ジェームス・ノーマン(著)
丸田 浩 (訳)
目次
訳者まえがき
第1章 源泉
第2章 ボブ少年の誕生
第3章 問題児
第4章 ロンドンからリフェイへ
第5章 ペダー湖を救え!
第6章 渓流フランクリン
第7章 初の勝利
第8章 フランクリンを越えて
第9章 州の政界へ進出
第10章 グリーン党の誕生
第11章 連邦全体への波及
第12章 国際的なグリーン運動
第13章 初の「グリーン」上院議員
第1章 源泉
豪州のタスマニア州(島)の首都ホバートで、2003年2月に、地元の環境保護映画制作者による「森林」に関する記録映画が上映され、50人ほどの観客が集まった。場所は首都の中心にあるハリントン街から横道にそれたポール・トマス経営のチベット絨毯(じゅうたん)店の2階だった。ポールはボブ・ブラウンと既に8年ごしのパートナーだった。
ボブがその集まりに顔を出したのは、夜遅くになってからだった。というのは、豪州の首都キャンベラで、一週間ほどイラク戦争に反対する活動を組織していたからだ。ボブは映画に集まった小規模の観客に向かって、親しげに短いスピーチをした。
キャンベラでの活動による疲労の色を表わしながら、観客に手短かな忠告をした。
「聞いて下さい。もし、皆さんが全てに失望したと感じた時は、私が良くやるように、森の中で、満天の星空の下、一晩を過ごしてみて下さい。そうすると、多分、奇跡が起きて、また希望が自然に湧いてきますよ」
その言葉には、彼の単純さと不屈の魂がにじみ出ていた。
過去20年以上にわたって、ボブ・ブラウンは「グリーン」の旗をひるがえして、豪州政界のスポットライトをめざして、はっきりと野党の「左翼」を担う堅固な位置を確保してきた。タムマニア出身のこの柔和な話し方をする、眼鏡をかけた同姓愛の医師は、ほとんどポップスターなみの全豪的なヒーローを思わせる存在になった。彼の政策に反対する人々からも尊敬の目を集めていた。
2000年の総選挙で、2人の政治家が連邦議会でしばしば抜きん出て、有権者から注目と尊敬を集めていた。保守派を代表する首相のジョン・ハワードと革新派を代表するボブ・ブラウンだった。2004年の総選挙では、マーク・レイサムのリードで失地を回復した労働党(ALP)が豪州の政界地図を変えつつあった。レイサムが党首になって、まず提案した公約の1つは、なんとボブ・ブラウンと一緒にタスマニアの森林を視察することだった。
ハワードは、2007年の選挙で落選するまで、11年間もの長きにわたって首相を務め続けた稀にみる狡猾な政略家だった。ブラウンの個人的なカリスマ振りは、全く別次元のものだった。彼を尊敬する者にとっては、政治家一般に共通する攻撃的で競争心むき出しの姿勢と全く対照的な存在に見えた。
ブラウンの政治的スタンスは、確かに保守的ではなかったが、彼は色々の意味で非常に因習的な要素を備えていた。彼の保守主義は、その表面的なたたずまいにあった。着こなしが古めかしく、柔和に振る舞い、常にヒゲをきれいに剃り、人前で決して、他人を罵倒することはしない。しかしながら、彼が差し出す政治的献立は、民主的な革命だった。つまり、資本主義に対抗する持久主義、利潤追及に対する思いやりの政策だった。彼の穏やかな物腰にも拘らず、ブラウンは豪州を代表する真の革命家として、記憶されるだろう。
彼はしばしば軽いユーモアを交えて話をするが、いわゆる「町の顔役」にだけべったりな連中を批判するのに、決してやぶさかでない。彼は有権者の最新の関心事、しばしば地元の問題に関して、はっきりした政策の方向付けを試み、更に時の話題を何時も彼の最大関心事であるタスマニアの森林やより広範な環境問題に結びつけて議論を展開する。
環境問題(あるいはそれを越えた、例えば人権問題)に関する彼の思い切った発言は、彼の政治的キャリアを通じて、無数の受賞という形で称讃されている。1983年には、新聞「オーストラリアン」からその年の「時の人」にえらばれ、更に1990年には「1980年代の時の人」に。1990年には、ゴールドマン環境賞を、1996年にはBBCのワイルドライフ・マガジンの「世界で最も人望の高い政治家」賞、1998年には、豪州の人間国宝に選ばれた。
2002年には、DNAマガジンから、豪州で最も著名な同姓愛者のベストテンに、2003年には、豪州経済レビュー・マガジンから、「文化的に最有力な豪州人」に選ばれた。これらの受賞は、ボブ・ブラウンが様々な社会層で極めて人気が高く、かつ広く尊敬されていることを、如実に証明している。
彼の国際主義はそれだけに留まらない。ボブはグリーン党を今世紀の「有益な地球化」の原動力としようという、国際規模の野心を抱いている。つまり、過去の労働運動が果した役割に匹敵するような力、いいかえれば「労働党」に代わるべき「グリーン党」の国際的なパワーをめざしている。
しかしながら、彼の敵にとっては、ボブは狂信家であり、異端者であり、脅威であった。グリーン党が政党として益々力を得てくると、党やその党首であるボブに対する攻撃は、悪質を極めてきた。
ボブはしばしば、殴られたり、強迫を受けたり、人前でけなされたりした。2003年11月に、クインズランド州の自由党出身の上院議員ジョージ・ブランディスは、保守的な三文新聞「ヘラルド・サン」の論説家アンドリュー・ボルトの言葉を引用して、豪州グリーン党のイデオロギーをなんと1920年代から1930年代の「ナチス」になぞらえるという暴挙におよんだ。
政治的策略や狂信性をほのめかすそのような中傷や誹謗に対して、ボブは決してひるまなかった。
「私はそんな人物ではない。私は長老派のクリスチアンだからだ」と2000年に新聞「オーストラリアン」に語っている。彼はニューサウスウエールズ州の農村にある保守的な長老派クリスチアンの家庭出身であるという意味である。
ボブは政界に誠実さと尊厳をもたらし、さらに多くの豪州国民に対してラジカル(過激)という印象を与える世界感を導入した。彼はスキャンダルやあてこすりを武器に使って、彼を失脚させようともくろむ敵側の裏をかいて、タムマニア州議会および連邦議会での最初のスピーチで、彼自身が「同姓愛」であることを明言するという先手を打ち、敵側の攻撃を見事にかわした。
ブラウンのひととなりが多くの観衆を魅了した。そして、豪州の大衆は、一体何が「ラジカル」なのかを、もう一度考え直し始めた。彼は、従来なかった考え方も受け容れられる可能性を創り出した。以前は想像しがたかったことが、実は理屈に合う考え方であることを実証した。ボブがはにかみ屋で、むしろ古風な物腰だけに、彼が歯に衣を着せない勇敢な活動家であることを見つけて、人々は大いに驚いた。
ブラウンが豪州政界で日増しに重要な役割を果たし始めたのは、グリーン党が豪州政界で、抗しがたい勢力として成長してきた事実に符合している。
恐らく、グリーン党が豪州の野党内で、本質を突く唯一の党であるという評価を得たのは、実に2001年に発生した「タンパ事件」の最中であろう。ハワード政府は、船で豪州の海岸線近くにたどり着いた難民の一団が、豪州への入国許可を得んがため、豪州国民からの同情を買おうとして、意図的にその子供たちを船から海に放り出したと主張する一連のビデオ像をテレビで放映した。その放送を観て、多くの豪州大衆は難民たちに対して、呆れかえってしまった。そして、政府側が主張する「難民に対する厳しい措置」を支持する方向に世論が大きく傾き、ハワード政権は総選挙で、曖昧な態度を示した労働党を破って、大勝利した。
ところが、選挙後メディアを中心とする詳しい調査結果により、難民が子供たちを船外に投げ出したという政府側の主張には、(総選挙直前の) 世論工作を意図する行き過ぎがあったという事実が発覚した。政府側は、この事件後、ピーター・レイス国防相を内閣から免職せざるをえなくなったが、逆に(難民の側に立って、政府を厳しく追及した)グリーン党は、全国的にリベラルな有権者からの大幅な支持を獲得した。
この事件ほど、ハワード政府を非難して、極めて歯切れのよい意見を心から述べうる豪州唯一の野党であるという高い誉れを、グリーン党が得た例は外にない。グリーン党は、政府が自身の(批判の対象になっている)難民政策を合理化し、有権者の票を買うために、そこまで悪質なウソを捻出したことに亜然とする国民感情を、如実に代弁したのだった。
