2008年4月28日月曜日

型破りの女 (Jean Tahija)

ジーン・タヒヤ (1916ー2001)が自伝を出版してから、もう10年ほどの月日が経つ。彼女は豪州メルボルン生まれの白人女性で、歯科医だったが、太平洋戦争中にインドネシア (オランダ領東インディー ) から軍事訓練のため、メルボルンに派遺され、ジーンのウオルター家に食事に招かれたある若いハンサムな将校に初対面して以来、熱烈なロマンスが芽生え、戦後まもなく、そのインドネシア将校(ジュリウス・タヒヤ)と結婚して、親元を離れ、はるばる異国の首都ジャカルタに移民する。白豪主義がまだ強かった当時としては、型破りのロマンスだった。1946年にメルボルンの地方紙に「褐色のヒーローが白人の妻と結ばれる」という記事が掲載された。ジーンが新聞社に強く抗議して、(皮膚の色を表わす)形容詞を記事から削除するよう要求したので、新聞社は渋々、見出しを書き換えざるをえなかった。

ジーンの父親は警察官だったが、進歩的な物の考え方の持ち主だった。娘に口癖のようにこう言っていた。「女性も男性同様、キャリアを持つ権利がある。医師か歯科医になるよう頑張りなさい!」。ジーンは1941年に、メルボルン大学卒業生の中で、史上初めての女性歯科医になるという、歴史的な快挙を成し遂げた。さて、将来の夫ジュリウスに会ったのは、その翌年だった。彼は戦争中、祖国インドネシアの独立をめざして、スカルノ(独立後の初代大統領)の指揮下、日本軍やオランダ軍と勇敢に戦っていた。「ヒーロー」の由縁はそこにあった。

1945年の日本敗戦後も、スカルノのインドネシア軍は、オランダ軍に対して血みどろのゲリラ戦を展開した。ジーンは豪州人ながら、夫の独立戦争を助けて、1949年に独立が正式に承認されるまで、共に戦い抜いた。さて独立当時、(イスラム教の影響が強い)インドネシアには女性の歯科医は皆無だった。しかしながら、夫ジュリウスも進歩的な考えの持ち主で、ジャカルタの病院で、ジーンが歯科医を続けることを激励した。ジュリウスは祖国独立後、スカルノ政権の高官を務めるばかりではなく、石油会社「カルテックス」の重役として活躍した。夫婦の間に聡明な息子が2人生まれた。

私がこの型破りな女性ジーンに初めて会ったのは、彼女の自伝が出版されて間もなく、私の自宅から歩いて2、3分の所にある夫婦の別荘に、彼女がしばらく振りに訪れた折だった。それから、2、3年後、ジュリウスから、ジーンがとうとう病死したという悲報を受け取った。夫であるインドネシア人と共に、独立運動のために体を張った、稀れにみる勇気のある豪州女性だった。

蛇足だが、定時制高校を中退して、赤坂界隈の美人ホステスになり、日本の石油貿易商社からの賄賂(「夜のプレゼント」)として1960年頃、ジャカルタへ派遺され、スカルノ大統領の第3夫人になったデヴィ夫人(旧姓、根本 七保子)は、背後の事情を薄々知っていたジーン(タヒヤ夫人)自身を含めてインドネシア大衆の間には余り馴染みがなかったようである。

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