I enjoyed reading this children's book shortly before I left Japan for the United States in 1973. I was around 30, and the book was a very good introduction (for me) to both RFK and American dream. Since then I stayed on overseas to enjoy both work and life with a free spirit.
In 2008, after 35 years later, another man from a quite different background is trying to realize the same dream that RFK had in 1968, but could not realize, due to a unfortunate tragedy shortly after the Convention in California. Barack Obama and RFK share the most attractive character, both the honesty and the courage to change the world.
I do hope Obama will win the November election against John McCain, a very old conventional Republican man, to change both US and the rest of this world with the spirit of RFK which is described in this fantastic 1970 book. It is a great shame that no book on RFK was published in Japanese so far.
ロバート・ケネディー: 敢えて夢を追う青年
その1 負けじ魂
「ボクが泳ぐのを見てて!」
と叫びながら、4歳の少年(ボビー・ケネディー)が小舟から海ヘ飛び込んだ。深いところで、ボビーにはとうてい足が着かなかった。溺れかかったボビーは咳込みながら、水を吐き出し、懸命になって両手でバタバタとクロール(犬掻き)を始めた。
彼の12歳になる兄ジャックは、いつでも飛び込んで、弟を救い出す用意をしていたが、ボビーは何とか自力で小舟までたどり着いた。ジャックは急いで弟を引っぱり上げた。
「相変わらず無鉄砲なやつだ。もうちょっとで溺れるところだったぞ!」
とジャックは笑いながら言った。
「ボクは泳げたよ。違うかい?」
とボビーが、そばかすだらけの顔から水を拭いながら、自慢げに言った。
「毎日泳いで、ずっとうまくなるぞ!」
ボビーとジャックは、コッド岬の沖でボート漕ぎをしていた。米国マサチューセッツ州のハイアニス港にあるケネディー家の夏の別荘の近くだった。そこからさほど遠くない沖では、長男のジョー(14歳)がヨットレースに挑んでいた。ジョーのヨットが真っ先にゴールインするや、ボビーとジャックはやんやと喚声を挙げて喜んだ。
少年たちの父親、ジョセフ・ケネディーは自分の息子や娘たちにスポーツを奨励し、ヨットレース、水泳大会、テニスの試合などに参加することを激励した。彼らは試合に勝つと讃められるが、負けると叱られた。ケネディー一家にとっては、勝つことが、三度の食事に匹敵するほど、大事だった。
「二番じゃ駄目だ。一番にならなければ駄目だ!」と父親は、口ぐせのように言った。
「二番や三番は数の中に入らない。トップになるのだ。絶対にトップだ!」
そんな父親に育てられたボビーは、成長すると共に、ありとあらゆるスポーツに参加するようになった。あたかも勝つことが死活の問題であるかのように。。。 ボビーは年令のわりに小柄だった。その上、9人兄妹の7人目だったので、兄妹同士の試合で、しょっちゅう勝つというわけにはいかなかった。それでも、常に最善を尽くした。
「生き残るために、常に修練が必要だった」とボビーが語ったことがある。
ロバート・ケネディーは、1925年11月20日に、マサチューセッツ州のブルックリンで生まれた。彼が生まれてまもなく、一家はニューヨーク市内に引っ越し、さらに近郊のブロンクスビルに移った。学齢に達すると公立の小学校に通学し始めたが、はにかみやのボビーには当初、友達がなかなかできなかった。けれども、帰宅すれば、いつでも一緒に遊んでくれる者がいた。2人の兄のほか、4人の姉、妹が一人、それに末っ子の小さな弟、エドワード(皆んなからはテディーと呼ばれていた)がいた。
ボビーにはペットもいた。「ポーキー」というブタ一匹と、自分の裏庭で飼育しているウサギが数匹いた。このウサギを大きく育てて、近所の人々に売っては、小遣いを稼いだ。ケネディー家は非常に裕福だったが、家の方針として、子供たちの小遣いは、できるだけ各人自分で稼ぐようにしつけた。そうすることによって、労働とお金の尊さを学ばせるためだった。
ケネディー家には、多くの奉公人が働いていた。車の運ちゃんの息子はボビーの友達だった。二人は一緒によく遊び、しばしば奇抜な冒険を計画しては、実行した。
ある日、ボビーとその友達は古い布地からパラシュートを2組作りあげた。それから、そのパラシュートをかかえて、ケネディー家のやかたの屋根まで登って、屋根の欄干からおそるおそる下をのぞいてみた。2人のパラシュート飛行士は、ぞっとした。イガグリ頭のボビーの顔がみるみるうちに真っ青になった。
「ボ、ボクが先に飛び降りるよ」とボビーが口ごもった。
「いや、ボクの方が先だ!」と友達の方が言い張った。
「オーケー、それならどうぞお先に!」とボビーが譲歩した。