以後、以前にも増してしばしば、ボブは豪州のメディアから、ハワード政府に異議を申し立て得る信頼できる「野党側の実質的なリーダー」と呼ばれるようになった。この勇名は、環境政策問題を越えて、凡ゆる政治問題におよんだ。難民収容センターから対米外交問題やイラク戦争を含むテロ対策、更にハワード政府の右に寄ったその他の政策、例えばテルスタ(電々公社)の私有化、10%消費税や私的健康保険制度などに、ボブは一貫して反対意見を述べ続けた。
21世紀の初めに、米国のブッシュ政権によってでっち上げられ、豪州のハワード政府、英国のブレア政権、日本の小泉政権などにバックアップされた「テロ対策」路線は、世界平和への新たな脅威が無気味に拡大していることを示唆している(あるいはその路線自身が脅威の元凶になりつつある)。それは、前例のないメディアによって煽られた地球全体に渡る「テロの恐怖」時代を作り出した。(2001年)9月11日に仕掛けられたニューヨークの貿易センターおよびワシントンのペンタゴン(国防総省)に 対する(ハイジャックされた旅客機による)アタックは、その巨大な破壊力で、地球全体にわたって不安と脅威の風潮をもたらした。「イラク戦争」開始のために、ブッシュ政権が導入した「先制攻撃」路線は、悪質の新外交路線で、国連や欧州諸国の大半から嫌われるとともに、危惧されるに至った。
地球全体に前代未聞の混乱、恐怖、不安が広がるつつあるこの時期に、ボブは豪州の反戦運動のトップリーダー的役割を務めた。2003年2月中旬、豪州中至る所で、イラク戦争への豪州参戦に反対して、抗議集会やデモを企画した。彼はどこの集会にでかけても、演台にあがると、常に最大の喝采を観衆から受けた。それを評して、ある評論家が「ボブ・ブラウンの人気は、マイクロフォンの性能に無関係だ」と語ったそうだ。
ボブは「イラク戦争は豪州国民とは全く無関係の戦争である。それは、ジョージ・ブッシュやそれに尻尾を振るトニー・ブレア、ジョン・ハワードや小泉純一郎などの鷹派連中の個人的な戦争に過ぎない」と力説した。「国連の大量殺りく兵器(WMD)調査団により、実際にイラク内にそんな兵器があるかどうか調べる必要性がある」とボブは訴えた。
(ハワード)首相は一度も、豪州国民からイラクとの戦争に参加してよいという白紙手形を得たことはない。彼には国民の希望(意志)に背を向ける権威はない。彼は(その強引なやりかたで)自国の自由主義と民主主義を踏み躙ってしまった。我々は、差し迫っている大虐殺に「ノー」と訴えている世界中の無数の魂を代表している。我々は、イラクをただ単に(独裁者から解放して)自治国にしたいと望んでいるのに過ぎず、英米などの先進国に石油利権を提供する植民地にしたいとは、決して望んでいない(なぜなら、豪州国民は「地球温暖化の元凶」である石油や石炭に代わるべき、持続できる「きれいなエネルギー」源、例えば太陽エネルギーや風力エネルギーの利用をめざしているからだ)。従って、我々はブッシュに、ブレアに、ホワードに、そして小泉に、戦争の代わりに欧州的アプローチ(解決法)を吟味するように提案したい。
さもなければ、あなたたちは自らの手で、バグダッドに住む多数の子供たちに不必要な流血を強要し、世界中の希望を台無しにする結果をもたらすだろう。我々はもちろん、あなたがたをテロリストと同一視するつもりなどないが、バグダッドに住む母親たちは、あなたがたをどんな目で見るだろうか? 一度彼らの気持を訊いてみたことがあるだろうか? あるいはサダム・フセインと同様、あなたがたには、これらの母親の恐怖を感じとる繊細な感受性が欠けているのだろうか? 私はできることなら、ハワード首相を「ブッシュべったり」主義から、我々自国の大衆の声に耳を傾ける人にしてみたい。
上記にみられるブラウン独特の意見は、豪州国民全体の心をつかみ、政治家全体に対して抱く一般大衆の冷笑を断ち切ることに成功した。そして、豪州大衆の声や気持を、史上最大の反戦運動になった大規模な全世界中の集会に伝えた。彼がスピーチをやったメルボルンとシドニーの抗議集会を合わせると、合計50万人近い参加者があった。ボブは街頭でも人々の尊敬を集める代弁者の役をみごとに果した。
豪州の政界では、ハワードの保守連立政府ばかりではなく、肝心の野党たる労働党さえも、最近の世界的潮流となりつつある「中道右派」路線への傾斜に、さらに右へならえをしていた。強いて例外を探せば、ドイツのゲアハート・シュレーダーの社会民主党とグリーンの連立政府とイタリアのシルビオ・ベルスコーニの極右(ネオ・リベラル)政権だけが、いわゆる独自路線を歩んでいた。
ボブ・ブラウンは多くの人々にとって、社会正義、実践的な環境保護主義、よりよき世界へのビジョン(展望)の緊急な必要性を密接に結びつけるシンボルとなりつつある。彼は、一地方(タスマニア島)の活動家から、全国的さらに国際的レベルで環境保護運動をリードする「自由の闘士」に成長した非常に稀れな活動家の例である。
もちろん、我々がテレビを通じておなじみの環境保護活動家、議会でただひとり、難民の基本的人権やイラク戦争反対を強く訴えるあの「ボブ・ブラウン」像は、彼の人生の一側面に過ぎない。
メディア像は、例えば、彼がもつ(意外に)豊かな家庭的な側面を無視している。ピアニストの彼は、しばしば自宅で自らピアノ演奏を楽しむ趣味を持つし、彼の伴侶ポール・トマスとのロマンスによって、いわゆる「囚人生活」からの解放を楽しんでいる。彼は菜食主義者ではなく、食卓にはいわゆる「豆腐食」より、むしろ「ステーキと三菜」という豪州/英国風の伝統的なメニューを好むようだ。
その上、メディアの報道からは、ボブは前半生で、内なる悪夢にさいなまれて、首都キャンベラで医師をしていた頃、悩みを他人に打ち明けることもできず、混迷の末、自殺を一時考えたことや、52歳になるまで、他人と親密な関係に入ることなく、独身生活を続けたボブを想像することは、極めて難しい。その同じ人物が、驚くべきドンキホーテ的な変身を遂げ、今日我々が見る政界をリードする中心的存在になったのである。
ボブの内部に起こった私的な人格上の革命は、もちろん、彼の政界でのキャリアにおけるより広範な社会的革命を育てるために十分な素地を提供した。
メディアが作り上げた一次元的なブラウン像のみでは、彼が引き出したインスピレーションの源泉や、20年間近くにわたる議会での活動や、地元や国際的な各種の組織からくる際限なき依頼に応じるために、彼がたたき出す時間とエネルギーの源泉は、とうてい浮かび上がってこない。正にその源泉は、彼を取り巻く自然環境自体の中にあるに違いないと私は推察している。それは歴史的には、フランクリン川に始まり、北タスマニア地方の中央にあるリフェイ渓谷に彼が見つけ、現在でも住み続けている潅木地の一角を取り巻く森林と切り立つ岩壁に至る「聖なる原生林」である。それにボブは常に引かれ、それを保護するために、自分の後半生を捧げているのである。
連邦議会の不毛で退屈な現場から何万キロも離れた、自然界に立ち、ほと走る渓流や厳かな静寂に直に接して初めて、一体何が真にボブを動かしているかを、我々はよりよく理解できるだろう。
続く
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2008年9月6日土曜日
2008年7月1日火曜日
Robert F. Kennedy: Man Who Dared to Dream (1970)
I enjoyed reading this children's book shortly before I left Japan for the United States in 1973. I was around 30, and the book was a very good introduction (for me) to both RFK and American dream. Since then I stayed on overseas to enjoy both work and life with a free spirit.
