2008年11月21日金曜日

"Barack Obama: Son of Promise, Child of Hope"
(Simon & Schuster)

アメリカでは最近、黒人系の若いエネルギッシュな青年バラク・オバマが新し
い大統領に当選して、長い「イラク戦争」や迫リつつある「経済危機」からよう
やく脱出できる希望に溢れている。カリスマ的なオバマは、特に若い世代の間に
絶大の人気がある。最近、オバマ大統領に関する伝記が3冊もノンフィクション
部門 (ペーパーバック)のベストセラーのトップを占めている。さて、子供向けの
本でも、小学生向け48ページの絵本「バラク・オバマ小伝」(サイモン&シュス
ター出版、2008年)がトップに踊り出た。絵本の4分の3がさし絵で占めら
れ、とても楽しく読める。

豪州メルボルンに長らく住む友人(奥さんが日本人、ご主人が豪州人)の子供た
ち(6歳の弟マックスと12歳の姉マーサ)に読んでもらおうと、クリスマスプ
レゼントを兼ねて、買い求めた。 マーサには多分、200ページ余りの小伝
「YES WE CAN」(もちろん、可能です!) の方がずっと内容があって、よかろう。
米国では目下、この2冊が子供向けの伝記本の1、2位を占めている。

この国の子供たちが皆んな、遠い将来、オバマのような立派な大統領になれる
チャンスを夢見ているようだ (さて、日本では「総理大臣」の伝記が子供向けの
伝記のトップになるなど、とても想像がつかない! なぜなのだろうか?)。

実はオバマ大統領は、ケニア人の父親と米国の白人女性(母親)との間に生まれた
混血児(ハーフ)なのである。インドネシアやハワイの学校で少年時代を過ごすという、
珍しい経験をしている。だから、白人ばかりではなく、黒人を初め有色人種の立場、
海外に住む人々の立場も良く理解できる。従って、米国の国民ばかりではなく、
日本を含めて世界中の人々から、大変期待されている。 特に、父親の故国「ケニア」
の貧しい人々からは、神様のように尊敬されている。

この本はどうやら、彼のベストセラー自伝「マイ・ドリーム」に基づいて、童話
作家ニッキー・グリムスによリ子供向けに要約され、画家ブライヤン・コリアに
よる色とりどりの楽しい挿絵をふんだんに入れたものである。

Garen Thomas 著の小伝「YES WE CAN」は、主にオバマの自伝「Dreams from My Father」
とDavid Mandell 著の評伝「Obama: From Promise to Power 」という大人向けの本を
うまくまとめて、小中学生向きにアレンジした傑作である。私のような還暦を過ぎた大人が読んでも大変面白い。
一日かけずに一気に読める。

最後に、一言欲を言わせてもらえば、転載の写真(全部白黒!)の一部をカラー写
真にしてくれると子供も大人もずっと楽しめると私は思う(せめて、有色人種の我々
日本人読者向けの「邦訳」ではそうして欲しい!)。

YES WE CAN
オバマ小伝「もちろん、可能です!」(ギャレン・トマス著)

13章: 出会い

シカゴで4年間過ごした後、1988年にバラックは、ボストンにあるハーバー
ド大学法学部の大学院に進学した。彼は既に27歳で、他の大部分の院生より数
年年上だった。しかしながら、彼がクラスメートの中でずば抜けていたのは、年
のせいだけではなかった。もちろん、彼は年上相応に円熟していたが、彼は極め
て規律正しく、かつ勉学に専念していたからだ。最初の一年、彼は図書館で毎日
何時間も自習をした。彼は再び大学構内での人種差別制度に反対する運動にも参
加した。大学の有名な法学雑誌、「ハーバード人権と自由に関するレビュー」に
いくつかの論説を発表した。この雑誌に論文を発表するのは、すばらしい業績な
のである。

彼は黒人法学部学生協会の年会の晩餐の席でも講演をやった。その席で、彼のよ
うに機会に恵まれた者たちは、恩返しに、それほど恵まれなかった多くの人々の
助けになってやる必要があることを強調した。彼は教授会にもっと有色人種出身
の教師が採用されるべきであると主張する人々の意見に参同した。

最初の一年間の後、夏休みをシカゴに戻って過ごし、シドリー・オースチンとい
う法律事務所に見習いとして働いた。ミシェル・ロビンソンはそこの弁護士だっ
た。そして、バラクの指導を仰せつかった。彼はミシェルに会うやすっかり彼女が気
に入ってしまった。ミシェルの方は、バラクが事務所に姿を現す前から他の職員
が彼を高く評価していることに懸念を感じていた。彼女は、バラクは生意気か、
あるいは実直に働くよりはむしろ同僚におべっかを使って昇進しようとする人間
ではないかと、予想していた。それに、自分の部下とデートをするのは職場の規
律を乱すものだと思っていた。さらに、彼女はこの法律事務所で働くいわゆる
「黒一点」(たった一人の黒人)だった。周囲から「黒人はやっぱり黒人と一緒
になってしまうな」と思われるのを、彼女は嫌った。バラクにも似かよった経験
が昔あった。(インドネシアの学校から転校してきたばかりのころ)ハワイのプ
ナハウ・アカデミー(小学校)で、全校にたった一人の黒人の女の子と遊んで、
仲間からからかわれたことがあった。しかし、今はどんな人種の相手とも、自分
が気に入った相手とデートするようになっていた。そして、バラクはミシェルを
デートの相手に選んだ。

ミシェルの家庭はシカゴのサウスサイドにある黒人が大多数を占める地域出身だっ
た。子供のころ、ミシェルと兄のクレイグは、両方とも優等生で(プリンストン
大学卒)、優秀なバスケットボール選手でもあった(クレイグは、後に大学バス
ケットボールのスターになり、現在オレゴン州立大学バスケットボール部のヘッ
ドコーチ)。彼らの家庭生活は比較的安定だったが、父親のフレイザーは身体に
障害があって、不自由な生活を送っていた。ミシェルは一所懸命勉強して、一家
のために苦労してくれた父親が誇れるような人間になろうと努めた。兄と同様、
プリンストン大学を卒業してから、ハーバード大学法学部の大学院に進学した
(年下だが、バラクの「先輩」に当たる)。

ミシェルは用心深く、バラクとのデートに彼女のガールフレンドも連れて来た。
しかし、バラクはミシェルにしか興味を示さなかった。やがて、ミシェルは彼と
バスキン・ロビンスというアイスクリーム・ショップでデートすることに同意した。
チョコレートアイスクリームを食べながら、2人は次第に親密になっていった。
ある日、バラクはサウスサイドにある教会の地下で自分が主催している成人学校
にミシェルを連れて来て、そこで、主に母子家庭の母親たちを対象に、白人と有
色人種(特に黒人)との間にあるギャップをいかになくしたらよいか、その方法
について話をした。その話を聞いて、ミシェルは彼にすっかり惚れてしまった。
以来2人は、婚約状態になった。

バラクとミシェルは、彼がハーバード大学に戻ってからも、デートを続けた。バ
ラクは大学院で、残る2年間を通じて、彼の巧みな雄弁と説得力で、自分とは意
見が違う仲間ともじっくり話し合って、(全員が同意できるような)妥協案を案
出する才能をしばしば発揮した。こうして、彼はハーバード法学レビューの編集
員に抜擢された。それだけではない! 1990年には、進歩派の仲間たちが彼
を、その雑誌の編集長選の有力な立候補者に担ぎ上げることにも成功した。当時、
大学構内では、第一次湾岸(イラク)戦争などをきっかけに、リベラル(進歩)
派と保守派との間で、かなり激しい意見の対立が起こっていた。進歩派とは、男
女同権(平等)を実現したり、社会から人種差別を撤廃したり、失業者や貧乏人
たちを救済したり、自然や環境を保護したり、戦争をやめさせたりするために、
政府がもっと積極的に協力すべきであるというような進歩的な意見を持つ人々を
さす。他方、保守派とは、因習的な従来の制度に満足し、社会の変化(改善や改
革)に抵抗、あるいはそれを妨害するなど、いわゆる旧態依然とした物の考え方
をする人々をさす。バラクは明らかに進歩的な考え方の持ち主だった。しかしな
がら、彼は心の広い人物だった。彼は常に、各々の問題について、両者の意見を
じっくり聞いた上で、自分自信の結論を出す習慣にしている。だから、保守的な
意見の持ち主も、バラクのこの柔軟な性格が好きだった。そこで、法学レビュー
の編集長選挙中、これらの保守派は、自分たちの候補者が勝ち目がないと悟ると、
デビッド・ゴールドとの決戦投票でバラクを支持した。というのは、バラクが保
守派の意見に同意しないにしも、彼らの意見を少なくとも考慮してくれることを
知っていたからだ。

こうして、レビューの編集長に当選したバラクは、就任早々困難な問題に一つ直
面した。75人という大所帯の編集部内で、わずか数名にしか、(編集部をやり
くりする)特別の役職を与えることができないからだった。彼は黒人、女性、あ
るいは他のマイノリチー(小数派)がそれまで長い間、このような役職を与えら
れなかったという歴史を鑑みて、できれば彼らに、優先的に役職をあげたかった。
しかしながら、白人だからという理由で、適材(優秀な人材)を役職から除外す
ることもできなかった。白人に対する差別扱いになるからだ。彼は色々熟慮した
末、最終的には、多彩なグループにそれぞれ、役職を分配することにした。しか
しながら。その決断は、多くの黒人から批判(苦情)をこうむることになった。
彼らは「過去の穴埋め」を期待していたからだ。彼らの失望にもかかわらず、バ
ラク指導下のレビューはスムーズに作動し、人々は彼を公平かつ老練な編集長と
して讃えた。

ここまで読んで、不意に私の脳裏にひらめいたある夢想があった。日本の
皇太子夫妻はほぼオバマ夫妻の年頃であると。もし、この皇太子夫妻が皇居
(正確には、東宮御所)を後にして、敢えて「民間人」となって、バラクやミシェル
のように、その優れた才覚を発揮したら、日本はどんなに良くなるだろうかと。
もちろん、夫妻とも皇室では「進歩派」であると私は解釈しての話だが。。。
少なくとも、この子供向けの本(英文原書でも邦訳でも)を、ぜひ夫妻に一度だけ
読んでもらいたいと思った。 YES WE CAN!


続く

2008年11月19日水曜日

「乳がんと牛乳」(こみち書房)
気になる内容、どう読むべきか?

