2009年1月8日木曜日

「化学療法の父: パウル・エールリッヒ伝」
(エルンスト・ボイムラー著、1984年)



(一世紀昔)1910年12月、フランクフルト(マイン川河畔)。それはクリスマスの
2、3日前のことだった。フランクフルト市のザクセンハウゼン地区にある「ザントホフ
街」に、労働者の一群が梯子を担いでやって来て、通りの名札を取り換えて行った。
新しい通りの名前は「パウル・エールリッヒ街」となった。

フランクフルト市が「ザントホフ街」を改名したのは、その市で最も有名な市民、
パウル・エールリッヒの業績を永久に讃えるためだった。エールリッヒ博士は、
「化学療法」の祖(父)であり、当時(今日の「エイズ」のごとく)世界中で最も恐
れられていた伝染病「梅毒」をやがて撲滅させる特効薬(魔法の弾丸)である
「サルバルサン」(化合物606)の発見者だった。オーストリアの作家ステファン
・ツバイク(1881ー1942)は、その自伝「過去の世界」(1942年)で、その
時代を振り返って、こう描写している。

40年昔(世紀の変わり目)、性病は今日の百倍も蔓延していたことを忘れてはならない。
そして、最も大事なことは、今日の百倍も恐ろしい被害を及ぼしたことである。というのは、
当時の医者たちは、(エールリッヒ自身を含めて)梅毒の治療法について、全く知識が
なかったからだ。

免疫学の領域の進歩とジフテリア抗血清の開発に貢献して、1908年にノーベル医学賞を
与えられ、その直ぐ翌年に梅毒の特効薬を初めて開発したエールリッヒ博士が、
当時の新聞で、「科学のプリンス」と称讃されたのは、当然のことである。

ところが、28年後の1938年8月になって、別の労働者の一群が同じ通りに
現れ、黙々と「ルードビッヒ・レーン街」という名札に交換して行った。新聞に
は一切何の報道もなかった。時の独裁者ヒットラーは、エールリッヒ博士の名を
できるだけ速やかに葬り去りたかったからだ。 というのは、1915年に他界した
エールリッヒ博士は「ユダヤ人出身」だったからだ。 ナチス・ドイツはユダヤ人
ゆえに彼が残した多大の業績を全く無視したのだ。 エールリッヒ博士の未亡人
(ヘドウック)もユダヤ人ゆえに、迫害や生命の危険を感じて、娘たちと共に
米国へ亡命せざるを得なくなった(夫人は戦後も、自分の故国の土を再び踏む
チャンスもなく、1948年にニューヨークで他界した)。

皮肉にも (千年も栄えるはずだった) ヒットラーの「第3帝国」は1945年5月に
もろくも崩壊した。戦後まもなく、同じ通りに再び別の労働者の一群がやって来て、
「パウル・エールリッヒ街」という名札に取り換えて行った。さらに今回はその通りに
面する、彼が生前長らく所長をしていた「実験療法研究所」を 「パウル・エールリッヒ
研究所」と命名し、1952年には 「パウル・エールリッヒ・メダル」という
(化学療法に貢献した科学者に与える)新たな勲賞を設けるに至った (このメダルが
1980年に、抗生物質の開発と多剤耐性に関する研究に貢献した梅沢浜夫と
秋葉朝一郎へ日本人として初めて授与された)。

エールリッヒ博士の名誉回復はなされたが、エールリッヒ家の住まいだったフラン
クフルト市のウエストエンド街62番地は、(家族が米国に亡命後)廃虚同然に
なり、この偉大な科学者の名は、(伝記の出版や1940年のMGM映画「エー
ルリッヒ博士の魔法の弾丸」などが大評判になった) 英国や米国よりも、地元の
ドイツで、人々の記憶から薄れつつある。 さらに、エールリッヒ博士が1854年に
生まれた故郷、ストレーレン (元はドイツ領、現在ポーランド領)という小さな町では、
もはや誰も彼の名を知らない。 この町はブレスラウ地方にあるが、地元の
ブレスラウ大学に学ぶ若いポーランド人医学生たちにさえ、(自分たちの古い
先輩であるはずの) エールリッヒ博士の名は余り意味をもたなくなっている。
さらに、彼の(コッホ研究所時代の)親しい同僚で「血清療法」を開発したエミール・
フォン・ベーリング (1901年ノーベル医学賞受賞者、1854ー1917)と、エールリッヒ
博士を混同している者も少なからずいる。

そこで、彼の名が若い世代の脳裏から完全に消え失せる前に、彼のユニークな生涯
と研究業績を詳細に綴った「エールリッヒ伝」を出版すべき時期が訪れたと、著者は
感じたわけである。 ちなみに、彼は生前、北里柴三郎、志賀 潔、秦佐八郎など
数多くの優秀な日本人弟子 (細菌学者) を育てており、日本人読者にはなじみが
深い人物である (ポール・ド・クライフの不朽の名作「微生物の狩人」のアンカーとして
登場する)。

著者がエールリッヒの業績や生涯について知り始めたのは、1963年頃のこと
だった。製薬会社「ヘキスト」創立百年を記念して、「化学の世紀」という本を執筆
した時のことだ。 ヘキストの製薬部門についての章を執筆中、「サルバルサン」
とその発明者に遭遇することになる。さらに1964年に、次の本「魔法の弾丸
を求めて」(近代医薬の歴史)のため資料を収集中、そして、1968年に国際的な
癌研究に関する総説「劇薬」を執筆中にも、彼の研究に深く触れることになる。
さらに最近になって(1976年に)、梅毒に関する医学史と文化史「キューピッドの
毒矢」という本の中で、もちろん、彼が特別の役割を果たすことになる。

そこで、著者は科学者や社会問題の評論家などを中心とする「パウル・エールリッヒ
同好会」を設立して、エールリッヒ家の住まいを廃虚から救い出す活動を始めた。
当初の目標は、その家を買い取るに十分な資金を集めて、エールリッヒ博物館/
図書館にしようとしたが資金不足で それは実現できなかったが、その窮状を
世間が知るところとなって、ある住宅協会がその家を買い上げてくれ、協会の
事務所として使用するようになって、少なくとも「歴史的住まいの保存」には
辛うじて成功した。

のちに、「パウル・エールリッヒ研究所」(現在、Georg-Speyer-Haus 癌研究所)
内の元エールリッヒ所長室が「エールリッヒ博物館」として保存され、訳者が
1990年代中頃に招待講演のため、この地を初めて訪れたとき、例の黄色の
「サルバルサン」結晶標本がそこに安置されいるのを目撃した。

さて、エールリッヒと彼の親友であった(時には彼の「敵」にもなった)エミール・
フォン・ベーリングの生誕125周年を一緒に祝って、ヘキスト城でエールリッヒ
展示会などが1979年に開催された。この伝記は(5年遅れになったが)
その記念祭の一環として出版するものである。なお、2004年にはエールリッヒ
生誕150周年を記念して、国際化学療法学会がニュールンベルグで盛大に
開催された。


1。 生い立ち

私が敬意を評したい偉人とは、人道的な立場に立って、偉大な活動をなし遂げた
人物のみである。 ヴォルテール


パウル・エールリッヒが生まれた時代は、医学や自然科学が飛躍的な発展を遂げ
ようとした時期だった。半世紀以内に、細菌学、微生物(ウイルス)学、免疫学
が全て、新しい足場を確立した。ドイツの誇る「三大偉人」、ロベルト・コッホ、
エミール・フォン・ベーリング、パウル・エールリッヒが、フランスのルイ・パスツール
と共に、科学の世界を一新し、医学をいまだかつて想像しえぬほどの高いレベルに
磨き上げた。

コッホの父親は、普通の坑夫から始めて、クラウスタール炭坑の上級管理者に
昇進した。ベーリングの父親は西プロシャ地方の校長だった。同様に、エールリッヒ
家も勤勉な、かつ人々の尊敬を集めていた市民(酒屋)の出身だった。
パウルの父方の祖父ヘイマン(1784ー1873)は、ドイツの偉大な博物学者
アレキサンダー・フォン・フンボルト(1769ー1859)をひどく称讃し、科学上の
様々な疑問を解くために、自分の書斎に大きな書庫をもち、のちに自分の孫である
パウルを、その素晴らしい書籍の宝庫で堪能させたが、生活費は居酒屋や
トウモロコシ雑貨商などで稼いだ。同様に、母方の祖父アブラハム・ワイガート
(1785ー1868)も、シレジア北部のローゼンベルグで仕立て屋や酒屋な
どで生計を立てていた。その娘ローザ・ワイガート(1826ー1902)とパウルの
父親にあたるイスマール(1818ー1898)との結婚は、いわば「酒屋同士の縁」
だった。というのは、イスマールもシュトレーレンで小さな酒屋(醸造所)を経営
していた。妻ローザは働き者で非常に実用を重んじた女性で、1854年に生まれた
息子パウルをとても大事に育てた。

エールリッヒ家の宗教上の習慣については、はっきりわからないが、エールリッヒ
博士の秘書であるマーサ・マークアルトによれば、パウルはユダヤ教の教えを信
じていたようである。もっとも、ユダヤ教の戒律や習慣に厳密な形で従っていた
わけではないが。

パウルの天才を示唆するような少年時代のエピソードを2、3披露するとしよう。
9歳の頃、近所の薬局で自前の処方箋に従って、風邪薬(飲み薬)を調剤したこ
とがあるそうだ。リングガッセにいたころ、パウル少年は自宅の台所を実験室代
りにして、料理用鍋、ミルクジョッキ、びん詰め、一式の化合物を使って、思い
存分実験遊びを楽しんだといわれている。パウルは仕事に熱中し始めると、しば
しば他の仔細なことを忘れてしまう傾向がある。彼が立派な科学者になってから
も、こんなことを冗談混じりに白状したことがある。
「(ガリレオが主張したように)地球が本当に太陽の回りを回転するのか、それ
とも太陽が地球の周囲を回るのか、一体どちらが正しいのか、今でも確信が持て
ないね。我々庶民の日常生活には、どちらに転んでも全く支障ないからね」

彼自身は、学校で優秀な生徒であったとは思っていない。短い自伝の中で「私は
学校で、非常に無関心な生徒だった」と述べている。
「有名なノーベル賞化学者オストワルドが、学校とは規則が厳しく重苦しい所だ、
と言っているが、私も同感だ。私は、非常に幼いころから、自由を謳歌する精神
が旺盛になっていた。その精神は私の生涯を通じて一貫していた」   
とはいえ、彼は優秀な生徒だった。もっとも国語(ドイツ語)の作文が大の苦手
だったようだが。彼はまず、シュトレーレンの小さな小学校に通学した。その後、
ブレスラウにあるマリア・マグダレーナ初等中学校(8年制)に通い始めた。この
学校は有名なマリア・マグダレーナ教会の灰色の厳かな建物のすぐ隣にあった。
パウルの(5年後半と6年前半の)担任教師だったルードルフ・ターディは、彼
のことをはっきり憶えていた。
「パウルは、勤勉さ、熱心さ、知識の深さで、他の大部分の同級生を圧倒してい
た。特に私が彼について感心したのは、その謙虚さだった。それはクラスで一番だっ
た。もし、私がギリシャ語の授業だけで、ドイツ語を教えていなかったら、きっと彼
に満点をあげただろう。残念ながら、彼のドイツ語は平均以下だった。彼の作文
は読むに堪えなかった」
パウルは成人してから、最も明確な科学的論文を書くようになったが、学校時代、
ドイツ語の作文でひどく苦労をした。そのために、大学入試に危うく失敗すると
ころだった。

しかしながら、彼の従兄カール・ワイガートが化学染料、特に有機(アニリン)色素を
いったん紹介するや、パウルの学問熱に顕著な転機が訪れた。著名な科学者
であるカールは、パウルの後生に非常に多大な影響を与えることになる。カール
は(シュトレーレンからわずか5キロほどの)シレジア地方の小さな町で、1945年
3月10日に生まれた。だから、カールはパウルの9歳年上にあたる。パウル同様、
カールはブレスラウのマリア・マグダレーナ初等中学校で学び、さらにブレスラウ、
ウイーン、ベルリン大学で医学を修得した。独仏戦争(1870ー1871)中、
軍医を務めたのち、ブレスラウに戻り、万聖病院の内科診療所の有名な内科医
レーバート教授の助手になる。

