕組んだ。美喜の叔母にあたる加藤夫人や幣原夫人は、有名な外交官の妻であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、この叔母たちの協力を得て、岩崎家は一計を案じた。ある日曜日の朝、母の静子が美喜にこう言った。&lt;br /&gt;「岡部さんから、今朝電話があって、今日午後、お茶の会にきてもらって、美喜にお客さんの接待をお願いしますって。どう、やってくれる？　もしかしたら、海外からの客や外務省の人達もくるかもしれないので、きちっとした服装でお願いしますよ」&lt;br /&gt;それを聞いた美喜は、従姉妹の岡部さんが、美喜のために、ある外交官をまた紹介するつもりなんだな、と察知した。赤坂にある岡部家に美喜が着くと、外国人の客も外務省からの客も誰一人いなかった。大部屋には、叔母たちと従姉妹たち一同が集まっていた。美喜が部屋に入るや、ほとんど大部分が部屋からゾロゾロ出ていって、部屋に残ったのは、美喜と叔母の加藤夫人だけになった。叔母はこう切り出した。&lt;br /&gt;「美喜さん、あなたをちょっと騙したようで悪いんだけど、今日はあなたのお婿さんに相応しい人を紹介したいの。親戚の人ではありません。あなたはお嫌いでしょうから。だから、ご安心下さい。彼は外国勤めの人なんですよ。あなたは海外生活に憧れていたでしょう？」&lt;br /&gt;美喜は、マンマと罠にかかったと思った。だが、その若い男性に会うことには同意することに決めた。美喜が見合いを渋々ながら承諾したのを知って、一同部屋へゾロゾロ戻ってきて、見合い相手の到着を、今か今かと待ちわびた。約束の時間は、午後３時だった。しかし、定刻をとうに過ぎても、彼は姿を現さなかった。家族はヤキモキしながら、座ったまま、さらに客の到着をずっと待ち続けた。最後に１時間ほど遅れて、岡部家の玄関先で、来客を知らせる呼び鈴が鳴った。一同固唾を飲みながら、来客の現われるのを待った。問題の見合い相手は、澤田廉三だった。彼は遅刻の言い訳をしながら、こう謝った。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;「実は、今日パリから帰宅しました。フランスでは、午後４時半頃にお茶を飲むのが習慣になっておりまして、誠にうっかりして、日本の習慣である（早めの）午後３時のお茶会に、遅れまして大変失礼しました」&lt;br /&gt;廉三は、フランス服に、グレーの手袋、細めのステッキというイキな出で立ちで、ご婦人連の前に現れた。お茶を楽しみながら、廉三は、フランスでの体験、彼が観たオペラや観劇、そしてパリでの観光について、喋りまくった。その場に居合わせた者は皆、彼の話に熱心に聞き入っていたが、最大の関心事は、やはり美喜の示す反応であった。彼女が、今度はどんな手で見合いをオジャンにするかと、皆がヒヤヒヤしていた。ところが、何も厄介なハプニングは、とうとう最後まで起こらずじまいだった。廉三が帰宅の途についたとき、一同からホット溜息が洩れた。美喜がベランダにふっと立つと、それを待ちうけていたかのように、ふいに物置の後ろから２匹の飼犬と２羽の孔雀が庭へ飛び出した。それをみながら、美喜は祖父弥太郎の母、よしむら、に関する滑稽な逸話を思い出して、思わずふきだした（注を参照）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ところが、お茶会が終わっても、美喜には何の伝言や連絡も届かなかった。そして、その後２、３日、不気味な沈黙が美喜の周辺に漂よい続けた。３日目になって、美喜は父親から、彼の書斎に来るように言われた。父親はこう切り出した。&lt;br /&gt;「美喜、今回の縁談はきわめて良い話だ。そこで、わしは決心したよ」&lt;br /&gt;「誰の縁談のことですか？」&lt;br /&gt;「まあ、黙って聞きなさい。結婚後、おまえは海外で暮らせる。そして、おまえはクリスチャンにもなれる。おまえは知らんだろうが、澤田家は、実にクリスチャン出身なんだよ」&lt;br /&gt;「この縁組には、岩崎家一同が大賛成なんだ。それにね、女というものは、周囲の人々に祝福されて結婚すべきものなんだよ。そして、相手方がまだ結婚を望んでいる内にするもんだ。わかるかね？」&lt;br /&gt;父親の説得が功を奏して、美喜はついに婚約する決心をした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜と廉三の結婚式は、１９２２年７月１日に、お茶の水にある明治学院大学のチャペルで、メソジスト教会の小林彦五郎牧師から神聖な祝福を受けながら、めでたく挙行された。廉三の生まれ故郷は、日本海に面した鳥取県の岩美にあった。新婚夫婦は、澤田家の祖先の墓参りにやってきたとき、美喜は岩美海岸の真っ白な砂浜や緑の松原や青い海に浮かぶ無数大小の島々がかもしだす美しいパノラマに、すっかり魅了され、後にそこに土地を買い、夏の別荘を建てることになる。廉三は&lt;br /&gt;日本の外交に新風を吹き込もうという夢を抱く若い理想主義者たちのグループ (緑風会) に属していた。そのグループのリーダーは、第一次世界大戦直後のベルサイユ講和会議で活躍した経験のある若い外交官、重光　葵（まもる）であった（彼は、第二次世界大戦後、戦犯としてしばらく服役した後、吉田茂内閣の外相を１９５４～１９５６年に勤めることになる）。この会議で、今後の国際平和維持のために、「国際連盟」の設立などを提唱した米国大統領ウッドロー・ウイルソンが与えた緑風会の若い外交官たちへの影響力は多大だった（太平洋戦争終了後、廉三が「国際連合」で日本を代表して活躍し始める下地は、ここにあった）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　廉三は、東京の外務省で短期の仕事を終えたのち、アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスの大使館勤務を命ぜられた。美喜にとって初めての海外旅行へのチャンスが訪れたわけだ。しかしながら、事態はかなり微妙だった。というのは、美喜が既に妊娠３ヵ月であったからだ。母の静子は、祖母の喜瀬が余計な心配をさせまいと、美喜の妊娠について、喜瀬には知らせずにおいた。１９２２年１２月、美喜と廉三は、両家族に見送られて、横浜港から出帆した。美喜は甲板から、桟橋で手を振り続ける喜瀬の姿が、次第に米粒ほど小さくなっていくのを、いつまでも見つめていた（美喜にとっては、結局それが祖母との最後の別れとなった。翌年、喜瀬が７８歳でこの世を去った）。美喜は航海中、喜瀬から餞別にもらった (梅干しを包み込んだ) 家伝の腹巻きをしていたお蔭で、ほとんど船酔いをしなかったと伝えられている。太平洋の荒波を渡って９日目に、カナダの西海岸バンクーバーに船がようやく到着した。真冬のカナダの深い積雪と、大空に向けて高くそびえるカナダ杉の森林は、美喜の脳裡に、雄大な北アメリカ大陸の強烈な第一印象を刻み込んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　澤田夫妻は、さらに汽車でアメリカ大陸を横断し、シアトル、シカゴ経由でニューヨークに到着した。ここでは岩崎家の友人たちから大歓迎を受けたが、不愉快な経験もした。それは、（米国の白人たちによる）東洋人移民たちに対する人種差別であった。日本住民の多くがニューヨーク市内のアパートから締め出され、ある特定の区域にしか住めなかった。当時のアメリカ国内には、中国人や日本人移民に対する偏見感情が蔓延し、それは結局１９２４年に、「排日移民法」の制定というきわめて露骨な形で具体化し、日本からの移民を完全に禁止し始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ニューヨークから、また船旅を続けて、夫妻は美しいブエノス・アイレスの町に到着した。夫妻は、ここで２年間滞在することになる。公使が日本へ帰国中は、廉三が公使代理を務める栄誉を受けた。当時のアルゼンチン大統領は、マルセロ・デ・アルヴェアは、裕福な地主出身の魅力的な自由主義の政治家であった。彼の妻はウイーン出身のオペラ歌手であった。そのために彼女は当初、アルゼンチンの女性社交界から歓迎されなかったので、職業としてのオペラ歌手をとうとう断念せざるを得なかった。その結果、アルヴェア政府は、ごく安定した平穏な６年間を楽しむことができた。澤田夫妻は大統領官邸の近くに住まいを見つけた。そして、劇場が好きな美喜は、この大統領夫人と大変親しくなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９２３年７月８日、澤田家に長男の信一が誕生した。病院に入院中、美喜は母からの忠告を思い出した。「地元の住民たちの言葉を、できるだけマスターしなさい」。そこで、彼女は、病院内で交わされる会話を耳学問でピックアップしながら、&lt;br /&gt;スペイン語を憶え始めた。しかしながら、これら医学関係の術語は、社交界では余り役に立たなかった。そこで、美喜は退院後すぐ、スペイン語の会話のレッスンを受けるようになった。しかし、廉三は「スペイン語など勉強すると、肝心なフランス語が駄目になるから、お断りだ」といって、レッスンには参加しようとしなかった。外交官の間では戦前、フランス語が公用語になっていたからだ。こうして、日常、家事や買物などの会話には、美喜がいつも通訳を務めた。あるとき、美喜は女中を解雇せねばならなかった。美喜は辞書を片手に、その仕事を見事にやってのけた。その間、廉三といえば、トイレの中でただ小さくなっていただけだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アルゼンチンにおける彼らの２年間は、あっという間に過ぎてしまった。美喜は積極的に地元の社交界に参加し、馬術、ゴルフ、テニスなどを楽しんだり、タンゴを教わったりした。美喜が再び妊娠した頃、廉三が北京勤務を命ぜられた。やがて夫妻は船に乗り、ヨーロッパ経由で、まず日本に帰国し、美喜は１９２４年８月２５日に次男の久雄を産んだ。廉三はそのまま北京に単身赴任し、美喜は後で中国に渡った。しかし、１９２０年代の中国は、内戦で騒然としていた。清王朝が１９１２年の辛亥革命で滅亡したのち、いわゆる「三民主義」（民族主義・民権主義・民生主義）を唱える孫文（１８６６～１９２５）が率いる中華民国が成立したが、国民党による新しい政府は、残念ながら中国大陸全体を平和に統一することができなかった。国民党と共産党とさらに地方を牛耳る軍閥との間で繰り返し戦闘が各地で勃発し続けた。それに乗じて、日本政府が中国大陸に手を伸ばし、まず満州に傀儡政権を成立させた。澤田夫妻の三男である「あきら」が北京で生まれたのは、１９２５年９月、内戦の最中であった。孫文が同年に死亡してまもなく、共産党と真っ向から敵対する蒋介石が国民党政府の権力を握ると、内戦はさらに激しくなった。１９２７年の春に「南京事件」という戦闘が勃発して、当時、南京に住んでいたパール・バック女史（戦後、美喜の親友の一人になる米国人宣教師の娘）が、とうとう戦渦を逃れて家族とともに日本海を渡り、九州の雲仙山麓に半年ほど疎開生活せざるをえなくなったのは、このころであった（詳しくは、第４章を参照）。廉三が再び外務省勤務のため、日本に帰国したころ（１９２８年４月）、澤田夫妻に末っ子、長女の「えみこ」が誕生した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;黒い肌に白い心&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９３１年に満州事変がついに勃発、廉三の先輩である重光　葵（１８８７～１９５７）が中国駐在大使として、大陸に赴任したころ、片や後輩の廉三は英国のロンドン駐在を命ぜられた。美喜にとっては、再び憧れの海外生活を楽しめるチャンスが到来したわけである。しかし、今回の場合は、英国滞在中に、彼女の後半生を大きく左右するような、ユニークな体験が美喜を待ち構えていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　神戸からの船旅中に親しくなったある英国婦人の紹介で、美喜はロンドンに到着してから３日後に、彼女の４人の子供たちに英語やしつけを教える家庭教師を迎えた。彼女の名は、ドロシー・ラルフ嬢。以後１０年近く、忌まわしい太平洋戦争が始まるまで、ドロシーは澤田家の親しい友人として、どこへでも一緒にお供するようになった。美喜はロンドン社交界で、様々な文化活動、特に絵画と演劇に多くの時間を過ごした。まずセント・ジョン美術アカデミーに入学し、油絵を習い始めた。&lt;br /&gt;さらに有名な女優エレン・テリーの姪にあたるマニュエル・テリーが指導する演劇クラスで授業を受けるようになった。大劇作家シェークスピアの作品に関する一連の講義を聞いたのち、彼女は彼の名作の一つである演劇『マクベス』に出演して、ヒロインであるマクベス夫人（悲劇のヒーローである黒人将軍マクベスの妻）役を演じ、衣装や舞台装置なども自らデザインした。また、サーヴォイ・オペラ劇場の慈善ショウーと一つである、詩人の駒井権之助が企画した『天の岩戸』にも出演した。日本古代の天皇家の祖先といわれている伝説的な天照大御神という女神の物語である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　英国という国柄、英国の人々、そして彼らの生き方は、美喜に多大な影響を与えた。毎日曜日、ドロシーは澤田家の４人の子供たちを、英国国教会の礼拝に連れていった。ところが、メソジスト派のクリスチャンである美喜は、別の教会へ、そして、廉三はゴルフにでかけた。ある日のことだった。美喜は、ガソリン代がかさむのに苦慮して、何か節約できる名案はないかと、おかかえの車の運転手に相談した。&lt;br /&gt;「奥さん、この世に神様はたった一人しかいません。そして、その名が誰であろうと、同じ聖書を使って説教をします。だから、お子さんたちと一緒に教会に行ったらどうでしょう？」&lt;br /&gt;なるほど一理ある、と思った美喜は、彼の素朴な忠告に従った。後年親しくなったカンタベリーの大司教に、美喜は冗談混じりにこう打ち明けたことがある。&lt;br /&gt;「私がメソジスト派から国教派に改宗した最大の理由は、お恥しい話ですが、実はガソリン代の節約のためだったのですよ」&lt;br /&gt;ある日曜の朝、礼拝のあと、教会の牧師が美喜にある女性の信者を紹介してくれた。&lt;br /&gt;その女性は、美喜にドライブを誘ってきた。&lt;br /&gt;「ご主人が例によってゴルフ気違いだから、あなたは、哀れなゴルフ未亡人ですね。私と一緒にドライブしながら、英国の自然の美しさを満喫しませんか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その婦人は、粗末な服装をしていたが、その自家用車は、なんと大型の黒塗りのダイムラー。そして、正装の運転手以外に給仕まで随えていた。車は、ロンドン郊外のカエデの並木道を３時間ほど走り続け、木々が生い茂った中世時代の城や白鳥たちがスイスイ泳ぐ湖の脇を通り過ぎて、よっと目的地に着いた。石造りの門の向うに、大きな建物と多くの小さな小屋が見えた。婦人は美喜に、「これは孤児院です」と告げた。美喜には信じられなかった。「孤児院」という言葉が連想させる、あの暗い希望のないイメージは、目の前の建物にはなかった。美喜には、それは「希望の家」であり、「喜びの庭園」のごとく見えた。子供たちは皆陽気で幸福そうだった。そして、清潔できちっとした服装をしていた。美喜は、しばし自分の目を疑った。チャールズ・ディッケンズの小説によく登場する典型的なあの汚く惨めな孤児たち、オリバーやデビッド・カッパーフィールドは、どこにも見当たらなかった。キャンパスのど真ん中に礼拝堂があった。そこから歌声が流れてくるのを、美喜は聞いた。それは、バーナルド博士のホーム（子供福祉センター網）の一つであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　創始者ジョン・バーナルド（１８４５～１９０５）は、ダブリン生まれ。父親はスペイン系の毛皮商人、母は英国女性であった。１８６２年にプロテンスタント（新教）の復興運動が盛んになり、彼は１７歳で、カトリックから新教に改宗して牧師になった。４年後に、ジョンはロンドンに移り、ロンドン病院で伝道医師の訓練を受け、中国大陸に渡るつもりでいた。ところが、彼がまだ医学部の学生のころ、授業料免除の貧民学校で、ボランチアとして教鞭をとるという体験を得た。その学校はロンドンのホームレス少年たちの教育のために設立されたものであった。前年に市内中を襲ったコレラ伝染のため、ロンドンの街に多数の孤児たちが溢れ出た。若いバーナルドは、身寄りのない浮浪児たちが屋上や路地で寝起きをしているのをみて、ただ亜然とした。彼は辻伝道を通じて、この悲惨な状況を市民たちに訴えたところ、たちまち彼のもとに、寄付金や援助の手が差し伸べられた。２、３年後には、ステパニー・コーズウエイに浮浪少年たちのための最初の施設を設立し、まもなくバーキングサイドに浮浪少女のための施設も付設した。彼の社会福祉活動は、やがてシャフテスバリー伯爵や多くの著名人たちの注目を集める結果となり、彼らの援助により、最終的にはロンドン市内に１１２ヶ所ものホームを確立した。１８９９年には、これらのホームは「貧民や宿なし児童の矯正協会」の傘下に入れられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　教育者としてまた児童心理学者として、バーナルド博士は児童社会学の分野で多大の貢献をなした。２歳以下の幼児は施設ではうまく育たないことに気づき、これらの幼児たちを注意深く選択した里親のもとにやった。博士は、さらに障害を持つ子供と正常な子供を区別せず一緒に養育、教育することを実践した。なぜならば、そうすることによって、障害の有無にかかわらず両者とも、将来立派な社会人として成長していくという最大の恩恵を受けることになるからであるという強い信念を、彼が抱いていたからである。また彼は、両親により子供が虐待されるケースを議会の上院で訴え、未成年者の基本的人権を守る法の制定のためにも、中心的な役割を果たした。そのおかげで、最初の児童保護法案が英国議会を通過した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　バーナルド博士は死後、バーキングサイドにあるホームの教会に埋葬された。福音的使命を抱き、ダイナミックなパーソナリテイをもち、行政的手腕を備えた、この人物は、英国の６万人ものホームレス児童の救済と教育を果たした。彼らのほとんど大部分は、善良かつ自身にプライドを持つ市民に成長した。「スラム街の子供でも、小さいうちにその惨めな環境から救ってやり、かつ十分に長期にわたって教育や訓練を施せば、親からの遺伝素質は最小限度に留まり、環境がほとんど全てを決定する」という博士の自論の正しさを、彼らひとりひとりが身をもって実証している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜が、小学生、中学生、高校生、職業教育などのクラスの授業を参観したのち、ホームの校長は彼女にこう語った。&lt;br /&gt;「人々から一旦見放された子供を、社会全体が欲するような人間に育て上げるということは、実にすばらしい（そして大変に骨の折れる）仕事です。魔法使いだけができるトリックでしょう」&lt;br /&gt;深く感銘した美喜は、週に一度そのホームでボランチアを務める決心をした。そして、その仕事にとても満足感を味わった。彼女はその経験談をこう記している。&lt;br /&gt;「私は今までずっと、他人から与えられる幸福感によって生きてきた。しかし、たった今、私は、他人から常にもらうよりも、自分が何かを他人に与えることによって得る幸福感のほうが、ずっとすばらしいことに気づいた」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ロンドンでの滞在は３年足らずで終り、澤田家は、廉三の勤務先がパリに移るに伴い、ドーバー海峡を渡って、フランスに引っ越した。美喜は、日本使節代表代理としての夫の職務に必要な全ての社交活動をこなした。そして、女性用の香水で富を築いたコチー家やダイナマイトと戦争で富を築いたノーベル家との懇意を楽しんだ。彼らの豪邸はすばらしかったし、彼らの暮らしぶりは華麗であったが、美喜は時々、彼らは本当に幸せなのだろうか、という疑問を感じた。&lt;br /&gt;「彼らの豊かな知性、文化活動、社会における著名度を、私は称讃しますが、しかし、両家とも、あまりにも巨大な財産を肩に担っているために、心の平和を欠いているように、私には思えます。というのは、彼らは始終、いかにしてその富を維持あるいは増やそうかと思案してばかりいるようにみえるからです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜はパリで再び絵の勉強を始めた。今度は、美術界に一大革命をもたらした印象派の画家マリー・ローレンチン（１８８５～１９５６）の指導を受けた。マリーは、若い美しい女性たちをピンクと白の組み合わせで描くことによって、彼女独特の装飾的な女性らしい画風を創り出した。シャン・デマーにある彼女のアパートを訪れると、彼女の変人ぶりの一端を見ることができる。彼女の書斎にある本は、自分の好きな色のパステル・カバーで分類されている。例えば、歴史書は淡いブルー、人類学ものはピンク、伝記書はグレー、総説ものはレモンの黄色、旅行書はラベンダー。マリーは風変わりな教師だったが、美喜は油絵に上達し、サロン・デュ・ツアレリーやサロン・ダトンなどの展覧会に自分の作品を出品した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;ジョセフィン・ベーカー&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　パリで見つけた友人たちの中で、美喜に最も多大な影響を与えた人物は、アメリカ生まれの黒人芸人ジョセフィン・ベーカー（１９０６～１９７５）であった。 ジョセフィンは、セントルイスで、スペイン人の父親と黒人の母親の間に生まれた。&lt;br /&gt;１３歳で初舞台に立った。１９２２年にブロードウエイのショー『シャフル・アロング』にデビュー、１９２４年には『チョコレート・ダンディー』でスターになった。１９２５年にはパリに移り、シャンゼリゼー劇場のステージで、『レビュー・ニグロ』（レビューとは、時事風刺のコメディー）に出演、一大センセーションを巻き起こし、パリ中の観衆から喝采を浴びた。雑誌「ニューヨーカー」のパリ特派員ジャネット・フラナーは、初日の夜の公演をこう批評している。&lt;br /&gt;「ベーカー嬢は、いきなり舞台にほとんどヌード（股間にピンク色のフラミンゴの羽根を付けただけ）で登場した。彼女は黒人の大男の肩の上で逆立ちになり、股を広げて、いわゆる「バナナ・スプリット」を演じた。彼は舞台の中央にきて静止し、&lt;br /&gt;長い指で彼女の腰をバスケット型に包み、彼女の体を左右にスイングしながら、彼の堪えがたき重荷のごとく、舞台の床の上に投げ捨てた。その瞬間、彼女は音もなくすっくと床に直立した。彼女は一躍、忘れがたき黒檀作りの女性シンボルとなった。満場の観衆が熱狂的な拍手喝采を送った。こうして、全ヨーロッパの快楽主義の首都であるパリで、黒人の美しさが、特に白人男性観衆の間で、実証された」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ジョセフィンの魅力は、そのキャラメル色の肉体、美しい歌声、すばらしい舞台演技だけに留まらなかった。彼女は劇場の誰とも親しくなり、さらに全ての労働者の家族に奉仕し、病人たちや悩める人々を花束、ケーキ、お菓子などのプレゼントで見舞った。彼女はしばしば夜遅く、オープンカーでスラム街を訪れ、子供たちにキャンディーを配って回った。美喜は、ジョセフィンと同行して、パリの貧しい人々がジョセフィン嬢に対して感じている深い愛情をみてとった。ある日のこと、２人は、ある貧困に苦しんでいる家庭を訪れた。４人の子供がその祖父と祖母によって養われていた。ジョセフィンは、５カラットのダイヤモンドの指輪を自分の指からはずし、その祖母に与えながら、こう言った。&lt;br /&gt;「お婆さん、これで、あなたの子供たちのために食べ物を買ってやりなさい。そして、皆が学校をに通学できるようにしてやって下さい」&lt;br /&gt;ジョセフィンはさらに、数名の日本の貧乏学生たちのためにマルセイユから日本までの船の切符を買ってあげたり、日本から留学中のある芸術志願の女子学生の世話をしたりした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　パリの楽しい１５ヵ月は瞬く間に過ぎていった。そして、１９３４年に廉三がニューヨークの領事に命ぜられたため、夫妻は船でアメリカに向かった。ちまみに当時（１９３３～１９３６）日本で外務次官を務めていたのは、中国駐在大使を終えて帰国した重光　葵であった。今日でも戦前でも同様であるが、外務大臣や次官、あるいは各国の駐在大使たちの実務は、政府の閣僚や仲間の外交官たちとの快適な付き合いが主で、一般の人々との泥臭い接触、例えば旅券やビザの発行などの雑用は、ほとんど全て領事に任せられている。従って、領事である廉三は、ニューヨークの日本人社会 (村) のいわば「村長役」を務めることになった。そのおかげで、ニューヨークに移ってから初めて、美喜は、日本では今まであまり付き合ったことのない普通一般の日本人たちと、しばしば交渉をもつようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　やがて、美喜の親友ジョセフィンが、ニューヨークのジークフェルト・フォリー（喜劇団）と公演契約を結び、美喜と再会するチャンスができた。ジョセフィンはエア・フランスに乗り込み、その処女飛行を他の多くの著名人たちと共に楽しんだ。しかしながら、ジョセフィンを飛行場に出迎えにきたのは、美喜とジークフェルトの秘書だけだった。そして、その白人秘書はそそくさと挨拶をしたのち、すぐ姿を消してしまった。そこで、美喜が自分の車で、彼女をホテルまで案内しようとした。しかし、車の運転手は、その計画にいい顔をしなかった。美喜は躊躇する彼を無視しながら、有名なホテルの１つへドライブするよう命じた (実際には、１１軒ものホテルを延々探し回る結果になった）。ところが、どこのホテルへ行っても、ジョセフィンの宿泊をキッパリ断わってきた。&lt;br /&gt;「うちのホテルは、目下全室とも満員でございます」&lt;br /&gt;「大変恐縮ですが、全ての部屋が予約済みになっております」&lt;br /&gt;「開室はございません」&lt;br /&gt;辺りは既に真っ暗になっていた。「ヨーロッパの花」ジョセフィンは、しょんぼりして、目にいっぱい涙を浮かべて、車の後席にうずくまってしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜は運転手に、夕食のため澤田家のアパートにドライブしてくれ、と頼んだ。 そして、アパートの管理人に来客のあることを告げた。ところが管理人の男は、ひどく困ったような顔をしてこう言った。&lt;br /&gt;「領事の公邸は治外法権なので、私どもはあなた様に、どうしろなどと指図する権利など全くございません。しかしながら、黒人が一人、同じ建物に泊まっていることが、他の白人住民たちに知れわたると、この建物はあっという間に空き家同然になってしまいます」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;美喜は、絵をかくために自分が借りているアトリエのことを思い出して、ジョセフィンをそのアトリエまで連れていった。そこのマネジャーは、色々うるさい条件をつけた上で、とうとうジョセフィンの宿泊を渋々承諾した。&lt;br /&gt;「オーケー、お客さんの宿泊を認めましょう。しかし、表向きには、お客さんは奥さんの絵のモデルということにして下さい。そして念を押しますが、必ず裏木戸から出入りして下さい。それから、エレベーターは (住民用ではなく) 荷物運搬用のを使って下さい。それからもう１つ、住民に姿を見られぬように、朝はできるだけ早く、夜はできるだけ遅く出入りすることをお勧めします」&lt;br /&gt;美喜は、ジョセフィンを隙間かぜが吹く屋根裏部屋（アトリエ）へ案内した。そして、苦悶した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ヨーロッパで大成功したアメリカ生まれの女性スターを、故国のアメリカ人は、どうして歓迎しないのだろうか？」&lt;br /&gt;　ジークフェルト・フォリーの出演者たちがリハーサルを始めると、ジョセフィンは毎日猛げいこを開始し、足から血がにじみ出るまでダンスを続けた。他の白人出演者たちは、彼女を冷たく扱ったが、ジョセフィンは彼らの冷遇や横柄さを無視し、&lt;br /&gt;さらに短気な美喜に沈黙を守るようになだめすかした。ある日、ジョセフィンは、出演者の女性の一人が、仲間にヒソヒソ話をしているのを耳にした。&lt;br /&gt;「全員マスクをしてダンスすべきね。そうすれば、我々が黒人ダンサーと踊っているのが、ボーイフレンドにはわからないから」&lt;br /&gt;穏和なジョセフィンも、これにはカッとなって、その女性に向かってこう怒鳴った。&lt;br /&gt;「あんたがマスクをしたいのは、自分の下手なダンスを隠すためでしょう」&lt;br /&gt;リハーサルに出席していた美喜も、ジョセフィンの助っ人に駆けつけようとしたが、ジョセフィンは、黙っているようにと美喜を制した。穏やかならぬ休戦状態を保ちながら、リハーサルは続行された。ところが、ジョセフィンとの最終場面がきたとたん、その女性グループは、舞台に登場するのを拒否した。スター（ジョセフィン）は独り、舞台の中央に進み出て、こう叫んだ。&lt;br /&gt;「あなた方の皮膚は白いが、心は真っ黒です。私の肌は黒いが、心は純白です！」&lt;br /&gt;彼女は舞台を降りた。そして、廊下を意気ようようと闊歩するジョセフィンの姿を眺めながら、美喜はこのスターの劇的な退場を、まさに歌舞伎役者による花道の演技に価すると思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ジョセフィンは結局、 ジークフェルトとの契約を破棄して、フランスに帰国してしまった。そして、フランス人に帰化して、パリに家族と共に永住を決めた。ジョセフィンは、その後３０年近く、米国の土を踏まなかった。第二次世界大戦中には、フランスの赤十字にボランチアとして奉仕し、１９４０年にフランスがとうとうナチス・ドイツによって占領されると、ジョセフィンは、フランスのレジスタンス運動に参加し、（新しい）自分の祖国の解放のため積極的に活動し始めた。彼女は自分のスターとしての地位をうまく利用して、フランスのためにスパイ活動の一端を担った。あるとき、フランスからポルトガルに軍事的機密を運ぶ必要があり、彼女は公演に使う楽譜の上にあぶり出しのインクで書かれた情報を運び出したというスリリングなエピソードも残っている。戦後まもなく１９４６年には、連合軍ヨーロッパ総司令官のアイゼンハワー元帥（１９５３年には、米国大統領に就任）から彼女に「レジスタン・メダル」が与えられた。さらに１９６１年には、彼女の戦争中の功績と戦後の慈善事業を讃えて、ドゴール大統領からジョセフィンに、フランス最高の勲章「レジオン・ドヌール賞」を授与された。１９６３年に黒人の基本的人権を訴えるため、キング牧師が組織した「ワシントン大行進」に参加するため、彼女もついに米国の土を再び踏むことになる。美喜は、同じ年に出版した自伝のタイトルとして、ジョセフィンのあの名セリフ『黒い肌、白い心』を選ぶことにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;暗黒時代&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９３６年に欧米から５年ぶりに（実質的には、１９２２年以来１４年ぶりに）澤田家は日本に帰国してみて、いわゆる「カルチャー・ショック」を受けた。まず欧米の学校教育を受けてきた子供たちは、日本の学校制度に慣れる必要があった。澤田夫妻の友人や親戚たちは年をとり、かつすっかり物の考え方が変わってしまっていた。夫妻が海外に初めてでかけた１９２０年代前半には、いわゆる「大正デモクラシー」のおかげで、民主主義的思想がポピュラーであり、議会政治が時代の潮流をなし、そして人々は海外の文化に対して開放的であった。ところが、夫妻が海外にいっている間に、民主的理想主義は一連の政治的スキャンダルや経済的不況のおかげで、すっかり影をひそめてしまった。