In 2008, after 35 years later, another man from a quite different background is trying to realize the same dream that RFK had in 1968, but could not realize, due to a unfortunate tragedy shortly after the Convention in California. Barack Obama and RFK share the most attractive character, both the honesty and the courage to change the world.
I do hope Obama will win the November election against John McCain, a very old conventional Republican man, to change both US and the rest of this world with the spirit of RFK which is described in this fantastic 1970 book. It is a great shame that no book on RFK was published in Japanese so far.
ロバート・ケネディー: 敢えて夢を追う青年
その1 負けじ魂
「ボクが泳ぐのを見てて!」
と叫びながら、4歳の少年(ボビー・ケネディー)が小舟から海ヘ飛び込んだ。深いところで、ボビーにはとうてい足が着かなかった。溺れかかったボビーは咳込みながら、水を吐き出し、懸命になって両手でバタバタとクロール(犬掻き)を始めた。
彼の12歳になる兄ジャックは、いつでも飛び込んで、弟を救い出す用意をしていたが、ボビーは何とか自力で小舟までたどり着いた。ジャックは急いで弟を引っぱり上げた。
「相変わらず無鉄砲なやつだ。もうちょっとで溺れるところだったぞ!」
とジャックは笑いながら言った。
「ボクは泳げたよ。違うかい?」
とボビーが、そばかすだらけの顔から水を拭いながら、自慢げに言った。
「毎日泳いで、ずっとうまくなるぞ!」
ボビーとジャックは、コッド岬の沖でボート漕ぎをしていた。米国マサチューセッツ州のハイアニス港にあるケネディー家の夏の別荘の近くだった。そこからさほど遠くない沖では、長男のジョー(14歳)がヨットレースに挑んでいた。ジョーのヨットが真っ先にゴールインするや、ボビーとジャックはやんやと喚声を挙げて喜んだ。
少年たちの父親、ジョセフ・ケネディーは自分の息子や娘たちにスポーツを奨励し、ヨットレース、水泳大会、テニスの試合などに参加することを激励した。彼らは試合に勝つと讃められるが、負けると叱られた。ケネディー一家にとっては、勝つことが、三度の食事に匹敵するほど、大事だった。
「二番じゃ駄目だ。一番にならなければ駄目だ!」と父親は、口ぐせのように言った。
「二番や三番は数の中に入らない。トップになるのだ。絶対にトップだ!」
そんな父親に育てられたボビーは、成長すると共に、ありとあらゆるスポーツに参加するようになった。あたかも勝つことが死活の問題であるかのように。。。 ボビーは年令のわりに小柄だった。その上、9人兄妹の7人目だったので、兄妹同士の試合で、しょっちゅう勝つというわけにはいかなかった。それでも、常に最善を尽くした。
「生き残るために、常に修練が必要だった」とボビーが語ったことがある。
ロバート・ケネディーは、1925年11月20日に、マサチューセッツ州のブルックリンで生まれた。彼が生まれてまもなく、一家はニューヨーク市内に引っ越し、さらに近郊のブロンクスビルに移った。学齢に達すると公立の小学校に通学し始めたが、はにかみやのボビーには当初、友達がなかなかできなかった。けれども、帰宅すれば、いつでも一緒に遊んでくれる者がいた。2人の兄のほか、4人の姉、妹が一人、それに末っ子の小さな弟、エドワード(皆んなからはテディーと呼ばれていた)がいた。
ボビーにはペットもいた。「ポーキー」というブタ一匹と、自分の裏庭で飼育しているウサギが数匹いた。このウサギを大きく育てて、近所の人々に売っては、小遣いを稼いだ。ケネディー家は非常に裕福だったが、家の方針として、子供たちの小遣いは、できるだけ各人自分で稼ぐようにしつけた。そうすることによって、労働とお金の尊さを学ばせるためだった。
ケネディー家には、多くの奉公人が働いていた。車の運ちゃんの息子はボビーの友達だった。二人は一緒によく遊び、しばしば奇抜な冒険を計画しては、実行した。
ある日、ボビーとその友達は古い布地からパラシュートを2組作りあげた。それから、そのパラシュートをかかえて、ケネディー家のやかたの屋根まで登って、屋根の欄干からおそるおそる下をのぞいてみた。2人のパラシュート飛行士は、ぞっとした。イガグリ頭のボビーの顔がみるみるうちに真っ青になった。
「ボ、ボクが先に飛び降りるよ」とボビーが口ごもった。
「いや、ボクの方が先だ!」と友達の方が言い張った。
「オーケー、それならどうぞお先に!」とボビーが譲歩した。
ボビーの眼前で、その少年は、頭上にパラシュートをかかえながら、地面に向かって、屋根から飛び降りた。だが、恐ろしことには、パラシュートが開かなかった。
少年はどしんと地面に叩きつけられ、苦痛で悲鳴をあげた。びっくりしたケネディー夫人が、家の中から飛び出してきて、その少年をいたわってやった。ボビーに向かって、すぐ屋根から降りてくるように命じるや、夫人は急いで居間に戻り、医者に電話をかけた。
少年を診察し終わった医者は、こう言った。
「大丈夫だ。片足が骨折しただけだ」
「なんだ、片足が折れただけか!」とボビーはうらやましそうに叫んだ。
そして、独り言を言った。
「皆んなから同情を買う(あるいは注目の的になる)のに、足の骨折など安いものだ。今度は自分が
真っ先にジャンプするぞ」
その10 大統領選に出馬
1968年にボビーの親友たちはボビーが大統領選挙に出馬することを切に望んだ。しかしながら、ボビーはそれをかなり苦慮した。というのは、現職のジョンソン大統領が出馬するに違いないと、ボビーは信じていたからだ。現職の大統領が党内から指名されるのは、いたって容易だ。
民主党内のムードはジョンソン指名に傾いていた。しかしながら、多数の米国大衆はジョンソンによるベトナム戦争の処理のしかたに反対だった。
ジョンソンの人気が傾き始めたのを察したボビーは、「北ベトナム爆撃を停止し、休戦(平和)交渉を始めるべきだ」という主旨の演説を行なった。
まもなくジョンソンのベトナム政策に反対するミネソタ州の上院議員ユージン・マッカーシーが、民主党の大統領候補をめざして、活動を開始した。ボビーは、マッカーシーがニューハンプシャー(NH)の予備選挙で示す戦い振りを、興味深く観察した。予備選挙とは、各州の党員あるいは支持者が、全米の党大会以前に、大統領候補に対する自分たちの好みを表明する人気投票である。
NH予備選挙で、マッカーシーはなんとジョンソンと互角の戦いを占めし、全米をびっくりさせた。マッカーシーの健闘振りを見て、ボビーは民主党内が今や二分し、
ジョンソンが敗北する可能性をキャッチした。
1968年3月初め、ワシントンの上院会議室で大勢の聴衆を前にして、ボビーはまず「大統領に立候補する」ことを宣言した。会場には、妻のエシールや9人の子供たちも臨席し、全米向けのテレビで、その模様が中継された。ボビーはこう続けた。