しかしながら、カールの興味を最も強く引き付けたのは、細菌学だった。特に、
細胞に秘める謎を解くのが、彼の最大関心事だった。そこで、カールは色々な色
素を使い始めた。というのは、その2、3年前に、エルランゲンの解剖学者ジョ
セフ・フォン・ゲルラックが、色素を使うと、顕微鏡下で組織の詳細を観察する
際、解象力が数段増すことを示していたからである。「組織染色学」(芸術的な
科学)という言葉を初めて導入したのは、フォン・ゲラックその人だった。植物
由来の色素を使って、細胞の核を深青や赤に、筋肉組織をピンクや黄色に、血球
をオレンジ色に染め分けた。

カールは、植物色素の代りに、新しい合成アニリン色素、例えばメチレン・バイ
オレットを当初試してみた。 のちに、(化学者ハインリッヒ・カロが発明した)
エオジン、メチレンブルー、フクシンなどを使い始めた。 「ミクロトーム」という
機械を初めて使い始めたのもカールだった。この機械で薄く切り出された組織
切片を、スライドガラス上に固定後、上記の色素で染色するわけである。

ある日、パウル少年が従兄カールの家を訪ねると、従兄が染色した組織切片をちょ
うど顕微鏡で観察している最中だった。 その組織標本をのぞいて見たパウルは、
細胞の種類や部分によって、(ある特定の色素に)強く染まっている箇所と
ほとんど染まっていない部分があることに気づいた。

パウルはこの発見から、次のような結論を導きだした。ある特定の色素は、ある
特定の細胞や細胞顆粒に強い「親和性」(結合力)を持っているに違いない。も
し、そうだとすると、色々の色素を使って、それぞれに選択的な親和性を示す色々
な細胞(あるいは細胞顆粒)を染め分け、分類することができるはずである、と
パウルは考えた。

色々な細胞に対する色素の持つ「親和性」の違いという概念は、そののち彼の
研究の根幹をなし、梅毒菌「スピロヘータ」に選択的な親和性を持つアニリン色素
「606」 (特効薬サルバルサン)の発見を導くことになる。

パウルの研究者としてのキャリアにとって重要な次のステップは、有名な解剖学者
ハインリッヒ・ワルデヤーとの出会いであった。1872年の夏、パウルはブレスラウ
大学に入学して、ワルデヤーの指導下に入った。ワルデヤーは当時、生理
学者ルードルフ・ハイデンハインの助手だった。 ところが9月にワルデヤーが
ストラスブルグ大学の教授に就任したので、パウルは師のあとを追って、ストラス
ブルグに移った。しかしながら、ワルデヤーの解剖学研究所は、ある教会を改造
したもので、講堂、講義室、解剖室などがあるだけの極めて貧弱な施設だった。

中略

ワルデヤーの回想録(1921年)には、実験(主に、組織染色の顕微鏡観察)
に毎日明け暮れる学生パウルの様子が記述されている。

やがて彼の実験台一面が、まるで虹鱒のごとく、七色の色素に染まり始めた。ある
日のこと、彼の実験台に近づいて、一体何をやっているのか、彼に尋ねてみた。
彼曰く 「ただ今実験中です!」。 「よかろう、続けたまえ!」と、私は彼の「実験」
なるものを励ました。

パウルが調製した組織染色のスライド(プレパラート)を顕微鏡で観察してみる
や、ワルデヤーは、パウルには細かい指図は不要であることに、すぐ気づいた。
「パウルは、稀れにみる才覚を持つ学生だった。彼は私の指導をほとんど乞わず、
始めからほとんど独立独歩に実験を進めていた。こういう学生には、最初の一歩
を教えさえすれば、あとは自分でどんどん前進し、新しい道を独自に切り開いて
いくものだ」

中略

明けても暮れても染色に没頭するパウルは、やがて同期生仲間から面白い半分に、
色んなあだ名を頂戴することになる。 しかしながら、彼は周囲の評判に全く無頓
着だった。自分がめざすものをはっきりと自覚していたからだ。 のちに彼はこう
表現している。
「科学の世界で大成功するためには、釣り場を余り変えてならない。私は母ゆず
りで、実利的な考えの持主だ。私は常に、自分に役立つ可能性のあるものしか読
まない。学生時代に、既に私は現在でも取り組みつつある化学療法への道を歩む決意
をしていた。だから、次の学期に何を学ぶべきかをハッキリ心得ていた。私は自分の
アイディアに徹するつもりだったので、大学の講義に出席するのをもうやめた。
私は当時進行していることには興味がなかった。成功の鍵は、将来何が必要かを
見通すことである (時代に先駆けなければならない!)」

1874年3月に、ストラスブルグ大学医学部の進学テスト(臨床コースを始める
前の試験)を優秀な成績でパスしたパウルは、アドルフ・フォン・バイヤー
(1835ー1917)の研究に注目し始めた。バイヤーは、ベンゼンの化学構造
(6員環)を決めたアウグスト・フォン・ケクレの弟子で、インディゴの合成で世
界的に名をとどろかせた有機化学者で、1905年にノーベル化学賞をもらって
いる。 さて、バイヤーは1871年から1875年まで、ストラスブルグ大学で教授を
しており、パウルの化学の審査にもたずさわった。バイヤーは同僚のワルデヤー
にこんなことを言ったことがある。
「パウル・エールリッヒが授業に出てきたのをみかけたことはない。しかしながら、
彼にすばらしい組織染色標本を調製する才能があることを聞いている。従って、
きっと彼は化学に秀でているに違いない」
エールリッヒは、のちにそれに同意している。
「確かに、私は化学を最も得意とする。頭の中にすぐ化学構造が浮かび上がって
くる」。

次に、エールリッヒは鉛中毒について注目した。特にキエフ大学の講師である
エミール・ヒューベルの単行本「慢性鉛中毒症状と病理」に登場する次のような
仮説に魅せられた。

薬や毒と呼ばれる色々な物質と特定の組織との間には、疑いもなく選択的な親和
性が存在する。この親和性の違いによって、特定の組織に対する薬効や毒性が
自ずと決まってくる。

エールリッヒは、この本を読み終わって、彼の有名な「座右の銘」を確立した。
「結合せぬ物に反応(薬効や毒性)なし」

中略

エールリッヒは学生時代に、「近代細菌学の開祖」として尊敬を集めていた
ロベルト・コッホ(1843ー1910)に初めて出会う機会を得る。 当時、コッホ
はまだ片田舎ウオルシュタインの開業医に過ぎなかった。

コッホは独仏戦争(1870ー1871)に (近眼にもかかわらず)軍医として
従軍したのち、1872年にウオルシュタインで開業医を始めた。診療のかたわ
ら、コッホは自宅(白山への道、12番地、1930年代以後は「コッホ博物館」
として保存)で細菌学の研究を始めた。

大学や研究所と無縁なコッホは、結核やコレラなどの病理研究の前に、まず
地元の農民たちの訴えに応えて、炭疽という家畜の伝染病に注目した。地元
ポーゼン地方では毎年、数百頭の家畜がこの感染によって死んでいたからだ。

コッホが発した最初の疑問は、炭疽とは生きた病原体によって引き起こされる
ものかどうかであった。アロイス・ポレンダーとカシミア・ダベインは犠牲になった
家畜の血液 (炭のように黒い)に、しばしば謎のかん状菌を観察していた。
しかしながら、それが病因であるという証拠はまだなかった。そこで、コッホは
私財を投じて高価な顕微鏡を購入した。

1876年にコッホは、このかん状菌を純粋培養し、それが炭疽の病原体(炭疽菌)
であることを証明した。 しかしながら、その発見を論文として発表する前に、2、3の
有名な病理学者にその確認(追試)を依頼した。その一人がブレスラウ大学の眼科
教授であったヘルマン・コーンだった。1876年4月末、コッホはブレスラウの植物
生理学研究所を訪れ、専門家の前で追試実験を披露した。エールリッヒがコッホ
に初めて遭遇したのは、その際だった。 というのは、コーン教授の同僚であり
友人でもあるジュリウス・コーンハイム教授がコッホの追試実験にひどく感動し
て、病理学研究所の助手や学生たちに、それを触れ回ったからだ。奇遇にも、
その主任助手がエールリッヒの従兄カールだった。 エールリッヒがこの絶好の
機会を逃すはずはなかった。

エールリッヒが弱冠32歳の医者コッホに会えて、深く感動したのは言うまでも
ない。 いつか将来、もし機会があれば、この大家の下で存分に研究したいものだ
という熱い夢を、エールリッヒは秘かに抱き始めた。

コッホは1880年にベルリンに移り、1882年に結核の病原菌をついに発見し、
世界的に有名になる。翌年にはエジプトでコレラ菌も発見し、細菌学の世界的
権威になる。1885年にベルリン大学の教授に抜擢される。さらに1890年には、
結核菌ワクチン(結核菌由来の「PPD」を含む蛋白性エキス)を利用して、
「ツベルクリン反応」と呼ばれる結核の早期診断法を発明した。翌年、ベルリンに
プロシャ伝染病研究所 (のちに、「ロベルト・コッホ研究所」ヘ改称)が創立され、
その研究所の所長に就任する。1905年には、彼の結核に関する研究に対して、
ノーベル医学賞が授与される。

なお、彼が提唱した感染症の病原体を証明するための基本指針「コッホの3原則」は、
今日でも病原体発見の基準(金字塔)として、尊重されている。1。病巣に、病原体と
思われる細菌、ウイルス、原虫などが存在することを確認する。 2。その病原体を
純粋に培養する。 3。単離した病原体によって、感染症を発生させる。

以後、コッホの下に、破傷風やジフテリア毒素に対する抗血清を共同で開発する
北里柴三郎(1853ー1931)やエミール・フォン・ベーリングなどの若い著名な
「微生物の狩人」たちが、続々と馳せ参じる。 のちに、エールリッヒ自身も結核菌の
染色に成功したのち (温かいエジプトの地で、しばらく肺結核の療養を済ませた後)
ベルリンのコッホ研究所で、微生物の狩人仲間と共に、(ノーベル賞に輝く)「近代
免疫学」を確立する運命をたどることになる。

1878年にエールリッヒは学位論文を、ブレスラウ大学ではなく、ライピツィッヒ
大学に提出した。というのは、彼の指導教官であるコーンハイムや従兄のカー
ルが、その年にブレスラウからライピツィッヒへ転勤になったからだ。論文の
題名は、組織染色の理論と実践への貢献。1部、染色の化学的概念、2部、
アニリン色素の化学、衣料染色、組織染色。

この学位論文で、エールリッヒはまず、衣料染色と組織染色の根本的な違いを
はっきりさせた。当時の衣料染色の対象になる線維の種類は、羊毛、木綿、絹など
極く少数に限られていた。ところが組織染色の場合、対象はほとんど無尽蔵だった。
骨、筋肉、分泌腺、脳、血液などの異なる細胞をまず染め分け、さらに同じ細胞
内の核、細胞質、特定の細胞顆粒などを染め分けなければならない。従って、各々
の細胞や細胞内コンパートメントを特異的に染める色素をいくつか、同時にうまく
組み合せなければならない。組織染色には単純な衣料染色にくらべて、ずっと
高度に洗練された技術が必要である。 いいかえれば、「化学の粋」を集めて、
いわゆる芸術の領域にまで達することが要求される。 エールリッヒが、従兄の
カールをいみじくも 「組織染色の芸術家」 と呼んだ由縁はそこにあった。 のちに
エールリッヒ自身は、従兄を凌いで「色素の達人」になり、アニリン色素にヒ素を
結合させた最初の化学療法剤「サルバルサン」を開発することになる。その基礎は
既に彼の学位論文にあった。

さて、医学士の学位を取得し、既に組織染色の権威になっていたエールリッヒは、
医学と化学が新しい大連繋を形成し始めた当時、就職先を見つけるのにそう時間
はかからなかった。 1878年に、ベルリン最大の有名な病院、通称「シャリー」
(現在、ベルリン大学付属病院)の内科医フリードリッヒ・フォン・フレリックス教授が、
エールリッヒを助手に採用した。 こうして、彼は(コッホがいる)憧れの首都ベルリン
に移るチャンスを得た。


2。シャリー時代

「シャリー」はベルリン市の東側 (旧東ベルリン) にあり、現在、欧州最大の総
合病院である。「シャリー」は300年の歴史を誇り、1709年にフレデリック大王の
父親フリードリッヒ・ウイルヘルム一世(1688ー1740)によって、まず
「伝染病研究病院」(プロシャ伝研)として創設された。その後、(東プロシャに)
蔓延していた伝染病の流行がようやく治まった1727年頃に、啓蒙的な
国王の指示により、貧しい人々のための「慈善」病院として生まれ変わり、
「慈善」を意味するフランス語「シャリー」(Charite) が新しい病院名になった。
その後、軍医(特に外科医)を訓練する研究所としても使用されるようになった。
エールリッヒが勤務し始めた当時、「シャリー」の所長は、厳しいが親切な外科
出身の将軍メールハウゼンだった。

