2008年4月22日火曜日

NF2患者の手記 「難病NFは私を強くした」 (Jane Wilson) 

2005年に、NFの重症患者ジェーンがパソコンを使って、英文手記(約100ページ)を自費出版した(原書のタイトルは、「Who Am I?」)。ジェーンは、米国アイオワ州に住む1952年11月生まれの中年の女性(詩人)で、17歳の誕生日を迎えてまもなく、最初の脳腫瘍手術を受ける。以後、この得体の知れぬ脳腫瘍のため、半世紀にわたり5回の脳手術をせざるをえなくなる。現在、両耳が全く聴こえず、片目だけが見え、チューブを通して、流動食を食べながら、車椅子の生活を続けている。両親、夫、弟は既に他界したが、まだジェーンには一人娘(ハイジ)と2人の孫がいる。ごく最近、やはり車椅子生活をする老人と再婚したという明るいニュースが私のもとに届いた。実はこの彼が、ジェーンの手記の製本を一手に引き受けてくれたそうだ。NFをめぐる世界には「鬼」もいれば「仏」もいるようだ。

さて、ジェーンの不可解な難病が、実はNF2であることが初めて判明したのは、1996年になってからで、NF1とNF2との区別がはっきりしてから、既に10年近い月日が経っていた。なお、ジェーンの脳腫瘍が初めて発見された1969年には、「NF2」という難病の概念は、医学の世界にまだなかった。以下は、今から12年前の脳手術(4回目)に関するストーリー(抜粋)である。

1995年2月、父さんが死んだのち、母さんは「独り暮らしはごめんだ」と言い始めた。そこで、私も母さんもそれぞれ、家や家具などを売り払い、その年の8月、アイオワ州の西バーリントンにある小さな家を買った(掃除が簡単になった!)。そして、私のために、通路にてすりを付けてもらった。私はまだ、杖なしに歩いていたが、それがだんだんきつくなり始めていたからだ。てすりのおかげで、歩行がずっと楽になった。

まもなく、10月になって、私がオルガン奏者として働いていた教会の牧師がとうとう亡くなった。私のよき親友だった。11月に私は、新しい車を買った。その一週間後に、我々3人(父さん、母さん、私)が売り払った要約会社の新しい経営者陣から、会社を売却したから、従業員を全員解雇したと言われた。彼らは、母さんと私に、最後の給料を払ったのち、首にした。たった2週間前の通告しかくれなかった。我々は皆、とても裏切られた気持になった。不幸中の幸いは、要約業者で競争相手だった会社に、私が顔を出したら、その場で、私を雇ってくれたことだった。この会社はその昔、父さんや母さんが働いていたところだった。その後、1963年に両親がそこから独立して、自分たちの会社を始めたという面白いいきさつがあった。ある意味で、一周回って、元の古巣に戻ってきたという感じだ。新しい職場では、給料も増えたし、色々な恩恵があった。その1つは、グループ健康保険で、次の私の手術代をカバーしてくれた。私は新しい上司に、聴覚と平均感覚を失いつつあり、いつかはつんぼになり、杖をついて歩かねばならなくなる日が来ることを、予め話した。それでも、彼は私を採用してくれた。彼はとても善良な人間だった! だから、彼と仕事をするのが好きになった。

1996年の夏、補聴器を交換するために、何度もUIHC(アイオワ大学ヘルスセンター)に通院し始めた。晩夏に、とうとう私の聴覚が消えかかってきたので、眼科、OTO科、脳外科など色々な分野の医者たちから精密検査を受けた。そして結局、長らく患っていた私の病気が、なんと稀少難病「NF2」 (神経線維腫症2型)であると宣告された。私はショックを受けたいうよりは、むしろホッとした。というのは、なぜ私に脳腫瘍があり、平均感覚や聴覚が失われたのかが、はっきりし始めたからだ。ショックはあとでやってきた。ジワジワと身体を衰弱させる「不治」の (いまだに根治の方法が見つかっていない) 病であることが、わかったからだ。

母さんが私の4度目の脳手術についてきてくれた。それはその年の11月、私の孫ジェーソン2世が生まれてから8日後のことだった。 私はABI(聴覚脳幹インプラント、俗称「電子耳」)の挿入に同意した。ABIは当時まだ試験的なもので、UIHCでは私が3人目のモルモットだった。聴神経上の腫瘍が脳外科医のアーノルド・メネゼス博士によって除去されたのち、OTO医師ブルース・ガンツ博士によって、ABIが移植されることになった。

15時間半の手術後、ICU (集中治療室) にいる間、私は両足に感覚が全くなかった。一時的に腰から下が麻痺していた。もちろん、私は吐き気をもよおした。この吐き気は、今や脳手術後の自然現象になってしまった! 「 脳の中に挿入されたABIの位置が変わらぬように、できるだけ直立したまま吐くように」と医者から忠告された。足に感覚がないのは、麻酔のせいであることもわかった。 麻酔が切れるまで、かなり時間がかかった。あとで知ったことだが、摘出した腫瘍は1つのみではなく、3つもだった。それで、あんなに手術が長びいたのだ。また左の顔面が部分的に麻痺していた。しばらくして、一部の動きは回復してきたが、他の機能は不可逆的に失われた。

