2008年12月29日月曜日

『型破りの女たち』 シリーズ; その1

  
澤田美喜(1901-1980)

1901年9月19日、エリザベス・サンダース・ホームの「ママちゃま」こと岩崎(澤田) 美喜が生まれた。

外交官澤田廉三と結婚、パリなどで生活。終戦後の昭和23年2月1日、神奈川県大磯町にエリザベス・サンダース・ホームを設立する。これは占領軍の兵士と日本女性の間に生まれてから捨てられた子供たちを育てるための施設で、この施設から2000人ほどの子供たちが巣立った。

こういった子供たちの存在を政治家や官僚たちは米軍による日本占領の恥部と考え、アメリカ政府も日本政府この問題には敢えてふれたがらなかった。しかし澤田夫妻は立ち上がった。

澤田廉三氏は、戦後の日本の国連加盟に尽力した人である。子供たちは親に捨てられたということと、肌の色が違うということで世間から二重の不当な差別を受けていた。そのため彼らは、例えば、ホームのある大磯の海岸で海水浴を楽しむことさえもできず、廉三の故郷の鳥取県岩美町の海岸でやっと受け入れてもらえた。ここはホームの第二のふるさとで あり、澤田夫妻の墓もここにある。

「彼女はライオンのように困難に立ち向かい、ヒツジのように子供たちに接した」とは、ねむの木学園で子供達を救った宮城まり子さんの評である。

http://www.ffortune.net/social/people/nihon-today/sawada-miki.htm

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日米混血孤児たちの母: 『エリザベス・サンダース・ホーム』の澤田美喜

太平洋戦争で、無謀にも米国を相手に戦った日本は、予想通り敗戦し、1945年8月15日に無条件降伏をした。終戦後まもなく、ダグラス・マッカーサー元帥に率いられた米国の駐留軍が日本を占領しにやってきた。この占領軍は、旧日本軍事政権の追放、戦争に加担した旧財閥の解体、新しい(民主的な)憲法の草稿などにより、男女同権や天皇の象徴化を確立し、封建的であった日本社会の民主化に大いに貢献した。

 しかし、いくつかの弊害も残した。その1つが日本国内、特に東京・横浜周辺(立川、横須賀など)や沖縄全体に巨大な米軍基地を、半永久的に建設したことである。そして、その結果として、米軍将校や兵士たちと基地周辺に住む日本女性との間に、いわゆる混血児たちが生まれた。日米混血児の誕生そのものは、もちろん弊害ではないが、問題は、父親であるべき米軍将兵たちが、任務を終えて米国に帰国する際、自分の子供たる混血児を、日本に置き去りにしていったため、その大部分が「父なし子」にされたことである。いわば、プッチーニの歌劇『蝶々夫人』の戦後版である。

 さらに悪いことには、当時の日本社会には、人種偏見、差別意識がきわめて根強く、混血児を一人前の人間として扱う姿勢がほとんどなかったことである。「父なし」混血児を抱えこんだ貧しい日本人の母親たちの大部分には、自分独りで、その子供を、周囲の人種差別に抗して、育てていくだけの強い精神力も経済力もなかった。こうして、大部分の混血児たちは、自分の母親にも見捨てられ、「孤児」として路傍に捨てられ、あるいは路傍で乞食をする運命を辿った。これらの哀れな混血孤児たちをできるだけ多く救済せんと、大磯にある別荘を解放して、『エリザベス・サンダース・ホーム』という施設を設立し、これら孤児の養育、教育、職業訓練などのために後半生を捧げたユニークな女性が、澤田美喜女史である。

岩崎家の娘

 彼女の生い立ちも極めてユニークである。両親は、三菱財閥の3代目社長、岩崎久弥とその妻静子であった。つまり、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎(1834~1885)の直系の孫娘にあたる。岩崎美喜は、1901年9月19日に、第4子(長女)として、東京で生まれる。3人の息子のあとに生まれた最初の娘なので、特に祖母の喜瀬(1845ー1923)は、丸顔でみるからに丈夫そうな美喜の誕生を殊の外喜んだといわれている。「美喜」という名前は、久弥の叔父である岩崎弥之助(当時の岩崎家の長老)が、久弥の祖母である美和の「美」と母である喜瀬の「喜」とを合わせ、命名したものである。美喜は幼い頃から「男勝り」で、「女梅ヶ谷」という仇名をつけられた。梅ヶ谷は当時の有名な横綱で、美喜の命名式のときに、赤ん坊の彼女をダッコしてくれた関取である。美喜は、3人の兄と一緒に弓道や柔道を習った。ある日、3歳年上の従兄が美喜に柔道で挑戦してきた。ところが、何度挑戦しても、彼は「柔ちゃん」美喜の返り打ちにあって、とうとう一度も勝つことができなかったといわれている。子供の頃、美喜はいつも3人の兄からもらうお古の着物に甘んじていた。しかし、それも気にならなかった。兄貴たちから、「西郷どん」という仇名をもらって、美喜はご満悦だった。岩崎家の屋敷は、湯島天神の近くにあった。そこから坂を下って不忍池を横切り、上野の山(上野公園)に上ると、愛犬「ツン」を連れた明治維新の悲劇の英雄、西郷隆盛の銅像がある。ちなみに岩崎家は、元々四国高知の土佐藩の出身である。明治維新の際、鹿児島の薩摩藩出身の「西郷どん」と共に活躍した悲劇の英雄、坂本竜馬も、土佐藩の出身である。

 美喜は学齢期に達すると、自宅からそう遠くない、当時お茶の水にあった私立の東京女子高等師範学校 (現在大塚にある国立のお茶の水女子大学の前身)付属の幼稚園に通い始めた。いつも女中に引率されて、2人乗りの人力車で通学した。美喜は自分の屋敷内でテニスや自転車を楽しむことができた。しかし、屋敷は高い塀に囲まれ、隣や近所に住んでいる同年配の子供たちと親しい会話を交すことができなかった。そこである日、美喜はどこからか長い梯子を見つけ出し、高い塀を乗り越えようとしたが、とうとう見つかって、引き戻され、お仕置きを受けた。その出来事を、あとで級友に話したところ、それから1ヵ月たって、それに同情した級友の兄が、ある少女雑誌に投稿した『岩崎家の娘は、小さな安アパートの生活を夢みている』というタイトルの記事が掲載された。驚いたのは、岩崎家の両親であった。

まず美喜は3日間、屋敷の奥の間に缶詰状態にされ、その間、この強情な娘を今後どう処置すべきかについて真剣に議論するため、岩崎家全体の御膳会議が延々もたれた。「通学を禁止して、高知県の田舎にある実家へ送り返すべきだ」という極論まで飛び出したが、結局結論が出ずじまいで、通学が許され、平常な生活に戻った。

聖書との出会い

 あるとき、家族中に百日咳が蔓延したことがあった。兄妹の中で最後にこの伝染病に患ったのは美喜だった。早速、美喜は療養のため、大磯にある別邸に看護婦と共に送られた。ある晩、美喜が床でウトウトしていると、病人がもう眠ってしまったと勘違いした看護婦が、1冊の本をハッキリした声で朗読し始めた。美喜には、まだ全体の意味は良くつかめなかったが、「汝の隣人を愛せよ」という言葉に、強い印象を受けた。次の晩、美喜は早くから狸寝入りして、看護婦がまた朗読し始めるのを今か今かとじっと目をつぶって待っていたが、あいにくその晩は疲れていたためか、その看護婦は朗読をしないまま、すぐ床に入ってしまった。そして3日目の晩がやってきた。美喜がまた狸寝入りを始めると、まもなく看護婦が2人の息子を持つある父親の話を朗読し始めた。息子の1人は勤勉で頼りになる人物だったが、もう1人は、ろくでなしの息子で、家出したあげく持ち金を全部使い果たしてしまう。最後にその放蕩息子が家に舞戻ってくると、その父親は、その息子に駆け寄って、無事に帰宅したのを心から歓迎し、息子の過去の親不孝を全て許してやる。

 美喜は、大磯で療養中、母から送られた2冊の本を読んでいた。その1冊は石童丸という若い侍の話である。彼の父親 (加藤なにがし) は、ある日、生と死の大問題を解くため、妻子を捨てて、坊主になり、祈祷と冥想の世界に引き篭もってしまう。ところが、その妻が重病にかかり、息子 (石童丸) はその父親を探しに旅立つ。種々の困難を克服して、息子は出家した父親を、とうとう山奥の洞穴で見つける。「私の母が死にかかっています!」と告げる。しかし、父親はそれに動じることなく、「我に妻なし、息子なし」と答えて、念仏を唱え続ける。石童丸が家に戻ると、母親は既に息を引き取ったあとだった。もう1冊の本は、日本の「仇討ち」話である。ある侍が、騙しうちにあって殺される。残された妻は、「夫の仇討ち」をひたすら願いながら、独り息子を育て上げる。母から、ありとあらゆる武道を学び、厳しい修行を受けた後、息子は立派な成人になる。そして。父を殺した敵(下手人)を探し始める。最後に2人は海岸の絶壁で、果たし合いを演じる。長い戦いは、息子が相手をついに倒し、敵が海中に落下する瞬間に終る。

 美喜は子供ながらに、この2つの日本の話、つまり「現世を否定する」仏教徒や厳しい「仇討の掟」に従う侍の人生と、放蕩息子を許す優しい父親の生き方を比べてみた。美喜は、看護婦に「なんという本を読んでいるのですか?」と尋ねた。虚をつかれた看護婦は、美喜を何とか避けようと試みた。だが、美喜のしつこさに、とうとう根負けして、その本が、実はキリスト教の新訳聖書であることを告白した。岩崎家の人々が真言宗の仏教徒であることを知っていた看護婦は、もし美喜が祖母に、「放蕩息子」の話をすれば、自分が直ぐ解雇されることを恐れていたのだ。こうして、美喜は、この世には真言宗以外の宗教があること、そして武士道以外の生き方があることを初めて学ぶ機会を得た。

 全快した美喜は、東京の自宅に戻リ、お茶の水の学校に通学し始める。同級生の中に、クリスチャンが1人いることを、間もなく彼女は発見する。美喜は、大事にしていた手提げバッグと交換に聖書を1冊、その友達から手に入れた。しかし、祖母がそれを目敏く見つけて、とうとう没収してしまった。美喜は諦めなかった。また別の宝物と交換して、聖書をもう1冊手に入れた。だがそれも束の間、直ぐ祖母にみつけられてしまった。今度は聖書を焼かれてしまった。美喜の兄弟の中にひとり「野球気違い」がいた。野球にホケている内に、学校の成績が下落してしまった。その罰に、彼が大事にしていたボールやグラブやバットも全部取り上げられ、美喜の聖書2冊と一緒に、火の中に投げ込まれた。2人の幼い子供は、カマドの前で、悔し涙をボロボロ流しながら、燃えていく本や野球の道具をじっと見つめていた。

 昔気質の祖母(喜瀬)は、美喜がキリスト教に関心を抱くことに、ひどくショックを感じ、美喜にこう詰問した。
「おまえがクリスチャンになったら、誰がご先祖さんのお墓をお守りするの?」
美喜には、適切な答えが浮かばなかった。美喜は祖母が好きだったので、キリスト教のことをスッカリ忘れようとした。しかしながら、彼女の頭にもたげてくるキリスト教という新しい思想への好奇心を完全に抑えることはできなかった。

