2008年4月30日水曜日

カナディアン・ロッキー: 登山 (ハイキング)ガイド

(Brian Patton/Bart Robinson 著)

この(息の長い)ガイドブックは、初版1971年以来、今日まで8版(2007年)を重ねているカナディアン・ロッキー案内に関する「聖書」といわれている本である。既に23万部以上が売れている。以前は、写真が白黒だったが、最新版 (約500ページ) は、オールカラーになっている。内容は 250近いハイキング・ルート(距離表示付)、150以上の写真 、 山小屋や交通手段 。カナダ人なら誰でも持っているといわれている定評のある登山(ハイキング)案内書。主に、Banff、Jasper、Yoho、 Kootenay、 Waterton 湖、 Robson 山、Assiniboine 山、 Peter Lougheed、 Elk 湖、Akamina-Kishinena par 等の名所を収録している。 なお著者2人は、地元カナディアン・ロッキー山麓に30年以上住むベテランのハイカー。

http://en.wikipedia.org/wiki/The_Canadian_Rockies_Trail_Guide

ちなみに、数年前に「山と渓谷社」から、カナダに住む山好きの日本人、益田夫妻が書いた「カナディアン・ロッキーハイキング案内」(約200ページ) が出版されているが、それはもちろん邦訳ではないが、恐らくこの英文原書(聖書)を参考にして、自分たちの山歩き実体験を織り交ぜて、日本人向けに再編したガイドブックであろうと、私は推察する。

http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~thashi/2001image/hikingjunbi.htm

私は35年ほど昔、米国(ロッキー山麓にある)コロラド大学に留学研究中、地元の親しい法学部の院生(サンチェス)と一緒に、ロッキー山脈の最高峰「ロングス・ピーク」に登頂したことがあるが、カナディアン・ロッキーには、未だ出かけたことがない。最近、豪州メルボルンにある癌研究所を定年退職し、年金生活を始めたので、好きな本の執筆の合間を利用して、(この「聖書」を片手に) ひとつカナダの山々(ロッキー)にも挑戦してみようと思っている。

2008年4月28日月曜日

原爆開発への「不本意な影の役者」(Leo Szilard)

ハンガリー生まれの科学者レオ・シラード(1898ー1964)は、米国ニューヨーク州生まれのイン テリ政治家フランクリン・ルーズベルト(名大統領)とは、意気投合したが、カン サス州生まれの田舎政治家ハリー・トルーマン(棚ぼた大統領)とは、一線を画した(というか、トルーマンにはシラードの「先見の明」が全く理解できず、彼の忠告を無視し続けた)。

天才的発想の持ち主シラードは、イタリア出身のエンリコ・フェルミ(1938年のノーベル賞受賞者)と、史上初の原子炉をデザイ ンし特許を取るが、ナチスがそれを利用して原爆を製造し、実戦に使用する計画 があることを探知するや、アインシュタインと共に、ルーズベルト宛てに手紙を 書き、米国がナチスよりも先に原爆を開発するよう嘆願した。こうして、「マン ハッタン計画」が開始した。

しかしながら、ナチスは原爆製造計画に失敗したばかりではなく、1945年5 月に降伏してしまう。そこで、シラードは米国の原爆製造計画の中止を提案し始 めた。折悪しく、ドイツの降伏直前に聡明なルーズベルトが急死し、副大統領であったトルー マンが棚ぼた的に大統領に就任した。これが史上最大の悲劇を呼ぶことになった。

ソ連のスターリンに軽く新参者扱いされたトルーマンは、男を上げるために、原 爆を瀕死の日本に落として、スターリンの東欧への進出を牽制しようと図った。 そこで、トルーマン宛ての(降服寸前の日本への原爆投下をせぬよう訴えた)シラードが草稿した 嘆願書は、彼の地元シカゴ大学で研究中の良心的な70名の科学者仲間から署名を得たが、トルーマンや軍部に無視され た。こうして、ヒロシマ・ナガサキに「生き地獄」が発生した。