私が歩行不能になっていたので、両脚の血液循環を促進するための足ポンプを、医師が注文してくれた。明らかに、私はどこへも行けなくなった! 普通の食事もまた食べられなくなった。流動食からベビーフード、そして「ピューレ」へという食生活を、再び繰り返すことになった。看護婦たちが初めて私を散歩に連れ出してくれたとき、私の膝は両方とも、あたかも天に昇っていくかのように感じた。両側から支える看護婦たちに向かって、私は冗談を吐いたものだ。
「私は宇宙飛行士としては失格ね。無重力の世界では歩けないから」
私がまだ入院中に、母さんもぐあいが悪くなり、すぐ下の階に入院することになった。そこで、私は車椅子で、母さんの病室を訪ねた。私の脳手術から2週間半後に、2人ともそろって退院になった。私はまだ独りでは、歩けなかった。24時間ケアが必要だった。それに、2、3週間、物療(フィジオ)が必要だと、医師たちに忠告された。

2週間以内に、手術のために母さんがまた病院に戻らざるをえなくなった。そこで、母さんが数人の友達に頼んで、私のケア(看護)をアレンジしてくれた。私は、まだ歩行が不自由だったので、独りぼっちにはしておけなかったからだ。母さんの手術はうまくいった。そして、私も松葉杖をつけば、トイレまで独りで行けるようになった。しかしながら、前かがみがまだできなかったので、用を済ませた後、自分の始末ができず、友人の手をわずらわせざるを得なかった。

やがて、杖を頼りに独りで歩けるようになったので、毎日2時間の散歩を始めた。
これが我々多くのNF2患者の健康回復への道筋だった。とても時間がかかる。その間 (半年ほど)、我々は給料なしになり、最小限の生活を余儀なくされる。その後、フルタイムで働き始め、また車を運転し始める。しかし、7年後に訪れた(最後の)手術は、私の人生を「永遠」(不可逆的)に変えることになる。。。

解説: 「NF」(多発性神経線維腫)の発見から、治療薬の開発まで

通称「レック」(正式には、「レックリングハウゼン氏病」あるいは「NF1」) の最初の発見者は、ドイツの病理学者、フリードリッヒ・フォン・レックリングハウゼン(1833ー1910)である。彼は有名な病理/生理学者ルドルフ・ヴィルショウ(1821ー1902)の弟子の一人であるが、ストラスブルグ大学の学長をやっていた1882年に、この難病を初めて発見し、「皮膚の多発性線維腫と多発性神経腫との関係について」 という題名の歴史的な論文を発表した。

従って、2007年は、この難病の発見から125年目を迎えることになる。そろそろ、この難病の治療(特効)薬が開発され、市販されても、不思議ではない、と素人、特にこの難病に始終悩まされている患者たちやその家族が期待するのは無理からぬことである。しかしながら、その現実はかなり厳しい。

まずその病因が判明するまで、遅々として1世紀以上かかったからである。まず類似したように見える2種類のNF、つまりNF1とNF2との遺伝学的な区別がはっきり確立したのが1987年だった。当時、ボストンのハーバード大学付属病院、マサチューセッツ総合病院(MGH)勤務のバーント・サイジンガーらが、NF1病因遺伝子は、17番目の染色体にあり、NF2病因遺伝子は、22番目の染色体にあることを、初めてつきとめた。

NF2(神経線維腫症 2型)とは何か?

NF2は、シュワノーマ (神経鞘腫) とメニンジオーマ(髄膜腫)に代表される神経あるいは脳腫瘍を伴う難病で、その病因は、NF2と呼ばれる一対の遺伝子の両方が不活性化され、その遺伝子産物である「メルリン」と呼ばれる抗癌蛋白が正常な機能を発揮できなくなることによる。NF2患者の約半数は、親からの遺伝(つまり、片方の親のNF2遺伝子に変異があると、50%の確率で、その変異が子にも遺伝する)。他の半数は「孤発」といって、親の遺伝子状態とは無関係に、受精の初期に起こったNF2遺伝子上の変異によって発症する。NF2の発症頻度は、人口約3万人に1人といわれている。だから、稀少難病の1つと数えられている。

NF2の診断に今日最もよく使われている標準的な症状は、両側性前庭神経鞘腫 (シュワノーマ) である。最初の典型的な前駆症状は、耳鳴り、難聴、平均感覚の消失、視力の低下あるいは2重映像などである。最終的な判断には、NF2遺伝子診断や脳あるいは背骨のMRI診断などの精密検査が必要になる場合がある。

