2013年10月13日日曜日

「Dear Life」: アリス・マンロー(82) の最後の短編集

2013年のノーベル文学賞がカナダの短編作家、アリス・マンロー(82)に授与される
ことになったのは、文学通なら誰でもご存知だろう。 新潮社から、彼女の作品の
邦訳が(小竹由美子訳)で、2006-2010年にかけて、少なくとも3点出版されている
: 「イラクサ」、「小説のように」、「林檎の木の下で」などである。村上春樹 (早稲田文卒、
64) が、この老作家のために、今年も禁断の木の実を食べ損なった!
若者よ、長生きして、時機到来をジックリ待とうではないか!

さて、ノーベル賞発表の翌朝、行き付けの書店に出かけて購入したのが、
マンロー女史の最後の短編集「Dear Life」である。 邦訳が (新潮社) から、
間もなく出版されるそうだ!  約300ページの本で、短編が合計14編掲載されている。
最後の編が表題の「Dear Life」だった。 この作品は、言わば「若き日の思い出」
を綴ったもので、亡くなった母親の面影を中心に、楽しかった昔の日々を語って
いる。恐らく、彼女の (来るべき) 回顧録の第一章に相当すべき作品で、余韻を
残しながら終わっている。。。

最初に出てくる短編の表題は「To Reach Japan」だ。 日本のことが書いてあると
期待して読んだら、間違いなく失望する!  私の推測では、この奇妙な表題は、
2年ほど前に起こった東北大地震と津波で、海に流された残骸が、半年後にとうと
う太平洋の対岸までたどり着いたというニュースを読んで、考え出したものだろう。
話の女性主人公「グレタ」は、ソ連の衛星国チェコからカナダの西海岸バンクーバーに
亡命してきた未亡人。 息子ピーターが結婚した後、ある日、友人の住むトロントに
汽車で出かけた。 そして、あるパーチーで、ジャーナリスト (ハリス) に遭遇する。
彼の妻は精神病院に入院中だった。2人が別れてから、グレタはハリスの夢ばかり
見るようになる。

ある日、彼女は彼宛に、一通の短いメモを(相手の住所もわからぬまま) 書く:
こんな手紙を書くのは、空き瓶にメモを詰めて、海に託すようなものだ。 願わくば、
日本に着きますように。。。   これが、この短編の表題の由来だ。  この一編も
タップリ余韻を残しながら、終わる。。。   従って、「余韻」の好きな読者には大い
に楽しめる作品集である。

 しかしながら、感動を呼ぶような作品は一つも見当たらない!   「短編の名手」とは、
とても言いがたい。  かの有名な短編「最後の一葉」を書いたオー・ヘンリー
(1862-1910) が、(ノーベル賞は受賞しなかったが)  正に「短編の名手中の名手」で
あったことを改めて痛感した!

2013年7月8日月曜日

若者よ、「水平思考」を忘れるな!

奥歯が機能していると、Alzheimer病 (AD、認知症) になり難い (学習した
記憶を忘れ) 難いという結論を出した某大学の名誉教授がいるという記事が最近、
日本の大手某新聞のオンライン版に載った。 当初、面白いと思ったが実験データ
を詳しく読んでみると、結論的には、この教授あるいは研究グループは、いわゆ
る「垂直思考」の落とし穴にまんまと落ち込んだようである。1967年にオッ
クスフォード大学のエドワード・デ・ボノ教授が提唱した、いわゆる「水平思考」
を、この研究グループはすっかり忘れてしまったようだ。どうやら、マウスでは
なく、研究者のほうがADにかかり始めているぞ、というのが私自身の感想であ
る。

問題の記事を要約すると、下記のごとくである。

遺伝子操作でアルツハイマー病を発症するようにしたマウス(17, 生後6か月) を、
 左右の奥歯6本を抜いたもの(10) と残したもの(7) に分けてから、暗い部屋に
入ると電気ショックを受けること (パブロフの条件反射 passive avoidance) ) を覚えさせた。
約4カ月後に条件反射を調べると、歯を残した方は7匹全てが暗い部屋に入らなかった
(つまり、記憶は正常!) が、抜いた方は10匹中6匹が入った (つまり、残りの4匹は
奥歯なしでも、記憶を保持!)。

Passive avoidance test was performed to evaluate learning and memory abilities
right after tooth extraction (6 months old) and 4 months later (10 months old).