世界的大恐慌のために、１９２９年から１９３１年の間に、日本の輸出は５０％に減少してしまった。失業者の数は３００万人に達し、農村地帯では１９３１年の農作物の不作のために、大打撃を受けた。中国における国民党政府の勢力拡大は、日本企業の中国大陸における投資を 危うくした。混迷する議会政治に愛想をつかした日本の大衆は、ヨーロッパ大陸、特にドイツやイタリアに台頭しつつあるファッシズムに注目し始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして満州地方に勢力を拡大しつつあった日本の関東軍が、とうとう１９３１年に、清朝の最後の皇帝を傀儡政権の長とする満州国を無理矢理に擁立した。当時の日本の軍隊は、天皇の直接統率下にあり、議会によるコントロールを受けていなかった。従って、ひ弱になった政党政権に代わって軍事政権が容易に誕生する温床を備えていた。１９３６年の若手将校による軍事クーデター（２・２６事件）に始まる一連の軍隊によるトップ政治家の暗殺は、ついに軍事政権の擁立を導びいた。&lt;br /&gt;１９３７年の秋、関東軍は中国の首都南京を占領し、いわゆる「南京の大虐殺」が行われた。１９４１年１２月８日、日本海軍は、ハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地を奇襲し、ここに日米は戦争状態に突入した。戦争中、美喜は暮らした。廉三は１９３９年にパリ駐在大使に任命されたが、ヨーロッパは既に戦争状態（第二次世界大戦）に突入し、家族の安全が保証されないため、彼は単身赴任した。その後、海外でいくつかの任務をこなしたのち、１９４３年にビルマ駐在大使を命ぜられた。それは廉三にとっては最も苦痛な任務だった。先輩の重光　葵からそのポストを命ぜられたとき、廉三は当初それを断わった。ところが、先輩が再三拝み頼んできたので、とうとう断わりきれなかった。重光　葵曰く。&lt;br /&gt;「ぜひ、日本軍とビルマ住民との間の架け橋になってくれ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;廉三はそんなことは不可能だと思っていたが、結局その任務を渋々引き受けた。この年、日本軍占領下のフィリピンが独立を宣言、さらに自由インド仮政府も（シンガポールで）独立を宣言した。当時の日本軍事政権の首相東条英機 (１８８４～１９４８）は、１９４３年１１月に、東京で「大東共栄圏会議」を開催し、中国（南京政府）、満州国、タイ、自由インド、ビルマ、フィリピンにおける日本の傀儡政権の首脳を招いた。美喜は、インド代表のチャンドラ・ボース（１８９７～１９４５）の接待を頼まれたそうだ。彼はインド独立運動の急進左派の指導者で、インド国民会議派の前議長であった。しかし、マハトム・ガンジー（１８６９～１９４８）などの率いる非暴力闘争、英国軍支持派とたもとを分かち、日本軍の支持の下に、インドの英国からの独立を勝ちえようとしていた。彼はインドの庶民たちから親しまれ、彼の話は人々の心を深く感動させた。彼が日本の潜水艦で来日したとき、彼は天皇からの勲章を受けとろうとしなかった。&lt;br /&gt;「戦争が終わるまで、どうぞ待って下さい。終戦後、インドが独立したときに、同胞全体と一緒にそれを分かち合いたいものです」&lt;br /&gt;不幸にして、彼には祖国の独立を自分の目でみるチャンスはとうとう到来しなかった。終戦直後（８月１８日）台北飛行場で、飛行機事故のため死亡したからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９４４年の春、美喜の母が心臓麻痺でとうとう他界した。それからまもなく、美喜の３人の息子が海軍に入隊した。長男は将校、次男は士官候補生、三男は１８歳で特攻隊員になった。東京上空には米軍のＢ２９爆撃機が頻繁に飛びかい始め、空襲警報が鳴る度に、美喜と父親は防空壕の中に避難しながら、眠れぬ長い夜中を過ごすようになった。空襲も孫たちの徴兵を知らずに死んだ母はかえって幸せだったと、２人は話合った。その後、大磯にある岩崎家の別邸が日本軍に接収されるにおよび、美喜と娘のえみこは、澤田家の実家である鳥取に疎開を命ぜられた。しかし、一家の長である父の久弥は、頑として東京を離れようとはしなかった。彼曰く。&lt;br /&gt;「岩崎家の人間が一人残ず東京を離れるまで、わしはここに残る。一家の面倒を看るのが、一家の長としてのわしの務めじゃ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９４５年１月１２日、美喜の三男ステファン・アキラ・澤田（１９歳）は、インドシナ沖で日本の巡洋艦「樫」と共に海底に沈んだ。生還者は一人もなかった。息子戦死の悲報を聞いたとき、美喜は、世界中の何千もの母親が同様、このような悲しみを耐え忍んでいることを思んぱかった。毎日のように、多くの若者たちが海軍や陸軍に徴兵されていくのを眺めながら、美喜は、この戦争で日本が勝利するチャンスは皆無だと思った。「車椅子」で米国の大統領を４期務めたフランクリン・ルーズベルトは、不幸にして同年４月に脳溢血で急死。副大統領であったハリー・トルーマンが、まさに「棚ボタ」的に、新しい大統領に昇進した。そして、野心家トルーマンの命令により、８月６日に広島、３日後に長崎に「最後のとどめ」を刺すかのごとく、２発の原子爆弾が投下された。両市とも一瞬のうちに、廃墟と化した。さらに追い打ちをかけるように、米ソ間のヤルタ・ポツダム会談の密約に基づき、すかさずスターリン支配下のソ連も日本に対して宣戦を布告。（関東軍が一番恐れていた）ソ連軍がシベリアの国境を越えて、満州に怒涛のごとく進駐し始めた。ついに観念した日本軍事政府は、８月１５日にポツダム宣言を呑んで無条件降伏を受諾した。まもなく連合軍極東最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥 （１８８０～１９６４）が、アメリカ軍を中心とする占領軍を指揮するために意気ようようと、日本に無血上陸する。まず東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズリー号上で、日米首脳の間で終戦協定が調印された。このとき、皮肉にも日本の無条件降伏書にサインした首脳の一人が、１９４３年から外相を務めていた重光　葵であった。そして、翌年５月に開始された東京国際軍事裁判の判決に従い、戦犯の一人として、巣鴨の刑務所に留置される運命をたどる（７年の刑期を言い渡されたが、実際には４年半後の１９５０年１１月に仮釈放され、１９５４年１２月には吉田茂内閣の外相に返り咲く）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;戦後の民主主義ラッシュ&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　米軍による日本本土の占領は、１９５２年にサンフランシスコで日米間に講和条約が正式に結ばれるまで約７年間続く。この間にマッカーサーは、矢つぎ早やに日本の社会構造を改革する政策を施行した。まず旧日本軍隊を粉々に解体した。東京裁判あるいは海外 (南京、満州、マニラなど) での公判の後、東条英機を始めとする軍隊の首謀者および太平洋戦争拡大へ重大な責任を果した政治家（Ａ級戦犯) を十数名、処刑した。ただし、昭和天皇は処刑を免れるどころか、（政治的権力はもはやないが）日本の「象徴」として、マッカーサーの占領政策 (日本に「反共の砦」をつくる政策) に、積極的に協力した。その是非論はともかく、命拾いした戦後の（天皇を含めた）日本政府の首脳陣（リーダー）は、事実上アメリカの傀儡政権を形成した。その根本的な原因は、終戦時に、日本大衆自身の手で、日本の旧軍事政権を打倒することができなかったからである。占領軍に多大な借りがあるから、米軍（米国政府）のいいなり放題になってしまったのだ。その後遺症は、半世紀以上経った２１世紀の自民党政府の対米政策・沖縄政策に、いまだにありありと残っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　マッカーサーの占領政策の第二弾は、戦争中の日本軍需産業の担い手であった旧財閥の解体であった。前述したが、美喜の叔父（岩崎小弥太）が采配を握る三菱財閥が真っ先にその槍玉にあげられた。皮肉にも、この財閥解体は事実上マッカーサーの統制下にある幣原内閣 (幣原喜寿郎男爵は岩崎家の親戚) の手によって行なわれた。他の財閥、三井、安田、住友も同じような運命をたどった。第三弾は、土地改革だった。封建的大地主の手から、私有地が民間に解放された。次に、明治憲法に代わるべき新しい日本憲法の草稿がマッカーサー配下のＧＨＱの手によって行なわれた。新しい民主憲法が俗に「マッカーサー憲法」と呼ばれのは、その由縁である。この憲法によって、まず天皇から軍事的および政治的権力が一切剥奪され、（第１条から８条に基づいて）日本の「象徴」といういわば儀礼的な役割が天皇家に与えられた。もちろん第９条により、日本は（国際紛争を解決する手段として）「戦争」（つまり軍事力の行使）を永久に放棄することが義務ずけられた。さらに、第１４条により、男女同権がハッキリ認められ、成人した全ての日本女性たちの手に参政権が初めて与えられた。戦前、強く抑圧されていたされていた思想の自由、結婚の自由、職業選択の自由も日本国民全体に保証された。しかし皮肉にも、あっという間に押し寄せてきた予期せぬ「民主主義の大波」に、多くの保守的な日本の大衆は、戸惑いを感じた。御上（つまりＧＨＱ）から天降りしてきた民主主義 (自由・平等の精神) が実際に、日本の市民ひとりひとりの頭の中で、自分のものとして成熟を遂げるためには、その後半世紀以上の歳月を要することになる。古い諺 (ギリシャ時代の『イソップ童話』) を借用すれば、「喉の渇いていないロバを湖畔に連れてくることはできても、無理矢理に水を飲ますことはできない」からだ。敗戦直後に日本人の大部分が最も飢えていたものは、(直接には栄養にならない) 民主主義という思想よりは、むしろ (当時乏しかった) 食料や衣料の方であったようだ。マッカーサーの有名な言葉の１つに、「日本人は１２歳の子供のようだ」という表現がある。米軍のＧＩがチューインガムやチョコレートを振り撒けば、犬のように尻尾をふりふりあとについてくる当時の日本社会の風潮を、うまく皮肉っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;混血児たちの母&lt;/b&gt;　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　敗戦から約９ヵ月目の１９４６年６月８日の朝、美喜はその日のラジオのニュースに耳を傾けていた。アナウンサーがこう報道した。&lt;br /&gt;「今朝、ある日本女性とアメリカ人の夫婦に赤ちゃんが生れました。とうとう日米間に最初の握手が交わされたわけです。この赤ちゃんの誕生は、太平洋の両岸を結ぶ愛のシンボルといえるでしょう」　&lt;br /&gt;ところがまもなく、そのアナウンサーは解雇された。この赤ん坊が象徴すべき日米間の和解感情は、当時の日本人全体の世論には、まだマッチしていなかったからである。そのニュースを聞いたとたん、美喜の心の底に、それまで深く埋蔵されていたある感情がふいに沸き上がったきたという。&lt;br /&gt;「それはちょうど、１５年昔、英国のバーナルド博士のホームの裏にある森を歩いていたときに、木立ちの間からもれてきたあの輝きのようなものでした。その美しい反射光線は、私の心にある灯を点火しました。私の一生の仕事は、まさにそこにあるんだ、という強い印象を受けました」&lt;br /&gt;２、３週間後に各新聞に醜いニュースが続々掲載された。くげ沼の近郊の川に髪のちじれた黒人の赤ん坊の死体が浮かんでいた、という報告がまず最初だ。次に道端に青い目を半分開けた白人の赤ん坊の死体も発見された。横浜のある水路からも赤ん坊の死体が見つかった等々。美喜はそれらの記事に唖然となった。&lt;br /&gt;「誰がそんなむごいことをするのでしょう？　赤ん坊を生きたまま、あるいは絞め殺して、道端や川に塵のように捨てるとは。こんな体験をしながら、私は、これらの混血児たちのために、働くことが神から与えられた私の使命だと感じるようになりました」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　４ヵ月後、岐阜県内を走る汽車の座席に座っていると、頭上の網棚から紫色の風呂敷に包んだ何か細長い物が、美喜の膝の上に突然落ちてきた。荷物を元に戻そうと、立ち上がったとき、２人の警官がふいに車内に入ってきて、彼女を制止した。彼らは闇米など、闇に売買されている物品の検査をしていたところだった。美喜に風呂敷を開けるように命じた。風呂敷をほどくと、何枚かの新聞紙に包まれて黒人の赤ん坊の死体が現れた。ぎょっとした美喜は警官や周りの乗客たちに説明を試みた。&lt;br /&gt;「これは私の持物ではありません！　網棚から落ちてきたんです。それで、棚に荷物を戻そうとしていたところなんです」&lt;br /&gt;警官の一人が美喜の読んでいた本を取り上げ、こういった。&lt;br /&gt;「英語の本ですね。外国語がしゃべれるのなら、外人のボーイフレンドがいるにちがいない」&lt;br /&gt;（美喜は敗戦後しばらく、生計を立てるために、英語やフランス語の教師をしていた）&lt;br /&gt;「この荷物は私のではありません！　誰が私の前にこの座席に座っていたか、憶えていませんか？　誰がこの荷物を棚にあげたのですか？」&lt;br /&gt;返事はなかった。乗客たちは、おそるおそる顔をそむけた。そこで警官はいった。&lt;br /&gt;「あなたが荷物をもっていた。だから、次の駅で、我々に同行して下さい」&lt;br /&gt;美喜にとっては、もう我慢ができなかった。&lt;br /&gt;「車内で医者を即刻探して下さい！　医者がみれば、私がこの２、３日前に出産したかどうか一目了然です。今ここで脱衣しますから」&lt;br /&gt;美喜がさっさと、脱衣のしぐさを始めると、警官は途方にくれて、ぼんやり突っ立ったままだった。すると、隅に座っていた白髪混じりのある老人が、口を開いた。&lt;br /&gt;「ある若い女性が、しばらく前、その荷物をもって車内に入ってきたのを憶えています。その女性は、確か名古屋でおりましたよ」&lt;br /&gt;その証言のおかげで、やっと美喜は無罪放免になった。警官は、その忌まわしい荷物をもって、次の駅で下車した。しかしながら、その出来事は美喜の頭から容易に離れようとしなかった。最後に、彼女は、それが何を意味しようとしていたかを悟った。美喜は、神の厳かな声が聞えたような気がした。&lt;br /&gt;「たとえ一瞬でも、汝がその子の母となれば、日本中にいる彼のごとき境遇の多数の子供たちのために、汝が母親代りになるべし」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜は東京に戻ってから１０日間ほど、神に祈りを捧げ続け、自問自答した。バーナルド博士のホームを訪れて以来、美喜は子供たちの福祉のために、いつか何かをしようと長い間考えていた。ひょっとすると今、待ちに待ったその瞬間がとうとう到来したのではないかと彼女は思った。しかし、やるからには、中途半端なことはできない。孤児たちの世話が必要な限り最後までやり通すだけの勇気と決断が自分にあるかどうかを確認したかったのだ。美喜自身の３人の子供たちはすでに成人して、もう手がかからなかった。そして、廉三とは、別居を続けていた。長い戦争は、夫妻の結婚生活に大きな犠牲を払わせ、美喜は廉三との間に心なしか距離を感じるようになっていた。美喜は母として、そして妻としての役目をすでに果したと感じたので、廉三に会って、自分を今後自由にしてくれるように頼んだ。幸い、彼女の将来計画に関する相談は、想像したほど苦痛なものではなかった。廉三は、美喜に好きなようにしなさい、といった。恐らく彼は、石頭の妻が一旦何かを決心したら、それを止めるのはあまり賢明ではない、とすでに悟っていたのだろう。その上、彼は戦時中のビルマでの苦しい体験や自分の息子の戦死からまだ回復していなかった。美喜は次に父親に相談した。可哀想な赤ん坊たちの話を美喜から聞きながら、彼の目には涙が溢れていた。美喜は父親から賛同が得られることを確信していた。しかし、美喜はそれ以上のものを実は欲していた。美喜は大磯にある別荘地を孤児たちのホームに使いたかった。鉄道も幹線道路も丘の向う側にあり、理想的だった。広い敷地内には、保育園の建物、遊び場、庭園、学校、さらに職業訓練所などまで建てられる余裕があった。しかし、父親は美喜の話をさえぎった。&lt;br /&gt;「美喜、ちょっと待ちなさい！」&lt;br /&gt;「何なの、お父さん？」&lt;br /&gt;「通常なら、もちろん、喜んでお前に大磯の土地をあげたい。しかし、あの土地は、もうわしのものではないんだよ。実は、税金の一部として、政府に取り上げられてしまったのだよ」&lt;br /&gt;美喜は、この打撃にひるまず、戦闘を開始した。混血孤児たちのためのホームを大磯に建てると決心した美喜は、この別荘地を取り戻そうと図った。まず、占領軍当局から、この土地を孤児院用に使えるよう、許可をとった。その仕事は、有力な数名のアメリカ人の友人たちの協力で見事に成功した。しかし、まだ父親の税金の問題が未解決のままだった。その土地の時価は、当初２５０万円だった。それだけの額を募金で集められれば、ここを孤児院にすることができるわけだ。ところが、箱根不動産会社が、この土地を５００万円で買い取りたいといい出した。娯楽センターを始める計画があった。その会社は、地元の人々をこう説得した。&lt;br /&gt;「この土地が孤児院になったら、慈善事業だから無税になってしまうが、娯楽センターにすれば、地元に税金を払うことになるから、地元の財政が潤いますよ」&lt;br /&gt;結局、不動産会社は買収に失敗したが、おかげで時価が３５０万円に跳ね上がってしまった。一難去ってまた一難である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;美喜は土地を買い上げるのに必要な資金の半分を、日本人の友人やアメリカの教会関係の知人を訪ね歩いて、寄付金を依頼することによって集めた（彼女にとって、自ら「物乞い」をするのは、初めての体験であった）。残りは借金をした。次は、ビルディングの建設に必要な資金も集めなければならなかった。アメリカの占領軍関係の人々や米国内にある教会に寄付を依頼するため、数千にもおよぶ手紙を毎晩遅くまで書き続けた。美喜はある手紙に、日本に存在する混血児の実情を、こう訴えた。&lt;br /&gt;「ご存じのように、歴史は繰り返します。敗戦国では必ず、父なし児が孤児として路傍に迷うケースをしばしば目にします。実際、私自身も数度、ごみ捨て場や水路から混血児の捨て子が死体となって発見されるのを目撃しました。戦争孤児の場合は里親によって(特に自分の子を戦争で失った親たちによって) 養子として、比較的容易に引き受けられるチャンスがあります。しかし、これらの父親不明の混血児の場合は、その母親は自分自身の生活のために働かざるをえず、保育費用を払う余裕など全くない状態ですから、まず無視されます。もしお金があれば、彼らの命も救えるのです」&lt;br /&gt;「東京にある２ヶ所の保育園で、１０３人の赤ん坊が餓死するという恐ろしい事件が最近発生しました。都内の至る所で、混血児の捨て子がみられます。駅のプラットホーム、共同便所、人気のない路地の突き当たりなどに、夜中の寒さや肺炎で死にかかっています。青い目で金髪あるいは黒い肌でちじれ毛だからという理由だけで、どうしてこれらの無邪気な子供たちが皆、捨て子にされるのでしょう？ これらの孤児たちがいつか将来、世界をリードする最も優れたクリスチャンに成長するかもしれないのです。我々は今、彼らのホームを完成するために８００万円という大金が緊急に必要です。どうか、我々の保護下にある孤児たちを、有能な世界市民に育て上げるために、どうか皆様の寄付をお願いします」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;エリザベス・サンダース・ホーム&lt;/b&gt; 　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ある夜遅く、美喜の急ごしらえの保育園のベビー・ベッドの中に３人の赤ん坊を寝かしつけた。その赤ん坊たちは、１９４８年１月３１日に、正式に美喜の手に託された。いわばその日が、「エリザベス・サンダース・ホーム」の創立日にあたる。&lt;br /&gt;ホームの名称は、三井家で働いていた英国人の家庭教師サンダース女史にちなんで&lt;br /&gt;名付けられた。女史は戦争中、日本に留まっていたが、終戦後まもなく他界した。自分の看病をしてくれた友人のルイス・ブッシュに女史は、死ぬ直前にある遺言を残した。&lt;br /&gt;「ここに、私が一生かけて貯めたお金があります。これを全部あなたに預けますから、もし本当にお金に困っている人に出会ったら、これをどうぞ役立てて下さい」&lt;br /&gt;ブッシュ氏が美喜に遭遇したとき、彼は美喜のプロジェクトが、献身的なサンダース女史の願いにまさに適っていると確信した。こうして、そのお金が美喜の手に渡され、この女史を記念するホームが誕生したのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　このホームに最初に引き取られた孤児は、サミーという名の子だった。ある寒い冬の朝、皇居前広場にある銅像の足元で発見された。紺色の毛布に包まれたまま置き捨てられていた。脇に２本のまだ温かい哺乳びんが添えてあった。ある巡査がサミーを見つけて、最寄りの駐在所でしばらく預っていた。もう１人の幼児は、女の子で、渋谷の駅前で発見された。美喜は、聖ロカ病院の神父ピーター武田と湯元婦長と共に、その２人の孤児を引き取るために捨て子預かり所にでかけた。帰り際に医者が美喜に、そっとささやいた。&lt;br /&gt;「この男の赤ん坊は、恐らく一生歩けなくなるかもしれませんよ。足に全然力がない。小児麻痺にかかっている恐れがあります」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　サミーは薄茶の髪、青い目、白っぽい肌をしていた。愛敬のよい赤ん坊で誰にもニコニコ笑顔をみせた。健康な子ですくすく育ったが、足が駄目のままだった。美喜は特別の運動をさせ、かつ他の赤ん坊にはやらないような特別の栄養食をサミーに与えた。看護婦たちは、サミーの足をタラの肝油でマーサージしてやり、毎日日光浴をさせてやった。しかし、サミーは１歳の誕生日はおろか、２歳の誕生日を迎えても、だだベッドに横たわったままだった。ところが、３歳の誕生日が近づいたある日曜日、美喜が教会から戻ってくると、寮から子供たちの騒がしい声が聞こえてきた。また喧嘩だろうと現場に駆けつけると、あるベッドの周りを子供たちと看護婦たちがぐるりと取り囲んでいた。ベッドの中を覗いた美喜はビックリ仰天、聖書と讃美歌を思わず手から落してしまった。なんとあのサミーがベッドのてすりにしがみつきながら、立ち上がろうとしていたからだ。彼は相撲取りのごとく真っ赤な顔をして、頑張っていた。それをみていた美喜の目に涙が自然に溢れてきた。美喜はそっとささやいた。&lt;br /&gt;「サミー、もうちょっとよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は努力のかいなく、その日は立ち上がれなかった。翌日もさらに頑張ったがやっぱり駄目だった。しかし、３日目にサミーはとうとう立ち上がることができた。まもなくサミーは、ベッドのてすりにもたれながら、横這いができるようになり、そしてある日、ベッドを歩いて一周することができるようになった。３歳の誕生日がくる前に、サミーは支えなしに独りで、よちよち歩きができるようになった。４歳の誕生日前には、遊び場でサミーは走り回り始めた。いったん歩いたり走ったりできるようになると、サミーはあっという間に、やりたいことは何でもできるようになり、夜になってサミーを静かに寝かしつけるまで、美喜は丸一日、彼とのお付き合いで忙しくなった。そして、サミーが初めて幼稚園に通う日がやってきた。出かけていくサミーの元気な足音を聞きながら、美喜は感無量になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　このホームの存在が知れわたると、多くの混血孤児が、その母親や祖母たちによって、ホームにもたらされた。そして、美喜に直接世話を頼みにくる者もいたが、多くの場合、黙って（こっそり）ホームの敷地内に置き去りにしていった（合計３１人もの孤児が置き去りされているのを、美喜や看護婦は発見した）。日本中が食料不足に苦しんでいた敗戦直後には、このホームの経営は極めて困難だった。政府からくる育児補助金はほんの最小限で、それだけではとても足りなかった。美喜は、看護婦の給料や維持費や補助食などの支払いのために、募金をせざるをえなかった。大部分の孤児は、栄養不足で、その多くが疥癬や寄生虫病などを含む色々な病気に感染していた。しかし、医療品の供給は不足がちで、ペニシリンなどの特効薬は、もちろん手の届かぬ存在だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　にもかかわらず、ホームで育てられた孤児たちの大部分は、すくすく成長し、ホームでの乳児の死亡は全然なかった。しかしながら、１人の赤ん坊の病状が悪化し、武田神父は美喜に、子供を聖ロカ病院に入院させるように勧めた。美喜は、その赤ん坊の母親に連絡をとり、その子の病状を伝えた。その母親は急いで病院に駆けつけてきた。母親が重病の我が子を見守っているとき、突然、母親の兄が病室に入ってきて、彼女の髪を掴むなり、敵国の兵士と子供を産んだのは許せない、と言いながら、妹を殴り始めた。やがて、誰かが、こう叫んだ。&lt;br /&gt;「赤ちゃんが死にかかっています！」&lt;br /&gt;３人は急いでベッド脇に駆けつけた。その兄は、涙で目をうるませながら、瀕死の赤ん坊をじっと見つめていた。最後に赤ん坊が息を引き取ると、ごめんよ、といいながら兄は妹の肩を抱きかかえ、一緒に病院を悲しそうに立ち去った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ある幼い男の子が重症の肺炎にかかった。そして、その場の状況から、その子の命を救う術は誰にもなさそうに思えた。症状はどんどん悪化していった。美喜は、その子の死はもう時間の問題だと感念していた。ところが、ある朝、「ＣＡＲＥ」&lt;br /&gt;パッケージが、前駐日アメリカ大使の妻、ジョセフ・グリュー夫人から届いた。開けると、中に救援食料と２本のペニシリンのアンプルが入っていた。この貴重な特効薬のおかげで、その子の命が救われた。美喜がその夫人に礼状を送ると、夫人から、まるで奇跡に近い話にビックリした、という返事が返ってきた。夫人の話によれば、彼女の方はごく普通のパッケージ (小包) を郵送するよう注文したに過ぎなかったが、その小包は偶然にも「ＣＡＲＥ」(アメリカの国際的救援物資供給団体) の本部で包装されたのだそうだ。当時、ペニシリンを得るには、医師の処方箋が必要だった。その出来事は奇跡か、あるいは間違いの仕業かいまだにミステリーだが、とにかくその少年の命を救った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そのような奇跡に近いエピソードに暇はない。ある晩、美喜は夕食のあと、手元にミルクが１本もないことに気がついた。夜中に赤ん坊に飲ませるべき牛乳もなければ、翌朝により年長の子供達に与えるべき朝食用の牛乳もなかった。気転のきく美喜だが、さすがその夜は、１００人もの孤児たちにやるミルクのあてに困ってしまった。 真夜中のこと、美喜はまだ起きて仕事をしながら、保育園のほうから聞こえてくる腹をすかした赤ん坊たちの泣き声に耳を傾けていた。すると、車が近ずき、家の前で停車する音が聞こえた。誰かを確かめるために外に出てみると、車はもう立ち去ったあとであった。床に大きな箱が置いてあった。開けてみると、中に粉ミルクのケースが４つも入っていた。カードには、「秘かに尊敬している者から」とだけ記してあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ある年末、美喜は色々貯まっている請求書の支払いを済ませるために、四苦八苦していた。金の工面をするために、自宅の部屋にあった「菊の紋章」入りの銀の花瓶まで銀座の質屋に預けたが、大した金にはならず、まだ半分ほど不足していた。帰宅の途中、電車を乗り換えたところで、ふいに人に呼び止められた。&lt;br /&gt;「澤田夫人、あなたですね？」&lt;br /&gt;「そうですよ」&lt;br /&gt;「実は、あなたの行方を私はずっとさがしていたんです。中国大陸で知り合ったものです。憶えていませんか？」&lt;br /&gt;「ええ、思い出しましたよ。でも、あれはずいぶん昔のことですね」&lt;br /&gt;「あなたをさがしていた理由は、あなたに借金を返すためだったんです。２５年ほど前、北京の日本クラブで、私はあなたからいくらかの金をお借りしたんです。でも、それを返す機会がなかったんです。ここにあるのは、私が長い間借りていたお金です。ああ、私の電車がやってきます。では、お大事に！」&lt;br /&gt;こう言って、その男は立ち去っていった。封筒の中を確かめると、ちょうど必要な額がそこにあった。おかげで、美喜はその年の借金を全部支払うことができた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかし、百日咳がホームに蔓延したとき、奇跡は起こらなかった。４２名の子供が感染した。そして、そのうちの２２名が肺炎を併発した。その病気の流行は２ヵ月間ほど続き、美喜や看護婦たちは、子供たちの命を救うために、四六時中働いた。&lt;br /&gt;しかしながら、懸命の看護にもかかわらず、７人の子供が死亡した。ホームの門を７つの小さな棺桶がくぐりぬけてからまもなく、大磯中に批判の声が挙がった。翌朝、ホームの門の上に、チョークで落書きがしてあるのを、美喜は発見した。怠慢が原因で１２０名の子供を死なせたある保育園の名前がそこに書かれてあった。美喜の心は深く傷ついた。&lt;br /&gt;「どうして彼らは、百日咳から回復した３４名の子供や、肺炎から救われた１５名の子供のことを、評価してくれないのだろうか？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その騒動が治まってからしばらくして、ある産婆が美喜のところに、青い目、白い肌の赤ん坊を届けにきた。&lt;br /&gt;「あなたが、混血児のためのホームを経営していることを聞きました」&lt;br /&gt;「そうです。他の誰も混血児を世話しようとしないので、私が代わりにやっているのです」&lt;br /&gt;「それでは、この子を世話してくれませんか？　母親は、この子をいらないというのです」&lt;br /&gt;「ええ、私が引き受けましょう」&lt;br /&gt;「大助かりです。実は、この子は、私が分娩した混血児の２３番目にあたるんです」&lt;br /&gt;「それで、残りの２２人の赤ちゃんは？」&lt;br /&gt;「赤ん坊が生まれてくると、すぐ鼻に濡れた鼻紙を被せるんです。他にしようがなかったんです。でもこれからは、こちらに連れてこられるので、ほっとしています」&lt;br /&gt;この２３番目の赤ん坊は、栄養不足で、体中傷だらけで、死にかかっていた。さらによく調べてみると、背骨も曲がっていた。美喜の懸命な看護にもかかわらず、その子は、２、３日後に死んでしまった。美喜は、その小さな亡骸を、他の２２人の霊とともに、ホームの礼拝堂の下に埋葬した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;日米両政府から無視された混血孤児たち&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　薄茶色の髪で青い目、あるいは黒い肌でちじれ毛の赤ん坊は、日本の社会では非常に目立つ存在である。しかし、「日本の民主化」にばかり忙殺される連合軍司令官マッカーサー、あるいは彼のＧＨＱは、増大しつつある混血児たちの存在に対して、ちっとも関心を払おうとしなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９４８年６月、ＵＰＩの特派員ダレル・ベリガンは、サタデー・イブニング・ポスト紙に、『占領下日本の混血児たち (占領ベービー）』という論説を発表し、アメリカ大衆の注目を集めた。ベリガンは、まずこう論じた。&lt;br /&gt;「この混血児問題は、今に始まったことではない。