例えば、頻繁に視神経に障害をもたらす脳腫瘍「メニンジオーマ」の場合、半数以上はNF2であるが、残りの半数近くは、全く別の病因であることがわかっている。また、NF2患者の場合、健康人に比べて、アスベストによる悪性中皮腫(肺癌)の発生率が2倍以上になることが、最近報告されている。

NF2は、類似の稀少難病であるNF1(神経線維腫症 1型)とどう違うのだろうか? まずNF1は、カフェオレ班 (コーヒー色の斑点で腫瘍ではない!)、あるいはニューロフィブローマ(神経線維腫)やMPNST(悪性末梢神経鞘腫) に代表される表皮、内皮あるいは神経に発症する腫瘍を伴う難病である。さらに、NF1の病因は、NF1と呼ばれる一対の遺伝子の両方が不活性化され、その遺伝子産物(「RAS GAP」の一種で、抗癌蛋白)が、正常な機能を発揮できなくなることによる。NF1の発症頻度は、人口約3千人に1人といわれている。だから、NF2の発症頻度の10倍ほど高い。NF1の大半(9割)は、良性腫瘍で命に別状はないが、MPNSTを含む残りの1割は、死に至る悪性腫瘍(癌)である。MPNSTの5年生存率は、20%前後といわれている。

1990年になって、そのNF1「病因遺伝子」が単離された。つまり、NF1という抗癌遺伝子が変異によって、その機能を失うと、この難病に伴う種々の神経線維腫(NF)が発症しやすくなるということが判明した。更に、NF2の病因遺伝子である別の抗癌遺伝子(NF2)が、1993年になって単離された。従って、この難病「NF」の分子レベルの研究は、癌の研究に比べて、ずっと日が浅い。その上、NF患者の総数が、癌患者全体の数に比べて、極めて少数(1%以下)であることから、NFを研究しようという学者の数が極端に少ないばかりか、その研究を支援しようとする政府や民間の資金源が極めて乏しい。

だから、1998年になって、NF1腫瘍の増殖には、PAKという酵素(キナーゼ)が必須であると分かっても、誰もPAK遮断剤をすぐ開発しようとは、しなかった。メルボルンにある我々の研究グループが「PAK遮断剤」を本格的に開発し始めたのは、数年前(今世紀に入って)、過半数の癌の増殖にも、同じキナーゼが必須であることを突き止めてからのことである。そして、ごく最近になって、我々の手で、NF2腫瘍の増殖にも、PAKが必須であることが証明された。しかしながら、開発中の合成「PAK遮断剤」が市販されるまでには、延々10年近くかかる「治験」を経る必要がある。

従って、現在NFに苦しんでいる大多数の患者をできるだけ早く救うためには、市販されている (安全が保証されている)「健康食品サプルメント」製品の中から、有効な「PAK遮断剤」(食材)を緊急に開発することが、自ずから切望されている。そこで我々は、2006年の春以来、かような研究を欧州の「NF研究のメッカ」であるUKE(ハンブルグ大学病院)で開始したわけである。幸い、2007年の初夏に、ニュージーランド産の水溶性プロポリス・エキス、「Bio 30」がNFに有効であることが動物実験で証明され、NF患者を対象とする治験が、欧米や日本を中心に、我々の手で始められるようになった。

日本を含めてアジア諸国では、欧米と違って、NF患者たちは病気そのもの以外にもう1つの苦しみを今なお味わされている。それはNF患者やその家族に対する(社会にはびこる)陰湿な偏見や差別待遇である。その昔、(感染症である)結核、梅毒、ハンセン氏病などに苦しむ患者たちが社会から差別待遇を長らく受けていた。現在は医学の進歩のおかげで、これらの感染症は根治が可能になり、差別も影を潜めた。しかしながら、NF特効薬はまだ市販されておらず、さらにNF腫瘍の一種である皮膚にできる多発性腫瘍を「感染性」のおデキなどと勘違いしている無知な人々がインテリの中にも多く、NF患者あるいはその家族が就職や結婚の際、NFを理由にしばしば不正に、職場から追い出されたり、婚約が破棄されるケースが多い。

かような「無知と偏見からくる差別」を、日本の社会からできるだけ早く一掃するための運動の一環として、2005年の秋、我々有志がNPO「NF CURE Japan」をスタートさせた。NF腫瘍は癌と同様、単に遺伝子の変異によって起こる病気である。もし仮に、家族に癌患者がいるからという理由で、就職や結婚を制限したら、日本社会で職や伴侶を得られる者は、ほとんどいなくなるだろう (平均3、4人に一人は、一生に一度は癌にかかるからだ)。一億失職、一億独身で、日本民族はたちまち亡びるだろう。全く同じ理由で、NF患者やその家族から、職場や結婚のチャンスを取り上げる権利は、誰にもないのである。むしろ、我々健康人に代わって (3千人に一人の割合で)、「貧乏クジ」を引いてくれたNF患者たちに、感謝と労りの気持を抱いて接すべきだろう。それができない連中は (日本を滅亡させる)「人間のクズ」に等しいと、私は思っている。

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