私は「水平思考の名人」(垂直思考はむしろ苦手!)だから、視点を変えて、上
記の「括弧書き」の部分に注目した。先ず、最初の括弧書き、この「アルツハイ
マーマウス」の記憶は(奥歯が機能していれば)正常である。つまり、この条件
反射実験では、アルツハイマーに伴う「記憶喪失」は検出できないことになる。
次の括弧書きでは、4匹のマウスは奥歯なしに、条件反射を示したという、驚く
べき結果である。つまり。奥歯はこの種の学習と記憶には、必ずしも必須ではな
い、と結論できる。さて、残りの6匹は奥歯を抜かれた後、条件反射を習得でき
なかった。なぜなのだろうか? 

私が実際に6本の奥歯を無理矢理に抜かれた場面を想像してみた。麻酔を
かけてもらっていても、ひどいショックとストレスを感じるだろう。その直後に、
条件反射の実験(条件付け)をやられても、恐らく、電気ショックなど感じない
だろう。奥歯を6本抜かれたという「拷問」のほうがずっと意識に強く残るからだ。
奇跡的にも、4匹のマウスは奥歯を抜かれるという拷問にも拘らず、電気ショックを
ちゃんと記憶していた。我々人類はそのタフガイさに脱帽せざるをえない! 

なぜ、6匹と4匹に差が出てきたのだろうか? 私の推測であるが、10匹のマ
ウスから、それぞれ6本の奥歯を抜くには、相当の時間がかかるだろう。最初に
「抜け歯」されたマウスと最後に「抜け歯」されたマウスの間には、2ー3時間
のガップがあるに違いない。その後、麻酔がとれた時点で、マウス10匹をまと
めて、暗箱を使って電気ショック実験をしたに違いない。従って、麻酔がとれて
から、条件反射実験をされるまでの時間に関して、最初のマウスと最後のマウス
の間には、「抜け歯」による拷問に苦しむ時間に大きな差が生じる。結果的に拷問を
長らく受けたマウス6匹は記憶を失ったが、拷問時間が短かったマウス4匹は辛うじて
記憶を保ったと解釈(水平思考)したらどうだろうか? 私の頭脳はかなり繊細
なので、虫歯がひどく痛み出すだけで、思考が全く止まってしまうケースがしば
しばある(歯医者にとっては、絶好の「カモ」である!)。

とにかく、この実験は「非人道的な拷問」を伴うもので、奥歯の学習における寄
与を直接研究する手段としては、不適切である(乱暴過ぎる!)と、私自身は思
う。もし可能ならば、「遺伝的に奥歯のない」マウスをクローンしたのち、この種の実験を
すべきだろう。

そこで、そんなマウスが存在するかどうか検索したところ、歯のない(toothless)
マウス(op/op) が既に存在することが判明した。このマウスは増殖因子の一種で
あるCSFー1が欠損しているため、歯が生えない。 ところが、このマウスに正
常なCSFー1遺伝子を発現させると、正常な歯が生えてくるマウス(op/opT)
になる こともわかった(1)。従って、この2種類のマウスの間で、学習/記憶
能力に差があるかどうか調べることによって、(抜け歯という「拷問」なしに)
歯全体の寄与を明らかにすることがいつでも可能である。

最後に「水平思考」の大家チャールズ・ダーウインの進化論に沿って、この問題を
考え直してみよう。 動物界には、歯をもたない無脊椎動物が沢山存在する。
例えば、ショウジョウバエとかミツバチとか線虫の類である。これらの動物も、我々
哺乳類と同様、条件反射や他の学習能力を示す。 従って、歯は基本的には学習や
記憶には必須でないことが明白である。

Endocrinology. 2002 May;143(5):1942-9.

Rescue of the osteopetrotic defect in op/op mice by osteoblast-specific targeting of soluble colony-stimulating factor-1 (CSF-1).