というのは、白人がアジアに住み始めた３００年前以来、白人（主に、英国人、フランス人、オランダ人など）とアジア人との間に多くの混血児が、延々生まれてきているからだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本に関しては、占領ベービーが実際に何人存在しているのか、正確な数字を挙げるは不可能だ。１千人から４千人と推定されているが、公式な数字は全くない。&lt;br /&gt;占領軍当局が、この問題について言明した例はないし、日本政府当局にしても、その存在を認めようとする動きが全く見られない。占領ベービーは、日本の恥の「生きた象徴」、つまり敗戦に続き占領下にあるという屈辱のシンボルでしかなかった。&lt;br /&gt;日本人側にとって、その苦々しさを占領軍当局に対して、直接ぶつけるのは危険が大き過ぎたが、かといって、占領軍のめかけやその混血児を保護しようとする動きにも欠けていた。結局、逆にこれらの無垢な混血児をそしるという安易な手段で、フラストレーションを解消していた。&lt;br /&gt;ベリガンは、次のような質問を投げかけている。&lt;br /&gt;「このような混血孤児たちは、日本人の孤児たちと同じ施設で世話すべきか、それとも別のホームで育てるべきだろうか？」&lt;br /&gt;(神経生理学が専門の) 厚生課長、陸軍大佐クロフォード・サムスは、この問題について、頑固な意見の持ち主だった。ベリガンは、サムス課長の意見をこう紹介している。&lt;br /&gt;「最悪のケースは、混血児にＧＩベービーという汚名あるいは焼印を押すことである。我々ができうる最善策は、(アメリカ本国で) 彼らを差別待遇せぬことである。だから、我々の任務が完了して日本を去るとき、混血児たちを日本に留めるべきである。我々の妻たちは、混血児たちに特別待遇、例えば衣料やキャンディーなどを与えるべきだと主張しているが、私はそれに反対だ。我々の最大の任務は、平等に子供たち全体の福祉を向上させることにある。そもそも日本民族とは、一つの純粋な人種ではなく、中国人、朝鮮人、マレーシア人など色々な人種の混ざり (雑種) である。日本には、西洋人との混血が、長年育ってきている。だから、混血児は、日本社会では、全く問題ではないのだ」&lt;br /&gt;この記事で、彼の意見に真っ向から反対する美喜や (横浜にカソリックのホームを経営している) 尼僧の意見も紹介されている。美喜は、次のように主張している。&lt;br /&gt;「サムス大佐の平等主義は、現実を無視（あるいは回避）した純然たる悪平等主義です。怠慢や責任回避からくる偽善に過ぎません」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　サムス大佐は、日本に何名のＧＩベービーが実際に存在するか、詳しい統計調査をしたい、というアメリカ本国の厚生省からの申し出を却下することによって、故意にその数値をあやふやなままにしたばかりではなく、当時２４７名の混血孤児を収容していた「エリザベス・サンダース・ホーム」を閉鎖すべきであるという勧告をし始めた。怒った美喜は、大佐に面会を要求し、両者の間に険悪なやいとりが彼のオフィスで交わされた。&lt;br /&gt;「大佐、ＧＨＱの占領政策の中に、混血児たちを一か所にまとめてはならぬ、日本全国に分散すべし、と定めた法的文書がありますか？　あるなら、見せて下さい。これらの孤児たちをそれぞれ収容するために、一体いくつのホームが必要なのですか？これらの孤児たちは、南は九州から北は北海道から、はるばる私のホームに送られてきているのですよ。すでに２度も、つまり実の父親である米軍将兵からも、母親である日本人からも見捨てられたこれらの孤児たちを、私がどうして見捨てることができると思いますか？」&lt;br /&gt;大佐は、故意に問題をそらすために、福井地震の救援のため占領軍がいかに親切にペニシリンや他の医療品を供給したかを喚起した。しかし、美喜はひるまなかった。&lt;br /&gt;「大佐、日本における占領軍の任務が完了して、あなたがたがアメリカ本国に引き揚げるとき、アメリカ軍将兵を父とする混血児たちを全部まとめてアメリカに連れて帰ると確約するならば、ホームを閉鎖せよ、という命令に私も従います」&lt;br /&gt;すると、サムス大佐が机上にあった重そうな灰皿を掴んだので、癇癪を起こした彼がそれを美喜に向かって投げつけるのではないか、と彼女は心配した。幸い、その瞬間、火災警報が鳴り、建物から退去せざるをえなくなったので、両者に冷却期間を与える結果になった。しかし、この対決後も、美喜の決意は変らなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　このようなエピソードを含むベリガンの記事は、もちろんある人物の心の平和をかき乱した。ＧＨＱに平手打ちを食らわせることになったからだ。その結果、彼の日本滞在は短期に終り、タイに左遷された。まもなく彼は、そこでこの世を去った。&lt;br /&gt;他方、エリザベス・サンダース・ホームは、美喜の自称「ドン・キホーテ」的闘争精神のおかげで、結局閉鎖を免れた。しかし、ＧＨＱのご都合主義的な政策の犠牲になった。日米混血孤児の存在自身が否定され、 彼らの父親である米軍将兵たちへの勧告、つまり、帰国時に自分の子 (混血児) を本国に連れて帰れ、という(美喜が大佐に提案したような) 勧告はとうとう出されずじまいに終わった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９５１年９月に、サンフランシスコで日米講和条約が締結され、１９５２年４月に連合軍による日本占領は終了し、日本は再び独立国となった。そして、日本の国連への正式加盟はソ連の反対で拒否されたものの、オブザーバーとして、参加することは許された。そのおかげで、（戦後しばらく、国際社会から遠のいていた）廉三に、日本の国連代表団のリーダー（大使）として再び国際舞台で活躍する機会が与えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この機会を捉えて、美喜はアメリカで混血孤児たちのための募金運動を計画した。&lt;br /&gt;当時、美喜の父親は８７歳に達し、健康がすぐれなかったが、千葉の農園に暮らしていた。美喜がそのプランを父親に打ち明けると、彼はこう忠告した。&lt;br /&gt;「美喜、渡米中にアメリカの占領軍の悪口をいわないように。全てを水に流しなさい。混血孤児たちを助けるというお前の本来の使命に徹しなさい。江戸の敵を長崎で討つ、という古い諺を肝に銘じなさい。東京で起こった忌まわしいできごとの復讐をワシントンでやらないこと。しっかりガンバッテ来なさい」&lt;br /&gt;美喜は父の示す子供たちへの愛情と模範的な寛容の精神に心を深く打たれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかしながら、美喜が渡米のためにアメリカ大使館にビザを申請すると、すぐ拒否された（敵の方では、やはり彼女の復讐を恐れていたらしい）。そこで、美喜は一計を案じることにした。&lt;br /&gt;「私の夫は目下、日本の国連大使として、アメリカに勤務中ですが、もし妻の私の渡米ビザが拒否されるのならば、夫には国連大使としての資格なし、ということになりますね。それでは、夫に早速電報を打って、国連大使を辞任して、即刻帰国するよう要請しましょう。マスコミにもこの問題をとり上げてもらいましょうか？」&lt;br /&gt;渡航ビザはまもなく下り、美喜は１９５２年９月に渡米した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜がサンフランシスコに到着すると、報道陣の群れが彼女を取り囲み、ＧＩベービーについて質問攻めをかけた。マスコミは彼女の旅行中、美喜のあとを追い、多くはセンセーショナルな、しかし必ずしも正確でない記事を書き、アメリカあるいは日本の大衆の間に少なからず誤解をかもち出した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;ジョセフィン・ベーカーの来日公演&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　美喜の旧友である混血の名ダンサー・歌手ジョセフィンが戦前、ニューヨーク公演のために渡米した際、自分の故国でありながら、白人たちからひどい人種差別待遇を受けたことを、読者はまだ記憶していると思う。彼女は生涯４度の結婚をしたが、その間、合計１２人の混血孤児を、自分の家庭に引き取って世話をした。彼女が、色とりどりの肌をしたこれらの養子養女たちを、誇らしげに「虹鱒（七色）の子供たち」と呼んだという話は有名である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、ジョセフィンは、（ニューヨークで受けた）美喜への恩返しに、エリザベス・サンダース・ホームのための募金コンサートを、わざわざ日本国内で企画し、１９５４年の春、特別公演のため来日した。彼女は美喜に手紙でこう書いている。&lt;br /&gt;「日本滞在中は、ステージ、テレビ、ラジオなどあらゆる機会を利用して、日本の観衆に向かって演技をしますので、存分に私を使って下さい。公演で集められたお金は全部ホームに寄付しますから。私には衣装係を含めて３人の付添いが同行しますが、彼らの給料は私の財布から払いますので、ご心配なく。私は普通の日本の家に泊まり、日本食を食べますので、ホテルなど特別に予約する必要はありません。節約した分だけ多くのお金がホームの赤ちゃんに直接役立つように」&lt;br /&gt;ジョセフィンは、３週間（２１日間）という短い日本滞在期間に、なんと合計２２回の公演に出演するという、常人には信られぬほどのハード・スケジュールを見事にこなした。彼女のエギゾチックな黒人ダンスに日本の多くの観衆が魅了されたのはいうまでもない。この忙しい公演の合間をぬって、大磯にある美喜のホームにいる「虹鱒の子供たち」を訪れ、励ましを与えることも、もちろん彼女は忘れなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ジョセフィンのステージ生活は、１９６８年に引退するまでその後も長く続くが、その期間に、人種間のハーモニーを図るために数々の慈善公演・事業に献身し、１９６１年には、その功績を讃えて、ドゴール仏大統領が「レジオン・ドヌール賞」を彼女に与える。１９７５年に彼女は、とうとう脳溢血で倒れ、フランス国民に惜しれながら、６９歳でこの世を去っていった。そして、黒人として初めて、フランスの国葬にふされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;アメラシアン混血児の米国移民&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本に駐在するアメリカ人の家族にも、日米混血孤児たちの話を聞いて深い同情を示し、自分の故国に引き取り、世話をしたいと申し出るものも多くあった。美喜は、自国の社会ばかりではなく、米国の白人社会でも人種差別がかなり強いことをよく知っていたが、それでも孤児たちには米国で育ったほうが日本で育つよりも、ずっと明るい未来が開かれていると信じていた。&lt;br /&gt;　しかしながら、実の父親が自分の混血児を引き取らない限り、法的にはこれらの孤児たちは、全て日本人国籍に入れられてしまう。従って、混血児を養子として米国に連れ帰るためには、子供の米国への移民手続きを経なければならなかった。ところが不幸にして、戦前（１９２４年の「排日移民法」の制定）以来敗戦直後もなお、日本人の米国への移民は厳しく制限されていた。混血児たちの移民には明らかに、アメリカの移民法の改正が緊急に必要だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そこで、美喜は１９５２年秋の渡米中に、アメリカの下院議員ウイリアム・ドーソンに手紙を書き、移民法の改正を強く訴えた。彼は１９４２年にシカゴから、黒人として初めて下院議員に当選した民主党の政治家である。移民法の改正への闘いは、実質的な実りをみるまでにその後数年を要した。そして１９５７年になって、日本を含めてアジア地域全体に溢れる米亜（アメラシアン）混血孤児たちが、米国の里親の元に自由に移民できるようになった。この移民の改正には、ドーソン氏自身の議会での粘り強い努力もさることながら、もう１人の著名なアメリカ市民による草の根運動に負うところが少なくない。その人物は、のちに美喜の親友となったパール・バック女史であった。女史は、いわゆる（米軍占領下の）戦争孤児、つまりアメリカ軍将兵とアジア諸国の女性との間に生まれた米亜（アメラシアン）混血孤児たちの救済を目的に、まず１９４９年に自分の私財を投じて「ウエルカム・ハウス」と呼ばれる養子斡旋所を、フィラデルフィアの北にある自宅の敷地内に設立した。白人でありながら、中国大陸のその前半生（約４０年間）を過ごすというユニークな体験を持つ女史は、１９３４年に米国に帰国後も、「東西（東洋と西洋）文化の架け橋」として活躍し、（人種差別・女性差別を含めて）あらゆる差別の撤廃をめざして、その後半生を捧げた高まいな（ノーベル賞）作家兼ソーシアル・ワーカーである（詳しくは、第４章を参照）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;パール・バック女史の来日&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９５７年の移民法の改正に伴い、美喜のホームにいた日米混血孤児の１人、ちえ子（８歳）がパール・バック家の第７人目の養女として、渡米を許された。以来パールと美喜との間に、日米混血孤児たちの米国への養子移民のための親密な協力が始まった。そして、最終的には１千人以上の混血孤児が、アメリカの家庭へ引き取られていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　１９６０年の春に、パールは、１９４７年出版した子供向けの短篇小説『ビッグ・ウエーブ』（大津波）の映画化のため、久しぶりに来日した。この小説は、パールが戦前に（中国大陸の内戦を避けて）一時疎開していた長崎の近くにある雲仙山麓の農村と漁村を舞台にした地元の少年２人の友情物語である。戦争(津波) がもたらした幾多の不幸を克服して立ち上がる世界中の子供たちを励ますストーリー。東京に滞在中、パールはロケの打ち合せの合間に、もちろん大磯にある美喜のホームを訪れ、当時そこに収容されていた１４８名の混血孤児たちを見舞い、温かく励ました。不幸にして、来日してまもなく、パールは本国から悲報を受け取った。数年病気を患っていた夫のリチャードがとうとう死亡したのだ。葬式を済ませるため、パールは急きょアメリカに帰国せざるをえなかった。そして、その年の秋に、今度は映画ロケの本番に参加するため、再び来日し２、３ヵ月間、主なロケ先である雲仙山麓の温泉町小浜 (おばま) や漁村「木津」で、さらに火山の噴火シーンを撮影するために伊豆七島の大島でも過ごすことになる。映画の制作は日米合作で、日本側は東宝が専ら出演俳優の大半や撮影班を提供した。キャストは、名優早川雪州を始め、伊丹十三、（ロカビリー歌手）ミッキー・カーチス、子役のジュディー・オング、太田博之、設楽こうじなど豪華版だった。津波の特写は、『ゴジラ』の生みの親、円谷監督が担当した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この映画は翌年、米国内で封切られたが、不幸にして、なぜか日本にはとうとう１度も配給されず、いわば「幻の映画」となってしまった (米国ワシントン市にある議会図書館に１６ミリ・フィルムが保存されており、１、２週間ほど前に予約すれば、観賞も可能）。 ２００５年１０月２９日、映画化から４５年振りに、ロケ地の雲仙市にあるメモリアルホールで上映がついに実現された。 この初上映は、合併による雲仙市誕生を記念して雲仙観光協会が企画。同協会の田浦元理事は「昔、エキストラで出演した市民も何人か存命で、一度でいいから、ぜひ自分の目で見たいという地元の住民からの要望が強かった」と話す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この映画の脚本もてがけたパールは、もともと自作の小説にはなかった混血児の問題を、映画『大津波』の後半に盛り込んで、社会的なアッピールを試みたといわれている。さらにパールは１９６４年に、国際的な孤児救済団体「パール・バック財団」を結成し、大規模な米軍基地を持つ沖縄、韓国、フィリピン、ベトナムなどのアジア諸地域に、いくつかの支部を設立して混血孤児たちの福祉向上に献身した。なお１９９３年（パールの死後２０年目）に、「ウエルカム・ハウス」と「パール・バック財団」が合併されて、「パール・バック国際財団」として再出発、今日に至る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;続く&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;http://happytown.orahoo.com/green-books&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="/phphope/view/v_genre_view.php?UserID=55439&amp;GenreNo=6&amp;GenreOID=425625"&gt;  臍（へそ）の緒 &lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-2910250070337906367?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/2910250070337906367/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=2910250070337906367' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/2910250070337906367'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/2910250070337906367'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/12/blog-post_29.html' title='『型破りの女たち』 シリーズ；　その１'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-3833051821886713910</id><published>2008-12-28T13:32:00.000+09:00</published><updated>2008-12-28T13:33:47.642+09:00</updated><title type='text'>近刊「知的障害の娘の母：　パール・バック」（文芸社）</title><content type='html'>&lt;b&gt;知的障害の娘と歩む波乱と挑戦に溢れる人生&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;不朽の名作「大地」（１９３１年出版）で有名なノーベル賞作家パール・バック&lt;br /&gt;女史（１８９２ー１９７３）に、一生涯知的障害に苦しむたった独りの実娘キャ&lt;br /&gt;ロル（１９２０ー１９９２）がいたことが、世に初めて知られるようになったの&lt;br /&gt;は、女史が１９５０年に、「母よ嘆くなかれ」という娘に関する前半生（生い立&lt;br /&gt;ち）をつづるノンフィクションを敢えて出版して以来のことである。その時、娘&lt;br /&gt;キャロルは既に３０歳に達していたが、彼女の精神年令や知能指数が１０歳以上&lt;br /&gt;を越えることは一生ないことが明らかになっていた。女史はそういう不孝な娘や&lt;br /&gt;息子を抱えている無数の親と、その耐えがたい悲しみや苦しみを分かち合うため&lt;br /&gt;に、その告白書を勇気をもって出版し、世界中をあっと驚かせた。同じような娘&lt;br /&gt;を持つケネディー（ＪＦＫ）大統領の母ローズやドゴール大統領夫人などが、こ&lt;br /&gt;のキャロルに関する本を読んで、とても感動して大いに涙を流した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;女史はその前半生（４０年近く）をアメリカ人のキリスト教伝道師の娘として、&lt;br /&gt;中国大陸で過ごし、キャロルが誕生したのも、中国の過疎地の病院においてだっ&lt;br /&gt;た。不幸にして、(後に明らかになったことだが) 女史は子宮癌を患い、恐らくそ&lt;br /&gt;の病因であるウイルス (ＨＳＶ）の感染によって、子宮中の娘の頭脳の発達に障&lt;br /&gt;害、ＰＫＵ(フェニルケトン尿症、フェニルアラニン中毒) が生じた。そういう障&lt;br /&gt;害名すら知られていなかった当時、その障害の治療は不可能だった (今日では、&lt;br /&gt;ＰＫＵの診断は容易になり、生後３ヵ月までに治療を開始し、血中フェニルアラ&lt;br /&gt;ニン濃度を正常近くに維持しさえすれば、大事には至ることはない！)。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この娘の不幸に、もう1つの不幸が重なった。女史の夫ロッシングは農業経済学者&lt;br /&gt;で、中国の農業改革に献身する伝道師だったが、知的障害を持つ娘の養育に無関&lt;br /&gt;心だった。そこで、当時、主婦で収入源をもたぬ女史は、娘を一生、米国の特殊&lt;br /&gt;施設 (学校)で世話してもらうために必要な多額の費用を自分で稼ぐために、ある&lt;br /&gt;小説を書き始めた。それが中国の貧農の生活を描いたユニークな名作「大地」だっ&lt;br /&gt;た。幸いにして、その小説がピューリッツァー賞に輝き、世界中のベストセラー&lt;br /&gt;になり、さらに映画化され、１９３８年には米国女性としては初めてのノーベル&lt;br /&gt;文学賞に輝いた。こうして、娘の不幸が「幸い」に転じた稀れな例となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;女史のこのような悲しみと苦悩を越えた勇気と波乱に溢れる生涯を、精神障害を&lt;br /&gt;扱う専門医／精神病理学者という立場から、著者（三重大学名誉教授、松坂清俊）&lt;br /&gt;が詳しく分析したのが、このユニークな近刊「知的障害の娘の母：　パール・バッ&lt;br /&gt;ク」である。この著者が長崎県島原半島出身であるのは、全くの偶然ではなかろ&lt;br /&gt;う。というのは、パール・バック女史の家族が１９２７年に（中国での内戦を避&lt;br /&gt;けるため）当地に半年ほど疎開していたことが知られているからだ。この疎開時&lt;br /&gt;代の体験に基づいて、女史は戦後まもなく、子供向けの短篇小説「大津波」を出&lt;br /&gt;版し、１９６０年には、その映画化のために日米のロケ隊とともに、懐かしい島&lt;br /&gt;原半島に数カ月滞在している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;女史のユニークな人生に深い関心のある方には、数年前に出版された「パール・&lt;br /&gt;バック伝：　この大地から差別をなくすために」（上下巻）も併せて、読まれる&lt;br /&gt;ことを強くお勧めしたい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-3833051821886713910?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/3833051821886713910/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=3833051821886713910' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/3833051821886713910'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/3833051821886713910'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/12/blog-post_28.html' title='近刊「知的障害の娘の母：　パール・バック」（文芸社）'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-2380564783431409020</id><published>2008-12-17T17:19:00.005+09:00</published><updated>2008-12-19T08:09:13.691+09:00</updated><title type='text'>"A Beautiful Mind" (by Sylvia Nasar)</title><content type='html'>&lt;b&gt;妻アルシアの深い「ヒューマニズム」に感動！&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この実話は、ジョン・ナッシュという稀れにみる天才的な数学者が３０歳を境に&lt;br /&gt;して３０年間以上、遺伝性の重症な「精神分裂症」に苦しみながら、ついに奇跡&lt;br /&gt;的にその難病から回復してまもなく、彼が２０代に発見した「ゲーム理論」の経済学&lt;br /&gt;への多大な貢献が評価されて、ついにノーベル経済学賞までもらうという、ハッ&lt;br /&gt;ピーエンド映画（アカデミー賞受賞）の原作である。もっとも、私は映画を観ず&lt;br /&gt;じまいに終わった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（高等数学も経済学もわからないごく粗朴な生物学者である）私が最も感銘した&lt;br /&gt;のは、彼の偉大さではなく、彼の妻となったアルシアというインテリ女性の彼に&lt;br /&gt;対する並々ならぬ献身である。中米のエル・サルバドル生まれの良家の娘だった&lt;br /&gt;彼女は、物理学者をめざして米国のＭＩＴで就学中、彼女の数学教師であるナッ&lt;br /&gt;シュ教授に惚れ込んでしまい、結婚にゴールインする。ところが不幸にして、ま&lt;br /&gt;もなく彼に凶暴性を帯びる「精神分裂症」の発作が現れ、精神病院に２、３度隔&lt;br /&gt;離する必要性さえ出てきた。折しも、彼女は彼の息子（ジョニー）を妊娠中だっ&lt;br /&gt;た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２、３年後、彼女はナッシュとはもはや正常な結婚生活が無理なことを悟って、&lt;br /&gt;一旦彼と離婚手続きをする。しかしながら、病める夫を世話する者が誰もいない&lt;br /&gt;ことを知って、彼女は以後３０年以上、彼を自宅に同居させ、生活の面倒をひた&lt;br /&gt;すらみ続ける。そのおかげで、彼は重症な「精神分裂症」から奇跡的に自然治癒&lt;br /&gt;することができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;離婚した夫に対して、いわゆる「愛」を感じなかっただろうが、彼女の心には&lt;br /&gt;（夫を何とか助けてやろうという）深い「ヒューマニズム」が溢れていた。その&lt;br /&gt;「美しい心」に私は痛く感動した！　邦訳 （約６００ページ）も出版されている&lt;br /&gt;ので、ぜひ一読を勧めたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;映画は恐らく、ナッシュ夫妻が結婚５０年目に（２００１年）に再婚を誓って、ハッ&lt;br /&gt;ピーエンドで終わっているだろうが、この夫妻には、頭脳は優れているが、不幸にして、&lt;br /&gt;父親同様（あるいはそれ以上に）重症の「精神分裂症」に病む息子ジョニー&lt;br /&gt;（数学者、チェスのチャンピオン）がいる。 だから、実話は決して「ハッピー」に&lt;br /&gt;は終わっていない！　今後ずっと一生、その息子を世話するのが、この難病から奇&lt;br /&gt;跡的に回復してノーベル賞をもらったナッシュの新しい仕事になりつつある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近の統計によれば、この難病患者の４分の１は自殺に至る。４分の１は長い年月を&lt;br /&gt;かけて自然に治癒する。残りの半分は一生治癒せず、精神病棟で暮らすことになる。&lt;br /&gt;そして、その病因は遺伝学的にまだ解明されていないし、特効薬もまだ開発され&lt;br /&gt;ていない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実は、この本の原作者シルビア・ナサーはコロンビア大学の商業ジャーナリズム専&lt;br /&gt;攻の教授だが、最近ノーベル化学賞（受賞）で、世間の話題になっている「ＧＦ&lt;br /&gt;Ｐ」(グリーン蛍光蛋白) の発見者や開発者に関する伝記物語「Aglow  in the Dark」&lt;br /&gt;の序文で、彼女は「ジョン・ナッシュ」について、チラリと触れている。彼女が&lt;br /&gt;この「ＧＦＰ」研究分野に関心をもち始めた動機は、恐らく、この蛍光蛋白が&lt;br /&gt;「精神分裂症」やアルツハイマー病などの脳に関する難病の解明や治療薬の開発&lt;br /&gt;に、将来役立つ可能性があることを知ったからだろう。現実には、その道程は今&lt;br /&gt;後かなり長そうだが、１０年あるいは２０年先に、これらの難病に対する治療薬&lt;br /&gt;が開発されることを、我々 (製薬化学者) も切に期待したい。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-2380564783431409020?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/2380564783431409020/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=2380564783431409020' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/2380564783431409020'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/2380564783431409020'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/12/beautiful-mind-by-sylvia-nasar.html' title='&quot;A Beautiful Mind&quot; (by Sylvia Nasar)'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' 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（副大統領）、ヒラリー・クリントン &lt;br /&gt;（国務長官）、ロバート・ゲイツ （国防長官）など。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;言うなればドリス・グッドウインの千ページ近くに及ぶ労作「政敵を重用するチームづくり」&lt;br /&gt;は、オバマ内閣づくりの「聖書」になりつつある。偉大な大統領リンカーンの伝記は&lt;br /&gt;数限り無いが、彼の内閣について、これほど詳しく触れた本は、これまでになかっ&lt;br /&gt;た。