(良心の呵責を強く感じた)シラードは戦後、反核運動を積極的にリードすると共 に、原子物理学を捨てて、(平和的な)分子生物学研究に専念する。彼はその天才、 情熱、良心のゆえに、ノーベル賞に価する研究をしたにも拘らず、受賞のチャンス を逃し、いわゆる「陰の天才」(1992年出版の評伝のタイトル「Genius in the Shadows」)に甘んじることになる。しかし ながら、我々日本人一人一人が原爆について深く思いをめぐらすとき、シラードの 果した(不本意な)役割がいかに大きかったかを痛感せざるをえないだろう。

ユダヤ人迫害が激しくなる以前(1920年代初頭)、若いシラードは有名なアインシュタインと共に、(当時)科学的研究のメッカであったドイツで、理論物理学の研究を楽しみ、合間には「電磁気ポンプ」を利用した史上初の冷蔵庫などを一緒に考案して特許をとっている。しかしながら、両人共「ユダヤ人」であったので、ヒットラーの台頭と共に、米国に結局亡命せざるをえなくなった。もし仮に、欧州でこの忌まわしいヒットラー戦争が起こらなかったら、彼らの才能はもっと有益な発明発見のために注がれ、恐ろしい「原爆開発」のごとき「天才の浪費」は決して発生しなかったことだろう。「戦争」(集団同士の殺し合い)はどんな理由であれ、もうまっぴら御免だ! 

型破りの女 (Jean Tahija)

ジーン・タヒヤ (1916ー2001)が自伝を出版してから、もう10年ほどの月日が経つ。彼女は豪州メルボルン生まれの白人女性で、歯科医だったが、太平洋戦争中にインドネシア (オランダ領東インディー ) から軍事訓練のため、メルボルンに派遺され、ジーンのウオルター家に食事に招かれたある若いハンサムな将校に初対面して以来、熱烈なロマンスが芽生え、戦後まもなく、そのインドネシア将校(ジュリウス・タヒヤ)と結婚して、親元を離れ、はるばる異国の首都ジャカルタに移民する。白豪主義がまだ強かった当時としては、型破りのロマンスだった。1946年にメルボルンの地方紙に「褐色のヒーローが白人の妻と結ばれる」という記事が掲載された。ジーンが新聞社に強く抗議して、(皮膚の色を表わす)形容詞を記事から削除するよう要求したので、新聞社は渋々、見出しを書き換えざるをえなかった。

ジーンの父親は警察官だったが、進歩的な物の考え方の持ち主だった。娘に口癖のようにこう言っていた。「女性も男性同様、キャリアを持つ権利がある。医師か歯科医になるよう頑張りなさい!」。ジーンは1941年に、メルボルン大学卒業生の中で、史上初めての女性歯科医になるという、歴史的な快挙を成し遂げた。さて、将来の夫ジュリウスに会ったのは、その翌年だった。彼は戦争中、祖国インドネシアの独立をめざして、スカルノ(独立後の初代大統領)の指揮下、日本軍やオランダ軍と勇敢に戦っていた。「ヒーロー」の由縁はそこにあった。

1945年の日本敗戦後も、スカルノのインドネシア軍は、オランダ軍に対して血みどろのゲリラ戦を展開した。ジーンは豪州人ながら、夫の独立戦争を助けて、1949年に独立が正式に承認されるまで、共に戦い抜いた。さて独立当時、(イスラム教の影響が強い)インドネシアには女性の歯科医は皆無だった。しかしながら、夫ジュリウスも進歩的な考えの持ち主で、ジャカルタの病院で、ジーンが歯科医を続けることを激励した。ジュリウスは祖国独立後、スカルノ政権の高官を務めるばかりではなく、石油会社「カルテックス」の重役として活躍した。夫婦の間に聡明な息子が2人生まれた。

私がこの型破りな女性ジーンに初めて会ったのは、彼女の自伝が出版されて間もなく、私の自宅から歩いて2、3分の所にある夫婦の別荘に、彼女がしばらく振りに訪れた折だった。それから、2、3年後、ジュリウスから、ジーンがとうとう病死したという悲報を受け取った。夫であるインドネシア人と共に、独立運動のために体を張った、稀れにみる勇気のある豪州女性だった。

蛇足だが、定時制高校を中退して、赤坂界隈の美人ホステスになり、日本の石油貿易商社からの賄賂(「夜のプレゼント」)として1960年頃、ジャカルタへ派遺され、スカルノ大統領の第3夫人になったデヴィ夫人(旧姓、根本 七保子)は、背後の事情を薄々知っていたジーン(タヒヤ夫人)自身を含めてインドネシア大衆の間には余り馴染みがなかったようである。