2013年6月28日金曜日

ジュリア・ギラード小伝「英国生まれの赤毛のアン: 
豪州の首相への波乱な半生」

有名な小説「赤毛のアン」の主人公はカナダ生まれのインテリ作家だが、この小伝
に登場する赤毛の女性ジュリア・ギラードは、1961年に英国ウエールズ地方で
生まれ、4歳で両親と共に豪州のアデレードに移住したのち、2010年6月に
労働党の党首となり、豪州で初めての女性首相に就任した。それはちょうど日本で
は、民主党が初めて政権を獲得し、以後3年間、鳩山、管、野田という3人の党首が
首相の座を次々にバトンタッチして、生き延びた時期だった。 

ジュリア・ギラードは議会(下院)で過半数ギリギリの議席数を保つ労働党と数名の野党
(グリーン党や無所属の)議員を上手に操縦しながら、以後3年間を彼女独りでみごとに
全うした。しかしながら、来たる9月に総選挙を控え、選挙で敗北を懸念する労働党の
内紛から、特に(彼女に個人的な妬みを抱いている)ケビン・ラッド前首相の意地汚い
画策から、去る6月27日に党首の座をとうとう失い、首相を辞任せざるをえなくなる運命になった。

もっとも返り咲いたケビン・ラッド首相の政治生命はあと2ー3か月足らずだろう。
というのは、ギラード女史を支持してきた女性有権者の大半は、恐らくラッド首相が
率いる腐敗しきった労働党にはもはや投票しないだろうからである。ラッド首相は
選挙における惨敗の責任を取って、きっと辞職せざるをえなくなるだろう。。。

2013年6月26日水曜日

小説「酋長の娘」の執筆開始!

「PAK」を遮断するプロポリスやブルーベリー、納豆やインドカレーなど様々な健
康食材や薬草類に関する英文総説の改稿がようやく終了したので、「酋長の娘」
というタイトルの小説の執筆に、目下とりかかりつつある。酋長の娘といえば、
「私のラバさん」(南洋の土人)という昔懐かしい歌謡曲を思い出す年輩のひとも
多かろう。あるいは「ポカホンタス」というディズニー映画(アニメ)を思い出
す若者たちも相当いるだろう。

実は、この恋愛小説は、(アメリカ)インディアン(先住民)の酋長の娘(ナナ)と結婚し
ようとする珍しい日本人男性の冒険物語である。舞台は南半球上にある豪州大陸
のメルボルンである。。。 けだし、インディアンの酋長の娘と結婚した日本人
の例は、(著者がオンラインで調べた限り)まだ歴史上存在しない。渡米した日
本の有名な学者の中には、米国の女性と結婚した者が何人かいる。しかし、高峰
嬢吉も野口英世も白人の女性と結婚している。黒人女性と結婚する日本人男性は
たとえ存在してもごく稀れであろうし、いわんや(アメリカ)インディアン女性
との結婚例に関しては、全く記録がない。従って、この小説は前代未聞のストー
リー(出来事)となるだろう。

ヒロインであるナナは、メルボルンにある米国領事館に勤めているという設定で
ある。実はナナには6歳の息子(トム)がいる。トムは黒人との混血児である。
ナナはトムの父親と別れて、この息子を独りで育てている。ある日、メルボルン
の中央駅(フリンダース駅)の真ん前にある聖ポール大聖堂で、米国カルフォル
ニアからメルボルンに単身赴任してきているチャーリーという名の50代の男性
に遭遇する。

実はこの学者には(アメリカ人の)妻がカルフォルニアにいるが、メルボルンへ
いっこうにやってこないので、10年近くずっと別居したまま研究生活を続けて
いる。彼はこの妻(白人女性)と離婚すべきかどうかを思案している。チャーリー
は元来日本人だが、25年ほど昔、渡米して以来、海外でずっと研究生活を続け
ており、10年近いメルボルンの生活が大変気に入っている。「自由の天地」で
ある豪州への永住を将来の視野に入れつつある。 