もし、民主党が日本でも政権を取るような機会が近い将来やってきたら、こ&lt;br /&gt;のリンカーンの英知を採用して、挙国一致内閣を組織して、国民の生活を真に向&lt;br /&gt;上させる政治を本気にやってもらいたいと、私は切に念願している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小沢代表のいわゆる「大連立政権」(単なる「ごちゃ混ぜ」) 構想ではない！  &lt;br /&gt;真に 「適材適所」の人事が必須だ！&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-2487055753579869051?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/2487055753579869051/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=2487055753579869051' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/2487055753579869051'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/2487055753579869051'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/12/team-of-rivalsby-dorris-goodwin.html' title='ピューリッツァー賞に輝く労作「Team of Rivals」&lt;br&gt;(by Dorris Goodwin)'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-1152747210020104178</id><published>2008-12-03T05:19:00.000+09:00</published><updated>2008-12-03T05:21:26.606+09:00</updated><title type='text'>遠藤　章著「新薬スタチンの発見」（岩波科学ライブラリー）</title><content type='html'>日本では一体なぜ、世界的な評価に価する独創的な医学研究、特に世界的に服用&lt;br /&gt;される医薬品の開発者が育ちにくいのだろうか？　今秋（「ノーベル賞への近道」&lt;br /&gt;といわれる）「ラスカー医学賞」をもらった遠藤章氏はそのごく少ない例外で、&lt;br /&gt;製薬会社「三共」勤務時代に、世界に先駆けて、抗生物質の一種で、コレステロー&lt;br /&gt;ル低下薬「スタチン」を開発した研究者であるが、面白いことには医学部や薬学&lt;br /&gt;部出身者ではなく、農学部出身者（東北大）である。しかしながら、彼のスタチ&lt;br /&gt;ン開発の道はすこぶる厳しいもので、挫折をいくつか乗り越えた彼の「不屈の精&lt;br /&gt;神」なくしては、ここまで成功はしなかっただろう。薬学者（制癌剤の開発研究&lt;br /&gt;者）の１人として、私にも色々学ぶことが多かった。これから医薬の開発を志す&lt;br /&gt;若い人々に、ぜひ勧めたい読み物である。「日本発」の世界に冠たる医薬品の開&lt;br /&gt;発研究の発展のために！　参考までに、目次（抜粋）を下記に紹介しよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１　新薬の種を求めて&lt;br /&gt;コレステロールと冠動脈疾患、どうすればコレステロール値がよく下がるか？　&lt;br /&gt;ペニシリンの発見、青カビから“新薬の種”を発見&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２　動物実験で二度の危機&lt;br /&gt;ラットのコレステロールが下がらない、ニワトリやイヌには劇的な効果！&lt;br /&gt;肝毒性の疑いで再度の危機&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３　重症患者には安全でよく効いたのに&lt;br /&gt;再復活へ、臨床試験は順調であった、突如中止に、失敗の原因&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４　強力なライバルの出現&lt;br /&gt;幻のプロポーズ、世界最大手「メルク」のねらい、新たな発見、メルクの独占を&lt;br /&gt;許さず、商業化スタチン第１号の誕生&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;５　大規模臨床試験から見えてきたこと&lt;br /&gt;コレステロール値を下げて疾患が減ったのか？　大規模臨床試験、多彩な生理・&lt;br /&gt;薬理作用&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-1152747210020104178?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/1152747210020104178/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=1152747210020104178' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1152747210020104178'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1152747210020104178'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/12/blog-post.html' title='遠藤　章著「新薬スタチンの発見」（岩波科学ライブラリー）'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-3909585259361555093</id><published>2008-11-28T12:11:00.002+09:00</published><updated>2008-11-28T16:52:59.560+09:00</updated><title type='text'>Atomic Tragedy:  Henry Stimson and the Decision to Use the Bomb Against Japan</title><content type='html'>太平洋戦争末期に米国の国防 (陸) 相を担当していた高齢（７８歳）のヘンリー・&lt;br /&gt;スティムソン ( １８６７ー１９５０  ) は実は、ハーバード大学出身の親日的な&lt;br /&gt;法律学者だったが、戦争終結直前に広島と長崎への原爆投下命令書に不本意なが&lt;br /&gt;ら署名をせざるを得なくなかった。その悲劇に至る過程や政治的（特にＦＤＲの&lt;br /&gt;急死とトルーマン大統領就任に伴う反ソ反共強硬路線）や軍事的な背景を、著者&lt;br /&gt;シーン・マロイが、画期的な「原爆投下決断の内幕」（The Decision to Use the &lt;br /&gt;Atomic Bomb）のレベルを更に越えて、新しく公開された「極秘情報」に基づき、&lt;br /&gt;この本で戦争史実を鋭く分析している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;スティムソンは、原爆投下予定候補地リストから、日本の古都で伝統文化の中心&lt;br /&gt;地である「京都」を除外することには辛うじて成功したが、他の人口密集都市で&lt;br /&gt;あり、米軍の空爆をまだ余り受けていない、「軍港」の所在地である広島と長崎&lt;br /&gt;に住む非戦闘員 (老若男女) の生命を原爆による大量殺りくから救うことは、過&lt;br /&gt;労と力不足でできなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;戦後まもなく、彼は原爆の悲劇に責任を深く感じると共に、トルーマン大統領や&lt;br /&gt;その閣僚と肌が合わず、国防 (陸) 相を潔よく辞任した。もし、（１９４５年４&lt;br /&gt;月に急死した）史上最大の大統領ＦＤＲが太平洋戦争の末期（７ー８月）まで存&lt;br /&gt;命だったら、（大量殺りく兵器の使用に強く反対していた）スティムソンの助言&lt;br /&gt;を尊重して、原爆投下を避けることができたかもしれない。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１つ特筆すべきことは、スティムソンは常に「天使のような人物」ではなかったと&lt;br /&gt;いう事実だ。日本による（ハワイ島の）真珠湾奇襲の１０日前、彼はＦＤＲと密&lt;br /&gt;談を交し、「いかにして奴ら（日本）を誘き出して、（米国大陸には打撃になら&lt;br /&gt;ない形で）最初に奴らに発砲させるためには、何をしたらいいだろうか」という&lt;br /&gt;作戦を入念に練ったということが、彼の日記にはっきり記してある。日本がその&lt;br /&gt;「ワナ」にまんまとはまったというわけだ。米国政府は「奇襲」を事前にキャッ&lt;br /&gt;チしていた。そして、奇襲直後に、万をじしていたかのように、日本に宣戦を布&lt;br /&gt;告した。敵は始めから「うわ手」だった。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;参考書&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;邦訳「原爆投下決断の内幕」（上下２巻、１９９５年）&lt;br /&gt;（The Decision to Use the Atomic Bomb）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小人「トルーマン」の野心（外交手段）、戦争終結とは全く無縁！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜ、日本が降服寸前に、広島と長崎に米国(トルーマン政権)が原爆を敢えて投&lt;br /&gt;下する決定をしたのか、その真の理由や動機を理解 (しっかり把握) するために、&lt;br /&gt;この英文原書の邦訳「原爆投下決断の内幕」（上下２巻）はもっと日本人読者の&lt;br /&gt;間、特に(米国政府にあくまで追従しながら、戦後の) 日本の政治を牛耳っている&lt;br /&gt;保守的な指導者たちに、読まれるべき労作である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;終戦前に、既に米ソ間で「冷戦」が始まっていた。ルーズベルト大統領の急死に&lt;br /&gt;ともない、棚ぼた式に大統領になった (新米の) トルーマンは、ソ連の老練な指&lt;br /&gt;導者スターリンに、外交の場で始終なめられていた。ソ連は東ヨーロッパ諸国全&lt;br /&gt;体を自国の領土や衛星国にしようと虎視眈々と狙っていた。それを威嚇、阻止す&lt;br /&gt;るためには、トルーマンの手元には唯１つしか手段がなかった。ソ連にはまだ開&lt;br /&gt;発されていない「原爆」だった。それを今や「虫の息」の日本に落として、その&lt;br /&gt;未曾有な破壊力をソ連に見せ付ければ、さすがのスターリンも尻込みするだろう&lt;br /&gt;と、トルーマンは考えた。しかし、米国の原爆開発チームは７月中旬に最初の原&lt;br /&gt;爆実験に成功したばかりだった。実戦用の（広島・長崎に投下すべき）原爆はま&lt;br /&gt;だなかった。もし、原爆投下前に、日本が降服してしまったら、スターリンを原&lt;br /&gt;爆で威嚇するチャンスを失う（降服した国に、いくら何でも原爆は落せない！）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、トルーマンは故意に降服を遅らせ（原爆製造のための「時間稼ぎ」をす）&lt;br /&gt;るために、巧妙な手を打った。ポツダム宣言で、日本に「無条件」降服（つまり、&lt;br /&gt;「天皇制の廃止」）を迫った。日本政府が受諾できないのを見抜いた上で。。。&lt;br /&gt;馬鹿な日本政府はそのワナにまんまとひっかかって、降服を渋った。２、３週間&lt;br /&gt;後（８月上旬）に２発の原爆がみごと使用準備オーケーの状態になった。後は、&lt;br /&gt;歴史の良く知るところである。こういう史実を知った上で、なお「米国追従」外&lt;br /&gt;交を続ける日本の政治指導者連中を批判すべきである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この英文原書（The Decision to Use the Atomic Bomb）は日本国内でまだ市販&lt;br /&gt;（通販）されているが、その邦訳（上下２巻）は（奇妙にも）絶版どころか「古&lt;br /&gt;本｜さえも出回っていない。誰がこの邦訳の流通を阻止しているのだろうか？  &lt;br /&gt; 米国政府からの指図で、日本政府が出版社や通販書店に圧力をかけているのだろ&lt;br /&gt;うか？&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-3909585259361555093?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/3909585259361555093/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=3909585259361555093' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/3909585259361555093'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/3909585259361555093'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/11/atomic-tragedy-henry-stimson-and.html' title='Atomic Tragedy:  Henry Stimson &lt;br&gt;and the Decision to Use the Bomb Against Japan'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-2576635334719076357</id><published>2008-11-21T01:53:00.015+09:00</published><updated>2008-12-07T14:57:11.575+09:00</updated><title type='text'>"Barack Obama:  Son of Promise, Child of Hope" (Simon &amp; Schuster)</title><content type='html'>アメリカでは最近、黒人系の若いエネルギッシュな青年バラク・オバマが新し&lt;br /&gt;い大統領に当選して、長い「イラク戦争」や迫リつつある「経済危機」からよう&lt;br /&gt;やく脱出できる希望に溢れている。カリスマ的なオバマは、特に若い世代の間に&lt;br /&gt;絶大の人気がある。最近、オバマ大統領に関する伝記が３冊もノンフィクション&lt;br /&gt;部門 （ペーパーバック）のベストセラーのトップを占めている。さて、子供向けの&lt;br /&gt;本でも、小学生向け４８ページの絵本「バラク・オバマ小伝」（サイモン＆シュス&lt;br /&gt;ター出版、２００８年）がトップに踊り出た。絵本の４分の３がさし絵で占めら&lt;br /&gt;れ、とても楽しく読める。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;豪州メルボルンに長らく住む友人（奥さんが日本人、ご主人が豪州人）の子供た&lt;br /&gt;ち（６歳の弟マックスと１２歳の姉マーサ）に読んでもらおうと、クリスマスプ&lt;br /&gt;レゼントを兼ねて、買い求めた。 マーサには多分、200ページ余りの小伝&lt;br /&gt;「YES WE CAN」(もちろん、可能です！) の方がずっと内容があって、よかろう。&lt;br /&gt;米国では目下、この２冊が子供向けの伝記本の１、２位を占めている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この国の子供たちが皆んな、遠い将来、オバマのような立派な大統領になれる&lt;br /&gt;チャンスを夢見ているようだ　（さて、日本では「総理大臣」の伝記が子供向けの&lt;br /&gt;伝記のトップになるなど、とても想像がつかない！　なぜなのだろうか？）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実はオバマ大統領は、ケニア人の父親と米国の白人女性（母親）との間に生まれた&lt;br /&gt;混血児（ハーフ）なのである。インドネシアやハワイの学校で少年時代を過ごすという、&lt;br /&gt;珍しい経験をしている。だから、白人ばかりではなく、黒人を初め有色人種の立場、&lt;br /&gt;海外に住む人々の立場も良く理解できる。従って、米国の国民ばかりではなく、&lt;br /&gt;日本を含めて世界中の人々から、大変期待されている。 特に、父親の故国「ケニア」&lt;br /&gt;の貧しい人々からは、神様のように尊敬されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本はどうやら、彼のベストセラー自伝「マイ・ドリーム」に基づいて、童話&lt;br /&gt;作家ニッキー・グリムスによリ子供向けに要約され、画家ブライヤン・コリアに&lt;br /&gt;よる色とりどりの楽しい挿絵をふんだんに入れたものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Garen Thomas 著の小伝「YES WE CAN」は、主にオバマの自伝「Dreams from My Father」&lt;br /&gt; とDavid Mandell 著の評伝「Obama:　From Promise to Power 」という大人向けの本を&lt;br /&gt;うまくまとめて、小中学生向きにアレンジした傑作である。私のような還暦を過ぎた大人が読んでも大変面白い。&lt;br /&gt;一日かけずに一気に読める。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後に、一言欲を言わせてもらえば、転載の写真（全部白黒！）の一部をカラー写&lt;br /&gt;真にしてくれると子供も大人もずっと楽しめると私は思う（せめて、有色人種の我々&lt;br /&gt;日本人読者向けの「邦訳」ではそうして欲しい！）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;YES WE CAN&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;オバマ小伝「もちろん、可能です！」（ギャレン・トマス著）&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;１３章：　出会い&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シカゴで４年間過ごした後、１９８８年にバラックは、ボストンにあるハーバー&lt;br /&gt;ド大学法学部の大学院に進学した。彼は既に２７歳で、他の大部分の院生より数&lt;br /&gt;年年上だった。しかしながら、彼がクラスメートの中でずば抜けていたのは、年&lt;br /&gt;のせいだけではなかった。もちろん、彼は年上相応に円熟していたが、彼は極め&lt;br /&gt;て規律正しく、かつ勉学に専念していたからだ。最初の一年、彼は図書館で毎日&lt;br /&gt;何時間も自習をした。彼は再び大学構内での人種差別制度に反対する運動にも参&lt;br /&gt;加した。大学の有名な法学雑誌、「ハーバード人権と自由に関するレビュー」に&lt;br /&gt;いくつかの論説を発表した。この雑誌に論文を発表するのは、すばらしい業績な&lt;br /&gt;のである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は黒人法学部学生協会の年会の晩餐の席でも講演をやった。その席で、彼のよ&lt;br /&gt;うに機会に恵まれた者たちは、恩返しに、それほど恵まれなかった多くの人々の&lt;br /&gt;助けになってやる必要があることを強調した。彼は教授会にもっと有色人種出身&lt;br /&gt;の教師が採用されるべきであると主張する人々の意見に参同した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最初の一年間の後、夏休みをシカゴに戻って過ごし、シドリー・オースチンとい&lt;br /&gt;う法律事務所に見習いとして働いた。ミシェル・ロビンソンはそこの弁護士だっ&lt;br /&gt;た。そして、バラクの指導を仰せつかった。彼はミシェルに会うやすっかり彼女が気&lt;br /&gt;に入ってしまった。ミシェルの方は、バラクが事務所に姿を現す前から他の職員&lt;br /&gt;が彼を高く評価していることに懸念を感じていた。彼女は、バラクは生意気か、&lt;br /&gt;あるいは実直に働くよりはむしろ同僚におべっかを使って昇進しようとする人間&lt;br /&gt;ではないかと、予想していた。それに、自分の部下とデートをするのは職場の規&lt;br /&gt;律を乱すものだと思っていた。さらに、彼女はこの法律事務所で働くいわゆる&lt;br /&gt;「黒一点」（たった一人の黒人）だった。周囲から「黒人はやっぱり黒人と一緒&lt;br /&gt;になってしまうな」と思われるのを、彼女は嫌った。バラクにも似かよった経験&lt;br /&gt;が昔あった。（インドネシアの学校から転校してきたばかりのころ）ハワイのプ&lt;br /&gt;ナハウ・アカデミー（小学校）で、全校にたった一人の黒人の女の子と遊んで、&lt;br /&gt;仲間からからかわれたことがあった。しかし、今はどんな人種の相手とも、自分&lt;br /&gt;が気に入った相手とデートするようになっていた。そして、バラクはミシェルを&lt;br /&gt;デートの相手に選んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ミシェルの家庭はシカゴのサウスサイドにある黒人が大多数を占める地域出身だっ&lt;br /&gt;た。子供のころ、ミシェルと兄のクレイグは、両方とも優等生で（プリンストン&lt;br /&gt;大学卒）、優秀なバスケットボール選手でもあった（クレイグは、後に大学バス&lt;br /&gt;ケットボールのスターになり、現在オレゴン州立大学バスケットボール部のヘッ&lt;br /&gt;ドコーチ）。彼らの家庭生活は比較的安定だったが、父親のフレイザーは身体に&lt;br /&gt;障害があって、不自由な生活を送っていた。ミシェルは一所懸命勉強して、一家&lt;br /&gt;のために苦労してくれた父親が誇れるような人間になろうと努めた。兄と同様、&lt;br /&gt;プリンストン大学を卒業してから、ハーバード大学法学部の大学院に進学した&lt;br /&gt;（年下だが、バラクの「先輩」に当たる）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ミシェルは用心深く、バラクとのデートに彼女のガールフレンドも連れて来た。&lt;br /&gt;しかし、バラクはミシェルにしか興味を示さなかった。やがて、ミシェルは彼と&lt;br /&gt;バスキン・ロビンスというアイスクリーム・ショップでデートすることに同意した。&lt;br /&gt;チョコレートアイスクリームを食べながら、２人は次第に親密になっていった。&lt;br /&gt;ある日、バラクはサウスサイドにある教会の地下で自分が主催している成人学校&lt;br /&gt;にミシェルを連れて来て、そこで、主に母子家庭の母親たちを対象に、白人と有&lt;br /&gt;色人種（特に黒人）との間にあるギャップをいかになくしたらよいか、その方法&lt;br /&gt;について話をした。その話を聞いて、ミシェルは彼にすっかり惚れてしまった。&lt;br /&gt;以来２人は、婚約状態になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;バラクとミシェルは、彼がハーバード大学に戻ってからも、デートを続けた。バ&lt;br /&gt;ラクは大学院で、残る２年間を通じて、彼の巧みな雄弁と説得力で、自分とは意&lt;br /&gt;見が違う仲間ともじっくり話し合って、（全員が同意できるような）妥協案を案&lt;br /&gt;出する才能をしばしば発揮した。こうして、彼はハーバード法学レビューの編集&lt;br /&gt;員に抜擢された。それだけではない！　１９９０年には、進歩派の仲間たちが彼&lt;br /&gt;を、その雑誌の編集長選の有力な立候補者に担ぎ上げることにも成功した。当時、&lt;br /&gt;大学構内では、第一次湾岸（イラク）戦争などをきっかけに、リベラル（進歩）&lt;br /&gt;派と保守派との間で、かなり激しい意見の対立が起こっていた。進歩派とは、男&lt;br /&gt;女同権（平等）を実現したり、社会から人種差別を撤廃したり、失業者や貧乏人&lt;br /&gt;たちを救済したり、自然や環境を保護したり、戦争をやめさせたりするために、&lt;br /&gt;政府がもっと積極的に協力すべきであるというような進歩的な意見を持つ人々を&lt;br /&gt;さす。他方、保守派とは、因習的な従来の制度に満足し、社会の変化（改善や改&lt;br /&gt;革）に抵抗、あるいはそれを妨害するなど、いわゆる旧態依然とした物の考え方&lt;br /&gt;をする人々をさす。バラクは明らかに進歩的な考え方の持ち主だった。しかしな&lt;br /&gt;がら、彼は心の広い人物だった。彼は常に、各々の問題について、両者の意見を&lt;br /&gt;じっくり聞いた上で、自分自信の結論を出す習慣にしている。だから、保守的な&lt;br /&gt;意見の持ち主も、バラクのこの柔軟な性格が好きだった。そこで、法学レビュー&lt;br /&gt;の編集長選挙中、これらの保守派は、自分たちの候補者が勝ち目がないと悟ると、&lt;br /&gt;デビッド・ゴールドとの決戦投票でバラクを支持した。というのは、バラクが保&lt;br /&gt;守派の意見に同意しないにしも、彼らの意見を少なくとも考慮してくれることを&lt;br /&gt;知っていたからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、レビューの編集長に当選したバラクは、就任早々困難な問題に一つ直&lt;br /&gt;面した。７５人という大所帯の編集部内で、わずか数名にしか、（編集部をやり&lt;br /&gt;くりする）特別の役職を与えることができないからだった。彼は黒人、女性、あ&lt;br /&gt;るいは他のマイノリチー（小数派）がそれまで長い間、このような役職を与えら&lt;br /&gt;れなかったという歴史を鑑みて、できれば彼らに、優先的に役職をあげたかった。&lt;br /&gt;しかしながら、白人だからという理由で、適材（優秀な人材）を役職から除外す&lt;br /&gt;ることもできなかった。白人に対する差別扱いになるからだ。彼は色々熟慮した&lt;br /&gt;末、最終的には、多彩なグループにそれぞれ、役職を分配することにした。しか&lt;br /&gt;しながら。その決断は、多くの黒人から批判（苦情）をこうむることになった。&lt;br /&gt;彼らは「過去の穴埋め」を期待していたからだ。彼らの失望にもかかわらず、バ&lt;br /&gt;ラク指導下のレビューはスムーズに作動し、人々は彼を公平かつ老練な編集長と&lt;br /&gt;して讃えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;ここまで読んで、不意に私の脳裏にひらめいたある夢想があった。日本の&lt;br /&gt;皇太子夫妻はほぼオバマ夫妻の年頃であると。もし、この皇太子夫妻が皇居&lt;br /&gt;（正確には、東宮御所）を後にして、敢えて「民間人」となって、バラクやミシェル&lt;br /&gt;のように、その優れた才覚を発揮したら、日本はどんなに良くなるだろうかと。&lt;br /&gt;もちろん、夫妻とも皇室では「進歩派」であると私は解釈しての話だが。。。&lt;br /&gt;少なくとも、この子供向けの本（英文原書でも邦訳でも）を、ぜひ夫妻に一度だけ&lt;br /&gt;読んでもらいたいと思った。 YES WE CAN! &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;続く&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-2576635334719076357?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/2576635334719076357/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=2576635334719076357' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/2576635334719076357'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/2576635334719076357'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/11/barack-obama-son-of-promise-child-of.html' title='&quot;Barack Obama:  Son of Promise, Child of Hope&quot; &lt;br&gt;(Simon &amp; Schuster)'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-4307811135410818555</id><published>2008-11-19T07:06:00.004+09:00</published><updated>2008-11-19T10:48:50.720+09:00</updated><title type='text'>「乳がんと牛乳」（こみち書房） 気になる内容、どう読むべきか？</title><content type='html'>素人の手によるいわゆる「研究」には穴だらけが多い。実験的「確証」もないまま、&lt;br /&gt;純然たる「仮説」を事実かのように主張する「悪書」（誤解をもたらす本）を売&lt;br /&gt;りさばく著者がいたら、その道の専門家は、それを批判し読者に警告を与える社&lt;br /&gt;会的な義務がある。しかも、裏で操作して、そのような批判を「ネットから勝手&lt;br /&gt;に削除させる」出版社が出没し始めたら、尚更のことである。なぜなら、その出&lt;br /&gt;版社は、その本の内容に「問題」があることを、既に自覚しながら、なお本を売り&lt;br /&gt;続けているからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、英国の有名な地球化学者（癌研究者ではない！）