 美喜の誕生日が近ずくと、父親が美喜に、「誕生日祝いに、何が欲しいかね」と訊いてみた。美喜は即座に、「教会の礼拝に一度行ってみたい」と答えた。父親は高校時代を米国のフィラデルフィアで過ごし、かつペンシルバニア大学の卒業生である。そして当時、アメリカのクエーカー教徒の家に間借りしていたことがある。だから、美喜の頼みをきいてやり、自分の母親(喜瀬)を説得して、赤坂の米国大使館の近所にある東京都募金会「霊南坂教会 」の礼拝に、美喜が参加できるように手配した。2人の女中が美喜の付き添いになって、教会に出かけた。木崎ひろみち牧師は、その朝の礼拝の朗読に、「汝の隣人を愛せよ」という聖書の一節を選んだ。礼拝の終りの祝祷が始まる前に女中たちは、そそくさと美喜を家へ連れ戻した。

 美喜は父親に、祖母が心配しないようにキリスト教に関する話題に一切ふれないようにすることを約束した。もっとも、少し賢くなった美喜は、こっそり聖書をまた手に入れた上、今度は見つからないように、安全な場所に用心深く隠した。聖書の入手先が、どうやら美喜の通学先(お茶の水の学校)であることを察した祖母は、とうとう美喜の通学を禁止して、家庭教師を雇って自宅教育を始めることにした。

こういういきさつで、英語の家庭教師として雇われたのが、津田梅子女史(1864~1929)であった。女史は、1871年に、日本女性として初めて米国に留学し、名門女子大の1つ「ブリン・モーア校」を卒業した。11年間の渡米生活を終え帰国後、1900年には、津田英語塾(現在の津田女子大学の前身)を創立し、日本女性のための西欧由来の近代教育に貢献した。英語をマスターすることは、美喜が念願していた海外へ行くチャンスをつかむには、必須条件であった。
母親は美喜の夢をかなえてやるために、色々な形で励まし、美喜を外務省に勤める外交官の嫁にする準備を秘かに進めた。

三菱財閥を創始した祖父「弥太郎」

 岩崎弥太郎が侍の長子として生まれたのは、1834年、もう幕末にかなり近い頃であった。当時の日本の支配者である徳川幕府は、まだ鎖国を続けており、外国との貿易は、長崎の出島でオランダ商人との取り引きに限っていた。しかしながら、
1853年になって、米国が総督ペリーの率いる黒船艦隊を日本の沖合いに停泊させ武力で威嚇しながら、日本の開国を要求し始めた。翌年、幕府は渋々米国と和平通商条約に調印した。ところが、幕府の政策に不満を抱き、天皇制を復活し、外国人たちを排斥しようと主張する、いわゆる「尊王攘夷」のグループが、外様大名である長州(山口県)、薩摩(鹿児島県)、土佐(高知県)を中心にして、幕府を打倒する運動を始めた。結局、徳川幕府を守る佐幕派と天皇制の復活をめざす尊王派との間に内戦が勃発し、1868年に佐幕派が敗北して、江戸時代はついに終り、明治天皇を冠する明治政府が誕生する。この戦争(明治維新)の前後に、弥太郎は土佐藩の庇護の下、商船を駆使するビジネスを開始する。そして、1870頃に「三菱商会」(戦前の三菱財閥の前身)を創立する。1875年には、三菱商船学校(現在の東京商船大学の前身)を開校する。1880年には、保険会社「三菱海上火災」を創立する。船舶輸送や造船業におけるこのような三菱財閥による独占に抵抗して、ライバルである渋沢栄一らが、明治政府関係者と結託して、弥太郎の進出を杭止めようと、猛烈な反撃に出てきた、しかし結局、1884年に弥太郎がライバルの会社の株を秘かに買い占め、買収の結果、日本郵船船舶を創設する。何ぴとにも止められそうにもない弥太郎の驀進は、しかしながら、1885年2月の彼の急死によって、一応終止符を打たれた。

 若年50歳の弥太郎の死後、弟の岩崎弥之助(1851~1908)が三菱財閥の2代目の社長に就任し、その伝統を継いだ。1890年に弥之助は、皇居の濠端にある沼地を買収し、現在の日本の金融センターである「丸ノ内」の基礎を築く。1893年に、弥之助は社長の座を弥太郎の長男、岩崎久弥(1865~1955)に譲り、三菱財閥の経営からは、一応手を引くが、1896年には、日銀の総裁に就任して、金融界で再び活躍し始める。3代目の久弥(美喜の父親)は、米国で高校・大学教育を受けたというユニークな経験を生かして、国際的なビジョンで、三菱の経営をさらに進めた。久弥は、常に慈善事業に深い関心を示し、2つの日本庭園、駒込にある六義園と深川にある清澄公園、を東京都に寄付する。さらに六義園の近くに、東洋の文化財を保存する「東洋文庫」という図書館も設立する。この久弥の長年にわたる慈善精神が、後年の美喜自身のソーシアル・ワークに深く結び付いていると思われる。久弥は1916年に、社長の座を従弟(弥之助の息子)である岩崎小弥太(1879~1945)に譲る。4代目の小弥太も同様、欧米帰りで、英国のケンブリッジ大学卒である。彼の下30年近くの間に、「三菱」は、ライバル「三井」と共に、石炭や鉄鉱を基礎にする重工業に進出し、巨大な財閥に成長していく。しかし、日本の明治維新以後に開始した「富国強兵」政策は、とうとう、海外の石炭、鉄鉱、石油資源などを確保するために、中国大陸や東南アジアを、一方的に武力で侵略するという大きな過ちを犯すことになる。最後に、無謀にも大国のアメリカを相手に戦争を始めた日本は、結局敗戦し、太平洋戦争に深く加担した三菱・三井・住友などの大財閥は全部、終戦後まもなく、米国占領軍のGHQによって、徹底的に解体される。こうして、4代、75年間続いた三菱財閥は、1945年をもって解散の運命をたどる。

美喜の結婚

 さて、岩崎久弥が三菱の社長を引退してから数年後、1922年の夏に意外な事件が、その「お転婆娘」美喜の周辺に起こった。成人した美喜の従姉妹たちは全員、既に結婚していた。長女の美喜には、2人の妹(次女のすみ子と末っ子の綾子)がいた。そして、3人共、当時の娘たちの「結婚適齢期」を迎えていた。ところが、岩崎家には、年令の順に嫁ぐという古い伝統があったので、妹2人は、姉の美喜を出し抜いて、先に結婚するわけにはいかなかった。こうして、美喜に見合いのプレッシャーが次第に強くかかってきた。それまで数年間、美喜は親類の男たちとの見合いの話があるたびに、色々手を変え品を変え、それを撃退してきた。そこで、両親は親類との結婚プランをすっかり諦めて、ある若い外交官との見合いを秘かに仕組んだ。美喜の叔母にあたる加藤夫人や幣原夫人は、有名な外交官の妻であった。

そこで、この叔母たちの協力を得て、岩崎家は一計を案じた。ある日曜日の朝、母の静子が美喜にこう言った。
「岡部さんから、今朝電話があって、今日午後、お茶の会にきてもらって、美喜にお客さんの接待をお願いしますって。どう、やってくれる? もしかしたら、海外からの客や外務省の人達もくるかもしれないので、きちっとした服装でお願いしますよ」
それを聞いた美喜は、従姉妹の岡部さんが、美喜のために、ある外交官をまた紹介するつもりなんだな、と察知した。赤坂にある岡部家に美喜が着くと、外国人の客も外務省からの客も誰一人いなかった。大部屋には、叔母たちと従姉妹たち一同が集まっていた。美喜が部屋に入るや、ほとんど大部分が部屋からゾロゾロ出ていって、部屋に残ったのは、美喜と叔母の加藤夫人だけになった。叔母はこう切り出した。
「美喜さん、あなたをちょっと騙したようで悪いんだけど、今日はあなたのお婿さんに相応しい人を紹介したいの。親戚の人ではありません。あなたはお嫌いでしょうから。だから、ご安心下さい。彼は外国勤めの人なんですよ。あなたは海外生活に憧れていたでしょう?」
美喜は、マンマと罠にかかったと思った。だが、その若い男性に会うことには同意することに決めた。美喜が見合いを渋々ながら承諾したのを知って、一同部屋へゾロゾロ戻ってきて、見合い相手の到着を、今か今かと待ちわびた。約束の時間は、午後3時だった。しかし、定刻をとうに過ぎても、彼は姿を現さなかった。家族はヤキモキしながら、座ったまま、さらに客の到着をずっと待ち続けた。最後に1時間ほど遅れて、岡部家の玄関先で、来客を知らせる呼び鈴が鳴った。一同固唾を飲みながら、来客の現われるのを待った。問題の見合い相手は、澤田廉三だった。彼は遅刻の言い訳をしながら、こう謝った。
 
「実は、今日パリから帰宅しました。フランスでは、午後4時半頃にお茶を飲むのが習慣になっておりまして、誠にうっかりして、日本の習慣である(早めの)午後3時のお茶会に、遅れまして大変失礼しました」
廉三は、フランス服に、グレーの手袋、細めのステッキというイキな出で立ちで、ご婦人連の前に現れた。お茶を楽しみながら、廉三は、フランスでの体験、彼が観たオペラや観劇、そしてパリでの観光について、喋りまくった。その場に居合わせた者は皆、彼の話に熱心に聞き入っていたが、最大の関心事は、やはり美喜の示す反応であった。彼女が、今度はどんな手で見合いをオジャンにするかと、皆がヒヤヒヤしていた。ところが、何も厄介なハプニングは、とうとう最後まで起こらずじまいだった。廉三が帰宅の途についたとき、一同からホット溜息が洩れた。美喜がベランダにふっと立つと、それを待ちうけていたかのように、ふいに物置の後ろから2匹の飼犬と2羽の孔雀が庭へ飛び出した。それをみながら、美喜は祖父弥太郎の母、よしむら、に関する滑稽な逸話を思い出して、思わずふきだした(注を参照)。

 ところが、お茶会が終わっても、美喜には何の伝言や連絡も届かなかった。そして、その後2、3日、不気味な沈黙が美喜の周辺に漂よい続けた。3日目になって、美喜は父親から、彼の書斎に来るように言われた。父親はこう切り出した。
「美喜、今回の縁談はきわめて良い話だ。そこで、わしは決心したよ」
「誰の縁談のことですか?」
「まあ、黙って聞きなさい。結婚後、おまえは海外で暮らせる。そして、おまえはクリスチャンにもなれる。おまえは知らんだろうが、澤田家は、実にクリスチャン出身なんだよ」
「この縁組には、岩崎家一同が大賛成なんだ。それにね、女というものは、周囲の人々に祝福されて結婚すべきものなんだよ。そして、相手方がまだ結婚を望んでいる内にするもんだ。わかるかね?」
父親の説得が功を奏して、美喜はついに婚約する決心をした。

 美喜と廉三の結婚式は、1922年7月1日に、お茶の水にある明治学院大学のチャペルで、メソジスト教会の小林彦五郎牧師から神聖な祝福を受けながら、めでたく挙行された。廉三の生まれ故郷は、日本海に面した鳥取県の岩美にあった。新婚夫婦は、澤田家の祖先の墓参りにやってきたとき、美喜は岩美海岸の真っ白な砂浜や緑の松原や青い海に浮かぶ無数大小の島々がかもしだす美しいパノラマに、すっかり魅了され、後にそこに土地を買い、夏の別荘を建てることになる。廉三は
日本の外交に新風を吹き込もうという夢を抱く若い理想主義者たちのグループ (緑風会) に属していた。そのグループのリーダーは、第一次世界大戦直後のベルサイユ講和会議で活躍した経験のある若い外交官、重光 葵(まもる)であった(彼は、第二次世界大戦後、戦犯としてしばらく服役した後、吉田茂内閣の外相を1954~1956年に勤めることになる)。この会議で、今後の国際平和維持のために、「国際連盟」の設立などを提唱した米国大統領ウッドロー・ウイルソンが与えた緑風会の若い外交官たちへの影響力は多大だった(太平洋戦争終了後、廉三が「国際連合」で日本を代表して活躍し始める下地は、ここにあった)。