2008年4月27日日曜日

地球を逆転させた生物学者(David Baltimore)

「例外のない法則はない」という言葉が私は大好きだ。権威に盲従することを好まぬ私の強い気性からだ。さて、1950年代にワトソンとクリックが遺伝子DNAのらせん構造解析から、「DNAがRNAを作り(転写)、さらにRNAが蛋白質を作る(翻訳)」といういわゆる分子生物学の「セントラル・ドグマ」を提唱、確立した。

しかしながら、1970頃に、発癌性のRNAウイルス(レトロウイルス)を研究していた2人の学者、デビッド・ボルチモアとホワード・テミンが、この法則に従わない現象を発見した。これらの発癌性ウイルスは逆に、自分のRNAを鋳型にして、それと相補的なDNAを、宿主細胞内で、自らの特殊な酵素を使って、転写する機能を持つことを見つけた。そして、この不思議な酵素を「逆転写酵素」と名付けた。つまり、「RNAがDNAを作る」という例外をウイルスの世界で発見して、従来の世界観を、逆転したわけである。5年後に、彼らのこの逆転劇に対して、ノーベル賞が与えられた。

実は、この逆転劇は、人々の「物の考え方」を一変したばかりではなく、1980年代に、新しい革命的なテクノロジー(組み替え工学)を、分子生物学の世界に産み出した。「逆転写酵素」を使って、自由自在に遺伝子をクローンできるようになったばかりではなく、その遺伝子をある種から他の種に移植することもできるようになった。原理的には、この方法によって、癌などの難病の遺伝子療法が遠い将来、可能になるわけだ。例えば、発癌の原因の1つは、正常細胞にあった抗癌遺伝子が変異によって、機能を失うことによる。従って、癌細胞に正常な抗癌遺伝子を挿入し補ってやれば、癌は治るはずである。

しかしながら、今日の技術レベルでは、患者の体内に巣くう全ての癌細胞に、抗癌遺伝子を効率よく挿入することが、まだ難しい。そこで、この抗癌遺伝子産物(蛋白)の機能と良く似た薬理作用を持つ化合物を見つけ、制癌剤として開発することが、我々「癌学者」の目下の緊急な課題になっている。我々が開発中の一連のPAK遮断剤は、抗癌蛋白「メルリン」がPAKという発癌性酵素 (キナーゼ) を阻害するという、最近の発見に基づいて進められているものである。合成物質ばかりではなく、天然物 (例えば、抗生物質FK228、赤ブドウ、蜜蜂の作るプロポリスなど) にも、PAKを遮断する作用があるという事実は、大変面白い。

さて、ボルチモアの英知は、科学の分野のみに留まらない。彼は「男女共生」の情熱的な推進者でもあり、「逆転写酵素」の発見にも一部貢献した同僚で、中国出身のアリスを生涯の伴侶として選んだ。さらに、米国政府が戦後始めた2つのいわゆる「出口なき泥沼戦争」、ベトナム戦争とイラク戦争、の継続に強く反対している。数年前に出版されたボルチモアに関する評伝(「Ahead of the Curve」) から、多くの若い読者たちが、権威や先入観に捕らわれぬ彼の「自由な発想法」を会得できれば、誠に幸いである。

2008年4月26日土曜日

自伝「チャイナ・ガール」(Helene Chung)

豪州メルボルンの我々の自宅から数軒先に住む元ABCテレビ局の海外(北京)特派員ヘレン・チュングが綴った赤裸々な自伝が最近出版された (なんと「キャッチフレーズ」には、修道院の尼さんには決して読ませられない内容がある、という注釈つきの問題作だ)。十数年前に、夫のジョン・マーチンが癌の転移で亡くなって以来、母親と一緒にひっそりと暮らしていたが、実は回想録を書いていたことを、我々は知らなかった。

