太平洋戦争末期に米国の国防 (陸) 相を担当していた高齢(78歳)のヘンリー・
スティムソン ( 1867ー1950 ) は実は、ハーバード大学出身の親日的な
法律学者だったが、戦争終結直前に広島と長崎への原爆投下命令書に不本意なが
ら署名をせざるを得なくなかった。その悲劇に至る過程や政治的(特にFDRの
急死とトルーマン大統領就任に伴う反ソ反共強硬路線)や軍事的な背景を、著者
シーン・マロイが、画期的な「原爆投下決断の内幕」(The Decision to Use the
Atomic Bomb)のレベルを更に越えて、新しく公開された「極秘情報」に基づき、
この本で戦争史実を鋭く分析している。
スティムソンは、原爆投下予定候補地リストから、日本の古都で伝統文化の中心
地である「京都」を除外することには辛うじて成功したが、他の人口密集都市で
あり、米軍の空爆をまだ余り受けていない、「軍港」の所在地である広島と長崎
に住む非戦闘員 (老若男女) の生命を原爆による大量殺りくから救うことは、過
労と力不足でできなかった。
戦後まもなく、彼は原爆の悲劇に責任を深く感じると共に、トルーマン大統領や
その閣僚と肌が合わず、国防 (陸) 相を潔よく辞任した。もし、(1945年4
月に急死した)史上最大の大統領FDRが太平洋戦争の末期(7ー8月)まで存
命だったら、(大量殺りく兵器の使用に強く反対していた)スティムソンの助言
を尊重して、原爆投下を避けることができたかもしれない。。。
1つ特筆すべきことは、スティムソンは常に「天使のような人物」ではなかったと
いう事実だ。日本による(ハワイ島の)真珠湾奇襲の10日前、彼はFDRと密
談を交し、「いかにして奴ら(日本)を誘き出して、(米国大陸には打撃になら
ない形で)最初に奴らに発砲させるためには、何をしたらいいだろうか」という
作戦を入念に練ったということが、彼の日記にはっきり記してある。日本がその
「ワナ」にまんまとはまったというわけだ。米国政府は「奇襲」を事前にキャッ
チしていた。そして、奇襲直後に、万をじしていたかのように、日本に宣戦を布
告した。敵は始めから「うわ手」だった。。。
参考書
邦訳「原爆投下決断の内幕」(上下2巻、1995年)
(The Decision to Use the Atomic Bomb)
小人「トルーマン」の野心(外交手段)、戦争終結とは全く無縁!
なぜ、日本が降服寸前に、広島と長崎に米国(トルーマン政権)が原爆を敢えて投
下する決定をしたのか、その真の理由や動機を理解 (しっかり把握) するために、
この英文原書の邦訳「原爆投下決断の内幕」(上下2巻)はもっと日本人読者の
間、特に(米国政府にあくまで追従しながら、戦後の) 日本の政治を牛耳っている
保守的な指導者たちに、読まれるべき労作である。
終戦前に、既に米ソ間で「冷戦」が始まっていた。ルーズベルト大統領の急死に
ともない、棚ぼた式に大統領になった (新米の) トルーマンは、ソ連の老練な指
導者スターリンに、外交の場で始終なめられていた。ソ連は東ヨーロッパ諸国全
体を自国の領土や衛星国にしようと虎視眈々と狙っていた。それを威嚇、阻止す
るためには、トルーマンの手元には唯1つしか手段がなかった。ソ連にはまだ開
発されていない「原爆」だった。それを今や「虫の息」の日本に落として、その
未曾有な破壊力をソ連に見せ付ければ、さすがのスターリンも尻込みするだろう
と、トルーマンは考えた。しかし、米国の原爆開発チームは7月中旬に最初の原
爆実験に成功したばかりだった。実戦用の(広島・長崎に投下すべき)原爆はま
だなかった。もし、原爆投下前に、日本が降服してしまったら、スターリンを原
爆で威嚇するチャンスを失う(降服した国に、いくら何でも原爆は落せない!)。
そこで、トルーマンは故意に降服を遅らせ(原爆製造のための「時間稼ぎ」をす)
るために、巧妙な手を打った。ポツダム宣言で、日本に「無条件」降服(つまり、
「天皇制の廃止」)を迫った。日本政府が受諾できないのを見抜いた上で。。。
馬鹿な日本政府はそのワナにまんまとひっかかって、降服を渋った。2、3週間
後(8月上旬)に2発の原爆がみごと使用準備オーケーの状態になった。後は、
歴史の良く知るところである。こういう史実を知った上で、なお「米国追従」外
交を続ける日本の政治指導者連中を批判すべきである。
この英文原書(The Decision to Use the Atomic Bomb)は日本国内でまだ市販
(通販)されているが、その邦訳(上下2巻)は(奇妙にも)絶版どころか「古
本|さえも出回っていない。誰がこの邦訳の流通を阻止しているのだろうか?
米国政府からの指図で、日本政府が出版社や通販書店に圧力をかけているのだろ
うか?