 廉三は、東京の外務省で短期の仕事を終えたのち、アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスの大使館勤務を命ぜられた。美喜にとって初めての海外旅行へのチャンスが訪れたわけだ。しかしながら、事態はかなり微妙だった。というのは、美喜が既に妊娠3ヵ月であったからだ。母の静子は、祖母の喜瀬が余計な心配をさせまいと、美喜の妊娠について、喜瀬には知らせずにおいた。1922年12月、美喜と廉三は、両家族に見送られて、横浜港から出帆した。美喜は甲板から、桟橋で手を振り続ける喜瀬の姿が、次第に米粒ほど小さくなっていくのを、いつまでも見つめていた(美喜にとっては、結局それが祖母との最後の別れとなった。翌年、喜瀬が78歳でこの世を去った)。美喜は航海中、喜瀬から餞別にもらった (梅干しを包み込んだ) 家伝の腹巻きをしていたお蔭で、ほとんど船酔いをしなかったと伝えられている。太平洋の荒波を渡って9日目に、カナダの西海岸バンクーバーに船がようやく到着した。真冬のカナダの深い積雪と、大空に向けて高くそびえるカナダ杉の森林は、美喜の脳裡に、雄大な北アメリカ大陸の強烈な第一印象を刻み込んだ。

 澤田夫妻は、さらに汽車でアメリカ大陸を横断し、シアトル、シカゴ経由でニューヨークに到着した。ここでは岩崎家の友人たちから大歓迎を受けたが、不愉快な経験もした。それは、(米国の白人たちによる)東洋人移民たちに対する人種差別であった。日本住民の多くがニューヨーク市内のアパートから締め出され、ある特定の区域にしか住めなかった。当時のアメリカ国内には、中国人や日本人移民に対する偏見感情が蔓延し、それは結局1924年に、「排日移民法」の制定というきわめて露骨な形で具体化し、日本からの移民を完全に禁止し始めた。

 ニューヨークから、また船旅を続けて、夫妻は美しいブエノス・アイレスの町に到着した。夫妻は、ここで2年間滞在することになる。公使が日本へ帰国中は、廉三が公使代理を務める栄誉を受けた。当時のアルゼンチン大統領は、マルセロ・デ・アルヴェアは、裕福な地主出身の魅力的な自由主義の政治家であった。彼の妻はウイーン出身のオペラ歌手であった。そのために彼女は当初、アルゼンチンの女性社交界から歓迎されなかったので、職業としてのオペラ歌手をとうとう断念せざるを得なかった。その結果、アルヴェア政府は、ごく安定した平穏な6年間を楽しむことができた。澤田夫妻は大統領官邸の近くに住まいを見つけた。そして、劇場が好きな美喜は、この大統領夫人と大変親しくなった。

 1923年7月8日、澤田家に長男の信一が誕生した。病院に入院中、美喜は母からの忠告を思い出した。「地元の住民たちの言葉を、できるだけマスターしなさい」。そこで、彼女は、病院内で交わされる会話を耳学問でピックアップしながら、
スペイン語を憶え始めた。しかしながら、これら医学関係の術語は、社交界では余り役に立たなかった。そこで、美喜は退院後すぐ、スペイン語の会話のレッスンを受けるようになった。しかし、廉三は「スペイン語など勉強すると、肝心なフランス語が駄目になるから、お断りだ」といって、レッスンには参加しようとしなかった。外交官の間では戦前、フランス語が公用語になっていたからだ。こうして、日常、家事や買物などの会話には、美喜がいつも通訳を務めた。あるとき、美喜は女中を解雇せねばならなかった。美喜は辞書を片手に、その仕事を見事にやってのけた。その間、廉三といえば、トイレの中でただ小さくなっていただけだった。

 アルゼンチンにおける彼らの2年間は、あっという間に過ぎてしまった。美喜は積極的に地元の社交界に参加し、馬術、ゴルフ、テニスなどを楽しんだり、タンゴを教わったりした。美喜が再び妊娠した頃、廉三が北京勤務を命ぜられた。やがて夫妻は船に乗り、ヨーロッパ経由で、まず日本に帰国し、美喜は1924年8月25日に次男の久雄を産んだ。廉三はそのまま北京に単身赴任し、美喜は後で中国に渡った。しかし、1920年代の中国は、内戦で騒然としていた。清王朝が1912年の辛亥革命で滅亡したのち、いわゆる「三民主義」(民族主義・民権主義・民生主義)を唱える孫文(1866~1925)が率いる中華民国が成立したが、国民党による新しい政府は、残念ながら中国大陸全体を平和に統一することができなかった。国民党と共産党とさらに地方を牛耳る軍閥との間で繰り返し戦闘が各地で勃発し続けた。それに乗じて、日本政府が中国大陸に手を伸ばし、まず満州に傀儡政権を成立させた。澤田夫妻の三男である「あきら」が北京で生まれたのは、1925年9月、内戦の最中であった。孫文が同年に死亡してまもなく、共産党と真っ向から敵対する蒋介石が国民党政府の権力を握ると、内戦はさらに激しくなった。1927年の春に「南京事件」という戦闘が勃発して、当時、南京に住んでいたパール・バック女史(戦後、美喜の親友の一人になる米国人宣教師の娘)が、とうとう戦渦を逃れて家族とともに日本海を渡り、九州の雲仙山麓に半年ほど疎開生活せざるをえなくなったのは、このころであった(詳しくは、第4章を参照)。廉三が再び外務省勤務のため、日本に帰国したころ(1928年4月)、澤田夫妻に末っ子、長女の「えみこ」が誕生した。


黒い肌に白い心

 1931年に満州事変がついに勃発、廉三の先輩である重光 葵(1887~1957)が中国駐在大使として、大陸に赴任したころ、片や後輩の廉三は英国のロンドン駐在を命ぜられた。美喜にとっては、再び憧れの海外生活を楽しめるチャンスが到来したわけである。しかし、今回の場合は、英国滞在中に、彼女の後半生を大きく左右するような、ユニークな体験が美喜を待ち構えていた。

 神戸からの船旅中に親しくなったある英国婦人の紹介で、美喜はロンドンに到着してから3日後に、彼女の4人の子供たちに英語やしつけを教える家庭教師を迎えた。彼女の名は、ドロシー・ラルフ嬢。以後10年近く、忌まわしい太平洋戦争が始まるまで、ドロシーは澤田家の親しい友人として、どこへでも一緒にお供するようになった。美喜はロンドン社交界で、様々な文化活動、特に絵画と演劇に多くの時間を過ごした。まずセント・ジョン美術アカデミーに入学し、油絵を習い始めた。
さらに有名な女優エレン・テリーの姪にあたるマニュエル・テリーが指導する演劇クラスで授業を受けるようになった。大劇作家シェークスピアの作品に関する一連の講義を聞いたのち、彼女は彼の名作の一つである演劇『マクベス』に出演して、ヒロインであるマクベス夫人(悲劇のヒーローである黒人将軍マクベスの妻)役を演じ、衣装や舞台装置なども自らデザインした。また、サーヴォイ・オペラ劇場の慈善ショウーと一つである、詩人の駒井権之助が企画した『天の岩戸』にも出演した。日本古代の天皇家の祖先といわれている伝説的な天照大御神という女神の物語である。

 英国という国柄、英国の人々、そして彼らの生き方は、美喜に多大な影響を与えた。毎日曜日、ドロシーは澤田家の4人の子供たちを、英国国教会の礼拝に連れていった。ところが、メソジスト派のクリスチャンである美喜は、別の教会へ、そして、廉三はゴルフにでかけた。ある日のことだった。美喜は、ガソリン代がかさむのに苦慮して、何か節約できる名案はないかと、おかかえの車の運転手に相談した。
「奥さん、この世に神様はたった一人しかいません。そして、その名が誰であろうと、同じ聖書を使って説教をします。だから、お子さんたちと一緒に教会に行ったらどうでしょう?」
なるほど一理ある、と思った美喜は、彼の素朴な忠告に従った。後年親しくなったカンタベリーの大司教に、美喜は冗談混じりにこう打ち明けたことがある。
「私がメソジスト派から国教派に改宗した最大の理由は、お恥しい話ですが、実はガソリン代の節約のためだったのですよ」
ある日曜の朝、礼拝のあと、教会の牧師が美喜にある女性の信者を紹介してくれた。
その女性は、美喜にドライブを誘ってきた。
「ご主人が例によってゴルフ気違いだから、あなたは、哀れなゴルフ未亡人ですね。私と一緒にドライブしながら、英国の自然の美しさを満喫しませんか?」

その婦人は、粗末な服装をしていたが、その自家用車は、なんと大型の黒塗りのダイムラー。そして、正装の運転手以外に給仕まで随えていた。車は、ロンドン郊外のカエデの並木道を3時間ほど走り続け、木々が生い茂った中世時代の城や白鳥たちがスイスイ泳ぐ湖の脇を通り過ぎて、よっと目的地に着いた。石造りの門の向うに、大きな建物と多くの小さな小屋が見えた。婦人は美喜に、「これは孤児院です」と告げた。美喜には信じられなかった。「孤児院」という言葉が連想させる、あの暗い希望のないイメージは、目の前の建物にはなかった。美喜には、それは「希望の家」であり、「喜びの庭園」のごとく見えた。子供たちは皆陽気で幸福そうだった。そして、清潔できちっとした服装をしていた。美喜は、しばし自分の目を疑った。チャールズ・ディッケンズの小説によく登場する典型的なあの汚く惨めな孤児たち、オリバーやデビッド・カッパーフィールドは、どこにも見当たらなかった。キャンパスのど真ん中に礼拝堂があった。そこから歌声が流れてくるのを、美喜は聞いた。それは、バーナルド博士のホーム(子供福祉センター網)の一つであった。

 創始者ジョン・バーナルド(1845~1905)は、ダブリン生まれ。父親はスペイン系の毛皮商人、母は英国女性であった。1862年にプロテンスタント(新教)の復興運動が盛んになり、彼は17歳で、カトリックから新教に改宗して牧師になった。4年後に、ジョンはロンドンに移り、ロンドン病院で伝道医師の訓練を受け、中国大陸に渡るつもりでいた。ところが、彼がまだ医学部の学生のころ、授業料免除の貧民学校で、ボランチアとして教鞭をとるという体験を得た。その学校はロンドンのホームレス少年たちの教育のために設立されたものであった。前年に市内中を襲ったコレラ伝染のため、ロンドンの街に多数の孤児たちが溢れ出た。若いバーナルドは、身寄りのない浮浪児たちが屋上や路地で寝起きをしているのをみて、ただ亜然とした。彼は辻伝道を通じて、この悲惨な状況を市民たちに訴えたところ、たちまち彼のもとに、寄付金や援助の手が差し伸べられた。2、3年後には、ステパニー・コーズウエイに浮浪少年たちのための最初の施設を設立し、まもなくバーキングサイドに浮浪少女のための施設も付設した。彼の社会福祉活動は、やがてシャフテスバリー伯爵や多くの著名人たちの注目を集める結果となり、彼らの援助により、最終的にはロンドン市内に112ヶ所ものホームを確立した。1899年には、これらのホームは「貧民や宿なし児童の矯正協会」の傘下に入れられた。

 教育者としてまた児童心理学者として、バーナルド博士は児童社会学の分野で多大の貢献をなした。2歳以下の幼児は施設ではうまく育たないことに気づき、これらの幼児たちを注意深く選択した里親のもとにやった。博士は、さらに障害を持つ子供と正常な子供を区別せず一緒に養育、教育することを実践した。なぜならば、そうすることによって、障害の有無にかかわらず両者とも、将来立派な社会人として成長していくという最大の恩恵を受けることになるからであるという強い信念を、彼が抱いていたからである。また彼は、両親により子供が虐待されるケースを議会の上院で訴え、未成年者の基本的人権を守る法の制定のためにも、中心的な役割を果たした。そのおかげで、最初の児童保護法案が英国議会を通過した。

