2010年3月24日水曜日

「OBAMA: from Promise to Power」
(David Mendell) の邦訳

デビッド・メンデル著の英文伝記「Obama: from Promise to Power」は、
2008年の大統領選挙前に出版された。この選挙で、民主党候補のバラク・オバマ
上院議員は、共和党候補のジョン・マケインを圧倒的な差で破って、非白人
(アフリカ系黒人)として初めて、第44代米国大統領に当選した。それから
約500日目の2010年3月21日に、彼の公約の1つ、歴史的懸案であった
「医療制度改革案」を米国議会(下院)で小差で議決にようやく成功した。その瞬間、
彼は例の「Yes, We Can 」を告げるお得意のガッツポーズを見せて、ニッコリ笑った。
戦前、大恐慌の直後、民主党の大統領フランクリン・ルーズベルト(FDR)が
「ニューディール政策」の一環として、医療制度の改革に成功して以来の快挙である。

そこで、この本を、

皆んなの夢を実現した「オバマ」:「ホワイトハウス」への軌跡

という表題で、邦訳出版しようではないかというアイディアが浮かび上がった。
この本は、ベストセラーとなったオバマ氏の自叙伝「マイ・ドリーム」(少年時代
の回想) 以後、大統領選への出馬決意までの彼の半生、特にハーバード大学
(ロー・スクール) 時代や (「黒人奴隷解放」をやった大先輩、リンカーン大統領の
地盤である) シカゴでの政治家 (イリノイ州上院議員) としての活躍振り、上司であり
奥さんとなったミシェルとの出会いなど、円熟した「大人のオバマ像」(活動歴) が
客観的かつ生き生きと描かれた作品である。なるほど、「オバマの演説集」や
「少年時代の夢」については、既に出版されているが、それを裏付ける活動の
実際については、まだ日本語では出版されていない。オバマから (日本の政治家や
若者たちが) 学ぶべき最も貴重で、かつ今までの出版物に欠けていた部分
(「世界の指導者」になるべき素質を、社会に出て自ら育て上げるプロセス) を、
この邦訳で紹介しようというのが、我々の主旨である。

オバマ自身の言葉によれば、彼の大志の出どころは、(他界した)父親の期待に
答えるばかりではなく、父親の犯した失敗を繰り返すまいとする努力にあると。

貧困や差別に苦しむ多くの人々の生活をより良くするために、自分の素質をフルに
生かして 社会奉仕をすることが、彼の生涯の夢である。

この評伝は、 彼を巡る様々な環境下 (ハワイ、インドネシア、ロサンゼルス、ニューヨーク、
ボストン、シカゴ、ワシントン) で、オバマが有色人種として初の大統領になるべき優れた
素質を、いかに築き上げてきたか、その異例な知的成長の軌跡を、我々読者に雄弁に語りかけてくれる。

目次
1。 政界のスター誕生
2。 母親の夢
3。 ハワイ生まれの素朴な少年「バリー」
4。 コロンビア大学時代
5。 シカゴで社会奉仕
6。 ハーバード大学の優等生「バラク」
7。 ミシェルとの結婚
8。 州議会にデビュー
9。 大失敗
10。 作戦の立て直し
11。 戦闘準備
12。 イラク戦争 (侵略) に反対
13。 上院挑戦への第一歩
14。 政治的信条と女性ファン
15。 民主党内のライバル
16。 テレビ広告 (IT) の威力
17。 最初のハードルを突破
18。 中道左派路線
19。 共和党候補ライアンとの対決
20。 民主党大会での大飛躍
21。 上院議員に初当選
22。 大統領選への出馬準備
23。 南ア訪問
24。 ケニア訪問
25。 父親の故郷
26。 ホワイトハウスへの道


邦訳の出版予定のタイミングを、来たるべき2012年11月の大統領選挙 (オバマの
再選をめざす選挙) に合わせれば、邦訳にも時間がタップリ、売れ行きも上々、
というわけである。念願の「Health Care Bill 」(医療制度改革案)の議会
(下院) 通過後、久しぶりに甦ったオバマ大統領の明るい笑顔が表紙となる。
訳者による解説 (エピローグ) として、2008年の大統領選挙の推移、その直後の
世界的経済不況、オバマ政権の経済復興政策、イラク・アフガン (反テロ) 政策、
2009年のノーベル平和賞受賞の経過などを付け加えたいと思う。