ジェーン・プラントが自&lt;br /&gt;分の乳癌体験を綴った数年前のベストセラー英文著書「YOUR LIFE IN YOUR HANDS」&lt;br /&gt;が、最近ようやく邦訳されて「乳がんと牛乳」というタイトルで出版された。彼&lt;br /&gt;女の度重なる乳癌再発の原因が、なんと「牛乳」だったという意外な (しかも、&lt;br /&gt;特に世界的「金融危機」に瀕して、酪農業者にとっては極めてショッキングな) &lt;br /&gt;話である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼女の乳癌に関する研究 (？) 内容は、医学雑誌には一度も発表されたことがな&lt;br /&gt;いし、彼女の癌に関する主張には、異論が多々ある。例えば、ネズミに牛乳を飲&lt;br /&gt;ませて、乳癌の発生に成功したなどという報告は一例もない。従って、読者各々&lt;br /&gt;が読後に、内容の「善し悪し」を自ら判断する必要がある。彼女自身が主張する&lt;br /&gt;ように、自分の体 (病気) については、医者のいうことをそのまま鵜呑みにせず、&lt;br /&gt;自身の判断に基づいて、ケアすべきだからだ。世の中には、(製薬会社と癒着する&lt;br /&gt;) でたらめな薮 (やぶ) 医者が意外に多いのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;牛乳は元来、子牛の成長のための母乳である。だから、成長ホルモンや栄養が当&lt;br /&gt;然タップリだ。赤ん坊の細胞はそれを吸ってすくすく成長する。しかしながら、&lt;br /&gt;成人した我々の体では、正常な細胞は大部分成長が止まっている。例外は癌患者&lt;br /&gt;の「癌細胞」である。癌細胞は栄養に飢えているから、牛乳の栄養を吸って増殖&lt;br /&gt;を続ける。牛乳ばかりではない。カロリーの高い栄養食は全て、癌の栄養になる。&lt;br /&gt;だから、癌患者は療養中、節食 (腹七分目) が必要なのだ。乳製品だけに限らな&lt;br /&gt;い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本の訳者は、栄養医学者だが、癌には疎いようだ。「牛乳バッシング」的な&lt;br /&gt;タイトル (結論) は、著者 (地質学者) および訳者の早計の至り (あるいは牛乳&lt;br /&gt;のみに拘泥し過ぎる) としか言えない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「肥満体 (あるいはメタボ) の患者の癌は治療しにくい」という癌の常識を、癌&lt;br /&gt;患者は肝に命じるべきだ。過剰な脂肪が癌に栄養を供給し続けているからだ。そ&lt;br /&gt;ういう(より巾広い) 視野から、この本を改めて読み直してみると、意外に有益 &lt;br /&gt;(得るところが多い) かもしれない 。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小説は多分例外だろうが、一般的に本というものは、特にノンフィクション物は、&lt;br /&gt;読者の洞察力をそのまま反映する「鏡」のようなものである。もちろん、１を読&lt;br /&gt;んで１０を知ることができれば理想的である。１を読んで１しかつかめない（鵜&lt;br /&gt;呑みする）ようでは、読者として失格である。得るものがほんのわずかだからだ。&lt;br /&gt;１０とはいわなくても、３から５ほど学ぶことができれば、かなり優秀だろう&lt;br /&gt;（頭を駆使して「行間を読む」努力をしよう！）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そうすれば、癌ばかりではなく、老化も防ぐことができる。なぜだろう？　脳と&lt;br /&gt;は（使えばの話だが）体の中で（筋肉以上に）最も糖分を消費するところなので&lt;br /&gt;ある。糖分を効率良く消費すると、余分な糖分で肥満、糖尿病、認知症（アルツ）&lt;br /&gt;などの老化現象に陥ることを防止することができるからだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-4307811135410818555?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/4307811135410818555/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=4307811135410818555' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/4307811135410818555'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/4307811135410818555'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/11/your-life-in-your-hands.html' title='「乳がんと牛乳」（こみち書房） &lt;br&gt;気になる内容、どう読むべきか？'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-152132537298266521</id><published>2008-11-17T07:23:00.005+09:00</published><updated>2008-11-18T04:23:49.565+09:00</updated><title type='text'>「金儲け」のみが目当ての悪書：「東大合格生のノートはかならず美しい」 （文藝春秋）</title><content type='html'>&lt;b&gt;結論：&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;私の結論をまず言わせてもらえば、（目下、巷でバカみたいに売れている）この&lt;br /&gt;本は「お金を払ってまで、読むほどの価値はない！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;総論：&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;私がここで、若い高校生たちに特にお勧めしたいことは、他人の真似をせず、自&lt;br /&gt;分に最も適した記憶のしかた、メモの取りかたを含めた「頭の整理方法」を自ら&lt;br /&gt;編み出す努力をしてもらいたい、ということである。東大に入学するだけが人生&lt;br /&gt;ではない！　我々の人生はもっとずっと「多彩」であるべきだ。そういう多彩さ&lt;br /&gt;に「美しさ」を見つけてほしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（「金儲け目当て」の本や業者の宣伝に盲従して）軍隊の兵士のように皆んな同&lt;br /&gt;じ色の制服を着て、号令一下、同じ「コクヨ」のノートを使って、青春の貴重な&lt;br /&gt;時間を過ごすのは、戦争中の「学徒出陣」を連想させ、はなはだ「醜い」と（欧&lt;br /&gt;米で自由を長らく謳歌してきた）私には思えてならない！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ノートとは「覚え書き」である。忘れないで覚えておきたいことをちょっと書き&lt;br /&gt;残すメモ帳である。従って、その内容や書き方は人それぞれである。少なくとも&lt;br /&gt;自分で読めれば十分で、「美しい」必要は全くない。東大生のノートが「美しい」&lt;br /&gt;という（著者の）評価は、どんな基準に基づいているのか定かでないが、自分の&lt;br /&gt;ノートをみて、美しいと思ったことは一度もない。だから、この本の表題は「根&lt;br /&gt;本的に間違っている！」　もちろん、私は他人のノートなど覗いたことはない。&lt;br /&gt;（自分に）役に立つはずがないからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;各論：&lt;/b&gt;　&lt;br /&gt;高校でも大学でもそうだが、教師は大部分、指定された教科書に基づいて、授業&lt;br /&gt;をする。従って、教科書を予習しておけば、教師の喋っていることは大部分、教&lt;br /&gt;科書に書いてあることがすぐ分かる。従って、授業中、特にメモすることはない&lt;br /&gt;のだ。例外は英語とドイツ語（第２外国語）の授業にサイドリーダー（副読本）&lt;br /&gt;を使って、邦訳をやらされる場合である。私は自分で単語帳を作って、自宅で予&lt;br /&gt;習のときに、新しく出会った単語を辞書で調べて、その意味を書き留めておく。&lt;br /&gt;この２冊の単語帳が私の唯一のノートだった。お世辞にも美しい筆跡ではないが、&lt;br /&gt;自分で読める字だから、すこぶる重宝した。そのおかげで、欧米で３０余年も生&lt;br /&gt;活しているが、言葉にはほとんど不自由しない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;国際学会で、講演者のしゃべっている内容を一々克明にメモしている学者連中を&lt;br /&gt;良く見かける。私は学会でメモをとることは非常に稀れだ。メモしたいことがあ&lt;br /&gt;れば、講演要旨の余白にちょっと、２、３単語を書き残せば十分である。私の&lt;br /&gt;「モットー」は、人間というものは、大事なことはメモしなくても覚えていると&lt;br /&gt;いうことだ。例えば、３食をうっかり忘れることは、他によっぽど興奮すること&lt;br /&gt;がない限り、一生に何度も起こるものではない。そして、もし仮に、忘れたとし&lt;br /&gt;たら、多分そんなに大事なことではないのだ。だから、私はもはや、ノートなど&lt;br /&gt;一冊も持っていない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;b&gt;私見：&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;事実は恐らく「東大生のノートにはきちんと整理されたものが多い」。ノートと&lt;br /&gt;はその持主の頭の状態を良く反映するからだ。それを「かならず美しい」と主張&lt;br /&gt;するのは、非科学的であるばかりでなく、歪曲もはなはだしい。売らんがための&lt;br /&gt;ガメツイ（ウソの）広告に過ぎない！　もう１つ警告しておくが、頭の整理され&lt;br /&gt;てない人間がノートの（美しい）書き方だけを真似しても、東大入試には合格で&lt;br /&gt;きないだろう。 頭に益々混乱が生じて、どの大学入試にも失敗するかもしれない。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんなに東大に合格したかったら、すばらしい解決法が１つある。日本全国にあ&lt;br /&gt;る大学を全部「東大」と改名し、全国一律の入試をして（合格者の最低点の順番&lt;br /&gt;に）東大１、　東大２、　東大３、。。。東大３６５などと番号をつける。&lt;br /&gt;成績がトップの３５００名（定員）をまず東大１に割り当て、次の成績の者は東&lt;br /&gt;大２の定員（例えば、３０００名）以内で入学を許可される。&lt;br /&gt;そうすると、日本全国の大学生が全員、あこがれの「東大生」になれる。。。　&lt;br /&gt;どうだろうか？　美しい「コクヨ」のノートなど全く不要だ！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるいは（理系の「ノーベル受賞者」が抜群に多い）京大にも敬意を表して、理&lt;br /&gt;系（京大）と文系（東大）は別個の入試をし、京大１、２、３。。。&lt;br /&gt;東大１、２、３。。。　というように全国の大学を２分するのもよいかもしれない。 &lt;br /&gt;多分、芸術家（音楽家、画家など）志望の学生には、芸大１、２、３ も必要だろう。。。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-152132537298266521?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/152132537298266521/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=152132537298266521' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/152132537298266521'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/152132537298266521'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/11/blog-post_17.html' title='「金儲け」のみが目当ての悪書：&lt;br&gt;「東大合格生のノートはかならず美しい」 （文藝春秋）'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-7647932335265071095</id><published>2008-11-10T06:37:00.002+09:00</published><updated>2008-11-11T05:23:54.575+09:00</updated><title type='text'>『トゥレット症候群』との闘い</title><content type='html'>自分の意志とは関係なく， 突然繰り返して起こる運動チックと音声チックの&lt;br /&gt;両方が多様に現れ、それが一年以上続くと『トゥレット症候群』（ＴＳ）と呼ば&lt;br /&gt;れる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;発症頻度は少なくとも５千名に１名とされ、男女比は３対１と男性に多い。&lt;br /&gt;脳内の神経伝達物質（ドーパミン、セレトニン等）の異常とみられるが、詳しい&lt;br /&gt;原因はまだ不明。「ＴＳ」は遺伝的要因が強く、神経伝達物質阻害剤の投与で症&lt;br /&gt;状がある程度抑えられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;運動チックとは、まばたき、口を尖らす、顔しかめ、首振り、肩のぴくつき、&lt;br /&gt;他人や物へのタッチ、匂い嗅ぎ、キック、ジャンプなどである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;音声チックとは、咳き払い、ノド鳴らし、鼻鳴らし、 甲高い声、&lt;br /&gt;意味不明な言葉や自分または、他人の言葉尻りの繰り 返し、&lt;br /&gt;時には卑猥な言葉や非常識な言葉を発してしまう場合もある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平均6-8才に出現し，強くなったり， 弱くなったりして持続する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ＴＳ」は、母親の愛情不足とか、躾が悪いからだ、と従来言われてきたが、そ&lt;br /&gt;れは間違いである。しかしながら、そういう周囲の誤解で、悩み傷ついている家&lt;br /&gt;族が数多くいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この本 (Against Medical Advice) は、「ＴＳ」をわずらう息子コリー とその両&lt;br /&gt;親の何十年にもわたる苦しい闘いと葛藤を綴った実話である。病気の原因がわか&lt;br /&gt;らないので、医師からも適切な治療やアドバイスが得られない。周囲からは、誤&lt;br /&gt;解によるいじめや非難を受ける。最後に両親の愛情に守られ、コリーはこの「Ｔ&lt;br /&gt;Ｓ」から解放される。目下、ＮＹタイムズ「ベストセラー」のトップに迫りつつ&lt;br /&gt;ある感動の読み物。。。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-7647932335265071095?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/7647932335265071095/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=7647932335265071095' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/7647932335265071095'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/7647932335265071095'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/11/blog-post.html' title='『トゥレット症候群』との闘い'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-7002866290944764556</id><published>2008-10-28T08:07:00.001+09:00</published><updated>2008-10-28T08:53:53.799+09:00</updated><title type='text'>ウオレン・バフェット伝  ("The Snowball" by Alice Schroeder)</title><content type='html'>米国のカリスマ投資家ウオレン・バフェットに関する評伝「雪ダルマ」が目下、&lt;br /&gt;NYタイムズのノンフィクション部門のベストセラー・リストのトップを占めてい&lt;br /&gt;る。８０年前の「世界大恐慌」の訪れを思わせる世界的「金融危機」に瀕している今&lt;br /&gt;日の資本家やビジネスマンにとっては、あたかも「救世主」のような存在らしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;正直言って、株や投資に全く縁のない純然たる学者の私には、彼の名前は初耳だっ&lt;br /&gt;た。大恐慌の真っただ中、１９３０年に生まれた彼は、既に喜寿（７７歳）を越&lt;br /&gt;え、仕事を息子に譲りつつある。当然「先見の明」があって大成功した（今日、&lt;br /&gt;ＩＴ王として知られる「ビル・ゲイツ」をもしのいで、世界で最も富裕な実業家&lt;br /&gt;である）彼が、今日の「金融危機」は本の序の口で、これからドンドン悪化し続&lt;br /&gt;けるだろう、と語っているから、覚悟を十分にしたほうが良かろう。。。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼が破竹の勢いであるオバマ大統領候補 (民主党) を積極的にバックアップして&lt;br /&gt;いるというから、大変面白い。「鬼に金棒」と言えるだろう。「鬼」と言っても、&lt;br /&gt;(あの「ジョージ・ブッシュ」と違って) オバマは極めて善良な鬼だが。。。ひょっ&lt;br /&gt;としたら、彼は来たるべき「オバマ政権」の財務長官に最適任かもしれない。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;英文原書は大作で、千ページに近いので、とても直ぐ読み終えるというわけには&lt;br /&gt;いかない。「斜め読み」で、全体の感触を何とかつかみつつあるところである。&lt;br /&gt;大きな雪ダルマを作るには、「湿った雪」と「長い傾斜(スロープ)」が必要だと、彼は言う。&lt;br /&gt;ドライなビジネスでは、成功しない。温かい人情が必要だ。そして「せいては事&lt;br /&gt;をし損じる」。長い時間をかけてゆっくり坂を上り下りしなければならない。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして、雪深きオマハという片田舎に「正直者」の彼が始めた「Berkshire &lt;br /&gt;Hathaway」社という雪ダルマの「芯」が誕生し、最後に巨万を築き上げたのだ。。。&lt;br /&gt;だから、彼は世界中のビジネスマンから尊敬を集めているといわれている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-7002866290944764556?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/7002866290944764556/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=7002866290944764556' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/7002866290944764556'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/7002866290944764556'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/10/snowball-by-alice-schroeder.html' title='ウオレン・バフェット伝  (&quot;The Snowball&quot; by Alice Schroeder)'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-3590603315074503881</id><published>2008-10-13T14:46:00.048+09:00</published><updated>2008-12-22T15:50:44.236+09:00</updated><title type='text'>Aglow in the Dark (Green Fluorescent Protein)</title><content type='html'>&lt;b&gt;「ＧＦＰ物語：　ノーベル賞にきらめく蛍光クラゲ」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;目次&lt;br /&gt;序文　（シルビア・ナサー）&lt;br /&gt;はしがき&lt;br /&gt;１。　生命体の発する光&lt;br /&gt;２。　海に住むホタル&lt;br /&gt;３。　被曝地「長崎」から&lt;br /&gt;４。　蛍光オワンクラゲの謎&lt;br /&gt;５。　虹のかなたに&lt;br /&gt;６。　輝くバクテリア&lt;br /&gt;７。　線虫の出番&lt;br /&gt;８。　蛍光トレーサー&lt;br /&gt;９。　バラ色のスタート&lt;br /&gt;１０。　珊瑚礁の真っ赤なアネモネ&lt;br /&gt;１１。　脳や鼻の中を照らし出す&lt;br /&gt;１２。　アイディアのひらめき&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９６０年代初頭に発光クラゲから発見された蛍光タンパク質「ＧＦＰ」が今日、&lt;br /&gt;生物学や医学の研究分野で、放射性アイソトープの代わりに「トレーサー」とし&lt;br /&gt;て、極めて広範囲に利用されるようになり、その発見者 (下村 脩) や開発者 (マーチ&lt;br /&gt;ン・チャルフィー及びロージャー銭）に本年のノーベル化学賞が与えられるとい&lt;br /&gt;うニュースが最近報道された。ＧＦＰ融合遺伝子を発現する透明な線虫を使って、&lt;br /&gt;制癌剤の自動スクリーニング法を開発しつつある私自身もその吉報に、受賞者と&lt;br /&gt;共に喜びを分かち合いたい。実は昨年に米国のエール大学の神経生理学者ビンセ&lt;br /&gt;ント・ピエリボンとジャーナリストのデビッド・グルーバー  が共著で、ＧＦＰ&lt;br /&gt;の発見の歴史やその応用について、一般大衆向けの本（３００ページ弱）をハー&lt;br /&gt;バード大学出版から出している。英文原書のタイトルは「Aglow in the Dark」&lt;br /&gt;（暗闇の灯)。邦訳はまだ出ていない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;キューリー夫妻が発見したラジウムが暗闇で美しい蛍光を発することは有名な話だ&lt;br /&gt;が（実は、時計の文字盤に使う夜光塗料には微量のラジウムが含まれている）、&lt;br /&gt;色々な生き物にも蛍光を発する物質が存在している。一般的に最も良く知ら&lt;br /&gt;れているのは、ホタルの光をもたらす「ルシフェリン」という物質である。それ&lt;br /&gt;自体は蛍光を発しないが、ＡＴＰと「ルシフェラーゼ」という酵素の存在下で、&lt;br /&gt;酸化されると蛍光を発するようになる。この現象を発見したのは、１９５０年代&lt;br /&gt;初頭、米国のジョンス・ホプキンス大学の院生だったバーナード・ストレーラー&lt;br /&gt;（１９２５ー２００１）である。その後、彼は老化現象の専門家になる。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、海洋生物の中にも、ホタルイカのようにルシフェリン系の蛍光を発するものがある。&lt;br /&gt;１９６０年代初頭、米国のプリンストン大学にポスドクとして研究留学中だった下村　&lt;br /&gt;脩は、米国大陸を車で横断して、ワシントン州の西部海岸で、暗闇で緑色の蛍光&lt;br /&gt;を発するオワンクラゲの大群に出会った。それにすっかり魅せられた彼は、その&lt;br /&gt;後２０年近い歳月をかけて、その蛍光の謎を解く研究に没頭する。意外にも、この&lt;br /&gt;蛍光には２種類の蛋白質が関与していることがわかった。「エクオリン」という蛋白は、&lt;br /&gt;カルシウムに結合すると、青い光を発する。その青い光を吸収して、緑色の蛍光&lt;br /&gt;を発するのが、「ＧＦＰ」という蛋白質である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９９２年にウッズホール海洋研究所のダグラス・プラッシャーがＧＦＰ遺伝子&lt;br /&gt;のクローニングに成功すると、瞬く間にいわゆる「ＧＦＰ革命」が勃発する。１&lt;br /&gt;９９４年にコロンビア大学のマーチン・チャルフィー教授が、大腸菌や線虫でＧＦ&lt;br /&gt;Ｐ融合遺伝子の発現に成功、青い光を照射すると、これらの生物が緑色の蛍光に輝&lt;br /&gt;くことを確認する。まもなくカルフォルニア大学（サンディエゴ）のロージャー銭&lt;br /&gt;が、ＧＦＰ遺伝子に変異をかけ、数倍強い蛍光を発する改良型の開発に成功する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１。　生命体の発する光&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;基本的には、摂氏５２５度以上に加熱すれば、固体なら何でも幽かな鈍い赤色の光を&lt;br /&gt;放つ。温度がさらに高まると、色はさくらんぼの赤から、黄色に変わり、最終的&lt;br /&gt;には太陽のごとく白色になる（太陽の表面の温度は、摂氏５５００ー６０００度&lt;br /&gt;といわれている）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ホタルの光など生命体の発する光の顕著な特徴は、(熱を大量に発生する) 電灯&lt;br /&gt;や太陽光と違って、熱の発生を全く伴わないことである。それゆえに、無熱光とか&lt;br /&gt;「バイオ・ルミネッセンス (冷光)」とか呼ばれる。化学エネルギーが１００％、光エ&lt;br /&gt;ネルギーに変換される極めて効率の良いシステムである。トマス・エジソンが発&lt;br /&gt;明（あるいは初めて実用化）したといわれている「白熱電球」はしばらく点灯し&lt;br /&gt;ていると、素手ではとても触れないほど熱くなる。電気エネルギーの９割が（赤&lt;br /&gt;外線を含む）熱エネルギーに変換し、わずか１割が光（可視光線）エネルギーに&lt;br /&gt;変換されるからである。もし、ホタルがこんな（光効率の悪い）システムを使っ&lt;br /&gt;ていたら、熱で焼き切れてすぐ死んでしまうだろう。ちなみに、蛍光ランプ（基&lt;br /&gt;本的には水銀灯）も熱光ではあるが、２５％が可視光線、３０％が赤外線、残り&lt;br /&gt;（４５％）が熱エネルギーに変換するので、白熱電灯よりは、可視光効率がずっ&lt;br /&gt;と高い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;発光生物に関する研究にもっと科学的なアプローチがなされたのは、１７世紀に入っ&lt;br /&gt;てからの話である。ロンドン王立協会の創立者ロバート・ボイル（１６２７ー１&lt;br /&gt;６９１）は、自然科学に基づいて結論を引き出そうとする新しい研究者／哲学者学&lt;br /&gt;派の一人だった。１６６７年の後半、オックスフォードに滞在中、蛍光キノコの入っ&lt;br /&gt;た鐘形ガラス器から（原始的な真空ポンプを使って）空気を抜くと、蛍光が消え&lt;br /&gt;ることを発見した。空気を戻すと再び発光し始めた。こうして、彼は冷光に関する&lt;br /&gt;最初の化学的性質について発見した。つまり、冷光には空気が必要である。１６&lt;br /&gt;７２年１２月に、その実験結果を王立協会の機関誌に発表した。しかしながら、当&lt;br /&gt;時には、空気の組成が全くわかっていなかった。それから約一世紀後に、空気の約&lt;br /&gt;５分の１を占める「酸素」という（我々の生命や燃焼に必要な）気体が発見されて、&lt;br /&gt;「冷光には酸素が必要である」ことが明らかになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボイルによる酸素の必要性に関する発見後２世紀の長きにわたって、生命体の冷&lt;br /&gt;光に関する研究にはほとんど進歩がなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、冷光に関する研究に転機が訪れたのは１８８７年のことである。その年、&lt;br /&gt;フランスのリヨン大学海洋研究所（メル河畔タマリス）のラファエル・デュボア&lt;br /&gt;所長（生理学教授）が画期的な発見をした。２つの化学物質が冷光に必要である&lt;br /&gt;という結論に達した。彼はその１つを「ルシフェリン」（発光素）、もう１つを&lt;br /&gt;「ルシフェラーゼ」（発光触媒あるいは酵素）と名付けた。語源はラテン語の&lt;br /&gt;「ルシファー」（金星、暁の明星、灯をもたらす者）から来ている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は西インド諸島に生息する発光虫（コメツキ虫の一種）に興味をもった。この島の&lt;br /&gt;原住民たちはこの発光虫を色々な形で灯の代わりに利用していた。