ヘレンは戦後まもなく、豪州タスマニア島の首都ホーバートで中国系の両親の間に生まれた。カトリック系の女学校に通っていた当時 (1950年代) の豪州では、いわゆる「白豪主義」がまだ根強く、クラスの大部分を占める(金髪で青い目の)白人同級生から、「Ching Chong チャイナ・ガール!」とはやし立てられたことから、この回想録のタイトルが生まれた。彼女には、他人には打ち明け難い悩みがもう1つあった。自分の母親が、夫と離婚後、生計のために、ヌード・モデルをしているというショッキングな事実を知っていたからだ。

そんな「イジメ」や心の悩みにも敗けず、聡明なヘレンは、大学時代で頭角を現わし、ジャーナリズムに興味をもち始め、海外をかけ巡っている内に、豪州のテレビ局「ABC」(日本のNHKに相当する)で、有色人種で初めてテレビ・キャスターに採用され、間もなく女性として初の海外特派員として、北京に駐在するようになった。

さて、1963年に彼女がタスマニア大学の学生時代、同期生のジョン・マーチンに初めて出会った。それから13年後の1976年に、彼がメルボルンの郊外にあるゴードン工科大学(歴史学)の講師をしていたころ、ABCのホーバート支局でレポーターをしていたヘレンに、仕事で偶々、ジョンとインタービューをするチャンスが訪れる。それがきっかけで、以来ロマンスの花が咲き、2人は結婚へゴールインする。1991年にジョンが大腸癌にかかっていることが判明し、手術で癌は一旦取り除かれたが、2年後にそれが骨盤に転移していることが発見され、治療のかいもなく、とうとう他界した。1995年に、彼の死を悼む「我が優しのジョン」を、ヘレンが出版している。

人格の尺度 (Sidney Poitier)

米国の黒人俳優の中で、史上初めてアカデミー賞を獲得したシドニー・ポアチエのベストセラー自伝が数年前に出版された。英文原書のタイトルは、「The Measure of a Man」。彼の主演映画で、私が最も感銘したのは、1963年の名作「野のユリ」(Lilies of the Field) だった。戦後、ドイツから米国に移民してきた修道院の尼さんたちを助ける、歌のとても好きな(ホームレスの)青年役を演ずる。翌年、彼はこのすばらしい演技で最優秀男優賞 (オスカー) をもらった。この自伝では、自分自身の人生を振り返りながら、単に映画俳優としてばかりではなく、人間として、特に息子として、夫として、あるいは父親として、自分が一体どれだけの価値があったかを、厳しく自己評価しつつ、自分の生き甲斐を率直に、我々に語りかけている。

ポアチエは、少年時代を、生地のバハマ諸島のキャット (猫) 島で、両親と共に、貧しいが平穏な日々を過ごした。この島には、電灯や水道などのいわゆる「文明の力」がほとんどなかった。トマト栽培が主な産業だった。ところが、1936年になって、米国大陸のフロリダ州へのトマトの輸出が禁止されたため、島の経済はとうとう破綻をきたした。そこで、15歳になって、彼は親元を離れ、フロリダ州マイアミに単身(裸一貫で)移住し、白人世界に初めて入り、数々の波乱豊かな冒険生活を始める。兵役志願、ホテルのウエイターなどで苦い経験を経たのち、結局黒人差別の少ないニューヨーク市のハーレム(貧民窟)にある黒人劇場に、俳優になる訓練を受け始める。1955年に、グレン・フォードと共演で、「黒板ジャングル」という映画に初デビューし、正義感の強い若き黒人教師の役を熱演する。以来、正義感、情熱、思いやりのある人物が、彼の好きな役柄になる。  

さて、40年近く映画界ですばらしい経歴を積んだのち、ポアチエの人生にも危機がやってきた。1993年、70歳にさしかかる頃、前立腺癌という診断を受けた。しかしながら、幸いにも比較的早期だったので、手術で難を逃れた。その後数年間、癌の再発の可能性を懸念し続けていたが、幸い、再発の兆候はみられず、ほっと安心して、自伝の執筆を始めたわけである。

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1943年頃、ポアチエが16歳そこそこでマイアミに移住してきて間もなく、身の毛がよ立つような恐ろしい体験をしたそうだ。

