1993年に米国の登山家グレッグ・モーテンソンはカラコルム山脈にある最高
峰「K2」の登頂に失敗し、下山の途中、道を間違えて、パキスタンの貧しい山
村に迷い込んだ。住民たちの厚意に感動して、グレッグは村に再び戻ってきて、
学校を建てることを村人に約束した。本書は、その約束がもたらした意外な結果
を物語る。以来10年以上の間に、グレッグは55もの学校、それも女の子たち
のための学校を、(女性の教育を禁止していた)タリバンの本拠地である山奥
(パキスタンーアフガニスタン国境の散村)に建てることに成功する。この実話
はたちまち、不動の冒険心と善意の威力を象徴するベストセラーになった。
1953年にニュージーランドの登山家/養蜂家エドモント・ヒラリー(1919ー
2008)がネパール出身のシェルパ「テンジン」と共に、世界最高峰「エベレスト」
の登頂に初めて成功した後、地元ネパールの貧しい山村に、数十年もかけて、
多くの学校や病院/診療所を建てることに献身した(成功が、予期せぬ新たな
成功をもたらした)。ヒラリー卿も、グレッグ発案の「CAI」(中央アジア研究所)
プロジェクトに助成金を贈り、山奥の女学校建設(慈善)事業を後押しした。
本書は「失敗も成功をもたらす」一例を、我々に力強く教えようとしている。
なお、本書の中学生向け版は、「ここに学校をつくろう」という表題で、邦訳
(245ページ)がPHP研究所から2009年に出版されている。
第一章 登頂ならず
ペルシャの諺: 真っ暗にならないと、夜空の星くずは見えてこない。
パキスタンと中国との国境にある(わずか巾160キロメーターの)カラコルム
山脈には、世界有数の高山 (海抜6千メートル以上)が60ほどひしめき合ってい
る。その中で最も高いのが「K2」と呼ばれる (エベレストにつぐ) 海抜8611
メートルのピークである。「カラコルム連峰にある世界第二の高山」という意味で
名付けられた、槍の穂先のような険しい山である。厳しい環境の下、雪山豹や
野生の山羊以外の生物はほとんど、この無毛の万年氷河を行き来しない。
そこで、20世紀に入る前は、このピークの存在は、外界の人々にとっては、
単なる「噂」に過ぎなかった。
パキスタン側からインダス川を遡っていくと、まず「K2」の前面に立ちはだかる
難所が「バルトロ氷河」である。62キロメーターにわたる氷と岩からできた天
然の大聖堂である。1909年に西洋人の登山家として初めて、この大氷河に到
達したのは、イタリアの山岳地帯アブルッツィ出身の名登山家ルイギ・アメディ
オ男爵が率いる「K2」探検隊であった。しかしながら、この大氷河などにはば
まれ、イタリア隊は登頂を断念せざるをえなかった。その折、開拓されたのがい
わゆる「アブルッツィ尾根」と呼ばれる標準ルートである。それから半世紀ほど
経った1953年に、英国隊のニュージーランド登山家エドモント・ヒラリーと
地元ネパール出身のシェルパ「テンジン」が、エベレストの初登頂に成功した翌
年、イタリア隊(隊長アルディト・デシオ)がけん土重来をかけて、「K2」に
挑戦して、見事に頂上を征服した。日本遠征隊が初めて「K2」登頂に成功した
のは、それから23年後の1977年だった。隊長の吉沢一郎(1903ー19
98)と地元パキスタン出身の登山家アシュラフ・アマンが一緒に頂上に達した。
これが、イタリア隊に次いで世界で2番目の「K2」登頂成功例となった。エベ
レスト登頂に比べて、テクニカルにずっと難しく(2010年現在で、エベレス
ト登頂者は2700名以上に達するが、「K2」登頂者はわずか300名に過ぎ
ない!)、「魔の山」という異名を持つ「K2」に挑戦した登山家は、4人に1
人の割合で命を失っている。
従って、1993年9月2日に「K2」に挑戦したグレッグ・モーテンソン一行が
悪天候のため、登頂に失敗したものの、全員無事に生還できたのは、極めて幸
いな出来事だったのである。しかし、グレッグが下山の途中で、(迎えのジープ
が待つ)アスコルという村に向かう本隊の一行からはぐれ、道に迷った末、(目
的地から南東に80キロほどずれた)コルフェと呼ばれる貧しい散村に、地元の
ポーターと2人きりで、命からがらたどり着いたことから、この意外なドラマが
展開する。。。
実は、グレッグには12歳年下の可愛い妹クリスタがいた。妹の遺品であるネッ
クレスを、「K2」の頂上に登頂記念として、埋めることが、彼の夢の一つだっ
た。しかし、頂上まであとわずか600メートルという地点で、深い霧によって
行く手を完全に遮られ、無念の涙にくれながら、ネックレスをポケットに入れた
まま、グレッグは下山中に注意散慢になり、仲間から、とうとうはぐれてしまっ
たのだ。グレッグは少年時代をアフリカ大陸のケニアとタンガニカの国境近くに
あるキリマンジャロ(標高5900メートル、アフリカ大陸の最高峰)の山麓で
過ごした。ミネソタ州生まれの両親が、ここで長らく、ルーテル教会の伝道師と
教師をやっていたからだ。ところが、クリスタが3歳の頃、急性の髄(脳)膜炎
にかかってしまった。
不幸にして、病気から完全には回復できず、後遺症で知脳の発達がかなり遅れ
気味になった。そこで、母親にできるだけ自由な時間を与えるために、グレッグは
自ら進んで、クリスタの世話役を勝手出た。クリスタは毎朝、着替えという簡単
な動作にも一時間タップリ要したし、たびたび重症の癲癇にさいなまれた。それ
を助けるのが、クレッグの役目だった。更に、彼女のために、手仕事を探してやっ
たり、市内バスの路線地図を探してきて、彼女が自由自在に市内を回れるように
してやった。彼女がデートをし始めた時分には、避妊の方法までていねいに手解きして、
母親を赤面させたこともあった。
以後、彼が米国陸軍の衛生兵やドイツ駐留の小隊長をやっていようが、サウス
ダコダで看護士の資格を取る勉強中にも、インディアナの大学院で、クリスタの
癲癇の治療法を見つけるために、癲癇に関する神経生理学の研究中にも、あるいは
カルフォルニア州バークレーで、車住いの登山浮浪者暮らしをしている時でも、
グレッグはクリスタに毎年一ヶ月間、一緒に暮らすように説得したものだ。
クリスタを「インディ500」(カーレース)、ケンタッキー競馬、ディズニーランドなどに
連れていったり、当時の彼の「大聖堂」であったヨセミテの岩場に案内して、
この妹の目を楽しませた。
それから20年後、クリスタがちょうど23歳の誕生日を迎えた日に、両親の故
郷ミネソタから、母親と共に、アイオワ州ダイヤースビルのトウモロコシ畑まで、
思い出の旅行に出かける直前に、彼女は致命的なてんかん発作でとうとう死んで
しまった。その旅先は、クリスタが大好きで、何度も何度も繰り返して観ていた
懐かしの草野球映画「夢がいっぱいの畑」(1989年制作、ケビン・コスナー主演)
のロケがおこわれた場所だった。