2008年11月28日金曜日
2008年11月21日金曜日
"Barack Obama: Son of Promise, Child of Hope"
(Simon & Schuster)
アメリカでは最近、黒人系の若いエネルギッシュな青年バラク・オバマが新し
い大統領に当選して、長い「イラク戦争」や迫リつつある「経済危機」からよう
やく脱出できる希望に溢れている。カリスマ的なオバマは、特に若い世代の間に
絶大の人気がある。最近、オバマ大統領に関する伝記が3冊もノンフィクション
部門 (ペーパーバック)のベストセラーのトップを占めている。さて、子供向けの
本でも、小学生向け48ページの絵本「バラク・オバマ小伝」(サイモン&シュス
ター出版、2008年)がトップに踊り出た。絵本の4分の3がさし絵で占めら
れ、とても楽しく読める。
豪州メルボルンに長らく住む友人(奥さんが日本人、ご主人が豪州人)の子供た
ち(6歳の弟マックスと12歳の姉マーサ)に読んでもらおうと、クリスマスプ
レゼントを兼ねて、買い求めた。 マーサには多分、200ページ余りの小伝
「YES WE CAN」(もちろん、可能です!) の方がずっと内容があって、よかろう。
米国では目下、この2冊が子供向けの伝記本の1、2位を占めている。
この国の子供たちが皆んな、遠い将来、オバマのような立派な大統領になれる
チャンスを夢見ているようだ (さて、日本では「総理大臣」の伝記が子供向けの
伝記のトップになるなど、とても想像がつかない! なぜなのだろうか?)。
実はオバマ大統領は、ケニア人の父親と米国の白人女性(母親)との間に生まれた
混血児(ハーフ)なのである。インドネシアやハワイの学校で少年時代を過ごすという、
珍しい経験をしている。だから、白人ばかりではなく、黒人を初め有色人種の立場、
海外に住む人々の立場も良く理解できる。従って、米国の国民ばかりではなく、
日本を含めて世界中の人々から、大変期待されている。 特に、父親の故国「ケニア」
の貧しい人々からは、神様のように尊敬されている。
この本はどうやら、彼のベストセラー自伝「マイ・ドリーム」に基づいて、童話
作家ニッキー・グリムスによリ子供向けに要約され、画家ブライヤン・コリアに
よる色とりどりの楽しい挿絵をふんだんに入れたものである。
Garen Thomas 著の小伝「YES WE CAN」は、主にオバマの自伝「Dreams from My Father」
とDavid Mandell 著の評伝「Obama: From Promise to Power 」という大人向けの本を
うまくまとめて、小中学生向きにアレンジした傑作である。私のような還暦を過ぎた大人が読んでも大変面白い。
一日かけずに一気に読める。
最後に、一言欲を言わせてもらえば、転載の写真(全部白黒!)の一部をカラー写
真にしてくれると子供も大人もずっと楽しめると私は思う(せめて、有色人種の我々
日本人読者向けの「邦訳」ではそうして欲しい!)。
YES WE CAN
オバマ小伝「もちろん、可能です!」(ギャレン・トマス著)
13章: 出会い
シカゴで4年間過ごした後、1988年にバラックは、ボストンにあるハーバー
ド大学法学部の大学院に進学した。彼は既に27歳で、他の大部分の院生より数
年年上だった。しかしながら、彼がクラスメートの中でずば抜けていたのは、年
のせいだけではなかった。もちろん、彼は年上相応に円熟していたが、彼は極め
て規律正しく、かつ勉学に専念していたからだ。最初の一年、彼は図書館で毎日
何時間も自習をした。彼は再び大学構内での人種差別制度に反対する運動にも参
加した。大学の有名な法学雑誌、「ハーバード人権と自由に関するレビュー」に
いくつかの論説を発表した。この雑誌に論文を発表するのは、すばらしい業績な
のである。
彼は黒人法学部学生協会の年会の晩餐の席でも講演をやった。その席で、彼のよ
うに機会に恵まれた者たちは、恩返しに、それほど恵まれなかった多くの人々の
助けになってやる必要があることを強調した。彼は教授会にもっと有色人種出身
の教師が採用されるべきであると主張する人々の意見に参同した。
最初の一年間の後、夏休みをシカゴに戻って過ごし、シドリー・オースチンとい
う法律事務所に見習いとして働いた。ミシェル・ロビンソンはそこの弁護士だっ
た。そして、バラクの指導を仰せつかった。彼はミシェルに会うやすっかり彼女が気
に入ってしまった。ミシェルの方は、バラクが事務所に姿を現す前から他の職員
が彼を高く評価していることに懸念を感じていた。彼女は、バラクは生意気か、
あるいは実直に働くよりはむしろ同僚におべっかを使って昇進しようとする人間
ではないかと、予想していた。それに、自分の部下とデートをするのは職場の規
律を乱すものだと思っていた。さらに、彼女はこの法律事務所で働くいわゆる
「黒一点」(たった一人の黒人)だった。周囲から「黒人はやっぱり黒人と一緒
になってしまうな」と思われるのを、彼女は嫌った。バラクにも似かよった経験
が昔あった。(インドネシアの学校から転校してきたばかりのころ)ハワイのプ