例えば、夜中、&lt;br /&gt;森の道を歩く際、両足の爪先にこの虫をくくりつけて、懐中電灯の代用にしたり、&lt;br /&gt;部屋の照明に利用していたりしていた（日本の「蛍雪時代」、ホタルの光、窓の雪を&lt;br /&gt;連想させる！）。これらの習慣は、（今から２千年ほど昔のローマ帝国時代、ポンペイ&lt;br /&gt;に住んでいた生物学者）プリニウスによる冷光に関する記述以前にさかのぼることができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;デュボアは生まれたばかりの幼虫にも、小さいながらもちゃんと発光器官が備わっ&lt;br /&gt;ており、虫が死んだあとでも発光がなお持続していることに注目し、その不思議&lt;br /&gt;なメカニズムを詳しく研究して、その結果を２７５ページにもわたる大作にまと&lt;br /&gt;めている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;デュボアはまず発光虫の死骸をすりつぶした後、冷水で抽出すると、しばらく蛍&lt;br /&gt;光が持続したのち、消えることを観察した。次にすりつぶしたものを、熱湯で抽&lt;br /&gt;出してみた。蛍光は全く出なかった（たとえ、あとで冷却しても）。ところが驚&lt;br /&gt;いたことには、熱湯エキスを、蛍光が既に消えた冷水エキスに加えると、蛍光が&lt;br /&gt;再び現れ、やがて消えた。従って、熱湯エキスの効果は一過性だ（いったん消費&lt;br /&gt;されると効果がなくなる）。その現象はこの発光虫に限らず、例えば、食用の&lt;br /&gt;発光貝でも同じだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらの簡単な実験から彼は、２つの重要な結論を引き出した。まず第一に、&lt;br /&gt;この発光現象には、２つの異なる化学物質が必要であること。次に、（熱湯エキス&lt;br /&gt;に含まれる）「発光素」（＝ルシフェリン）は熱に安定であるが、（冷水エキスのみに&lt;br /&gt;含れる）発火物質、つまり「触媒」（＝ルシフェラーゼ）は熱に不安定であること。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、ルシフェリンやルシフェラーゼが一体どんな物質であるかが分子&lt;br /&gt;レベルで解明されるまでには、その後半世紀以上の歳月がかかった。この難問に&lt;br /&gt;果敢に挑戦し、初めてその謎解きに成功したのは、１９５０年代初頭当時、米国&lt;br /&gt;のジョンス・ホプキンス大学生物学科のウイリアム・マッケルロイ（１９１７ー&lt;br /&gt;１９９９）の研究室で働く若き院生だったバーナード・ストレーラー（１９２５ー&lt;br /&gt;２００１）だった。彼はまず１９４９年に、テネシー州オークリッジ国立研究所&lt;br /&gt;でホタルの光をもたらす「ルシフェリン」という物質を精製した。それ自体は蛍&lt;br /&gt;光を発しないが、ＡＴＰと「ルシフェラーゼ」という酵素の存在下で、酸化され&lt;br /&gt;ると、効率良く蛍光を発するようになることをジョンス・ホプキンス大学で、同&lt;br /&gt;僚のジョン・トッターと共同で１９５３年に発見した。「ルシフェラーゼ」自体&lt;br /&gt;の精製および結晶化は、１９５６年に同教室の院生アルダ・グリーンによって成&lt;br /&gt;功した。「ルシフェリン」の化学構造は、同大学化学科のホワイトとマックカプ&lt;br /&gt;ラにより１９６１年に決定された。その後、バーナードは研究分野を変え、老化&lt;br /&gt;現象の専門家になる。　ちなみに、マッケルロイはプリンストン大学時代に、エ&lt;br /&gt;ドマント・ハーベイ教授の弟子（院生）だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第二次世界大戦後、ソ連の海軍は極秘に海洋生物の冷光について研究し、海軍の&lt;br /&gt;作戦に対して冷光がおよぼす影響について吟味している。その調査を指揮した有&lt;br /&gt;名なソ連海軍の将校、ニコライ・タラソフは１９５６年に、夜中の冷光が船の運&lt;br /&gt;航の妨げになることを報告している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;潜水艦の乗員たちは、しばしば冷光の軌跡を利用して、標的に向かう魚雷の進路&lt;br /&gt;を追跡することができる。しかしながら、冷光は逆に、自分たち味方の戦艦の居&lt;br /&gt;場所を敵側に教える結果にもなる。(タラソフの調査によれば)１９１８年１１月&lt;br /&gt;９日の夜中、地中海のジブラルタル海峡近くで、英国の「Ｑ船」(潜水艦退治を目&lt;br /&gt;的とする商船に見せかけた戦艦) が、海面下に蛍光を発する巨大な長細い物体を&lt;br /&gt;発見した。Ｑ船はその物体めがけて、３発のミサイルと一連の爆雷を発射した。&lt;br /&gt;謎の物体はドイツのＵーボート (潜水艦) だった。&lt;br /&gt;「潜水艦を取り巻く強い蛍光生物で、潜水艦の運航が丸見えだった。発見してか&lt;br /&gt;ら３０分以内に、その潜水艦「Ｕー３４」が撃沈された。第一次大戦最後の生き&lt;br /&gt;残りＵーボートだった。その翌翌日、ドイツがついに降服して、終戦を迎えた」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第二次世界大戦に活躍し始めた空母 (航空母艦) に頼るパイロットたちは、夜間&lt;br /&gt;の帰艦の際、母艦の位置を正確にキャッチするために、母艦が航路に残していく&lt;br /&gt;海洋生物の群による蛍光の帯を、しばしば利用する。その特筆すべき有名な代表&lt;br /&gt;例が実話「消えた月」に登場する (のちに、映画「アポロ１３号」にも再現され&lt;br /&gt;る）。宇宙飛行士ジェイムス・ロベルは、月着陸計画に失敗した月ロケット「ア&lt;br /&gt;ポロ１３号」の乗組員の一人だが、１９５４年２月に、海軍のパイロットとして、&lt;br /&gt;日本列島の沖合いで夜間飛行訓練に携わっていた時のことである。その日は荒れ&lt;br /&gt;た天候だったが、米軍空母「シャングリラ」から飛び立った後、飛行機の探知器&lt;br /&gt;が故障していたため、間違った方向に飛び立ったばかりではなく、こともあろう&lt;br /&gt;に、操縦席にある計測器もショートを起こして、ランプが全部消えて、真っ暗闇&lt;br /&gt;に閉ざされてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パニックに瀕んして、心臓の鼓動がにわかに高まり、喉がカラカラになった。自&lt;br /&gt;分の周囲を見渡したが何も見えなかった。彼はとっさに酸素吸入マスクを頭から&lt;br /&gt;取り外して、ペンライトを口にくわえ、計測器を照らしてみた。この小さなフラッ&lt;br /&gt;シュライトから出る弱々しい細い光線が操縦席の計器のほんの一部、例えば指針&lt;br /&gt;とかダイヤルを照らし出した。彼はできるだけの情報を得たのち、操縦席にもた&lt;br /&gt;れ、次にどうすべきかを思案した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず口にくわえていたペンライトのスウッチを切り、真っ暗闇の視界をもう一度&lt;br /&gt;見回してみた。すると、どうだろう、眼下に午前２時の方向に、かすかな緑色の&lt;br /&gt;蛍光が真っ暗な海面に帯状に波立っているのが見えた。その無気味な放射線（蛍&lt;br /&gt;光）は極めて微弱で、もし操縦席に灯があったら、彼はたぶん見過ごしていたろう。&lt;br /&gt;それをみて、彼は心を取り戻した。その不思議な蛍光が一体何であるか、おおよそ&lt;br /&gt;の見当がついていたからだ。空母の後部にあるスクリューの動きによって刺激さ&lt;br /&gt;れたプランクトンの群れが蛍光を発しているのだ！　さ程信頼性の高いものとは&lt;br /&gt;言えないが万事が尽きたとき、一旦見失った空母を見つけ出す手助けになること&lt;br /&gt;がある（もちろん、戦争中なら、味方ではなく敵の空母や戦艦である可能性もあ&lt;br /&gt;るのだが）。他によりどころのない彼は、その一条の蛍光に運命を委ねて、母艦への&lt;br /&gt;帰艦を敢行した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２。　海に住むホタル&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ラファエル・デュボアの「ルシフェリン／ルシフェラーゼ」という概念は、半世紀後の&lt;br /&gt;めざましい冷光研究の基礎を築き上げ、米国のマッケルロイ研究室による実物の&lt;br /&gt;精製や発光のメカニズムの解明に結びついたが、冷光の研究を世界的に有名に&lt;br /&gt;ならしめたのは、エドマント・ハーベイだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ハーベイは、１８８７年１１月２５日に、米国フィラデルフィアの郊外にあるジャー&lt;br /&gt;マンタウンに生まれた。奇しくも同じ年に、デュボアの「ルシフェリン／ルシフェ&lt;br /&gt;ラーゼ」概念も生まれた。その意味で、ハーベイは「冷光の申し子」とも言える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９０９年９月に、ハーベイはニューヨークに移り、コロンビア大学のトマス・&lt;br /&gt;モーガン教授（１８６６ー１９４５）の研究室で博士研究を始めた。モーガンは&lt;br /&gt;発生学者だったが、当時既に、ショウジョウバエを実験材料に遺伝学の研究を始&lt;br /&gt;めていた。ハーベイがこの「ショウジョウバエ研究室」に加わった時分、モーガ&lt;br /&gt;ンは奇妙なオスのショウジョウバエの変異株（ミュータント）を見つけた。ショ&lt;br /&gt;ウジョウバエは通常、「赤い目」をしているが、このオスはなぜか「白い目」を&lt;br /&gt;していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;好奇心に誘われて、モーガンはこの白目のオスと赤目のメスを掛け合わせて、そ&lt;br /&gt;の子孫の目の色を観察した。第一代目の子孫は全部、赤目だった。これらの兄妹&lt;br /&gt;同士を交配すると、２代目に少数の白目が現れた。奇妙なことには、白目のハエ&lt;br /&gt;は皆オスだった。メンデルの遺伝の法則に従って、モーガンはこの交配実験から、&lt;br /&gt;次のような結論を引き出した。まず、赤目は優性、白目は劣性であること。次に、&lt;br /&gt;白目の遺伝形質は性染色体「Ｘ」上にあるにちがいないこと (今日の言葉で言え&lt;br /&gt;ば、白目になるのは、Ｘ染色体に赤い色素をつくる遺伝子が欠損しているからだ。&lt;br /&gt;メスは一対(２つ) のＸ染色体をもつが、オスはＸ染色体とＹ染色体を１つづつ持&lt;br /&gt;つ。従って、メスの場合は、たとえＸ染色体の１つに欠損があっても、（正常なもう&lt;br /&gt;１つのＸ染色体のおかげで）赤目のままだが、オスの場合は１つしかないＸ染色体&lt;br /&gt;に欠損があれば、全て白目になるわけだ）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;モーガンはこれらショウジョウバエの遺伝学研究により、近代遺伝学を確立し、&lt;br /&gt;１９３３年にノーベル生理／医学賞をもらう。モーガンの「遺伝子は染色体の上&lt;br /&gt;にある」という概念は、生物学を一変させ、彼のショウジョウバエ研究室はその&lt;br /&gt;後、数多くの有名な遺伝学者を生み出した。１９４６年にノーベル賞をもらった&lt;br /&gt;ヘルマン・ミュラー（１８９０ー１９６７）もその弟子の一人で、Ｘ線照射によっ&lt;br /&gt;て、ショウジョウバエに種々の変異を起こし得ることを発見した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ハーベイはミュラーとほとんど同時期に、モーガンの研究室で研究を始めたが、&lt;br /&gt;彼の関心は遺伝学ではなく、細胞膜の生化学、特に膜透過性に関する研究だった。&lt;br /&gt;２年後に研究を完成し、博士号を取得すると、幸運が彼を待ち受けていた。プリ&lt;br /&gt;ンストン大学生物学科が拡張を機会に、ハーベイに講師の職を提供した。当時わ&lt;br /&gt;ずか２３歳の彼は、しばしば学部学生と間違えられたそうである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は当初、のどかな環境に囲まれたこの牧歌的な大学町にあまり刺激を感じなかっ&lt;br /&gt;た。というのは、当時のプリンストン大学では、（彼には全く関心のない）政治&lt;br /&gt;学や哲学など文化系の学問が中心だったからだ。しかしながら、結局、彼はこの&lt;br /&gt;地に教職と研究を死ぬまで半世紀近く完うすることになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９世紀の自然主義者、例えばチャールズ・ダーウインのように、ハーベイには&lt;br /&gt;「新発見のための航海」をやってみたい冒険心に溢れていた。そこで、ダーウイ&lt;br /&gt;ンによる有名な「ビーグル号航海」に匹敵するような一連の探険を、ハーベイは&lt;br /&gt;試みた。彼の初期の訪問先は、米国領のサモア、ハワイ、キューバ、日本列島、&lt;br /&gt;朝鮮半島、満州、フィリピン諸島、シンガポール、バリ島などであった。１９１&lt;br /&gt;３年に、彼はその後のキャリア（研究歴）を一変させることになる航海に出かけ&lt;br /&gt;た。ペンシルバニア大学の元教授であるアルフレッド・メイヤーとともに、豪州&lt;br /&gt;のグレート・バリア・リーフ（大珊瑚礁）、シドニー、ブリスベン、タウンズビ&lt;br /&gt;ル、ケアンズ、タヒチ、ラトンガ、ウエリントン（ニュージーランド北島）など&lt;br /&gt;の南太平洋岸を訪れた。この航海の一体どこで、彼が冷光に魅せられたのか、はっ&lt;br /&gt;きりしないが、１９１３年に冷光に関する最初の論文を発表した。題して「ホタ&lt;br /&gt;ルの蛍光物質の化学的性質」。　しかしながら、彼が冷光に一生病み付きになっ&lt;br /&gt;たのは、１９１６年に日本ヘ、彼がハネムーン旅行にやってきた最中だったのは&lt;br /&gt;疑いない。真夜中、三崎の臨海実験所の近くの海で彼が泳いでいたときのことだ。&lt;br /&gt;日本の海岸の浅瀬に良く見かける「海ホタル」の妖しい蛍光の魔力にとりつかれ&lt;br /&gt;てしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸いにも、新婚の彼の奥さんエセル・ブラウンが、彼の海洋生物への異常な関心&lt;br /&gt;に対して理解があった。結婚する３年ほど前に、実は彼女もコロンビア大学で生&lt;br /&gt;物学の博士号を取ったばかりだった。彼女の博士研究は水中の昆虫に関するもの&lt;br /&gt;だった。その後、エセルはウニの発生学に専念するようになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本を去る直前に、ハーベイは大量の海ホタルを収集、乾燥後プリンストンに郵&lt;br /&gt;送するための手配をした。冷光の生化学研究の材料として、海ホタルが理想的だ&lt;br /&gt;と考えたからである。というのは、この生き物は乾燥保存しておけば、何年後に&lt;br /&gt;なっても、水を加えて湿らせさえすれば、すぐ蛍光を発するからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４０年代の初頭、日本軍はニューギニアや他の太平洋の戦場で、海ホタルを&lt;br /&gt;戦争道具の１つとして開発するプランを立てた。南太平洋諸島のジャングルを月&lt;br /&gt;が出ない夜間に行軍する際、日本軍の兵士たちは、敵に自分たちの居場所を教え&lt;br /&gt;かねない乾電池の懐中電灯は使いにくかった。そこで、代わりに乾燥した海ホタ&lt;br /&gt;ルが入った小さなバイアルを大量、連隊に配分するという計画を始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;太平洋戦争中に、何百キロという海ホタルが日本軍の将兵、学生、ボランタリー&lt;br /&gt;によって収集された。その一部は、（ハーベイが１９１０年代に収集した）三崎&lt;br /&gt;臨海実験所（東京大学）からそう遠くない館山臨海実験所（お茶の水女子大学）&lt;br /&gt;でも集められた。日本軍は（敵国の学者である）ハーベイが開発した収集法をそっくり&lt;br /&gt;拝借した。大きな魚の頭を紐にぶら下げ、海岸の砂の多い浅瀬の底に置いておく。&lt;br /&gt;２時間以内に、頭の周りが肉をしゃぶりにきた海ホタルの大群でいっぱいになる。&lt;br /&gt;魚の食い残しをたぐり寄せれば、海ホタルは簡単に集められるという寸法だ。&lt;br /&gt;海ホタルは日干しにした後、連隊に郵送される（後述するように、この「戦利品」の&lt;br /&gt;残りが戦後、名古屋大学の平田教授の手に移リ、その研究生となった下村　脩氏&lt;br /&gt;の実験材料になるというわけだ）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３。　被曝地「長崎」から&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９６１年の夏休みの頃だった。カナダへの国境に近いモンタナ州北部、グレー&lt;br /&gt;シャー国立公園の南端にあるロッキー山脈のマリアス峠（海抜約１６００メート&lt;br /&gt;ル）を乗り越え、大陸横断ハイウエー（ルート２）を新品のブルーに輝くステー&lt;br /&gt;ションワゴンで、突っ走る若い日本人の青年がいた。彼はゆったりと運転席にも&lt;br /&gt;たれながら、移り行く山の景観やミドルフォーク渓谷を楽しんでいた。彼の名は&lt;br /&gt;下村　脩。フルブライト留学生（ポスドク）で生化学が専門だった。彼は車の運&lt;br /&gt;転にそこぶる上機嫌だった。実は２、３日前から東海岸にあるプリンストン大学&lt;br /&gt;を出発して、はるばる西海岸のワシントン州パジェット・ サウンドまで、約５千&lt;br /&gt;キロの大陸横断旅行中だった。運転の相棒は、割腹のよいプリンストン大学の生&lt;br /&gt;物学教授フランク・ジョンソンだった。フランクはなんと日本語を「ノースカロ&lt;br /&gt;ライナ訛り」たっぷりで、流暢に喋る稀れな特技を備えていた。脩の奥さん「明&lt;br /&gt;美」も同乗していた。明美は２、３日前に日本から到着したばかりで、休む暇も&lt;br /&gt;なくこの大陸横断旅行に引っ張り出されてしまった（もっとも英語もまともに話&lt;br /&gt;せない状態で、プリンストンのナソー街にある夫のアパートに独り置いてきぼり&lt;br /&gt;にされたら、それこそどうしようもなくなるだろうが）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脩は細君が来るまで丸一年間、ろくに家具のないガランとしたアパートに独り住まい&lt;br /&gt;をしていた。彼の部屋のわずかな装飾の１つといえば、ドア（戸口）にセロテープで&lt;br /&gt;貼り付けたルシフェリンの化学構造の手書きコピーだった。彼の住いは粗末だったが、&lt;br /&gt;彼の服装からは、そんな想像が難しかった。毎日１２時間も車の中で過ごすにも&lt;br /&gt;かかわらず、彼はきちんとＹシャツにボタンをして、ネクタイもし、さらに薄い (愛用&lt;br /&gt;の) カーディガンまで着用していたからだ。旅行の目的は単純だった。こぶし大&lt;br /&gt;のあるクラゲの発する蛍光の謎を解くことだった。２、３か月後に同じ道筋を通っ&lt;br /&gt;てプリンストンに戻ってきてから、脩は生命体のもつ蛍光に関する最大のパズル&lt;br /&gt;の一つを解明したばかりではなく、最終的には生物学の分野全体を輝かせること&lt;br /&gt;になる奇妙な蛍光蛋白を発見する運命になる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世界大恐慌がやがて訪れる直前の１９２８年８月に生まれた脩は、その少年時代&lt;br /&gt;を日本の歴史上最も困難な時期に過ごした。太平洋戦争中、陸軍大佐の息子とし&lt;br /&gt;て育ったため、父親の転勤に伴って、佐世保（軍港）から戦地の満州、そして大&lt;br /&gt;阪から最後に１９４４年７月に諌早へと、転々とした放浪生活を繰り返した。彼&lt;br /&gt;の家族が諌早という長崎の郊外にある静かな農村に落ち着いたのは、脩が１５歳&lt;br /&gt;の頃だった。当時、タイに駐屯していた父親が、日本が敗け戦を味わい始めたの&lt;br /&gt;を悟って、留守家族に米軍による空爆の的になりつつある大阪から疎開するよう&lt;br /&gt;に命じたからだ。脩は母親や祖父祖母と共に、たら山の山麓、諌早という田舎に&lt;br /&gt;ある農家に移り住んだ。長崎市の中心から１０キロ離れた散村だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４４年９月１日の始業式に、諌早中学に進学した脩や同級生は、校長からな&lt;br /&gt;んと「授業はなし」と言い渡された。太平洋戦争中の日本の制度として、生徒全&lt;br /&gt;員が軍事工場で勤労奉仕するために動員されていたからだ。全校３００名の生徒&lt;br /&gt;のうち半分は、大村にある海軍の戦闘機（ゼロ戦）の工場へ、残りの半分は長崎&lt;br /&gt;造船所に行かされた。脩は３メートル四方（８畳敷）の寮部屋に他の６人の学友&lt;br /&gt;と共に寝泊りした。食事といえば、粗末で栄養価の乏しいものだった。常食は&lt;br /&gt;（平時には家畜の餌だった）おわん一杯の米と麦とおからの混ぜご飯だった。た&lt;br /&gt;まに、味噌汁とたくわん、あるいは魚か野菜が一皿が出ることもあった。今でも、&lt;br /&gt;当時の空腹状態を脩は思い出すそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４５年８月９日の朝、諌早は例年通り、早朝から蒸し暑かった。１６歳の脩&lt;br /&gt;は半ズボン、白シャツ、運動靴という服装で出勤した。午前１０時５７分、敵機&lt;br /&gt;の来襲を告げる空襲警報が鳴った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「我々は工場から飛び出し、防空壕に隠れる代わりに、近くにある丘の上に避難&lt;br /&gt;した。規則違反ではあるが、経験上、そこが安全であることを皆んなが心得てい&lt;br /&gt;たからだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;額に手をかざしながら、薄ら青い空を見上げてみると、米軍戦闘機の大編隊はな&lt;br /&gt;く、たった一機だけが頭上に、１２キロ先の長崎方面に向かって南方に飛んで行&lt;br /&gt;くのを見定めて、ほっと胸をなでおろした。上空を通過したその米軍の爆撃機か&lt;br /&gt;ら、白い落下傘が３つだけ降りてきた。しかし、不思議なことに落下傘部隊が降&lt;br /&gt;りて来る気配はなかった。その落下傘めがけて地上から撃っているのか、２、３&lt;br /&gt;発の銃声がパラパラと聞こえた。まもなく、もう一機の爆撃機が上空を通過し、&lt;br /&gt;同じ方向に飛び去っていった。どうやら、敵機が攻撃をしてこないようなので、&lt;br /&gt;脩は安心しながら、丘を駆け下り、持ち場に戻った。脩は次の瞬間に起こった一&lt;br /&gt;連の恐ろしい出来事を回想する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「仕事を再開しようとしたとたん、建物の内部に突然、眩しいせん光がほとばしっ&lt;br /&gt;た。あまりにも眩しいので、私は一時盲（失明）状態になった。一分後に炸裂す&lt;br /&gt;る大音響が轟きわたって、その強烈な爆風で両耳がひどく痛くなった。空一面が&lt;br /&gt;見る見るうちに不思議な雲におおわれたのに、私は気づいた。全てが謎に包まれ&lt;br /&gt;ていた」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その日の午後遅く、近くの長崎市で巨大な爆発が発生したことを脩は知らされた。&lt;br /&gt;彼は早めに仕事を切り上げ、祖父祖母が住む家に向かって、帰路を急ぎ始めた。&lt;br /&gt;その朝、快晴であったのに、午後は不思議に空がどんより曇っていた。帰路に周&lt;br /&gt;囲の農村一帯に黒い雨が降り、気味の悪い真っ黒な灰を残していった。その雨水&lt;br /&gt;で彼の白いシャツも黒く染まり、家に着いたころには、まるで頭から炭を被った&lt;br /&gt;ように真っ黒になっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;長崎に投下されたプルトニウム原子爆弾（原爆、通称「ピカドン」）の熱波（放&lt;br /&gt;射）は強烈で、人影があちらこちらの建物や街路にネガチブ写真（陰画）のよう&lt;br /&gt;に焼き付けられていた。手押し車を引く男が「炭化」直前に、そのシルエットを&lt;br /&gt;鋪道にくっきりと残していた。被曝した女性たちの肌には、ブラウスや着物の模&lt;br /&gt;様がそのまま「刺青」のように残っていた（白地の部分は熱波を反射するが、濃&lt;br /&gt;い色模様は熱波を吸収するからだ）。脩が目撃した空からの落下傘には、実は各&lt;br /&gt;種の測定器が装備されており、爆発の威力やその他のデータを直接、その爆撃機&lt;br /&gt;に送信するようになっていた。そのデータによると、長崎に投下された原爆の威&lt;br /&gt;力は、ＴＮＴ爆弾２２キロ屯に相当し、その３日前に広島に投下された原爆（ウ&lt;br /&gt;ラニウム爆弾）の２倍に匹敵する爆破力であった。脩の仕事を一時的に中断させ&lt;br /&gt;たあの眩しいせん光は、（米軍側からの１９７３年の報告によれば）瞬時に４万&lt;br /&gt;人の住民を即死させ、４万人の負傷者をもたらした。２発目の原爆は、その６日&lt;br /&gt;後の８月１５日に、日本の軍事政権の無条件降服をもたらし、太平洋戦争がつい&lt;br /&gt;に終了した（実際には、８月７日のソ連による宣戦布告、満州進駐のほうが日本&lt;br /&gt;の軍部、特に関東軍には決定的な打撃になったようである）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;敗戦と共に、脩が工場で働く義務はもうなくなったが、同時に日本中が大混乱に落&lt;br /&gt;ち入っていた。脩は２、３日毎に母校に戻って教師からの指示を仰ごうとしたが、&lt;br /&gt;何の指図も得られなかった。学校は長崎からの避難民の手当てをするための急ご&lt;br /&gt;しらえの病院に早変わりしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「学校は火傷や重傷に苦しむ何百人もの人々でひしめいていた。患者の名前が校&lt;br /&gt;門の前に張った大きな白い紙にリストアップされていた。日毎にその名前が次々&lt;br /&gt;と消えていった。死亡したか、親戚に引き取れたからだろう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２週間後のある晴れた暑い日に、脩が学校に戻ってみると、リストの半数以上の&lt;br /&gt;名前が消えていた。２、３人の人々が黙々と、校門の外に停めたリヤカーに死骸&lt;br /&gt;を積み込んでいた。棺おけが間に合わないので、死体にはゴザが被せてあるだけ&lt;br /&gt;だった。ゴザの下から死人の両足がむき出しになっているのを見て、脩はストレ&lt;br /&gt;スをひどく感じた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「私がさらに校内に足を踏み入れると、左側にある校庭をフラフラ、のろのろと&lt;br /&gt;夢遊病者のように歩き回る人々に出くわした。彼らに近付いてみると、火傷の部&lt;br /&gt;分に真っ黒いコールタールのようなものが貼り付いているのに気づいた。背中が&lt;br /&gt;ほとんど全部真っ黒になった「夢遊病者」の一人に近づいて、良く調べ直すと、&lt;br /&gt;その黒い物は、なんと「ウジ虫」の大群だった！　臭った皮膚にたかった蝿が産&lt;br /&gt;卵し、それがふかしたものだった。背筋にぞっと寒気を感じざるを得なかった」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その男だけではなかった。どの「夢遊病者」にも「ウジ虫」が化膿した火傷に巣&lt;br /&gt;食ったいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「これらの夢遊病者たちには、もう精神が宿っていないようだった。魂の脱け殻&lt;br /&gt;に近かった。真っ昼間に見る亡霊だった！　私は衝撃を受けて、心臓が止りそう&lt;br /&gt;になった。頭の中が真っ白になって、感覚をすっかり失ってしまった。うるさい&lt;br /&gt;蝉の鳴き声が突然止んだ。その死の光景が私の記憶に深く、永遠に刻み込まれた。&lt;br /&gt;あんな恐ろしい思いをしたことは、その後一度もなかった」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;米国マサチューセッツ州ウッズホールにある下村　脩氏の質実剛健（簡素）な書斎で、&lt;br /&gt;２００４年まで２年間にわたって、何度かインタービューを重ねたが、彼は窓か&lt;br /&gt;ら外を遠く眺めながら、もう６０年近く昔に起こったこれらの出来事をはっきりと&lt;br /&gt;思い出し、我々に説明してくれた。しかし、彼が敗戦直後に目撃した激動時代につ&lt;br /&gt;いては、ほとんど触れてくれなかった。それについて、水を向けると、彼は一言、&lt;br /&gt;こう答えるだけだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「我々は生き残るために、出来るだけのことをした。選択の余地はほとんどなかっ&lt;br /&gt;たからだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;戦後、日本の教育を支える下部組織がすっかりダメ（不機能状態）になっていた。&lt;br /&gt;例えば、脩の学業記録は爆撃で焼失していたし、彼の教師の大半が戦死していた。&lt;br /&gt;前述したが、彼の旧制中学時代の教育は、実に戦争の犠牲（勤労動員）になって、&lt;br /&gt;ほとんど皆無だった。従って、脩による大学への入学申請は、全て拒否された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;旧制長崎医科大学の学生８５０名の内６００名は戦死（爆死）し、残りの大部分&lt;br /&gt;は被曝症に苦しんでいた。