エールリッヒのボス、フレリックス教授は「実験臨床医学の父」と呼ばれ、患者
の世話と研究を両方とも重視していた。そこで、自分の助手たち、特に
エールリッヒにも患者の診察と研究の進歩に等しくエネルギーを精一杯注ぎ
込むことを期待していた。

中略

さて、1882年3月4日、寒いどんより曇った日に、コッホはベルリン生理学会の
図書室で、「結核について」という表題の歴史的講演をやった。その講演会の
場所は、恐らくコッホと(結核は「栄養失調」から発生すると飽くまで固執する)
医学界の大御所であるビルショウとの間にある(1876年の炭疽菌発見以来の)
数年にわたる確執から、選ばれた模様である。さもなくば、ビルショウ自ら、
コッホの講演を「シェリー」の大講堂で大々的に主催したに違いないからだ。
聴衆の一員であったエールリッヒは、その講演の模様をこう記述している。

生理学研究所の小さな部屋で、コッホは簡潔かつ明確な言葉で、結核という伝染
病の病原菌について、誰にも納得できる形で説明した。彼の主張は無数の組織染
色標本によって、裏付けられていた。その場にいあわせた全ての聴衆が彼の講演
に強く感銘した。私の生涯中、最も偉大な科学上の体験として、いつまでも私の
記憶に残っている。

コッホの講演内容はまもなく、週刊誌「ベルリン医学」に、「結核の病因」という
タイトルで大々的に報道され、さらに4月に開催された内科学会での彼の同様
な講演は、世界中にセンセーションを巻き起こした。人類にとって当時最も
恐れられていた難病の1つがついに克服される日が、そう遠くないという印象
(希望)を万人に与えた。

しかしながら、コッホの結核菌染色法はまだ不完全だった。熟練した専門家に
しか細菌がはっきり観察されなかった。そこで、その忘れえぬ夕べの直後、
エールリッヒはコッホから結核菌の培養液をもらい、メチルバイレットで、染色が
ずっと改良されることを見つけ出した (この改良法は、数年後にエールリッヒ自身の
肺臓に巣くう結核菌を、簡便に早期発見するのにも役立った!)。

中略


3。 結婚、研究、そして肺結核

「研究の鬼」と喫煙(ハバナの葉巻を頻繁に吸う)癖で知られるエールリッヒには、
私生活の余地(特に、若い女性とロマンスを楽しむ時間)などが全くなさそうに
みえたが、意外にも、28歳のエールリッヒは秘かに結婚を計画していた。

ベルリンに住むある親類を訪問した際、彼は18歳のヘドウック・ピンカスに出
会った。彼女の父親であるジョセフ・ピンカスは、商業参事官(実業家)で、
シレジア地方のノイシュタットで大きなリンネル製造工場を経営していた。
1870年代にドイツに産業革命の波が押し寄せる前から、この事業から多大の
恩恵を受けていた。

ヘドウック自身はノイシュタットの高等女学校で最高級の教育を受け、近代文学
や語学に強い関心をもっていた。しかしながら、彼女は同時代の若い世代に多く
みられる感傷的なセンチメンタリズムに酔う傾向はなかった。 つまり、彼女は
極めて理知的な女性で、自分が一体何を欲し何をなすべきかを良く心得ていた。
従って、この前途有望な若い科学者が近い将来、彼女を伴侶として痛く必要と
していることに、すぐ気づいた。

恐らく、2人の出会いは単なる偶然でなく、両方の両親によってそれとなくアレ
ンジされたものだろうが。財政的な面でも、エールリッヒ夫人たるべき女性は、
自分で全てを賄う必要があった。というのは、エールリッヒも自認しているように、
彼はやや浪費家だったからだ。といっても、彼の浪費は書籍類や葉巻ぐらい
のもので、研究以外のこと、例えば衣類などには、彼はすこぶる無頓着で、
いつも大き目のスーツや靴に満足していた。

1883年の夏のベルリンはエールリッヒにとって、それまでになく美しく感じ
られた。2人は8月14日に、ノイシュタットのシナゴグ(ユダヤ教会)で結婚
式を挙げて、ベルリンのルッツォ街88番地に新築したアパートに引っ越した。

中略

1884年にエールリッヒは、ベルリン大学医学部から教授というタイトルをもらう
稀れな栄誉を得た。当時、彼はまだわずか30歳そこそこだった。彼の尊敬
すべき上司であるフレリックス教授の下にいれば、エールリッヒがベルリン大学
の教授へ昇進するのは、単に時間の問題だけだった。

ところが、間もなく大変な悲劇が起こってしまった。1885年3月に、フレリックス
教授が不意に自殺し、エールリッヒの幸運が瞬く間に消え失せてしまった。
大幅な人事異動の結果、カール・ゲアハート教授がエールリッヒの新しいボスに
なったからだ。この新しい上司は、不幸にして基礎研究よりも臨床(患者の診察)
をずっと重んじる人物だった。以後数年間、この上司と(研究好きな)エールリッヒ
との関係は、日増しに悪化の一途をたどることになる。

中略

さらに別の不幸がエールリッヒの上にのしかかってきた。1988年の初冬、咳
がひどくなり、念のため自分のたんを組織染色してみた。するとどうだろう、
スライドグラスの上に(あの「なじみ深い」)結核菌が発見された! 彼の肺が
結核に蝕まれていることは一目了然だった。恐らく(病原菌がうようよしている)
「シャリー」の研究室で感染したのだろう。

肺結核の悪化に伴って、妻ヘドウックからの強い勧めに従い、エールリッヒは
その年の9月から療養のため、半年余りの長期休暇をとり、久しぶりに夫婦
そろって、まずより暖かいイタリア北部のガルダ湖(ミラノとベニスの間にあるイタリア
最大の氷河湖)に数週間ほど滞在することになった。ヘドウックは、夫パウル
にも一時研究のことをすっかり忘れることができる能力が備わっていることに気
づいて、びっくりすると共に安堵した。パウル曰く。
「私を仕事の鬼と人々は考えているようだが、それは大間違いだ! 私は大蛇の
ごとく怠惰になることもできる。レジャーは過労を防ぐ最良の安全弁である」

冬の訪れと共に、イタリア南部のナポリにしばらく滞在した後、11月中旬に
エジプトの古い都アレキサンドリアに向かう。さらに首都カイロで長期滞在する。
さらにナイル川を蒸汽船で遡り、百ほどの門があるテーベの古代都市を観光する。
翌年の春、ドイツへの帰国のため、地中海のマルタ島やシシリー島を経由する。

幸い、ベルリンに戻ってきたエールリッヒの健康はすっかり元通りに回復してい
た。ところが、いざ職を探し始めると、誰も(どの大学も病院も)彼を歓迎しなくなっ
ていた。半年の休暇後、かの著名な医学者は「お払い箱」同然になってしまった!

そこで、エネルギーを持て余した(失業中の)エールリッヒは、裕福な義理の父親
(ヘドウイックの父)からの助けを借りて、自宅を改造して急ごしえの研究施設を建て、
長期療養前に取り組んでいたメチレンブルーによる神経細胞の選択的な染色および
その薬理に関する研究をやり始めた。

中略


4。コッホ研究所で免疫学

エールリッヒは、1889年に自宅に仮設した自分の研究室を、2年後にとうとう
閉鎖してしまった。1891年に大先生ロベルト・コッホを初代所長とするコッホ
研究所が新設されたので、そこで本格的に研究を開始するためだった。

ここで、エールリッヒの医学への情熱とヒューマニズムが遺憾なく発揮される。
同僚のベーリングと共に、最初の治療用ジフテリア抗毒素(抗血清)の開発に
専念するエールリッヒの姿が、1940年のMGM映画「エールリッヒ博士の
魔法の弾丸」の中で、次のように描かれている。

ジフテリアは当時、俗に「子供を殺す天使」と呼ばれていた。多数の幼い子供
たちがこの伝染病にかかって、次々と死んでいった。そこで、ドイツ政府はコッホ
研究所を創立し、結核ばかりではなく、ジフテリアの治療薬を緊急に開発する
よう、要請した。

コッホの弟子である北里柴三郎とベーリングは、まず破傷風の毒素に対する抗血清
(抗毒素) を開発した後、その翌年の1890年に、ウサギなどの小さな動物を
使って、ジフテリアの毒素に対する抗血清を開発した。その後まもなく、北里博士は
日本に帰国し、1891年に福沢諭吉の援助で伝研を創設し、その初代所長になる。
一方ベーリングは、その抗血清を大量生産して、蔓延中のジフテリアに対する
血清療法を試みたが、結果がどうも芳しくない。そこで、同僚のエールリッヒに
助けを乞う。こうして、エールリッヒが馬に希釈した毒素をまず注射し、次第に
その毒素の量を増しながら、大量の抗血清の生産に成功する。

さて、この抗血清による最初の臨床試験は、「シャリー」病院でジフテリアに苦しむ
40名の子供たちを対象に始められた。病院長の指示は、血清が実際にジフテリアに
効くかどうかを「科学的」に証明するために、全体を20名づつの2つのグループに分け、
一方には抗血清を注射、他方には(治療効果のない)生理的食塩水だけを注射せよ、
というものだった。その指示は、なるほど科学的方法としては確かに正しいが、
偶々後者に選れた20名の子供たちには、(もし仮に、前者に抗血清が効いた場合)
極めて「不公平な」扱いになる! もし、読者が後者の子供の両親だったら、一体
どうするだろうか? 恐らく「人情」として、自分の子供に(効くかどうかはわからないが)
抗血清の注射をしてくれるよう医師に懇願するだろう。。。

さて、エールリッヒとベーリングは、まず20名分の抗血清の注射液をその場で
調製して、次々に注射していった。さて、19人目の注射が終わって、最後
(20人目)のベッドに近づくと、その子供がもう既に琴切れていた! そこで、
代りに21番目の子供に最後の抗血清を注射した。そこまでは、病院長の
「科学方法論」に基づく指示通りだった。

実際には、彼らは残りの19人の子供にも十分な抗血清を手元にもってきていた。
エールリッヒは病院のガラス戸越しに、ジフテリアに苦しみながら (まだ生きる
ている) 39名の子供達の両親たちの懇願するような眼差しを、すばやく捕える。
彼の無言の指図で、ベーリングは、さらに残り19名に使うべき抗血清注射液も
調製し、2人で手分けして、あっと言う間に全員に抗血清だけを注射する。それを
みて、あっけにとられた看護婦が病院長にそれを報告に行く。病院長がかんかんに
怒って、病室に飛んできて、2人を激しく非難した。エールリッヒは、平然として、
こう答えた。
「病院長、一体どちらが正しいか、ここにいる幼い患者の両親ひとりひとりに
ご自分で意見を訊いてみて下さい!」

2人は病院の休憩室で、眠れぬ一夜を一緒に過ごした。翌朝になっても、何の
報告も来なかった。ベーリングは、実験(臨床テスト)はやっぱり失敗だったと思い、
責任を取って辞職する覚悟を決めた。そのとき、当時の内閣の文部科学大臣から、
すぐ出頭するように通告が来た。気の強いエールリッヒの方が2人を代表して、
(失敗を覚悟しながら)文部科学省へ出頭した。 フリードリッヒ・アルトホフ大臣が
彼を出迎えた。意外にも大臣は大変機嫌がよかった。 そこで、半信半疑の
エールリッヒがおそるおそる、こう訊いてみた。
「大臣、病院長の指示に逆らって大変申し訳ありませんでした。(病気を治すべ
き医師という)立場上、あれしか選択がありませんでした。ところで、結果はどう
だったのでしょうか?」
「君、結果をまだ病院長から聞いていないのかね? 大成功だったよ! 君にちょっと
遇わせたい人がいるんだ。病室へ私と来たまえ」
「エールリッヒ博士、この子は私の孫娘だ。君たちのおかげで助かったよ。
ありがとう!」
博士がベッド番号を確かめると、なんと21番目だった。20番目の子供を殺し
た「天使」の悪戯(慈悲)だった!

大臣は博士に、ジフテリア血清療法が大成功した褒美に、新しい血清研究所を
ベルリン郊外あるいはフランクフルトに創設したいと提案した。エールリッヒは、
その研究所で、好きな研究なら何をやっても結構だという。。。

こうして、厳密な科学に飽くまで固執する「象牙の塔」よりも(患者の側に立つ)
「ヒューマニズム」の方が、最後の勝利を修めたのだ! 