素人の手によるいわゆる「研究」には穴だらけが多い。実験的「確証」もないまま、
純然たる「仮説」を事実かのように主張する「悪書」(誤解をもたらす本)を売
りさばく著者がいたら、その道の専門家は、それを批判し読者に警告を与える社
会的な義務がある。しかも、裏で操作して、そのような批判を「ネットから勝手
に削除させる」出版社が出没し始めたら、尚更のことである。なぜなら、その出
版社は、その本の内容に「問題」があることを、既に自覚しながら、なお本を売り
続けているからだ。

さて、英国の有名な地球化学者(癌研究者ではない!)ジェーン・プラントが自
分の乳癌体験を綴った数年前のベストセラー英文著書「YOUR LIFE IN YOUR HANDS」
が、最近ようやく邦訳されて「乳がんと牛乳」というタイトルで出版された。彼
女の度重なる乳癌再発の原因が、なんと「牛乳」だったという意外な (しかも、
特に世界的「金融危機」に瀕して、酪農業者にとっては極めてショッキングな)
話である。

彼女の乳癌に関する研究 (?) 内容は、医学雑誌には一度も発表されたことがな
いし、彼女の癌に関する主張には、異論が多々ある。例えば、ネズミに牛乳を飲
ませて、乳癌の発生に成功したなどという報告は一例もない。従って、読者各々
が読後に、内容の「善し悪し」を自ら判断する必要がある。彼女自身が主張する
ように、自分の体 (病気) については、医者のいうことをそのまま鵜呑みにせず、
自身の判断に基づいて、ケアすべきだからだ。世の中には、(製薬会社と癒着する
) でたらめな薮 (やぶ) 医者が意外に多いのだ。

牛乳は元来、子牛の成長のための母乳である。だから、成長ホルモンや栄養が当
然タップリだ。赤ん坊の細胞はそれを吸ってすくすく成長する。しかしながら、
成人した我々の体では、正常な細胞は大部分成長が止まっている。例外は癌患者
の「癌細胞」である。癌細胞は栄養に飢えているから、牛乳の栄養を吸って増殖
を続ける。牛乳ばかりではない。カロリーの高い栄養食は全て、癌の栄養になる。
だから、癌患者は療養中、節食 (腹七分目) が必要なのだ。乳製品だけに限らな
い。

この本の訳者は、栄養医学者だが、癌には疎いようだ。「牛乳バッシング」的な
タイトル (結論) は、著者 (地質学者) および訳者の早計の至り (あるいは牛乳
のみに拘泥し過ぎる) としか言えない。

「肥満体 (あるいはメタボ) の患者の癌は治療しにくい」という癌の常識を、癌
患者は肝に命じるべきだ。過剰な脂肪が癌に栄養を供給し続けているからだ。そ
ういう(より巾広い) 視野から、この本を改めて読み直してみると、意外に有益
(得るところが多い) かもしれない 。

小説は多分例外だろうが、一般的に本というものは、特にノンフィクション物は、
読者の洞察力をそのまま反映する「鏡」のようなものである。もちろん、1を読
んで10を知ることができれば理想的である。1を読んで1しかつかめない(鵜
呑みする)ようでは、読者として失格である。得るものがほんのわずかだからだ。
10とはいわなくても、3から5ほど学ぶことができれば、かなり優秀だろう
(頭を駆使して「行間を読む」努力をしよう!)。

そうすれば、癌ばかりではなく、老化も防ぐことができる。なぜだろう? 脳と
は(使えばの話だが)体の中で(筋肉以上に)最も糖分を消費するところなので
ある。糖分を効率良く消費すると、余分な糖分で肥満、糖尿病、認知症(アルツ)
などの老化現象に陥ることを防止することができるからだ。

2008年11月17日月曜日

「金儲け」のみが目当ての悪書:
「東大合格生のノートはかならず美しい」 (文藝春秋)

結論:
私の結論をまず言わせてもらえば、(目下、巷でバカみたいに売れている)この
本は「お金を払ってまで、読むほどの価値はない!」

総論:
私がここで、若い高校生たちに特にお勧めしたいことは、他人の真似をせず、自
分に最も適した記憶のしかた、メモの取りかたを含めた「頭の整理方法」を自ら
編み出す努力をしてもらいたい、ということである。東大に入学するだけが人生
ではない! 我々の人生はもっとずっと「多彩」であるべきだ。そういう多彩さ
に「美しさ」を見つけてほしい。

(「金儲け目当て」の本や業者の宣伝に盲従して)軍隊の兵士のように皆んな同
じ色の制服を着て、号令一下、同じ「コクヨ」のノートを使って、青春の貴重な
時間を過ごすのは、戦争中の「学徒出陣」を連想させ、はなはだ「醜い」と(欧
米で自由を長らく謳歌してきた)私には思えてならない! 

ノートとは「覚え書き」である。忘れないで覚えておきたいことをちょっと書き
残すメモ帳である。従って、その内容や書き方は人それぞれである。少なくとも
自分で読めれば十分で、「美しい」必要は全くない。東大生のノートが「美しい」
という(著者の)評価は、どんな基準に基づいているのか定かでないが、自分の
ノートをみて、美しいと思ったことは一度もない。だから、この本の表題は「根
本的に間違っている!」 もちろん、私は他人のノートなど覗いたことはない。
(自分に)役に立つはずがないからだ。

各論: 
高校でも大学でもそうだが、教師は大部分、指定された教科書に基づいて、授業
をする。従って、教科書を予習しておけば、教師の喋っていることは大部分、教
科書に書いてあることがすぐ分かる。従って、授業中、特にメモすることはない
のだ。例外は英語とドイツ語(第2外国語)の授業にサイドリーダー(副読本)
を使って、邦訳をやらされる場合である。私は自分で単語帳を作って、自宅で予
習のときに、新しく出会った単語を辞書で調べて、その意味を書き留めておく。
この2冊の単語帳が私の唯一のノートだった。お世辞にも美しい筆跡ではないが、
自分で読める字だから、すこぶる重宝した。そのおかげで、欧米で30余年も生
活しているが、言葉にはほとんど不自由しない。

国際学会で、講演者のしゃべっている内容を一々克明にメモしている学者連中を
良く見かける。私は学会でメモをとることは非常に稀れだ。メモしたいことがあ
れば、講演要旨の余白にちょっと、2、3単語を書き残せば十分である。私の
「モットー」は、人間というものは、大事なことはメモしなくても覚えていると
いうことだ。例えば、3食をうっかり忘れることは、他によっぽど興奮すること
がない限り、一生に何度も起こるものではない。そして、もし仮に、忘れたとし
たら、多分そんなに大事なことではないのだ。だから、私はもはや、ノートなど
一冊も持っていない。

私見:
事実は恐らく「東大生のノートにはきちんと整理されたものが多い」。ノートと
はその持主の頭の状態を良く反映するからだ。それを「かならず美しい」と主張
するのは、非科学的であるばかりでなく、歪曲もはなはだしい。売らんがための
ガメツイ(ウソの)広告に過ぎない! もう1つ警告しておくが、頭の整理され
てない人間がノートの(美しい)書き方だけを真似しても、東大入試には合格で
きないだろう。 頭に益々混乱が生じて、どの大学入試にも失敗するかもしれない。。。

そんなに東大に合格したかったら、すばらしい解決法が1つある。日本全国にあ
る大学を全部「東大」と改名し、全国一律の入試をして(合格者の最低点の順番
に)東大1、 東大2、 東大3、。。。東大365などと番号をつける。
成績がトップの3500名(定員)をまず東大1に割り当て、次の成績の者は東
大2の定員(例えば、3000名)以内で入学を許可される。
そうすると、日本全国の大学生が全員、あこがれの「東大生」になれる。。。 
どうだろうか? 美しい「コクヨ」のノートなど全く不要だ!

あるいは(理系の「ノーベル受賞者」が抜群に多い)京大にも敬意を表して、理
系(京大)と文系(東大)は別個の入試をし、京大1、2、3。。。
東大1、2、3。。。 というように全国の大学を2分するのもよいかもしれない。
多分、芸術家(音楽家、画家など)志望の学生には、芸大1、2、3 も必要だろう。。。

2008年11月10日月曜日

『トゥレット症候群』との闘い

自分の意志とは関係なく, 突然繰り返して起こる運動チックと音声チックの
両方が多様に現れ、それが一年以上続くと『トゥレット症候群』(TS)と呼ば
れる。

発症頻度は少なくとも5千名に1名とされ、男女比は3対1と男性に多い。
脳内の神経伝達物質(ドーパミン、セレトニン等)の異常とみられるが、詳しい
原因はまだ不明。「TS」は遺伝的要因が強く、神経伝達物質阻害剤の投与で症
状がある程度抑えられる。

運動チックとは、まばたき、口を尖らす、顔しかめ、首振り、肩のぴくつき、
他人や物へのタッチ、匂い嗅ぎ、キック、ジャンプなどである。

音声チックとは、咳き払い、ノド鳴らし、鼻鳴らし、 甲高い声、
意味不明な言葉や自分または、他人の言葉尻りの繰り 返し、
時には卑猥な言葉や非常識な言葉を発してしまう場合もある。

平均6-8才に出現し,強くなったり, 弱くなったりして持続する。

「TS」は、母親の愛情不足とか、躾が悪いからだ、と従来言われてきたが、そ
れは間違いである。しかしながら、そういう周囲の誤解で、悩み傷ついている家
族が数多くいる。

この本 (Against Medical Advice) は、「TS」をわずらう息子コリー とその両
親の何十年にもわたる苦しい闘いと葛藤を綴った実話である。病気の原因がわか
らないので、医師からも適切な治療やアドバイスが得られない。周囲からは、誤
解によるいじめや非難を受ける。最後に両親の愛情に守られ、コリーはこの「T
S」から解放される。目下、NYタイムズ「ベストセラー」のトップに迫りつつ
ある感動の読み物。。。

2008年10月28日火曜日

ウオレン・バフェット伝 ("The Snowball" by Alice Schroeder)

米国のカリスマ投資家ウオレン・バフェットに関する評伝「雪ダルマ」が目下、
NYタイムズのノンフィクション部門のベストセラー・リストのトップを占めてい
る。80年前の「世界大恐慌」の訪れを思わせる世界的「金融危機」に瀕している今
日の資本家やビジネスマンにとっては、あたかも「救世主」のような存在らしい。

正直言って、株や投資に全く縁のない純然たる学者の私には、彼の名前は初耳だっ
た。大恐慌の真っただ中、1930年に生まれた彼は、既に喜寿(77歳)を越
え、仕事を息子に譲りつつある。当然「先見の明」があって大成功した(今日、
IT王として知られる「ビル・ゲイツ」をもしのいで、世界で最も富裕な実業家
である)彼が、今日の「金融危機」は本の序の口で、これからドンドン悪化し続
けるだろう、と語っているから、覚悟を十分にしたほうが良かろう。。。

彼が破竹の勢いであるオバマ大統領候補 (民主党) を積極的にバックアップして
いるというから、大変面白い。「鬼に金棒」と言えるだろう。「鬼」と言っても、
(あの「ジョージ・ブッシュ」と違って) オバマは極めて善良な鬼だが。。。ひょっ
としたら、彼は来たるべき「オバマ政権」の財務長官に最適任かもしれない。。。

英文原書は大作で、千ページに近いので、とても直ぐ読み終えるというわけには
いかない。「斜め読み」で、全体の感触を何とかつかみつつあるところである。
大きな雪ダルマを作るには、「湿った雪」と「長い傾斜(スロープ)」が必要だと、彼は言う。
ドライなビジネスでは、成功しない。温かい人情が必要だ。そして「せいては事
をし損じる」。長い時間をかけてゆっくり坂を上り下りしなければならない。。。

こうして、雪深きオマハという片田舎に「正直者」の彼が始めた「Berkshire
Hathaway」社という雪ダルマの「芯」が誕生し、最後に巨万を築き上げたのだ。。。
だから、彼は世界中のビジネスマンから尊敬を集めているといわれている。

2008年10月13日月曜日

Aglow in the Dark (Green Fluorescent Protein)