ボビーの眼前で、その少年は、頭上にパラシュートをかかえながら、地面に向かって、屋根から飛び降りた。だが、恐ろしことには、パラシュートが開かなかった。
少年はどしんと地面に叩きつけられ、苦痛で悲鳴をあげた。びっくりしたケネディー夫人が、家の中から飛び出してきて、その少年をいたわってやった。ボビーに向かって、すぐ屋根から降りてくるように命じるや、夫人は急いで居間に戻り、医者に電話をかけた。
少年を診察し終わった医者は、こう言った。
「大丈夫だ。片足が骨折しただけだ」
「なんだ、片足が折れただけか!」とボビーはうらやましそうに叫んだ。
そして、独り言を言った。
「皆んなから同情を買う(あるいは注目の的になる)のに、足の骨折など安いものだ。今度は自分が
真っ先にジャンプするぞ」
その10 大統領選に出馬
1968年にボビーの親友たちはボビーが大統領選挙に出馬することを切に望んだ。しかしながら、ボビーはそれをかなり苦慮した。というのは、現職のジョンソン大統領が出馬するに違いないと、ボビーは信じていたからだ。現職の大統領が党内から指名されるのは、いたって容易だ。
民主党内のムードはジョンソン指名に傾いていた。しかしながら、多数の米国大衆はジョンソンによるベトナム戦争の処理のしかたに反対だった。
ジョンソンの人気が傾き始めたのを察したボビーは、「北ベトナム爆撃を停止し、休戦(平和)交渉を始めるべきだ」という主旨の演説を行なった。
まもなくジョンソンのベトナム政策に反対するミネソタ州の上院議員ユージン・マッカーシーが、民主党の大統領候補をめざして、活動を開始した。ボビーは、マッカーシーがニューハンプシャー(NH)の予備選挙で示す戦い振りを、興味深く観察した。予備選挙とは、各州の党員あるいは支持者が、全米の党大会以前に、大統領候補に対する自分たちの好みを表明する人気投票である。
NH予備選挙で、マッカーシーはなんとジョンソンと互角の戦いを占めし、全米をびっくりさせた。マッカーシーの健闘振りを見て、ボビーは民主党内が今や二分し、
ジョンソンが敗北する可能性をキャッチした。
1968年3月初め、ワシントンの上院会議室で大勢の聴衆を前にして、ボビーはまず「大統領に立候補する」ことを宣言した。会場には、妻のエシールや9人の子供たちも臨席し、全米向けのテレビで、その模様が中継された。ボビーはこう続けた。
「ベトナムや米国内での流血をストップするために、アメリカには新しい政策が必要だ。黒人と白人との間にあるギャップ、貧富の差、老人と若者たちの間にある格差をなくす政策が求められている」
マッカーシーがNH予備選挙で勝つのを見定めてから、ボビーが立候補したことに批判をする連中もいた。マッカーシーが大統領に選ばれるように、ボビーは応援すべきだ、と彼らは主張した。しかしながら、(本番では)マッカーシーには勝ち目がない、とボビーには思えた。逆に、自分が代わりに立派な大統領になるチャンスが十分にあると感じていた。
そこで、ボビー自身の人気を民主党内の有力な政治家(お偉方)たちに証明するために、できるだけ多くの予備選挙に参加する決心をした。まずインディアナ州の予備選挙に出馬した。
ボビーは州内を歩き回り、有権者たちに、「ベトナム戦争は米国に破綻をもたらす危険があるので、自分が大統領に当選したら、この戦争を停止する」と訴えた。さらに、「多くの米国大衆を苦しめている貧困を解消するために、多くのことをしたい」と約束した。戦争で浪費する代わりに、その莫大なお金で貧乏人を救うことができる、とボビーは考えた。
インディアナ州のいたるところで、ボビーは彼の演説を聞こうと詰めかけた大集団に取り囲れた。聴衆の中には、選挙資格がまだない21歳未満の若者たちが沢山いた。そこで、ボビーは満面に微笑を浮かべながら、こんな冗談を言った。
「今後将来は、(君たちも参加できるように)有権者を7歳以上にするよう努力しよう」
インディアナ州予備選挙の直前に、「ジョンソン大統領が再選を断念した!」というニュースを聞いて、びっくりした。しかしながら、ジョンソンはボビーを応援するわけではなかった。彼は自分の部下、副大統領のフーバート・ハンフリーを大統領候補に指名したかったからだ。ボビーは、インディアナ州予備選挙での勝利に、さらに自信を深めた。
4月の初めのある夕方、インディアナポリスの集会への途上、ボビーはテネシー州メンフィスで起こった悲報を聞かされ、大きなショックを受けた。黒人指導者マーチン・ルーサン・キング博士が暗殺されたというニュースだった。
インディアナポリスの大集会で、ボビーは待ち受けている聴衆に向かって、まずその悲報を告げる瞬間、思わず涙ぐんだ。その上、一種の戦慄さえ感じた。聴衆の中には、多くの黒人たちがいたからだ。ボビーは、その聴衆に向かって、こう訴えた。
「皆さん、暴力に対して暴力で対抗するのは辞めましょう」
「黒人である人々にとって、この事件は苦痛であり、いっそ怒りを爆発させ、敵を取りたいと思うでしょう。全米中で殺し合いを始めるのも、選択の1つです。しかしながら、故キング博士がこれまで努力してきたように、暴力を思いやりや愛情に置き換えるよう努めることも、もう1つの選択です」
「私の家族の一員(兄ジャック)も暗殺されました」
感情の高まる余り、ボビーの声が震えた。
「兄は白人に殺されました。しかしながら、この国に住む大多数の人々は、白人でも黒人でも、一緒に仲良く暮らし、生活水準を高め、正義を貫くことを望んでいます」
演説を済ませるや、ボビーはアトランタに住むキング博士夫人(未亡人)に電話をした。そして、彼女のためにメンフィスまでの飛行機を手配したいと提案した。夫人はありがたく、ボビーの申し出を受諾した。ボビーも他の候補者たちも、直ちに選挙運動を一時中止して、キング牧師の葬式に向かった。全米で牧師の急死を悼む最中、ボビーは自問し続けた。「一体いつになったら、こんな野蛮な暗殺はなくなるのだろう? 一体いつになったら?」
この小伝の完訳は、下記のホームページにあり:
http://happytown.orahoo.com/green-books/