 バーナルド博士は死後、バーキングサイドにあるホームの教会に埋葬された。福音的使命を抱き、ダイナミックなパーソナリテイをもち、行政的手腕を備えた、この人物は、英国の6万人ものホームレス児童の救済と教育を果たした。彼らのほとんど大部分は、善良かつ自身にプライドを持つ市民に成長した。「スラム街の子供でも、小さいうちにその惨めな環境から救ってやり、かつ十分に長期にわたって教育や訓練を施せば、親からの遺伝素質は最小限度に留まり、環境がほとんど全てを決定する」という博士の自論の正しさを、彼らひとりひとりが身をもって実証している。

 美喜が、小学生、中学生、高校生、職業教育などのクラスの授業を参観したのち、ホームの校長は彼女にこう語った。
「人々から一旦見放された子供を、社会全体が欲するような人間に育て上げるということは、実にすばらしい(そして大変に骨の折れる)仕事です。魔法使いだけができるトリックでしょう」
深く感銘した美喜は、週に一度そのホームでボランチアを務める決心をした。そして、その仕事にとても満足感を味わった。彼女はその経験談をこう記している。
「私は今までずっと、他人から与えられる幸福感によって生きてきた。しかし、たった今、私は、他人から常にもらうよりも、自分が何かを他人に与えることによって得る幸福感のほうが、ずっとすばらしいことに気づいた」

 ロンドンでの滞在は3年足らずで終り、澤田家は、廉三の勤務先がパリに移るに伴い、ドーバー海峡を渡って、フランスに引っ越した。美喜は、日本使節代表代理としての夫の職務に必要な全ての社交活動をこなした。そして、女性用の香水で富を築いたコチー家やダイナマイトと戦争で富を築いたノーベル家との懇意を楽しんだ。彼らの豪邸はすばらしかったし、彼らの暮らしぶりは華麗であったが、美喜は時々、彼らは本当に幸せなのだろうか、という疑問を感じた。
「彼らの豊かな知性、文化活動、社会における著名度を、私は称讃しますが、しかし、両家とも、あまりにも巨大な財産を肩に担っているために、心の平和を欠いているように、私には思えます。というのは、彼らは始終、いかにしてその富を維持あるいは増やそうかと思案してばかりいるようにみえるからです」

 美喜はパリで再び絵の勉強を始めた。今度は、美術界に一大革命をもたらした印象派の画家マリー・ローレンチン(1885~1956)の指導を受けた。マリーは、若い美しい女性たちをピンクと白の組み合わせで描くことによって、彼女独特の装飾的な女性らしい画風を創り出した。シャン・デマーにある彼女のアパートを訪れると、彼女の変人ぶりの一端を見ることができる。彼女の書斎にある本は、自分の好きな色のパステル・カバーで分類されている。例えば、歴史書は淡いブルー、人類学ものはピンク、伝記書はグレー、総説ものはレモンの黄色、旅行書はラベンダー。マリーは風変わりな教師だったが、美喜は油絵に上達し、サロン・デュ・ツアレリーやサロン・ダトンなどの展覧会に自分の作品を出品した。

ジョセフィン・ベーカー

 パリで見つけた友人たちの中で、美喜に最も多大な影響を与えた人物は、アメリカ生まれの黒人芸人ジョセフィン・ベーカー(1906~1975)であった。 ジョセフィンは、セントルイスで、スペイン人の父親と黒人の母親の間に生まれた。
13歳で初舞台に立った。1922年にブロードウエイのショー『シャフル・アロング』にデビュー、1924年には『チョコレート・ダンディー』でスターになった。1925年にはパリに移り、シャンゼリゼー劇場のステージで、『レビュー・ニグロ』(レビューとは、時事風刺のコメディー)に出演、一大センセーションを巻き起こし、パリ中の観衆から喝采を浴びた。雑誌「ニューヨーカー」のパリ特派員ジャネット・フラナーは、初日の夜の公演をこう批評している。
「ベーカー嬢は、いきなり舞台にほとんどヌード(股間にピンク色のフラミンゴの羽根を付けただけ)で登場した。彼女は黒人の大男の肩の上で逆立ちになり、股を広げて、いわゆる「バナナ・スプリット」を演じた。彼は舞台の中央にきて静止し、
長い指で彼女の腰をバスケット型に包み、彼女の体を左右にスイングしながら、彼の堪えがたき重荷のごとく、舞台の床の上に投げ捨てた。その瞬間、彼女は音もなくすっくと床に直立した。彼女は一躍、忘れがたき黒檀作りの女性シンボルとなった。満場の観衆が熱狂的な拍手喝采を送った。こうして、全ヨーロッパの快楽主義の首都であるパリで、黒人の美しさが、特に白人男性観衆の間で、実証された」

 ジョセフィンの魅力は、そのキャラメル色の肉体、美しい歌声、すばらしい舞台演技だけに留まらなかった。彼女は劇場の誰とも親しくなり、さらに全ての労働者の家族に奉仕し、病人たちや悩める人々を花束、ケーキ、お菓子などのプレゼントで見舞った。彼女はしばしば夜遅く、オープンカーでスラム街を訪れ、子供たちにキャンディーを配って回った。美喜は、ジョセフィンと同行して、パリの貧しい人々がジョセフィン嬢に対して感じている深い愛情をみてとった。ある日のこと、2人は、ある貧困に苦しんでいる家庭を訪れた。4人の子供がその祖父と祖母によって養われていた。ジョセフィンは、5カラットのダイヤモンドの指輪を自分の指からはずし、その祖母に与えながら、こう言った。
「お婆さん、これで、あなたの子供たちのために食べ物を買ってやりなさい。そして、皆が学校をに通学できるようにしてやって下さい」
ジョセフィンはさらに、数名の日本の貧乏学生たちのためにマルセイユから日本までの船の切符を買ってあげたり、日本から留学中のある芸術志願の女子学生の世話をしたりした。

 パリの楽しい15ヵ月は瞬く間に過ぎていった。そして、1934年に廉三がニューヨークの領事に命ぜられたため、夫妻は船でアメリカに向かった。ちまみに当時(1933~1936)日本で外務次官を務めていたのは、中国駐在大使を終えて帰国した重光 葵であった。今日でも戦前でも同様であるが、外務大臣や次官、あるいは各国の駐在大使たちの実務は、政府の閣僚や仲間の外交官たちとの快適な付き合いが主で、一般の人々との泥臭い接触、例えば旅券やビザの発行などの雑用は、ほとんど全て領事に任せられている。従って、領事である廉三は、ニューヨークの日本人社会 (村) のいわば「村長役」を務めることになった。そのおかげで、ニューヨークに移ってから初めて、美喜は、日本では今まであまり付き合ったことのない普通一般の日本人たちと、しばしば交渉をもつようになった。

 やがて、美喜の親友ジョセフィンが、ニューヨークのジークフェルト・フォリー(喜劇団)と公演契約を結び、美喜と再会するチャンスができた。ジョセフィンはエア・フランスに乗り込み、その処女飛行を他の多くの著名人たちと共に楽しんだ。しかしながら、ジョセフィンを飛行場に出迎えにきたのは、美喜とジークフェルトの秘書だけだった。そして、その白人秘書はそそくさと挨拶をしたのち、すぐ姿を消してしまった。そこで、美喜が自分の車で、彼女をホテルまで案内しようとした。しかし、車の運転手は、その計画にいい顔をしなかった。美喜は躊躇する彼を無視しながら、有名なホテルの1つへドライブするよう命じた (実際には、11軒ものホテルを延々探し回る結果になった)。ところが、どこのホテルへ行っても、ジョセフィンの宿泊をキッパリ断わってきた。
「うちのホテルは、目下全室とも満員でございます」
「大変恐縮ですが、全ての部屋が予約済みになっております」
「開室はございません」
辺りは既に真っ暗になっていた。「ヨーロッパの花」ジョセフィンは、しょんぼりして、目にいっぱい涙を浮かべて、車の後席にうずくまってしまった。

 美喜は運転手に、夕食のため澤田家のアパートにドライブしてくれ、と頼んだ。 そして、アパートの管理人に来客のあることを告げた。ところが管理人の男は、ひどく困ったような顔をしてこう言った。
「領事の公邸は治外法権なので、私どもはあなた様に、どうしろなどと指図する権利など全くございません。しかしながら、黒人が一人、同じ建物に泊まっていることが、他の白人住民たちに知れわたると、この建物はあっという間に空き家同然になってしまいます」

美喜は、絵をかくために自分が借りているアトリエのことを思い出して、ジョセフィンをそのアトリエまで連れていった。そこのマネジャーは、色々うるさい条件をつけた上で、とうとうジョセフィンの宿泊を渋々承諾した。
「オーケー、お客さんの宿泊を認めましょう。しかし、表向きには、お客さんは奥さんの絵のモデルということにして下さい。そして念を押しますが、必ず裏木戸から出入りして下さい。それから、エレベーターは (住民用ではなく) 荷物運搬用のを使って下さい。それからもう1つ、住民に姿を見られぬように、朝はできるだけ早く、夜はできるだけ遅く出入りすることをお勧めします」
美喜は、ジョセフィンを隙間かぜが吹く屋根裏部屋(アトリエ)へ案内した。そして、苦悶した。

「ヨーロッパで大成功したアメリカ生まれの女性スターを、故国のアメリカ人は、どうして歓迎しないのだろうか?」
 ジークフェルト・フォリーの出演者たちがリハーサルを始めると、ジョセフィンは毎日猛げいこを開始し、足から血がにじみ出るまでダンスを続けた。他の白人出演者たちは、彼女を冷たく扱ったが、ジョセフィンは彼らの冷遇や横柄さを無視し、
さらに短気な美喜に沈黙を守るようになだめすかした。ある日、ジョセフィンは、出演者の女性の一人が、仲間にヒソヒソ話をしているのを耳にした。
「全員マスクをしてダンスすべきね。そうすれば、我々が黒人ダンサーと踊っているのが、ボーイフレンドにはわからないから」
穏和なジョセフィンも、これにはカッとなって、その女性に向かってこう怒鳴った。
「あんたがマスクをしたいのは、自分の下手なダンスを隠すためでしょう」
リハーサルに出席していた美喜も、ジョセフィンの助っ人に駆けつけようとしたが、ジョセフィンは、黙っているようにと美喜を制した。穏やかならぬ休戦状態を保ちながら、リハーサルは続行された。ところが、ジョセフィンとの最終場面がきたとたん、その女性グループは、舞台に登場するのを拒否した。スター(ジョセフィン)は独り、舞台の中央に進み出て、こう叫んだ。
「あなた方の皮膚は白いが、心は真っ黒です。私の肌は黒いが、心は純白です!」
彼女は舞台を降りた。そして、廊下を意気ようようと闊歩するジョセフィンの姿を眺めながら、美喜はこのスターの劇的な退場を、まさに歌舞伎役者による花道の演技に価すると思った。