なお、訳者の一人 (私) は、既に数冊の英文伝記 (主に、ノーベル受賞者の伝記) を
邦訳出版しているエキスパートである。 丸田 浩(67、豪州メルボルン永住)


第一章 政界のスター誕生

2004年7月27日午後に起こった出来事は、バラク・オバマを良く知ってい
る者たちの耳にも、ほとんど信じ難い現象だった。しかしながら、彼の自信たっ
ぷりな演技ぶりには、それ以上に常ならぬものがあった。

所は米国の東海岸にあるボストン市の中心、真夏の暑い太陽がさんさんと降り注
ぐ中、海軍センターの巨大なアレーナ(講演会場)で、その年の民主党の全米大
会が開催された。来たるべき11月に予定されている大統領選に向けて、最終的
に民主党候補の指名をするためだ。共和党の候補は現職の大統領ジョージ・ブッ
シュ(息子)に決まっていた。そこで、ブッシュ大統領の再選を阻むことのでき
そうな民主党候補が選ばれるはずだった。ボストンが会場に選ばれたのは、単な
る偶然ではなかった。最も有望な候補者であるアイルランド系のジョン・ケリー
(マサチューセッツ州選出)上院議員の地元が、ボストンだったからだ。当時ケ
リーに肉薄する有望な対抗馬は、ジョン・エドワーズ(ノースカロライナ州選出)
上院議員だった。従って、この全米大会では、ケリーとエドワーズとの決戦が予
想されていた。各州のデリゲート(選出代表)が一体どちらの議員に投票するか
が、最大の焦点だった。それ以外に、主に2つのイベントが注目されていた。大
統領候補を指名後、そのパートナーとなる副大統領候補を決定することだ。もう
1つは、4年後(次期)の大統領選に出馬しうる有望な政治家が2、3名、この
大会の基調演説を担当することになっていた。それが一体誰になるかが、民主党
の近い将来を占う大きな鍵になる。例えば、ビル・クリントン(当時、アーカン
ソー州知事)は、1988年の民主党の全米大会で、大統領候補としてマイケル・
デュカキス(マサチューセッツ州選出)上院議員を強く推薦する基調演説に成功
後、1992年の大統領選でジョージ・ブッシュ(父親)大統領の再選をみごと
に阻んで(前回の「デュカキスの敵」を破って)、自ら大統領に当選した。

さて、ケリーを推薦する基調演説者として、元大統領夫人ヒラリー・クリントン
(ニューヨーク州選出)上院議員の外に、若い痩せぎすの青年が壇上にさっそうと
初登場した。彼の名は「バラク・オバマ」、民主党出身の(イリノイ州選出)上
院議員候補に過ぎなかった。彼は白人ではなかった。しかし、黒人でもなかった。
彼は、ケニア出身の黒人を父親として、北欧系白人を母親とする、いわゆる「ハー
フ」(あるいは「間の子」)だった。従って、彼の肌色は、真っ黒でも真っ白で
もなかった。肌色ばかりではなかった。彼の考え方も、リベラル(進歩的)では
あるが、「ハーフ」(いわゆる「中道路線」あるいは、党派の利害を越えた「バ
イパーチザン」主義者)だった。つまり、白人側の立場を尊重すると共に、黒人
やその他の有色人種の立場も尊重した。オバマは基調演説で、立場の違いを越え
て、全米の有権者が一体/一丸となって、ケリー候補を支持しようではないか、
と大会に馳せ参じたデリゲートたちに強く訴えた。その演説は、ベテランである
ヒラリー・クリントンの基調演説を遥かにしのいだ、と言われている。いいかえ
れば、4年後の大統領候補選では、老練のヒラリーと新進のバラクが互角にしの
ぎを削るかもしれない可能性を強く示唆した。結局、ケリー候補がエドワーズ候
補を破って、2004年の大統領候補に指名され、次点のエドワーズと和解した
上、彼を副大統領候補として選んで、共闘路線を打ち出した。結果としては、不
幸にして、現職のブッシュ大統領が小差で再選され、米国の有権者は再び、もう
4年間の(「反テロ」を最大優先する)暗黒時代を迎えざるを得なかった。