この大臣は極めて先見の明が高く、それ以前に、コッホ研究所の創設にも尽力
している。 のちに、ベーリングのためにマールブルグに実験療法研究所を、
1911年にはカイザー・ウイルヘルム研究所 (現在のマックス・プランク研究所の
前身)も創設している。

中略

5。 血清研究所と側鎖説の誕生

1896年6月1日に、ベルリンの南西にあるステグリッツという郊外に、エールリッヒを
所長とする、いわゆる「血清研究所」が発足した。その主な仕事は、ジフテリアや
その他の伝染病に対する抗血清の開発研究と市販抗血清の抗体価を定期的に
検査することだった。後者に関しては、市販用の抗血清を製造する製薬会社
ヘキストが主な利用者になった。そこで、エールリッヒ所長は、1894年に
個人的にヘキストと結んでいた契約をとうとう破棄して、月給250マルクと
いう安月給に満足せざるを得なくなった。従って、経済的には余り恵まれぬ状態
におかれた。

実は、この血清研究所の前身はベーカリー(パン焼き場)と納屋だった。それを
色々に改造して、研究所に仕立てたという、当初はかなり貧弱な代物だった。
研究所が発足した日、コッホ時代の同僚で、のちに(1906年に)梅毒の診断
反応である有名な「ワッセルマン反応」を発明するアウグスト・フォン・ワッセルマン
(1966ー1925)に、「小さいが自分の」研究所だと、誇らしげに紹介した。

さて、エールリッヒが将来ノーベル賞をもらうことになる彼の主な業績の1つで
ある抗体産生メカニズムを説明する「側鎖説」は、この小さな研究所で誕生した。
その昔、(キリスト教の創始者)でユダヤ人のイエス・キリストがパレスチナの
地、ベツレヘムという小さな町の納屋(馬小屋)で生まれたが、エールリッヒの
「側鎖説」もそのようなごく質素な誕生歴をもっている。

この「側鎖説」というアイディアの原型(雛形)は、1885年にエールリッヒが
発表した「生物の生存に必要な酸素」という論文の中に見い出すことができる。
実際にエールリッヒが「側鎖説」を抗体産生のメカニズムとして初めて発表した
のは、1897年のことだった。

この「側鎖説」の側鎖の背景には、明らかに彼の好きな色素、特にアニリン色素
の化学構造から来ている。アニリンはベンゼンという(6つの炭素と6つの水素
からなる)六員環に、アミノ基という「側鎖」が結合した化合物である。ベンゼンとの
違いは、ベンゼン中の「水素」が(窒素1つと水素2つからなる)「アミノ基」に
置換したものである。ベンゼン環に(酸素1つと水素1つからなる)水酸基という
「側鎖」が結合すると、フェノールという化合物になる。

さて、ベンゼンという「側鎖」のない化合物は、化学的に反応性が乏しいが、
アニリンはアミノ基という側鎖を持つために、他の化合物とより反応しやすくなる。
例えば、アニリンと砒酸とを混ぜて加熱すると、「アトキシル」という新しい化合物に
なる(後述するが、これで、カイコに寄生する病原体を退治することができる)。
しかしながら、ベンゼンと砒酸は直接反応しにくい。

ベンゼン環に2つの異なる側鎖、例えば、アミノ基と水酸基が結合すると、
「ヒドロシーアミノーベンゼン」という化合物になる。後述するが、この化合物と
砒酸とを混ぜて加熱すると、「サルバルサン」という別の砒素化合物(「梅毒」の
特効薬)になる。このように、化合物の「側鎖」は一般に、他の化合物との反応
性を高める機能がある。

従って、細菌やウイルスや原虫などの病原体(微生物)も、宿主、つまり我々の
細胞に能率よく反応(結合)するために、各種の「側鎖」を細胞表面(あるいは
その毒素)にもっていると、エールリッヒは予測(仮定)した。他方、我々の身体の
細胞表面には、これらの病原体の側鎖と反応(結合)しうる別の側鎖(「受容体/
レセプター」と呼ぶ)があるにちがいない。側鎖とレセプターは、ちょうど「鍵」と「鍵穴」
との関係にある。ある特定の鍵が、鍵穴にちょうどマッチすると、ドアが開く。
いいかえれば、病原体の側鎖が、それにちょうどマッチしたレセプターを我々の
細胞上に見つけると、感染が起こる。 しかしながら、我々の方にも、生き残るために、
病原体から自分を守るべき防御体制を備えている。その一つが血清中にある
「抗体」である。

抗体とは、病原体やその毒素の側鎖(抗原)と結合して、抗原の機能(毒性)を
中和する働きを持つ。 従って、レセプターと同様、側鎖を鍵にたとえれば、抗体は
「鍵穴」に相当するものである。

エールリッヒは「側鎖説」において、この抗体がどのように産生されるかについて、
次のような説明を試みた。
「白血球表面に多種類のレセプターがあり、これに抗原(側鎖)が結合すると、
免疫細胞(例えば、マクロファージやリンパ球)が刺激され、レセプターを多量に
分泌し、これが抗体となる」
この考え方は概念的には正しいとしても、詳細に関しては最終的には、のちに
ランドシュタイナーらの人工抗原の研究から否定されている。

というのは、実際には、病原体やその毒素の持つ側鎖と抗原とは必ずしも同一で
はなく、それ故に、我々の宿主細胞が持つレセプターと抗体とは、しばしば別の
物質である場合が多い。レセプターは細胞表面上に存在するが、抗体は主に細胞
内あるいは細胞外に存在する。20世紀初頭における免疫学の発達レベルでは、
「側鎖説」は通用したが、それから半世紀後の「細胞免疫学」、さらに一世紀後の
「分子免疫学」の学問的水準では、さらに一段も2段も高い、より複雑なメカニズムが
提唱されている。

エールリッヒが「側鎖説」で特に強調したかったことは、側鎖(抗原)とレセプター(抗体)
との反応は、1対1の「化学反応」であるという事実であった。従って、「抗血清中の
抗体価(抗体の数量)を、特定の病原体や毒素中の側鎖(抗原)を使って、定量する
ことができる」という実用性が、その説の根底にあったわけだ。いいかえれば、
「側鎖説」は、免疫現象(抗原ー抗体反応)の「化学説」といえるだろう。
エールリッヒが、20世紀初頭当時の免疫学の知識に、新しく「化学」の概念を
初めて導入したことに、この説がもたらした最大のメリットがあるといえよう。
前世紀に(ワクチン開発で)活躍した免疫学の先達、ジェンナーやパスツールには、
この化学反応論的な概念がまだなかった。

中略

6。 フランクフルトへ転勤

現在、フランクフルトはドイツ国内で、交通の最大起点であると共に、商業の最大
中心地である。ヨーロッパ大陸で最大の飛行場と鉄道のターミナルを要している
ばかりではなく、ドイツ銀行など主要な銀行の本部がここにある。しかしながら、
19世紀後半当時は、首都ベルリンが、ドイツにおける、政治ばかりではなく
医学を含めた科学全体、文化の最大中心であった。ベルリンや(フランクフルトの
近くにある)ハイデルベルグには古くからの大学があったが、(文豪ゲーテを
生んだ)フランクフルト市内には大学がまだなかった。ちなみに、ゲーテ自身は
まずライプツイッヒ大学で法律を勉強し始めたが、不幸にして結核らしき病気に
かかり、療養のため退学、のちにストラスブルグ大学の法学部で学業を続け、
卒業する。

さて、19世紀末にフランクフルト市長をしていた極めて精力的なフランツ・
アディックスは、出来るだけ多くの研究所をこの地に招き入れることによって、
将来フランクフルト大学を創立するための基盤を築き上げようとした。そこで、
首都ベルリンにいる有力な知り合いであるアルトホッフ(文部科学大臣)に
掛け合ってみることにした。アルトホッフもその話に乗ってくる理由がいくつかあった。
まず。エールリッヒが、あのちっぽけなベルリン郊外の血清研究所にいつまでも
満足しているわけはなかった。次に血清療法を開発したベーリングがフランクフルトの
近くにあるマールブルグの研究所長だった。 さらに、市販の抗血清の製造をして
いるヘキストの工場はフランクフルトの郊外にあった。 従って、エールリッヒの
血清研究所をフランクフルトに移転させれば、ずっと機能的になることは確かだった。

そこで、1896年8月にマールブルグで、血清研究所の移転に関する3者
(アルトホッフ、ベーリング、エールリッヒ)会談がもたれた。 その3カ月後に、
ベルリン郊外の血清研究所がフランクフルト市内に、実験(血清/化学)療法研究所
として移転することが、正式に文部科学省から公示された。予定では、早ければ
1899年秋に移転ができそうだった。

ところが、その頃になって、エールリッヒとベーリングとの抗血清をめぐる関係が
日増しに悪化していった。理由はエールリッヒの果たす役割に関するベーリングの
誤解に端を発する。 つまり、ベーリング自身は自分を血清療法の創始者と位置
付け、エールリッヒを北里柴三郎と同様、自分の部下あるいは助手の一人としか
認識していなかったらしい。 ところがエールリッヒはベーリングと対等な立場
にあり、エールリッヒの系統的かつ定量的なアプローチなしには、ベーリングの
ジフテリア療法など成功しなかったと、確信していた。だから、ベルリンやフランク
フルトの血清研究所は、(マールブルグに製薬会社ヘキストの資金によって
建設された)ベーリングの立派な血清研究所の単なる支部としか考えていない
らしい (ベーリングによる)過小評価に不満が募り始めた。そこで、エールリッヒは
「フランクフルトに建設する自分の研究所はベーリング研究所の支部ではない」
という明確な「独立宣言」を発し、フランクフルトへ移転後、皮肉にもベーリング
研究所とは距離的にはずっと近くなったが、2人の間の往き来は止まって
しまった。

1899年11月8日に、フレンクフルトの新しいエールリッヒの研究所が開所式が
行なわれた。研究所の所在地はザクセンハウゼン区にあるザントホッフ街 
44番地だった。市の中心を流れるマイン川のすぐ河畔で、静かな住宅地の
ど真ん中にあった。

この式典には、100名近い科学者、著名な知識人、企業家、政治家、ジャーナリストが
詰めかけた。これら多数の参列者の中に、エールリッヒの友人アーサー・ワインベルグも
いた。アーサーはフランクフルトきっての富裕かつ有力な家庭の出で、弟のカールと
共に、マインクールにある大きな化学会社「レオポルド・カセラ」の経営をしていた。
この会社は1904年に製薬会社ヘキストと手を結ぶ。アーサーはエールリッヒより
4年ほど若く、ミュンヘン大学で有名なアドルフ・フォン・バイヤーの下で学ぶ。
彼は熟練した有機化学者で、自分の会社で多数の面白い染料の合成に携わり、
多くの特許を獲得している。ヘキストと同様、アーサーはエールリッヒに新規な
色素のサンプルを提供し続けたが、彼が果たした最も大事な役目は何んといっても、
地元フランクフルトに住む貴重な後援者たちを、「ハウス・ブッヘンロード」と呼ばれる
自分のすばらしい邸宅で開く晩餐会の席で、エールリッヒに紹介したことだろう。

その他、参列者の中に、ヘキストの共同創立者であるアドルフ・フォン・ブルーニングと
ウイルヘルムマイスター、エールリッヒの旧友ワッセルマン、さらにヘキストを介して
長い付き合いのアウグスト・ラウベンハイマー教授などがいた。

エールリッヒが仕事の話に夢中になると、我を忘れて、手当たり次第に、ドアでも
床でも実験机の上でも、とにかく平らな表面を手近に見つけて、懐中にいつも
携帯している例の七色の鉛筆を使って、数字、グラフ、色素の化学構造などを
描き始める癖がある。ある日のこと、ラウベンハイマー教授の「ヘキスト」社宅で
食事をしていた際、免疫の話が話題にあがるや、興奮の余り、こともあろうに、
ラウベンハイマー夫人ご自慢の真っさらな白いテーブルクロスの上に、色鉛筆で
「側鎖説」の図解をし始めたそうである。エールリッヒ夫人の場合は、実家の父
親がシレジアで大きなリネン工場を経営しているので、自宅の食卓でそんなこと
がたびたび起きても、そのたびにテーブルクロスを取り換えることは、さほど苦
痛ではなかった。

さて、エールリッヒ夫妻は新しい自宅として、ウエストエンド街 62番地にある
小じんまりとした魅力的な住宅を購入した。敷地(床)面積が200平方メートルで、
居間と (15歳と13歳になる) 2人の娘たちの寝室、ドラというメイドさんの部屋、
エールリッヒ夫人のドレッシング・ルーム、エールリッヒ専用の書斎兼仕事場などが
あった。 この彼専用の部屋は、書籍、書類、葉巻などで一ぱい、彼自身にしか、
何がどこにあるかわからないようになっていた。 エールリッヒはメイドに、茶目っ気
たっぷりの笑顔を浮かべながら、こう注意を喚起した。
「この部屋にある物には、一切手に触れないこと! 至る所に毒薬が散らばって
いるからだ。(解毒剤をいつも飲んでいる)私だけがそれに触れることができる
ようになっているんだ」