 さて、ナバホ族(アメリカ先住民)の娘と結婚した日本人は未だいないらしいが、
ナバホ族の息子と結婚した日本人女性は存在する!  
以下、2012年8月5日付けの毎日新聞記事から抜粋: 
『怪物が目覚めた地』
「ウランは地下に眠る巨大な怪物だ。ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリ、そしてフクシマ。誰も制御できない力で人々を苦しめる。
我々がその怪物を起こしてしまった」
 米ニューメキシコ州北西部のチャーチロック地区。先住民ナバホ族のトニー・フッドさん(62)は砂ぼこりが舞う大地を見つめ、つぶやいた。
(中略)
 ナバホ族約25万人はニューメキシコ州からアリゾナ州などにまたがる約7万平方キロに暮らす。保留地のウラン採掘は05年にナバホ自治政府によって禁じられたが、ウランの国際需要の高まりを背景に周辺で再び採掘する動きが出ている。
 住友商事とストラスモア社(カナダ)が出資する「ロカホンダ・プロジェクト」もその一つ。
(中略)
 取材を進めるうち、廃坑近くで今年1月まで暮らしていた日本人女性に出会った。秋田県出身のみゆきトゥーリーさん(38)=アルバカーキー在住。08年にナバホ族のノーマン・トゥーリーさんと結婚し、アリゾナ州ブルーギャップ地区のナバホ族保留地で生活した。(中略)
「東京の短大を出た私は都会の便利な暮らしが普通と思っていた。ウランに興味もなかった。毎日使う電気の源が世界中の先住民の土地から運ばれ、その先住民 がいまだに放射線被害に苦しんでいることを何人の日本人が知っているだろう」。みゆきさんは今、そう思う。
ノーマンさんは「ウラン鉱山会社が来て猟や農作 を営む土地を奪われ、家族やコミュニティーが引き裂かれた。我々の苦しみはフクシマの人たちの苦しみと同じ。ウランを掘り起こしたことはとても危険な行為 だった」と訴えた。


ここで「怪物」とは、米国のマンハッタン計画によりニューメキシコ州ロスアラモスの砂漠で開発された「原爆」を指す。

続く。。。。

2013年6月11日火曜日

"So Far from the Bamboo Grove" by Yoko Kawashima-Watkins (1986)

米国で30年近く前に (少年少女向けに) 出版されたこの英文原書の邦訳「竹林はるか遠く」が、ようやく今月末に、ハート出版から出版される運びとなったそうである。邦訳出版がひどく遅れた理由の一つは、韓国人の間で、この本を発禁にしようとする不穏な動きが根強かったためであるといわれている。

そこで邦訳出版の前に原書を読んで、その内容を吟味してみた。著者は1933年生まれの川島よう子さんで、敗戦直後、11歳で、母親や姉とともに北鮮から命からがら逃避行を続け、幸い日本に帰国後、苦学しながら、京都大学英文学部を卒業後、駐留軍の将校(ドナルド・ワトキンス)と結ばれ、ボストンの南にあるケープコッドに住んでいる文才のある女性である。

満鉄に勤務していた父親と共に、満州と朝鮮の国境近くの町で長らく過ごしていたこの日本人家族は、(父親や長男の留守に)敗戦直前のソ連軍の満州進駐に伴い、母子(母と2人の娘)だけで、竹林のある我が家を捨てて、母国に帰国するため、ソ連軍や北朝鮮軍からの攻撃を避けながら、38度線以南のソウルに向かって、多難な逃避行を開始した。しかしながら、女性だけの逃避行には、行く先々で様々な危険が待ち受けていた。日本政府による朝鮮半島の過酷な占領政策に対して根強い敵意を感じていた多くの朝鮮人による仕返し(虐殺や婦女暴行)が、道中所々で起こっていたからだ。幸い、この母子は危機一髪のところで、それを逃れることができた。一方、別途で北朝鮮から逃避行を続けた長男は、親切な朝鮮人家族の助けによって、命拾いをした。従って、朝鮮人全体を非難するような内容のものでは決してなく、「この原書を発禁にせよ!」という動きは、いわば「ヒステリー」現象に近いと、私自身は思う。