しかしながら、リベラルな(民主党支持の)有権者にとって一つの救いがあった。

2008年の大統領選には、極めて保守的なブッシュ大統領は3選をめざして、
出馬できないことが予めわかっていたからだ。米国史上で、大統領の4選に成功
した政治家はたった一人だった。1932年から1945年(第2次世界大戦が
終了する直前に急死)にわたって、大恐慌から「ニューディール政策」などの大
改革で米国を救い、(日本による真珠湾奇襲をけっきに)戦争に参戦することに
よって、日独伊のファッシズム政権を打倒して、民主主義を世界に取り戻した、
民主党出身の「車椅子」政治家、FDR(フランクリン・ルーズベルト) だった。
しかしながら、戦後、米国の憲法が改正され、大統領は最大限、2期(8年間)
と決められた。従って、ブッシュ大統領は2009年の1月末に引退せざるを得
ない。彼が2003年に(ウソの理由で)一方的に始めたイラクの「泥沼戦争」
に飽き飽きした有権者は、2008年11月の大統領選挙では、このイラク戦争
を従順に支持してきた共和党の候補には、(誰が出馬するにしても)恐らくかな
り「辛い点数」を付けるだろう。従って、民主党候補の方がずっと有利であるこ
とが容易に予想される。当然、4年後の最大焦点は、一体誰が民主党候補として、
大統領選に出馬、指名されるかであろう。

さて、スイ星のごとく、2004年の民主党大会の晴れ舞台に忽然として登場し
てきた「オバマ」と名乗る雄弁な人物は、一体何者だろうか? その謎を解くの
が、この邦訳(評伝)の最も重要な役割である。勿論、オバマは2004年11
月に首尾よく上院議員に初当選を果したので、地元のイリノイ州(特に、州都シ
カゴ市内)の有権者には顔なじみだろうが、全米的には、ほとんど無名の存在だっ
た。言わんや、海のずっとかなたにある島国「日本」では、2008年の大統領
選の予備選挙が全米各地で展開され、オバマ候補がヒラリー候補に対して、優勢
を維持していても、オバマの名など知るインテリは出版界にあっても、ほんの小
数に過ぎなかった。ごく小数の例外は、福井県内にある小浜(おばま)市内の住
民(特に、商店街)が、「オバマを勝手に応援する会」を急きょ結成し、郷土名
産の「オバマ」団子や「オバマ」Tシャツなどを売り出して、同姓(同音)のよ
しみで「オバマ候補」を巧みに宣伝に利用するたくましい商魂と、2007年に
オバマの自叙伝「マイ・ドリーム」(少年時代の回想)の邦訳を、「先見の明」
をもって出版した「ダイヤモンド社」に過ぎない。

高校生時代、「バスケ」(バスケット・ボール)の選手だったと言われている長
身のやせ細った42歳の青年(オバマ)は、この党大会会場で、丸で試合の勝敗
を決定するフリースローを目標のゴール(リング)めがけて、確実にシュートす
るかのような姿勢で、上体を伸ばし、頭をしっかり立てて、一歩前進するたびに、
そのブルースーツの上半身を左右に振動させていた。

私(著者)は、「シカゴ・トリビューン」の新聞記者として、オバマ候補のイリ
ノイ州選出の連邦議会上院議員(各州から2名のみ選出され任期は6年であるが、
日本の参議院と同様、3年毎に議席の半数が交代で選挙の対象となる)を目指す
選挙運動をカバーするため、9カ月ほど前から取材活動を続けていた。オバマは
その当時、州議会の上院議員(総数60名)の一人に過ぎなかった。

私はオバマと共に、会場の警備チェックポイントを通過した直後、オバマが側近
から一時的に離れた瞬間を利用して、彼にすっと接近して、こう話し掛けた。
「この桧舞台で、多くの有力者から好感を持たれているようですね」
彼は前方を真っ直ぐ見据えながら、一歩も足を止めずにこう答えた。
「僕は、ルブロン級だよ、君」
ルブロンとは、全米「バスケ」界(NBA)の寵児、(当時19歳の)天才的な
オハイオ州出身の高卒(黒人)選手で、名門クリーブランドの「キャバリエ」チー
ムのルブロン・ジェームズを指す。
「僕は、彼に匹敵するようなゲームができるんだ。実際、ある試合に勝たんだよ」