ある日の夜遅く、私は白人の住む地区を訪れる羽目に陥った。その翌日、旅行に出かける予定で背広のドライクリーニングを頼んでおいたが、最寄りの(黒人住民地区にある)クリーニング屋にはまだ届いていなかった。そこで、バスで町はずれのクリーニング工場まで取りに出かけざるをえなかった。ところがバス停に戻って来ると、最終便が既に出たあとだった。そこで、黒人地区方面に向かう車を見つけて、できればヒッチハイクで帰宅する積りだった。もちろん黒人がドライバーの車だけを探し始めた。最初に停まってくれた車は、なんと私服のパトカーだった。ところが不幸にして、乗っていたのはなんと白人の運ちゃんだった。警官が車の窓を開けて、私にこう指図した。「おいガキ、そこの路地に入れ!」 。パトカーが私を路地に先導した。

路地には人影が全くなかった。「これはやばい」と私はとっさに判断した。そこで何が起ころうと目撃者が誰もいない。パトカーの窓からピストルの銃口が私の頭をピタリと狙っているのに気づいた。パトカーから2人の警官の会話が聞こえてきた。
「奴をどう料理してやろうか?」
「こんな所で一体何をしているのか、調べてみようじゃないか」
「奴をここで射殺してやろうか?」
会話の内容が穏やかではない! 私は背筋に戦慄を感じると同時に、弱い者苛めの警官たちに対して、かっと怒りを禁じえなかった。私は状況を察して、出来るだけ冷静に、自分がなぜこんな所に来たかを説明した。

「よしわかった。それなら帰宅してもいいが、ここからずっと歩いて帰るんだ。ただし、一度でも後ろを振り返ってみろ、頭にズドンだぞ! 覚悟はいいか?」
「了解しました」
「それなら、さっさと歩け! 直ぐ後ろから車で尾行してやる」
私はすばやく路地から抜け出して、バス道路を歩き始めた。家まで延々50ブロックもある道のりを、決して後ろを振り向かずに。。。

頭を前方に真っ直ぐ固定して、目だけを左右にキョロキョロ動かしながら、通りの店の窓ガラスに写るパトカーの影を時々チェックしながら。。。「戦慄」の尾行は、私が親戚と一緒に住む家がある(黒人地区の)路地に入るまで、たっぷり50ブロック間断なく続いた。そして、私が最後に「救い」の角を曲がったとたん、パトカーがすっと姿を消した。

2008年4月22日火曜日

NF2患者の手記 「難病NFは私を強くした」 (Jane Wilson) 

2005年に、NFの重症患者ジェーンがパソコンを使って、英文手記(約100ページ)を自費出版した(原書のタイトルは、「Who Am I?」)。ジェーンは、米国アイオワ州に住む1952年11月生まれの中年の女性(詩人)で、17歳の誕生日を迎えてまもなく、最初の脳腫瘍手術を受ける。以後、この得体の知れぬ脳腫瘍のため、半世紀にわたり5回の脳手術をせざるをえなくなる。現在、両耳が全く聴こえず、片目だけが見え、チューブを通して、流動食を食べながら、車椅子の生活を続けている。両親、夫、弟は既に他界したが、まだジェーンには一人娘(ハイジ)と2人の孫がいる。ごく最近、やはり車椅子生活をする老人と再婚したという明るいニュースが私のもとに届いた。実はこの彼が、ジェーンの手記の製本を一手に引き受けてくれたそうだ。NFをめぐる世界には「鬼」もいれば「仏」もいるようだ。

さて、ジェーンの不可解な難病が、実はNF2であることが初めて判明したのは、1996年になってからで、NF1とNF2との区別がはっきりしてから、既に10年近い月日が経っていた。なお、ジェーンの脳腫瘍が初めて発見された1969年には、「NF2」という難病の概念は、医学の世界にまだなかった。以下は、今から12年前の脳手術(4回目)に関するストーリー(抜粋)である。

1995年2月、父さんが死んだのち、母さんは「独り暮らしはごめんだ」と言い始めた。そこで、私も母さんもそれぞれ、家や家具などを売り払い、その年の8月、アイオワ州の西バーリントンにある小さな家を買った(掃除が簡単になった!)。そして、私のために、通路にてすりを付けてもらった。私はまだ、杖なしに歩いていたが、それがだんだんきつくなり始めていたからだ。てすりのおかげで、歩行がずっと楽になった。