ナハウ・アカデミー(小学校)で、全校にたった一人の黒人の女の子と遊んで、
仲間からからかわれたことがあった。しかし、今はどんな人種の相手とも、自分
が気に入った相手とデートするようになっていた。そして、バラクはミシェルを
デートの相手に選んだ。
ミシェルの家庭はシカゴのサウスサイドにある黒人が大多数を占める地域出身だっ
た。子供のころ、ミシェルと兄のクレイグは、両方とも優等生で(プリンストン
大学卒)、優秀なバスケットボール選手でもあった(クレイグは、後に大学バス
ケットボールのスターになり、現在オレゴン州立大学バスケットボール部のヘッ
ドコーチ)。彼らの家庭生活は比較的安定だったが、父親のフレイザーは身体に
障害があって、不自由な生活を送っていた。ミシェルは一所懸命勉強して、一家
のために苦労してくれた父親が誇れるような人間になろうと努めた。兄と同様、
プリンストン大学を卒業してから、ハーバード大学法学部の大学院に進学した
(年下だが、バラクの「先輩」に当たる)。
ミシェルは用心深く、バラクとのデートに彼女のガールフレンドも連れて来た。
しかし、バラクはミシェルにしか興味を示さなかった。やがて、ミシェルは彼と
バスキン・ロビンスというアイスクリーム・ショップでデートすることに同意した。
チョコレートアイスクリームを食べながら、2人は次第に親密になっていった。
ある日、バラクはサウスサイドにある教会の地下で自分が主催している成人学校
にミシェルを連れて来て、そこで、主に母子家庭の母親たちを対象に、白人と有
色人種(特に黒人)との間にあるギャップをいかになくしたらよいか、その方法
について話をした。その話を聞いて、ミシェルは彼にすっかり惚れてしまった。
以来2人は、婚約状態になった。
バラクとミシェルは、彼がハーバード大学に戻ってからも、デートを続けた。バ
ラクは大学院で、残る2年間を通じて、彼の巧みな雄弁と説得力で、自分とは意
見が違う仲間ともじっくり話し合って、(全員が同意できるような)妥協案を案
出する才能をしばしば発揮した。こうして、彼はハーバード法学レビューの編集
員に抜擢された。それだけではない! 1990年には、進歩派の仲間たちが彼
を、その雑誌の編集長選の有力な立候補者に担ぎ上げることにも成功した。当時、
大学構内では、第一次湾岸(イラク)戦争などをきっかけに、リベラル(進歩)
派と保守派との間で、かなり激しい意見の対立が起こっていた。進歩派とは、男
女同権(平等)を実現したり、社会から人種差別を撤廃したり、失業者や貧乏人
たちを救済したり、自然や環境を保護したり、戦争をやめさせたりするために、
政府がもっと積極的に協力すべきであるというような進歩的な意見を持つ人々を
さす。他方、保守派とは、因習的な従来の制度に満足し、社会の変化(改善や改
革)に抵抗、あるいはそれを妨害するなど、いわゆる旧態依然とした物の考え方
をする人々をさす。バラクは明らかに進歩的な考え方の持ち主だった。しかしな
がら、彼は心の広い人物だった。彼は常に、各々の問題について、両者の意見を
じっくり聞いた上で、自分自信の結論を出す習慣にしている。だから、保守的な
意見の持ち主も、バラクのこの柔軟な性格が好きだった。そこで、法学レビュー
の編集長選挙中、これらの保守派は、自分たちの候補者が勝ち目がないと悟ると、
デビッド・ゴールドとの決戦投票でバラクを支持した。というのは、バラクが保
守派の意見に同意しないにしも、彼らの意見を少なくとも考慮してくれることを
知っていたからだ。
こうして、レビューの編集長に当選したバラクは、就任早々困難な問題に一つ直
面した。75人という大所帯の編集部内で、わずか数名にしか、(編集部をやり
くりする)特別の役職を与えることができないからだった。彼は黒人、女性、あ
るいは他のマイノリチー(小数派)がそれまで長い間、このような役職を与えら
れなかったという歴史を鑑みて、できれば彼らに、優先的に役職をあげたかった。
しかしながら、白人だからという理由で、適材(優秀な人材)を役職から除外す
ることもできなかった。白人に対する差別扱いになるからだ。彼は色々熟慮した
末、最終的には、多彩なグループにそれぞれ、役職を分配することにした。しか
しながら。その決断は、多くの黒人から批判(苦情)をこうむることになった。
彼らは「過去の穴埋め」を期待していたからだ。彼らの失望にもかかわらず、バ
ラク指導下のレビューはスムーズに作動し、人々は彼を公平かつ老練な編集長と
して讃えた。
ここまで読んで、不意に私の脳裏にひらめいたある夢想があった。日本の
皇太子夫妻はほぼオバマ夫妻の年頃であると。もし、この皇太子夫妻が皇居
(正確には、東宮御所)を後にして、敢えて「民間人」となって、バラクやミシェル
のように、その優れた才覚を発揮したら、日本はどんなに良くなるだろうかと。
もちろん、夫妻とも皇室では「進歩派」であると私は解釈しての話だが。。。
少なくとも、この子供向けの本(英文原書でも邦訳でも)を、ぜひ夫妻に一度だけ
読んでもらいたいと思った。 YES WE CAN!