「GFP物語: ノーベル賞にきらめく蛍光クラゲ」

目次
序文 (シルビア・ナサー)
はしがき
1。 生命体の発する光
2。 海に住むホタル
3。 被曝地「長崎」から
4。 蛍光オワンクラゲの謎
5。 虹のかなたに
6。 輝くバクテリア
7。 線虫の出番
8。 蛍光トレーサー
9。 バラ色のスタート
10。 珊瑚礁の真っ赤なアネモネ
11。 脳や鼻の中を照らし出す
12。 アイディアのひらめき

1960年代初頭に発光クラゲから発見された蛍光タンパク質「GFP」が今日、
生物学や医学の研究分野で、放射性アイソトープの代わりに「トレーサー」とし
て、極めて広範囲に利用されるようになり、その発見者 (下村 脩) や開発者 (マーチ
ン・チャルフィー及びロージャー銭)に本年のノーベル化学賞が与えられるとい
うニュースが最近報道された。GFP融合遺伝子を発現する透明な線虫を使って、
制癌剤の自動スクリーニング法を開発しつつある私自身もその吉報に、受賞者と
共に喜びを分かち合いたい。実は昨年に米国のエール大学の神経生理学者ビンセ
ント・ピエリボンとジャーナリストのデビッド・グルーバー が共著で、GFP
の発見の歴史やその応用について、一般大衆向けの本(300ページ弱)をハー
バード大学出版から出している。英文原書のタイトルは「Aglow in the Dark」
(暗闇の灯)。邦訳はまだ出ていない。

キューリー夫妻が発見したラジウムが暗闇で美しい蛍光を発することは有名な話だ
が(実は、時計の文字盤に使う夜光塗料には微量のラジウムが含まれている)、
色々な生き物にも蛍光を発する物質が存在している。一般的に最も良く知ら
れているのは、ホタルの光をもたらす「ルシフェリン」という物質である。それ
自体は蛍光を発しないが、ATPと「ルシフェラーゼ」という酵素の存在下で、
酸化されると蛍光を発するようになる。この現象を発見したのは、1950年代
初頭、米国のジョンス・ホプキンス大学の院生だったバーナード・ストレーラー
(1925ー2001)である。その後、彼は老化現象の専門家になる。 

さて、海洋生物の中にも、ホタルイカのようにルシフェリン系の蛍光を発するものがある。
1960年代初頭、米国のプリンストン大学にポスドクとして研究留学中だった下村 
脩は、米国大陸を車で横断して、ワシントン州の西部海岸で、暗闇で緑色の蛍光
を発するオワンクラゲの大群に出会った。それにすっかり魅せられた彼は、その
後20年近い歳月をかけて、その蛍光の謎を解く研究に没頭する。意外にも、この
蛍光には2種類の蛋白質が関与していることがわかった。「エクオリン」という蛋白は、
カルシウムに結合すると、青い光を発する。その青い光を吸収して、緑色の蛍光
を発するのが、「GFP」という蛋白質である。

1992年にウッズホール海洋研究所のダグラス・プラッシャーがGFP遺伝子
のクローニングに成功すると、瞬く間にいわゆる「GFP革命」が勃発する。1
994年にコロンビア大学のマーチン・チャルフィー教授が、大腸菌や線虫でGF
P融合遺伝子の発現に成功、青い光を照射すると、これらの生物が緑色の蛍光に輝
くことを確認する。まもなくカルフォルニア大学(サンディエゴ)のロージャー銭
が、GFP遺伝子に変異をかけ、数倍強い蛍光を発する改良型の開発に成功する。

1。 生命体の発する光

基本的には、摂氏525度以上に加熱すれば、固体なら何でも幽かな鈍い赤色の光を
放つ。温度がさらに高まると、色はさくらんぼの赤から、黄色に変わり、最終的
には太陽のごとく白色になる(太陽の表面の温度は、摂氏5500ー6000度
といわれている)。

ホタルの光など生命体の発する光の顕著な特徴は、(熱を大量に発生する) 電灯
や太陽光と違って、熱の発生を全く伴わないことである。それゆえに、無熱光とか
「バイオ・ルミネッセンス (冷光)」とか呼ばれる。化学エネルギーが100%、光エ
ネルギーに変換される極めて効率の良いシステムである。トマス・エジソンが発
明(あるいは初めて実用化)したといわれている「白熱電球」はしばらく点灯し
ていると、素手ではとても触れないほど熱くなる。電気エネルギーの9割が(赤
外線を含む)熱エネルギーに変換し、わずか1割が光(可視光線)エネルギーに
変換されるからである。もし、ホタルがこんな(光効率の悪い)システムを使っ
ていたら、熱で焼き切れてすぐ死んでしまうだろう。ちなみに、蛍光ランプ(基
本的には水銀灯)も熱光ではあるが、25%が可視光線、30%が赤外線、残り
(45%)が熱エネルギーに変換するので、白熱電灯よりは、可視光効率がずっ
と高い。

発光生物に関する研究にもっと科学的なアプローチがなされたのは、17世紀に入っ
てからの話である。ロンドン王立協会の創立者ロバート・ボイル(1627ー1
691)は、自然科学に基づいて結論を引き出そうとする新しい研究者/哲学者学
派の一人だった。1667年の後半、オックスフォードに滞在中、蛍光キノコの入っ
た鐘形ガラス器から(原始的な真空ポンプを使って)空気を抜くと、蛍光が消え
ることを発見した。空気を戻すと再び発光し始めた。こうして、彼は冷光に関する
最初の化学的性質について発見した。つまり、冷光には空気が必要である。16
72年12月に、その実験結果を王立協会の機関誌に発表した。しかしながら、当
時には、空気の組成が全くわかっていなかった。それから約一世紀後に、空気の約
5分の1を占める「酸素」という(我々の生命や燃焼に必要な)気体が発見されて、
「冷光には酸素が必要である」ことが明らかになる。

ボイルによる酸素の必要性に関する発見後2世紀の長きにわたって、生命体の冷
光に関する研究にはほとんど進歩がなかった。

さて、冷光に関する研究に転機が訪れたのは1887年のことである。その年、
フランスのリヨン大学海洋研究所(メル河畔タマリス)のラファエル・デュボア
所長(生理学教授)が画期的な発見をした。2つの化学物質が冷光に必要である
という結論に達した。彼はその1つを「ルシフェリン」(発光素)、もう1つを
「ルシフェラーゼ」(発光触媒あるいは酵素)と名付けた。語源はラテン語の
「ルシファー」(金星、暁の明星、灯をもたらす者)から来ている。

彼は西インド諸島に生息する発光虫(コメツキ虫の一種)に興味をもった。この島の
原住民たちはこの発光虫を色々な形で灯の代わりに利用していた。例えば、夜中、
森の道を歩く際、両足の爪先にこの虫をくくりつけて、懐中電灯の代用にしたり、
部屋の照明に利用していたりしていた(日本の「蛍雪時代」、ホタルの光、窓の雪を
連想させる!)。これらの習慣は、(今から2千年ほど昔のローマ帝国時代、ポンペイ
に住んでいた生物学者)プリニウスによる冷光に関する記述以前にさかのぼることができる。

デュボアは生まれたばかりの幼虫にも、小さいながらもちゃんと発光器官が備わっ
ており、虫が死んだあとでも発光がなお持続していることに注目し、その不思議
なメカニズムを詳しく研究して、その結果を275ページにもわたる大作にまと
めている。

デュボアはまず発光虫の死骸をすりつぶした後、冷水で抽出すると、しばらく蛍
光が持続したのち、消えることを観察した。次にすりつぶしたものを、熱湯で抽
出してみた。蛍光は全く出なかった(たとえ、あとで冷却しても)。ところが驚
いたことには、熱湯エキスを、蛍光が既に消えた冷水エキスに加えると、蛍光が
再び現れ、やがて消えた。従って、熱湯エキスの効果は一過性だ(いったん消費
されると効果がなくなる)。その現象はこの発光虫に限らず、例えば、食用の
発光貝でも同じだった。

これらの簡単な実験から彼は、2つの重要な結論を引き出した。まず第一に、
この発光現象には、2つの異なる化学物質が必要であること。次に、(熱湯エキス
に含まれる)「発光素」(=ルシフェリン)は熱に安定であるが、(冷水エキスのみに
含れる)発火物質、つまり「触媒」(=ルシフェラーゼ)は熱に不安定であること。

しかしながら、ルシフェリンやルシフェラーゼが一体どんな物質であるかが分子
レベルで解明されるまでには、その後半世紀以上の歳月がかかった。この難問に
果敢に挑戦し、初めてその謎解きに成功したのは、1950年代初頭当時、米国
のジョンス・ホプキンス大学生物学科のウイリアム・マッケルロイ(1917ー
1999)の研究室で働く若き院生だったバーナード・ストレーラー(1925ー
2001)だった。彼はまず1949年に、テネシー州オークリッジ国立研究所
でホタルの光をもたらす「ルシフェリン」という物質を精製した。それ自体は蛍
光を発しないが、ATPと「ルシフェラーゼ」という酵素の存在下で、酸化され
ると、効率良く蛍光を発するようになることをジョンス・ホプキンス大学で、同
僚のジョン・トッターと共同で1953年に発見した。「ルシフェラーゼ」自体
の精製および結晶化は、1956年に同教室の院生アルダ・グリーンによって成
功した。「ルシフェリン」の化学構造は、同大学化学科のホワイトとマックカプ
ラにより1961年に決定された。その後、バーナードは研究分野を変え、老化
現象の専門家になる。 ちなみに、マッケルロイはプリンストン大学時代に、エ
ドマント・ハーベイ教授の弟子(院生)だった。

中略

第二次世界大戦後、ソ連の海軍は極秘に海洋生物の冷光について研究し、海軍の
作戦に対して冷光がおよぼす影響について吟味している。その調査を指揮した有
名なソ連海軍の将校、ニコライ・タラソフは1956年に、夜中の冷光が船の運
航の妨げになることを報告している。

中略

潜水艦の乗員たちは、しばしば冷光の軌跡を利用して、標的に向かう魚雷の進路
を追跡することができる。しかしながら、冷光は逆に、自分たち味方の戦艦の居
場所を敵側に教える結果にもなる。(タラソフの調査によれば)1918年11月
9日の夜中、地中海のジブラルタル海峡近くで、英国の「Q船」(潜水艦退治を目
的とする商船に見せかけた戦艦) が、海面下に蛍光を発する巨大な長細い物体を
発見した。Q船はその物体めがけて、3発のミサイルと一連の爆雷を発射した。
謎の物体はドイツのUーボート (潜水艦) だった。
「潜水艦を取り巻く強い蛍光生物で、潜水艦の運航が丸見えだった。発見してか
ら30分以内に、その潜水艦「Uー34」が撃沈された。第一次大戦最後の生き
残りUーボートだった。その翌翌日、ドイツがついに降服して、終戦を迎えた」