「ベトナムや米国内での流血をストップするために、アメリカには新しい政策が必要だ。黒人と白人との間にあるギャップ、貧富の差、老人と若者たちの間にある格差をなくす政策が求められている」
マッカーシーがNH予備選挙で勝つのを見定めてから、ボビーが立候補したことに批判をする連中もいた。マッカーシーが大統領に選ばれるように、ボビーは応援すべきだ、と彼らは主張した。しかしながら、(本番では)マッカーシーには勝ち目がない、とボビーには思えた。逆に、自分が代わりに立派な大統領になるチャンスが十分にあると感じていた。
そこで、ボビー自身の人気を民主党内の有力な政治家(お偉方)たちに証明するために、できるだけ多くの予備選挙に参加する決心をした。まずインディアナ州の予備選挙に出馬した。
ボビーは州内を歩き回り、有権者たちに、「ベトナム戦争は米国に破綻をもたらす危険があるので、自分が大統領に当選したら、この戦争を停止する」と訴えた。さらに、「多くの米国大衆を苦しめている貧困を解消するために、多くのことをしたい」と約束した。戦争で浪費する代わりに、その莫大なお金で貧乏人を救うことができる、とボビーは考えた。
インディアナ州のいたるところで、ボビーは彼の演説を聞こうと詰めかけた大集団に取り囲れた。聴衆の中には、選挙資格がまだない21歳未満の若者たちが沢山いた。そこで、ボビーは満面に微笑を浮かべながら、こんな冗談を言った。
「今後将来は、(君たちも参加できるように)有権者を7歳以上にするよう努力しよう」
インディアナ州予備選挙の直前に、「ジョンソン大統領が再選を断念した!」というニュースを聞いて、びっくりした。しかしながら、ジョンソンはボビーを応援するわけではなかった。彼は自分の部下、副大統領のフーバート・ハンフリーを大統領候補に指名したかったからだ。ボビーは、インディアナ州予備選挙での勝利に、さらに自信を深めた。
4月の初めのある夕方、インディアナポリスの集会への途上、ボビーはテネシー州メンフィスで起こった悲報を聞かされ、大きなショックを受けた。黒人指導者マーチン・ルーサン・キング博士が暗殺されたというニュースだった。
インディアナポリスの大集会で、ボビーは待ち受けている聴衆に向かって、まずその悲報を告げる瞬間、思わず涙ぐんだ。その上、一種の戦慄さえ感じた。聴衆の中には、多くの黒人たちがいたからだ。ボビーは、その聴衆に向かって、こう訴えた。
「皆さん、暴力に対して暴力で対抗するのは辞めましょう」
「黒人である人々にとって、この事件は苦痛であり、いっそ怒りを爆発させ、敵を取りたいと思うでしょう。全米中で殺し合いを始めるのも、選択の1つです。しかしながら、故キング博士がこれまで努力してきたように、暴力を思いやりや愛情に置き換えるよう努めることも、もう1つの選択です」
「私の家族の一員(兄ジャック)も暗殺されました」
感情の高まる余り、ボビーの声が震えた。
「兄は白人に殺されました。しかしながら、この国に住む大多数の人々は、白人でも黒人でも、一緒に仲良く暮らし、生活水準を高め、正義を貫くことを望んでいます」
演説を済ませるや、ボビーはアトランタに住むキング博士夫人(未亡人)に電話をした。そして、彼女のためにメンフィスまでの飛行機を手配したいと提案した。夫人はありがたく、ボビーの申し出を受諾した。ボビーも他の候補者たちも、直ちに選挙運動を一時中止して、キング牧師の葬式に向かった。全米で牧師の急死を悼む最中、ボビーは自問し続けた。「一体いつになったら、こんな野蛮な暗殺はなくなるのだろう? 一体いつになったら?」
この小伝の完訳は、下記のホームページにあり:
http://happytown.orahoo.com/green-books/
In 2008, after 35 years later, another man from a quite different background is trying to realize the same dream that RFK had in 1968, but could not realize, due to a unfortunate tragedy shortly after the Convention in California. Barack Obama and RFK share the most attractive character, both the honesty and the courage to change the world.
I do hope Obama will win the November election against John McCain, a very old conventional Republican man, to change both US and the rest of this world with the spirit of RFK which is described in this fantastic 1970 book. It is a great shame that no book on RFK was published in Japanese so far.
ロバート・ケネディー: 敢えて夢を追う青年
その1 負けじ魂
「ボクが泳ぐのを見てて!」
と叫びながら、4歳の少年(ボビー・ケネディー)が小舟から海ヘ飛び込んだ。深いところで、ボビーにはとうてい足が着かなかった。溺れかかったボビーは咳込みながら、水を吐き出し、懸命になって両手でバタバタとクロール(犬掻き)を始めた。
彼の12歳になる兄ジャックは、いつでも飛び込んで、弟を救い出す用意をしていたが、ボビーは何とか自力で小舟までたどり着いた。ジャックは急いで弟を引っぱり上げた。
「相変わらず無鉄砲なやつだ。もうちょっとで溺れるところだったぞ!」
とジャックは笑いながら言った。
「ボクは泳げたよ。違うかい?」
とボビーが、そばかすだらけの顔から水を拭いながら、自慢げに言った。
「毎日泳いで、ずっとうまくなるぞ!」
ボビーとジャックは、コッド岬の沖でボート漕ぎをしていた。米国マサチューセッツ州のハイアニス港にあるケネディー家の夏の別荘の近くだった。そこからさほど遠くない沖では、長男のジョー(14歳)がヨットレースに挑んでいた。ジョーのヨットが真っ先にゴールインするや、ボビーとジャックはやんやと喚声を挙げて喜んだ。
少年たちの父親、ジョセフ・ケネディーは自分の息子や娘たちにスポーツを奨励し、ヨットレース、水泳大会、テニスの試合などに参加することを激励した。彼らは試合に勝つと讃められるが、負けると叱られた。ケネディー一家にとっては、勝つことが、三度の食事に匹敵するほど、大事だった。
「二番じゃ駄目だ。一番にならなければ駄目だ!」と父親は、口ぐせのように言った。
「二番や三番は数の中に入らない。トップになるのだ。絶対にトップだ!」
そんな父親に育てられたボビーは、成長すると共に、ありとあらゆるスポーツに参加するようになった。あたかも勝つことが死活の問題であるかのように。。。 ボビーは年令のわりに小柄だった。その上、9人兄妹の7人目だったので、兄妹同士の試合で、しょっちゅう勝つというわけにはいかなかった。それでも、常に最善を尽くした。
「生き残るために、常に修練が必要だった」とボビーが語ったことがある。