 ジョセフィンは結局、 ジークフェルトとの契約を破棄して、フランスに帰国してしまった。そして、フランス人に帰化して、パリに家族と共に永住を決めた。ジョセフィンは、その後30年近く、米国の土を踏まなかった。第二次世界大戦中には、フランスの赤十字にボランチアとして奉仕し、1940年にフランスがとうとうナチス・ドイツによって占領されると、ジョセフィンは、フランスのレジスタンス運動に参加し、(新しい)自分の祖国の解放のため積極的に活動し始めた。彼女は自分のスターとしての地位をうまく利用して、フランスのためにスパイ活動の一端を担った。あるとき、フランスからポルトガルに軍事的機密を運ぶ必要があり、彼女は公演に使う楽譜の上にあぶり出しのインクで書かれた情報を運び出したというスリリングなエピソードも残っている。戦後まもなく1946年には、連合軍ヨーロッパ総司令官のアイゼンハワー元帥(1953年には、米国大統領に就任)から彼女に「レジスタン・メダル」が与えられた。さらに1961年には、彼女の戦争中の功績と戦後の慈善事業を讃えて、ドゴール大統領からジョセフィンに、フランス最高の勲章「レジオン・ドヌール賞」を授与された。1963年に黒人の基本的人権を訴えるため、キング牧師が組織した「ワシントン大行進」に参加するため、彼女もついに米国の土を再び踏むことになる。美喜は、同じ年に出版した自伝のタイトルとして、ジョセフィンのあの名セリフ『黒い肌、白い心』を選ぶことにした。

暗黒時代

 1936年に欧米から5年ぶりに(実質的には、1922年以来14年ぶりに)澤田家は日本に帰国してみて、いわゆる「カルチャー・ショック」を受けた。まず欧米の学校教育を受けてきた子供たちは、日本の学校制度に慣れる必要があった。澤田夫妻の友人や親戚たちは年をとり、かつすっかり物の考え方が変わってしまっていた。夫妻が海外に初めてでかけた1920年代前半には、いわゆる「大正デモクラシー」のおかげで、民主主義的思想がポピュラーであり、議会政治が時代の潮流をなし、そして人々は海外の文化に対して開放的であった。ところが、夫妻が海外にいっている間に、民主的理想主義は一連の政治的スキャンダルや経済的不況のおかげで、すっかり影をひそめてしまった。世界的大恐慌のために、1929年から1931年の間に、日本の輸出は50%に減少してしまった。失業者の数は300万人に達し、農村地帯では1931年の農作物の不作のために、大打撃を受けた。中国における国民党政府の勢力拡大は、日本企業の中国大陸における投資を 危うくした。混迷する議会政治に愛想をつかした日本の大衆は、ヨーロッパ大陸、特にドイツやイタリアに台頭しつつあるファッシズムに注目し始めた。

 そして満州地方に勢力を拡大しつつあった日本の関東軍が、とうとう1931年に、清朝の最後の皇帝を傀儡政権の長とする満州国を無理矢理に擁立した。当時の日本の軍隊は、天皇の直接統率下にあり、議会によるコントロールを受けていなかった。従って、ひ弱になった政党政権に代わって軍事政権が容易に誕生する温床を備えていた。1936年の若手将校による軍事クーデター(2・26事件)に始まる一連の軍隊によるトップ政治家の暗殺は、ついに軍事政権の擁立を導びいた。
1937年の秋、関東軍は中国の首都南京を占領し、いわゆる「南京の大虐殺」が行われた。1941年12月8日、日本海軍は、ハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地を奇襲し、ここに日米は戦争状態に突入した。戦争中、美喜は暮らした。廉三は1939年にパリ駐在大使に任命されたが、ヨーロッパは既に戦争状態(第二次世界大戦)に突入し、家族の安全が保証されないため、彼は単身赴任した。その後、海外でいくつかの任務をこなしたのち、1943年にビルマ駐在大使を命ぜられた。それは廉三にとっては最も苦痛な任務だった。先輩の重光 葵からそのポストを命ぜられたとき、廉三は当初それを断わった。ところが、先輩が再三拝み頼んできたので、とうとう断わりきれなかった。重光 葵曰く。
「ぜひ、日本軍とビルマ住民との間の架け橋になってくれ!」

廉三はそんなことは不可能だと思っていたが、結局その任務を渋々引き受けた。この年、日本軍占領下のフィリピンが独立を宣言、さらに自由インド仮政府も(シンガポールで)独立を宣言した。当時の日本軍事政権の首相東条英機 (1884~1948)は、1943年11月に、東京で「大東共栄圏会議」を開催し、中国(南京政府)、満州国、タイ、自由インド、ビルマ、フィリピンにおける日本の傀儡政権の首脳を招いた。美喜は、インド代表のチャンドラ・ボース(1897~1945)の接待を頼まれたそうだ。彼はインド独立運動の急進左派の指導者で、インド国民会議派の前議長であった。しかし、マハトム・ガンジー(1869~1948)などの率いる非暴力闘争、英国軍支持派とたもとを分かち、日本軍の支持の下に、インドの英国からの独立を勝ちえようとしていた。彼はインドの庶民たちから親しまれ、彼の話は人々の心を深く感動させた。彼が日本の潜水艦で来日したとき、彼は天皇からの勲章を受けとろうとしなかった。
「戦争が終わるまで、どうぞ待って下さい。終戦後、インドが独立したときに、同胞全体と一緒にそれを分かち合いたいものです」
不幸にして、彼には祖国の独立を自分の目でみるチャンスはとうとう到来しなかった。終戦直後(8月18日)台北飛行場で、飛行機事故のため死亡したからだ。

 1944年の春、美喜の母が心臓麻痺でとうとう他界した。それからまもなく、美喜の3人の息子が海軍に入隊した。長男は将校、次男は士官候補生、三男は18歳で特攻隊員になった。東京上空には米軍のB29爆撃機が頻繁に飛びかい始め、空襲警報が鳴る度に、美喜と父親は防空壕の中に避難しながら、眠れぬ長い夜中を過ごすようになった。空襲も孫たちの徴兵を知らずに死んだ母はかえって幸せだったと、2人は話合った。その後、大磯にある岩崎家の別邸が日本軍に接収されるにおよび、美喜と娘のえみこは、澤田家の実家である鳥取に疎開を命ぜられた。しかし、一家の長である父の久弥は、頑として東京を離れようとはしなかった。彼曰く。
「岩崎家の人間が一人残ず東京を離れるまで、わしはここに残る。一家の面倒を看るのが、一家の長としてのわしの務めじゃ」

 1945年1月12日、美喜の三男ステファン・アキラ・澤田(19歳)は、インドシナ沖で日本の巡洋艦「樫」と共に海底に沈んだ。生還者は一人もなかった。息子戦死の悲報を聞いたとき、美喜は、世界中の何千もの母親が同様、このような悲しみを耐え忍んでいることを思んぱかった。毎日のように、多くの若者たちが海軍や陸軍に徴兵されていくのを眺めながら、美喜は、この戦争で日本が勝利するチャンスは皆無だと思った。「車椅子」で米国の大統領を4期務めたフランクリン・ルーズベルトは、不幸にして同年4月に脳溢血で急死。副大統領であったハリー・トルーマンが、まさに「棚ボタ」的に、新しい大統領に昇進した。そして、野心家トルーマンの命令により、8月6日に広島、3日後に長崎に「最後のとどめ」を刺すかのごとく、2発の原子爆弾が投下された。両市とも一瞬のうちに、廃墟と化した。さらに追い打ちをかけるように、米ソ間のヤルタ・ポツダム会談の密約に基づき、すかさずスターリン支配下のソ連も日本に対して宣戦を布告。(関東軍が一番恐れていた)ソ連軍がシベリアの国境を越えて、満州に怒涛のごとく進駐し始めた。ついに観念した日本軍事政府は、8月15日にポツダム宣言を呑んで無条件降伏を受諾した。まもなく連合軍極東最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥 (1880~1964)が、アメリカ軍を中心とする占領軍を指揮するために意気ようようと、日本に無血上陸する。まず東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズリー号上で、日米首脳の間で終戦協定が調印された。このとき、皮肉にも日本の無条件降伏書にサインした首脳の一人が、1943年から外相を務めていた重光 葵であった。そして、翌年5月に開始された東京国際軍事裁判の判決に従い、戦犯の一人として、巣鴨の刑務所に留置される運命をたどる(7年の刑期を言い渡されたが、実際には4年半後の1950年11月に仮釈放され、1954年12月には吉田茂内閣の外相に返り咲く)。

戦後の民主主義ラッシュ

 米軍による日本本土の占領は、1952年にサンフランシスコで日米間に講和条約が正式に結ばれるまで約7年間続く。この間にマッカーサーは、矢つぎ早やに日本の社会構造を改革する政策を施行した。まず旧日本軍隊を粉々に解体した。東京裁判あるいは海外 (南京、満州、マニラなど) での公判の後、東条英機を始めとする軍隊の首謀者および太平洋戦争拡大へ重大な責任を果した政治家(A級戦犯) を十数名、処刑した。ただし、昭和天皇は処刑を免れるどころか、(政治的権力はもはやないが)日本の「象徴」として、マッカーサーの占領政策 (日本に「反共の砦」をつくる政策) に、積極的に協力した。その是非論はともかく、命拾いした戦後の(天皇を含めた)日本政府の首脳陣(リーダー)は、事実上アメリカの傀儡政権を形成した。その根本的な原因は、終戦時に、日本大衆自身の手で、日本の旧軍事政権を打倒することができなかったからである。占領軍に多大な借りがあるから、米軍(米国政府)のいいなり放題になってしまったのだ。その後遺症は、半世紀以上経った21世紀の自民党政府の対米政策・沖縄政策に、いまだにありありと残っている。

 マッカーサーの占領政策の第二弾は、戦争中の日本軍需産業の担い手であった旧財閥の解体であった。前述したが、美喜の叔父(岩崎小弥太)が采配を握る三菱財閥が真っ先にその槍玉にあげられた。皮肉にも、この財閥解体は事実上マッカーサーの統制下にある幣原内閣 (幣原喜寿郎男爵は岩崎家の親戚) の手によって行なわれた。他の財閥、三井、安田、住友も同じような運命をたどった。第三弾は、土地改革だった。封建的大地主の手から、私有地が民間に解放された。次に、明治憲法に代わるべき新しい日本憲法の草稿がマッカーサー配下のGHQの手によって行なわれた。新しい民主憲法が俗に「マッカーサー憲法」と呼ばれのは、その由縁である。この憲法によって、まず天皇から軍事的および政治的権力が一切剥奪され、(第1条から8条に基づいて)日本の「象徴」といういわば儀礼的な役割が天皇家に与えられた。もちろん第9条により、日本は(国際紛争を解決する手段として)「戦争」(つまり軍事力の行使)を永久に放棄することが義務ずけられた。さらに、第14条により、男女同権がハッキリ認められ、成人した全ての日本女性たちの手に参政権が初めて与えられた。戦前、強く抑圧されていたされていた思想の自由、結婚の自由、職業選択の自由も日本国民全体に保証された。しかし皮肉にも、あっという間に押し寄せてきた予期せぬ「民主主義の大波」に、多くの保守的な日本の大衆は、戸惑いを感じた。御上(つまりGHQ)から天降りしてきた民主主義 (自由・平等の精神) が実際に、日本の市民ひとりひとりの頭の中で、自分のものとして成熟を遂げるためには、その後半世紀以上の歳月を要することになる。古い諺 (ギリシャ時代の『イソップ童話』) を借用すれば、「喉の渇いていないロバを湖畔に連れてくることはできても、無理矢理に水を飲ますことはできない」からだ。敗戦直後に日本人の大部分が最も飢えていたものは、(直接には栄養にならない) 民主主義という思想よりは、むしろ (当時乏しかった) 食料や衣料の方であったようだ。マッカーサーの有名な言葉の1つに、「日本人は12歳の子供のようだ」という表現がある。米軍のGIがチューインガムやチョコレートを振り撒けば、犬のように尻尾をふりふりあとについてくる当時の日本社会の風潮を、うまく皮肉っている。