第二次世界大戦に活躍し始めた空母 (航空母艦) に頼るパイロットたちは、夜間
の帰艦の際、母艦の位置を正確にキャッチするために、母艦が航路に残していく
海洋生物の群による蛍光の帯を、しばしば利用する。その特筆すべき有名な代表
例が実話「消えた月」に登場する (のちに、映画「アポロ13号」にも再現され
る)。宇宙飛行士ジェイムス・ロベルは、月着陸計画に失敗した月ロケット「ア
ポロ13号」の乗組員の一人だが、1954年2月に、海軍のパイロットとして、
日本列島の沖合いで夜間飛行訓練に携わっていた時のことである。その日は荒れ
た天候だったが、米軍空母「シャングリラ」から飛び立った後、飛行機の探知器
が故障していたため、間違った方向に飛び立ったばかりではなく、こともあろう
に、操縦席にある計測器もショートを起こして、ランプが全部消えて、真っ暗闇
に閉ざされてしまった。

パニックに瀕んして、心臓の鼓動がにわかに高まり、喉がカラカラになった。自
分の周囲を見渡したが何も見えなかった。彼はとっさに酸素吸入マスクを頭から
取り外して、ペンライトを口にくわえ、計測器を照らしてみた。この小さなフラッ
シュライトから出る弱々しい細い光線が操縦席の計器のほんの一部、例えば指針
とかダイヤルを照らし出した。彼はできるだけの情報を得たのち、操縦席にもた
れ、次にどうすべきかを思案した。

まず口にくわえていたペンライトのスウッチを切り、真っ暗闇の視界をもう一度
見回してみた。すると、どうだろう、眼下に午前2時の方向に、かすかな緑色の
蛍光が真っ暗な海面に帯状に波立っているのが見えた。その無気味な放射線(蛍
光)は極めて微弱で、もし操縦席に灯があったら、彼はたぶん見過ごしていたろう。
それをみて、彼は心を取り戻した。その不思議な蛍光が一体何であるか、おおよそ
の見当がついていたからだ。空母の後部にあるスクリューの動きによって刺激さ
れたプランクトンの群れが蛍光を発しているのだ! さ程信頼性の高いものとは
言えないが万事が尽きたとき、一旦見失った空母を見つけ出す手助けになること
がある(もちろん、戦争中なら、味方ではなく敵の空母や戦艦である可能性もあ
るのだが)。他によりどころのない彼は、その一条の蛍光に運命を委ねて、母艦への
帰艦を敢行した。


2。 海に住むホタル

ラファエル・デュボアの「ルシフェリン/ルシフェラーゼ」という概念は、半世紀後の
めざましい冷光研究の基礎を築き上げ、米国のマッケルロイ研究室による実物の
精製や発光のメカニズムの解明に結びついたが、冷光の研究を世界的に有名に
ならしめたのは、エドマント・ハーベイだった。

中略

ハーベイは、1887年11月25日に、米国フィラデルフィアの郊外にあるジャー
マンタウンに生まれた。奇しくも同じ年に、デュボアの「ルシフェリン/ルシフェ
ラーゼ」概念も生まれた。その意味で、ハーベイは「冷光の申し子」とも言える。

中略

1909年9月に、ハーベイはニューヨークに移り、コロンビア大学のトマス・
モーガン教授(1866ー1945)の研究室で博士研究を始めた。モーガンは
発生学者だったが、当時既に、ショウジョウバエを実験材料に遺伝学の研究を始
めていた。ハーベイがこの「ショウジョウバエ研究室」に加わった時分、モーガ
ンは奇妙なオスのショウジョウバエの変異株(ミュータント)を見つけた。ショ
ウジョウバエは通常、「赤い目」をしているが、このオスはなぜか「白い目」を
していた。

好奇心に誘われて、モーガンはこの白目のオスと赤目のメスを掛け合わせて、そ
の子孫の目の色を観察した。第一代目の子孫は全部、赤目だった。これらの兄妹
同士を交配すると、2代目に少数の白目が現れた。奇妙なことには、白目のハエ
は皆オスだった。メンデルの遺伝の法則に従って、モーガンはこの交配実験から、
次のような結論を引き出した。まず、赤目は優性、白目は劣性であること。次に、
白目の遺伝形質は性染色体「X」上にあるにちがいないこと (今日の言葉で言え
ば、白目になるのは、X染色体に赤い色素をつくる遺伝子が欠損しているからだ。
メスは一対(2つ) のX染色体をもつが、オスはX染色体とY染色体を1つづつ持
つ。従って、メスの場合は、たとえX染色体の1つに欠損があっても、(正常なもう
1つのX染色体のおかげで)赤目のままだが、オスの場合は1つしかないX染色体
に欠損があれば、全て白目になるわけだ)。

モーガンはこれらショウジョウバエの遺伝学研究により、近代遺伝学を確立し、
1933年にノーベル生理/医学賞をもらう。モーガンの「遺伝子は染色体の上
にある」という概念は、生物学を一変させ、彼のショウジョウバエ研究室はその
後、数多くの有名な遺伝学者を生み出した。1946年にノーベル賞をもらった
ヘルマン・ミュラー(1890ー1967)もその弟子の一人で、X線照射によっ
て、ショウジョウバエに種々の変異を起こし得ることを発見した。

ハーベイはミュラーとほとんど同時期に、モーガンの研究室で研究を始めたが、
彼の関心は遺伝学ではなく、細胞膜の生化学、特に膜透過性に関する研究だった。
2年後に研究を完成し、博士号を取得すると、幸運が彼を待ち受けていた。プリ
ンストン大学生物学科が拡張を機会に、ハーベイに講師の職を提供した。当時わ
ずか23歳の彼は、しばしば学部学生と間違えられたそうである。

彼は当初、のどかな環境に囲まれたこの牧歌的な大学町にあまり刺激を感じなかっ
た。というのは、当時のプリンストン大学では、(彼には全く関心のない)政治
学や哲学など文化系の学問が中心だったからだ。しかしながら、結局、彼はこの
地に教職と研究を死ぬまで半世紀近く完うすることになる。

中略

19世紀の自然主義者、例えばチャールズ・ダーウインのように、ハーベイには
「新発見のための航海」をやってみたい冒険心に溢れていた。そこで、ダーウイ
ンによる有名な「ビーグル号航海」に匹敵するような一連の探険を、ハーベイは
試みた。彼の初期の訪問先は、米国領のサモア、ハワイ、キューバ、日本列島、
朝鮮半島、満州、フィリピン諸島、シンガポール、バリ島などであった。191
3年に、彼はその後のキャリア(研究歴)を一変させることになる航海に出かけ
た。ペンシルバニア大学の元教授であるアルフレッド・メイヤーとともに、豪州
のグレート・バリア・リーフ(大珊瑚礁)、シドニー、ブリスベン、タウンズビ
ル、ケアンズ、タヒチ、ラトンガ、ウエリントン(ニュージーランド北島)など
の南太平洋岸を訪れた。この航海の一体どこで、彼が冷光に魅せられたのか、はっ
きりしないが、1913年に冷光に関する最初の論文を発表した。題して「ホタ
ルの蛍光物質の化学的性質」。 しかしながら、彼が冷光に一生病み付きになっ
たのは、1916年に日本ヘ、彼がハネムーン旅行にやってきた最中だったのは
疑いない。真夜中、三崎の臨海実験所の近くの海で彼が泳いでいたときのことだ。
日本の海岸の浅瀬に良く見かける「海ホタル」の妖しい蛍光の魔力にとりつかれ
てしまった。

中略

幸いにも、新婚の彼の奥さんエセル・ブラウンが、彼の海洋生物への異常な関心
に対して理解があった。結婚する3年ほど前に、実は彼女もコロンビア大学で生
物学の博士号を取ったばかりだった。彼女の博士研究は水中の昆虫に関するもの
だった。その後、エセルはウニの発生学に専念するようになる。

日本を去る直前に、ハーベイは大量の海ホタルを収集、乾燥後プリンストンに郵
送するための手配をした。冷光の生化学研究の材料として、海ホタルが理想的だ
と考えたからである。というのは、この生き物は乾燥保存しておけば、何年後に
なっても、水を加えて湿らせさえすれば、すぐ蛍光を発するからだ。

中略

1940年代の初頭、日本軍はニューギニアや他の太平洋の戦場で、海ホタルを
戦争道具の1つとして開発するプランを立てた。南太平洋諸島のジャングルを月
が出ない夜間に行軍する際、日本軍の兵士たちは、敵に自分たちの居場所を教え
かねない乾電池の懐中電灯は使いにくかった。そこで、代わりに乾燥した海ホタ
ルが入った小さなバイアルを大量、連隊に配分するという計画を始めた。

中略

太平洋戦争中に、何百キロという海ホタルが日本軍の将兵、学生、ボランタリー
によって収集された。その一部は、(ハーベイが1910年代に収集した)三崎
臨海実験所(東京大学)からそう遠くない館山臨海実験所(お茶の水女子大学)
でも集められた。日本軍は(敵国の学者である)ハーベイが開発した収集法をそっくり
拝借した。大きな魚の頭を紐にぶら下げ、海岸の砂の多い浅瀬の底に置いておく。
2時間以内に、頭の周りが肉をしゃぶりにきた海ホタルの大群でいっぱいになる。
魚の食い残しをたぐり寄せれば、海ホタルは簡単に集められるという寸法だ。
海ホタルは日干しにした後、連隊に郵送される(後述するように、この「戦利品」の
残りが戦後、名古屋大学の平田教授の手に移リ、その研究生となった下村 脩氏
の実験材料になるというわけだ)。

中略


3。 被曝地「長崎」から

1961年の夏休みの頃だった。カナダへの国境に近いモンタナ州北部、グレー
シャー国立公園の南端にあるロッキー山脈のマリアス峠(海抜約1600メート
ル)を乗り越え、大陸横断ハイウエー(ルート2)を新品のブルーに輝くステー
ションワゴンで、突っ走る若い日本人の青年がいた。彼はゆったりと運転席にも
たれながら、移り行く山の景観やミドルフォーク渓谷を楽しんでいた。彼の名は
下村 脩。フルブライト留学生(ポスドク)で生化学が専門だった。彼は車の運
転にそこぶる上機嫌だった。実は2、3日前から東海岸にあるプリンストン大学
を出発して、はるばる西海岸のワシントン州パジェット・ サウンドまで、約5千
キロの大陸横断旅行中だった。運転の相棒は、割腹のよいプリンストン大学の生
物学教授フランク・ジョンソンだった。フランクはなんと日本語を「ノースカロ
ライナ訛り」たっぷりで、流暢に喋る稀れな特技を備えていた。脩の奥さん「明
美」も同乗していた。明美は2、3日前に日本から到着したばかりで、休む暇も
なくこの大陸横断旅行に引っ張り出されてしまった(もっとも英語もまともに話
せない状態で、プリンストンのナソー街にある夫のアパートに独り置いてきぼり
にされたら、それこそどうしようもなくなるだろうが)。

脩は細君が来るまで丸一年間、ろくに家具のないガランとしたアパートに独り住まい
をしていた。彼の部屋のわずかな装飾の1つといえば、ドア(戸口)にセロテープで
貼り付けたルシフェリンの化学構造の手書きコピーだった。彼の住いは粗末だったが、
彼の服装からは、そんな想像が難しかった。毎日12時間も車の中で過ごすにも
かかわらず、彼はきちんとYシャツにボタンをして、ネクタイもし、さらに薄い (愛用
の) カーディガンまで着用していたからだ。旅行の目的は単純だった。こぶし大
のあるクラゲの発する蛍光の謎を解くことだった。2、3か月後に同じ道筋を通っ
てプリンストンに戻ってきてから、脩は生命体のもつ蛍光に関する最大のパズル
の一つを解明したばかりではなく、最終的には生物学の分野全体を輝かせること
になる奇妙な蛍光蛋白を発見する運命になる。