まもなく、10月になって、私がオルガン奏者として働いていた教会の牧師がとうとう亡くなった。私のよき親友だった。11月に私は、新しい車を買った。その一週間後に、我々3人(父さん、母さん、私)が売り払った要約会社の新しい経営者陣から、会社を売却したから、従業員を全員解雇したと言われた。彼らは、母さんと私に、最後の給料を払ったのち、首にした。たった2週間前の通告しかくれなかった。我々は皆、とても裏切られた気持になった。不幸中の幸いは、要約業者で競争相手だった会社に、私が顔を出したら、その場で、私を雇ってくれたことだった。この会社はその昔、父さんや母さんが働いていたところだった。その後、1963年に両親がそこから独立して、自分たちの会社を始めたという面白いいきさつがあった。ある意味で、一周回って、元の古巣に戻ってきたという感じだ。新しい職場では、給料も増えたし、色々な恩恵があった。その1つは、グループ健康保険で、次の私の手術代をカバーしてくれた。私は新しい上司に、聴覚と平均感覚を失いつつあり、いつかはつんぼになり、杖をついて歩かねばならなくなる日が来ることを、予め話した。それでも、彼は私を採用してくれた。彼はとても善良な人間だった! だから、彼と仕事をするのが好きになった。

1996年の夏、補聴器を交換するために、何度もUIHC(アイオワ大学ヘルスセンター)に通院し始めた。晩夏に、とうとう私の聴覚が消えかかってきたので、眼科、OTO科、脳外科など色々な分野の医者たちから精密検査を受けた。そして結局、長らく患っていた私の病気が、なんと稀少難病「NF2」 (神経線維腫症2型)であると宣告された。私はショックを受けたいうよりは、むしろホッとした。というのは、なぜ私に脳腫瘍があり、平均感覚や聴覚が失われたのかが、はっきりし始めたからだ。ショックはあとでやってきた。ジワジワと身体を衰弱させる「不治」の (いまだに根治の方法が見つかっていない) 病であることが、わかったからだ。

母さんが私の4度目の脳手術についてきてくれた。それはその年の11月、私の孫ジェーソン2世が生まれてから8日後のことだった。 私はABI(聴覚脳幹インプラント、俗称「電子耳」)の挿入に同意した。ABIは当時まだ試験的なもので、UIHCでは私が3人目のモルモットだった。聴神経上の腫瘍が脳外科医のアーノルド・メネゼス博士によって除去されたのち、OTO医師ブルース・ガンツ博士によって、ABIが移植されることになった。

15時間半の手術後、ICU (集中治療室) にいる間、私は両足に感覚が全くなかった。一時的に腰から下が麻痺していた。もちろん、私は吐き気をもよおした。この吐き気は、今や脳手術後の自然現象になってしまった! 「 脳の中に挿入されたABIの位置が変わらぬように、できるだけ直立したまま吐くように」と医者から忠告された。足に感覚がないのは、麻酔のせいであることもわかった。 麻酔が切れるまで、かなり時間がかかった。あとで知ったことだが、摘出した腫瘍は1つのみではなく、3つもだった。それで、あんなに手術が長びいたのだ。また左の顔面が部分的に麻痺していた。しばらくして、一部の動きは回復してきたが、他の機能は不可逆的に失われた。

私が歩行不能になっていたので、両脚の血液循環を促進するための足ポンプを、医師が注文してくれた。明らかに、私はどこへも行けなくなった! 普通の食事もまた食べられなくなった。流動食からベビーフード、そして「ピューレ」へという食生活を、再び繰り返すことになった。看護婦たちが初めて私を散歩に連れ出してくれたとき、私の膝は両方とも、あたかも天に昇っていくかのように感じた。両側から支える看護婦たちに向かって、私は冗談を吐いたものだ。
「私は宇宙飛行士としては失格ね。無重力の世界では歩けないから」
私がまだ入院中に、母さんもぐあいが悪くなり、すぐ下の階に入院することになった。そこで、私は車椅子で、母さんの病室を訪ねた。私の脳手術から2週間半後に、2人ともそろって退院になった。私はまだ独りでは、歩けなかった。24時間ケアが必要だった。それに、2、3週間、物療(フィジオ)が必要だと、医師たちに忠告された。

