ハンガリー生まれの科学者レオ・シラード(1898ー1964)は、米国ニューヨーク州生まれのイン テリ政治家フランクリン・ルーズベルト(名大統領)とは、意気投合したが、カン サス州生まれの田舎政治家ハリー・トルーマン(棚ぼた大統領)とは、一線を画した(というか、トルーマンにはシラードの「先見の明」が全く理解できず、彼の忠告を無視し続けた)。
天才的発想の持ち主シラードは、イタリア出身のエンリコ・フェルミ(1938年のノーベル賞受賞者)と、史上初の原子炉をデザイ ンし特許を取るが、ナチスがそれを利用して原爆を製造し、実戦に使用する計画 があることを探知するや、アインシュタインと共に、ルーズベルト宛てに手紙を 書き、米国がナチスよりも先に原爆を開発するよう嘆願した。こうして、「マン ハッタン計画」が開始した。
しかしながら、ナチスは原爆製造計画に失敗したばかりではなく、1945年5 月に降伏してしまう。そこで、シラードは米国の原爆製造計画の中止を提案し始 めた。折悪しく、ドイツの降伏直前に聡明なルーズベルトが急死し、副大統領であったトルー マンが棚ぼた的に大統領に就任した。これが史上最大の悲劇を呼ぶことになった。
ソ連のスターリンに軽く新参者扱いされたトルーマンは、男を上げるために、原 爆を瀕死の日本に落として、スターリンの東欧への進出を牽制しようと図った。 そこで、トルーマン宛ての(降服寸前の日本への原爆投下をせぬよう訴えた)シラードが草稿した 嘆願書は、彼の地元シカゴ大学で研究中の良心的な70名の科学者仲間から署名を得たが、トルーマンや軍部に無視され た。こうして、ヒロシマ・ナガサキに「生き地獄」が発生した。
(良心の呵責を強く感じた)シラードは戦後、反核運動を積極的にリードすると共 に、原子物理学を捨てて、(平和的な)分子生物学研究に専念する。彼はその天才、 情熱、良心のゆえに、ノーベル賞に価する研究をしたにも拘らず、受賞のチャンス を逃し、いわゆる「陰の天才」(1992年出版の評伝のタイトル「Genius in the Shadows」)に甘んじることになる。しかし ながら、我々日本人一人一人が原爆について深く思いをめぐらすとき、シラードの 果した(不本意な)役割がいかに大きかったかを痛感せざるをえないだろう。
ユダヤ人迫害が激しくなる以前(1920年代初頭)、若いシラードは有名なアインシュタインと共に、(当時)科学的研究のメッカであったドイツで、理論物理学の研究を楽しみ、合間には「電磁気ポンプ」を利用した史上初の冷蔵庫などを一緒に考案して特許をとっている。しかしながら、両人共「ユダヤ人」であったので、ヒットラーの台頭と共に、米国に結局亡命せざるをえなくなった。もし仮に、欧州でこの忌まわしいヒットラー戦争が起こらなかったら、彼らの才能はもっと有益な発明発見のために注がれ、恐ろしい「原爆開発」のごとき「天才の浪費」は決して発生しなかったことだろう。「戦争」(集団同士の殺し合い)はどんな理由であれ、もうまっぴら御免だ!
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