ロバート・ケネディーは、1925年11月20日に、マサチューセッツ州のブルックリンで生まれた。彼が生まれてまもなく、一家はニューヨーク市内に引っ越し、さらに近郊のブロンクスビルに移った。学齢に達すると公立の小学校に通学し始めたが、はにかみやのボビーには当初、友達がなかなかできなかった。けれども、帰宅すれば、いつでも一緒に遊んでくれる者がいた。2人の兄のほか、4人の姉、妹が一人、それに末っ子の小さな弟、エドワード(皆んなからはテディーと呼ばれていた)がいた。
ボビーにはペットもいた。「ポーキー」というブタ一匹と、自分の裏庭で飼育しているウサギが数匹いた。このウサギを大きく育てて、近所の人々に売っては、小遣いを稼いだ。ケネディー家は非常に裕福だったが、家の方針として、子供たちの小遣いは、できるだけ各人自分で稼ぐようにしつけた。そうすることによって、労働とお金の尊さを学ばせるためだった。
ケネディー家には、多くの奉公人が働いていた。車の運ちゃんの息子はボビーの友達だった。二人は一緒によく遊び、しばしば奇抜な冒険を計画しては、実行した。
ある日、ボビーとその友達は古い布地からパラシュートを2組作りあげた。それから、そのパラシュートをかかえて、ケネディー家のやかたの屋根まで登って、屋根の欄干からおそるおそる下をのぞいてみた。2人のパラシュート飛行士は、ぞっとした。イガグリ頭のボビーの顔がみるみるうちに真っ青になった。
「ボ、ボクが先に飛び降りるよ」とボビーが口ごもった。
「いや、ボクの方が先だ!」と友達の方が言い張った。
「オーケー、それならどうぞお先に!」とボビーが譲歩した。
ボビーの眼前で、その少年は、頭上にパラシュートをかかえながら、地面に向かって、屋根から飛び降りた。だが、恐ろしことには、パラシュートが開かなかった。
少年はどしんと地面に叩きつけられ、苦痛で悲鳴をあげた。びっくりしたケネディー夫人が、家の中から飛び出してきて、その少年をいたわってやった。ボビーに向かって、すぐ屋根から降りてくるように命じるや、夫人は急いで居間に戻り、医者に電話をかけた。
少年を診察し終わった医者は、こう言った。
「大丈夫だ。片足が骨折しただけだ」
「なんだ、片足が折れただけか!」とボビーはうらやましそうに叫んだ。
そして、独り言を言った。
「皆んなから同情を買う(あるいは注目の的になる)のに、足の骨折など安いものだ。今度は自分が
真っ先にジャンプするぞ」
その10 大統領選に出馬
1968年にボビーの親友たちはボビーが大統領選挙に出馬することを切に望んだ。しかしながら、ボビーはそれをかなり苦慮した。というのは、現職のジョンソン大統領が出馬するに違いないと、ボビーは信じていたからだ。現職の大統領が党内から指名されるのは、いたって容易だ。
民主党内のムードはジョンソン指名に傾いていた。しかしながら、多数の米国大衆はジョンソンによるベトナム戦争の処理のしかたに反対だった。
ジョンソンの人気が傾き始めたのを察したボビーは、「北ベトナム爆撃を停止し、休戦(平和)交渉を始めるべきだ」という主旨の演説を行なった。
まもなくジョンソンのベトナム政策に反対するミネソタ州の上院議員ユージン・マッカーシーが、民主党の大統領候補をめざして、活動を開始した。ボビーは、マッカーシーがニューハンプシャー(NH)の予備選挙で示す戦い振りを、興味深く観察した。予備選挙とは、各州の党員あるいは支持者が、全米の党大会以前に、大統領候補に対する自分たちの好みを表明する人気投票である。
NH予備選挙で、マッカーシーはなんとジョンソンと互角の戦いを占めし、全米をびっくりさせた。マッカーシーの健闘振りを見て、ボビーは民主党内が今や二分し、
ジョンソンが敗北する可能性をキャッチした。
1968年3月初め、ワシントンの上院会議室で大勢の聴衆を前にして、ボビーはまず「大統領に立候補する」ことを宣言した。会場には、妻のエシールや9人の子供たちも臨席し、全米向けのテレビで、その模様が中継された。ボビーはこう続けた。
「ベトナムや米国内での流血をストップするために、アメリカには新しい政策が必要だ。黒人と白人との間にあるギャップ、貧富の差、老人と若者たちの間にある格差をなくす政策が求められている」
マッカーシーがNH予備選挙で勝つのを見定めてから、ボビーが立候補したことに批判をする連中もいた。マッカーシーが大統領に選ばれるように、ボビーは応援すべきだ、と彼らは主張した。しかしながら、(本番では)マッカーシーには勝ち目がない、とボビーには思えた。逆に、自分が代わりに立派な大統領になるチャンスが十分にあると感じていた。
そこで、ボビー自身の人気を民主党内の有力な政治家(お偉方)たちに証明するために、できるだけ多くの予備選挙に参加する決心をした。まずインディアナ州の予備選挙に出馬した。
ボビーは州内を歩き回り、有権者たちに、「ベトナム戦争は米国に破綻をもたらす危険があるので、自分が大統領に当選したら、この戦争を停止する」と訴えた。さらに、「多くの米国大衆を苦しめている貧困を解消するために、多くのことをしたい」と約束した。戦争で浪費する代わりに、その莫大なお金で貧乏人を救うことができる、とボビーは考えた。
インディアナ州のいたるところで、ボビーは彼の演説を聞こうと詰めかけた大集団に取り囲れた。聴衆の中には、選挙資格がまだない21歳未満の若者たちが沢山いた。そこで、ボビーは満面に微笑を浮かべながら、こんな冗談を言った。
「今後将来は、(君たちも参加できるように)有権者を7歳以上にするよう努力しよう」
インディアナ州予備選挙の直前に、「ジョンソン大統領が再選を断念した!」というニュースを聞いて、びっくりした。しかしながら、ジョンソンはボビーを応援するわけではなかった。彼は自分の部下、副大統領のフーバート・ハンフリーを大統領候補に指名したかったからだ。ボビーは、インディアナ州予備選挙での勝利に、さらに自信を深めた。
4月の初めのある夕方、インディアナポリスの集会への途上、ボビーはテネシー州メンフィスで起こった悲報を聞かされ、大きなショックを受けた。黒人指導者マーチン・ルーサン・キング博士が暗殺されたというニュースだった。
インディアナポリスの大集会で、ボビーは待ち受けている聴衆に向かって、まずその悲報を告げる瞬間、思わず涙ぐんだ。その上、一種の戦慄さえ感じた。聴衆の中には、多くの黒人たちがいたからだ。ボビーは、その聴衆に向かって、こう訴えた。
「皆さん、暴力に対して暴力で対抗するのは辞めましょう」
「黒人である人々にとって、この事件は苦痛であり、いっそ怒りを爆発させ、敵を取りたいと思うでしょう。全米中で殺し合いを始めるのも、選択の1つです。しかしながら、故キング博士がこれまで努力してきたように、暴力を思いやりや愛情に置き換えるよう努めることも、もう1つの選択です」
「私の家族の一員(兄ジャック)も暗殺されました」
感情の高まる余り、ボビーの声が震えた。
「兄は白人に殺されました。しかしながら、この国に住む大多数の人々は、白人でも黒人でも、一緒に仲良く暮らし、生活水準を高め、正義を貫くことを望んでいます」
演説を済ませるや、ボビーはアトランタに住むキング博士夫人(未亡人)に電話をした。そして、彼女のためにメンフィスまでの飛行機を手配したいと提案した。夫人はありがたく、ボビーの申し出を受諾した。ボビーも他の候補者たちも、直ちに選挙運動を一時中止して、キング牧師の葬式に向かった。全米で牧師の急死を悼む最中、ボビーは自問し続けた。「一体いつになったら、こんな野蛮な暗殺はなくなるのだろう? 一体いつになったら?」
この小伝の完訳は、下記のホームページにあり:
http://happytown.orahoo.com/green-books/
2008年5月30日金曜日
ブッシュ批判本 『What Happend: 世論操りイラク開戦正当化』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008052902013473.html
2008年5月29日 夕刊
【ワシントン=立尾良二】マクレラン元米大統領報道官が来週出版する著書で、ブッシュ大統領のイラク開戦決定を批判。評判を呼んで予約が殺到しており、ペリーノ大統領報道官や元同僚らが二十七日、一斉に「なぜ職務にある時に言わなかったのか」と反発する騒ぎになっている。
マクレラン氏は、ブッシュ大統領を「魅力的で機知に富み大統領にふさわしい人」と評した上で、イラク戦争を「無益な戦争」「戦略的に大失敗」と批判。ブッシュ政権は「真実を隠し、世論を操って開戦を正しいと思わせた」と内幕を“暴露”している。
これに対し、ペリーノ報道官は「残念だ。われわれが知っているスコット(マクレラン氏の名前)ではない」と失望を表明。ダフィー元大統領副報道官は「大統領に便乗して有名になりながら、任期切れ間近の大統領をののしって金もうけしている」と非難した。
マクレラン氏は、二〇〇三年七月から〇六年五月まで大統領報道官を務めた。出版する著書「何が起きたのか ブッシュ政権の内幕とワシントン政治の悪いところ」は二十七日、ネット書店(Amazon.com) のランキングで一位になった。
2008年5月29日 夕刊
【ワシントン=立尾良二】マクレラン元米大統領報道官が来週出版する著書で、ブッシュ大統領のイラク開戦決定を批判。評判を呼んで予約が殺到しており、ペリーノ大統領報道官や元同僚らが二十七日、一斉に「なぜ職務にある時に言わなかったのか」と反発する騒ぎになっている。
マクレラン氏は、ブッシュ大統領を「魅力的で機知に富み大統領にふさわしい人」と評した上で、イラク戦争を「無益な戦争」「戦略的に大失敗」と批判。ブッシュ政権は「真実を隠し、世論を操って開戦を正しいと思わせた」と内幕を“暴露”している。
これに対し、ペリーノ報道官は「残念だ。われわれが知っているスコット(マクレラン氏の名前)ではない」と失望を表明。ダフィー元大統領副報道官は「大統領に便乗して有名になりながら、任期切れ間近の大統領をののしって金もうけしている」と非難した。
マクレラン氏は、二〇〇三年七月から〇六年五月まで大統領報道官を務めた。出版する著書「何が起きたのか ブッシュ政権の内幕とワシントン政治の悪いところ」は二十七日、ネット書店(Amazon.com) のランキングで一位になった。
2008年5月28日水曜日
米国に代わるべき大国(Fareed Zakaria)
泥沼の「イラク戦争」に米国が手を染めて以来、戦後60年近く続いた米国の政治的、経済的繁栄に影が差し始めた。21世紀の世界を米国にかわってリードし始める大国は一体どこだろうか? 最近「経済的な大躍進」を続け、かつ世界の総人口の5分の1を占める中国だろうか? あるいはそれに次ぐインドだろうか? あるいは統合しつつある「欧州連合」(EU、総人口5億人で世界3位) だろうか? 60年以上君臨していた「米国ドル」は日増しに価値を失い、欧州の「ユーロ」が世界金融界の王座を今や占めつつある。
戦後60年間以上、米国という「大樹」の影に隠れて、あたかも米国の「植民地」あるいは「属国」のごとき振る舞いを続けてきた日本の政界や財界にも、来たるべき次の「大樹」をしっかり見極めるべき時期が刻々と迫ってきている。従来通りの「米国丸」追従一辺倒路線では、激しく躍動しつつある来たるべき世界の荒波を乗り切ることは今後、到底できないからだ。
著者は、米国丸の「沈没」を予測しているわけでは決してない。今後の世界に「米国独占時代」の終焉が訪れ、他の「複数の大国」が、それに代って、力を貯め込んできている事実を指摘しているに過ぎない。ちっぽけな「日本丸」のとるべき今後の針路にヒントを与えるかもしれない(「先見の明」のある)本として、特に政界や財界の指導者たちに、読書をぜひお勧めしたい。
なお「民主主義の未来」(邦訳、2004年)で好評を博した著者ザカリアは、日本の大衆にも既に馴染み深く、政治や経済に関する複雑な問題を、我々「しろうと」にもわかりやすく説明しうる文才がある。
もっとも、英文原書の実際のタイトルは、「民主主義」(Democracy)ではなく「自由主義」(Freedom)であり、「この2つを決して混同してはいけない」というのが、ザカリアの主張の1つである。従って、邦訳のタイトルは皮肉にも、その点で読者に当初から混同を招いているきらいがある。私自身は「自由主義」信奉者(リベラル)で、民主主義、特に日本の保守的ないわゆる「衆愚(民主)政治」に愛想をつかしている。数学の公理や定理の正否を、「しろうと」による多数決で決定するのは、大きな誤りだと今でも固く信じている。
戦後60年間以上、米国という「大樹」の影に隠れて、あたかも米国の「植民地」あるいは「属国」のごとき振る舞いを続けてきた日本の政界や財界にも、来たるべき次の「大樹」をしっかり見極めるべき時期が刻々と迫ってきている。従来通りの「米国丸」追従一辺倒路線では、激しく躍動しつつある来たるべき世界の荒波を乗り切ることは今後、到底できないからだ。
著者は、米国丸の「沈没」を予測しているわけでは決してない。今後の世界に「米国独占時代」の終焉が訪れ、他の「複数の大国」が、それに代って、力を貯め込んできている事実を指摘しているに過ぎない。ちっぽけな「日本丸」のとるべき今後の針路にヒントを与えるかもしれない(「先見の明」のある)本として、特に政界や財界の指導者たちに、読書をぜひお勧めしたい。
なお「民主主義の未来」(邦訳、2004年)で好評を博した著者ザカリアは、日本の大衆にも既に馴染み深く、政治や経済に関する複雑な問題を、我々「しろうと」にもわかりやすく説明しうる文才がある。
もっとも、英文原書の実際のタイトルは、「民主主義」(Democracy)ではなく「自由主義」(Freedom)であり、「この2つを決して混同してはいけない」というのが、ザカリアの主張の1つである。従って、邦訳のタイトルは皮肉にも、その点で読者に当初から混同を招いているきらいがある。私自身は「自由主義」信奉者(リベラル)で、民主主義、特に日本の保守的ないわゆる「衆愚(民主)政治」に愛想をつかしている。数学の公理や定理の正否を、「しろうと」による多数決で決定するのは、大きな誤りだと今でも固く信じている。
2008年5月8日木曜日
お茶を三杯、ヒマラヤ登山家からの意外な返礼(Greg Mortenson)
米国の白人登山家グレッグ・モーテンソンはキリスト教宣教師の息子で、生後十数年、両親と共にアフリカ大陸最高峰キリマンジャロの山麓で少年時代を過ごした。
1993年に、エベレストに次ぐ最高峰「K2」に4人の登山仲間と一緒にに挑戦した。 しかしながら(遭難した仲間の一人を救出するため3昼夜を費やし、全員が体力を使い果たして)登頂を断念せざるをえなかった。消耗した体力回復のため数週間滞在(療養)していた、麓のパキスタンの (アフガニスタンへの国境に近い) 村で、予期せぬ運命が彼を待ち構えていた。
