豪州メルボルンの我々の自宅から数軒先に住む元ABCテレビ局の海外(北京)特派員ヘレン・チュングが綴った赤裸々な自伝が最近出版された (なんと「キャッチフレーズ」には、修道院の尼さんには決して読ませられない内容がある、という注釈つきの問題作だ)。十数年前に、夫のジョン・マーチンが癌の転移で亡くなって以来、母親と一緒にひっそりと暮らしていたが、実は回想録を書いていたことを、我々は知らなかった。
ヘレンは戦後まもなく、豪州タスマニア島の首都ホーバートで中国系の両親の間に生まれた。カトリック系の女学校に通っていた当時 (1950年代) の豪州では、いわゆる「白豪主義」がまだ根強く、クラスの大部分を占める(金髪で青い目の)白人同級生から、「Ching Chong チャイナ・ガール!」とはやし立てられたことから、この回想録のタイトルが生まれた。彼女には、他人には打ち明け難い悩みがもう1つあった。自分の母親が、夫と離婚後、生計のために、ヌード・モデルをしているというショッキングな事実を知っていたからだ。
そんな「イジメ」や心の悩みにも敗けず、聡明なヘレンは、大学時代で頭角を現わし、ジャーナリズムに興味をもち始め、海外をかけ巡っている内に、豪州のテレビ局「ABC」(日本のNHKに相当する)で、有色人種で初めてテレビ・キャスターに採用され、間もなく女性として初の海外特派員として、北京に駐在するようになった。
さて、1963年に彼女がタスマニア大学の学生時代、同期生のジョン・マーチンに初めて出会った。それから13年後の1976年に、彼がメルボルンの郊外にあるゴードン工科大学(歴史学)の講師をしていたころ、ABCのホーバート支局でレポーターをしていたヘレンに、仕事で偶々、ジョンとインタービューをするチャンスが訪れる。それがきっかけで、以来ロマンスの花が咲き、2人は結婚へゴールインする。1991年にジョンが大腸癌にかかっていることが判明し、手術で癌は一旦取り除かれたが、2年後にそれが骨盤に転移していることが発見され、治療のかいもなく、とうとう他界した。1995年に、彼の死を悼む「我が優しのジョン」を、ヘレンが出版している。
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