世界大恐慌がやがて訪れる直前の1928年8月に生まれた脩は、その少年時代
を日本の歴史上最も困難な時期に過ごした。太平洋戦争中、陸軍大佐の息子とし
て育ったため、父親の転勤に伴って、佐世保(軍港)から戦地の満州、そして大
阪から最後に1944年7月に諌早へと、転々とした放浪生活を繰り返した。彼
の家族が諌早という長崎の郊外にある静かな農村に落ち着いたのは、脩が15歳
の頃だった。当時、タイに駐屯していた父親が、日本が敗け戦を味わい始めたの
を悟って、留守家族に米軍による空爆の的になりつつある大阪から疎開するよう
に命じたからだ。脩は母親や祖父祖母と共に、たら山の山麓、諌早という田舎に
ある農家に移り住んだ。長崎市の中心から10キロ離れた散村だった。

1944年9月1日の始業式に、諌早中学に進学した脩や同級生は、校長からな
んと「授業はなし」と言い渡された。太平洋戦争中の日本の制度として、生徒全
員が軍事工場で勤労奉仕するために動員されていたからだ。全校300名の生徒
のうち半分は、大村にある海軍の戦闘機(ゼロ戦)の工場へ、残りの半分は長崎
造船所に行かされた。脩は3メートル四方(8畳敷)の寮部屋に他の6人の学友
と共に寝泊りした。食事といえば、粗末で栄養価の乏しいものだった。常食は
(平時には家畜の餌だった)おわん一杯の米と麦とおからの混ぜご飯だった。た
まに、味噌汁とたくわん、あるいは魚か野菜が一皿が出ることもあった。今でも、
当時の空腹状態を脩は思い出すそうだ。

中略

1945年8月9日の朝、諌早は例年通り、早朝から蒸し暑かった。16歳の脩
は半ズボン、白シャツ、運動靴という服装で出勤した。午前10時57分、敵機
の来襲を告げる空襲警報が鳴った。

「我々は工場から飛び出し、防空壕に隠れる代わりに、近くにある丘の上に避難
した。規則違反ではあるが、経験上、そこが安全であることを皆んなが心得てい
たからだ」

額に手をかざしながら、薄ら青い空を見上げてみると、米軍戦闘機の大編隊はな
く、たった一機だけが頭上に、12キロ先の長崎方面に向かって南方に飛んで行
くのを見定めて、ほっと胸をなでおろした。上空を通過したその米軍の爆撃機か
ら、白い落下傘が3つだけ降りてきた。しかし、不思議なことに落下傘部隊が降
りて来る気配はなかった。その落下傘めがけて地上から撃っているのか、2、3
発の銃声がパラパラと聞こえた。まもなく、もう一機の爆撃機が上空を通過し、
同じ方向に飛び去っていった。どうやら、敵機が攻撃をしてこないようなので、
脩は安心しながら、丘を駆け下り、持ち場に戻った。脩は次の瞬間に起こった一
連の恐ろしい出来事を回想する。

「仕事を再開しようとしたとたん、建物の内部に突然、眩しいせん光がほとばしっ
た。あまりにも眩しいので、私は一時盲(失明)状態になった。一分後に炸裂す
る大音響が轟きわたって、その強烈な爆風で両耳がひどく痛くなった。空一面が
見る見るうちに不思議な雲におおわれたのに、私は気づいた。全てが謎に包まれ
ていた」

その日の午後遅く、近くの長崎市で巨大な爆発が発生したことを脩は知らされた。
彼は早めに仕事を切り上げ、祖父祖母が住む家に向かって、帰路を急ぎ始めた。
その朝、快晴であったのに、午後は不思議に空がどんより曇っていた。帰路に周
囲の農村一帯に黒い雨が降り、気味の悪い真っ黒な灰を残していった。その雨水
で彼の白いシャツも黒く染まり、家に着いたころには、まるで頭から炭を被った
ように真っ黒になっていた。

中略

長崎に投下されたプルトニウム原子爆弾(原爆、通称「ピカドン」)の熱波(放
射)は強烈で、人影があちらこちらの建物や街路にネガチブ写真(陰画)のよう
に焼き付けられていた。手押し車を引く男が「炭化」直前に、そのシルエットを
鋪道にくっきりと残していた。被曝した女性たちの肌には、ブラウスや着物の模
様がそのまま「刺青」のように残っていた(白地の部分は熱波を反射するが、濃
い色模様は熱波を吸収するからだ)。脩が目撃した空からの落下傘には、実は各
種の測定器が装備されており、爆発の威力やその他のデータを直接、その爆撃機
に送信するようになっていた。そのデータによると、長崎に投下された原爆の威
力は、TNT爆弾22キロ屯に相当し、その3日前に広島に投下された原爆(ウ
ラニウム爆弾)の2倍に匹敵する爆破力であった。脩の仕事を一時的に中断させ
たあの眩しいせん光は、(米軍側からの1973年の報告によれば)瞬時に4万
人の住民を即死させ、4万人の負傷者をもたらした。2発目の原爆は、その6日
後の8月15日に、日本の軍事政権の無条件降服をもたらし、太平洋戦争がつい
に終了した(実際には、8月7日のソ連による宣戦布告、満州進駐のほうが日本
の軍部、特に関東軍には決定的な打撃になったようである)。

敗戦と共に、脩が工場で働く義務はもうなくなったが、同時に日本中が大混乱に落
ち入っていた。脩は2、3日毎に母校に戻って教師からの指示を仰ごうとしたが、
何の指図も得られなかった。学校は長崎からの避難民の手当てをするための急ご
しらえの病院に早変わりしていた。

「学校は火傷や重傷に苦しむ何百人もの人々でひしめいていた。患者の名前が校
門の前に張った大きな白い紙にリストアップされていた。日毎にその名前が次々
と消えていった。死亡したか、親戚に引き取れたからだろう」

2週間後のある晴れた暑い日に、脩が学校に戻ってみると、リストの半数以上の
名前が消えていた。2、3人の人々が黙々と、校門の外に停めたリヤカーに死骸
を積み込んでいた。棺おけが間に合わないので、死体にはゴザが被せてあるだけ
だった。ゴザの下から死人の両足がむき出しになっているのを見て、脩はストレ
スをひどく感じた。

「私がさらに校内に足を踏み入れると、左側にある校庭をフラフラ、のろのろと
夢遊病者のように歩き回る人々に出くわした。彼らに近付いてみると、火傷の部
分に真っ黒いコールタールのようなものが貼り付いているのに気づいた。背中が
ほとんど全部真っ黒になった「夢遊病者」の一人に近づいて、良く調べ直すと、
その黒い物は、なんと「ウジ虫」の大群だった! 臭った皮膚にたかった蝿が産
卵し、それがふかしたものだった。背筋にぞっと寒気を感じざるを得なかった」

その男だけではなかった。どの「夢遊病者」にも「ウジ虫」が化膿した火傷に巣
食ったいた。

「これらの夢遊病者たちには、もう精神が宿っていないようだった。魂の脱け殻
に近かった。真っ昼間に見る亡霊だった! 私は衝撃を受けて、心臓が止りそう
になった。頭の中が真っ白になって、感覚をすっかり失ってしまった。うるさい
蝉の鳴き声が突然止んだ。その死の光景が私の記憶に深く、永遠に刻み込まれた。
あんな恐ろしい思いをしたことは、その後一度もなかった」

米国マサチューセッツ州ウッズホールにある下村 脩氏の質実剛健(簡素)な書斎で、
2004年まで2年間にわたって、何度かインタービューを重ねたが、彼は窓か
ら外を遠く眺めながら、もう60年近く昔に起こったこれらの出来事をはっきりと
思い出し、我々に説明してくれた。しかし、彼が敗戦直後に目撃した激動時代につ
いては、ほとんど触れてくれなかった。それについて、水を向けると、彼は一言、
こう答えるだけだった。

「我々は生き残るために、出来るだけのことをした。選択の余地はほとんどなかっ
たからだ」

戦後、日本の教育を支える下部組織がすっかりダメ(不機能状態)になっていた。
例えば、脩の学業記録は爆撃で焼失していたし、彼の教師の大半が戦死していた。
前述したが、彼の旧制中学時代の教育は、実に戦争の犠牲(勤労動員)になって、
ほとんど皆無だった。従って、脩による大学への入学申請は、全て拒否された。

旧制長崎医科大学の学生850名の内600名は戦死(爆死)し、残りの大部分
は被曝症に苦しんでいた。教授20名のうち12名が爆死、4名が被曝症にかかっ
ていた。諫早市の旧海軍基地に移転した旧制長崎医科大学附属薬学専門部(長崎
大学薬学部の前身)に、脩が入学を申請したところ、幸い入学が許可され、19
48年に仮校舎へ入学を果たした。といっても、大部分の教授が原爆の犠牲になっ
たので、大学の授業を担当するのは、未経験の非常勤講師ばかりだった。そこで、
脩の知識はほとんど大部分、独学によるものだった。とにかく、1951年にめ
でたく卒業証書をもらい、武田薬品という日本最大の製薬会社に就職を応募した。
しかし、面接試験で、会社には「不向き」という理由で、脩は採用されなかった。

幸いにも、母校薬学部で脩に分析化学を教えていた講師、安永俊五(1911ー1959)
氏が不憫に思い、脩を教務助手として拾ってくれた。安永は当時、京都大学で博士
研究をしながら、長崎で非常勤講師をアルバイトでやっていた。脩は教鞭のかたわら、
安永先生の博士研究の手助けを色々な形でやった。1950年代の初め、安永先
生は、クロマトグラフィーというテクニックを使って、低分子量の有機化合物の
混合物から、各々の化合物を分離する方法を考案しつつあった。それによって、
細胞から糖やアミノ酸などの低分子量の有機物を単離したり、治療薬の開発のた
め有機化学反応の産物を精製したりすることが可能になる。脩は安永先生と共著
で、日本薬学会の雑誌である「薬学雑誌」に8報もの論文を発表した。4年後に、
安永先生は脩の研究ぶりに惚れ込んで、脩自身の博士研究の手助けをするために、
1955年に名古屋大学に脩と一緒に出かけた。当初の目的は、有名な生化学者、
江上不二夫教授に、弟子の脩を紹介することだった。ひょっとすれば、就職先も
確保できるかもしれないと考えていた。

さて、名古屋に到着してみると、あいにく江上教授が学会で留守をしていた。戦
後既に10年も経っていたが、電話がどこにでも自由に通じるという状態ではな
かった。失望しながらも、理学部化学科の研究室をぶらぶら訪ね歩いているうち
に、40歳で教授になりたての平田義正氏(1915ー2000)にばったり出
会った。平田教授は江上先生の弟子でもあり、6年前に博士号を名古屋大学から
取ったばかりだった。(米国留学帰りで)身なりがくだけていたので、しばしば
院生と間違えられることがあった。彼も研究室で天然化合物を分離、精製するこ
とに喜びを感じていた (ちなみに、天然物化学の世界的権威であるコロンビア大
学名誉教授の中西香爾も、平田氏の弟子である)。