混血児たちの母 

 敗戦から約9ヵ月目の1946年6月8日の朝、美喜はその日のラジオのニュースに耳を傾けていた。アナウンサーがこう報道した。
「今朝、ある日本女性とアメリカ人の夫婦に赤ちゃんが生れました。とうとう日米間に最初の握手が交わされたわけです。この赤ちゃんの誕生は、太平洋の両岸を結ぶ愛のシンボルといえるでしょう」 
ところがまもなく、そのアナウンサーは解雇された。この赤ん坊が象徴すべき日米間の和解感情は、当時の日本人全体の世論には、まだマッチしていなかったからである。そのニュースを聞いたとたん、美喜の心の底に、それまで深く埋蔵されていたある感情がふいに沸き上がったきたという。
「それはちょうど、15年昔、英国のバーナルド博士のホームの裏にある森を歩いていたときに、木立ちの間からもれてきたあの輝きのようなものでした。その美しい反射光線は、私の心にある灯を点火しました。私の一生の仕事は、まさにそこにあるんだ、という強い印象を受けました」
2、3週間後に各新聞に醜いニュースが続々掲載された。くげ沼の近郊の川に髪のちじれた黒人の赤ん坊の死体が浮かんでいた、という報告がまず最初だ。次に道端に青い目を半分開けた白人の赤ん坊の死体も発見された。横浜のある水路からも赤ん坊の死体が見つかった等々。美喜はそれらの記事に唖然となった。
「誰がそんなむごいことをするのでしょう? 赤ん坊を生きたまま、あるいは絞め殺して、道端や川に塵のように捨てるとは。こんな体験をしながら、私は、これらの混血児たちのために、働くことが神から与えられた私の使命だと感じるようになりました」

 4ヵ月後、岐阜県内を走る汽車の座席に座っていると、頭上の網棚から紫色の風呂敷に包んだ何か細長い物が、美喜の膝の上に突然落ちてきた。荷物を元に戻そうと、立ち上がったとき、2人の警官がふいに車内に入ってきて、彼女を制止した。彼らは闇米など、闇に売買されている物品の検査をしていたところだった。美喜に風呂敷を開けるように命じた。風呂敷をほどくと、何枚かの新聞紙に包まれて黒人の赤ん坊の死体が現れた。ぎょっとした美喜は警官や周りの乗客たちに説明を試みた。
「これは私の持物ではありません! 網棚から落ちてきたんです。それで、棚に荷物を戻そうとしていたところなんです」
警官の一人が美喜の読んでいた本を取り上げ、こういった。
「英語の本ですね。外国語がしゃべれるのなら、外人のボーイフレンドがいるにちがいない」
(美喜は敗戦後しばらく、生計を立てるために、英語やフランス語の教師をしていた)
「この荷物は私のではありません! 誰が私の前にこの座席に座っていたか、憶えていませんか? 誰がこの荷物を棚にあげたのですか?」
返事はなかった。乗客たちは、おそるおそる顔をそむけた。そこで警官はいった。
「あなたが荷物をもっていた。だから、次の駅で、我々に同行して下さい」
美喜にとっては、もう我慢ができなかった。
「車内で医者を即刻探して下さい! 医者がみれば、私がこの2、3日前に出産したかどうか一目了然です。今ここで脱衣しますから」
美喜がさっさと、脱衣のしぐさを始めると、警官は途方にくれて、ぼんやり突っ立ったままだった。すると、隅に座っていた白髪混じりのある老人が、口を開いた。
「ある若い女性が、しばらく前、その荷物をもって車内に入ってきたのを憶えています。その女性は、確か名古屋でおりましたよ」
その証言のおかげで、やっと美喜は無罪放免になった。警官は、その忌まわしい荷物をもって、次の駅で下車した。しかしながら、その出来事は美喜の頭から容易に離れようとしなかった。最後に、彼女は、それが何を意味しようとしていたかを悟った。美喜は、神の厳かな声が聞えたような気がした。
「たとえ一瞬でも、汝がその子の母となれば、日本中にいる彼のごとき境遇の多数の子供たちのために、汝が母親代りになるべし」

 美喜は東京に戻ってから10日間ほど、神に祈りを捧げ続け、自問自答した。バーナルド博士のホームを訪れて以来、美喜は子供たちの福祉のために、いつか何かをしようと長い間考えていた。ひょっとすると今、待ちに待ったその瞬間がとうとう到来したのではないかと彼女は思った。しかし、やるからには、中途半端なことはできない。孤児たちの世話が必要な限り最後までやり通すだけの勇気と決断が自分にあるかどうかを確認したかったのだ。美喜自身の3人の子供たちはすでに成人して、もう手がかからなかった。そして、廉三とは、別居を続けていた。長い戦争は、夫妻の結婚生活に大きな犠牲を払わせ、美喜は廉三との間に心なしか距離を感じるようになっていた。美喜は母として、そして妻としての役目をすでに果したと感じたので、廉三に会って、自分を今後自由にしてくれるように頼んだ。幸い、彼女の将来計画に関する相談は、想像したほど苦痛なものではなかった。廉三は、美喜に好きなようにしなさい、といった。恐らく彼は、石頭の妻が一旦何かを決心したら、それを止めるのはあまり賢明ではない、とすでに悟っていたのだろう。その上、彼は戦時中のビルマでの苦しい体験や自分の息子の戦死からまだ回復していなかった。美喜は次に父親に相談した。可哀想な赤ん坊たちの話を美喜から聞きながら、彼の目には涙が溢れていた。美喜は父親から賛同が得られることを確信していた。しかし、美喜はそれ以上のものを実は欲していた。美喜は大磯にある別荘地を孤児たちのホームに使いたかった。鉄道も幹線道路も丘の向う側にあり、理想的だった。広い敷地内には、保育園の建物、遊び場、庭園、学校、さらに職業訓練所などまで建てられる余裕があった。しかし、父親は美喜の話をさえぎった。
「美喜、ちょっと待ちなさい!」
「何なの、お父さん?」
「通常なら、もちろん、喜んでお前に大磯の土地をあげたい。しかし、あの土地は、もうわしのものではないんだよ。実は、税金の一部として、政府に取り上げられてしまったのだよ」
美喜は、この打撃にひるまず、戦闘を開始した。混血孤児たちのためのホームを大磯に建てると決心した美喜は、この別荘地を取り戻そうと図った。まず、占領軍当局から、この土地を孤児院用に使えるよう、許可をとった。その仕事は、有力な数名のアメリカ人の友人たちの協力で見事に成功した。しかし、まだ父親の税金の問題が未解決のままだった。その土地の時価は、当初250万円だった。それだけの額を募金で集められれば、ここを孤児院にすることができるわけだ。ところが、箱根不動産会社が、この土地を500万円で買い取りたいといい出した。娯楽センターを始める計画があった。その会社は、地元の人々をこう説得した。
「この土地が孤児院になったら、慈善事業だから無税になってしまうが、娯楽センターにすれば、地元に税金を払うことになるから、地元の財政が潤いますよ」
結局、不動産会社は買収に失敗したが、おかげで時価が350万円に跳ね上がってしまった。一難去ってまた一難である。

美喜は土地を買い上げるのに必要な資金の半分を、日本人の友人やアメリカの教会関係の知人を訪ね歩いて、寄付金を依頼することによって集めた(彼女にとって、自ら「物乞い」をするのは、初めての体験であった)。残りは借金をした。次は、ビルディングの建設に必要な資金も集めなければならなかった。アメリカの占領軍関係の人々や米国内にある教会に寄付を依頼するため、数千にもおよぶ手紙を毎晩遅くまで書き続けた。美喜はある手紙に、日本に存在する混血児の実情を、こう訴えた。
「ご存じのように、歴史は繰り返します。敗戦国では必ず、父なし児が孤児として路傍に迷うケースをしばしば目にします。実際、私自身も数度、ごみ捨て場や水路から混血児の捨て子が死体となって発見されるのを目撃しました。戦争孤児の場合は里親によって(特に自分の子を戦争で失った親たちによって) 養子として、比較的容易に引き受けられるチャンスがあります。しかし、これらの父親不明の混血児の場合は、その母親は自分自身の生活のために働かざるをえず、保育費用を払う余裕など全くない状態ですから、まず無視されます。もしお金があれば、彼らの命も救えるのです」
「東京にある2ヶ所の保育園で、103人の赤ん坊が餓死するという恐ろしい事件が最近発生しました。都内の至る所で、混血児の捨て子がみられます。駅のプラットホーム、共同便所、人気のない路地の突き当たりなどに、夜中の寒さや肺炎で死にかかっています。青い目で金髪あるいは黒い肌でちじれ毛だからという理由だけで、どうしてこれらの無邪気な子供たちが皆、捨て子にされるのでしょう? これらの孤児たちがいつか将来、世界をリードする最も優れたクリスチャンに成長するかもしれないのです。我々は今、彼らのホームを完成するために800万円という大金が緊急に必要です。どうか、我々の保護下にある孤児たちを、有能な世界市民に育て上げるために、どうか皆様の寄付をお願いします」

エリザベス・サンダース・ホーム  

 ある夜遅く、美喜の急ごしらえの保育園のベビー・ベッドの中に3人の赤ん坊を寝かしつけた。その赤ん坊たちは、1948年1月31日に、正式に美喜の手に託された。いわばその日が、「エリザベス・サンダース・ホーム」の創立日にあたる。
ホームの名称は、三井家で働いていた英国人の家庭教師サンダース女史にちなんで
名付けられた。女史は戦争中、日本に留まっていたが、終戦後まもなく他界した。自分の看病をしてくれた友人のルイス・ブッシュに女史は、死ぬ直前にある遺言を残した。
「ここに、私が一生かけて貯めたお金があります。これを全部あなたに預けますから、もし本当にお金に困っている人に出会ったら、これをどうぞ役立てて下さい」
ブッシュ氏が美喜に遭遇したとき、彼は美喜のプロジェクトが、献身的なサンダース女史の願いにまさに適っていると確信した。こうして、そのお金が美喜の手に渡され、この女史を記念するホームが誕生したのである。

 このホームに最初に引き取られた孤児は、サミーという名の子だった。ある寒い冬の朝、皇居前広場にある銅像の足元で発見された。紺色の毛布に包まれたまま置き捨てられていた。脇に2本のまだ温かい哺乳びんが添えてあった。ある巡査がサミーを見つけて、最寄りの駐在所でしばらく預っていた。もう1人の幼児は、女の子で、渋谷の駅前で発見された。美喜は、聖ロカ病院の神父ピーター武田と湯元婦長と共に、その2人の孤児を引き取るために捨て子預かり所にでかけた。帰り際に医者が美喜に、そっとささやいた。
「この男の赤ん坊は、恐らく一生歩けなくなるかもしれませんよ。足に全然力がない。小児麻痺にかかっている恐れがあります」

 サミーは薄茶の髪、青い目、白っぽい肌をしていた。愛敬のよい赤ん坊で誰にもニコニコ笑顔をみせた。健康な子ですくすく育ったが、足が駄目のままだった。美喜は特別の運動をさせ、かつ他の赤ん坊にはやらないような特別の栄養食をサミーに与えた。看護婦たちは、サミーの足をタラの肝油でマーサージしてやり、毎日日光浴をさせてやった。しかし、サミーは1歳の誕生日はおろか、2歳の誕生日を迎えても、だだベッドに横たわったままだった。ところが、3歳の誕生日が近づいたある日曜日、美喜が教会から戻ってくると、寮から子供たちの騒がしい声が聞こえてきた。また喧嘩だろうと現場に駆けつけると、あるベッドの周りを子供たちと看護婦たちがぐるりと取り囲んでいた。ベッドの中を覗いた美喜はビックリ仰天、聖書と讃美歌を思わず手から落してしまった。なんとあのサミーがベッドのてすりにしがみつきながら、立ち上がろうとしていたからだ。彼は相撲取りのごとく真っ赤な顔をして、頑張っていた。それをみていた美喜の目に涙が自然に溢れてきた。美喜はそっとささやいた。
「サミー、もうちょっとよ」