むしろ、この本で特に浮き彫りされていることは、母子間の深い愛情や苦難・苦境を物ともせず戦い抜く姉妹の可憐かつ逞しい姿であろう。帰国直後、京都駅で衰弱しきった母と死に別れた姉妹は、互いに助け合いながら、苦学し続けた。著者はボロをまとっまま通学、学校で学友からのいじめにも負けず、懸命に勉学し、全優(オール5)の成績を上げ、さらに懸賞論文にも合格して、その文才を磨き上げた。その涙ぐましい努力が、結局、この原書となって、世に認められたわけである。帰国後初めて迎える大みそかに、母の仏壇の前で、(自分たちがアルバイトで稼いだ僅かなお金で)ささやかな贈り物を交換し合って(12歳と17歳新年を祝う姉妹の姿に、感動せぬ読者は、恐らくいないだろう。

姉妹は母国日本にいったん引き揚げたが、成人後、結局母国を去って、米国に永住を決めた。なぜだろうか? 戦後の日本は、いわゆる「マッカーサー憲法」のおかげで、女性の基本的人権も次第に尊重され始めたが、日本社会における封建制は今だに根強く残っている。従って、より自由を求める英語堪能な女性にとっては、米国社会のほうがずっと魅力的に見えたにちがいない。30年過ごした母国を去って、欧米生活を40年以上続けている私自身には、それが痛く感じられる。

もう一つ、私がこの本から学んだことは、どもりの人に話しかける時は、努めてゆっくり話すと、相手のどもりが次第に治ってくるという事実である。著者は、父親からの忠告を実践し、(小学生ながら)学校の小遣いさんのどもりを見事に治してしまった!
私にとっても、これは大変貴重な忠告(鱗から目)である。 というのは、私の古くからの親しい知人の間にも、どもで苦労していた人が何人かいたからだ。

最後に一言。この続編「My Brother,Sister and I」(邦訳仮題:兄、姉、そして私-大陸から引き揚げてきた兄妹のその後の苦難)が1994年に出版された。続編は、ある書評によれば、フィクションめいた内容を加味しながら、シベリア抑留から6年ぶりに帰ってくる父親を迎える3人兄妹の喜怒哀楽を綴った作品である。2編合わせて、NHKなどから連続テレビ映画として、将来放映されると素晴らしいものだと、私は秘かに期待している。。。

2013年6月6日木曜日

バルト海の小国(ラトヴィア)で森林浴(森林療法)!

北欧(フィンランド、スウェーデン、ノルウェー)やバルト海に面する小国(ラトヴィア、エストニア、リトワニア)などは、その国土の半分以上が美しい(常緑樹の)森林に覆われている。今夏は、ラトヴィアの首都(リーガ)を初めて訪れ、その郊外にある「シグルダ」≪Sigulda という古い町(リーガから汽車やバスで一時間ほどでたどり着ける)に広がる美しい森と丘陵で、いわゆる森林浴と日光浴を一日中楽しむ機会を得た。シグルダ行きのバスには東洋人らしい中年の女性が独り乗り合わせていた。そこで、彼女と偶然(?)シグルダ駅から川沿いに下る長い道のりを一緒に散策する機会も得た。「日本人ですか?」と私が尋ねると、「実は中国人です」という答えが彼女から返ってきた (もっとも、女性の英語には、中国人特有の訛りが全くない。だから、欧米に長らく暮らしている人に違いない)。というわけで、手持ちの案内書「バルトの国々」(地球の歩き方シリーズ) を彼女に読ませてあげる機会を、残念ながら失ったが、代わりにガウヤ下流に広がる(杉林や白樺の生い茂る)森や小高い丘に残る中世時代の古城を、(ガイド気取りで?)丁寧に案内して回る機会を得た。

ラトヴィアは豊かな平野に恵まれ、海にも近いので、山の幸と海の幸ともに恵まれ、特に野菜、果物、酪農品、各種のパン類がとても安く手に入る。さらに交通費が日本国内に比べて半額だから、遠出が比較的しやすい。流通貨幣は今年一杯は従来通り独自の貨幣[ラット]を使用しているが、来年からEU諸国共通のユーロが使えるようになるので、買い物もいっそう便利になる。さらに、英語がどこでも通じるので、会話にも不便を全く感じさせない。従って、森林浴など[命の洗濯]を楽しむ観光客が今後ますます増えるだろう。