2週間以内に、手術のために母さんがまた病院に戻らざるをえなくなった。そこで、母さんが数人の友達に頼んで、私のケア(看護)をアレンジしてくれた。私は、まだ歩行が不自由だったので、独りぼっちにはしておけなかったからだ。母さんの手術はうまくいった。そして、私も松葉杖をつけば、トイレまで独りで行けるようになった。しかしながら、前かがみがまだできなかったので、用を済ませた後、自分の始末ができず、友人の手をわずらわせざるを得なかった。

やがて、杖を頼りに独りで歩けるようになったので、毎日2時間の散歩を始めた。
これが我々多くのNF2患者の健康回復への道筋だった。とても時間がかかる。その間 (半年ほど)、我々は給料なしになり、最小限の生活を余儀なくされる。その後、フルタイムで働き始め、また車を運転し始める。しかし、7年後に訪れた(最後の)手術は、私の人生を「永遠」(不可逆的)に変えることになる。。。

解説: 「NF」(多発性神経線維腫)の発見から、治療薬の開発まで

通称「レック」(正式には、「レックリングハウゼン氏病」あるいは「NF1」) の最初の発見者は、ドイツの病理学者、フリードリッヒ・フォン・レックリングハウゼン(1833ー1910)である。彼は有名な病理/生理学者ルドルフ・ヴィルショウ(1821ー1902)の弟子の一人であるが、ストラスブルグ大学の学長をやっていた1882年に、この難病を初めて発見し、「皮膚の多発性線維腫と多発性神経腫との関係について」 という題名の歴史的な論文を発表した。

従って、2007年は、この難病の発見から125年目を迎えることになる。そろそろ、この難病の治療(特効)薬が開発され、市販されても、不思議ではない、と素人、特にこの難病に始終悩まされている患者たちやその家族が期待するのは無理からぬことである。しかしながら、その現実はかなり厳しい。

まずその病因が判明するまで、遅々として1世紀以上かかったからである。まず類似したように見える2種類のNF、つまりNF1とNF2との遺伝学的な区別がはっきり確立したのが1987年だった。当時、ボストンのハーバード大学付属病院、マサチューセッツ総合病院(MGH)勤務のバーント・サイジンガーらが、NF1病因遺伝子は、17番目の染色体にあり、NF2病因遺伝子は、22番目の染色体にあることを、初めてつきとめた。

NF2(神経線維腫症 2型)とは何か?

NF2は、シュワノーマ (神経鞘腫) とメニンジオーマ(髄膜腫)に代表される神経あるいは脳腫瘍を伴う難病で、その病因は、NF2と呼ばれる一対の遺伝子の両方が不活性化され、その遺伝子産物である「メルリン」と呼ばれる抗癌蛋白が正常な機能を発揮できなくなることによる。NF2患者の約半数は、親からの遺伝(つまり、片方の親のNF2遺伝子に変異があると、50%の確率で、その変異が子にも遺伝する)。他の半数は「孤発」といって、親の遺伝子状態とは無関係に、受精の初期に起こったNF2遺伝子上の変異によって発症する。NF2の発症頻度は、人口約3万人に1人といわれている。だから、稀少難病の1つと数えられている。

NF2の診断に今日最もよく使われている標準的な症状は、両側性前庭神経鞘腫 (シュワノーマ) である。最初の典型的な前駆症状は、耳鳴り、難聴、平均感覚の消失、視力の低下あるいは2重映像などである。最終的な判断には、NF2遺伝子診断や脳あるいは背骨のMRI診断などの精密検査が必要になる場合がある。

例えば、頻繁に視神経に障害をもたらす脳腫瘍「メニンジオーマ」の場合、半数以上はNF2であるが、残りの半数近くは、全く別の病因であることがわかっている。また、NF2患者の場合、健康人に比べて、アスベストによる悪性中皮腫(肺癌)の発生率が2倍以上になることが、最近報告されている。

NF2は、類似の稀少難病であるNF1(神経線維腫症 1型)とどう違うのだろうか? まずNF1は、カフェオレ班 (コーヒー色の斑点で腫瘍ではない!)、あるいはニューロフィブローマ(神経線維腫)やMPNST(悪性末梢神経鞘腫) に代表される表皮、内皮あるいは神経に発症する腫瘍を伴う難病である。さらに、NF1の病因は、NF1と呼ばれる一対の遺伝子の両方が不活性化され、その遺伝子産物(「RAS GAP」の一種で、抗癌蛋白)が、正常な機能を発揮できなくなることによる。NF1の発症頻度は、人口約3千人に1人といわれている。だから、NF2の発症頻度の10倍ほど高い。NF1の大半(9割)は、良性腫瘍で命に別状はないが、MPNSTを含む残りの1割は、死に至る悪性腫瘍(癌)である。MPNSTの5年生存率は、20%前後といわれている。