彼の言葉は、単なる「脅かし」ではなかった。 フランクフルトに移って以来、抗血清
研究に訣別したエールリッヒは、新しい研究所で、化学療法剤の開発を本格的に
始め、死ぬまでの間に、千種類以上の砒素化合物(毒薬!)を合成し続けたのだ。

1902年11月に、マーサ・マークアルト嬢(27歳)がエールリッヒ所長の秘書
として、研究所に勤務し始めた。研究所に来る前は、数年間、ドイツや米国の
会社に勤務していた。彼女は母国語(ドイツ語)以外に、英語とフランス語が自
由に話せる非常に有能な秘書だった。そして、自分の意見を率直に述べるので、
エールリッヒには絶対に欠かせぬ人材になった。エールリッヒの有名がとどろき、
次第に英米や日本から多くの若い科学者がエールリッヒの下で、化学療法剤の
開発をめざしてやってくると、彼らはまずマーサに接触をとる習慣になった。

エールリッヒの死(1915年)後まもなく、マーサは有名な「パウル・エールリッヒ
小伝」(ドイツ語、1924年)を出版して、彼を高く称讃した(因みに、1940年の
MGM映画「エールリッヒ博士の魔法の弾丸」は、この伝記に基づいて、ジョン・
ヒューストンが脚色したものである)。 しかしながら、この本には彼のすばらしい
業績に加えて、その背景にある彼および周囲の人々(例えば、ベーリングや
コッホ)の子細な弱点やユニークな個性をも併せて盛り込み、彼の人生ドラマに
より生き生きとした人間的な色彩 (人間味) を持たせたため、一部の者
から非難が出た。特に、フランクフルトの血清研究所/GSH所長のポストを
1918年以来、継承していたウイルヘルム・コレ教授は、コッホの弟子でもあり、
この伝記の出版に異議を唱えた。というのは、著者マーサが科学者ではなく、
(彼の言葉を借りれば)「純然たるタイピスト」に過ぎなかったからである。

延々と論議が続いたが、マーサはこの期間、意外にも闘魂と粘り強さを発揮し、
エールリッヒ家の人々や、彼の同僚や弟子たち、フランクフルト市長、地元の
新聞「フランクフルト新聞」、そして最後に、彼の生前の親友アーサー・フォン・
ワインベルグからの弁護を取り付けた。 しかしながら、マーサは結局、わずかな
退職金をもらって、GSHをあとにせざるをえなくなった。 まもなくヒットラーの
台頭とともに、(ユダヤ人である)マーサは身の安全のため、フランスに亡命せ
ざるをえなくなった。彼女はエールリッヒが残した重要な書簡 (カーボンコピー)
を全て、大事に保管していた。戦後、彼女はエールリッヒの友人であるアルムロス
・ライト卿の世話で、ロンドンで働き続けながら、フランクフルトを久しぶりに訪れ、
(反ユダヤ主義者により)破壊されたエールリッヒの墓を修復し、1951年頃に
「パウル・エールリッヒ伝」(英語改訂版)を出版した (訳者は学生時代に、
この英文伝記を読んで、「画家」志望から「薬学者/癌学者」志望へ、一夜
にして針路のいわば「180度」転換を決意した!)。

中略

9。 化学療法の確立

1903年に英国の熱帯病の専門家デビッド・ブルースがアフリカ大陸のウガンダで、
「眠リ病」の病原体であるトリパノゾーマという原虫を発見した。この原虫は家畜や
人間を刺すツェツェバエ(吸血性の蝿)によって媒介される。フランスの
アルフォンス・ラベラン(1845ー1922)は、1880年にマラリアの病原体
(やはり、原虫の一種)をアルジェリアで発見して、1907年にノーベル賞を
もらったが、彼はパスツール研究所時代(1897ー1907)に、「眠リ病」の
実験動物系(モデル)の開発にも貢献した。 「眠リ病」に感染した家畜の
血液をマウスに皮下注射すると、2、3日以内に「眠リ病」で死亡する。

そこで、エールリッヒは、化学療法の手始めとして、この「眠リ病」を対象にして、
(彼の「十八番」である)アニリン色素からトリパノゾーマを選択的に殺す
薬剤を開発しようと試み始めた。この「眠リ病」プロジェクトで大活躍したのは、
志賀 潔(1871ー1957)だった。 志賀博士は、1898年に赤痢菌を発見
してからまもなく、北里柴三郎が所長をしていた伝染病研究所(伝研)から、
エールリッヒの実験(化学)療法研究所へ助手(ポスドク)として転勤、
1901年から1905年までフランクフルトに留学滞在していた。1903年に
試行錯誤の末、真っ赤なアニリン色素 「トリパンレッド」がトリパノゾーマを
選択的に殺すことを発見した。少なくとも一連の実験動物では、一回の注射で
「眠リ病」を完治することができた。

これに気を良くしたエールリッヒは、次に人間の難病、「梅毒」という恐ろしい
性病に対する特効薬の開発という難関に挑戦し始めた。

さて、1940年制作の有名なMGM映画「エールリッヒ博士の魔法の弾丸」では、
英国の往年の名優エドワード・ロビンソン(1893ー1973)がエールリッヒ役を
熱演するが、最初の場面は、ベルリンにある大病院「シャリー」の診察室だ。
若いやせ細った青年がエールリッヒ博士の診察を受けた後、医師からいつもの
「治療用」と称する塗薬を受取りながら、弱々しく質問する。
「先生、私はある女性と婚約しているのですが、果して結婚できるでしょうか?」
「それは、問題外だ!」
「先生、この病気は本当に治るのでしょうか?」
「この薬できっと治るよ」
その青年は、淋しそうに医師の目をのぞき込んだ。医師は一瞬、目をそらした。
(暗黙の)メッセージは明瞭だった。。。

青年がカーテンのうしろ(更衣室)で帰り支度を始めると、次の患者が診察室に
入ってきた。
「先生、治療用のサウナを浴びると疲れ過ぎて、仕事をする気力がなくなるんで
すが」
「それじゃ、サウナはもう止めたまえ」
その患者は、深々と礼をして、足早に部屋を立ち去った。
すると、医師の側にいた大がらの助手が叫んだ。
「先生、サウナを止めさせるのは規則違反です!」
「君、梅毒に効く物などないんだよ。せめて生きている内に、働らき易くしてや
るべきだろう」
とたんに、更衣室で、誰かが倒れる音がした。カーテンを開くと、さきほどの
青年がナイフで自ら首の頚動脈を切って、血だらけで倒れていた。
それを見たエールリッヒ博士は、病院の仕事をもう辞めて(治療薬開発のため)
研究一本に専念しようと決意した。

中略

一世紀前の梅毒は、ちょうど現在の性病「エイズ」に例えられる。 しかし、エイズ
の病原体は「HIV」と略称されるウイルスの一種であるのに対して、梅毒の
病原体は「スピロヘータ」と呼ばれる細菌の一種である。両方とも性交の際、
コンドームを使用すれば、これらの性病による感染はおおかた予防できる。今日の
エイズのように、その昔(15世紀末コロンブスの探険隊が、アメリカ大陸から欧州へ
持ち帰って以来)、梅毒は世界中至る所で蔓延していたが、まずエールリッヒの
特効薬「サルバルサン」により、後には抗生物質「ペニシリン」のおかげで、
幸い今日、梅毒は地球上からほとんど姿を消してしまった。従って、今世紀の
読者の中で、梅毒とは一体どんな病気かを詳しく知っている者は、主に皮膚科/
泌尿器科などの医者と梅毒患者自身を除けば、ごく小数だろう。そこで、梅毒の
症状について、ここで簡略に紹介したい。

感染後約3週間で発症する。治療しない限り体内に残り、最終的には死亡する。
現代においては先進国では、抗生物質の発達により、第3期、第4期に進行する
ことはほとんどなく、死亡する例はごく稀。

第1期: 感染後3週間~3ヶ月の状態。トレポネーマ(梅毒菌)が侵入した部位に
塊(無痛性の硬結で膿が出る。「硬性下疳」と呼ばれる)を生じる。塊はすぐ消えるが、
稀に潰瘍となる。また、股の付け根の部分(鼠径部)のリンパ節が腫れる。
6週間を超えると「ワッセルマン反応」等の梅毒検査で陽性反応が出る。

第2期: 感染後3ヶ月~3年の状態。全身のリンパ節が腫れる他に、発熱、倦
怠感、関節痛などの症状が出る。「バラ疹」と呼ばれる特徴的な全身性発疹が
現れることもある。赤い目立つ発疹が手足の裏から全身に広がり、顔面にも現れる。
治療しなくても1ヶ月で消失するが、抗生物質で治療しない限り、梅毒菌は体内
に残存し続ける。

第3期: 感染後3~10年の状態。ゴムのような腫瘍(ゴム腫)が発生する。
この状態になってしまうと、治癒はもはや不可能である。従って、「ワッセルマン
反応」陽性、あるいは「バラ疹」の発生状態で、ペニシリンなどの抗生物質で
早期治療することが肝心である。

第4期: 感染後10年以降の状態。多くの臓器に腫瘍が発生したり、脳、脊髄、
神経を侵され麻痺性痴呆、脊髄瘻を起こし(脳梅)、死亡する。

映画の場面では(上映時間の関係上)しばしば、2、3日で梅毒にかかった患者
や実験動物が死亡するが、実際には息の非常に長い慢性疾患である。

さて、エールリッヒ夫妻には、二人の愛らしい娘がいた。長女ステファニーと次女
マリアンだった。ステファニーは1884年生まれ、マリアンは1886年生まれ
だった。その晩、エールリッヒ博士が帰宅すると、2人の娘たちがその日、小学校や
幼稚園であった色々なできごとをそれぞれ、母親のヘドウイックが晩ご飯の
支度をしている合間に、楽しそうに話してくれた。それを聞き流しながら、博士は
妻に、昼間病院であった不幸なできごとを話した上、もう病院を辞めたい気持ちを
明かした。気丈な妻はこう答えた。
「あなたがそうしたいなら、そうして下さい! 家計の方は何とか私がやりくり
しますから」
続けて、彼女は大きなミルク瓶(ジャー)から娘たちのために、グラスにたっぷり
牛乳を注いでやりながら、こう言った。
「がぶ飲みしないで、ゆっくり飲みなさいよ」
(育ち盛りの)妹マリアンは飲み終わると、もう一杯とおかわりをせがんだ。
すると気転が効く姉ステファニーがそれをさえぎるかのようにして、妹にこう訊いた。
「マリアン、グラス一杯のミルクは4ペニーよ。2杯も飲んだらいくらになるか
知ってるの?」
妹には苦手の算数の問題だった。
「よくわかんない、10ペニーかな?」
「マリアン、それじゃあ落第よ! 正解は8ペニーよ」
娘たちのあどけない会話を聞いていたエールリッヒ博士は、妻にこう尋ねた。
「ところで今、牛乳の2リットル瓶いくらかね?」
「最近また値上がりして、40ペニーになりました」

晩ご飯が終わってから、博士は再び夜勤に出かけようとした。妻は不審に思って
問い質した。博士は苦笑いをしながら、こう答えた。
「やあ、ちょっと考え直して、もうしばらく病院勤めを続けるよ」

さて、1905年の初春になって、エールリッヒの家庭に人気がめっきり少なく
なって、夫婦は昔の新婚時代みたいに、2人だけの生活に戻ってしまった。
というのは、その前年に長女ステファニーが20歳で、ブレスラウに住む
シュヴェリン家に嫁いだのに続いて、次女マリアンも3月21日に19歳で、
結婚してしまったからだ。

シュヴェリン夫妻(アーネストとステファニー)にはのちに、2人の息子ハンスと
ギュンターが生まれる。エールリッヒの死後、ナチスによるユダヤ人迫害が
激しくなるにおよび、未亡人(ヘドウイック)と共に、シュヴェリン家は米国へ
亡命し、ニューヨーク郊外に住み着く。のちに、ハンスはニューヨークで医者に
なる。夫アーネストの死後、1951年12月に(マーサ・マークアルト著の英語
版「エールリッヒ伝」が出版された直後)、ステファニーとその息子2人が
ニューヨーク医学アカデミーに、(会員の一人だった)エールリッヒの形見
(顕微鏡、白衣、儀式用刀剣、デスマスクなど)を記念に寄贈した。

