来たる8月の原爆記念日に向けて、4日から11日にかけて、大変珍しい方が北京から日本を初めて訪問してくる予定です。
ジョアン・ヒントンという86歳のアメリカ人女性です。息子さんのビルと同伴で来日すると聞いています。彼女は、戦争中、ロスアラモスの砂漠で、史上初の原爆を製造した「マンハッタン計画」チームの一員で、恐らく最後の生存者の一人です。広島および長崎への原爆投下の報を聞いて、(人類の大量破壊をもたらした)原子物理学の研究を辞め、中国大陸に渡り、酪農業を始めながら、毛沢東の中国人民解放運動に参加し、49年の革命後は、反核運動を進めながら、中国農民の生活水準の向上のために、専念していてきたそうです。
さて去年の夏、我々は「神の火を制御せよ 原爆をつくった人びと」という訳本を出版しましたが、それはパール・バック女史が1959年に出版した英文小説「Command the Morning」の邦訳です。この小説は「マンハッタン計画」をドラマ化した「反核」小説ですが、その中に登場する架空の女性、ジェーン・アールのモデルの一人になった人物が、実は、ジョアン・ヒントンだったのです。彼女は、シカゴ大学の(アメ・フット)球場の地下で、42年末に(真珠湾奇襲から丸一年後)、史上初の原子炉を開発した(ノーベル賞受賞者)エンリコ・フェルミの弟子(院生)の一人でした。小説では、ジェーンは原爆投下直前の45年7月下旬に、トルーマン大統領宛ての70名の科学者による請願書(降服寸前の日本に原爆を使わぬよう訴えた署名)にサインします。
しかしながら、実際には、この請願書はシカゴ大学の核物理研究者仲間だけに回覧され、原爆の開発に直接従事していたロスアラモス研究所の(ジョアンを含めた)科学者の間には、所長のロバート・オッペンハイマーによって回覧がブロックされたため、現場の連中は誰も署名ができなかったのです。実際に署名した良心的な70名の中には、少なくとも7名の女性研究員(七人の侍)がいました。従って、彼らも(小説中の)ジェーンの精神的シンボルに当然なっているでしょう。
母ジョアンは老弱なので、恐らく今年が広島や長崎の爆心地を訪れ、被爆者たちの霊を弔い、現地の人々と和解をする最後のチャンスになるだろう、と息子のビルは言っています。
果たせるかな、2年後に北京の自宅で彼女は心安らかに永眠の途についた。「マン
ハッタン(原爆開発)計画」に従事した研究者やエンジニアの大部分は、被曝のた
め白血病などの癌で若死にしたが、彼女は例外的に癌にもかからず、米寿(88才)
を全うした。彼女の言によれば、原爆開発中に少なくとも2名の研究者/技師が
大量被曝のため、即死あるいは病死したそうである。もっとも、その事実は今で
も、米国政府の機密情報として公開されていないが、パール・バックの歴史小説
「神の火を制御せよ:原爆を作った人々」には、その被爆死の様子が克明に描かれて
いる。 恐らく、その情報源はジョアン自身ではなかろうか。。。
実は、1940年に冬季オリンピックが「札幌」で開催される予定だったが、戦争
のため中止になった。このオリンピックに、何とジョアンが米国を代表するスキー
選手の一人に選ばれていたのだが、突如中止になり、彼女は戦時中、原子物理学に
専心することになった!
ジョアンは若かりし頃、小説の主人公ジェーンのように乗馬が得意だったそうです。乗馬好きの所長ロバート・オッペンハイマー (小説中のバートのモデル) と時々、ニューメキシコの砂漠を馬で駆け巡ったのではないかと、私は想像したくなります。
1 件のコメント:
Dear Heidi,
I discovered your blog today and find your observations deeply interesting. I am a lecturer in Japanese history at the University of Sydney and look forward to reading your blog in the future. よろしくお願いします。
マシュー・スタブロス
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