続く
い大統領に当選して、長い「イラク戦争」や迫リつつある「経済危機」からよう
やく脱出できる希望に溢れている。カリスマ的なオバマは、特に若い世代の間に
絶大の人気がある。最近、オバマ大統領に関する伝記が3冊もノンフィクション
部門 (ペーパーバック)のベストセラーのトップを占めている。さて、子供向けの
本でも、小学生向け48ページの絵本「バラク・オバマ小伝」(サイモン&シュス
ター出版、2008年)がトップに踊り出た。絵本の4分の3がさし絵で占めら
れ、とても楽しく読める。
豪州メルボルンに長らく住む友人(奥さんが日本人、ご主人が豪州人)の子供た
ち(6歳の弟マックスと12歳の姉マーサ)に読んでもらおうと、クリスマスプ
レゼントを兼ねて、買い求めた。 マーサには多分、200ページ余りの小伝
「YES WE CAN」(もちろん、可能です!) の方がずっと内容があって、よかろう。
米国では目下、この2冊が子供向けの伝記本の1、2位を占めている。
この国の子供たちが皆んな、遠い将来、オバマのような立派な大統領になれる
チャンスを夢見ているようだ (さて、日本では「総理大臣」の伝記が子供向けの
伝記のトップになるなど、とても想像がつかない! なぜなのだろうか?)。
実はオバマ大統領は、ケニア人の父親と米国の白人女性(母親)との間に生まれた
混血児(ハーフ)なのである。インドネシアやハワイの学校で少年時代を過ごすという、
珍しい経験をしている。だから、白人ばかりではなく、黒人を初め有色人種の立場、
海外に住む人々の立場も良く理解できる。従って、米国の国民ばかりではなく、
日本を含めて世界中の人々から、大変期待されている。 特に、父親の故国「ケニア」
の貧しい人々からは、神様のように尊敬されている。
この本はどうやら、彼のベストセラー自伝「マイ・ドリーム」に基づいて、童話
作家ニッキー・グリムスによリ子供向けに要約され、画家ブライヤン・コリアに
よる色とりどりの楽しい挿絵をふんだんに入れたものである。
Garen Thomas 著の小伝「YES WE CAN」は、主にオバマの自伝「Dreams from My Father」
とDavid Mandell 著の評伝「Obama: From Promise to Power 」という大人向けの本を
うまくまとめて、小中学生向きにアレンジした傑作である。私のような還暦を過ぎた大人が読んでも大変面白い。
一日かけずに一気に読める。
最後に、一言欲を言わせてもらえば、転載の写真(全部白黒!)の一部をカラー写
真にしてくれると子供も大人もずっと楽しめると私は思う(せめて、有色人種の我々
日本人読者向けの「邦訳」ではそうして欲しい!)。
YES WE CAN
オバマ小伝「もちろん、可能です!」(ギャレン・トマス著)
13章: 出会い
シカゴで4年間過ごした後、1988年にバラックは、ボストンにあるハーバー
ド大学法学部の大学院に進学した。彼は既に27歳で、他の大部分の院生より数
年年上だった。しかしながら、彼がクラスメートの中でずば抜けていたのは、年
のせいだけではなかった。もちろん、彼は年上相応に円熟していたが、彼は極め
て規律正しく、かつ勉学に専念していたからだ。最初の一年、彼は図書館で毎日
何時間も自習をした。彼は再び大学構内での人種差別制度に反対する運動にも参
加した。大学の有名な法学雑誌、「ハーバード人権と自由に関するレビュー」に
いくつかの論説を発表した。この雑誌に論文を発表するのは、すばらしい業績な
のである。
彼は黒人法学部学生協会の年会の晩餐の席でも講演をやった。その席で、彼のよ
うに機会に恵まれた者たちは、恩返しに、それほど恵まれなかった多くの人々の
助けになってやる必要があることを強調した。彼は教授会にもっと有色人種出身
の教師が採用されるべきであると主張する人々の意見に参同した。
最初の一年間の後、夏休みをシカゴに戻って過ごし、シドリー・オースチンとい
う法律事務所に見習いとして働いた。ミシェル・ロビンソンはそこの弁護士だっ
た。そして、バラクの指導を仰せつかった。彼はミシェルに会うやすっかり彼女が気
に入ってしまった。ミシェルの方は、バラクが事務所に姿を現す前から他の職員
が彼を高く評価していることに懸念を感じていた。彼女は、バラクは生意気か、
あるいは実直に働くよりはむしろ同僚におべっかを使って昇進しようとする人間
ではないかと、予想していた。それに、自分の部下とデートをするのは職場の規
律を乱すものだと思っていた。さらに、彼女はこの法律事務所で働くいわゆる
「黒一点」(たった一人の黒人)だった。周囲から「黒人はやっぱり黒人と一緒
になってしまうな」と思われるのを、彼女は嫌った。バラクにも似かよった経験
が昔あった。(インドネシアの学校から転校してきたばかりのころ)ハワイのプ
ナハウ・アカデミー(小学校)で、全校にたった一人の黒人の女の子と遊んで、
仲間からからかわれたことがあった。しかし、今はどんな人種の相手とも、自分
が気に入った相手とデートするようになっていた。そして、バラクはミシェルを
デートの相手に選んだ。
ミシェルの家庭はシカゴのサウスサイドにある黒人が大多数を占める地域出身だっ
た。子供のころ、ミシェルと兄のクレイグは、両方とも優等生で(プリンストン
大学卒)、優秀なバスケットボール選手でもあった(クレイグは、後に大学バス
ケットボールのスターになり、現在オレゴン州立大学バスケットボール部のヘッ
ドコーチ)。彼らの家庭生活は比較的安定だったが、父親のフレイザーは身体に
障害があって、不自由な生活を送っていた。ミシェルは一所懸命勉強して、一家
のために苦労してくれた父親が誇れるような人間になろうと努めた。兄と同様、
プリンストン大学を卒業してから、ハーバード大学法学部の大学院に進学した
(年下だが、バラクの「先輩」に当たる)。
ミシェルは用心深く、バラクとのデートに彼女のガールフレンドも連れて来た。
しかし、バラクはミシェルにしか興味を示さなかった。やがて、ミシェルは彼と