教授２０名のうち１２名が爆死、４名が被曝症にかかっ&lt;br /&gt;ていた。諫早市の旧海軍基地に移転した旧制長崎医科大学附属薬学専門部（長崎&lt;br /&gt;大学薬学部の前身）に、脩が入学を申請したところ、幸い入学が許可され、１９&lt;br /&gt;４８年に仮校舎へ入学を果たした。といっても、大部分の教授が原爆の犠牲になっ&lt;br /&gt;たので、大学の授業を担当するのは、未経験の非常勤講師ばかりだった。そこで、&lt;br /&gt;脩の知識はほとんど大部分、独学によるものだった。とにかく、１９５１年にめ&lt;br /&gt;でたく卒業証書をもらい、武田薬品という日本最大の製薬会社に就職を応募した。&lt;br /&gt;しかし、面接試験で、会社には「不向き」という理由で、脩は採用されなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸いにも、母校薬学部で脩に分析化学を教えていた講師、安永俊五（１９１１ー１９５９）&lt;br /&gt;氏が不憫に思い、脩を教務助手として拾ってくれた。安永は当時、京都大学で博士&lt;br /&gt;研究をしながら、長崎で非常勤講師をアルバイトでやっていた。脩は教鞭のかたわら、&lt;br /&gt;安永先生の博士研究の手助けを色々な形でやった。１９５０年代の初め、安永先&lt;br /&gt;生は、クロマトグラフィーというテクニックを使って、低分子量の有機化合物の&lt;br /&gt;混合物から、各々の化合物を分離する方法を考案しつつあった。それによって、&lt;br /&gt;細胞から糖やアミノ酸などの低分子量の有機物を単離したり、治療薬の開発のた&lt;br /&gt;め有機化学反応の産物を精製したりすることが可能になる。脩は安永先生と共著&lt;br /&gt;で、日本薬学会の雑誌である「薬学雑誌」に８報もの論文を発表した。４年後に、&lt;br /&gt;安永先生は脩の研究ぶりに惚れ込んで、脩自身の博士研究の手助けをするために、&lt;br /&gt;１９５５年に名古屋大学に脩と一緒に出かけた。当初の目的は、有名な生化学者、&lt;br /&gt;江上不二夫教授に、弟子の脩を紹介することだった。ひょっとすれば、就職先も&lt;br /&gt;確保できるかもしれないと考えていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、名古屋に到着してみると、あいにく江上教授が学会で留守をしていた。戦&lt;br /&gt;後既に１０年も経っていたが、電話がどこにでも自由に通じるという状態ではな&lt;br /&gt;かった。失望しながらも、理学部化学科の研究室をぶらぶら訪ね歩いているうち&lt;br /&gt;に、４０歳で教授になりたての平田義正氏（１９１５ー２０００）にばったり出&lt;br /&gt;会った。平田教授は江上先生の弟子でもあり、６年前に博士号を名古屋大学から&lt;br /&gt;取ったばかりだった。（米国留学帰りで）身なりがくだけていたので、しばしば&lt;br /&gt;院生と間違えられることがあった。彼も研究室で天然化合物を分離、精製するこ&lt;br /&gt;とに喜びを感じていた (ちなみに、天然物化学の世界的権威であるコロンビア大&lt;br /&gt;学名誉教授の中西香爾も、平田氏の弟子である)。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、安永が平田教授に、江上教授に会うために、はるばる長崎から夜行列車&lt;br /&gt;で名古屋までやってきた事情を説明した。すると、平田教授はこう答えて、さっ&lt;br /&gt;さと自分の研究室に戻っていった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「もちろん、僕の研究室にいつ来てもかまわないよ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;安永も脩もきょとんとして、お互いに顔を見合わせた。実は、平田教授は片方の&lt;br /&gt;耳が難聴だった。彼は２人が自分に会うために名古屋へ来たと早合点したのだ。&lt;br /&gt;平田教授に近しい同僚たちは、誤解を避けたいときには、いつも彼の良い方の耳&lt;br /&gt;に向かって大声で話す習慣にしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;理学部の出口で立ち止まり、安永は明らかに戸惑いながら、脩にこう訊いた。&lt;br /&gt;「君、どうするつもりかね？」&lt;br /&gt;「僕はかまいませんよ。誰とでもつき合えますから」&lt;br /&gt;脩は、名古屋駅に向かって歩き始めながら、そう答えた。１か月後に、長崎大学&lt;br /&gt;に在籍しながら、平田教授の研究室に研究生として、仕事を始めた。初日に平田&lt;br /&gt;教授は大きなデシケーターを脩の目の前にもってきて、中から乾燥したウミホタ&lt;br /&gt;ルの欠片を取り出して、手の平で粉砕してから、水を添加した。その瞬間、それ&lt;br /&gt;が青い蛍光を発し始めた。平田教授は脩に言った。&lt;br /&gt;「これは誰も知らない謎だ」&lt;br /&gt;発光の化学反応について、未知だということだ。教授はなぜこの研究テーマを脩&lt;br /&gt;に与えるかを説明した。院生にウミホタルの研究テーマを与えれば、失敗するチャ&lt;br /&gt;ンスが極めて高いからだ。というのは、プリンストン大学で４０年も研究し続け&lt;br /&gt;ているハーベイ教授でさえ、その謎が未だに解けないからだ。脩は唯一の研究生&lt;br /&gt;だから、たとえ失敗に終わっても元々だと考えたわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脩の使命は、ウミホタルのルシフェリン、つまり蛍光を発する物質を、純粋に単&lt;br /&gt;離することだった。そうすれば、その化学構造を決定することができるからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９５５年の春、脩はウミホタルからルシフェリンを結晶化する仕事に着手した。&lt;br /&gt;まずハーベイのグループによって開拓された方法に基づいて、ルシフェリンをで&lt;br /&gt;きるだけ濃縮し、さらに収量と純度を高めるために、いくつかの改良を重ねた。&lt;br /&gt;酸素を除くと収量がよくなることを見つけた。そこで、危険は十分承知で、ルシ&lt;br /&gt;フェリン精製の全工程を水素ガス存在下で行なった。水素ガスは引火すると爆発&lt;br /&gt;するので、タバコやストーブなどの火元を極力避ける必要があった。だから、寒い&lt;br /&gt;冬の作業は特に厳しかった。各工程に７昼夜ぶっ通しの作業を要した。しかし、&lt;br /&gt;１０か月後に純度の高いサンプルが得られたにもかかわらず、結晶化には成功&lt;br /&gt;しなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ある日のことだった。その日も結晶化に失敗して、サンプルを強酸の溶液&lt;br /&gt;に漬けたまま帰宅した。翌朝、研究室に戻ってみて、びっくり仰天した。赤い微&lt;br /&gt;小な結晶が、放置しておいた溶液から析出しているではないか！　結晶化したル&lt;br /&gt;シフェリンの比活性は、原料の乾燥ウミホタルの３７、０００倍だった。純度で&lt;br /&gt;言えば、ハーベイのグループが作ったサンプルの２０倍に相当した。弱冠２７歳&lt;br /&gt;の脩にとっては、素晴らしい業績だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「もちろん、成功は偶然の出来事だったが、それでも自信が湧いてきた。不可能&lt;br /&gt;でなければ、何でもやってやるぞ、という意気込みができた」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９５６年３月頃、地元名古屋の中日新聞に写真入りで、脩と同僚後藤君によるル&lt;br /&gt;シフェリン結晶化に関する記事が掲載された。その翌年に脩は、日本化学雑誌に&lt;br /&gt;「海ホタルルシフェリンの結晶」に関係する論文を初めて発表した。１９６０年&lt;br /&gt;には同じ雑誌に、そのルシフェリンの化学構造を発表する（それが、脩の留学先&lt;br /&gt;のアパートの戸口に貼り付けてあった例の戦利品だ！）。過去何十年もの間海外&lt;br /&gt;の研究者たちを悩ませ続けた困難を、見事に克服した脩の成功に平田教授は感嘆&lt;br /&gt;すると共に、何かこの若者に褒美を与えようと考え始めた。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、お話変わって、米国のプリンストン大学では、ハーベイ教授夫妻がとうと&lt;br /&gt;う引退し、その高弟であるフランク・ジョンソンがその後継ぎになって、１９５&lt;br /&gt;７年頃から、問題の多い海ホタルの蛍光に関する研究に本腰で取り組み始めた。&lt;br /&gt;その夏、わざわざ来日して、伊豆半島で海ホタルの蛍光物質の精製に精を出して&lt;br /&gt;いたが、研究設備の貧弱さと夏の猛暑に悩まされ、失望しながら帰国してまもな&lt;br /&gt;く、例の脩の論文について知った。そこで、フランクは脩に渡米して、彼の研究&lt;br /&gt;室で一緒に仕事をしようではないか、と提案した。もちろん、脩はそれを快く承&lt;br /&gt;諾した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平田教授の計らいで、脩は１９６０年に名古屋大学理学部から博士号を取得後、&lt;br /&gt;「フルブライト奨学生」に選ばれ、プリンストン大学のフランク・ジョンソン教&lt;br /&gt;授の研究室でポスドクとして研究を始めるため、氷川丸に乗って渡米の途につい&lt;br /&gt;た。平田教授は（自分の「聞き違い」が元で）、脩に良い「餞別」ができたと秘&lt;br /&gt;かに喜んだ。。。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;平田教授は１９５２年にハーバード大学のルイス・フィーザー教授の研究室に客&lt;br /&gt;員教授として、ステロイドに関する共同研究のため、一年間余り滞在していた。&lt;br /&gt;だから、米国の大学における研究者の給与制度に比較的明るかった。当時、博士&lt;br /&gt;号をもたない研究者の初任給（月給３００ドル）は、ポスドク（博士号を持つ研&lt;br /&gt;究者）サラリーの半分に過ぎなかった。そこで、フランクからの招聘を聞くや、&lt;br /&gt;平田教授は早速、脩に博士号を（餞別代わりに）与えることに決めたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「博士号は私の視野にはありませんでした。私は自分に与えられた仕事を遣り遂&lt;br /&gt;げたに過ぎません。博士号は、いわばボーナスでした」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脩は当時を回想してそう語る。皮肉にも、彼が研究材料としてふんだんに使うことがで&lt;br /&gt;きたあの大量の海ホタルのコレクションは「戦争の副産物」だった。米国の研究者&lt;br /&gt;グループは、戦争中、日本海沿岸で海ホタルを大量に収集するチャンスや余裕な&lt;br /&gt;どがなかった、そのために、プリンストン大学のグループはルシフェリンの単離&lt;br /&gt;にとうとう失敗した。同じ戦争は、脩の中等教育と生活を犠牲にしたが、少なく&lt;br /&gt;とも彼にノーベル賞に価する科学研究への踏み台を与えることになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４。蛍光オワンクラゲの謎&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脩が１９５９年にプリンストンから招待状を受け取る頃には、エドマント・ハー&lt;br /&gt;ベイ教授の容態が急速に悪化し始め、フランク・ジョンソン（１９０８ー１９９&lt;br /&gt;０）がプリンストンの研究室を切り盛りするようになった。ハーベイ教授はその&lt;br /&gt;年の７月２１日に他界した。脩が渡米する１４か月ほど前だった。フランクは脩&lt;br /&gt;の旅費をカバーすると申し出たが、自信にあふれ誇り高き若武者はフルブライト&lt;br /&gt;奨学金に応募し、それを見事にものにした。この奨学金は往復の旅費と数週間の&lt;br /&gt;英語レッスンに必要な経費をまかなうものだった。１９６０年８月、脩は単身赴&lt;br /&gt;任で、他の数十名のフルブライト奨学生や家族と共に、横浜港の桟橋から「氷川&lt;br /&gt;丸」に乗り、渡米の旅に出発した。この１２、０００屯の豪華船（日本郵船によ&lt;br /&gt;り１９３０年に竣工）は、太平洋戦争中は専ら病院船として活躍、幸い戦火を免&lt;br /&gt;れた唯一の豪華貨客船で、「太平洋の女王」という異名をもっていた。老朽化し&lt;br /&gt;たため、１９６０年の周航を最後に、以後山下公園内に停留している。脩はその&lt;br /&gt;旅をこう述懐している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「船旅は北回りで、アリューシャン列島やアラスカ州の南岸を経由して、１３日&lt;br /&gt;間で、米国西海岸にあるシアトルに到着した。それから、米国大陸をアムトラッ&lt;br /&gt;ク鉄道の「プルマン寝台車」で３昼夜かけて横断して、東海岸に近いプリンスト&lt;br /&gt;ン郊外に到着した。それは私にとって、初めての海外旅行であり、我が生涯で最&lt;br /&gt;も贅沢な旅だった」（それから、１３年後に訳者自身も同じ航路で、初めての渡&lt;br /&gt;米を楽しんだが、その頃には太平洋航路には客船がもはや走らくなったので、米&lt;br /&gt;国の巨大コンテナ船「オレゴン号」で、シアトルまで９日間で太平洋を渡った。&lt;br /&gt;客船ではなかったが贅沢な船旅だった）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脩が日本を発ってから３週間後、列車がニュージャージー州の「プリンストン・&lt;br /&gt;ジャンクション」と呼ばれる田園都市に停車すると、フランクが脩を駅まで出迎&lt;br /&gt;え、プリントン大学構内にある彼の研究室がある（英国）チューダー王朝風ゴシッ&lt;br /&gt;ク建築の建物に案内してくれた。そこで、かつて平田研究室で一度体験したシー&lt;br /&gt;ンが再び繰り返された。フランクは脩を暗室に招き入れ、蛍光を発するオワンク&lt;br /&gt;ラゲの白い乾燥粉末が入った壷を、新しい弟子に手渡した。その粉末に水を加え&lt;br /&gt;て、発光するのを見せようと試みたが、意に反して、暗室は真っ暗のままだった。&lt;br /&gt;失敗にめげず、フランクは、オワンクラゲの大群がワシントン州シアトル北方の&lt;br /&gt;パジェット・サウンドと呼ばれる入江にあるフライデー・ハーバー島沖に生息し&lt;br /&gt;ていると説明した。そして、暗闇の中で、脩にこう尋ねた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「このクラゲについて研究してみる気はないかね？」&lt;br /&gt;「クラゲの研究も面白そうですね」&lt;br /&gt;脩は辺りが文字通り「真っ暗闇」で西も東もわからぬ状態だったので、新しいボ&lt;br /&gt;スの指示に従った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;オワンクラゲは成長すると、こぶし大（直径８ー１０センチ）の雨傘型の生き物&lt;br /&gt;で、雨傘の放射状の骨（１００本ほど）の部分が緑色の蛍光を発する。面白いこ&lt;br /&gt;とには、ハーベイ教授やフランクが研究してきた発光生物の中で、唯一つ例の&lt;br /&gt;「デュボアのルシフェリン／ルシフェラーゼ実験」が一度も成功しないのが、こ&lt;br /&gt;のクラゲだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このクラゲを、例えばブレンダーなどで粉砕すると、そのスープは２、３時間ほ&lt;br /&gt;ど蛍光を発してから消滅する。一度蛍光が消えると、どうやっても光の再生がで&lt;br /&gt;きなくなる。前者（デュボア）の場合はルシフェリン（蛍光源）を新たに追加す&lt;br /&gt;れば、残存のルシフェラーゼ（酵素）の働きで、蛍光が再生される。ということ&lt;br /&gt;は、このクラゲの蛍光源はルシフェリンではない、何か「新しい物質」である可&lt;br /&gt;能性が示唆されている。それが彼らの「目のつけどころ」だった。「ルシフェリ&lt;br /&gt;ンの２番／３番煎じ（出し殻）」には、もう彼らはさほど興味がなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;翌年の６月、脩とフランク、それに脩の細君（明美）とフランクの助手（ヨー・&lt;br /&gt;サイガ）がフランクのステーションワゴンに相乗りして、西部へ旅立った。シカ&lt;br /&gt;ゴやグレーシャー国立公園を経由して、目的地「フライデーハーバー臨海実験所」&lt;br /&gt;へ。実は、自動車免許をもっていたのは、フランクだけだった。そこで、７日間の旅&lt;br /&gt;を通して、毎日昼間１２時間づつ、彼独りで延々車の運転を続けた。彼がよっぽ&lt;br /&gt;どクラゲに魅せられていなければできない芸当だ（往路だけではない、復路も７&lt;br /&gt;日間かかるのだ！）。シアトルの北方１１０キロにある漁港アナコーテスから、&lt;br /&gt;一行はフェリーで２時間のサンジュアン島にたどり着いた。その小島は（カナダ&lt;br /&gt;側の）バンクーバー島とワシントン州の北岸との間に無数に散らばる群島の一部&lt;br /&gt;である。フェリーに乗っている間、脩は初めて、伝説の蛍光ワンクラゲの大群に&lt;br /&gt;出会い、その官能的な美しさにすっかり魅了されてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小島に到着した一行は、臨海研究所の所長であるロバート・フェルナルドの出迎え&lt;br /&gt;を受け、研究所に案内された。この臨海研究所は１９０４年にワシントン大学の&lt;br /&gt;付属施設として創立されたもので、「研究所」とは言え、丘の斜面に沿って建て&lt;br /&gt;られた、わずか２、３の木造の小屋に過ぎなかった。一行が案内されたのは、部&lt;br /&gt;屋が２つしかない小さな「研究室１」だった。ここで、一行４名と他の研究者３&lt;br /&gt;名と、一匹のスコットランド産のシカ猟犬（グレイハウンド犬の一種）が寝泊ま&lt;br /&gt;りと研究を共にすることになった。この「ギリース」と呼ばれる犬は、ワシント&lt;br /&gt;ン大学の動物学科の教授、ディキシー・レイの「研究助手犬」だった。彼女は１&lt;br /&gt;０年後には、ニクソン大統領によって、原子エネルギー委員会の議長に指名され、&lt;br /&gt;１９７６年には、ワシントン州初の女性知事に当選した。しかしながら、１９６&lt;br /&gt;１年当時の彼女の専らの関心は、木食い虫の生物学だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脩とジョンソン教授はまず、車から荷物を下ろし、大型（６０センチ立方）の光&lt;br /&gt;学メーターを研究室に設置するや、研究に取り組み始めた。まず水泳プールの掃&lt;br /&gt;除に使うような浅いすくい網で、研究所の手前にある桟橋で、研究材料であるク&lt;br /&gt;ラゲをすくい始めた。捕らえたクラゲを一匹ずつバケツに入れ、ハーベイが４０&lt;br /&gt;年ほど昔に開発した方法に従って、分析に使う発光器官の部分、つまりクラゲの&lt;br /&gt;傘の縁だけをハサミで切り離して収集した。次に、この円形の輪を木綿の切れで&lt;br /&gt;絞って、いわゆる「絞り汁」を調製した。この粘性の「絞り汁」は数時間だけ蛍&lt;br /&gt;光を発し続けた後、発光器官細胞が死に絶える共に発光も止める。この夏休みに&lt;br /&gt;一行は、合計９千匹以上のクラゲを捕獲した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脩は新鮮なオワンクラゲの絞り汁を調製し始めた。それから、（ｐＨの効果を調&lt;br /&gt;べるために) その汁に様々な弱酸や弱塩基を加えてみた。蛍光は消えなかった。&lt;br /&gt;次に緩衝液を使って、絞り汁をｐＨ４に調整してみた。とたんに蛍光が消えてし&lt;br /&gt;まった。そこで、ｐＨ７（中性）に戻すために炭酸ソーダをゆっくりと加えてみ&lt;br /&gt;た。驚いたことには、蛍光が次第に戻り始めた。いいかえれば、この発光反応は&lt;br /&gt;（ルシフェリン系の蛍光と違い）一過性ではなく「可逆的」である。つまり、蛍&lt;br /&gt;光源そのものは極めて安定で、その精製が可能であることを示唆していた。脩は&lt;br /&gt;この希望のかけらにほっと胸を撫で下した。さて、脩はこの実験のあと始末をす&lt;br /&gt;るために、中和した絞り汁を実験室の流しに流し込み始めた。絞り汁が流しの底&lt;br /&gt;に触れた瞬間、爆発的なブルーのせん光が辺りにほとばしった。流しの底に蛍光&lt;br /&gt;源を活性化する何かがあるに違いない！　海水だ！　と脩は素早く合点した。海&lt;br /&gt;水の主成分を熟知していた脩は、まもなく海水のカルシウム・イオンがクラゲの&lt;br /&gt;蛍光の活性化物質であることを見つけた。カルシウムは海水中の成分のうち、&lt;br /&gt;（塩素、ナトリウム、硫酸、マグネシウム）につぎ）５番目に豊富なイオンである。もし、&lt;br /&gt;カルシウムが活性化物質ならば、カルシウムを選択的に除けば、蛍光が消える&lt;br /&gt;はずである。そこで、脩は「ＥＤＴＡ」というカルシウムを除外 (中和) する薬剤を&lt;br /&gt;絞り汁に加えてみた。蛍光は案の定、あっという間に消えた。こうして、脩はクラゲ&lt;br /&gt;の蛍光をカルシウムとＥＤＴＡで自由自在に操（あやつ）る魔術を、偶然にも発見した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;脩は１９７８年になって、オワンクラゲの発光には、カルシウム以外にもう１つ大事な&lt;br /&gt;物が餌に必要であることを発見した。不思議なことには、フライデーハーバーの海に&lt;br /&gt;生息するオワンクラゲは蛍光を発するが、普通の水族館で飼育しているオワンクラゲ&lt;br /&gt;は発光しないものが多い。例えば、ごく最近まで、山形県鶴岡市の市立加茂水族館&lt;br /&gt;のオワンクラゲは発光しなかった。ところが、脩の忠告に従い、餌に「セレンテラ&lt;br /&gt;ジン」という物質を混ぜてやると、クラゲの傘の周りがにわかに発光し始めたと&lt;br /&gt;いう話題が最近の読売新聞に出ていた。彼はまさにオワンクラゲの「魔術師」で&lt;br /&gt;ある！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20081102-OYT1T00006.htm&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、それでは「セレンテラジン」とは一体何者か？　実は、この物質はルシフェ&lt;br /&gt;リンの一種で、アポエクオリンという「ルシフェラーゼ」（発光酵素）の一種と&lt;br /&gt;結合し、エクオリン複合体となり、それがカルシウムによって活性化されて、ブ&lt;br /&gt;ルーの光を放つらしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、脩には理解できない謎がまだ１つ残っていた。流しで目撃したせん光はブ&lt;br /&gt;ルーだった。ところがクラゲ自身は緑色の蛍光をいつも発していた。なぜだろう？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それまで研究してきた生命体からの蛍光は、その生きた本体でも試験管内でも全&lt;br /&gt;く同じ色をしていた。そこで、脩をこう考えてみた。このクラゲはまず発光蛋白&lt;br /&gt;「エクオリン」からブルーの光を発し、その光がクラゲの組織にある別の物質に&lt;br /&gt;吸収され、緑色に変換後、蛍光として再現されるに違いない。１９６２年に発表&lt;br /&gt;したエクオリンの精製に関する６ページにわたる論文の脚注（わずか２行）に、&lt;br /&gt;脩はその科学的根拠 (傍証) として、次のように記述している（下村、ジョンソ&lt;br /&gt;ン、サイゴ共著）。&lt;br /&gt;「日向では、微かに緑色に見える蛋白溶液（ＧＦＰ）をクラゲの絞り汁から得た。&lt;br /&gt;電灯下では黄色、紫外線下では非常に明るい緑色の蛍光を発した」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中略&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;フライデーハーバーで脩が発見した物は、オワンクラゲの発光のメカニズムばか&lt;br /&gt;りではなく、第二の蛋白質「ＧＦＰ」（緑の蛍光蛋白）だった。この謎めいた蛋&lt;br /&gt;白は、思いがけないことには、その後３０年の歳月を経て、生物学や医学の分野&lt;br /&gt;で広範に使われる非常に便利な道具に生まれ変わっていった。過去４０年間の研&lt;br /&gt;究生活を振り返りながら、脩はこう語っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ＧＦＰが発見された当時、その蛍光の明るさと美しさを何かに利用しようとい&lt;br /&gt;うアイディアは浮かんであろうが、生き物の体内にある蛋白を標識するというよ&lt;br /&gt;うなことは想像だにされなかった」（つい最近、日本では絹糸の原料である蚕の&lt;br /&gt;まゆの主成分であるフィブロインという蛋白をＧＦＰで標識して、ブルーの光を&lt;br /&gt;当てると緑色の蛍光を発する婦人用ドレスが試作されつつある）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-3590603315074503881?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/3590603315074503881/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=3590603315074503881' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/3590603315074503881'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/3590603315074503881'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/10/aglow-in-dark.html' title='Aglow in the Dark (Green Fluorescent Protein)'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' 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/&gt;豪州のタスマニア州（島）の首都ホバートで、２００３年２月に、地元の環境保護映画制作者による「森林」に関する記録映画が上映され、５０人ほどの観客が集まった。場所は首都の中心にあるハリントン街から横道にそれたポール・トマス経営のチベット絨毯（じゅうたん）店の２階だった。ポールはボブ・ブラウンと既に８年ごしのパートナーだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボブがその集まりに顔を出したのは、夜遅くになってからだった。というのは、豪州の首都キャンベラで、一週間ほどイラク戦争に反対する活動を組織していたからだ。ボブは映画に集まった小規模の観客に向かって、親しげに短いスピーチをした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;キャンベラでの活動による疲労の色を表わしながら、観客に手短かな忠告をした。&lt;br /&gt;「聞いて下さい。もし、皆さんが全てに失望したと感じた時は、私が良くやるように、森の中で、満天の星空の下、一晩を過ごしてみて下さい。そうすると、多分、奇跡が起きて、また希望が自然に湧いてきますよ」&lt;br /&gt;その言葉には、彼の単純さと不屈の魂がにじみ出ていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;過去２０年以上にわたって、ボブ・ブラウンは「グリーン」の旗をひるがえして、豪州政界のスポットライトをめざして、はっきりと野党の「左翼」を担う堅固な位置を確保してきた。タムマニア出身のこの柔和な話し方をする、眼鏡をかけた同姓愛の医師は、ほとんどポップスターなみの全豪的なヒーローを思わせる存在になった。彼の政策に反対する人々からも尊敬の目を集めていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０００年の総選挙で、２人の政治家が連邦議会でしばしば抜きん出て、有権者から注目と尊敬を集めていた。保守派を代表する首相のジョン・ハワードと革新派を代表するボブ・ブラウンだった。２００４年の総選挙では、マーク・レイサムのリードで失地を回復した労働党（ＡＬＰ）が豪州の政界地図を変えつつあった。レイサムが党首になって、まず提案した公約の１つは、なんとボブ・ブラウンと一緒にタスマニアの森林を視察することだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ハワードは、２００７年の選挙で落選するまで、１１年間もの長きにわたって首相を務め続けた稀にみる狡猾な政略家だった。ブラウンの個人的なカリスマ振りは、全く別次元のものだった。彼を尊敬する者にとっては、政治家一般に共通する攻撃的で競争心むき出しの姿勢と全く対照的な存在に見えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ブラウンの政治的スタンスは、確かに保守的ではなかったが、彼は色々の意味で非常に因習的な要素を備えていた。彼の保守主義は、その表面的なたたずまいにあった。着こなしが古めかしく、柔和に振る舞い、常にヒゲをきれいに剃り、人前で決して、他人を罵倒することはしない。しかしながら、彼が差し出す政治的献立は、民主的な革命だった。つまり、資本主義に対抗する持久主義、利潤追及に対する思いやりの政策だった。彼の穏やかな物腰にも拘らず、ブラウンは豪州を代表する真の革命家として、記憶されるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼はしばしば軽いユーモアを交えて話をするが、いわゆる「町の顔役」にだけべったりな連中を批判するのに、決してやぶさかでない。