そこで、安永が平田教授に、江上教授に会うために、はるばる長崎から夜行列車
で名古屋までやってきた事情を説明した。すると、平田教授はこう答えて、さっ
さと自分の研究室に戻っていった。

「もちろん、僕の研究室にいつ来てもかまわないよ」

安永も脩もきょとんとして、お互いに顔を見合わせた。実は、平田教授は片方の
耳が難聴だった。彼は2人が自分に会うために名古屋へ来たと早合点したのだ。
平田教授に近しい同僚たちは、誤解を避けたいときには、いつも彼の良い方の耳
に向かって大声で話す習慣にしていた。

理学部の出口で立ち止まり、安永は明らかに戸惑いながら、脩にこう訊いた。
「君、どうするつもりかね?」
「僕はかまいませんよ。誰とでもつき合えますから」
脩は、名古屋駅に向かって歩き始めながら、そう答えた。1か月後に、長崎大学
に在籍しながら、平田教授の研究室に研究生として、仕事を始めた。初日に平田
教授は大きなデシケーターを脩の目の前にもってきて、中から乾燥したウミホタ
ルの欠片を取り出して、手の平で粉砕してから、水を添加した。その瞬間、それ
が青い蛍光を発し始めた。平田教授は脩に言った。
「これは誰も知らない謎だ」
発光の化学反応について、未知だということだ。教授はなぜこの研究テーマを脩
に与えるかを説明した。院生にウミホタルの研究テーマを与えれば、失敗するチャ
ンスが極めて高いからだ。というのは、プリンストン大学で40年も研究し続け
ているハーベイ教授でさえ、その謎が未だに解けないからだ。脩は唯一の研究生
だから、たとえ失敗に終わっても元々だと考えたわけである。

脩の使命は、ウミホタルのルシフェリン、つまり蛍光を発する物質を、純粋に単
離することだった。そうすれば、その化学構造を決定することができるからだ。

中略

1955年の春、脩はウミホタルからルシフェリンを結晶化する仕事に着手した。
まずハーベイのグループによって開拓された方法に基づいて、ルシフェリンをで
きるだけ濃縮し、さらに収量と純度を高めるために、いくつかの改良を重ねた。
酸素を除くと収量がよくなることを見つけた。そこで、危険は十分承知で、ルシ
フェリン精製の全工程を水素ガス存在下で行なった。水素ガスは引火すると爆発
するので、タバコやストーブなどの火元を極力避ける必要があった。だから、寒い
冬の作業は特に厳しかった。各工程に7昼夜ぶっ通しの作業を要した。しかし、
10か月後に純度の高いサンプルが得られたにもかかわらず、結晶化には成功
しなかった。

さて、ある日のことだった。その日も結晶化に失敗して、サンプルを強酸の溶液
に漬けたまま帰宅した。翌朝、研究室に戻ってみて、びっくり仰天した。赤い微
小な結晶が、放置しておいた溶液から析出しているではないか! 結晶化したル
シフェリンの比活性は、原料の乾燥ウミホタルの37、000倍だった。純度で
言えば、ハーベイのグループが作ったサンプルの20倍に相当した。弱冠27歳
の脩にとっては、素晴らしい業績だった。

「もちろん、成功は偶然の出来事だったが、それでも自信が湧いてきた。不可能
でなければ、何でもやってやるぞ、という意気込みができた」

1956年3月頃、地元名古屋の中日新聞に写真入りで、脩と同僚後藤君によるル
シフェリン結晶化に関する記事が掲載された。その翌年に脩は、日本化学雑誌に
「海ホタルルシフェリンの結晶」に関係する論文を初めて発表した。1960年
には同じ雑誌に、そのルシフェリンの化学構造を発表する(それが、脩の留学先
のアパートの戸口に貼り付けてあった例の戦利品だ!)。過去何十年もの間海外
の研究者たちを悩ませ続けた困難を、見事に克服した脩の成功に平田教授は感嘆
すると共に、何かこの若者に褒美を与えようと考え始めた。。。

さて、お話変わって、米国のプリンストン大学では、ハーベイ教授夫妻がとうと
う引退し、その高弟であるフランク・ジョンソンがその後継ぎになって、195
7年頃から、問題の多い海ホタルの蛍光に関する研究に本腰で取り組み始めた。
その夏、わざわざ来日して、伊豆半島で海ホタルの蛍光物質の精製に精を出して
いたが、研究設備の貧弱さと夏の猛暑に悩まされ、失望しながら帰国してまもな
く、例の脩の論文について知った。そこで、フランクは脩に渡米して、彼の研究
室で一緒に仕事をしようではないか、と提案した。もちろん、脩はそれを快く承
諾した。

平田教授の計らいで、脩は1960年に名古屋大学理学部から博士号を取得後、
「フルブライト奨学生」に選ばれ、プリンストン大学のフランク・ジョンソン教
授の研究室でポスドクとして研究を始めるため、氷川丸に乗って渡米の途につい
た。平田教授は(自分の「聞き違い」が元で)、脩に良い「餞別」ができたと秘
かに喜んだ。。。

平田教授は1952年にハーバード大学のルイス・フィーザー教授の研究室に客
員教授として、ステロイドに関する共同研究のため、一年間余り滞在していた。
だから、米国の大学における研究者の給与制度に比較的明るかった。当時、博士
号をもたない研究者の初任給(月給300ドル)は、ポスドク(博士号を持つ研
究者)サラリーの半分に過ぎなかった。そこで、フランクからの招聘を聞くや、
平田教授は早速、脩に博士号を(餞別代わりに)与えることに決めたのだ。

「博士号は私の視野にはありませんでした。私は自分に与えられた仕事を遣り遂
げたに過ぎません。博士号は、いわばボーナスでした」

脩は当時を回想してそう語る。皮肉にも、彼が研究材料としてふんだんに使うことがで
きたあの大量の海ホタルのコレクションは「戦争の副産物」だった。米国の研究者
グループは、戦争中、日本海沿岸で海ホタルを大量に収集するチャンスや余裕な
どがなかった、そのために、プリンストン大学のグループはルシフェリンの単離
にとうとう失敗した。同じ戦争は、脩の中等教育と生活を犠牲にしたが、少なく
とも彼にノーベル賞に価する科学研究への踏み台を与えることになった。


4。蛍光オワンクラゲの謎

脩が1959年にプリンストンから招待状を受け取る頃には、エドマント・ハー
ベイ教授の容態が急速に悪化し始め、フランク・ジョンソン(1908ー199
0)がプリンストンの研究室を切り盛りするようになった。ハーベイ教授はその
年の7月21日に他界した。脩が渡米する14か月ほど前だった。フランクは脩
の旅費をカバーすると申し出たが、自信にあふれ誇り高き若武者はフルブライト
奨学金に応募し、それを見事にものにした。この奨学金は往復の旅費と数週間の
英語レッスンに必要な経費をまかなうものだった。1960年8月、脩は単身赴
任で、他の数十名のフルブライト奨学生や家族と共に、横浜港の桟橋から「氷川
丸」に乗り、渡米の旅に出発した。この12、000屯の豪華船(日本郵船によ
り1930年に竣工)は、太平洋戦争中は専ら病院船として活躍、幸い戦火を免
れた唯一の豪華貨客船で、「太平洋の女王」という異名をもっていた。老朽化し
たため、1960年の周航を最後に、以後山下公園内に停留している。脩はその
旅をこう述懐している。

「船旅は北回りで、アリューシャン列島やアラスカ州の南岸を経由して、13日
間で、米国西海岸にあるシアトルに到着した。それから、米国大陸をアムトラッ
ク鉄道の「プルマン寝台車」で3昼夜かけて横断して、東海岸に近いプリンスト
ン郊外に到着した。それは私にとって、初めての海外旅行であり、我が生涯で最
も贅沢な旅だった」(それから、13年後に訳者自身も同じ航路で、初めての渡
米を楽しんだが、その頃には太平洋航路には客船がもはや走らくなったので、米
国の巨大コンテナ船「オレゴン号」で、シアトルまで9日間で太平洋を渡った。
客船ではなかったが贅沢な船旅だった)。

脩が日本を発ってから3週間後、列車がニュージャージー州の「プリンストン・
ジャンクション」と呼ばれる田園都市に停車すると、フランクが脩を駅まで出迎
え、プリントン大学構内にある彼の研究室がある(英国)チューダー王朝風ゴシッ
ク建築の建物に案内してくれた。そこで、かつて平田研究室で一度体験したシー
ンが再び繰り返された。フランクは脩を暗室に招き入れ、蛍光を発するオワンク
ラゲの白い乾燥粉末が入った壷を、新しい弟子に手渡した。その粉末に水を加え
て、発光するのを見せようと試みたが、意に反して、暗室は真っ暗のままだった。
失敗にめげず、フランクは、オワンクラゲの大群がワシントン州シアトル北方の
パジェット・サウンドと呼ばれる入江にあるフライデー・ハーバー島沖に生息し
ていると説明した。そして、暗闇の中で、脩にこう尋ねた。

「このクラゲについて研究してみる気はないかね?」
「クラゲの研究も面白そうですね」
脩は辺りが文字通り「真っ暗闇」で西も東もわからぬ状態だったので、新しいボ
スの指示に従った。

オワンクラゲは成長すると、こぶし大(直径8ー10センチ)の雨傘型の生き物
で、雨傘の放射状の骨(100本ほど)の部分が緑色の蛍光を発する。面白いこ
とには、ハーベイ教授やフランクが研究してきた発光生物の中で、唯一つ例の
「デュボアのルシフェリン/ルシフェラーゼ実験」が一度も成功しないのが、こ
のクラゲだった。

このクラゲを、例えばブレンダーなどで粉砕すると、そのスープは2、3時間ほ
ど蛍光を発してから消滅する。一度蛍光が消えると、どうやっても光の再生がで
きなくなる。前者(デュボア)の場合はルシフェリン(蛍光源)を新たに追加す
れば、残存のルシフェラーゼ(酵素)の働きで、蛍光が再生される。ということ
は、このクラゲの蛍光源はルシフェリンではない、何か「新しい物質」である可
能性が示唆されている。それが彼らの「目のつけどころ」だった。「ルシフェリ
ンの2番/3番煎じ(出し殻)」には、もう彼らはさほど興味がなかった。

翌年の6月、脩とフランク、それに脩の細君(明美)とフランクの助手(ヨー・
サイガ)がフランクのステーションワゴンに相乗りして、西部へ旅立った。シカ
ゴやグレーシャー国立公園を経由して、目的地「フライデーハーバー臨海実験所」
へ。実は、自動車免許をもっていたのは、フランクだけだった。そこで、7日間の旅
を通して、毎日昼間12時間づつ、彼独りで延々車の運転を続けた。彼がよっぽ
どクラゲに魅せられていなければできない芸当だ(往路だけではない、復路も7
日間かかるのだ!)。シアトルの北方110キロにある漁港アナコーテスから、
一行はフェリーで2時間のサンジュアン島にたどり着いた。その小島は(カナダ
側の)バンクーバー島とワシントン州の北岸との間に無数に散らばる群島の一部
である。フェリーに乗っている間、脩は初めて、伝説の蛍光ワンクラゲの大群に
出会い、その官能的な美しさにすっかり魅了されてしまった。