バスキン・ロビンスというアイスクリーム・ショップでデートすることに同意した。
チョコレートアイスクリームを食べながら、2人は次第に親密になっていった。
ある日、バラクはサウスサイドにある教会の地下で自分が主催している成人学校
にミシェルを連れて来て、そこで、主に母子家庭の母親たちを対象に、白人と有
色人種(特に黒人)との間にあるギャップをいかになくしたらよいか、その方法
について話をした。その話を聞いて、ミシェルは彼にすっかり惚れてしまった。
以来2人は、婚約状態になった。
バラクとミシェルは、彼がハーバード大学に戻ってからも、デートを続けた。バ
ラクは大学院で、残る2年間を通じて、彼の巧みな雄弁と説得力で、自分とは意
見が違う仲間ともじっくり話し合って、(全員が同意できるような)妥協案を案
出する才能をしばしば発揮した。こうして、彼はハーバード法学レビューの編集
員に抜擢された。それだけではない! 1990年には、進歩派の仲間たちが彼
を、その雑誌の編集長選の有力な立候補者に担ぎ上げることにも成功した。当時、
大学構内では、第一次湾岸(イラク)戦争などをきっかけに、リベラル(進歩)
派と保守派との間で、かなり激しい意見の対立が起こっていた。進歩派とは、男
女同権(平等)を実現したり、社会から人種差別を撤廃したり、失業者や貧乏人
たちを救済したり、自然や環境を保護したり、戦争をやめさせたりするために、
政府がもっと積極的に協力すべきであるというような進歩的な意見を持つ人々を
さす。他方、保守派とは、因習的な従来の制度に満足し、社会の変化(改善や改
革)に抵抗、あるいはそれを妨害するなど、いわゆる旧態依然とした物の考え方
をする人々をさす。バラクは明らかに進歩的な考え方の持ち主だった。しかしな
がら、彼は心の広い人物だった。彼は常に、各々の問題について、両者の意見を
じっくり聞いた上で、自分自信の結論を出す習慣にしている。だから、保守的な
意見の持ち主も、バラクのこの柔軟な性格が好きだった。そこで、法学レビュー
の編集長選挙中、これらの保守派は、自分たちの候補者が勝ち目がないと悟ると、
デビッド・ゴールドとの決戦投票でバラクを支持した。というのは、バラクが保
守派の意見に同意しないにしも、彼らの意見を少なくとも考慮してくれることを
知っていたからだ。
こうして、レビューの編集長に当選したバラクは、就任早々困難な問題に一つ直
面した。75人という大所帯の編集部内で、わずか数名にしか、(編集部をやり
くりする)特別の役職を与えることができないからだった。彼は黒人、女性、あ
るいは他のマイノリチー(小数派)がそれまで長い間、このような役職を与えら
れなかったという歴史を鑑みて、できれば彼らに、優先的に役職をあげたかった。
しかしながら、白人だからという理由で、適材(優秀な人材)を役職から除外す
ることもできなかった。白人に対する差別扱いになるからだ。彼は色々熟慮した
末、最終的には、多彩なグループにそれぞれ、役職を分配することにした。しか
しながら。その決断は、多くの黒人から批判(苦情)をこうむることになった。
彼らは「過去の穴埋め」を期待していたからだ。彼らの失望にもかかわらず、バ
ラク指導下のレビューはスムーズに作動し、人々は彼を公平かつ老練な編集長と
して讃えた。
ここまで読んで、不意に私の脳裏にひらめいたある夢想があった。日本の
皇太子夫妻はほぼオバマ夫妻の年頃であると。もし、この皇太子夫妻が皇居
(正確には、東宮御所)を後にして、敢えて「民間人」となって、バラクやミシェル
のように、その優れた才覚を発揮したら、日本はどんなに良くなるだろうかと。
もちろん、夫妻とも皇室では「進歩派」であると私は解釈しての話だが。。。
少なくとも、この子供向けの本(英文原書でも邦訳でも)を、ぜひ夫妻に一度だけ
読んでもらいたいと思った。 YES WE CAN!
続く
2008年11月19日水曜日
「乳がんと牛乳」(こみち書房)
気になる内容、どう読むべきか?
素人の手によるいわゆる「研究」には穴だらけが多い。実験的「確証」もないまま、
純然たる「仮説」を事実かのように主張する「悪書」(誤解をもたらす本)を売
りさばく著者がいたら、その道の専門家は、それを批判し読者に警告を与える社
会的な義務がある。しかも、裏で操作して、そのような批判を「ネットから勝手
に削除させる」出版社が出没し始めたら、尚更のことである。なぜなら、その出
版社は、その本の内容に「問題」があることを、既に自覚しながら、なお本を売り
続けているからだ。
さて、英国の有名な地球化学者(癌研究者ではない!)ジェーン・プラントが自
分の乳癌体験を綴った数年前のベストセラー英文著書「YOUR LIFE IN YOUR HANDS」
が、最近ようやく邦訳されて「乳がんと牛乳」というタイトルで出版された。彼
女の度重なる乳癌再発の原因が、なんと「牛乳」だったという意外な (しかも、
特に世界的「金融危機」に瀕して、酪農業者にとっては極めてショッキングな)
話である。
彼女の乳癌に関する研究 (?) 内容は、医学雑誌には一度も発表されたことがな
いし、彼女の癌に関する主張には、異論が多々ある。例えば、ネズミに牛乳を飲
ませて、乳癌の発生に成功したなどという報告は一例もない。従って、読者各々
が読後に、内容の「善し悪し」を自ら判断する必要がある。彼女自身が主張する
ように、自分の体 (病気) については、医者のいうことをそのまま鵜呑みにせず、
自身の判断に基づいて、ケアすべきだからだ。世の中には、(製薬会社と癒着する
) でたらめな薮 (やぶ) 医者が意外に多いのだ。
牛乳は元来、子牛の成長のための母乳である。だから、成長ホルモンや栄養が当
然タップリだ。赤ん坊の細胞はそれを吸ってすくすく成長する。しかしながら、
成人した我々の体では、正常な細胞は大部分成長が止まっている。例外は癌患者
の「癌細胞」である。癌細胞は栄養に飢えているから、牛乳の栄養を吸って増殖