リーガ駅のすぐ近くに、町の台所を支える巨大な市場がある。この中央市場は、5つの巨大なドーム(かまぼこ兵舎)の中にある。20世紀初頭に建てられたもので、実は当時ラトヴィア領内にあったドイツのツェッペリン飛行船の格納庫が移築されたといわれている。毎朝7時半にオープン、午後5時に閉店する。天気の良い日には、ドームの外にも、露天の花屋や青物市場が開店し、さらに賑わいを添える。

2013年2月9日土曜日

「私の見た日本人」(パール・バック著、小林政子訳)

この「幻の随想」の発掘や邦訳をめぐるエピソード

この本の英文原書「The People of Japan」は、1966年に米国の大手出版社
「Simon & Schuster」から出版された。著者のパール・バック女史(1892-1973) は、
往年の名作「大地」などを始めとする80余りの文学作品を世に出し、1938
年にはノーベル文学賞をもらっている。女史は米国生まれであるが、その前半生
(約40年)を中国大陸で過ごした。両親が米国から中国に派遺されたキリスト
教宣教師だったからである。女史は当時の西洋人としては非常にユニークな生い
立ちを駆使して、主に文学を通じて、マルコ・ポーロ以来の「東洋と西洋の架け
橋」という極めて重要な役目を果たした。中国大陸に近い日本列島は、(太平洋
戦争前には)中国大陸の内戦中、女史の家族の疎開地にもなった。さらに、戦後
まもなくは、(日本の路頭に捨てられた多数の)日米混血孤児たちの救済/養子
斡旋のために、たびたび来日した。また1960年には、女史の子供向け短篇小
説「Big Wave」(大津波)の日米合作映画ロケのために、3か月ほど日本各地に
滞在した。従って、女史は稀れな「知日家」(日本を知り抜いた西洋人)だった。
1966年秋に再び来日したのち、この随想「The People of Japan」を出版した
が、その後(何故か)長らく邦訳が一度も出版されず「幻の随想」とまで呼ばれ
るようになった。さて、この「幻の随想」の発掘経過には、次のような面白いエ
ピソードがあった。

女史と水木洋子との出会い

水木洋子という有名なシナリオ作家が生前、長らく千葉県市川市に住んでいた。
1910年に東京・京橋で生まれ、神田で育っている。戦後1947年に市川市
に移り住み、2003年に92歳の生涯を終えるまで半世紀以上、ここが創作の
場となった。彼女は、「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」「浮雲」「キクとイ
サム」など数々の名作シナリオを書き、戦後の日本映画の黄金時代を担った。さ
て、彼女とパール・バックとの主な接点は、1959年に封切の映画「キクとイ
サム」にある。実は主人公のキクとイサムは、日米混血孤児の姉弟だった。父親
は米軍黒人兵、母親は日本人女性。父親は米国本国に帰国する際、2人の子供を
置き去りにし、女性は病死し、姉弟は東北の貧しい農村に住む祖母に引き取られ
て、日本人として育てられる。この映画は日米混血孤児問題を扱った最初の作品
であり、水木洋子が情熱をかけて脚本を書き、今井 正監督の下、大成功を修め
た。恐らく、パール・バックは、1960年の来日の折、この映画を実際に観た、
あるいはこの作品について、澤田美喜から詳しく聞いているに違いない。という
のは、澤田さん(三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の孫娘) は、これらの混血孤児たち
を救済するために、(戦後まもなく) 鎌倉にある自分の別荘を開放して「エリザベ
ス・サンダース・ホーム」を設立し、孤児たちの養育のために一生を捧げた、こ
の道の草分けだったからだ。