マリアンの新郎は28歳の数学者エドムント・ランダウ(1877ー1938)だった。
結婚当時は、まだベルリン大学で教鞭をとっていたが、4年後にエドムントは
ゲッチンゲン大学の教授になり、素数学の分野で有名を轟かすことになる。
しかし、1933年にナチスによって、ドイツ国外に追放されてしまった。
というのは、彼の両親ともユダヤ系のドイツ人だったからだ。父親レオポルド・
ランダウ教授は、ベルリンで産婦人科医をしていた。母親ヨハナ・ジャコービーは
ベルリン有数の銀行家の娘だった。

中略

さて、1906年頃にエールリッヒの元にある吉報が訪れた。「ゲオルグ・シュ
パイヤー・ハウス」(GSH)という新しい研究所が実験療法研究所のすぐ隣に、
ある未亡人からの寄付によってエールリッヒのために建設された。その未亡人は
フランチスカ・シュパイヤーだった。フランチスカの亡夫ゲオルグ・シュパイヤー
は、フランクフルト有数の銀行家だった。ゲオルグは1902年4月24日に、
67歳で癌のため死亡した。この「GSH」計画の背景には、フランチスカの義
理の弟(つまり、ゲオルグの弟)であるルードビッヒ・ダームシュテッター教授
が深くからんでいた。ルードビッヒはある化学会社(VCW)の社長をしていた。
そして、稀れに見る幅広い関心を持つ人物だった。彼自身、いくつかの化学論文
を発表していた。だから、エールリッヒの仕事の価値についても精通していた。
そこで、ルードビッヒは親戚中を説得して回り、兄が残していった遺産の一部を、
(研究費と研究スペースに困っている)エールリッヒのために、「GSH」を地
元のフランクフルト大学に付属する新しい研究所として創設するために寄付させ
ることに成功したのだ。

中略

2年後の1908年の11月に、もう1つの吉報がエールリッヒの元に舞い込んだ。
それははるかストックホルムからだった。エールリッヒとパスツール研究所長の
メチニコフ (ユダヤ系のロシア人) が、免疫学の進歩への貢献を高く評価され、
ノーベル生理医学賞を授与されることになったのだ。

エールリッヒが授与式に出席するため、ストックホルムに到着すると、彼の弟子
の一人であるルントベルグ教授が出迎えにきていた。さて、その若い教授が親切
にもエールリッヒの荷物を全部集めて、彼に代って運ぼうとした瞬間のことであ
る。教授がエールリッヒの抱えている葉巻ボックス2箱に手をかけようとすると、
エールリッヒはビックリして、それを強く拒んだ。老人曰く。
「この葉巻だけはどうしても手放せません! それ以外の物は何でもあなたにお
任せしますが」

もう1つ面白いエピソードの種(ハプニング)がノーベル受賞直前の会場で起こった。
あるスウエーデンの新聞記者がエールリッヒに短時間のインタービューを申し込
んできた。常にメディアには柔和でおしゃべりな彼は、その飛び入りインタービュー
に応じることにした。ところが、不思議なことには、その記者は化学療法や血清
学や免疫学にはほとんど関心を示さず、哲学に関する質問ばかりしてきた。彼は
いわゆる「馬車馬」なので、専門の「医学」以外の質問に閉口したが、気を取り
直して、哲学と医学との関係について、議論を続けた。 「医学の祖」として有名
なヒポクラテスは哲学者でもあったからだ。 しかしながら、その記者も次第に、
このノーベル受賞者は一体なぜ、哲学的な質問に答えるために、「側鎖説」や細
胞受容体などを引き合いに出すのだろうかと、いぶかしく思い始めた。 そこで、
念のため記者がこう質問してきた。
「ところで、私はオイケン教授とお話してるつもりなのですが、ちがいますか?」

謎はただちに解けた! エールリッヒはほっとした。もはや無意味な哲学的会話を
続ける義務がなくなったからだ。
「いや、私はオイケンではありません! 私はまだ彼ほど進んでいません」
実はその年、ジェナ大学の哲学教授ルードルフ・オイケン(1846ー1926)
がノーベル文学賞をもらいに、ストックホルムにやってきて、同じホテルの直ぐ
隣の部屋に泊まっていたのだ。2人共ドイツ人で白髪、白いあごひげを貯えてい
た。 しかし、第一次世界大戦では、オイケンは主戦論者だったが、エールリッヒは
反戦論者だった。 皮肉にも、容貌(見かけ)こそ似ていたが、彼らの頭の中(人生哲学)
には、ほとんど共通点はなかった。

中略

BBCテレビ映画シリーズ「微生物とその狩人たち」(1974年)の第5部
「魔法の弾丸を追って」で、微生物学者ルイ・パスツール(1822ー1895)
が活躍した時代に、フランスに蔓延したカイコの病原寄生体を撲滅するため、
有機化学者アントン・ベチャンプ(1816ー1908)が1863年に、その治療薬
として合成した「アトキシル」という新規な化学物の正確な構造の是非を
めぐって、エールリッヒと若い有機化学者たちとの間に繰り広げられた激しい議論
のやり取りが画面一杯に再現される。

ベチャンプはアニリンと砒酸とを一対一に混ぜ合わせて、加熱により「アトキシル」
を合成した。そして、(アニリン中の)アミノ基に砒酸が直接縮合したと提唱した。
ところが、それを疑問視したエールリッヒは、その反応を自ら追試し、
「アトキシル」には、遊離のアミノ基がまだ残っていることを、得意のジアゾ化
反応を使って、既に確認していた。

従って、ベチャンプが提唱した化学構造は、エールリッヒの鋭い指摘通リ、
明らかに間違っていた。つまり、単純に砒酸がベンゼン環上の側鎖であるアミノ基
とは正反対(パラ)の位置に結合したパラ・アミノベンゼン砒酸に過ぎなかった。
こうして、古いベチャンプ説に飽くまで拘泥したフォン・ブラウンとシュミッツは
辞職し、エールリッヒ説をすなおに受け入れた有機化学者アルフレッド・
バートハイムが、引続きエールリッヒの下に留まることになった。

エールリッヒとバートハイムは、この「アトキシル」を出発物質(あるいはモデル
物質)として、梅毒の病原体を選択的に殺す(より複雑な構造を持つ)砒酸
アニリン化合物を特効薬として開発しようと考えた。

さて、梅毒の病原体は一体何者だろうか? 有名な野口英世(1876ー1928)は
米国のロックフェラー研究所で、1911年に梅毒の病原体「スピロヘータ」の培地
による純粋培養に成功したといわれている。もっとも、その成否については、
いまだに議論の余地があるようだが、それ以前(1903年)に、パリにある
パスツール研究所のエミール・ルーックスとエリー・メチニコフ(1845ー1916)
のチームが、らせん状の鞭毛細菌「スピロヘータ」を含む梅毒患者の血液を
チンパンジーに注射して、梅毒を発症させることに成功している。 さらに
1906年になって、エールリッヒの弟子の一人で、イタリアのアルベルト・
アスコリ教授がウサギの眼球に梅毒性の炎症を発生させることに成功した。この
成功はエールリッヒにとって、ビッグニュースだった。というのは、安価なウサギを
実験動物に使って、梅毒に効く薬をスクリーニングすることが、ついに可能
になったからだ。

志賀博士が伝研に戻ってからまもない1907年に、同じ伝研から秦 佐八郎
(医学博士、1873ー1938)が、まずベルリンのコッホ研究所で2年間近くの
研究を終えてから、1909年3月に、エールリッヒの研究所へポスドクとして
転勤してきた。秦博士はまずウサギを(さらに「仕上げ」には、チンパンジーも)
実験動物に使って、エールリッヒとバートハイムが機関銃のごとく、次から
次へと合成してくる千種類近い色々なアニリン砒酸化合物の梅毒に対する薬効
(治療効果)を各々、慎重にテストしていった。 さて、1909年6月下旬のある日
のこと、第606番目の化合物が、梅毒菌を特異的に殺すが、実験動物(ウサギや
チンパンジー)には副作用をほとんど及ぼさないことがついに判明した。梅毒を注射
されたチンパンジーは、化合物「606」のおかげで、なんと恐ろしい死を免れ、
すっかり元気を取り戻したではないか! その驚くべき結果を秦博士から聞いた
エールリッヒは、自分のオフィスの中をグルグル歩き回りながら、その興奮を鎮
めんとするためか(好きな)葉巻をひっきりなしに吸い始めた。彼の秘書マーサ
はたまらず、煙に巻かれて一時オフィスから避難せざるをえなくなったほどだ。
さて、そのニュースを聞いた研究所内が、にわかに沸き上がった。「魔法の弾丸
の到来だ!」と誰かが叫んだ。

1940年のMGM映画「エールリッヒ博士の魔法の弾丸」では、この劇的な瞬間を
次のように描いている。エールリッヒは研究所の職員たち全員を一同に集めて、
こう訓示した。
「皆さん、我々の化合物606は少なくとも動物実験では、梅毒の治療に大成功
でした。次は臨床テストで、梅毒患者にどれだけ効果があるかを、慎重に検討し
なければなりません。ヒトに関するテストは極秘に行ないます。従って、臨床結果が
はっきりするまで、今後とも606に関する情報は誰にも口外しないで下さい。
さて、今日は研究所にとって歴史的な日ですので、特別に半どんにして、午後は
休みとしましょう。 どうぞ、ご帰宅下さい!」

エールリッヒは最後に自分も帰宅する前に、秦博士に梅毒菌の培養液と606の
注射液のセットを所定の冷蔵庫に保存しておくように指図した。それを耳にした
誰かが低い声でつぶやいた。「ひょっとすると、大先生、自分で人体実験をする
つもりかもしれんぞ」

さて、日暮れ近くに、誰かが一人研究室に戻ってきて、暗がりの中で冷蔵庫から
培養液らしい物を取り出して、それを自分の腕に注射し、休憩室にあるソーファー
ベッドに横たわった。2、3時間後に、ある年配らしい人物が懐中電灯を片手に、
その冷蔵庫のドアを開けて、何かをしきりに探し始めた。ちょうどその時、近く
にある休憩室から(何かに苦しんでいる)うめき声が聞こえてきた。その白髪の
老人が部屋の灯りをつけると、なんと自分の片腕(愛弟子)の一人がベッドに横
たわっているではないか!
「君だったのか、培養液を勝手に冷蔵庫から取り出したのは? 手遅れにならな
いように、すぐに606を注射せねばならない!」
そう叫んで、エールリッヒは急いで606の注射液を取りに戻った。
翌朝、その助手がすっかり元気になっているのを知って、エールリッヒはほっと
胸を撫で下ろした。 「606」は人(の梅毒)にも効いたのだ!

その翌日、エールリッヒは地元フランクフルトにある製薬会社ヘキストと「606」
に関する特許の申請について、極秘の相談を始めた。 大がかりな臨床テスト
を始めるには、製薬会社による「606」の大量生産がぜひとも必要だったから
だ。


10。 「606」の臨床試験

エールリッヒが「606」に関して最初の公式発表をしたのは、1909年12月1日に
ベルリンで開催された医学教育学会の席上だった。彼の講演の表題は
「伝染病の化学療法」という明らかに教育的な観点からアレンジされた一般的な
内容だが、その中でつい最近開発された「606」という物質の薬理について、
次のように触れた。

私が繰り返して度々力説してきたように、化学療法をめざす者は間断なく勉強を
続けなければならない。具体的には、まず各々の寄生体(細菌、ウイルス、原虫)
に特有な標的(弱点)を見つけ出し、それを極めて特異的に攻撃しうる薬剤、
例えば砒素、ヨード、水銀などを治療剤として開発しなければならない。そのような
系統立ったアプローチを追求すれば、そのうちに好ましい結果が生まれてくると、
私は確信している。今日は、そのようなアプローチの成功例を1つだけ紹介しよう。

北里柴三郎の優秀な門下生の一人である秦博士は最近、我々の研究所で、バート
ハイム博士が合成した一連の有機化合物の梅毒菌に対する毒性を調べた結果、
ある特定の化合物が梅毒菌によって発熱したマウスを完治することに成功した。
その化合物はフェニル砒酸の誘導体である。しかも、その治療効果は、その薬剤の
最大許容量のわずか3分の1で十分だった。同様な結果がニワトリの梅毒でも示
された。例えば、この表でも示すように、体重1kg当たり わずか1。5 mg
の薬剤が一回で十分である。この投与量を梅毒患者 (成人) に換算すると、
100 mgに当たる。これは極めてすばらしい業績である。同様な結果がウサギで
も見られた。非常に大きな硬性下疳が一回の投与で治癒された。

翌年の1910年の春に、彼の恩師であるフレリックスが始めたフォーラムの席上で、
エールリッヒは、秦の動物実験データ以外に、初めてシュライバー博士とアルト教授
による梅毒患者の「606」臨床テストの結果を披露した。