を続ける。牛乳ばかりではない。カロリーの高い栄養食は全て、癌の栄養になる。
だから、癌患者は療養中、節食 (腹七分目) が必要なのだ。乳製品だけに限らな
い。
この本の訳者は、栄養医学者だが、癌には疎いようだ。「牛乳バッシング」的な
タイトル (結論) は、著者 (地質学者) および訳者の早計の至り (あるいは牛乳
のみに拘泥し過ぎる) としか言えない。
「肥満体 (あるいはメタボ) の患者の癌は治療しにくい」という癌の常識を、癌
患者は肝に命じるべきだ。過剰な脂肪が癌に栄養を供給し続けているからだ。そ
ういう(より巾広い) 視野から、この本を改めて読み直してみると、意外に有益
(得るところが多い) かもしれない 。
小説は多分例外だろうが、一般的に本というものは、特にノンフィクション物は、
読者の洞察力をそのまま反映する「鏡」のようなものである。もちろん、1を読
んで10を知ることができれば理想的である。1を読んで1しかつかめない(鵜
呑みする)ようでは、読者として失格である。得るものがほんのわずかだからだ。
10とはいわなくても、3から5ほど学ぶことができれば、かなり優秀だろう
(頭を駆使して「行間を読む」努力をしよう!)。
そうすれば、癌ばかりではなく、老化も防ぐことができる。なぜだろう? 脳と
は(使えばの話だが)体の中で(筋肉以上に)最も糖分を消費するところなので
ある。糖分を効率良く消費すると、余分な糖分で肥満、糖尿病、認知症(アルツ)
などの老化現象に陥ることを防止することができるからだ。
純然たる「仮説」を事実かのように主張する「悪書」(誤解をもたらす本)を売
りさばく著者がいたら、その道の専門家は、それを批判し読者に警告を与える社
会的な義務がある。しかも、裏で操作して、そのような批判を「ネットから勝手
に削除させる」出版社が出没し始めたら、尚更のことである。なぜなら、その出
版社は、その本の内容に「問題」があることを、既に自覚しながら、なお本を売り
続けているからだ。
さて、英国の有名な地球化学者(癌研究者ではない!)ジェーン・プラントが自
分の乳癌体験を綴った数年前のベストセラー英文著書「YOUR LIFE IN YOUR HANDS」
が、最近ようやく邦訳されて「乳がんと牛乳」というタイトルで出版された。彼
女の度重なる乳癌再発の原因が、なんと「牛乳」だったという意外な (しかも、
特に世界的「金融危機」に瀕して、酪農業者にとっては極めてショッキングな)
話である。
彼女の乳癌に関する研究 (?) 内容は、医学雑誌には一度も発表されたことがな
いし、彼女の癌に関する主張には、異論が多々ある。例えば、ネズミに牛乳を飲
ませて、乳癌の発生に成功したなどという報告は一例もない。従って、読者各々
が読後に、内容の「善し悪し」を自ら判断する必要がある。彼女自身が主張する
ように、自分の体 (病気) については、医者のいうことをそのまま鵜呑みにせず、
自身の判断に基づいて、ケアすべきだからだ。世の中には、(製薬会社と癒着する
) でたらめな薮 (やぶ) 医者が意外に多いのだ。
牛乳は元来、子牛の成長のための母乳である。だから、成長ホルモンや栄養が当
然タップリだ。赤ん坊の細胞はそれを吸ってすくすく成長する。しかしながら、
成人した我々の体では、正常な細胞は大部分成長が止まっている。例外は癌患者
の「癌細胞」である。癌細胞は栄養に飢えているから、牛乳の栄養を吸って増殖
を続ける。牛乳ばかりではない。カロリーの高い栄養食は全て、癌の栄養になる。
だから、癌患者は療養中、節食 (腹七分目) が必要なのだ。乳製品だけに限らな
い。
この本の訳者は、栄養医学者だが、癌には疎いようだ。「牛乳バッシング」的な
タイトル (結論) は、著者 (地質学者) および訳者の早計の至り (あるいは牛乳
のみに拘泥し過ぎる) としか言えない。
「肥満体 (あるいはメタボ) の患者の癌は治療しにくい」という癌の常識を、癌
患者は肝に命じるべきだ。過剰な脂肪が癌に栄養を供給し続けているからだ。そ
ういう(より巾広い) 視野から、この本を改めて読み直してみると、意外に有益
(得るところが多い) かもしれない 。
小説は多分例外だろうが、一般的に本というものは、特にノンフィクション物は、
読者の洞察力をそのまま反映する「鏡」のようなものである。もちろん、1を読
んで10を知ることができれば理想的である。1を読んで1しかつかめない(鵜
呑みする)ようでは、読者として失格である。得るものがほんのわずかだからだ。
10とはいわなくても、3から5ほど学ぶことができれば、かなり優秀だろう
(頭を駆使して「行間を読む」努力をしよう!)。
そうすれば、癌ばかりではなく、老化も防ぐことができる。なぜだろう? 脳と
は(使えばの話だが)体の中で(筋肉以上に)最も糖分を消費するところなので
ある。糖分を効率良く消費すると、余分な糖分で肥満、糖尿病、認知症(アルツ)
などの老化現象に陥ることを防止することができるからだ。
2008年11月17日月曜日
「金儲け」のみが目当ての悪書:
「東大合格生のノートはかならず美しい」 (文藝春秋)
結論:
私の結論をまず言わせてもらえば、(目下、巷でバカみたいに売れている)この
本は「お金を払ってまで、読むほどの価値はない!」
総論:
私がここで、若い高校生たちに特にお勧めしたいことは、他人の真似をせず、自
分に最も適した記憶のしかた、メモの取りかたを含めた「頭の整理方法」を自ら
編み出す努力をしてもらいたい、ということである。東大に入学するだけが人生
ではない! 我々の人生はもっとずっと「多彩」であるべきだ。そういう多彩さ
に「美しさ」を見つけてほしい。
(「金儲け目当て」の本や業者の宣伝に盲従して)軍隊の兵士のように皆んな同
じ色の制服を着て、号令一下、同じ「コクヨ」のノートを使って、青春の貴重な
時間を過ごすのは、戦争中の「学徒出陣」を連想させ、はなはだ「醜い」と(欧
米で自由を長らく謳歌してきた)私には思えてならない!