さて、1966年の来日直前にパール・バック女史が水木さん宛に送った一通の
手紙が、水木さんの死後(2010年頃)になって、偶然に発見された。水木さ
んの生誕100年を祝う事業の一つとして、地元市川の市民有志による「水木洋
子市民サポーターの会」が、彼女の伝記を出版するために、彼女の遺品を整理し
ている中に、この手紙の存在が明るみになったというわけである。手紙の内容を
要約すれば、女史の来日中、ヒルトンホテルで、日米混血孤児に関する問題につ
いて、水木さんと話し合いをもちたい、という内容だった。水木さんがそれに同
意する返事を送っている形跡はあるが、具体的にどんな話し合いがもたれたのか
については、全く不明だった。そこで、このサポーターの会員の一人(大隅裕子
さん)が、舞字社の社長(吉川政雄さん)を介して、私に連絡をとったというわ
けである。

実は、八王子市にあるこの出版社に、10年以上前に、我々が企画したパール・
バック伝(英文伝記の邦訳)の出版を快く引き受けてもらって以来、親しく(日
豪間を、主にメールで)文通し続ける間柄になっていた。我々の出版した女史の
伝記の下巻末に、女史の作品を全部、年代順に網羅した部分がある。それによる
と、1966年に「The People of Japan」という英文随想が出版されているが、
この中に水木さんとの会合について、何かふれられているかどうか、直接原書に
あたって調べてもらえないかという依頼だった。この随想は、なぜか日本で邦訳
がまだ出版されていないからだという。そこで早速、原書を取り寄せて、読んで
みたが、水木さんに関する記事は全くなかった。普通ならば、ここで話は終わり
になるわけだが、実際に読んでみると、半世紀近い昔に書れた言わば「幻の随想」
が、意外に興味深い、新鮮な内容のものだった。時代を超えて、なお学ぶべきものが
多くあった。その上、戦後まもない日本を活写した(特に我々の世代に)懐かしい写真が
沢山収録されていた。 そこで、発掘された「幻の随想」を出版しようではないか、と
いうアイディアが頭に浮かんだ。 数年前に女史の小説「原爆を作った人々」
(Command the Morning、 1957年) の邦訳を半世紀振りに、訳者の小林政子さんと
出版した経験があるので、小林さんにこの新しい企画を持ち掛けた。 そして、
国書刊行会という出版社の編集者 (中川原 徹さん) の情熱によって、「私の見た日本人」と
いう邦訳がついに誕生する運びになったというわけである。 来たる3月21日に
出版予定である。乞う、ご期待! 
 
 http://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336056269/

この訳書に関して、週刊朝日(5月21日発売)の82ページに、小説家・写真家である片岡義男氏による書評「均衡を失う日本を考えるための定点」が掲載されています。


 宮崎正弘氏による書評 (抜粋) :

親中派として中国に同情的な作品を残した著者 (パール・バック女史) だけに、
日本にどれほどの知識と蓄積があるか、本書で明らかになるが、歴史、文化、宗
教(つまり神道と仏教)への偏見があり、議論に深みがあるとはいえない。
しかし、60年代の日本の生き様と状況を、これほど生き生きと証言している書
物は珍しく、とくに添付された写真は古典的でさえある。
 
「宮崎」評に対する私のコメント:

キリスト教の宣教師の娘として、(儒教の国) 中国大陸に前半生を過ごしたパール・
バック女史に、日本の「神道や仏教」に関して、(宮崎氏のような国粋主義的な)
深い理解 (洞察) を期待するのは到底無理だろう。敗戦後、西洋的な(独文学/英
文学を専攻した) 両親に育てられ、義務教育では漢文を通じて、儒教を教え込ま
れた私自身にも、神道や仏教に関する知識が、(西洋人である) 女史以上にあると
は言えない。もっとも私は、女史と同様、結局キリスト教にも失望し、「無神教」
(神や仏は人類がでっち上げたもので、人類出現以前から、この宇宙に存在してい
た物ではない!) を確信するようになったが。 「宗教とは、(非科学的な) 偏見
の現われに過ぎない」というのが、科学者としての私の個人的見解である。宗教
はしばしば「戦争の種 (口実)」になっても、戦争の解決には役立たないという
ことを、長い我々人類の「史実」が証明している。