貧しい村人たちからもらった「三杯のお茶」に象徴される暖かいもてなしに報いるために、彼は米国に帰国する際、学校に行く機会がないこの村の学齢期の子供たちのために、将来、村に最初の学校を建てることを約束する。しかしながら、その口約束を守ることは彼にとって、容易なことではなかった。彼は財産家どころか、実は(「K2」登山で手持ちを使い果たし)ほとんど一文なしになっていたからだ。 彼はパートタイムの看護士をしながら、日々を細々と暮らしていたに過ぎなかった。
そこで、彼は試行錯誤の末、(ヒマラヤ登山家仲間)スイス人の実業家でマイクロチップス開発のパイオニアであるジーン・ヘルニ(1924ー1997)の助けを借りて、「中央アジア研究所」という財団を設立して、パキスタンとアフガニスタンの国境に接する貧しい村々に学校を建てる基金を集める活動に専念し始めた。そして、以後10年以上の間に、特に(イスラム過激派「タリバン」の影響で)学校教育から見放されている女の子たちのために、50以上の学校をこの山岳地方に建設した。
1953年に(シェルパ族のテンジンと共に)エベレスト登頂に成功後、山麓の貧しいネパールの村々に無数の新しい学校や病院を建てた故エドモント・ヒラリー卿(1919ー2008)の偉業に、いわば匹敵するものであった。「K2」登頂という個人的な夢には破れたが、それに負げず、(社会的により貴重な)新たな使命を自分の人生に見つけ出し、そのために懸命に闘い続け、ついに成功した感動的な実話ドラマである。
2006年に出版されたこの英文原書は目下、ニューヨークタイムズ紙のベストセラー・リスト (ノンフィクション部門) のトップになっている。この本の売り上げの一部は、「中央アジア財団」の活動費に当てられるそうだ。 もし、近い将来、邦訳の機会が訪れれば誠に幸いである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Three_Cups_of_Tea
1993年に、エベレストに次ぐ最高峰「K2」に4人の登山仲間と一緒にに挑戦した。 しかしながら(遭難した仲間の一人を救出するため3昼夜を費やし、全員が体力を使い果たして)登頂を断念せざるをえなかった。消耗した体力回復のため数週間滞在(療養)していた、麓のパキスタンの (アフガニスタンへの国境に近い) 村で、予期せぬ運命が彼を待ち構えていた。
貧しい村人たちからもらった「三杯のお茶」に象徴される暖かいもてなしに報いるために、彼は米国に帰国する際、学校に行く機会がないこの村の学齢期の子供たちのために、将来、村に最初の学校を建てることを約束する。しかしながら、その口約束を守ることは彼にとって、容易なことではなかった。彼は財産家どころか、実は(「K2」登山で手持ちを使い果たし)ほとんど一文なしになっていたからだ。 彼はパートタイムの看護士をしながら、日々を細々と暮らしていたに過ぎなかった。
そこで、彼は試行錯誤の末、(ヒマラヤ登山家仲間)スイス人の実業家でマイクロチップス開発のパイオニアであるジーン・ヘルニ(1924ー1997)の助けを借りて、「中央アジア研究所」という財団を設立して、パキスタンとアフガニスタンの国境に接する貧しい村々に学校を建てる基金を集める活動に専念し始めた。そして、以後10年以上の間に、特に(イスラム過激派「タリバン」の影響で)学校教育から見放されている女の子たちのために、50以上の学校をこの山岳地方に建設した。
1953年に(シェルパ族のテンジンと共に)エベレスト登頂に成功後、山麓の貧しいネパールの村々に無数の新しい学校や病院を建てた故エドモント・ヒラリー卿(1919ー2008)の偉業に、いわば匹敵するものであった。「K2」登頂という個人的な夢には破れたが、それに負げず、(社会的により貴重な)新たな使命を自分の人生に見つけ出し、そのために懸命に闘い続け、ついに成功した感動的な実話ドラマである。
2006年に出版されたこの英文原書は目下、ニューヨークタイムズ紙のベストセラー・リスト (ノンフィクション部門) のトップになっている。この本の売り上げの一部は、「中央アジア財団」の活動費に当てられるそうだ。 もし、近い将来、邦訳の機会が訪れれば誠に幸いである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Three_Cups_of_Tea
2008年5月6日火曜日
何を食べたらよいか? 自然に帰ろう!(Michael Pollan)
著者マイケル・ポーランは、カルフォルニア大学(バークレー)の教授(ジャー ナリズム専攻)。自宅に菜園をもち、自らガードニングを楽しみながら、食生活 の改善を試みている。豊かになり過ぎた欧米や日本などのいわゆる文明諸国では、 インスタント食品製造会社のテレビ広告やいわゆる栄養学専門家の書く本に踊ら されて、我々の祖母の世代が昔食べていたような自然の食物を余り口にしなくなっ てしまった。そのために、近来、肥満体とか「メタボ」の人間、糖尿病患者や癌 患者がいっぱい街に溢れ始めた。
著者は菜食主義ではないが、主に野菜や果物な どの植物由来の食物を偏食なく、腹八分目に食べることを強調している。長寿者 が多かった沖縄の例をあげながら、米軍基地の影響で、マクドナルドのようなイ ンスタント食品文化が蔓延し、近来、沖縄でも長寿者の数が年々減少し始めてい ることを指摘している。より健康で息の長い生活をエンジョイするために食生活 を「もっと自然に戻すべきだ!」という警鐘を鳴らしている。一読に値する本で ある。
ちなみに地元の米国では、この正月に出版されて以来、ノンフィクション 部門で、(ニューヨークタイムズ紙の)ベストセラーリストのトップの座を占め 続けている。
著者は菜食主義ではないが、主に野菜や果物な どの植物由来の食物を偏食なく、腹八分目に食べることを強調している。長寿者 が多かった沖縄の例をあげながら、米軍基地の影響で、マクドナルドのようなイ ンスタント食品文化が蔓延し、近来、沖縄でも長寿者の数が年々減少し始めてい ることを指摘している。より健康で息の長い生活をエンジョイするために食生活 を「もっと自然に戻すべきだ!」という警鐘を鳴らしている。一読に値する本で ある。
ちなみに地元の米国では、この正月に出版されて以来、ノンフィクション 部門で、(ニューヨークタイムズ紙の)ベストセラーリストのトップの座を占め 続けている。
頂上からの展望 (Sir Edmund Hillary)
2008年正月明けに、ニュージーランド(NZ)の誇る登山家ヒラリー卿が米寿 (88歳)を全うして、この世を去った。彼の死を悼んで、6時間にもわたるテレ ビ特集がNZ中で放映されたと、地元(北島)オークランド近郊に住む友人(養蜂家) から聞いた。実は少年青年時代、ヒラリー卿は父や兄を助けて(家業である)養蜂業 に従事していた。 そのうちに、山歩きが好きになり、南島にあるニュージーランド最高峰のクック 山(海抜3754メートル、槍ヶ岳のように切り立った岩山)の冬山登山に 成功した。以後、登山が病み付きになった。数年後の1953年の春に、英国の エベレスト登山隊にスカウトされる。
1955年に出版された彼の英文自伝「High Adventure」 (内容は、彼の前半生:エベレスト登頂まで) で、ネパール出身のシェ ルパ、テンジン・ノーゲイと一緒に史上初めて、世界最高峰エベレストをいかに 征服したかが、彼自身の手で描かれている。「ヒラリー自伝」というタイトルで 1977年に、その邦訳が出ている。訳者は、同年「K2」征服に成功した日本 の遠征隊長 吉沢 一郎。