小島に到着した一行は、臨海研究所の所長であるロバート・フェルナルドの出迎え
を受け、研究所に案内された。この臨海研究所は1904年にワシントン大学の
付属施設として創立されたもので、「研究所」とは言え、丘の斜面に沿って建て
られた、わずか2、3の木造の小屋に過ぎなかった。一行が案内されたのは、部
屋が2つしかない小さな「研究室1」だった。ここで、一行4名と他の研究者3
名と、一匹のスコットランド産のシカ猟犬(グレイハウンド犬の一種)が寝泊ま
りと研究を共にすることになった。この「ギリース」と呼ばれる犬は、ワシント
ン大学の動物学科の教授、ディキシー・レイの「研究助手犬」だった。彼女は1
0年後には、ニクソン大統領によって、原子エネルギー委員会の議長に指名され、
1976年には、ワシントン州初の女性知事に当選した。しかしながら、196
1年当時の彼女の専らの関心は、木食い虫の生物学だった。

脩とジョンソン教授はまず、車から荷物を下ろし、大型(60センチ立方)の光
学メーターを研究室に設置するや、研究に取り組み始めた。まず水泳プールの掃
除に使うような浅いすくい網で、研究所の手前にある桟橋で、研究材料であるク
ラゲをすくい始めた。捕らえたクラゲを一匹ずつバケツに入れ、ハーベイが40
年ほど昔に開発した方法に従って、分析に使う発光器官の部分、つまりクラゲの
傘の縁だけをハサミで切り離して収集した。次に、この円形の輪を木綿の切れで
絞って、いわゆる「絞り汁」を調製した。この粘性の「絞り汁」は数時間だけ蛍
光を発し続けた後、発光器官細胞が死に絶える共に発光も止める。この夏休みに
一行は、合計9千匹以上のクラゲを捕獲した。

中略

脩は新鮮なオワンクラゲの絞り汁を調製し始めた。それから、(pHの効果を調
べるために) その汁に様々な弱酸や弱塩基を加えてみた。蛍光は消えなかった。
次に緩衝液を使って、絞り汁をpH4に調整してみた。とたんに蛍光が消えてし
まった。そこで、pH7(中性)に戻すために炭酸ソーダをゆっくりと加えてみ
た。驚いたことには、蛍光が次第に戻り始めた。いいかえれば、この発光反応は
(ルシフェリン系の蛍光と違い)一過性ではなく「可逆的」である。つまり、蛍
光源そのものは極めて安定で、その精製が可能であることを示唆していた。脩は
この希望のかけらにほっと胸を撫で下した。さて、脩はこの実験のあと始末をす
るために、中和した絞り汁を実験室の流しに流し込み始めた。絞り汁が流しの底
に触れた瞬間、爆発的なブルーのせん光が辺りにほとばしった。流しの底に蛍光
源を活性化する何かがあるに違いない! 海水だ! と脩は素早く合点した。海
水の主成分を熟知していた脩は、まもなく海水のカルシウム・イオンがクラゲの
蛍光の活性化物質であることを見つけた。カルシウムは海水中の成分のうち、
(塩素、ナトリウム、硫酸、マグネシウム)につぎ)5番目に豊富なイオンである。もし、
カルシウムが活性化物質ならば、カルシウムを選択的に除けば、蛍光が消える
はずである。そこで、脩は「EDTA」というカルシウムを除外 (中和) する薬剤を
絞り汁に加えてみた。蛍光は案の定、あっという間に消えた。こうして、脩はクラゲ
の蛍光をカルシウムとEDTAで自由自在に操(あやつ)る魔術を、偶然にも発見した。

脩は1978年になって、オワンクラゲの発光には、カルシウム以外にもう1つ大事な
物が餌に必要であることを発見した。不思議なことには、フライデーハーバーの海に
生息するオワンクラゲは蛍光を発するが、普通の水族館で飼育しているオワンクラゲ
は発光しないものが多い。例えば、ごく最近まで、山形県鶴岡市の市立加茂水族館
のオワンクラゲは発光しなかった。ところが、脩の忠告に従い、餌に「セレンテラ
ジン」という物質を混ぜてやると、クラゲの傘の周りがにわかに発光し始めたと
いう話題が最近の読売新聞に出ていた。彼はまさにオワンクラゲの「魔術師」で
ある!

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20081102-OYT1T00006.htm

さて、それでは「セレンテラジン」とは一体何者か? 実は、この物質はルシフェ
リンの一種で、アポエクオリンという「ルシフェラーゼ」(発光酵素)の一種と
結合し、エクオリン複合体となり、それがカルシウムによって活性化されて、ブ
ルーの光を放つらしい。

中略

さて、脩には理解できない謎がまだ1つ残っていた。流しで目撃したせん光はブ
ルーだった。ところがクラゲ自身は緑色の蛍光をいつも発していた。なぜだろう?

それまで研究してきた生命体からの蛍光は、その生きた本体でも試験管内でも全
く同じ色をしていた。そこで、脩をこう考えてみた。このクラゲはまず発光蛋白
「エクオリン」からブルーの光を発し、その光がクラゲの組織にある別の物質に
吸収され、緑色に変換後、蛍光として再現されるに違いない。1962年に発表
したエクオリンの精製に関する6ページにわたる論文の脚注(わずか2行)に、
脩はその科学的根拠 (傍証) として、次のように記述している(下村、ジョンソ
ン、サイゴ共著)。
「日向では、微かに緑色に見える蛋白溶液(GFP)をクラゲの絞り汁から得た。
電灯下では黄色、紫外線下では非常に明るい緑色の蛍光を発した」

中略

フライデーハーバーで脩が発見した物は、オワンクラゲの発光のメカニズムばか
りではなく、第二の蛋白質「GFP」(緑の蛍光蛋白)だった。この謎めいた蛋
白は、思いがけないことには、その後30年の歳月を経て、生物学や医学の分野
で広範に使われる非常に便利な道具に生まれ変わっていった。過去40年間の研
究生活を振り返りながら、脩はこう語っている。

「GFPが発見された当時、その蛍光の明るさと美しさを何かに利用しようとい
うアイディアは浮かんであろうが、生き物の体内にある蛋白を標識するというよ
うなことは想像だにされなかった」(つい最近、日本では絹糸の原料である蚕の
まゆの主成分であるフィブロインという蛋白をGFPで標識して、ブルーの光を
当てると緑色の蛍光を発する婦人用ドレスが試作されつつある)

2008年9月6日土曜日

評伝「ボブ・ブラウン:グリーン党の生みの親」

ジェームス・ノーマン(著)
丸田 浩 (訳)

目次

訳者まえがき
第1章 源泉
第2章 ボブ少年の誕生
第3章 問題児
第4章 ロンドンからリフェイへ
第5章 ペダー湖を救え!
第6章 渓流フランクリン
第7章 初の勝利
第8章 フランクリンを越えて
第9章 州の政界へ進出
第10章 グリーン党の誕生
第11章 連邦全体への波及
第12章 国際的なグリーン運動
第13章 初の「グリーン」上院議員

第1章 源泉

豪州のタスマニア州(島)の首都ホバートで、2003年2月に、地元の環境保護映画制作者による「森林」に関する記録映画が上映され、50人ほどの観客が集まった。場所は首都の中心にあるハリントン街から横道にそれたポール・トマス経営のチベット絨毯(じゅうたん)店の2階だった。ポールはボブ・ブラウンと既に8年ごしのパートナーだった。

ボブがその集まりに顔を出したのは、夜遅くになってからだった。というのは、豪州の首都キャンベラで、一週間ほどイラク戦争に反対する活動を組織していたからだ。ボブは映画に集まった小規模の観客に向かって、親しげに短いスピーチをした。

キャンベラでの活動による疲労の色を表わしながら、観客に手短かな忠告をした。
「聞いて下さい。もし、皆さんが全てに失望したと感じた時は、私が良くやるように、森の中で、満天の星空の下、一晩を過ごしてみて下さい。そうすると、多分、奇跡が起きて、また希望が自然に湧いてきますよ」
その言葉には、彼の単純さと不屈の魂がにじみ出ていた。

過去20年以上にわたって、ボブ・ブラウンは「グリーン」の旗をひるがえして、豪州政界のスポットライトをめざして、はっきりと野党の「左翼」を担う堅固な位置を確保してきた。タムマニア出身のこの柔和な話し方をする、眼鏡をかけた同姓愛の医師は、ほとんどポップスターなみの全豪的なヒーローを思わせる存在になった。彼の政策に反対する人々からも尊敬の目を集めていた。

2000年の総選挙で、2人の政治家が連邦議会でしばしば抜きん出て、有権者から注目と尊敬を集めていた。保守派を代表する首相のジョン・ハワードと革新派を代表するボブ・ブラウンだった。2004年の総選挙では、マーク・レイサムのリードで失地を回復した労働党(ALP)が豪州の政界地図を変えつつあった。レイサムが党首になって、まず提案した公約の1つは、なんとボブ・ブラウンと一緒にタスマニアの森林を視察することだった。

ハワードは、2007年の選挙で落選するまで、11年間もの長きにわたって首相を務め続けた稀にみる狡猾な政略家だった。ブラウンの個人的なカリスマ振りは、全く別次元のものだった。彼を尊敬する者にとっては、政治家一般に共通する攻撃的で競争心むき出しの姿勢と全く対照的な存在に見えた。

ブラウンの政治的スタンスは、確かに保守的ではなかったが、彼は色々の意味で非常に因習的な要素を備えていた。彼の保守主義は、その表面的なたたずまいにあった。着こなしが古めかしく、柔和に振る舞い、常にヒゲをきれいに剃り、人前で決して、他人を罵倒することはしない。しかしながら、彼が差し出す政治的献立は、民主的な革命だった。つまり、資本主義に対抗する持久主義、利潤追及に対する思いやりの政策だった。彼の穏やかな物腰にも拘らず、ブラウンは豪州を代表する真の革命家として、記憶されるだろう。

彼はしばしば軽いユーモアを交えて話をするが、いわゆる「町の顔役」にだけべったりな連中を批判するのに、決してやぶさかでない。彼は有権者の最新の関心事、しばしば地元の問題に関して、はっきりした政策の方向付けを試み、更に時の話題を何時も彼の最大関心事であるタスマニアの森林やより広範な環境問題に結びつけて議論を展開する。

環境問題(あるいはそれを越えた、例えば人権問題)に関する彼の思い切った発言は、彼の政治的キャリアを通じて、無数の受賞という形で称讃されている。1983年には、新聞「オーストラリアン」からその年の「時の人」にえらばれ、更に1990年には「1980年代の時の人」に。1990年には、ゴールドマン環境賞を、1996年にはBBCのワイルドライフ・マガジンの「世界で最も人望の高い政治家」賞、1998年には、豪州の人間国宝に選ばれた。

2002年には、DNAマガジンから、豪州で最も著名な同姓愛者のベストテンに、2003年には、豪州経済レビュー・マガジンから、「文化的に最有力な豪州人」に選ばれた。これらの受賞は、ボブ・ブラウンが様々な社会層で極めて人気が高く、かつ広く尊敬されていることを、如実に証明している。