彼は努力のかいなく、その日は立ち上がれなかった。翌日もさらに頑張ったがやっぱり駄目だった。しかし、3日目にサミーはとうとう立ち上がることができた。まもなくサミーは、ベッドのてすりにもたれながら、横這いができるようになり、そしてある日、ベッドを歩いて一周することができるようになった。3歳の誕生日がくる前に、サミーは支えなしに独りで、よちよち歩きができるようになった。4歳の誕生日前には、遊び場でサミーは走り回り始めた。いったん歩いたり走ったりできるようになると、サミーはあっという間に、やりたいことは何でもできるようになり、夜になってサミーを静かに寝かしつけるまで、美喜は丸一日、彼とのお付き合いで忙しくなった。そして、サミーが初めて幼稚園に通う日がやってきた。出かけていくサミーの元気な足音を聞きながら、美喜は感無量になった。

 このホームの存在が知れわたると、多くの混血孤児が、その母親や祖母たちによって、ホームにもたらされた。そして、美喜に直接世話を頼みにくる者もいたが、多くの場合、黙って(こっそり)ホームの敷地内に置き去りにしていった(合計31人もの孤児が置き去りされているのを、美喜や看護婦は発見した)。日本中が食料不足に苦しんでいた敗戦直後には、このホームの経営は極めて困難だった。政府からくる育児補助金はほんの最小限で、それだけではとても足りなかった。美喜は、看護婦の給料や維持費や補助食などの支払いのために、募金をせざるをえなかった。大部分の孤児は、栄養不足で、その多くが疥癬や寄生虫病などを含む色々な病気に感染していた。しかし、医療品の供給は不足がちで、ペニシリンなどの特効薬は、もちろん手の届かぬ存在だった。

 にもかかわらず、ホームで育てられた孤児たちの大部分は、すくすく成長し、ホームでの乳児の死亡は全然なかった。しかしながら、1人の赤ん坊の病状が悪化し、武田神父は美喜に、子供を聖ロカ病院に入院させるように勧めた。美喜は、その赤ん坊の母親に連絡をとり、その子の病状を伝えた。その母親は急いで病院に駆けつけてきた。母親が重病の我が子を見守っているとき、突然、母親の兄が病室に入ってきて、彼女の髪を掴むなり、敵国の兵士と子供を産んだのは許せない、と言いながら、妹を殴り始めた。やがて、誰かが、こう叫んだ。
「赤ちゃんが死にかかっています!」
3人は急いでベッド脇に駆けつけた。その兄は、涙で目をうるませながら、瀕死の赤ん坊をじっと見つめていた。最後に赤ん坊が息を引き取ると、ごめんよ、といいながら兄は妹の肩を抱きかかえ、一緒に病院を悲しそうに立ち去った。

 ある幼い男の子が重症の肺炎にかかった。そして、その場の状況から、その子の命を救う術は誰にもなさそうに思えた。症状はどんどん悪化していった。美喜は、その子の死はもう時間の問題だと感念していた。ところが、ある朝、「CARE」
パッケージが、前駐日アメリカ大使の妻、ジョセフ・グリュー夫人から届いた。開けると、中に救援食料と2本のペニシリンのアンプルが入っていた。この貴重な特効薬のおかげで、その子の命が救われた。美喜がその夫人に礼状を送ると、夫人から、まるで奇跡に近い話にビックリした、という返事が返ってきた。夫人の話によれば、彼女の方はごく普通のパッケージ (小包) を郵送するよう注文したに過ぎなかったが、その小包は偶然にも「CARE」(アメリカの国際的救援物資供給団体) の本部で包装されたのだそうだ。当時、ペニシリンを得るには、医師の処方箋が必要だった。その出来事は奇跡か、あるいは間違いの仕業かいまだにミステリーだが、とにかくその少年の命を救った。

 そのような奇跡に近いエピソードに暇はない。ある晩、美喜は夕食のあと、手元にミルクが1本もないことに気がついた。夜中に赤ん坊に飲ませるべき牛乳もなければ、翌朝により年長の子供達に与えるべき朝食用の牛乳もなかった。気転のきく美喜だが、さすがその夜は、100人もの孤児たちにやるミルクのあてに困ってしまった。 真夜中のこと、美喜はまだ起きて仕事をしながら、保育園のほうから聞こえてくる腹をすかした赤ん坊たちの泣き声に耳を傾けていた。すると、車が近ずき、家の前で停車する音が聞こえた。誰かを確かめるために外に出てみると、車はもう立ち去ったあとであった。床に大きな箱が置いてあった。開けてみると、中に粉ミルクのケースが4つも入っていた。カードには、「秘かに尊敬している者から」とだけ記してあった。

 ある年末、美喜は色々貯まっている請求書の支払いを済ませるために、四苦八苦していた。金の工面をするために、自宅の部屋にあった「菊の紋章」入りの銀の花瓶まで銀座の質屋に預けたが、大した金にはならず、まだ半分ほど不足していた。帰宅の途中、電車を乗り換えたところで、ふいに人に呼び止められた。
「澤田夫人、あなたですね?」
「そうですよ」
「実は、あなたの行方を私はずっとさがしていたんです。中国大陸で知り合ったものです。憶えていませんか?」
「ええ、思い出しましたよ。でも、あれはずいぶん昔のことですね」
「あなたをさがしていた理由は、あなたに借金を返すためだったんです。25年ほど前、北京の日本クラブで、私はあなたからいくらかの金をお借りしたんです。でも、それを返す機会がなかったんです。ここにあるのは、私が長い間借りていたお金です。ああ、私の電車がやってきます。では、お大事に!」
こう言って、その男は立ち去っていった。封筒の中を確かめると、ちょうど必要な額がそこにあった。おかげで、美喜はその年の借金を全部支払うことができた。

 しかし、百日咳がホームに蔓延したとき、奇跡は起こらなかった。42名の子供が感染した。そして、そのうちの22名が肺炎を併発した。その病気の流行は2ヵ月間ほど続き、美喜や看護婦たちは、子供たちの命を救うために、四六時中働いた。
しかしながら、懸命の看護にもかかわらず、7人の子供が死亡した。ホームの門を7つの小さな棺桶がくぐりぬけてからまもなく、大磯中に批判の声が挙がった。翌朝、ホームの門の上に、チョークで落書きがしてあるのを、美喜は発見した。怠慢が原因で120名の子供を死なせたある保育園の名前がそこに書かれてあった。美喜の心は深く傷ついた。
「どうして彼らは、百日咳から回復した34名の子供や、肺炎から救われた15名の子供のことを、評価してくれないのだろうか?」

 その騒動が治まってからしばらくして、ある産婆が美喜のところに、青い目、白い肌の赤ん坊を届けにきた。
「あなたが、混血児のためのホームを経営していることを聞きました」
「そうです。他の誰も混血児を世話しようとしないので、私が代わりにやっているのです」
「それでは、この子を世話してくれませんか? 母親は、この子をいらないというのです」
「ええ、私が引き受けましょう」
「大助かりです。実は、この子は、私が分娩した混血児の23番目にあたるんです」
「それで、残りの22人の赤ちゃんは?」
「赤ん坊が生まれてくると、すぐ鼻に濡れた鼻紙を被せるんです。他にしようがなかったんです。でもこれからは、こちらに連れてこられるので、ほっとしています」
この23番目の赤ん坊は、栄養不足で、体中傷だらけで、死にかかっていた。さらによく調べてみると、背骨も曲がっていた。美喜の懸命な看護にもかかわらず、その子は、2、3日後に死んでしまった。美喜は、その小さな亡骸を、他の22人の霊とともに、ホームの礼拝堂の下に埋葬した。

日米両政府から無視された混血孤児たち

 薄茶色の髪で青い目、あるいは黒い肌でちじれ毛の赤ん坊は、日本の社会では非常に目立つ存在である。しかし、「日本の民主化」にばかり忙殺される連合軍司令官マッカーサー、あるいは彼のGHQは、増大しつつある混血児たちの存在に対して、ちっとも関心を払おうとしなかった。

 1948年6月、UPIの特派員ダレル・ベリガンは、サタデー・イブニング・ポスト紙に、『占領下日本の混血児たち (占領ベービー)』という論説を発表し、アメリカ大衆の注目を集めた。ベリガンは、まずこう論じた。
「この混血児問題は、今に始まったことではない。というのは、白人がアジアに住み始めた300年前以来、白人(主に、英国人、フランス人、オランダ人など)とアジア人との間に多くの混血児が、延々生まれてきているからだ」

 日本に関しては、占領ベービーが実際に何人存在しているのか、正確な数字を挙げるは不可能だ。1千人から4千人と推定されているが、公式な数字は全くない。
占領軍当局が、この問題について言明した例はないし、日本政府当局にしても、その存在を認めようとする動きが全く見られない。占領ベービーは、日本の恥の「生きた象徴」、つまり敗戦に続き占領下にあるという屈辱のシンボルでしかなかった。
日本人側にとって、その苦々しさを占領軍当局に対して、直接ぶつけるのは危険が大き過ぎたが、かといって、占領軍のめかけやその混血児を保護しようとする動きにも欠けていた。結局、逆にこれらの無垢な混血児をそしるという安易な手段で、フラストレーションを解消していた。
ベリガンは、次のような質問を投げかけている。
「このような混血孤児たちは、日本人の孤児たちと同じ施設で世話すべきか、それとも別のホームで育てるべきだろうか?」
(神経生理学が専門の) 厚生課長、陸軍大佐クロフォード・サムスは、この問題について、頑固な意見の持ち主だった。ベリガンは、サムス課長の意見をこう紹介している。
「最悪のケースは、混血児にGIベービーという汚名あるいは焼印を押すことである。我々ができうる最善策は、(アメリカ本国で) 彼らを差別待遇せぬことである。だから、我々の任務が完了して日本を去るとき、混血児たちを日本に留めるべきである。我々の妻たちは、混血児たちに特別待遇、例えば衣料やキャンディーなどを与えるべきだと主張しているが、私はそれに反対だ。我々の最大の任務は、平等に子供たち全体の福祉を向上させることにある。そもそも日本民族とは、一つの純粋な人種ではなく、中国人、朝鮮人、マレーシア人など色々な人種の混ざり (雑種) である。日本には、西洋人との混血が、長年育ってきている。だから、混血児は、日本社会では、全く問題ではないのだ」
この記事で、彼の意見に真っ向から反対する美喜や (横浜にカソリックのホームを経営している) 尼僧の意見も紹介されている。美喜は、次のように主張している。
「サムス大佐の平等主義は、現実を無視(あるいは回避)した純然たる悪平等主義です。怠慢や責任回避からくる偽善に過ぎません」

 サムス大佐は、日本に何名のGIベービーが実際に存在するか、詳しい統計調査をしたい、というアメリカ本国の厚生省からの申し出を却下することによって、故意にその数値をあやふやなままにしたばかりではなく、当時247名の混血孤児を収容していた「エリザベス・サンダース・ホーム」を閉鎖すべきであるという勧告をし始めた。怒った美喜は、大佐に面会を要求し、両者の間に険悪なやいとりが彼のオフィスで交わされた。
「大佐、GHQの占領政策の中に、混血児たちを一か所にまとめてはならぬ、日本全国に分散すべし、と定めた法的文書がありますか? あるなら、見せて下さい。これらの孤児たちをそれぞれ収容するために、一体いくつのホームが必要なのですか?これらの孤児たちは、南は九州から北は北海道から、はるばる私のホームに送られてきているのですよ。すでに2度も、つまり実の父親である米軍将兵からも、母親である日本人からも見捨てられたこれらの孤児たちを、私がどうして見捨てることができると思いますか?」
大佐は、故意に問題をそらすために、福井地震の救援のため占領軍がいかに親切にペニシリンや他の医療品を供給したかを喚起した。しかし、美喜はひるまなかった。
「大佐、日本における占領軍の任務が完了して、あなたがたがアメリカ本国に引き揚げるとき、アメリカ軍将兵を父とする混血児たちを全部まとめてアメリカに連れて帰ると確約するならば、ホームを閉鎖せよ、という命令に私も従います」
すると、サムス大佐が机上にあった重そうな灰皿を掴んだので、癇癪を起こした彼がそれを美喜に向かって投げつけるのではないか、と彼女は心配した。幸い、その瞬間、火災警報が鳴り、建物から退去せざるをえなくなったので、両者に冷却期間を与える結果になった。しかし、この対決後も、美喜の決意は変らなかった。