ヒラリー卿の偉大さはむしろ、テンジンとの友情から生まれた、エベレスト征服 以後の彼の後半生をかけた慈善事業、特に貧しいネパールのシェルパ山岳民族の 福祉向上をめざして「ヒマラヤ協会」を設立し、病院や学校や橋の建設をしたり、 エベレストや他のヒマラヤの山々に押し寄せる登山観光客による環境汚染をでき るだけ防止するための活動にあるだろう。1995年に出版された第2の英文自 伝「View from the Summit」は、「エベレスト」以後に始めた彼の新たなる挑戦 を綴っている。この活動の最中、彼の家族が悲劇に見舞われる。1975年に彼 の妻と長女が飛行機事故で、ネパールで死亡する。彼は生き残った長男ピーター (エベレスト登山家)と共に、悲劇に負げず活動を続ける。
世界七大陸最高峰の征服を成し遂げた若い日本のアルピニスト、野口 健は、 ヒラリー卿の活動に感銘/共鳴して、富士山やエベレストに堆積しつつある 「ゴミの山」の清掃活動に活躍している (ヒラリー卿の)「高弟」の一人である。 「山を愛する」とは一体何か、「地上最高の視点」から観たヒラリー卿の英知を 我々読者がこの本から学ぶことができれば、誠に幸いである。「地球温暖化 (汚染)」防止がまさに緊急課題になっている今世紀の「必読の書」といえるだろう。 残念ながら、欧米でベストセラーになったこの英文原書の邦訳は、なぜか日本では まだ出版されていない。
最後に、ヒラリー卿の魂が天上で(20年ほど前に他界した)無二の親友テンジ ンの魂に再会し、旧交を再び暖められることを、我々アルピニストは心から祈っ ている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Hillary
晩年はニュージーランドで養蜂業を営む。2008年1月11日に心臓発作により逝去。1月22日にオークランドにて国葬が行われた。
息子ピーター・ヒラリーは2002年に、エベレスト登頂50周年を記念してテンジン・ノルゲイの孫、タシ・テンジンとともにエベレストに登頂に成功している。
このタシとその奥さんジュディーもベテランのヒマラヤ登山家で、豪州シドニーに永住しながら、あるヒマラヤ登山旅行会社を経営している。数年前、この夫妻が有名な祖父テンジンとシェルパ仲間のエベレスト登山史を出版した。その邦訳『テンジン、エベレスト登頂とシェルパ英雄伝』を我々が昌文社から、2003年に出版する機会を得た。海外からやって来た登山家たちではなく、地元の「シェルパ山岳民族」の目から眺めたエベレスト登山観が描かれている点で、ユニークな作品である。
さて最近、北京五輪の聖火リレー妨害や開会式ボイコット運動を巡って、世界中のメディアの話題になっている中国領内にある「チベット民族の独立あるいは自決」(自らの伝統文化と原始仏教の維持をめざす自治政府の確立)問題は、ネパールのシェルパ民族と密接な関係がある。実は、シェルパ民族は、元々チベット地方に住んでいた山岳仏教徒(チベット)民族であるが、数世紀前に農奴制度や貧困餓死から逃れるために国境のチベット・ネパール高原を越えて、比較的肥沃なネパールの渓谷地方に移住して来て、貧しいながらも農業と牧畜業で生計を立てるようになった。有名なエベレスト征服者テンジンも幼年時代は、チベット地方に住んでいた。チベット民族と大和民族は言語上も, 類似した容貌からも、共通の祖先から枝分かれしたことが知られている。そういう意味で、チベットやネパール(シェルパ)民族問題は、意外に我々日本人に身短かな問題なのである。
1955年に出版された彼の英文自伝「High Adventure」 (内容は、彼の前半生:エベレスト登頂まで) で、ネパール出身のシェ ルパ、テンジン・ノーゲイと一緒に史上初めて、世界最高峰エベレストをいかに 征服したかが、彼自身の手で描かれている。「ヒラリー自伝」というタイトルで 1977年に、その邦訳が出ている。訳者は、同年「K2」征服に成功した日本 の遠征隊長 吉沢 一郎。
ヒラリー卿の偉大さはむしろ、テンジンとの友情から生まれた、エベレスト征服 以後の彼の後半生をかけた慈善事業、特に貧しいネパールのシェルパ山岳民族の 福祉向上をめざして「ヒマラヤ協会」を設立し、病院や学校や橋の建設をしたり、 エベレストや他のヒマラヤの山々に押し寄せる登山観光客による環境汚染をでき るだけ防止するための活動にあるだろう。1995年に出版された第2の英文自 伝「View from the Summit」は、「エベレスト」以後に始めた彼の新たなる挑戦 を綴っている。この活動の最中、彼の家族が悲劇に見舞われる。1975年に彼 の妻と長女が飛行機事故で、ネパールで死亡する。彼は生き残った長男ピーター (エベレスト登山家)と共に、悲劇に負げず活動を続ける。
世界七大陸最高峰の征服を成し遂げた若い日本のアルピニスト、野口 健は、 ヒラリー卿の活動に感銘/共鳴して、富士山やエベレストに堆積しつつある 「ゴミの山」の清掃活動に活躍している (ヒラリー卿の)「高弟」の一人である。 「山を愛する」とは一体何か、「地上最高の視点」から観たヒラリー卿の英知を 我々読者がこの本から学ぶことができれば、誠に幸いである。「地球温暖化 (汚染)」防止がまさに緊急課題になっている今世紀の「必読の書」といえるだろう。 残念ながら、欧米でベストセラーになったこの英文原書の邦訳は、なぜか日本では まだ出版されていない。
最後に、ヒラリー卿の魂が天上で(20年ほど前に他界した)無二の親友テンジ ンの魂に再会し、旧交を再び暖められることを、我々アルピニストは心から祈っ ている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Hillary
晩年はニュージーランドで養蜂業を営む。2008年1月11日に心臓発作により逝去。1月22日にオークランドにて国葬が行われた。
息子ピーター・ヒラリーは2002年に、エベレスト登頂50周年を記念してテンジン・ノルゲイの孫、タシ・テンジンとともにエベレストに登頂に成功している。
このタシとその奥さんジュディーもベテランのヒマラヤ登山家で、豪州シドニーに永住しながら、あるヒマラヤ登山旅行会社を経営している。数年前、この夫妻が有名な祖父テンジンとシェルパ仲間のエベレスト登山史を出版した。その邦訳『テンジン、エベレスト登頂とシェルパ英雄伝』を我々が昌文社から、2003年に出版する機会を得た。海外からやって来た登山家たちではなく、地元の「シェルパ山岳民族」の目から眺めたエベレスト登山観が描かれている点で、ユニークな作品である。
さて最近、北京五輪の聖火リレー妨害や開会式ボイコット運動を巡って、世界中のメディアの話題になっている中国領内にある「チベット民族の独立あるいは自決」(自らの伝統文化と原始仏教の維持をめざす自治政府の確立)問題は、ネパールのシェルパ民族と密接な関係がある。実は、シェルパ民族は、元々チベット地方に住んでいた山岳仏教徒(チベット)民族であるが、数世紀前に農奴制度や貧困餓死から逃れるために国境のチベット・ネパール高原を越えて、比較的肥沃なネパールの渓谷地方に移住して来て、貧しいながらも農業と牧畜業で生計を立てるようになった。有名なエベレスト征服者テンジンも幼年時代は、チベット地方に住んでいた。チベット民族と大和民族は言語上も, 類似した容貌からも、共通の祖先から枝分かれしたことが知られている。そういう意味で、チベットやネパール(シェルパ)民族問題は、意外に我々日本人に身短かな問題なのである。
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