ノートとは「覚え書き」である。忘れないで覚えておきたいことをちょっと書き
残すメモ帳である。従って、その内容や書き方は人それぞれである。少なくとも
自分で読めれば十分で、「美しい」必要は全くない。東大生のノートが「美しい」
という(著者の)評価は、どんな基準に基づいているのか定かでないが、自分の
ノートをみて、美しいと思ったことは一度もない。だから、この本の表題は「根
本的に間違っている!」 もちろん、私は他人のノートなど覗いたことはない。
(自分に)役に立つはずがないからだ。
各論:
高校でも大学でもそうだが、教師は大部分、指定された教科書に基づいて、授業
をする。従って、教科書を予習しておけば、教師の喋っていることは大部分、教
科書に書いてあることがすぐ分かる。従って、授業中、特にメモすることはない
のだ。例外は英語とドイツ語(第2外国語)の授業にサイドリーダー(副読本)
を使って、邦訳をやらされる場合である。私は自分で単語帳を作って、自宅で予
習のときに、新しく出会った単語を辞書で調べて、その意味を書き留めておく。
この2冊の単語帳が私の唯一のノートだった。お世辞にも美しい筆跡ではないが、
自分で読める字だから、すこぶる重宝した。そのおかげで、欧米で30余年も生
活しているが、言葉にはほとんど不自由しない。
国際学会で、講演者のしゃべっている内容を一々克明にメモしている学者連中を
良く見かける。私は学会でメモをとることは非常に稀れだ。メモしたいことがあ
れば、講演要旨の余白にちょっと、2、3単語を書き残せば十分である。私の
「モットー」は、人間というものは、大事なことはメモしなくても覚えていると
いうことだ。例えば、3食をうっかり忘れることは、他によっぽど興奮すること
がない限り、一生に何度も起こるものではない。そして、もし仮に、忘れたとし
たら、多分そんなに大事なことではないのだ。だから、私はもはや、ノートなど
一冊も持っていない。
私見:
事実は恐らく「東大生のノートにはきちんと整理されたものが多い」。ノートと
はその持主の頭の状態を良く反映するからだ。それを「かならず美しい」と主張
するのは、非科学的であるばかりでなく、歪曲もはなはだしい。売らんがための
ガメツイ(ウソの)広告に過ぎない! もう1つ警告しておくが、頭の整理され
てない人間がノートの(美しい)書き方だけを真似しても、東大入試には合格で
きないだろう。 頭に益々混乱が生じて、どの大学入試にも失敗するかもしれない。。。
そんなに東大に合格したかったら、すばらしい解決法が1つある。日本全国にあ
る大学を全部「東大」と改名し、全国一律の入試をして(合格者の最低点の順番
に)東大1、 東大2、 東大3、。。。東大365などと番号をつける。
成績がトップの3500名(定員)をまず東大1に割り当て、次の成績の者は東
大2の定員(例えば、3000名)以内で入学を許可される。
そうすると、日本全国の大学生が全員、あこがれの「東大生」になれる。。。
どうだろうか? 美しい「コクヨ」のノートなど全く不要だ!
あるいは(理系の「ノーベル受賞者」が抜群に多い)京大にも敬意を表して、理
系(京大)と文系(東大)は別個の入試をし、京大1、2、3。。。
東大1、2、3。。。 というように全国の大学を2分するのもよいかもしれない。
多分、芸術家(音楽家、画家など)志望の学生には、芸大1、2、3 も必要だろう。。。
私の結論をまず言わせてもらえば、(目下、巷でバカみたいに売れている)この
本は「お金を払ってまで、読むほどの価値はない!」
総論:
私がここで、若い高校生たちに特にお勧めしたいことは、他人の真似をせず、自
分に最も適した記憶のしかた、メモの取りかたを含めた「頭の整理方法」を自ら
編み出す努力をしてもらいたい、ということである。東大に入学するだけが人生
ではない! 我々の人生はもっとずっと「多彩」であるべきだ。そういう多彩さ
に「美しさ」を見つけてほしい。
(「金儲け目当て」の本や業者の宣伝に盲従して)軍隊の兵士のように皆んな同
じ色の制服を着て、号令一下、同じ「コクヨ」のノートを使って、青春の貴重な
時間を過ごすのは、戦争中の「学徒出陣」を連想させ、はなはだ「醜い」と(欧
米で自由を長らく謳歌してきた)私には思えてならない!