 このようなエピソードを含むベリガンの記事は、もちろんある人物の心の平和をかき乱した。GHQに平手打ちを食らわせることになったからだ。その結果、彼の日本滞在は短期に終り、タイに左遷された。まもなく彼は、そこでこの世を去った。
他方、エリザベス・サンダース・ホームは、美喜の自称「ドン・キホーテ」的闘争精神のおかげで、結局閉鎖を免れた。しかし、GHQのご都合主義的な政策の犠牲になった。日米混血孤児の存在自身が否定され、 彼らの父親である米軍将兵たちへの勧告、つまり、帰国時に自分の子 (混血児) を本国に連れて帰れ、という(美喜が大佐に提案したような) 勧告はとうとう出されずじまいに終わった。

 1951年9月に、サンフランシスコで日米講和条約が締結され、1952年4月に連合軍による日本占領は終了し、日本は再び独立国となった。そして、日本の国連への正式加盟はソ連の反対で拒否されたものの、オブザーバーとして、参加することは許された。そのおかげで、(戦後しばらく、国際社会から遠のいていた)廉三に、日本の国連代表団のリーダー(大使)として再び国際舞台で活躍する機会が与えられた。

 この機会を捉えて、美喜はアメリカで混血孤児たちのための募金運動を計画した。
当時、美喜の父親は87歳に達し、健康がすぐれなかったが、千葉の農園に暮らしていた。美喜がそのプランを父親に打ち明けると、彼はこう忠告した。
「美喜、渡米中にアメリカの占領軍の悪口をいわないように。全てを水に流しなさい。混血孤児たちを助けるというお前の本来の使命に徹しなさい。江戸の敵を長崎で討つ、という古い諺を肝に銘じなさい。東京で起こった忌まわしいできごとの復讐をワシントンでやらないこと。しっかりガンバッテ来なさい」
美喜は父の示す子供たちへの愛情と模範的な寛容の精神に心を深く打たれた。

 しかしながら、美喜が渡米のためにアメリカ大使館にビザを申請すると、すぐ拒否された(敵の方では、やはり彼女の復讐を恐れていたらしい)。そこで、美喜は一計を案じることにした。
「私の夫は目下、日本の国連大使として、アメリカに勤務中ですが、もし妻の私の渡米ビザが拒否されるのならば、夫には国連大使としての資格なし、ということになりますね。それでは、夫に早速電報を打って、国連大使を辞任して、即刻帰国するよう要請しましょう。マスコミにもこの問題をとり上げてもらいましょうか?」
渡航ビザはまもなく下り、美喜は1952年9月に渡米した。

 美喜がサンフランシスコに到着すると、報道陣の群れが彼女を取り囲み、GIベービーについて質問攻めをかけた。マスコミは彼女の旅行中、美喜のあとを追い、多くはセンセーショナルな、しかし必ずしも正確でない記事を書き、アメリカあるいは日本の大衆の間に少なからず誤解をかもち出した。

ジョセフィン・ベーカーの来日公演

 美喜の旧友である混血の名ダンサー・歌手ジョセフィンが戦前、ニューヨーク公演のために渡米した際、自分の故国でありながら、白人たちからひどい人種差別待遇を受けたことを、読者はまだ記憶していると思う。彼女は生涯4度の結婚をしたが、その間、合計12人の混血孤児を、自分の家庭に引き取って世話をした。彼女が、色とりどりの肌をしたこれらの養子養女たちを、誇らしげに「虹鱒(七色)の子供たち」と呼んだという話は有名である。

 さて、ジョセフィンは、(ニューヨークで受けた)美喜への恩返しに、エリザベス・サンダース・ホームのための募金コンサートを、わざわざ日本国内で企画し、1954年の春、特別公演のため来日した。彼女は美喜に手紙でこう書いている。
「日本滞在中は、ステージ、テレビ、ラジオなどあらゆる機会を利用して、日本の観衆に向かって演技をしますので、存分に私を使って下さい。公演で集められたお金は全部ホームに寄付しますから。私には衣装係を含めて3人の付添いが同行しますが、彼らの給料は私の財布から払いますので、ご心配なく。私は普通の日本の家に泊まり、日本食を食べますので、ホテルなど特別に予約する必要はありません。節約した分だけ多くのお金がホームの赤ちゃんに直接役立つように」
ジョセフィンは、3週間(21日間)という短い日本滞在期間に、なんと合計22回の公演に出演するという、常人には信られぬほどのハード・スケジュールを見事にこなした。彼女のエギゾチックな黒人ダンスに日本の多くの観衆が魅了されたのはいうまでもない。この忙しい公演の合間をぬって、大磯にある美喜のホームにいる「虹鱒の子供たち」を訪れ、励ましを与えることも、もちろん彼女は忘れなかった。

 ジョセフィンのステージ生活は、1968年に引退するまでその後も長く続くが、その期間に、人種間のハーモニーを図るために数々の慈善公演・事業に献身し、1961年には、その功績を讃えて、ドゴール仏大統領が「レジオン・ドヌール賞」を彼女に与える。1975年に彼女は、とうとう脳溢血で倒れ、フランス国民に惜しれながら、69歳でこの世を去っていった。そして、黒人として初めて、フランスの国葬にふされた。

アメラシアン混血児の米国移民

 日本に駐在するアメリカ人の家族にも、日米混血孤児たちの話を聞いて深い同情を示し、自分の故国に引き取り、世話をしたいと申し出るものも多くあった。美喜は、自国の社会ばかりではなく、米国の白人社会でも人種差別がかなり強いことをよく知っていたが、それでも孤児たちには米国で育ったほうが日本で育つよりも、ずっと明るい未来が開かれていると信じていた。
 しかしながら、実の父親が自分の混血児を引き取らない限り、法的にはこれらの孤児たちは、全て日本人国籍に入れられてしまう。従って、混血児を養子として米国に連れ帰るためには、子供の米国への移民手続きを経なければならなかった。ところが不幸にして、戦前(1924年の「排日移民法」の制定)以来敗戦直後もなお、日本人の米国への移民は厳しく制限されていた。混血児たちの移民には明らかに、アメリカの移民法の改正が緊急に必要だった。

 そこで、美喜は1952年秋の渡米中に、アメリカの下院議員ウイリアム・ドーソンに手紙を書き、移民法の改正を強く訴えた。彼は1942年にシカゴから、黒人として初めて下院議員に当選した民主党の政治家である。移民法の改正への闘いは、実質的な実りをみるまでにその後数年を要した。そして1957年になって、日本を含めてアジア地域全体に溢れる米亜(アメラシアン)混血孤児たちが、米国の里親の元に自由に移民できるようになった。この移民の改正には、ドーソン氏自身の議会での粘り強い努力もさることながら、もう1人の著名なアメリカ市民による草の根運動に負うところが少なくない。その人物は、のちに美喜の親友となったパール・バック女史であった。女史は、いわゆる(米軍占領下の)戦争孤児、つまりアメリカ軍将兵とアジア諸国の女性との間に生まれた米亜(アメラシアン)混血孤児たちの救済を目的に、まず1949年に自分の私財を投じて「ウエルカム・ハウス」と呼ばれる養子斡旋所を、フィラデルフィアの北にある自宅の敷地内に設立した。白人でありながら、中国大陸のその前半生(約40年間)を過ごすというユニークな体験を持つ女史は、1934年に米国に帰国後も、「東西(東洋と西洋)文化の架け橋」として活躍し、(人種差別・女性差別を含めて)あらゆる差別の撤廃をめざして、その後半生を捧げた高まいな(ノーベル賞)作家兼ソーシアル・ワーカーである(詳しくは、第4章を参照)。

パール・バック女史の来日

 1957年の移民法の改正に伴い、美喜のホームにいた日米混血孤児の1人、ちえ子(8歳)がパール・バック家の第7人目の養女として、渡米を許された。以来パールと美喜との間に、日米混血孤児たちの米国への養子移民のための親密な協力が始まった。そして、最終的には1千人以上の混血孤児が、アメリカの家庭へ引き取られていった。

 1960年の春に、パールは、1947年出版した子供向けの短篇小説『ビッグ・ウエーブ』(大津波)の映画化のため、久しぶりに来日した。この小説は、パールが戦前に(中国大陸の内戦を避けて)一時疎開していた長崎の近くにある雲仙山麓の農村と漁村を舞台にした地元の少年2人の友情物語である。戦争(津波) がもたらした幾多の不幸を克服して立ち上がる世界中の子供たちを励ますストーリー。東京に滞在中、パールはロケの打ち合せの合間に、もちろん大磯にある美喜のホームを訪れ、当時そこに収容されていた148名の混血孤児たちを見舞い、温かく励ました。不幸にして、来日してまもなく、パールは本国から悲報を受け取った。数年病気を患っていた夫のリチャードがとうとう死亡したのだ。葬式を済ませるため、パールは急きょアメリカに帰国せざるをえなかった。そして、その年の秋に、今度は映画ロケの本番に参加するため、再び来日し2、3ヵ月間、主なロケ先である雲仙山麓の温泉町小浜 (おばま) や漁村「木津」で、さらに火山の噴火シーンを撮影するために伊豆七島の大島でも過ごすことになる。映画の制作は日米合作で、日本側は東宝が専ら出演俳優の大半や撮影班を提供した。キャストは、名優早川雪州を始め、伊丹十三、(ロカビリー歌手)ミッキー・カーチス、子役のジュディー・オング、太田博之、設楽こうじなど豪華版だった。津波の特写は、『ゴジラ』の生みの親、円谷監督が担当した。

この映画は翌年、米国内で封切られたが、不幸にして、なぜか日本にはとうとう1度も配給されず、いわば「幻の映画」となってしまった (米国ワシントン市にある議会図書館に16ミリ・フィルムが保存されており、1、2週間ほど前に予約すれば、観賞も可能)。 2005年10月29日、映画化から45年振りに、ロケ地の雲仙市にあるメモリアルホールで上映がついに実現された。 この初上映は、合併による雲仙市誕生を記念して雲仙観光協会が企画。同協会の田浦元理事は「昔、エキストラで出演した市民も何人か存命で、一度でいいから、ぜひ自分の目で見たいという地元の住民からの要望が強かった」と話す。

この映画の脚本もてがけたパールは、もともと自作の小説にはなかった混血児の問題を、映画『大津波』の後半に盛り込んで、社会的なアッピールを試みたといわれている。さらにパールは1964年に、国際的な孤児救済団体「パール・バック財団」を結成し、大規模な米軍基地を持つ沖縄、韓国、フィリピン、ベトナムなどのアジア諸地域に、いくつかの支部を設立して混血孤児たちの福祉向上に献身した。なお1993年(パールの死後20年目)に、「ウエルカム・ハウス」と「パール・バック財団」が合併されて、「パール・バック国際財団」として再出発、今日に至る。

続く

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臍(へそ)の緒

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