1990年になって、そのNF1「病因遺伝子」が単離された。つまり、NF1という抗癌遺伝子が変異によって、その機能を失うと、この難病に伴う種々の神経線維腫(NF)が発症しやすくなるということが判明した。更に、NF2の病因遺伝子である別の抗癌遺伝子(NF2)が、1993年になって単離された。従って、この難病「NF」の分子レベルの研究は、癌の研究に比べて、ずっと日が浅い。その上、NF患者の総数が、癌患者全体の数に比べて、極めて少数(1%以下)であることから、NFを研究しようという学者の数が極端に少ないばかりか、その研究を支援しようとする政府や民間の資金源が極めて乏しい。

だから、1998年になって、NF1腫瘍の増殖には、PAKという酵素(キナーゼ)が必須であると分かっても、誰もPAK遮断剤をすぐ開発しようとは、しなかった。メルボルンにある我々の研究グループが「PAK遮断剤」を本格的に開発し始めたのは、数年前(今世紀に入って)、過半数の癌の増殖にも、同じキナーゼが必須であることを突き止めてからのことである。そして、ごく最近になって、我々の手で、NF2腫瘍の増殖にも、PAKが必須であることが証明された。しかしながら、開発中の合成「PAK遮断剤」が市販されるまでには、延々10年近くかかる「治験」を経る必要がある。

従って、現在NFに苦しんでいる大多数の患者をできるだけ早く救うためには、市販されている (安全が保証されている)「健康食品サプルメント」製品の中から、有効な「PAK遮断剤」(食材)を緊急に開発することが、自ずから切望されている。そこで我々は、2006年の春以来、かような研究を欧州の「NF研究のメッカ」であるUKE(ハンブルグ大学病院)で開始したわけである。幸い、2007年の初夏に、ニュージーランド産の水溶性プロポリス・エキス、「Bio 30」がNFに有効であることが動物実験で証明され、NF患者を対象とする治験が、欧米や日本を中心に、我々の手で始められるようになった。

日本を含めてアジア諸国では、欧米と違って、NF患者たちは病気そのもの以外にもう1つの苦しみを今なお味わされている。それはNF患者やその家族に対する(社会にはびこる)陰湿な偏見や差別待遇である。その昔、(感染症である)結核、梅毒、ハンセン氏病などに苦しむ患者たちが社会から差別待遇を長らく受けていた。現在は医学の進歩のおかげで、これらの感染症は根治が可能になり、差別も影を潜めた。しかしながら、NF特効薬はまだ市販されておらず、さらにNF腫瘍の一種である皮膚にできる多発性腫瘍を「感染性」のおデキなどと勘違いしている無知な人々がインテリの中にも多く、NF患者あるいはその家族が就職や結婚の際、NFを理由にしばしば不正に、職場から追い出されたり、婚約が破棄されるケースが多い。

かような「無知と偏見からくる差別」を、日本の社会からできるだけ早く一掃するための運動の一環として、2005年の秋、我々有志がNPO「NF CURE Japan」をスタートさせた。NF腫瘍は癌と同様、単に遺伝子の変異によって起こる病気である。もし仮に、家族に癌患者がいるからという理由で、就職や結婚を制限したら、日本社会で職や伴侶を得られる者は、ほとんどいなくなるだろう (平均3、4人に一人は、一生に一度は癌にかかるからだ)。一億失職、一億独身で、日本民族はたちまち亡びるだろう。全く同じ理由で、NF患者やその家族から、職場や結婚のチャンスを取り上げる権利は、誰にもないのである。むしろ、我々健康人に代わって (3千人に一人の割合で)、「貧乏クジ」を引いてくれたNF患者たちに、感謝と労りの気持を抱いて接すべきだろう。それができない連中は (日本を滅亡させる)「人間のクズ」に等しいと、私は思っている。