私は、彼のせりふに余り確信が持てなかった。思案している内に、前進して来る
オバマの側近たちの群に巻き込れてしまったため、その親友の一人に話かけるこ
とになった。マーチー・ネスビットは党大会の途中でシカゴから飛んできて、オ
バマに合流した人物だ。私はネスビットに、その晩に予定されている(メディア
から注目を浴び、政界からの期待も大いにかかっている)オバマの基調演説につ
いて、どう思うかと尋ねてみた。
「やっこさん今週の始め、テッド・コッペルと同席しながら、うまくやっていた。
違うかね? オバマを眺めていると、オハイオの僕の母校(高校)のバスケのチー
ムのある選手を思い出すよ。奴はほとんどどんな試合状況下でも、いざという瞬
間が来ると必ず、決定的なシュートを決めることができる選手だよ」

その晩、オバマは全米の観衆に向って、自己紹介(デビュー)を見事にやっての
けた。彼は歴史に残るべき基調演説を演出し、(全米向けのテレビ中継を観なが
ら)保守的な敵方の解説者でさえ「深く感銘した」ともらしたほどだ。オバマの
豊かなバリトンの声が会場一杯に、はっきりとこだました。幼少時代を通じて、
彼の頭に深く刻み込まれた愛する母親からの言葉、全ての人類に共通な人間愛の
哲学、がこだまとして戻ってきた。
「アメリカという国は、良心的な人々の集まりである。互いに敵対せず、仲良く
助け合う市民たちの集まりである。自由と(全ゆる人々に)機会均等という共通
の目的によって結ばれた多数の個人の集合体である」
「リベラル(進歩的)なアメリカや保守的なアメリカなど存在すべきでない。
「アメリカ合衆国」というたった一つのアメリカのみが存在すべきだ。黒人のア
メリカ、白人のアメリカ、ラテン(メキシコ系)のアメリカ、東洋人のアメリカ
など、存在すべきではない。我々はたった1つの一丸にまとまったアメリカ合衆
国であるべきだ!」

アレーナの隅々まで、色々な州から馳せ参じた、様々な暮ら方をする、異なる人
種的背景を持つ民主党支持者の多数が、目元に涙をうるませていた。私の真後ろ
(上席)に座っていた女性が喜びの余り感極まって、こう叫んだ。
「まあ、歴史的な演説ね!」
私も沸き立った観衆を見回しながら、思わずこう叫んでしまった。
「すごいぞ、今夜のバラクはやっぱり、レブロン級だ!」

実は、2004年を通じて、オバマの地元であるイリノイ州のみならず全米的に、政
治的かつ文化的ムードが鋭く分極化していた。2001年9月11日(ニューヨー
クのツインタワーやワシントンのペンタゴン爆破事件)を口実に、イラクやアフ
ガニスタンで勝手に(反テロ)戦争を始めたジョージ・ブッシュ大統領に挑戦
(抗議)する民主党出身の大統領候補者たちの群れが、互いにしのぎを削っていた。

連邦議会の両院で、小数派の苦湯を飲まされてきた民主党は、11月の大統領選
でブッシュを破りうる強い候補を切望していた。これらの候補者の中から、最終
的には、ケリーが党の指名を勝ち取ったが、絶望気味の民主党陣営は、ケリーに
熱狂するところまではいかなかった。彼らはケリーが提供しうる以上の何かに渇
望していた。ある種の政治的な救世主、つまり民主党史上最も暗黒な時代から、
彼らを脱出させてくれるような、言わば「モーゼ」のような予言者的存在の到来
を待ちわびていた。なるほど、ケリーは大統領に当選しうる資質を持ってはいた
が、残念ながら彼の控え気味で、かつトボトボした大衆へのアプローチは、かの
(1968年の選挙直前に、不幸にして暗殺に倒れた)ボブ・ケネディーのごと
く熱狂的な大衆の魂をさらに魅了する救世主的な存在からは、ほど遠かった。