彼の国際主義はそれだけに留まらない。ボブはグリーン党を今世紀の「有益な地球化」の原動力としようという、国際規模の野心を抱いている。つまり、過去の労働運動が果した役割に匹敵するような力、いいかえれば「労働党」に代わるべき「グリーン党」の国際的なパワーをめざしている。

しかしながら、彼の敵にとっては、ボブは狂信家であり、異端者であり、脅威であった。グリーン党が政党として益々力を得てくると、党やその党首であるボブに対する攻撃は、悪質を極めてきた。
ボブはしばしば、殴られたり、強迫を受けたり、人前でけなされたりした。2003年11月に、クインズランド州の自由党出身の上院議員ジョージ・ブランディスは、保守的な三文新聞「ヘラルド・サン」の論説家アンドリュー・ボルトの言葉を引用して、豪州グリーン党のイデオロギーをなんと1920年代から1930年代の「ナチス」になぞらえるという暴挙におよんだ。

政治的策略や狂信性をほのめかすそのような中傷や誹謗に対して、ボブは決してひるまなかった。
「私はそんな人物ではない。私は長老派のクリスチアンだからだ」と2000年に新聞「オーストラリアン」に語っている。彼はニューサウスウエールズ州の農村にある保守的な長老派クリスチアンの家庭出身であるという意味である。

ボブは政界に誠実さと尊厳をもたらし、さらに多くの豪州国民に対してラジカル(過激)という印象を与える世界感を導入した。彼はスキャンダルやあてこすりを武器に使って、彼を失脚させようともくろむ敵側の裏をかいて、タムマニア州議会および連邦議会での最初のスピーチで、彼自身が「同姓愛」であることを明言するという先手を打ち、敵側の攻撃を見事にかわした。

ブラウンのひととなりが多くの観衆を魅了した。そして、豪州の大衆は、一体何が「ラジカル」なのかを、もう一度考え直し始めた。彼は、従来なかった考え方も受け容れられる可能性を創り出した。以前は想像しがたかったことが、実は理屈に合う考え方であることを実証した。ボブがはにかみ屋で、むしろ古風な物腰だけに、彼が歯に衣を着せない勇敢な活動家であることを見つけて、人々は大いに驚いた。

ブラウンが豪州政界で日増しに重要な役割を果たし始めたのは、グリーン党が豪州政界で、抗しがたい勢力として成長してきた事実に符合している。

恐らく、グリーン党が豪州の野党内で、本質を突く唯一の党であるという評価を得たのは、実に2001年に発生した「タンパ事件」の最中であろう。ハワード政府は、船で豪州の海岸線近くにたどり着いた難民の一団が、豪州への入国許可を得んがため、豪州国民からの同情を買おうとして、意図的にその子供たちを船から海に放り出したと主張する一連のビデオ像をテレビで放映した。その放送を観て、多くの豪州大衆は難民たちに対して、呆れかえってしまった。そして、政府側が主張する「難民に対する厳しい措置」を支持する方向に世論が大きく傾き、ハワード政権は総選挙で、曖昧な態度を示した労働党を破って、大勝利した。

ところが、選挙後メディアを中心とする詳しい調査結果により、難民が子供たちを船外に投げ出したという政府側の主張には、(総選挙直前の) 世論工作を意図する行き過ぎがあったという事実が発覚した。政府側は、この事件後、ピーター・レイス国防相を内閣から免職せざるをえなくなったが、逆に(難民の側に立って、政府を厳しく追及した)グリーン党は、全国的にリベラルな有権者からの大幅な支持を獲得した。

この事件ほど、ハワード政府を非難して、極めて歯切れのよい意見を心から述べうる豪州唯一の野党であるという高い誉れを、グリーン党が得た例は外にない。グリーン党は、政府が自身の(批判の対象になっている)難民政策を合理化し、有権者の票を買うために、そこまで悪質なウソを捻出したことに亜然とする国民感情を、如実に代弁したのだった。

以後、以前にも増してしばしば、ボブは豪州のメディアから、ハワード政府に異議を申し立て得る信頼できる「野党側の実質的なリーダー」と呼ばれるようになった。この勇名は、環境政策問題を越えて、凡ゆる政治問題におよんだ。難民収容センターから対米外交問題やイラク戦争を含むテロ対策、更にハワード政府の右に寄ったその他の政策、例えばテルスタ(電々公社)の私有化、10%消費税や私的健康保険制度などに、ボブは一貫して反対意見を述べ続けた。

21世紀の初めに、米国のブッシュ政権によってでっち上げられ、豪州のハワード政府、英国のブレア政権、日本の小泉政権などにバックアップされた「テロ対策」路線は、世界平和への新たな脅威が無気味に拡大していることを示唆している(あるいはその路線自身が脅威の元凶になりつつある)。それは、前例のないメディアによって煽られた地球全体に渡る「テロの恐怖」時代を作り出した。(2001年)9月11日に仕掛けられたニューヨークの貿易センターおよびワシントンのペンタゴン(国防総省)に 対する(ハイジャックされた旅客機による)アタックは、その巨大な破壊力で、地球全体にわたって不安と脅威の風潮をもたらした。「イラク戦争」開始のために、ブッシュ政権が導入した「先制攻撃」路線は、悪質の新外交路線で、国連や欧州諸国の大半から嫌われるとともに、危惧されるに至った。

地球全体に前代未聞の混乱、恐怖、不安が広がるつつあるこの時期に、ボブは豪州の反戦運動のトップリーダー的役割を務めた。2003年2月中旬、豪州中至る所で、イラク戦争への豪州参戦に反対して、抗議集会やデモを企画した。彼はどこの集会にでかけても、演台にあがると、常に最大の喝采を観衆から受けた。それを評して、ある評論家が「ボブ・ブラウンの人気は、マイクロフォンの性能に無関係だ」と語ったそうだ。

ボブは「イラク戦争は豪州国民とは全く無関係の戦争である。それは、ジョージ・ブッシュやそれに尻尾を振るトニー・ブレア、ジョン・ハワードや小泉純一郎などの鷹派連中の個人的な戦争に過ぎない」と力説した。「国連の大量殺りく兵器(WMD)調査団により、実際にイラク内にそんな兵器があるかどうか調べる必要性がある」とボブは訴えた。

(ハワード)首相は一度も、豪州国民からイラクとの戦争に参加してよいという白紙手形を得たことはない。彼には国民の希望(意志)に背を向ける権威はない。彼は(その強引なやりかたで)自国の自由主義と民主主義を踏み躙ってしまった。我々は、差し迫っている大虐殺に「ノー」と訴えている世界中の無数の魂を代表している。我々は、イラクをただ単に(独裁者から解放して)自治国にしたいと望んでいるのに過ぎず、英米などの先進国に石油利権を提供する植民地にしたいとは、決して望んでいない(なぜなら、豪州国民は「地球温暖化の元凶」である石油や石炭に代わるべき、持続できる「きれいなエネルギー」源、例えば太陽エネルギーや風力エネルギーの利用をめざしているからだ)。従って、我々はブッシュに、ブレアに、ホワードに、そして小泉に、戦争の代わりに欧州的アプローチ(解決法)を吟味するように提案したい。

さもなければ、あなたたちは自らの手で、バグダッドに住む多数の子供たちに不必要な流血を強要し、世界中の希望を台無しにする結果をもたらすだろう。我々はもちろん、あなたがたをテロリストと同一視するつもりなどないが、バグダッドに住む母親たちは、あなたがたをどんな目で見るだろうか? 一度彼らの気持を訊いてみたことがあるだろうか? あるいはサダム・フセインと同様、あなたがたには、これらの母親の恐怖を感じとる繊細な感受性が欠けているのだろうか? 私はできることなら、ハワード首相を「ブッシュべったり」主義から、我々自国の大衆の声に耳を傾ける人にしてみたい。

上記にみられるブラウン独特の意見は、豪州国民全体の心をつかみ、政治家全体に対して抱く一般大衆の冷笑を断ち切ることに成功した。そして、豪州大衆の声や気持を、史上最大の反戦運動になった大規模な全世界中の集会に伝えた。彼がスピーチをやったメルボルンとシドニーの抗議集会を合わせると、合計50万人近い参加者があった。ボブは街頭でも人々の尊敬を集める代弁者の役をみごとに果した。

豪州の政界では、ハワードの保守連立政府ばかりではなく、肝心の野党たる労働党さえも、最近の世界的潮流となりつつある「中道右派」路線への傾斜に、さらに右へならえをしていた。強いて例外を探せば、ドイツのゲアハート・シュレーダーの社会民主党とグリーンの連立政府とイタリアのシルビオ・ベルスコーニの極右(ネオ・リベラル)政権だけが、いわゆる独自路線を歩んでいた。

ボブ・ブラウンは多くの人々にとって、社会正義、実践的な環境保護主義、よりよき世界へのビジョン(展望)の緊急な必要性を密接に結びつけるシンボルとなりつつある。彼は、一地方(タスマニア島)の活動家から、全国的さらに国際的レベルで環境保護運動をリードする「自由の闘士」に成長した非常に稀れな活動家の例である。

もちろん、我々がテレビを通じておなじみの環境保護活動家、議会でただひとり、難民の基本的人権やイラク戦争反対を強く訴えるあの「ボブ・ブラウン」像は、彼の人生の一側面に過ぎない。

メディア像は、例えば、彼がもつ(意外に)豊かな家庭的な側面を無視している。ピアニストの彼は、しばしば自宅で自らピアノ演奏を楽しむ趣味を持つし、彼の伴侶ポール・トマスとのロマンスによって、いわゆる「囚人生活」からの解放を楽しんでいる。彼は菜食主義者ではなく、食卓にはいわゆる「豆腐食」より、むしろ「ステーキと三菜」という豪州/英国風の伝統的なメニューを好むようだ。

その上、メディアの報道からは、ボブは前半生で、内なる悪夢にさいなまれて、首都キャンベラで医師をしていた頃、悩みを他人に打ち明けることもできず、混迷の末、自殺を一時考えたことや、52歳になるまで、他人と親密な関係に入ることなく、独身生活を続けたボブを想像することは、極めて難しい。その同じ人物が、驚くべきドンキホーテ的な変身を遂げ、今日我々が見る政界をリードする中心的存在になったのである。

ボブの内部に起こった私的な人格上の革命は、もちろん、彼の政界でのキャリアにおけるより広範な社会的革命を育てるために十分な素地を提供した。

メディアが作り上げた一次元的なブラウン像のみでは、彼が引き出したインスピレーションの源泉や、20年間近くにわたる議会での活動や、地元や国際的な各種の組織からくる際限なき依頼に応じるために、彼がたたき出す時間とエネルギーの源泉は、とうてい浮かび上がってこない。正にその源泉は、彼を取り巻く自然環境自体の中にあるに違いないと私は推察している。それは歴史的には、フランクリン川に始まり、北タスマニア地方の中央にあるリフェイ渓谷に彼が見つけ、現在でも住み続けている潅木地の一角を取り巻く森林と切り立つ岩壁に至る「聖なる原生林」である。それにボブは常に引かれ、それを保護するために、自分の後半生を捧げているのである。

連邦議会の不毛で退屈な現場から何万キロも離れた、自然界に立ち、ほと走る渓流や厳かな静寂に直に接して初めて、一体何が真にボブを動かしているかを、我々はよりよく理解できるだろう。

続く

http://happytown.orahoo.com/green-books/