中略

ちょうど同じ頃(5月27日)、エールリッヒの恩師コッホが心臓麻痺のため、
バーデンバーデンで療養中、静かに亡くなった。コッホはその2年前(1908年)に、
妻と共に世界万遊旅行に出かけ、自分の愛弟子である北里柴三郎の招きで、
日本にも訪れた。北里博士は1890年に(ベルリン大学にある)コッホの
研究所で、フォン・ベーリングと共同で、血清療法を開発したり、破傷風菌の
純粋培養に成功している。 コッホの死は、その無数の弟子にとって、大きな
ショックであると共に、深い悲しみとなった。エールリッヒは、自分の人生に最大の
影響を与えた、師であり友であった故コッホを偲んで、次のような弔問文を書いて
いる。

中略

1910年9月20日に、ケーニスバーグで82回ドイツ自然科学者と医学者学会が
開催された。ここで、「サルバルサン」を創造したエールリッヒが大聴衆の熱烈な
喝采によって出迎えられた。開会の辞で、ドイツ皮膚病及び性病学界の元老で、
枢密官を務めるアルバート・ナイサーが、「梅毒との闘い」に関する過去の業績を
披露しながら、エールリッヒによる最近の研究を称讃した。

中略

週刊誌「ドイツ医学」が、この歴史的学会の模様を「間断なき拍手喝采」という
見出しで報道している。続いて、エールリッヒが熱い拍手に迎えられながら、
サルバルサンの治療を受けた約一万人の梅毒患者のケースについて、その
結果を要約する講演を行ない、こう結んだ。

ジヒドロキシージアミノベンゼン砒素化合物(606)は、臨床、特に梅毒の治療に
有効な化合物の兵器庫に新たに加えるべき真に価値ある弾丸であると、私は
確信してやまない。この薬剤は梅毒のいかなる段階にも効く特効薬であることは
もはや疑いの余地がなく、その必要不可欠さが世界中で認識されている。

中略


14。 「サルバルサン」裁判

エールリッヒの還暦祝い(1914年3月14日)後まもなく、「サルバルサン」
治療の是非をめぐる最初の深刻な論争が始まった。実際には、この争いは
1910年12月13日以来くすぶり続けていた。その日、ベルリン皮膚科学会の
席上で、リチャード・デュリューという医師が初めて、この治療薬に反対する
意見を述べた。

ベルリン出身の40歳の皮膚科医師であるデュリューは、かつて理髪師、学校、
警察に関する衛生問題に関与していた。その他アルバイトで、ベルリン警察
(売春犯罪部門)の医師として勤務していた。

皮肉にも、多くの臨床医が、エールリッヒはサルバルサンのテスト(臨床試験)
に時間をかけ過ぎると苦情をこぼしている矢先に、デュリューは逆に、この研究
者はほんの2、3百名の梅毒患者を対象とする、わずか5カ月のテストで、この
薬を実際の治療のために供給し始めていると非難した。当時(有効な治療法が
全くないため)毎年3000人近くの梅毒患者が次々と死亡していた。そこで、
学会の議長は、デュリューがサルバルサン批判を延々始めると、あわてて講演の
途中で「時間切れ」を宣言しようとした。 そして、大部分の良識ある医学関係の
雑誌は、彼の「サルバルサン批判」を掲載することを拒否した。 そこで彼は、
ドイツ全体がいわゆる「サルバルサン」マフィア (エールリッヒと製薬会社
「ヘキスト」)に牛耳られて、彼の批判を抹殺しようとしていると誹謗し始めた。

デュリューによる度を越えたエールリッヒ非難にとうとう業を煮やしたフェリックス・
ピンカス(1868ー1947)は、ベルリン裁判所を介して、デュリューとベルリン
警察との間の契約を破棄させた。 ピンカス博士はベルリンのフローベル病院長で、
エールリッヒの従弟にあたる。以来、デュリューはその敵(かたき)を取ることに
執念を燃やし始めた。 サルバルサンとその発見者エールリッヒを亡ぼさんとする
活動に専念した。 デュリューは2、3の(反ユダヤ主義の)国会議員や新聞社の間に、
彼の活動をバックアップする仲間を見つけた。例えば、地元のタブロイド版「フランクフルト
ファッケル」は、エールリッヒを「キリスト」にたとえ、スイスのバーゼルの新聞
「土曜日」も、「フランクフルトの救世主は、製薬会社ヘキストを介して、サルバルサンで
大儲けをしている。なぜなら、薬価は生産コストの7ー8倍だからだ」と誹謗した。

さて、1914年3月10日になって、サルバルサンを使用した(百万人を越える)
梅毒患者の間から275人の死亡者が出たことが、デュリューらの調査によっ
て明るみに出て、デュリューはそのデータを盾に、「サルバルサンの国内販売を
即時禁止せよ」と厚生省に訴えた。

そこで、エールリッヒは公式の反撃を開始し、まずウイーンの「自由プレス」に
彼の専門家としての見解を発表した。

「不幸にして死亡した275名の梅毒患者の死因がサルバルサンのみにあるという
確固たる証明はまだないが、たとえ、それが事実であったとしても、それはその薬を
使用したために、生き残った梅毒患者の数(百万人以上)にくらべれば、ごく少数
(一万分の3以下)である。従って、この薬のメリットは、その副作用に比べると
圧倒的に高い。従って、梅毒のサルバルサン治療を止めるべき理由は、今のところ、
きわめて希薄である。 死因がサルバルサンである、という確証が仮に出れば、
もちろん将来、より副作用の少ない新薬を開発する努力を、我々は続けるべきだろうが」

1914年6月になって、いわゆる「サルバルサン」戦争の戦場がベルリンから
フランクフルトへ南下してきた。というのは、フランクフルトに住むカール・
ワスマンとその弟ハインリッヒが、自宅で印刷している瓦版「自由主義者」に、
サルバルサンを誹謗する記事を載せて、街角で売りさばき始めたからだ。
題して「売春とサルバルサンとの戦い」。

この戦いの起こりは、その記事によると、売春婦や売春業者たちがワスマンに、
次のような苦情を訴えたという。 フランクフルト病院で売春婦たちに、強制的に
(臨床テストがまだ不十分なままの)サルバルサンが投与された。ワスマンの
考えによれば、この病院の皮膚科の長であるヘルクスハイマー教授やその部下の
上級内科医は、単なる利潤追求者に過ぎず、その貪欲は計画的な殺人をもたらした。。。

その「殺人」とは、売春婦で梅毒感染が「ワッセルマン反応」陽性で明白になった
ルーシー・ポルマンという若い女性が、病院で (従来、梅毒治療薬として使用
されてきたが、余り実効果のない)水銀剤の代りに、サルバルサンを投与されたが、
2、3日後に死亡してしまったという、場合によっては(もし、事実ならば)
「過失致死」になるかもしれない事件を指す。

(直接の当事者でない)エールリッヒと「ヘキスト」は、このワスマンを無視し
ようとした。 ところが、(誹謗を受けた当事者の)ヘルクスハイマー教授は、
我慢ならなかった。エールリッヒや「ヘキスト」からの忠告を無視して、ワスマンを
名誉毀損罪で訴えた。奇遇にも、ワスマンによるこの事件に関する記事に登場
する主な目撃者は、元「ベルリン警察売春犯罪部の医師」だった。。。 デュリュー
との「共謀」の臭いもする。。。

1914年6月8日に、フランクフルト裁判所で、裁判長ハインリッヒ・ヘルドマンの下で、
公判がもたれた。傍聴席は超満員だった。裁判長がまず被告ワスマンに、こう質問した。
「病院の医師たちが、利潤を追求する実業家たちから金銭などの賄賂を受け取った
という事実を証明する物証はありますか?」
それに対して、被告はこう返答した。
「我々は、大企業がこの事件の裏にいることを知っています。 この薬はキロ当たり
8マルクで生産できるが、それを一万マルクで市販しています」
同時に被告ワスマンは、検察側に向かって、原告の訴えを取り下げるよう、要求
した。それに対して、裁判長が被告に「罰金」を言い渡すと、ワスマンは怒鳴り
散らした。
「政府もこの事件の裏に関与しているので、私の言葉に耳を傾けようとしないん
だ!」

次に、ヘルクスハイマー教授が目撃者として、喚問された。彼はこう証言した。
「私は1910年5月に初めて、サルバルサンを患者に投与しました。もちろん、
患者の希望に応じてです。サルバルサンが無数の医療センターで十分にテスト
されてから、6月に売春婦たちにも使用し始めました。もちろん、科学的な確信に
基づいてです。それ以外の動機は全くありません」
最後に、教授はこう力説した。
「我々の病院で、サルバルサンが原因で死亡したケースは皆無です!」

最後に判決が下された。
「被告は、衆人の関心を引くために、事件を故意にドラマ化した疑いがある。
しかしながら、被告が原告にいわれのない誹謗をしたことは明白である。よって、
検察側からの懲役6カ月という求刑をさらに倍加して、懲役12カ月を言い渡す。
閉廷!」
ワスマンはその場で逮捕され、刑務所に護送された。

中略

15。 最後の訪問者たち

ほとんど毎日のように、エールリッヒのオフィスに通ずるGSHの廊下を訪問者
の列が連なった。その中には、自分らの「最後の希望」であるエールリッヒに感
謝の意を表する多くの梅毒患者がいた。あるいは、この偉大な人物にひと目会い
たいと願う多くの医者たちがいた。しかしながら、これらの無数の面会は、彼に
残された貴重な限られた時間を奪うことになったが、柔和な彼は、敢えて面会を
断わろうんとはしなかった。

さて、ある日のこと、「シオニスト運動」とアセトン発酵で有名な生化学者チャイム・
ワイズマン(1874ー1952)が彼のオフィスを訪れた。ワイズマン博士は、
1949年にパレスチナにユダヤ人の国「イスラエル」を建国し、その初代大統領に
なった人物である。当時、ワイズマン教授は、エルサレムにヘブライ大学を
創立するために奔走していた。パリのエドモンド・デュ・ロスチャイルド男爵は、
もし、ワイズマンがエールリッヒを説得して、彼がこの大学の理事長を引き受ける
ならば、この大学創立案を支援する用意があると表明していた。ワイズマンは
エールリッヒと面会して、極めて感銘し、その時のことを、後に回顧録「試行錯誤」
(1949)に、こう記述している。

私は彼に初めて面会するまで、彼はユダヤ人問題にほとんど関心をもっていない、
と聞いていた。否、ユダヤ人問題ばかりではなく、医学研究以外の問題には一切
関心がないようだった。そこで、私のベルリン時代の旧友(学者仲間)で、彼の
親戚にあたるランダウ教授をベルリンに訪ね、エールリッヒとの面会をアレンジ
してもらった。

エールリッヒは私が生化学者であることを心得ていたが、私が彼に面会しにきた
本来の目的を知らなかった。そこで、彼に会うなり、私は(ヘブライ大学の問題
を話題にする前に)彼の化学療法論の宣伝をたっぷり聞かされる羽目に陥った。
もちろん、彼の話は極めて魅惑的だった。 しかしながら、私の本来の使命も
果たさねばならなかった。そこで最後に、勇気を振り絞って、話題を彼の「十八番」
から、ヘブライ大学問題へギアチェンジを図った。

彼は次第に私の話に関心を示し始めた。ところが、20分ほど経つと、彼は急に
私の話をさえぎって、こう言った。
「すまんが、話は取り敢えず、ここで打ち切ろう。患者たちの診察を全部済ませ
てから、我々の自宅で話を続けよう」

それから、懐中時計を取り出して、叫んだ。
「大変だ! 君と一時間近くも長話をしてしまった。あそこの廊下には、伯爵、
子爵、大臣などが私に面会するために、首を長くして待っているんだ。彼らは
10分でも私から時間を割いてもらえれば、満足なのを知っているかい?」
そこで、私も冗談混じりに、こう応酬した。
「もちろん、エールリッヒ教授、私は十分心得ていますよ。でも、彼らと私とは
大違いです。連中はあなたから注射をしてもらうために来ています。私は逆に、
あなたに注射をしに来たのです」

その晩、我々は彼の自宅で相談の続きをやった。そこで、エールリッヒ夫人にも
あった。典型的な思いやりの深い主婦で、ご主人のだらしなさや喫煙を諌めてい
た。彼は文字通り、間断なく葉巻をふかし続けていた。私の考えでは、彼を殺し
たのは、あの葉巻だ。彼の家をあとにするころには、彼は2、3日中にパリに出
かける際にエドモンド男爵に会うことを約束してくれた。

私はしばらくドイツ国内に滞在してから、過ぎ越しの祝いのために、勤務先の
英国マンチェスターに戻った。すると、エールリッヒからの電報が私を待っていた。
パリからだった。「男爵に会い、ヘブライ大学の理事長になることを承諾した」
私にとって、それは丸で「クーデター」なみの大事件だった! 