2004年当時、アメリカ全体では、イラク戦争についての意見が賛否5分5分
に分かれていたが、民主党支持層では、そうではなかった。当初はイラク戦争を
支持した多くの民主党の穏健派の目には、いわゆる「9/11」のテロ行為に対
して反射的に全米中に波紋していった愛国心の熱病は、既に冷めつつあるように
見えた。
片や民主党の左派グループにとっては、イラク戦争は、当初から大失敗以外の何
物でもなかった。シカゴ、サンフランシスコ、ボストンなど大都会の中心では、
「反戦」を訴える何千人もの抗議集会がたびたび組織されていた。シカゴでは、
反戦運動は大部分、整然とした非暴力集会だった。これらの反戦集会には、ラジ
カルな若者たちばかりではなく、(5大湖の1つ)ミシガン湖岸沿いに住むいわ
ゆる「リベラルなインテリ上流階級」からも参加者が多かった。2002年10
月(「多発テロ」発生から約1年後、イラク戦争開始の数カ月前)、シカゴ市内
の連邦プラザで、反戦を訴える集会が、ポール・サイモン元上院議員のスタッフ
やリベラルな大衆運動エキスパートなどによって、組織された。この集会のメイ
ン・ イベント(圧巻)は、まだ州議会(上院)議員の一人に過ぎなかったオバマ
による反戦スピーチだった。差し迫る(ブッシュ政権が開始を企てている)イラ
ク戦争を「無益な戦争」である、とオバマは聴衆に強く訴えた。現職議員で、公
然とイラク戦争に反対の意志表明をしたのは、恐らく米国内ではオバマが最初だ
ろう。

2003年の春、「ワシントン・ポスト」紙(首都ワシントンの主要新聞)が米
国内を日増しに2分する頑固な政治上、文化上の分裂(両極化)状態についての
レポートを掲載した。その記事は、政治学者たちが、「レッド」州(共和党の地
盤)ー「ブルー」州(民主党の地盤)現象と通称する政治的な分裂の硬直状態を
扱ったものである。「レッド」州とは、保守的な白人のキリスト教徒が多数を占
める、主に南部と中西部にある諸州とアラスカ州を指している。他方、「ブルー」
州は、ゲイ(同姓愛)グループ、少数派(有色人種)、大学卒のインテリが多数
を占める、主に大西洋岸(ワシントン市以北)と太平洋岸沿いの諸州とハワイ州
である。この「レッド対ブルー」(あるいは「農村部」対「都市部」)の対決は、
首都ワシントンの議場で、両院とも過半数を占める共和党と、少数派(野党)に
甘んじている民主党との間で、党派ばかりに固執する醜い争いとなって、反映さ
れていた。相手の立場を考慮し、相手の意見に耳を傾けて、両党が同意しうる妥
協案を生み出そうとする努力がほとんどなされず、虚しく堂々巡りが続いていた。
2003年の秋にあった中間選挙の直後、ピュー研究センターが発表した世論調
査の結果によれば、共和党候補のジョージ・ブッシュ(息子)が民主党候補のア
ル・ゴアを小差で破って、初当選した2000年秋の大統領選挙丸後3年間、ア
メリカ全体が政治や文化ばかりではなく、宗教上でも真っ2つに分裂しているこ
とが、改めて確認された。南部の住民たちが最も宗教的に献身的で、社会慣習が
因習的であり、国防問題に関して、いわゆる「鷹派」の急先鋒であるのに対して、
太平洋/大西洋岸の住民たちは、宗教に無関心で、生活スタイルが進歩的であり、
平和愛好家(主義者)が多い。シカゴ周辺は海岸には面していないが、湖岸に面
しており、その住民たちは(心のより広い)後者のジャンルに属している。

そのような、言わば「白か黒か」を迫る硬直した状態からできるだけ早く脱却し、
アメリカ全体の「団結」を図ろうではないと、ボストンで開催された民主党の全
米大会の基調演説で強く訴えたのが、計らずも肌の色が白でも黒でもない(キャ
ラメル色の)オバマ青年であったのは、極めて象徴的であった。オバマの母親は、
中産階級のカンサス州生まれのインテリ白人であり、素朴な「流浪の民」(開拓
者)精神を、息子(バラク)の心に植え付けた。父親は、ケニア出身の貧しい黒
人で、西洋の大学教育を受けるために、米国の名門ハーバード大学に留学してき
た、優秀な移民を代表する。オバマ自身は、主として白人の中で育ったが、少年
時代にはポリネシアン(ハワイ人)や東洋人(インドネシア人)と共に、学業生
活を共にした。彼は献身的なキリスト教徒で、シカゴ市内のサウスサイドに住む
(中産階級の)黒人出身のインテリ女性(ミシェル)と結婚した。余談になるが、
彼女もその兄もバスケの選手だったのは、単なる偶然ではなかったかもしれない
(詳しくは、第7章を参照されたし)。オバマは、シカゴ市内の貧しい黒人ゲッ
トー(貧民窟)で、いわゆる「地区オルガナイザー」としてボランチア活動をし
た。彼はコロンビア大学やハーバード大学などの名門(アイビーリーグ)大学で
教育を受け(法学を修得)、優秀な成績で卒業した。その後、彼はアメリカ中部
(イリノイ州)で州議会の上院議員を歴任した。従って、オバマは、(人種、階
級、文化の違いを超越して)アメリカという共和国全体を一体化(団結)させう
る、正に代表的な存在として、この桧舞台に登場したことになる。