ノートとは「覚え書き」である。忘れないで覚えておきたいことをちょっと書き
残すメモ帳である。従って、その内容や書き方は人それぞれである。少なくとも
自分で読めれば十分で、「美しい」必要は全くない。東大生のノートが「美しい」
という(著者の)評価は、どんな基準に基づいているのか定かでないが、自分の
ノートをみて、美しいと思ったことは一度もない。だから、この本の表題は「根
本的に間違っている!」 もちろん、私は他人のノートなど覗いたことはない。
(自分に)役に立つはずがないからだ。
各論:
高校でも大学でもそうだが、教師は大部分、指定された教科書に基づいて、授業
をする。従って、教科書を予習しておけば、教師の喋っていることは大部分、教
科書に書いてあることがすぐ分かる。従って、授業中、特にメモすることはない
のだ。例外は英語とドイツ語(第2外国語)の授業にサイドリーダー(副読本)
を使って、邦訳をやらされる場合である。私は自分で単語帳を作って、自宅で予
習のときに、新しく出会った単語を辞書で調べて、その意味を書き留めておく。
この2冊の単語帳が私の唯一のノートだった。お世辞にも美しい筆跡ではないが、
自分で読める字だから、すこぶる重宝した。そのおかげで、欧米で30余年も生
活しているが、言葉にはほとんど不自由しない。
国際学会で、講演者のしゃべっている内容を一々克明にメモしている学者連中を
良く見かける。私は学会でメモをとることは非常に稀れだ。メモしたいことがあ
れば、講演要旨の余白にちょっと、2、3単語を書き残せば十分である。私の
「モットー」は、人間というものは、大事なことはメモしなくても覚えていると
いうことだ。例えば、3食をうっかり忘れることは、他によっぽど興奮すること
がない限り、一生に何度も起こるものではない。そして、もし仮に、忘れたとし
たら、多分そんなに大事なことではないのだ。だから、私はもはや、ノートなど
一冊も持っていない。
私見:
事実は恐らく「東大生のノートにはきちんと整理されたものが多い」。ノートと
はその持主の頭の状態を良く反映するからだ。それを「かならず美しい」と主張
するのは、非科学的であるばかりでなく、歪曲もはなはだしい。売らんがための
ガメツイ(ウソの)広告に過ぎない! もう1つ警告しておくが、頭の整理され
てない人間がノートの(美しい)書き方だけを真似しても、東大入試には合格で
きないだろう。 頭に益々混乱が生じて、どの大学入試にも失敗するかもしれない。。。
そんなに東大に合格したかったら、すばらしい解決法が1つある。日本全国にあ
る大学を全部「東大」と改名し、全国一律の入試をして(合格者の最低点の順番
に)東大1、 東大2、 東大3、。。。東大365などと番号をつける。
成績がトップの3500名(定員)をまず東大1に割り当て、次の成績の者は東
大2の定員(例えば、3000名)以内で入学を許可される。
そうすると、日本全国の大学生が全員、あこがれの「東大生」になれる。。。
どうだろうか? 美しい「コクヨ」のノートなど全く不要だ!
あるいは(理系の「ノーベル受賞者」が抜群に多い)京大にも敬意を表して、理
系(京大)と文系(東大)は別個の入試をし、京大1、2、3。。。
東大1、2、3。。。 というように全国の大学を2分するのもよいかもしれない。
多分、芸術家(音楽家、画家など)志望の学生には、芸大1、2、3 も必要だろう。。。
2008年11月10日月曜日
『トゥレット症候群』との闘い
自分の意志とは関係なく, 突然繰り返して起こる運動チックと音声チックの
両方が多様に現れ、それが一年以上続くと『トゥレット症候群』(TS)と呼ば
れる。
発症頻度は少なくとも5千名に1名とされ、男女比は3対1と男性に多い。
脳内の神経伝達物質(ドーパミン、セレトニン等)の異常とみられるが、詳しい
原因はまだ不明。「TS」は遺伝的要因が強く、神経伝達物質阻害剤の投与で症
状がある程度抑えられる。
運動チックとは、まばたき、口を尖らす、顔しかめ、首振り、肩のぴくつき、
他人や物へのタッチ、匂い嗅ぎ、キック、ジャンプなどである。
音声チックとは、咳き払い、ノド鳴らし、鼻鳴らし、 甲高い声、
意味不明な言葉や自分または、他人の言葉尻りの繰り 返し、
時には卑猥な言葉や非常識な言葉を発してしまう場合もある。
平均6-8才に出現し,強くなったり, 弱くなったりして持続する。
「TS」は、母親の愛情不足とか、躾が悪いからだ、と従来言われてきたが、そ
れは間違いである。しかしながら、そういう周囲の誤解で、悩み傷ついている家
族が数多くいる。
この本 (Against Medical Advice) は、「TS」をわずらう息子コリー とその両
親の何十年にもわたる苦しい闘いと葛藤を綴った実話である。病気の原因がわか
らないので、医師からも適切な治療やアドバイスが得られない。周囲からは、誤
解によるいじめや非難を受ける。最後に両親の愛情に守られ、コリーはこの「T
S」から解放される。目下、NYタイムズ「ベストセラー」のトップに迫りつつ
ある感動の読み物。。。
両方が多様に現れ、それが一年以上続くと『トゥレット症候群』(TS)と呼ば
れる。
発症頻度は少なくとも5千名に1名とされ、男女比は3対1と男性に多い。
脳内の神経伝達物質(ドーパミン、セレトニン等)の異常とみられるが、詳しい
原因はまだ不明。「TS」は遺伝的要因が強く、神経伝達物質阻害剤の投与で症
状がある程度抑えられる。
運動チックとは、まばたき、口を尖らす、顔しかめ、首振り、肩のぴくつき、
他人や物へのタッチ、匂い嗅ぎ、キック、ジャンプなどである。
音声チックとは、咳き払い、ノド鳴らし、鼻鳴らし、 甲高い声、
意味不明な言葉や自分または、他人の言葉尻りの繰り 返し、
時には卑猥な言葉や非常識な言葉を発してしまう場合もある。
平均6-8才に出現し,強くなったり, 弱くなったりして持続する。
「TS」は、母親の愛情不足とか、躾が悪いからだ、と従来言われてきたが、そ
れは間違いである。しかしながら、そういう周囲の誤解で、悩み傷ついている家
族が数多くいる。
この本 (Against Medical Advice) は、「TS」をわずらう息子コリー とその両
親の何十年にもわたる苦しい闘いと葛藤を綴った実話である。病気の原因がわか
らないので、医師からも適切な治療やアドバイスが得られない。周囲からは、誤
解によるいじめや非難を受ける。最後に両親の愛情に守られ、コリーはこの「T
S」から解放される。目下、NYタイムズ「ベストセラー」のトップに迫りつつ
ある感動の読み物。。。
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