ヘブライ大学の創立は1925年になるまで実現しなかった。もっとも、その土台は
第一次世界大戦中に立てられたが。1927年の夏、エールリッヒの娘婿で
あるエドムンド・ランダウ教授が、ヘブライ大学で講演をした。

野口英世も、1914年3月14日(ちょうどエールリッヒの還暦祝いの日)に、
彼のオフィスを訪問した。野口博士は当時、米国のロックフェラー研究所で、
梅毒性進行麻痺で死亡した患者の脳中に、梅毒菌「スピロヘータ」を検出するのに
成功して、この病因が梅毒であるかどうという長年の論争にケリをつけたところ
だった。野口博士は、その日、フランクフルト大学の医学部で行なった講演で、
こう述べた。

中略

1915年8月17日の晩中に、エールリッヒが心臓発作で倒れた。腎臓の機能
が駄目になり、尿毒症を起こして、意志を失った。彼は8月20日の午後、死亡
した。10月26日付けのハーター夫人宛の手紙に、未亡人はこう書いている。

「それは静かな、安眠でした。夫パウルは死の直前まで、ほがらかで、おしゃべ
りで、頭脳がはっきりしていました。もちろん、



エールリッヒのなきがらは、8月23日にフランクフルトのユダヤ人墓地に埋葬
された。ダビデ王の星と医術の神の印が墓石に刻まれた。彼の死を悼む大勢の
慰問客の中に、エミール・フォン・ベーリングの姿もあった。ベーリングは、のち
に長文の美しい弔文を書いた。しかしながら、葬式の当日、ベーリングは健康状
態がかなり悪く、わずか2言3言、つぶやくに過ぎなかった。
「君は感受性の高い人だった。心ない我々が君の心を傷つけたのを許してくれた
まえ」



16。エピローグ: エールリッヒ夫人の運命

夫の死後、エールリッヒ夫人は娘たちや母親と共に、ウイースバーデンのホテル
「ローズ」に2、3週間ほど滞在した。その後、すっかり空っぽになってしまった
ウエストエンド街の自宅に戻った。第一次世界大戦後、敗戦したドイツ国内に
おける急激なインフレーション(マルクの暴落)のため、多額の財産を失った。
その上、1921年になって、(チューリッヒからフランクフルトにやってきて、
1918年以後GSHの所長になった)ウイルヘルム・コレとその理事会がエー
ルリッヒ夫人へ払うべきサルバルサンに関する特許権使用料の支払を打ち切ろう
とした。15年間にわたり、年間60万マルクにおよぶものだった。フランクフルト
での民事裁判の結果、彼女は政府から未亡人年金を受け取る外に、年間わずか
5100マルクをGSHから受け取るという妥協案が成立した。この裁判ざたは、
彼女と(GSHの創設に奔走してくれた)ダームシュテッダー教授との間の
長年にわたる親密な関係に大きな亀裂が入った。しかしながら、1929年7月
13日に、彼女は「パウル・エールリッヒ財団」を創設した。

中略

1938年8月23日、ナチスがパウル・エールリッヒ街を改名した時には、まだ
ドイツ国内に留まっていた。その頃までに、彼女は自分の名前「ヘドウイック」
の前に「サラ」というユダヤ人特有の名前を付け加えることを強制された。そこで、
娘ステファニーの夫であるエルンスト・シュウエリンの勧めに従い、まずスイスヘ、
さらに米国に亡命した。

中略

1939年から1941年まで、彼女はジュネーブに住んでいた。米国への入国
ビザが出るのを待っていたのである。その間もいつ何時ヒットラーがスイスを占
領するかもしれないという危惧に悩まされていた。1941年の夏にビザがとう
とう下りた。7月にポルトガルの「ニヤッサ」号という船に乗船して、12日間
かかって、大西洋を横断して、米国のニューヨークの波止場にたどり着いた。

中略

戦争中であったにもかかわらず、敵国の英雄エールリッヒの名は米国で広く一般
国民の間でもよく知られていた。その一つの理由は、1940年に制作されたMGM
映画「エールリッヒ博士の魔法の弾丸」の成功のお蔭である。MGM(現在の
「ワーナーズ・ブラザーズ」)は「ルイ・パスツール」に関する伝記映画で大成功を
収め後まもなく、エールリッヒに関する伝記映画の制作を、監督ウイリアム・
ディータールの下で、開始した。前述したが、主演のエドワード・ロビンソンが
エールリッヒ役を熱演した。エールリッヒ夫人役には、チャーミングなルス・
ゴードンが抜擢された。大物脇役キャストには、多くのドイツからの移民名優が
起用された。例えば、エミール・フォン・ベーリング役を、オットー・クルーガー
が、ロベルト・コッホ役を年配のアルバート・バッサーマンが各々演じた。この
映画は、話の筋をドラマチックにするために、多少史実から逸れている部分が
ある。例えば、サルバルサン裁判の場面では、エールリッヒ自身が
被告席に坐り、サルバルサンによる副作用(梅毒患者の死亡)の責任を問われる。
そして、最後の土壇場で、旧友ベーリングが彼を救うため、裁判所に出頭して、
エールリッヒの無罪を証明する。実際には、エールリッヒは被告の席に立たされた
こともないし、彼とベーリングの仲は、もはやそれほど近しくなかった。

実は、この映画には、米国政府からの戦争キャンペーンがそれとなく、盛り込ま
れていた。1つは米軍の将兵たちに、従軍先で梅毒に感染せぬよう警告している
こと。もう1つは、「梅毒」をヨーロッパに蔓延するヒットラーのナチ運動になぞらえ、
それを退治しようとする「魔法の弾丸」をアメリカと暗になぞらえる、という賢い
トリックを使っている。従って、映画では、エールリッヒ博士はいわば「英米側」の
英雄になっているのだ。

さて、この映画が制作されたのは、太平洋戦争開始(日本軍による真珠湾攻撃)
以前なので、エールリッヒ博士の日本人助手、秦佐八郎が「人種偏見」なしに描
かれている。秦役を演じたのは、若い日本人2世である堀内義隆だった。
(1980年に「パウル・エールリッヒ」メダルを受賞した)梅沢浜夫の自伝
「抗生物質を求めて」(1987年)によれば、梅沢博士が渡米前(1949年頃)、
英語会話のレッスンを、当時、日本に滞在していた堀内氏から直に受けたそうで
ある。 彼はのちに実業家として活躍するようになる。

1948年12月20日、エールリッヒ夫人はニューヨーク市内の76番街にある
ゴッサム病院で、心臓麻痺のため亡くなった。彼女の簡素な墓は、ニューヨーク州
ウエストチェスター郡にあるマウント・プレザント墓地にある。彼女の娘夫婦
(エルンストとスタファニー)もそこに永眠している。

エールリッヒの偉大な才能の1つは、自分の仮説を実験的に証明した上で、
実用化し(実際に医療に役立て)うる能力だった。


中略

癌研究分野でも、エールリッヒに負うところが大である。彼の方法論ばかりでは
なく、彼が開発した「エールリッヒ腹水癌」と呼ばれるマウス乳癌細胞株も、今日まで
の癌研究に大いに貢献している。

中略

さて、エールリッヒにより(彼の人生の末期に)開発された分野「化学療法」に
ついてはどうだろうか? 伝染病の問題は今日でも、彼の時代と同様、重要問題
として残留している。というのは、マラリアやトリパノゾーマ感染など見られる
ように、「薬剤耐性」という厄介な現象が常時繰り返し発生しているからだ。
エールリッヒは既にそれを予見し、特にトリパノゾーマ感染で、当時から薬剤耐性
問題について深く憂慮していた。

クロロキンによる有効なマラリア治療、さらにクロロキン耐性地域における、
ピリメタミンやスルファドキシンによる併用療法にもかかわらず、多くのマラリア
による感染ケースが発生している。WHO (世界保健機構) からの最近の調査報
告によれば、90以上の諸国がマラリア感染危険地域リストにあげられている。
中南米諸国(アルゼンチン、ブラジル、パナマ、ベネズエラ)、東南アジア諸国
(インド、バングラディッシュ、タイ、インドネシア)、アフリカ諸国(エジプト、コンゴー、
セネガル、タンガニカ)、トルコなどである。マラリア患者の3分の2がアフリカ諸国、
5分の1が東南アジア、10分の1がトルコに分布している。一番問題なのは、
早期診断が遅れていることである。さらに、「眠り病」もいまだにアフリカから
撲滅されていない。特に中央アフリカのコンゴー地方、およびケニヤや
ウガンダ地方では、その危険が高い。主な治療薬は有機砒素であるが、
最近(2000年代)になって、東大医学部の北 潔教授らが、抗生物質
「アスコフラノン」を「眠り病」の特効薬として開発しつつある。この新薬は、
ニガキ科植物等に存在するインドール骨格を有するアルカロイドで従来、血糖や
血中脂質を低下させる作用や抗癌作用などが知られていた。従って、従来のメラ
ミン核を有する有機砒素剤(例えば、1949年に開発された「ヘキスト」社の
「メラルソプロール」など)とは構造的にも機能的にも全く違うので、これら従来の
薬剤に対して耐性になった「眠り病」の病原体である原虫にも有効である
ばかりではなく、副作用がずっと少ないはずである。


中略

1954年、エールリッヒの生誕100年を祝って、ペニシリンの発見者
アレキサンダー・フレミングは、こう語っている。

1909年のエールリッヒ博士による梅毒の特効薬「サルバルサン」の発見は、
化学療法の一里塚を築いた。この薬は患者の身体に害をもたらさない濃度で、
病原菌を選択的に殺す作用を持つ。ちょうどこの薬が発見された時期に、私は
ワッセルマン反応による梅毒の診断法に、自分の研究を専念していたから、この薬の
発見に極めて興味を感じた。我々の研究所(ロンドン大学付属「聖マリー病院」)
のアルムロス・ライト所長(1861ー1947)は、エールリッヒ博士の友人
だったので、臨床試験を開始するために、ドイツから早速「「サルバルサン」を
手に入れた。そして、この特効薬の梅毒に対する驚くべき威力に、我々は驚嘆し
た。信じられぬくらい短期間に、梅毒による潰瘍が治ってしまったからだ。以来
何十年も経っているが、我々の病院へ最初にサルバルサン治療を受けにやって来
た梅毒患者の一人を今でもハッキリ憶えている。その患者は、鼻の隔壁や口蓋が
梅毒のためにジワジワと蝕まれていた男性だった。サルバルサンを一回注射した
だけで、たちまち全てが元通りに回復し始めた。彼のうれしそうな顔が目に浮か
ぶ。。。

中略

梅毒の治療に関して、このような印象深い体験をした私は、細菌感染のために
腐敗する戦傷の治療に有効な抗生物質を何とか見つけたいと、以来考え始めた。
第一次世界大戦中、私は抗菌物質がいかに細菌や我々自身の細胞に作用するかを
研究しているうちに、それまでに使用されてきた大部分の抗菌化学物質が、細菌
ばかりではなく、我々の白血球にも強い毒性をもっているという意外な結論に達した。
私が最初に発見した、細菌に選択毒性を発揮する物質は、ペニシリンだった。
しかしながら、1929年に私が発見したペニシリンは、純粋な物質ではなく、
青カビの培養液に過ぎなかった。その培養液は、細菌を殺したが、我々の白血球
には毒性がなかった。そこで、将来いつか、この物質が戦傷の治療に役立つ日が
やってくることを確信した。しかし、その夢が実現するには、その後15年近く
もかかった。豪州出身のハワード・フローリー(1898ー1968)を中心して、
この青カビの大量培養により純粋なペニシリンの大量生産に成功し、世界で
初めてペニシリン治療が開始したのは、第2次世界大戦の最中、1943年初め
のことだった。


中略

1943年に初めて、ニューヨークの医師ジョン・マホーニーがペニシリンの梅毒に
対する治療効果を証明して以来、副作用がずっと少ないペニシリンが
サルバルサンにとって代わり始めた。さらに、いわゆる「ペニシリン・ショック」
(アレルギー)という弊害を克服するために、他のいくつかの抗生物質、例えば
エリスロマインシン、テトラサイクリン、セファロスポーリンなどが開発され、梅毒
の治療にも使用されるようになった。そこで、1974年には、サルバルサンの
製造が65年ぶりに停止され、いわゆる「サルバルサン時代」にとうとう幕が下
りた。

続く

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