続く

2010年3月9日火曜日

Malcolm Fraser: Enduring Liberal (MUP, 2010)

My favorite political party in Australia is "Greens" led by Dr. Bob Brown,
and I usually support "ALP" (Australian Labor Party) government, and never
"Liberal Party" which was founded by the PM Robert Menzies, but is bloody
conservative. However, I do respect Malcolm Fraser, the former PM (Prime
Minister, 1975-1983) from Liberal Party, who is the most progressive "liberal"
in the true sense. He was born in 1930, during the Great Depression, in
a farmland, located in the west of Melbourne. After graduated from Melbourne
Grammer in 1949, he went to England where Atlee's Labor Party governed,
to study at Oxford University. There he learned Keynes' s economics and Lloyd
George's liberalism. After graduated from Oxford in 1952, he returned to
Melbourne. In a few years he decided to enter the federal politics, and
in 1955, he was elected an MP (Member of Parliament) of Liberal Party. He
was called a "Hillary in Australia", as he was a tall and energetic young
lad as Edmond Hillary in NZ, who reached the summit of Mt. Everest in 1953.
Actually Fraser and Hillary resemble quite well. Both dedicated the rest
of their life to help poor or under-privileged people in Asia and Africa
by their own aid foundations.

Fraser became the leader of Liberal Party in 1975, and his party defeated
the Gough Whitlam's ALP government at 1975 election. Fraser governed Australia
for 8 years as PM, and did a lot of reforms, including the abolition of
"White Australia" policy by promoting the "multi-culturalism" and legislation
of Aboriginal Rights. Finally at 1983 election, his party was lost to Bob
Hawke's ALP, and he retired from federal politics. However, he continued
his liberal endeavor by creating "Care Australia", the largest
aid organization in Australia to help children in war-torn areas such as
Somalia, Iraq and Afghanistan, with many other CARE people including his
own daughter Phoebe.

Also since John Howard became the PM of Liberal-National Party coalition
in 1996, like Bob Brown of Greens, Fraser became among the most outspoken critics
against Howard's conservative policies including abuse of asylum seekers
(so-called "boat people") and involvement of Iraq War (blindly following
the Bush's US government).

The most entertaining section of this memoir, in particular to the so-called
"New Australians" (immigrants) including ourselves, would be the 10 pages
(416-425), which compares Fraser's and Howard's governments in immigration
and refugee policy. I got a feeling this section was prepared for Howard
to see the huge difference in their "liberal" leadership. After their retirement
from federal politics, Howard became the president of International Cricket
Association, while Fraser chaired both "CARE Australia" and "CARE International"
, perhaps reflecting precisely their past leadership.

Fraser still encourages young people to join the Liberal Party to transform
this "conservative" party to the truly "liberal" (progressive) in the future,
representing again the voice of minority (under-privileged people), as
Lloyd George (1863-1945), the founder and PM (1916-1922) of Liberal Party
in England, originally intended.