彼は有権者の最新の関心事、しばしば地元の問題に関して、はっきりした政策の方向付けを試み、更に時の話題を何時も彼の最大関心事であるタスマニアの森林やより広範な環境問題に結びつけて議論を展開する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;環境問題（あるいはそれを越えた、例えば人権問題）に関する彼の思い切った発言は、彼の政治的キャリアを通じて、無数の受賞という形で称讃されている。１９８３年には、新聞「オーストラリアン」からその年の「時の人」にえらばれ、更に１９９０年には「１９８０年代の時の人」に。１９９０年には、ゴールドマン環境賞を、１９９６年にはＢＢＣのワイルドライフ・マガジンの「世界で最も人望の高い政治家」賞、１９９８年には、豪州の人間国宝に選ばれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２００２年には、ＤＮＡマガジンから、豪州で最も著名な同姓愛者のベストテンに、２００３年には、豪州経済レビュー・マガジンから、「文化的に最有力な豪州人」に選ばれた。これらの受賞は、ボブ・ブラウンが様々な社会層で極めて人気が高く、かつ広く尊敬されていることを、如実に証明している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼の国際主義はそれだけに留まらない。ボブはグリーン党を今世紀の「有益な地球化」の原動力としようという、国際規模の野心を抱いている。つまり、過去の労働運動が果した役割に匹敵するような力、いいかえれば「労働党」に代わるべき「グリーン党」の国際的なパワーをめざしている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかしながら、彼の敵にとっては、ボブは狂信家であり、異端者であり、脅威であった。グリーン党が政党として益々力を得てくると、党やその党首であるボブに対する攻撃は、悪質を極めてきた。&lt;br /&gt;ボブはしばしば、殴られたり、強迫を受けたり、人前でけなされたりした。２００３年１１月に、クインズランド州の自由党出身の上院議員ジョージ・ブランディスは、保守的な三文新聞「ヘラルド・サン」の論説家アンドリュー・ボルトの言葉を引用して、豪州グリーン党のイデオロギーをなんと１９２０年代から１９３０年代の「ナチス」になぞらえるという暴挙におよんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;政治的策略や狂信性をほのめかすそのような中傷や誹謗に対して、ボブは決してひるまなかった。&lt;br /&gt;「私はそんな人物ではない。私は長老派のクリスチアンだからだ」と２０００年に新聞「オーストラリアン」に語っている。彼はニューサウスウエールズ州の農村にある保守的な長老派クリスチアンの家庭出身であるという意味である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボブは政界に誠実さと尊厳をもたらし、さらに多くの豪州国民に対してラジカル（過激）という印象を与える世界感を導入した。彼はスキャンダルやあてこすりを武器に使って、彼を失脚させようともくろむ敵側の裏をかいて、タムマニア州議会および連邦議会での最初のスピーチで、彼自身が「同姓愛」であることを明言するという先手を打ち、敵側の攻撃を見事にかわした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ブラウンのひととなりが多くの観衆を魅了した。そして、豪州の大衆は、一体何が「ラジカル」なのかを、もう一度考え直し始めた。彼は、従来なかった考え方も受け容れられる可能性を創り出した。以前は想像しがたかったことが、実は理屈に合う考え方であることを実証した。ボブがはにかみ屋で、むしろ古風な物腰だけに、彼が歯に衣を着せない勇敢な活動家であることを見つけて、人々は大いに驚いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ブラウンが豪州政界で日増しに重要な役割を果たし始めたのは、グリーン党が豪州政界で、抗しがたい勢力として成長してきた事実に符合している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;恐らく、グリーン党が豪州の野党内で、本質を突く唯一の党であるという評価を得たのは、実に２００１年に発生した「タンパ事件」の最中であろう。ハワード政府は、船で豪州の海岸線近くにたどり着いた難民の一団が、豪州への入国許可を得んがため、豪州国民からの同情を買おうとして、意図的にその子供たちを船から海に放り出したと主張する一連のビデオ像をテレビで放映した。その放送を観て、多くの豪州大衆は難民たちに対して、呆れかえってしまった。そして、政府側が主張する「難民に対する厳しい措置」を支持する方向に世論が大きく傾き、ハワード政権は総選挙で、曖昧な態度を示した労働党を破って、大勝利した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところが、選挙後メディアを中心とする詳しい調査結果により、難民が子供たちを船外に投げ出したという政府側の主張には、(総選挙直前の) 世論工作を意図する行き過ぎがあったという事実が発覚した。政府側は、この事件後、ピーター・レイス国防相を内閣から免職せざるをえなくなったが、逆に（難民の側に立って、政府を厳しく追及した）グリーン党は、全国的にリベラルな有権者からの大幅な支持を獲得した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この事件ほど、ハワード政府を非難して、極めて歯切れのよい意見を心から述べうる豪州唯一の野党であるという高い誉れを、グリーン党が得た例は外にない。グリーン党は、政府が自身の（批判の対象になっている）難民政策を合理化し、有権者の票を買うために、そこまで悪質なウソを捻出したことに亜然とする国民感情を、如実に代弁したのだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以後、以前にも増してしばしば、ボブは豪州のメディアから、ハワード政府に異議を申し立て得る信頼できる「野党側の実質的なリーダー」と呼ばれるようになった。この勇名は、環境政策問題を越えて、凡ゆる政治問題におよんだ。難民収容センターから対米外交問題やイラク戦争を含むテロ対策、更にハワード政府の右に寄ったその他の政策、例えばテルスタ（電々公社）の私有化、１０％消費税や私的健康保険制度などに、ボブは一貫して反対意見を述べ続けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２１世紀の初めに、米国のブッシュ政権によってでっち上げられ、豪州のハワード政府、英国のブレア政権、日本の小泉政権などにバックアップされた「テロ対策」路線は、世界平和への新たな脅威が無気味に拡大していることを示唆している（あるいはその路線自身が脅威の元凶になりつつある）。それは、前例のないメディアによって煽られた地球全体に渡る「テロの恐怖」時代を作り出した。（２００１年）９月１１日に仕掛けられたニューヨークの貿易センターおよびワシントンのペンタゴン（国防総省）に 対する（ハイジャックされた旅客機による）アタックは、その巨大な破壊力で、地球全体にわたって不安と脅威の風潮をもたらした。「イラク戦争」開始のために、ブッシュ政権が導入した「先制攻撃」路線は、悪質の新外交路線で、国連や欧州諸国の大半から嫌われるとともに、危惧されるに至った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地球全体に前代未聞の混乱、恐怖、不安が広がるつつあるこの時期に、ボブは豪州の反戦運動のトップリーダー的役割を務めた。２００３年２月中旬、豪州中至る所で、イラク戦争への豪州参戦に反対して、抗議集会やデモを企画した。彼はどこの集会にでかけても、演台にあがると、常に最大の喝采を観衆から受けた。それを評して、ある評論家が「ボブ・ブラウンの人気は、マイクロフォンの性能に無関係だ」と語ったそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボブは「イラク戦争は豪州国民とは全く無関係の戦争である。それは、ジョージ・ブッシュやそれに尻尾を振るトニー・ブレア、ジョン・ハワードや小泉純一郎などの鷹派連中の個人的な戦争に過ぎない」と力説した。「国連の大量殺りく兵器（ＷＭＤ）調査団により、実際にイラク内にそんな兵器があるかどうか調べる必要性がある」とボブは訴えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（ハワード）首相は一度も、豪州国民からイラクとの戦争に参加してよいという白紙手形を得たことはない。彼には国民の希望（意志）に背を向ける権威はない。彼は（その強引なやりかたで）自国の自由主義と民主主義を踏み躙ってしまった。我々は、差し迫っている大虐殺に「ノー」と訴えている世界中の無数の魂を代表している。我々は、イラクをただ単に（独裁者から解放して）自治国にしたいと望んでいるのに過ぎず、英米などの先進国に石油利権を提供する植民地にしたいとは、決して望んでいない（なぜなら、豪州国民は「地球温暖化の元凶」である石油や石炭に代わるべき、持続できる「きれいなエネルギー」源、例えば太陽エネルギーや風力エネルギーの利用をめざしているからだ）。従って、我々はブッシュに、ブレアに、ホワードに、そして小泉に、戦争の代わりに欧州的アプローチ（解決法）を吟味するように提案したい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さもなければ、あなたたちは自らの手で、バグダッドに住む多数の子供たちに不必要な流血を強要し、世界中の希望を台無しにする結果をもたらすだろう。我々はもちろん、あなたがたをテロリストと同一視するつもりなどないが、バグダッドに住む母親たちは、あなたがたをどんな目で見るだろうか？　一度彼らの気持を訊いてみたことがあるだろうか？　あるいはサダム・フセインと同様、あなたがたには、これらの母親の恐怖を感じとる繊細な感受性が欠けているのだろうか？　私はできることなら、ハワード首相を「ブッシュべったり」主義から、我々自国の大衆の声に耳を傾ける人にしてみたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;上記にみられるブラウン独特の意見は、豪州国民全体の心をつかみ、政治家全体に対して抱く一般大衆の冷笑を断ち切ることに成功した。そして、豪州大衆の声や気持を、史上最大の反戦運動になった大規模な全世界中の集会に伝えた。彼がスピーチをやったメルボルンとシドニーの抗議集会を合わせると、合計５０万人近い参加者があった。ボブは街頭でも人々の尊敬を集める代弁者の役をみごとに果した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;豪州の政界では、ハワードの保守連立政府ばかりではなく、肝心の野党たる労働党さえも、最近の世界的潮流となりつつある「中道右派」路線への傾斜に、さらに右へならえをしていた。強いて例外を探せば、ドイツのゲアハート・シュレーダーの社会民主党とグリーンの連立政府とイタリアのシルビオ・ベルスコーニの極右（ネオ・リベラル）政権だけが、いわゆる独自路線を歩んでいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボブ・ブラウンは多くの人々にとって、社会正義、実践的な環境保護主義、よりよき世界へのビジョン（展望）の緊急な必要性を密接に結びつけるシンボルとなりつつある。彼は、一地方（タスマニア島）の活動家から、全国的さらに国際的レベルで環境保護運動をリードする「自由の闘士」に成長した非常に稀れな活動家の例である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もちろん、我々がテレビを通じておなじみの環境保護活動家、議会でただひとり、難民の基本的人権やイラク戦争反対を強く訴えるあの「ボブ・ブラウン」像は、彼の人生の一側面に過ぎない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;メディア像は、例えば、彼がもつ（意外に）豊かな家庭的な側面を無視している。ピアニストの彼は、しばしば自宅で自らピアノ演奏を楽しむ趣味を持つし、彼の伴侶ポール・トマスとのロマンスによって、いわゆる「囚人生活」からの解放を楽しんでいる。彼は菜食主義者ではなく、食卓にはいわゆる「豆腐食」より、むしろ「ステーキと三菜」という豪州／英国風の伝統的なメニューを好むようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その上、メディアの報道からは、ボブは前半生で、内なる悪夢にさいなまれて、首都キャンベラで医師をしていた頃、悩みを他人に打ち明けることもできず、混迷の末、自殺を一時考えたことや、５２歳になるまで、他人と親密な関係に入ることなく、独身生活を続けたボブを想像することは、極めて難しい。その同じ人物が、驚くべきドンキホーテ的な変身を遂げ、今日我々が見る政界をリードする中心的存在になったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボブの内部に起こった私的な人格上の革命は、もちろん、彼の政界でのキャリアにおけるより広範な社会的革命を育てるために十分な素地を提供した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;メディアが作り上げた一次元的なブラウン像のみでは、彼が引き出したインスピレーションの源泉や、２０年間近くにわたる議会での活動や、地元や国際的な各種の組織からくる際限なき依頼に応じるために、彼がたたき出す時間とエネルギーの源泉は、とうてい浮かび上がってこない。正にその源泉は、彼を取り巻く自然環境自体の中にあるに違いないと私は推察している。それは歴史的には、フランクリン川に始まり、北タスマニア地方の中央にあるリフェイ渓谷に彼が見つけ、現在でも住み続けている潅木地の一角を取り巻く森林と切り立つ岩壁に至る「聖なる原生林」である。それにボブは常に引かれ、それを保護するために、自分の後半生を捧げているのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;連邦議会の不毛で退屈な現場から何万キロも離れた、自然界に立ち、ほと走る渓流や厳かな静寂に直に接して初めて、一体何が真にボブを動かしているかを、我々はよりよく理解できるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;続く&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;http://happytown.orahoo.com/green-books/&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/3534003556445150916-1410272255307090164?l=heidi19420.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://heidi19420.blogspot.com/feeds/1410272255307090164/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=3534003556445150916&amp;postID=1410272255307090164' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1410272255307090164'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/3534003556445150916/posts/default/1410272255307090164'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://heidi19420.blogspot.com/2008/09/blog-post.html' title='評伝「ボブ・ブラウン：グリーン党の生みの親」'/><author><name>Heidi</name><uri>http://www.blogger.com/profile/12192799416338829074</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='23' height='32' src='http://bp2.blogger.com/_4malfSvNseg/SBy_gpTeBOI/AAAAAAAAABA/wGfRsiKRQQE/S220/heidi.jpg'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-3534003556445150916.post-4694485003345539001</id><published>2008-07-01T09:08:00.017+09:00</published><updated>2008-10-19T05:15:33.293+09:00</updated><title type='text'>Robert F. Kennedy: Man Who Dared to Dream (1970)</title><content type='html'>I enjoyed reading this children's book shortly before I left Japan for the United States in 1973. I was around 30, and the book was a very good introduction (for me) to both RFK and American dream. Since then I stayed on overseas to enjoy both work and life with a free spirit.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;In 2008, after 35 years later, another man from a quite different background is trying to realize the same dream that RFK had in 1968, but could not realize, due to a unfortunate tragedy shortly after the Convention in California. Barack Obama and RFK share the most attractive character, both the honesty and the courage to change the world.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;I do hope Obama will win the November election against John McCain, a very old conventional Republican man, to change both US and the rest of this world with the spirit of RFK which is described in this fantastic 1970 book. It is a great shame that no book on RFK was published in Japanese so far.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ロバート・ケネディー：　敢えて夢を追う青年&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その１　負けじ魂&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ボクが泳ぐのを見てて！」&lt;br /&gt;と叫びながら、４歳の少年（ボビー・ケネディー）が小舟から海ヘ飛び込んだ。深いところで、ボビーにはとうてい足が着かなかった。溺れかかったボビーは咳込みながら、水を吐き出し、懸命になって両手でバタバタとクロール（犬掻き）を始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼の１２歳になる兄ジャックは、いつでも飛び込んで、弟を救い出す用意をしていたが、ボビーは何とか自力で小舟までたどり着いた。ジャックは急いで弟を引っぱり上げた。&lt;br /&gt;「相変わらず無鉄砲なやつだ。もうちょっとで溺れるところだったぞ！」&lt;br /&gt;とジャックは笑いながら言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ボクは泳げたよ。違うかい？」&lt;br /&gt;とボビーが、そばかすだらけの顔から水を拭いながら、自慢げに言った。&lt;br /&gt;「毎日泳いで、ずっとうまくなるぞ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボビーとジャックは、コッド岬の沖でボート漕ぎをしていた。米国マサチューセッツ州のハイアニス港にあるケネディー家の夏の別荘の近くだった。そこからさほど遠くない沖では、長男のジョー（１４歳）がヨットレースに挑んでいた。ジョーのヨットが真っ先にゴールインするや、ボビーとジャックはやんやと喚声を挙げて喜んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;少年たちの父親、ジョセフ・ケネディーは自分の息子や娘たちにスポーツを奨励し、ヨットレース、水泳大会、テニスの試合などに参加することを激励した。彼らは試合に勝つと讃められるが、負けると叱られた。ケネディー一家にとっては、勝つことが、三度の食事に匹敵するほど、大事だった。&lt;br /&gt;「二番じゃ駄目だ。一番にならなければ駄目だ！」と父親は、口ぐせのように言った。&lt;br /&gt;「二番や三番は数の中に入らない。トップになるのだ。絶対にトップだ！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな父親に育てられたボビーは、成長すると共に、ありとあらゆるスポーツに参加するようになった。あたかも勝つことが死活の問題であるかのように。。。　ボビーは年令のわりに小柄だった。その上、９人兄妹の７人目だったので、兄妹同士の試合で、しょっちゅう勝つというわけにはいかなかった。それでも、常に最善を尽くした。&lt;br /&gt;「生き残るために、常に修練が必要だった」とボビーが語ったことがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ロバート・ケネディーは、１９２５年１１月２０日に、マサチューセッツ州のブルックリンで生まれた。彼が生まれてまもなく、一家はニューヨーク市内に引っ越し、さらに近郊のブロンクスビルに移った。学齢に達すると公立の小学校に通学し始めたが、はにかみやのボビーには当初、友達がなかなかできなかった。けれども、帰宅すれば、いつでも一緒に遊んでくれる者がいた。２人の兄のほか、４人の姉、妹が一人、それに末っ子の小さな弟、エドワード（皆んなからはテディーと呼ばれていた）がいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボビーにはペットもいた。「ポーキー」というブタ一匹と、自分の裏庭で飼育しているウサギが数匹いた。このウサギを大きく育てて、近所の人々に売っては、小遣いを稼いだ。ケネディー家は非常に裕福だったが、家の方針として、子供たちの小遣いは、できるだけ各人自分で稼ぐようにしつけた。そうすることによって、労働とお金の尊さを学ばせるためだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ケネディー家には、多くの奉公人が働いていた。車の運ちゃんの息子はボビーの友達だった。二人は一緒によく遊び、しばしば奇抜な冒険を計画しては、実行した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある日、ボビーとその友達は古い布地からパラシュートを２組作りあげた。それから、そのパラシュートをかかえて、ケネディー家のやかたの屋根まで登って、屋根の欄干からおそるおそる下をのぞいてみた。２人のパラシュート飛行士は、ぞっとした。イガグリ頭のボビーの顔がみるみるうちに真っ青になった。&lt;br /&gt;「ボ、ボクが先に飛び降りるよ」とボビーが口ごもった。&lt;br /&gt;「いや、ボクの方が先だ！」と友達の方が言い張った。&lt;br /&gt;「オーケー、それならどうぞお先に！」とボビーが譲歩した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボビーの眼前で、その少年は、頭上にパラシュートをかかえながら、地面に向かって、屋根から飛び降りた。だが、恐ろしことには、パラシュートが開かなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;少年はどしんと地面に叩きつけられ、苦痛で悲鳴をあげた。びっくりしたケネディー夫人が、家の中から飛び出してきて、その少年をいたわってやった。ボビーに向かって、すぐ屋根から降りてくるように命じるや、夫人は急いで居間に戻り、医者に電話をかけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;少年を診察し終わった医者は、こう言った。&lt;br /&gt;「大丈夫だ。片足が骨折しただけだ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なんだ、片足が折れただけか！」とボビーはうらやましそうに叫んだ。&lt;br /&gt;そして、独り言を言った。&lt;br /&gt;「皆んなから同情を買う（あるいは注目の的になる）のに、足の骨折など安いものだ。今度は自分が&lt;br /&gt;真っ先にジャンプするぞ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その１０　大統領選に出馬&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９６８年にボビーの親友たちはボビーが大統領選挙に出馬することを切に望んだ。しかしながら、ボビーはそれをかなり苦慮した。というのは、現職のジョンソン大統領が出馬するに違いないと、ボビーは信じていたからだ。現職の大統領が党内から指名されるのは、いたって容易だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;民主党内のムードはジョンソン指名に傾いていた。しかしながら、多数の米国大衆はジョンソンによるベトナム戦争の処理のしかたに反対だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ジョンソンの人気が傾き始めたのを察したボビーは、「北ベトナム爆撃を停止し、休戦（平和）交渉を始めるべきだ」という主旨の演説を行なった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まもなくジョンソンのベトナム政策に反対するミネソタ州の上院議員ユージン・マッカーシーが、民主党の大統領候補をめざして、活動を開始した。ボビーは、マッカーシーがニューハンプシャー（ＮＨ）の予備選挙で示す戦い振りを、興味深く観察した。予備選挙とは、各州の党員あるいは支持者が、全米の党大会以前に、大統領候補に対する自分たちの好みを表明する人気投票である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ＮＨ予備選挙で、マッカーシーはなんとジョンソンと互角の戦いを占めし、全米をびっくりさせた。マッカーシーの健闘振りを見て、ボビーは民主党内が今や二分し、&lt;br /&gt;ジョンソンが敗北する可能性をキャッチした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９６８年３月初め、ワシントンの上院会議室で大勢の聴衆を前にして、ボビーはまず「大統領に立候補する」ことを宣言した。会場には、妻のエシールや９人の子供たちも臨席し、全米向けのテレビで、その模様が中継された。ボビーはこう続けた。&lt;br /&gt;「ベトナムや米国内での流血をストップするために、アメリカには新しい政策が必要だ。黒人と白人との間にあるギャップ、貧富の差、老人と若者たちの間にある格差をなくす政策が求められている」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マッカーシーがＮＨ予備選挙で勝つのを見定めてから、ボビーが立候補したことに批判をする連中もいた。マッカーシーが大統領に選ばれるように、ボビーは応援すべきだ、と彼らは主張した。しかしながら、（本番では）マッカーシーには勝ち目がない、とボビーには思えた。逆に、自分が代わりに立派な大統領になるチャンスが十分にあると感じていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこで、ボビー自身の人気を民主党内の有力な政治家（お偉方）たちに証明するために、できるだけ多くの予備選挙に参加する決心をした。まずインディアナ州の予備選挙に出馬した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ボビーは州内を歩き回り、有権者たちに、「ベトナム戦争は米国に破綻をもたらす危険があるので、自分が大統領に当選したら、この戦争を停止する」と訴えた。さらに、「多くの米国大衆を苦しめている貧困を解消するために、多くのことをしたい」と約束した。戦争で浪費する代わりに、その莫大なお金で貧乏人を救うことができる、とボビーは考えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;インディアナ州のいたるところで、ボビーは彼の演説を聞こうと詰めかけた大集団に取り囲れた。聴衆の中には、選挙資格がまだない２１歳未満の若者たちが沢山いた。そこで、ボビーは満面に微笑を浮かべながら、こんな冗談を言った。&lt;br /&gt;「今後将来は、（君たちも参加できるように）有権者を７歳以上にするよう努力しよう」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;インディアナ州予備選挙の直前に、「ジョンソン大統領が再選を断念した！」というニュースを聞いて、びっくりした。しかしながら、ジョンソンはボビーを応援するわけではなかった。彼は自分の部下、副大統領のフーバート・ハンフリーを大統領候補に指名したかったからだ。ボビーは、インディアナ州予備選挙での勝利に、さらに自信を深めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４月の初めのある夕方、インディアナポリスの集会への途上、ボビーはテネシー州メンフィスで起こった悲報を聞かされ、大きなショックを受けた。黒人指導者マーチン・ルーサン・キング博士が暗殺されたというニュースだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;インディアナポリスの大集会で、ボビーは待ち受けている聴衆に向かって、まずその悲報を告げる瞬間、思わず涙ぐんだ。その上、一種の戦慄さえ感じた。聴衆の中には、多くの黒人たちがいたからだ。ボビーは、その聴衆に向かって、こう訴えた。&lt;br /&gt;「皆さん、暴力に対して暴力で対抗するのは辞めましょう」&lt;br /&gt;「黒人である人々にとって、この事件は苦痛であり、いっそ怒りを爆発させ、敵を取りたいと思うでしょう。全米中で殺し合いを始めるのも、選択の１つです。しかしながら、故キング博士がこれまで努力してきたように、暴力を思いやりや愛情に置き換えるよう努めることも、もう１つの選択です」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「私