2010年3月6日土曜日

Malcolm Fraser: Political Memoir (2010)
「保守政党」出身の「進歩的」な政治家(豪州の元首相)

マルコム・フレーザー(現在、79歳)は、豪州の自由党出身の元首相である。
1975年から1983年まで首相として、豪州の政治改革に貢献した。最も特
筆すべき功績は、従来の「白豪主義」(白人中心文化)を捨てて、豪州を「多民
族文化国家」に切り換えたことである。ちなみに、豪州の2大政党は、保守的な
「自由党」と進歩的な「労働党」である。歴史的には、労働党と対等に対決する
ため、保守的な自由党は、更に保守的な(農村を地盤にする)国民党と連立して
政権を樹立してきた。従って、本来「保守的な」自由・国民党の連立政権のフレー
ザー首相が、このような政治改革に乗り出したことは、極めて画期的な出来事で
あると言わざるを得ない。

さて、フレーザー氏は、(1983年の総選挙で、労働党に破れ)首相を辞任し
て以後も引き続き、色々な形で、今日まで長年、豪州内外でさらなる政治改革に
活躍してきた。その1つは豪州の先住民族「アボリジナル」との歴史的な和解。
もう1つは豪州最大の難民救済活動団体「ケア 豪州」を創立して、世界中の難
民の救済のために、今なお精力的に献身している。この回想録は、フレーザー氏
が、単なる(自己満足的な)「自伝」ではなく、第三者的な立場で自分の政治的
生涯を、振り返ってみるため、原書ではジャーナリスト「マーガレット・シモンズ」を
語り手にして、両者の2年間にわたる対談を主に土台にして書かれた、客観性を
加味したユニークな伝記(約700ページ)である。

「基本的人権の擁護」が、彼の政治活動の根幹を成しているように、私には感じられる。
「性や人種や宗教の違いに基づいて、人を差別待遇してはならぬ」というのが、彼の生涯を
通じる強い信念であった。 メルボルンのずっと西方にある小さな農村で育った彼は、
メルボルンで高校生活を過ごしたのち、家庭から独立するために、戦後まもない1949年に
(クレメント・アトリーが率いる労働党政権下の)英国へ留学し、オックスフォード大学で
新しい物の考え方、特にケインズの経済論や自由主義をみっちり学んだ。 だから、この本の中で、
真の「自由主義」(リベラリズム)とは一体何かについても、、情熱的に我々に語りかけている。

1952年にオックスフォードを卒業して豪州に帰国してまもなく、彼は自由党の候補者として、
1954年の総選挙に初めて出馬する決意をした。その一連の選挙演説の1つで、彼はこう語っている。
「自由主義とは、単に共産主義や社会主義に対抗する政治思想ではなく、新しい物の考え方の1つである。
偏見や因習にとらわれず、自由に物を考え、それを実践に移そうとする姿勢である」。

翌年の総選挙前に、労働党が分裂した。漁夫の利を得た彼は25歳の若さで、見事に現職の労働党下院議員
を破って、初当選し政界入りを果たした。 折しもニュージーランドの長身で若い登山家「エドモンド・ヒラリー」が
最高峰「エベレスト」の初登頂に見事成功した直後であり、矢張り長身の若いフレーザーは、「豪州のヒラリー」
として、たちまち政界の桧舞台に立った (20年後に、彼は自由党のリーダーとして、自ら労働党政権を破って、
首相に就任する!)。

更に特筆すべきことは、フレーザーはヒラリー卿のように、東南アジアやアフリカ
の恵まれない人々の救済のために、常に骨身を惜しまぬ努力を生涯続けたことで
ある。

フレーザーは、政界から引退後、日増しに保守化する自分の党(自由党)の政策に
次第に批判的となった。特に、ジョン・ハワード政権が米国のブッシュ政権の尻
馬に乗って、イラク戦争に加担したことに反対の意を表したことは特筆すべきだ
ろう。 実は、フレーザーはベトナム戦争の末期に、国防相を担当していて、当時
のワンマンな首相(ジョン・ゴードン)と意見が噛み合わず、苦湯を飲まされた
(敢えて国防相を辞任した)経験があるからだ。 フレーザーの辞任は皮肉にも、
結局ゴードン首相の失脚をもたらし、進歩的な労働党のゴッフ・ウイットラム政権の
誕生を生み出すことになる。1973年の石油ショック後まもなく、短命に終わった
ウイットラム政権に代って、8年間の安定な政権を担当したのが、経済や外交問題に
強いフレーザー首相である。

今世紀にようやく確立した日本の保守的な2大政党(自民党や民主党)の政治家たちが、
この回想的伝記から学ぶべきことは、非常に多いと私は信じる。

なお、原書の出版社は、地元の「メルボルン大学プレス」である。